ひとでなし

山本周五郎





 本所石原町の大川端で、二人の男が話しこんでいた。すぐ向うに渡し場があり、対岸の浅草みよし町とのあいだを、二はいの渡し舟が往き来しており、乗る客やおりる客の絶えまがないため、河岸かしに二人の男がしゃがんだまま話していても、かくべつ人の注意をひくようすはなかった。――十一月の下旬、暖たかかった一日のれがたで、大川の水面みのもはまだ明るく、刃物のような冷たい色に波立っているが、みよし町の河岸に並んだ家並は暗く、ぽつぽつとあかりのつき始めるのが見えた。
 男の一人は小柄でせていた。女に好かれそうな、ほっそりした柔和な顔だちで、なめらかな頬と、赤くて小さな唇が眼立ってみえた。他の一人は背丈が高く、骨太で肉の厚いからだつきや、よく動くするどい眼や、ときどき唇をぐいと一方へゆがめる癖などに、ありきたりではあるが陰気で残忍そうな感じがあらわれていた。年はどちらも三十四五であろう、二人とも黒っぽい紬縞つむぎじま素袷すあわせを着、痩せた男のほうは唐桟縞とうざんじま半纒はんてんをはおっていた。
すみのやつは手が早えからな」と痩せた男が云った、「あいつの手の早いのにかなう者あねえだろうな」
すみは手も早えが端唄はうたもうめえ」と大きいほうの男が云った。ぶっきらぼうな、いらいらしたような口ぶりだった、「まるっきりでもねえが、端唄をうたってるときのすみのやつは人間が変ったようになる、おらあすみのうたうのを聞くのが好きだ」
 痩せた男がのどで笑った。人をこばかにするというよりも、可笑おかしくてたまらないといったふうな笑いかたであった。
「あいつの端唄には泣かされるぜ」
「どうして笑うんだ」と大きいほうの男が云った。唇が片方へ曲り、眼の奥で火がちかちかするようにみえた、「すみの端唄のどこが可笑しいんだ」
「おちつけよ、人が立つぜ」と痩せた男が云った。彼はそのれのほうへは眼も向けず、しゃがんだまま、地面から小石を五つ拾い、それを片手で握って振っては、ぱらっと地面に投げ、また拾い集めて、握って振っては投げる、という動作をくり返していた。
 大きいほうの男はそれを横眼ににらんでいて、それから立ちあがり、着物の裾を手ではたいた。痩せた男はぐいと顔をそむけた。砂埃すなぼこりでもよけるような、神経質な身ぶりであった。
「おい」と痩せた男が云った、「もういいじぶんだぜ、なにを待ってるんだ」
すみに云っておきたいことがあるんだ」
 痩せた男はしゃがんだまま、首だけねじ向けて伴れを見あげた、「どうせいっしょに旅へ出るんだ、云いたいことを云う暇はたっぷりあるぜ」
「いっしょに旅ができればな」
「おちつけよ」と痩せた男が云った、「なにをそう気に病むんだ、手順はちゃんとできてる、万事うまくはこんでるんだぜ」
「木はってみなくちゃあわからねえさ」
「なにがわからねえんだ」
 大きいほうの男はちょっと黙って、それから不安そうに云った、「見つきは大黒柱になりそうな木でも、伐ってみるとしんはがらん洞になっている、そんなことがよくあるんだ」
 痩せた男はまた喉で笑った。彼のほっそりした顔はやさしくなり、小さな、赤い唇のあいだから、きれいな歯が見えた。
「おい、よせ」と大きいほうの男が唇を動かさずに云った、「おめえのその笑いかたにはがまんができねえ、その笑いかただけはよせ」
 痩せた男は黙った。彼の顔は無表情になって、急に疲れたような色を帯びた。そうして、握っていた小石を川のほうへ投げ、ゆっくりと立ちあがった。
「もういちど云うが」と彼はやわらかい、ふくらみのある声で云った、「もう店はあいているじぶんだぜ、いくのかいかねえのか」
 大きいほうの男は眼をそむけ、困ったように、片手を意味もなく振った、「女なしでやりてえんだ、女なしでやれると思うんだ、女がはいって事がうまくいったためしはねえんだから」
 痩せた男は面白そうに、やさしい眼つきで伴れを眺めていた。相手がうまい洒落しゃれでも云うのを待っている、といったような、さも興ありげな眼つきだった。
「わかったよ」と大きいほうの男は顔をそむけながら云った、「じゃあ、おれはいくが、すみのほうは大丈夫だろうな」
「あとで会おう」と痩せた男が云った。
 大きいほうの男は伴れの顔をちょっと見て、そしてふところ手をしながら歩きだした。大川につながる、堀に沿った道をはいると、片側町で横町が三筋ある。どの横町もゆき止りになっているが、それぞれに飯屋や居酒店が幾軒か並んでいた。この付近は大名の下屋敷や、小旗本の家が多く、そこに勤めている仲間とか小者などが、そういう店のおもな客のようであった。――男は二つめの横町へ曲り、こちらから家数をかぞえていったが、五軒めの家の前で立停り、いぶかしそうに首をかしげた。それは九尺間口の、小料理屋ふうの家であったが、まだ軒行燈も出ていないし、のれんも掛っていず、格子も閉ったままであった。
「おかしいな」
 男はそうつぶやいた。そして、その閉っている店の向うに、源平と大きく書いた提灯ちょうちんの出ている居酒店があり、客が出入りしているのを見ると、なにか口の中で独り言を云いながら、その店へとはいっていった。


 おつねは長火鉢にかけてある真鍮しんちゅう鬢盥びんだらいの中から、湯気の立つ布切をつまみあげ、ふうふう吹きながらざっと絞ると、おようの解いた髪毛へ当てては、結い癖を直した。それをくり返しながら、おつねは休みなしに話していた。
 長火鉢にはよく磨いたあか銅壺どうこがあり、かん徳利が二本はいっている。その部屋は帳場を兼ねた六帖の茶の間で、徳利や皿小鉢やさかずきなどを容れる大きな鼠不入ねずみいらずと、茶箪笥ちゃだんす、鏡台などが並んでいる。長火鉢の脇に、白い布巾を掛けた蝶足ちょうあしぜんが二つあり、また、酒の一升徳利が七本と、燗徳利や片口などが置いてあった。――おようは手を伸ばして、銅壺の中の燗徳利に触ってみ、それから障子の向うへ呼びかけた。
「おみっちゃん、お燗がいいようよ」
 障子の向うは店で、はあいと高い返辞が聞え、すぐにおみつがはいって来た。
「まだお二人」とおよういた。
「いいえ、いまなべさんがいらっしゃいました」とおみつが答えた。
みっちゃん」とおつね梳櫛すきぐしを使いながら云った、「失礼よ、なべさんだなんて」
「失礼なもんですか」おみつは云い返した、「そばをとおるたんびにひとのお尻へ触るんですもの、いまだってゆだんをみすましてこうよ」とおみつは手まねをし、客の口ぶりを巧みにまねて云った、「そして、どっちりしてるなあ、だって、いけ好かない」
「あんまり気取らないの」とおつねが云った、「忠さんか伝さんならこっちから押しつけるくせに」
「あらいやだ」おみつはつんとした、「あたし誰にだってお尻なんか触られるの嫌いよ」
 おみつは銅壺から燗徳利を出し、布巾の掛けてある膳から摘み物の小皿を二つ取り、それを盆にのせて店のほうへ出ていった。おようはまた燗徳利を二本、銅壺の中へ入れ、おつねは話を続けた。
「そう、あんた水戸だったの」とおようが云った、「それにしてはなまりがないわね」
「十のときから江戸へ奉公に来てましたからね、十八の年に嫁にゆくんで水戸へ帰ったんですけれど、そんなわけで世帯を持ったのは五年そこそこ、子供が一人っきりだからまだ助かったほうでしょうが、やくざな亭主を持つとほんとに女は苦労しますわ」
「そうすると、子供さんはもう十くらいになるのね」
「いいえ、二十一の年の子ですからまだ七つですわ」
「あたしも亭主では苦労したわ」とおようが云った、「ほんとに、女の一生は伴れ添う者のしできまるのね」
「おかみさんはこれからじゃありませんか、三代も続いたまさという、立派な老舗しにせのごしんぞさんになるんですもの、これまでどんな苦労をなすったにしろ、苦労のしがいがあったというもんですわ」おつねは髪毛に水油を付け、櫛を変えてきながら云った、「あたしこちらへ置いてもらった初めから、津ノ正の旦那がおかみさんを好きだってこと、ちゃんとわかっていましたわ」
「それはあんたの勘ちがいよ」
「勘ちがいなもんですか、旦那の眼顔にちゃんと出ていたんですもの」
「それは勘ちがいよ、もしあの人にそんな気持があったんなら、あたしにだってわからない筈はないし、そうとしたらあの人のお世話にはなりゃあしなかったわ」
「あらどうしてですか」
「だってあの人にはちゃんとおかみさんがいたんだもの、御夫婦になって半年ばかりすると寝ついたまま、今年の二月に亡くなるまで七年も寝たきりだったのよ、そういう人がいるのに、そんな気持でお世話になれる道理がないじゃないの、あの人にだってそんな薄情な気持はなかったし、あたしにはどうしたってそんな罪なことはできやしないわ」
 おつねは首を振って、さも驚いたように云った、「七年も寝たっきりですか、へえ、そのあいだ旦那はどうしてらっしたんでしょう、七年もおかみさんに寝ていられたら、男はとても辛抱ができないんじゃありませんか」
「人にもよるんでしょ、あの人だってつきあいで遊ぶくらいのことはあったろうけれど、どこに馴染がいるなんていう話はいちども聞いたことがなかったわ」
「とても本当とは思えませんわ」とおつね元結もとゆいを取りながら、また首を振った、「もしそれが本当だとすれば、ここにおかみさんという人がいたからじゃないでしょうか、たとえそんないやらしい気持はなかったとしても、ここへ来て、おかみさんのお酌で飲んだり、話したりすることが、楽しみでもあり気が紛れたんですわ、きっと」
「そうね、そのくらいのことはあったかもしれないわね」おようはどこを見るともない眼つきで、壁の一点を見まもりながら、ふと溜息ためいきをつき、「人間の気持っておかしなものね」と云った、「あの人とは古い知合なのよ、幼な馴染といってもいいくらいよ、それでも、もしあの人に浮気めいた気持があったとしたら、あたしお世話にはならなかったわ、そう、五年まえの夏だったわね、あたしはまえの人のことでにっちもさっちもいかなくなり、いっそ死んでしまおうかと思っていた、もっとも死のうかと思ったことは二度や三度じゃなかったけれど、そのときはもう生きているのがいやになってしまったのよ」
「そこへ津ノ正の旦那が」
「いいえ、あたしのほうからよ」おようは自分の傷を見せるような口ぶりで、「あたしのほうからいったの」と云った、「やましい気持がちょっとでもあったらいけやしない、そんな気持は少しもなかったの、それまでにもたびたびお世話になったことがあるから、死ぬまえにひと眼会いたいと思っただけなのよ」
 おつねは髪毛の根をたばね、元結でしめながら、このくらいでどうかと訊いた。もっときつくして、とおようが云った。
「こんどあの人から話があったときは、あたしちっとも迷わなかった、いちにち考えただけで承知したわ」
「いやとおっしゃったって、旦那のほうであとへはひかなかったでしょうよ」
「それはわからないわ」
「あたしにはわかってました、旦那のそぶりでちゃんとわかってました」とおつねは元結をしめながら云った、「初めっからですよ、旦那はしんそこおかみさんが好きだったし、口にこそ出さないけれど、好きだということを隠そうともなさいませんでしたわ、それでいてちっともいやみなところはないし、おれがという顔もなさらない、だから、そうらしいなと勘づいたお客もいたけれど、一人だって悪く云ったためしはありませんでしたわ」
 障子をあけて、おみつがはいって来た。
「与兵衛さんがいらっしゃいました」とおみつは長火鉢のそばへ寄りながら云った、「それから太田さんやなべさんが、おかみさんはまだかってせっついていますわ」
「みんながそろってからよ」とおつねが云った、「今夜はお祝いなんだから、みなさんの顔が揃ったらおかみさんも出ますって」
「いいのいいの」とおようさえぎった、「いま髪を解いてますから、ちょっとたばねたらまいりますって、そう云っといてちょうだい」
 おみつは燗徳利を代えて去った。
「まえの旦那――お亡くなりになった旦那も、津ノ正さんとお親しかったんですか」
「親しいっていうほどじゃないけれど」とおようが答えた、「そうね、三年ばかりは親しく往き来したことがあったわ、あたしは津ノ正さんと同じ町内で、お父っさんは餝屋かざりやをやっていたのよ、まえの人の家は隣り町にあって、十四の年からうちへ奉公に来たの、それがお父っさんにすっかり気にいられて、とうとうあたしはいっしょにされてしまったのよ」
「餝屋さんだったんですか、それでね」とおつねは櫛を使いながらうなずいた、「それで袋物や髪道具をやっている津ノ正さんとお知合だったんですね」
「そうじゃないの、あたしあの人の姉さんに可愛がられていたのよ」とおようは云った、「姉さんていう人はあたしより三つ年上で、同じお師匠さんのところへ長唄のお稽古にかよっていたんだけれど、妹のように可愛がってくれて、しょっちゅう呼ばれて遊びにいっていたし、二日も三日も泊りっきりのこともあったわ」
 そしておようはにかんだような眼つきで、くすっと忍び笑いをもらした。
「いやだわおかみさん、思いだし笑いなんかなすって」
「そんなんじゃないの」とおようは髪へ手をやりながら云った、「泊るときはいつもその姉さんという人に抱かれて寝たんだけれど、あとで考えるとその人ませてたのね、あたしはなんにも知らないから、ただ可愛がられてるんだとばかり思っていたのよ」
「だって、そうじゃなかったんですか」
「可愛がられていたことはいたの、その人も可愛いという気持だったんだろうけれど、いっしょに寝ることがたび重なるうちに、――そうよ、あの人ませていたんだわ」
「たび重なるうちにどうしたんですか」
「いやだわそんなこと、口で云えやしないわ」とおようは話をそらした、「それからあたし怖くなって、遊びにいっても決して泊らなくなったし、姉さんという人もはなれるようになっていったの、それから三年ばかりして、その人は十八でお嫁にいったけれど、子供を一人産んで亡くなったわ、お産のあとですぐに亡くなったんですって、きれいな人だったわ」
 おつねは櫛を置き、半身を反らせて眺めながら、どうでしょうかと訊いた。おようは両手をあげ、つかね髪にした頭に触ってみた。袖がまくれて、両のひじがあらわれ、きめのこまかな、白い、脂ののったつやつやしい二の腕がのぞいた。ええ結構よ、有難う、とおようは云った。おつねは櫛を拭き、自分の手を拭きながら、三年の余も御厄介になっていて、こんな話をうかがうのは今夜が初めてですね、と云った。
「でもうかがってみると、おかみさんは苦労なんかなすってないようじゃありませんか、餝屋さんの一人娘に生れて、大事にかけて育てられて、津ノ正の方たちに可愛がられて、そうしてこんどは津ノ正のごしんぞさんになるんですもの、苦労なすったにしてもあたしなんぞの苦労とは段もけたもちがいますよ」
「みんなそう思うんじゃないの」
「とんでもない、ほんとにあたしなんぞの苦労とは桁ちがいですわ」
「ひとはみんなそう思うのよ」およう蒔絵まきえの細い櫛を取って、たばねた髪の根に差しながら云った、「自分は誰よりも仕合せだとか、世の中でいちばん苦労したのは自分だとかって、――他人のことはわかりゃしない、いくらひとの身になって考えたって、その人の傷の痛さまではわかりゃしないでしょ、一生涯つれそった夫婦でも、しんそこわかりあうということはないようよ、それでおさまっていくんだろうけれど、人間てそういうもんだと思うと、悲しくなるわね」
「くわばらくわばら」とおつねは鬢盥や櫛箱を片づけながら云った、「おめでたい晩にこんなしめっぽい話なんて縁起でもない、さあ、もう着替えて下さいましな」
 店のほうから大きな声が聞えた。「どうしたんだおかみ、幕が長いぞ」


 石原町から川上のほうへ三丁ばかりゆくと、右手に法現寺という寺がある。俗に「ばんば」といわれるところだが、まわりは武家の小屋敷ばかりで町家はない。土塀どべいをまわした寺の境内はかなり広く、山門こそ小さいが、本堂とはべつに、経堂と講堂を兼ねた建物があり、方丈、庫裡くり、鐘楼、下男長屋などが並んでいる。そして、これらはすっかり荒れはてており、人のけはいもなく、まるで無住の廃寺のようにみえるが、それは半年まえ、法現寺がところ替えになったにもかかわらず、檀家だんかの関係で移転の費用がととのわず、さりとてところ替えを命ぜられた以上、ここで寺務を執ることもできないため、捨て寺同様になっているのであった。
 もう日はすっかりれていた。山門の扉は閉っているが、蝶番ちょうつがいくぎもゆるんでいるし、ただ両方から押しつけてあるばかりなので、人ひとり出入りするくらいの隙間は、ぞうさなくあけることができる。――いま背の高い男が、その扉をずらせ、すっと、山門の中へ身をすべりこませた。それは「源平」という居酒店へはいった、あの大きいほうの男であった。彼は扉を元のように押しつけてから、用心ぶかい足どりで庫裡のほうへ歩きだした。すると、鐘のおろしてある鐘楼のところで、「ここだ」という声がし、小柄な、黒い人影の立ちあがるのが見えた。石原の河岸にいた、ほっそりした顔だちの、あの伴れの男であった。
「おそかったな」と痩せた小柄な男が云った、「待ち草臥くたびれたぜ、どうだった」
「だめだ、店は閉ってる」
「閉ってるって」
 大きいほうの男は近よって、石垣に腰をおろした。鐘楼は二尺ほど土を盛り、まわりを石垣でたたんである。彼がそこへ腰をおろすと、痩せた男も同じようにした。
「あの店は今夜限りやめるそうだ」と大きいほうの男が云った、「それで店を閉めて、ごく馴染の客だけ集めて、祝いの酒をふるまうんだということだ」
「じゃあ、はいらなかったのか」
「すぐ向うの店で飲みながら聞いたんだ、源平っていう店で、いわばしょうばいがたきだろうが、ひどくかみさんのことを褒めていた、よっぽどできてる女らしい、自分のことのようによろこんで褒めていたぜ」
 痩せた男は喉で笑った。しかし相手が気づくまえに笑いやめ、あっさりした調子で訊き返した、「自分のことのようによろこんで褒めたって、なにをどうよろこんで褒めたんだ」
 大きいほうの男はちょっと黙っていた。
「あの店は五年まえに始めたんだそうだ、堀留の津ノ正という、袋物屋の主人の世話だそうだが」
「そいつはわかってる」
縹緻きりょうもいいし気だてもやさしい、店も繁昌して馴染の客もたくさん付いた、だが五年このかた浮いた話はいちどもない、津ノ正は五日にいちどぐらいの割で来るが、これも店で飲んで帰るだけで、奥へあがるとか、人眼を忍んで逢う、などということは決してなかった、それが、――」と云いかけて、彼は伴れのほうを見た、「おい、こいつはよそう、おらあ女にかかりあうのは気がすすまねえ」
「おめえ忘れたんだな」と痩せた男が沈んだ声で遮った、「すみこしらえる旅切手は二枚、おれの分は女房伴れだぜ、江戸をぬけるためには女が必要だ、夫婦者なら関所も安心してとおれる、そのためにこういう手筈を組んだんだ、そうじゃねえのか」
「それはそうだが、しかし女はほかにだっているぜ」
「おめえは知らねえからよ」と痩せた男は軽く云った、「女は幾らでもいるが、しんから役に立つ女はあいつ一人だ、万が一、関所でいざをくうようなことがあっても、あいつならきっと役に立つし、大阪へ着いてからだって、急場をしのぐもとでぐらいにはなるぜ」
 大きいほうの男はまた黙った。
「あとを云えよ」と痩せた男が促した、「五年間きれいでいて、それからどうしたんだ」
「あさって嫁にゆくそうだ」
 痩せた男は静かになり、それからゆっくりと振向いた、「あさって、どうするって」
「嫁にゆくんだ」と大きいほうの男が云った、「津ノ正にはかみさんがいたが、七年病んだあげく今年の二月に死んだ、そのあとへはいることになったというんだ」
 痩せた男はじっとしていて、それから音もなく立ちあがった。彼は腕組みを、つぎに右手であごでながら、二三歩いったり来たりした。麻裏をはいているためでもあるが、足音もさせず、呼吸も聞えなかった。腕組みをした片手で顎を撫で、地面をみつめて、ときどき首を振りながら、やや暫くいったり来たりしていたが、やがて立停り、そして笑いだした。初めは喉の奥で、低く山鳩やまばとの鳴くような声がもれ、それがくすくす笑いになり、こんどは声をあげて、顔を仰にしながら笑いだした。
「よせ」と大きいほうの男が云った、「その笑いかただけはがまんがならねえ、おい、よさねえか」
 痩せた男は笑いやめた、「おちつけよ」と彼はなだめるように云った、「そいつはいい話だ、あれが津ノ正の後妻にはいるとは、いや、笑やあしねえ、いまちょっとこう思ったんだ、つかまえてみたらかもねぎを背負ってたってな、吉の字、おれたちはいい旅ができるぜ」
「どういうこった」
「津ノ正の康二郎は昔からあいつが好きだった、あいつのためならどんなことでもするだろう、おれが石川島の寄場よせばへ送られるまえ、まだあいつと世帯を持っていたときにも、津ノ正はおようのやつにひかされて、ずいぶんおれの無理をきかずにはいられなかったもんだ」
「おめえ津ノ正の主人てのを知ってたのか」
「そうか」と痩せた男は伴れの問いには構わず、独りで頷きながら云った、「こいつは二重の拾いものだ、そうだろう、康二郎は用心ぶかいうえに辛抱づよくって、どんなことにも大事をとる男だ、それがあいつを後妻にするというのは、おれが死んじまったものと思ってるからだ、もしかして生きてるかもしれないという疑いが、これっぽっちでもあったら、決しておように手だしなんぞする人間じゃあねえ、そうだ、おれたちのしまぬけはやっぱりうまくいったんだ」
「うまくいかなかったとでも思ってたのか」吉の字と呼ばれた男が云った、「もう三年もまえのこったぜ、品川へあがった二つの死骸が、おれとおまえだと認められたことは、あのときちゃんとわかってたじゃあねえか」
「おめえはものを考えねえからな」と痩せた男が云った、「さあいってくれ、ふるまいが終ったら女を呼びだして来るんだ」
「津ノ正というのをどうする」
「女をこっちへ取ってからの話だ」と痩せた男はさも面白そうに云った、「おようのためなら、あいつはどんなことでもするからな、おれたちはいい旅ができるぜ」
 吉の字と呼ばれた男は立ちあがった、「おれはどうも気がすすまねえ、おめえは少し頭が切れすぎる、おめえは相棒には向かねえ人間だ、すみのやつだってわけを聞けば首を振るかもしれねえぜ」
 痩せた男はくすっと笑った。吉の字と呼ばれる男は急におどかされでもしたように、くいと振向いて、暗がりのそこにいる伴れの顔をじっとみつめた。
「おい、すみはどうした」と彼は低い声で聞いた、「すみに会ったのか」
 痩せた男は顎をしゃくった、「向うの庫裡で仁兵衛が賭場とばをやってる、すみは約束どおり来ていたよ」
「それで、まだ会わねえのか」
すみのことは心配するな」
「会ったのか会わねえのか」
「大きな声をだすなよ」痩せた男はふところを手で押えた、「旅切手は二枚、おれたち夫婦とおめえのと、ここに持ってるから安心しろ」
すみは賭場へ戻ったのか」
 痩せた男は黙って歩きだした。大きいほうの男がついてゆくと、鐘楼の向う側へゆき、そこで痩せた男は立停って、そこに転げているものへ顎をしゃくった。
「こいつはまったく手の早い野郎だ」と痩せた男が云った。
 吉の字と呼ばれる男は身をかがめた。そこに転がっているのが人間であり、血の匂いのするのに気づいた。その人間は俯向うつむきにのびており、すっかり息が絶えているようであった。
「ひでえことを」と彼は口の中で呟いた、「ひでえことを――」
「そいつは欲をかきゃあがった、十両だなんてふっかけたうえに、ふところへ手を入れやがった」と痩せた男がものやわらかに云った、「こいつは手の早い野郎だからな、おれがやらなければおれのほうでやられるところだったんだ」
 吉の字と呼ばれる男は、口の中で低く呟いていた、「なんてえひでえことを、――」


 津ノ正の康二郎は珍しく酔っていた。
 祝いに招いた客はみんな帰り、おつねもおみつもいなかった。この店をしまうので、おつねは水戸へ帰ることになり、おみつは浅草のほうに勤め口をみつけていた。それで、おつね業平なりひらのほうにいる遠い親類の家へ泊りにゆき、おみつは浅草の新しい店へ移っていったのである。康二郎は酔った眼で、店の中をゆっくりと眺めまわした。店は片づいていた。おつねとおみつとが、客たちの飲み食いしたあとを、ざっと片づけていったから、その四帖の小座敷には、かれら二人の膳が並んでいるだけであった。
「おつねは水戸へ帰ったら髪結をするんですって」とおようが話していた、「あたしもこの一年ばかりはずっとあの人に結ってもらってたんですよ、小さいときから髪をいじるのが好きだったっていうし、きようだからきっとやっていけますよ」
「酔ったようだが、もう少し飲みたいな」
「わる酔いをなさりゃしないかしら」
「大丈夫だ、こんなにいい心持に酔ったのは初めてだ」と康二郎は云った、「あさって堀留の店へはいってしまえば、こんなことはもうできゃあしない、初めての終りで、今夜は飲めるだけ飲んでみたいんだ」
「わる酔いさえなさらなければいいけれど、ふだんあまり召上らないから」
「今夜はべつだ」と康二郎が云った、「いいからあとをつけて来てくれ」
 おようは立ちあがって、茶の間へゆき、まもなく戻って来て、坐りながら頬を押えた、「あたしも少し酔ったようよ」
「いい色だ、眼のまわりがいい色に染まっているよ、きれいだ」彼はおようの顔を見まもった、「およう」と彼は感情のこもった声で云った、「ずいぶん遠廻りをしたな」
 おようはそっと眼を伏せた。
「おまえが初めて堀留のうちへ来たのは、九つか十のときだったろう、姉はおまえを妹のように可愛がっていた、同じ町内なのによく泊らせて、着物を着せ替えたり、髪を結い直したり、お化粧をしてやったり、まるで人形かなんぞのように可愛がっていた」
「いまでもよく覚えている」と彼は酒を一と口すすって続けた、「おまえはちんまりと坐って、髪をおたばこぼんに結ってもらい、口紅をつけてもらいながら、いっぱしな顔つきでつんとすましていた、姉はおまえを独り占めにして、私をそばへ寄せつけなかった、私はそばへ寄れなかったが、おまえが本当の妹だったらなあ、とよく思ったものだ、ずっとあとで、嫁に欲しいと思いだしたが、初めのうちは妹だったらどんなによかろうと思ったものだ」
「そうかしら」とおようは酌をしながら彼を見た、「あたしぼんやりだからよく覚えていないけれど、あなたはいつもあたしのことを、怒ったような顔で見ていらしったようよ」
「ああ」と彼は溜息をつき、おように酌をしてやった、「飲んでくれ、今夜はおまえも酔ってくれ、古いせりふだが、酔ったらおれが介抱してやる、うん、私のこの手でな、ずいぶん遠廻りをしたが、とうとうここまでぎつけた、自分のこの手で、おまえを介抱してやれるようになったんだ、――十六年、まる十五年以上だ」
 おようは立ってゆき、燗徳利を持って戻って来た。康二郎はそれにも気がつかないようすで、酒を啜り、そして話し続けていた。
「私はおようを嫁にもらいたかった、覚えていることがたしかなら、十七の年だ、浜町の河岸の石垣を直していたときで、私はそれをぼんやり眺めながら、おっ母さんにそう云おうかどうしようかと考えていた、まさか云いだせやしない、そのときおまえはまだ十三か十四だったからな」
「あなたが十七なら、姉さんがお嫁にいった年でしょう」とおようが云った、「それならあたし十五になってましたわ」
「云えばよかったんだな、十五ならそういう話をだしてもふしぎはなかったんだ」
「でもあたし、一人っ子でしたから」
 康二郎は黙った。
「それにお父っさんがあんな気性でしたから」とおようが云った、「津ノ正さんて聞いただけで、釣合わないって断わるにきまってたと思いますわ」
「そうか、ひとり娘だったんだな」彼は盃をみつめてい、それを啜ってから云った、「それじゃあやっぱり、どっちにしろ婿を取らなくちゃあならなかったのか」
 おようは康二郎に酌をし、康二郎はおように酌をした。おようめるように啜って、すぐに盃を置いた。
「しかし、それならそれで」と彼は下を見たままで云った、「婿を取るなら取るで、もっと人の選びようがあった筈だ、仲人口に乗せられたわけでもなし、子飼いからの職人じゃあないか、同じ家にいて、しょっちゅう見ていたんだからな、あの男がどんな性分か、ゆくさき望みがあるかないかくらい、わかりそうなもんじゃないか」
「お父っさんはあの人にれこんじゃったんですよ」
「そうだとしてもさ」
「おっ母さんでも生きていたら、また違った意見が出たかもしれませんけれど」とおようは酌をしながら云った、「それにあの人があんなになったのは、お父っさんが死んだあとのことで、それまではごくまじめに稼いでいたんですから」
「僅か二年そこそこだろう」と彼は乱暴に云い返した、「まじめに稼いだと云ったって、僅か二年そこそこだ、おやじさんが亡くなるとすぐに正体をあらわした、亡くなるとすぐだ、それこそ百カ日も待たずにだ、そして、一周忌のときにはもう店をたたんで、裏店うらだなへひっこんでいたじゃないか」
「私はみんな知ってるよ」と彼は続けた、「女房をもらってからも、おまえのことが頭からはなれなかった、いまだから云うが、うわさを聞くたびに私は、はらわたが煮えるような思いをしたものだ、あいつは、――あの男は悪党だ、骨の髄からの悪党だ」
 おようは盃を取って飲んだ。康二郎は酌をしてやり、おようはそれも飲んだ。
「そうよ、仰しゃるとおりよ」
 おようはそう云って立ってゆき、燗徳利を二本持って戻った。それから、静かに康二郎に酌をし、自分も手酌で飲んだ。
「悪党っていうより人でなしだわ」とおようは続けた、「お父っさんが死ぬとすぐに道楽が始まった、酒こそ一滴も飲まなかったけれど、博奕ばくちと、女、うちの店をつぶし、あたしを裸にして博奕と女、――あたし自分にも悪いところがあるんだろうと思って、ずいぶん辛抱しました、きっとあたしにも悪いところがあったんでしょう、男というものは、誰でもいちどは道楽をするっていうから、あたし、泣き泣き辛抱していたんです」
「そうだ、云ってしまえ」と彼はおように酌をしてやった、「みんな云ってしまうがいい、そしてさっぱりするんだ」
「こんなこと、初めて云うんだけれど、いちどなんかあたしの躯を、人に売ろうとしたことがあるんですからね」
「おまえの躯を、人に売るって」
「博奕のかたにしたんですって」とおようはきれいに飲んで云った、「あたし死のうと思って庖丁ほうちょうを持ちだしました、そのまえにも、それからあとでも、死のうと思ったことはたびたびあるけれど、そのときこそ死ぬつもりだったんでしょう、そう聞くなり勝手へいって庖丁を持ったんです」
「なんというやつだ」と彼はうめいた、「なんというひどいやつだ」
「あの人、しんからの人でなしよ」おようは一と口飲んで云った、「それに比べれば、あなたは仏さまだわ、そうよ、まったく仏さまといってもいいくらいよ、病気のおかみさんを七年もみとってあげて、そのあいだいちどだって不実なことはなさらない、お店は立派にやってらっしゃるし、あたしのような者にもいろ恋ぬきで気をくばって下すった、――あの人でなしが、あの人でなしがあたしをかせに、お金をねだりにいったということは、あとで聞きました、あなたはいやな顔もなさらずに貸して下すったって、あの人は平気であたしにそう云いましたわ」
「金なんぞ」と彼は首を振った、「おまえの苦労に比べれば、少しばかりの金なんぞなんでもありゃあしないよ」
「あの人が石川島の寄場へ送られてから、この店を持たせて下さり、五年ものあいだ、面倒をみて頂き、そうしてこんどはこんなおばあさんになったあたしを、おかみさんにして下さる、――話に聞くだけならほんとにする者はないでしょ、現にこのあたしが、まだ半分は夢のようにしか思えないくらいですもの」
 おようは手酌で飲んだ。その手つきを見て、康二郎はちょっと眉をしかめた。
「そう続けさまでは酔ってしまうよ」
「あなたは仏さまみたようよ」とおようは構わずに云った、「あなたはきっとおかみさんを大事になさるでしょう、着たい物を着せ、喰べたい物を喰べさせ、芝居見物、ものみ遊山、なにひとつ不自由をさせずに、可愛がってあげるでしょう、それを仕合せだと思うような、おとなしい人をおかみさんにするのね、あたしはだめだわ」
「ちょっと」と彼はおようが手酌で飲もうとするのを止めた、「そう飲むのは乱暴だ、おまえもう酔っている、もう少しゆっくり飲まないか」
「済みません、怒らないで下さい」
「怒りゃあしない、私がすすめたんだ、ただもう少しゆっくり飲むほうがいいよ」
「怒らないで下さるわね」とおようはやさしく云った、「どうぞ、あたしのことあきらめて下さい、あたしあなたのおかみさんになれるような女じゃありません」
「おまえ酔っちまったんだ、その話はもうやめにしよう」
「ええやめます。でもこれだけは云わせて下さい」とおようは続けた、「あなたにはわからないでしょうけれど、女っていうものは、真綿でくるむように大事にされても、それで満足するもんじゃありません、あの人でなしのために、あたしは死ぬほど辛いおもいをし、涙の出なくなるまで泣かされました、けれども、しんそこ泣かされるということがどういうものか、あたしにもだんだんわかってきたんです」
 おようはまたきれいに飲み、すぐに手酌で注いでから云った、「あの人は悪党だったわ、でも、なにをするにも本気だった、あたしをよろこばせることなんかごくたまにしかなかったけれど、そのときはみえも外聞も忘れて、ありったけの手をつくしてよろこばせてくれたわ、辛いめにあわせるときはもちろん、遠慮も会釈もありゃあしない、人によく思われようなんて考えはこれっぽっちもなく、自分のしたいことをしたいようにしたわ、そうよ、――あの人は悪党の人でなしよ、その代り自分も泥まみれになったわ、泥まみれ、傷だらけになって、そうして品川の海へ死骸になってあがったのよ」
「三年まえの夏でしたっけ」とおようは続けて云った、「品川でお仕着を着た死躰が二つあがって、石川島からろうぬけをした二人だとわかり、すっかり腐っていたけれど、一人はあの人だったって、あなたが知らせて下すったでしょう、そのときあなたは、これでおまえの苦労も終った、これからは仕合せになることを考えようって、――あたしはほっとしたような顔をしたでしょう、ええおかげさまでと云って笑ったと思うわ、でもね、あなたが帰ったあとで、あたしひと晩じゅう泣きあかしたのよ、可哀そうな人、可哀そうな人って」
 康二郎がなにか聞きつけたようすで、立ちあがって茶の間を覗き、障子を閉めて戻ると、おようの手から燗徳利を取りあげた。
「もうよせ、話もたくさんだ」
「ええよします、話もやめます」とおようは眼を据えて云った、「その代りあなたも帰って下さい、あたしは津ノ正の奥に坐れるような女じゃあありません」
「その話はまたにしよう、床をとってやるから寝るほうがいい」
「帰って下さい」とおようはひそめた声で叫んだ、「資産があって旦那旦那とたてられて、どこに一つ非の打ちどころもない人には、泥まみれ傷だらけになった人間の気持はわかりゃしません、あたしのこの躯にも、あの人でなしの泥や傷が残っているんだから、津ノ正のごしんぞだなんてとんでもない、あたしはお断わり申しますよ」
「わかったよ、そのことは明日また話そう、いま床をとるから横におなり」
 おようは激しく首を振った、「お願いだから帰って下さい、あたしが悪口を云いださないうちに帰ってください」
「だっておまえ、そんなに酔っているものを」
「帰って下さいな」とおようささやくように云った、まるであわれみを乞うような口ぶりであった、「どうぞお願いします、このまま帰って、そしてもう二度と来ないで下さい」
 康二郎はおようをじっと眺めていて、それから静かに立ちあがった。するとおようは機先を制するように、手を振りながら「なにも仰しゃらないで」と云った。
「どうぞなにも仰しゃらないで、そのままお帰りになって下さい、どうぞ」
 康二郎はあおざめた顔をそむけ、茶の間へいって衿巻えりまきを持って来ると、それを首に巻きながら、黙って土間へおりた。おようは見向きもせずに、燗徳利を取り、手酌で盃に注ぎながら云った。
「さようなら、お大事に」


 康二郎は大川端へ出た。時刻は十時をまわったらしい、こっちの河岸もまっ暗だし、対岸の浅草のほうも灯はまばらで、遠くかすかに、夜廻りの拍子木の音が聞えた。
「渡しはもうないな」と彼はふるえながら呟いた、「駕籠かごをひろうにしても、両国までゆかなくちゃあなるまいな」
 風はないが気温は低く、雲があるのだろうか、星も少ししか見えなかった。両国橋のほうへ向って歩きだし、舟渡しのところまで来ると、うしろから「もし旦那」と呼ぶ声がした。康二郎は歩きながら振返った。するとすぐそこに、頬かぶりをした背の高い男がいるのを認めた。
「私ですか」と彼は訊いた。
「津ノ正の旦那ですね」と男が問い返した。
 康二郎は立停り、男も立停った。康二郎はおちついて相手を見、相手はちょっと頭をさげた。
「うろんなまねはしません、旦那に話があるんです」と男は云った、「送りながら話しますから、どうか歩いておくんなさい」
「おまえさんどなたです」
「どうか歩いておくんなさい」と男は云った、「話しているうちにわかりますよ」
 康二郎は歩きだし、男もその左側に並んで歩いた。
「いい人ですね、あのおようさんという人は」と男が云った、「旦那には悪かったが、いまの話をみんな聞きました、ええ、勝手にいて聞いたんです、旦那の仰しゃることも、おかみさんの云うこともみんな聞きましたよ」
「どうしてまた、勝手なんぞに」
 男は康二郎を遮って云った、「そいつもあとで云いますが、さきにこっちから訊かして下さい、旦那は、あの人を諦めやあしないでしょうね」
 康二郎はなにか云おうとしたが、思い直したように口をつぐんだ。
「あの人はわるく酔ってましたよ、あいそづかしみたようなことを云ったが、あれは本心じゃあねえ、あれが本心じゃあないということは、旦那にもわかってたんでしょう」と男は康二郎を見た、「あの人をおかみさんにするという気持に変りはないでしょうね、旦那、きめたとおり津ノ正のごしんぞにお直しなさるんでしょうね」
「聞いていたのなら、おわかりだろうが」と彼は答えた、「それは私よりおようの心しだいですよ、あれは慥かに酔っていました、けれども、おようは、どんなに酔っても、心にないことを云う女じゃあありません、私は昔から知っているが、酔って心にもないことを云うような女じゃあ決してありません」
「じゃあ旦那は」と男は云った、「旦那はあの人を放りだすおつもりですか」
 康二郎は黙って十歩ばかり歩いた。
「このままみすてるんですか」と男は問い詰めるように云った、「あの人をこのまま放りだしちまうつもりですか、旦那」
 康二郎は立停って、男のほうを振向いた、「おようがこう云ったのを聞いたでしょう、――資産があって、旦那旦那とたてられて、どこに一つ非の打ちどころもない者には、泥まみれ傷だらけの人間の気持はわからない」
 男は唇をひきむすんで呻いた。殆んど声にはならなかったが、まるで搾木しめぎにでもかけられたような、呻きかたであった。
「正直に云うが私は胸のここを」と康二郎は続けた、「刃物かなにかでえぐられたように思いました、おようの云うとおりです、私には力造を悪く云う資格はない、力造が悪いことをし、おようが苦労するのを、私はただはたから見ていただけです、ふところ手をして、向う河岸の火事を眺めるように、――私は自分がどんな人間かということを、今夜はじめて悟りました」
「そんならなおさら、あの人を仕合せにしてやるのが本当じゃあねえでしょうか」
 康二郎はまた振向いた。振向いて、いま初めてその男に気づいたような調子で訊いた、「おまえさんはいったいどういう人だ、なにかおようにかかわりでもあるんですか」
「かかわりがあるとすれば」と男はくいしばった歯のあいだから云った、「もしかかわりがあるとすれば、それはあの人よりも旦那のほうですよ」
 康二郎は眼を凝らして相手を見た。
「力造は生きてる」と男が声をひそめて云った、「あいつは死んじゃあいない、生きて、すぐ向うの法現寺で待ってるんです」
 康二郎はなにも云わなかった。
「ぶちまけて云いますが、あっしは野郎といっしょに牢ぬけをした吉次という者です」と男は続けた、「すみというなかまの者としめし合せて石川島をぬけ、入墨者を二人水に沈めたうえ、腐るのを待って海へ放した、それが品川の浜へあがってあっしたち二人ということになったんだが、それから三年、野郎もあっしも悪いことをし尽しました、どうにも江戸にいられなくなって、上方へずらかろうということになったんです」
「あの男が、――力造が」と康二郎はかすれた声で訊き返した、「本当に生きている、っていうんですか」
「この吉次が野郎の相棒です」と男は云った、「男二人ではお上の眼が危ない、おようさんを伴れだして、野郎が夫婦者になってゆけば関役人の眼もごまかせるだろう、そういうわけで、あっしが伴れだし役になったんです」
 康二郎は唾をのんだ。そして、なにか云おうとしたが、吉次という男のほうが続けて、ところが津ノ正の名が出た、と云った。あの人が津ノ正へはいると聞いて欲をだし、あの人を伴れだすばかりでなく、あの人をかせにして津ノ正から金をゆするつもりになった、自分があのうちの勝手へ忍びこんだのはそのためだ、と男は云った。
「勝手へ忍びこんだのは、旦那の帰るのを待つためだったが」と吉次は続けた、「二人の話を聞いていて、あの人の云うことを聞いて、あっしは気持が変ったんです、――あんな悪党のことを可哀そうな人って、旦那のようないい方にあいそづかしみたようなことを云ってまで、あの人でなしの畜生の肩を持った、泥まみれ、傷だらけになった、可哀そうな人だって、――旦那、あっしも兇状きょうじょう持ちだ、まともなことの云える人間じゃあねえが、おようさんのような人を、これ以上いためるなんてこたあできません、おねげえだ、旦那、あの人をごしんぞにしてやっておくんなさい、力造のほうは片をつけます、野郎はあっしが片づけるから、どうかおようさんのことを頼みます」
 吉次という男は二度も三度も頭をさげ、そうしながら、手の甲で眼を拭いた。
「わかりました、おようのことは引受けます」と康二郎が云った、「今夜のようなことがあったからすぐにとはいかないでしょう、あの店をもう少しやらせて、あれの気がしずまったら津ノ正へいれることにします」
「慥かでしょうね」
「私は十六年まえのことも話した筈です」
「ええ聞いていました、ええ」と吉次は頷いた、「聞いていて、あっしは、もういちど人間に生れてきてえと思いました」
 吉次はまた手の甲で眼を拭き、それではこれで別れる、と云った。康二郎はひきとめた。もっと詳しいことが聞きたい、私の店までいっしょに来ないか、とひきとめたが、吉次は首を振った。
「もう話すことはありません、それに力の野郎が待ってますから」と吉次は云った、「旦那には云わねえが、あいつは今夜、大事ななかまを一人あやめたんです、牢ぬけを助けてくれた、いわば負目おいめのあるなかまでした、それもありこれもあって、あっしは野郎を片づける気になったんです、ただどうか、くどいようだがおようさんを仕合せにしてやっておくんなさい」
 康二郎は頷いた、「おようのことは念には及ばないが、おまえさんがあの男を手に掛けなくとも、ほかになにか」
「ありません」と吉次は手を振って遮った、「役人に渡せば野郎の名が出ます、そうすればまたおようさんがかわるでしょう」
 康二郎は黙った。
「決して仕損じのねえようにやりますよ」と、吉次は微笑しながら云った、「野郎を片づけたらあっしは自首して出ます、無宿のならず者が喧嘩けんかをして、一人が一人をあやめ、そいつをあっしがやったと、いつかお耳にはいることでしょう、これでお別れ申します、どうかいらしっておくんなさい」





底本:「山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り」新潮社
   1982(昭和57)年10月25日発行
初出:「講談倶楽部」
   1958(昭和33)年1月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2021年2月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード