ひとごろし

山本周五郎





 双子六兵衛ふたごろくべえは臆病者といわれていた。これこれだからという事実はない。誰一人として、彼が臆病者だったという事実を知っている者はないが、いつとはなしに、それが家中一般の定評となり、彼自身までが自分は臆病者だと信じこむようになった。――少年のころから喧嘩けんかや口論をしたためしがないし、危険な遊びもしたことがない。犬が嫌いで、少し大きな犬がいると道をよけて通る。乗馬はできるのに馬がこわく、二十六歳になるいまでも夜の暗がりが恐ろしい。鼠を見るととびあがり、蛇を見るとあおくなって足がすくむ。――これらの一つ一つを挙げていっても、臆病者という概念の証明にはならない。それは感受性の問題であり、多かれ少なかれ、たいていの者が身に覚えのあることだからだ。
 この話の出典は「偏耳録へんじろく」という古記録の欠本で、越前家という文字がしばしばみえるし、「隆昌院さま御百年忌」とか、「探玄公、昌安公、御涼の地なり」などという記事もあるから、しらべようと思えば、藩の名を捜すのは困難ではないだろう。当時の越前には福井の松平、鯖江さばえ間部まなべ、勝山に小笠原、敦賀つるがに酒井、大野に土井の五藩があった。けれども「越前家」とひとくちに呼べるのは、まず福井の松平氏だと思うし、たとえそうでないにしても、話の内容にはさして関係がないから、ここでは福井藩ということにしておきたい。「偏耳録」によると、双子家は永代えいたい御堀支配という役で、家禄は百八十石三十五人扶持ぶちだとある。城の内濠うちぼり外濠の水量を監視したり、泥をさらったり、石垣の崩れを修理したりするものらしい。のちにこれらは普請奉行の管轄に移されたが、双子家の永代御堀支配という役はそのまま据え置きになった。
 要するに何十年かまえ、双子家は名目だけの堀支配で、実際には無役になってしまったのだ。そして、誰も気がつかなかったのか、それとも「永代」という文字に意味があったのか、六兵衛の代になっても、役目だけで実務なしという状態が続いていた。――この出来事が起こったとき彼は二十六歳、妹のかねは二十一歳であった。父母はすでに亡くなり、僅かな男女の雇人がいるだけで、兄妹はひっそりとくらしていた。六兵衛も独身、妹のかねも未婚。親族や知友もあったのだろうが、兄にも妹にも、縁談をもちこむような人はいなかった。筆者であるわたくしには、このままの兄妹を眺めているほうが好ましい。当時としては婚期を逸したきょうだいが、世間から忘れられたまま、安らかにつつましく生活している、という姿には、云いようもない人間的な深いあじわいが感じられるからである。――だが、話は進めなければならない。

「お兄さま、どうにかならないのでしょうか」とかねは云った、「わたくしもう、つくづくいやになりましたわ」
 妹がなにを云おうとしているか、六兵衛はよく知っていた。それは周期的にやってくる女の不平であり女のぐちであった。
「今日はね」と彼は話をそらそうとした、「別部わけべさんの門の前で喧嘩があって」
「お兄さま」かねは兄の言葉を容赦もなくさえぎった、「あなたはわたくしの申上げたことが聞えなかったんですか」
「いや、聞いてはいたんだがね、喧嘩のことが頭にあったものだから」
「わたくしもう二十一ですのよ」
「ほう」彼は眼をみはってみせた、「二十一だって、――それは本当かね」
「わたくしもう二十一です」
「ついこのあいだまで人形と遊んでいたようだがね」
「お友達はみなさんお嫁にいって、中には三人もお子たちのいる方さえあります、それをわたくしだけがまだこうして、白歯のままでいるなんて、恥ずかしくって生きてはいられませんわ」
「喰べないかね」と彼は云った、「この菓子はうまいよ」
「この菓子はうまいよ」かねはいじ悪く兄の口まねをした、「お兄さまにはそんなことしかおっしゃれないんですか」
 この辺で泣きだすんだ、これがなによりもにがてだ、と六兵衛は思った。けれどもかねは泣かなかった。顔をこわばらせ、すごいような眼で兄の顔をにらみながら、ふるふると唇をふるわせた。
「お兄さまにも嫁にきてがなく、わたくしにも一度として縁談がございません」とかねは云った、「なぜだか御存じですか」
「そう云うがね、世間にはそういうことが」
「なぜだか御存じですか」
 六兵衛は黙り、もしも女というものがみんな妹のようだとしたらおれは一生独身でいるほうがいいな、と心の中でつぶやいた。
「みんなお兄さまのためです」とかねはきっぱりと云った、「あなたが臆病者といわれているためなんです、侍でいて臆病者といわれるような者のところへは、嫁も呉れはしないでしょうし、嫁に貰いてもないのは当然です、そうお思いになりませんか」
 先月も同じ、先々月もそのまえも、定期的に何年もまえから、同じことを云われているように感じ、けれど六兵衛はそんなけぶりもみせず、よく反省してみるように、仔細しさいらしくなにかをみつめ、首をかしげた。
「そうだね」と彼は用心ぶかく云った、「そう云われてみれば」
「云われなければわからなかったと仰しゃるんですか」
「いやそんなことはない、そんなことはないさ、自分だってうすうすは感づいていたんだ」
「うすうす感づいていたんですって」とかねひざの上のこぶしをふるわせながら云った、「――それならなにかなすったらいかがですか、なにかを、そうよ、臆病者などという汚名をすすぐために、もうなにかなすってもいいころではありませんか、そうお思いになったことはないんですか」
「自分でもときどきそう思うんだが」六兵衛は溜息ためいきをつきながら云った、「なにしろその、道に落ちている財布を拾う、というようなわけにはいかない問題だからね」
「お拾いなさいな」とかねは云った、「道にはよく財布が落ちているものですわ」

 たしかに、彼は道に落ちていた財布を拾った。しかもたいへんな財布を。ここで「偏耳録」の記事を二三引用しなければならない。

 ――延享二年十月五日、江戸御立、同十八日御帰城。三年うしの八月、将軍家重公いえしげこう御上洛ごじょうらく。同年芳江比巴国山兎狩御出。
 ――兎狩のとき争論あり、御抱え武芸者仁藤昂軒にとうこうけん(名は五郎太夫、生国常陸ひたち)儀、御側小姓加納平兵衛を斬って退散。加納は即死、御帰城とともに討手のこと仰せいださる。

 仁藤昂軒は剣術と半槍はんそうの名人で、新規に三百石で召し出され、家中の者に稽古をつけていた。六尺一寸というたくましい躰躯たいくに、眼も口も鼻も大きかったらしい。特に鼻が目立っていたのだろうか、若侍たちはかげで「鼻」という渾名あだなで呼んでいた。――狩場でどんな争論があったのかはわからない、昂軒はちょっと酒癖が悪く、暇さえあれば酒を飲むし、酔えばきまって乱暴をする。剣術と半槍の腕は紛れもなく第一級であり、稽古のつけかたもきびしくはあるが本筋だった。彼は三年まえ、江戸で藩公にみいだされ、二百石十人扶持で国許くにもとへ来たが、三十一歳でまだ独身だったし、女に手を出すようなことはなかった。
 ――おれの女房は酒だ。
 昂軒はつねにそう云っていたし、よそ者には心をゆるさない土地のならわしで、縁談をもちだす者もいなかった。お抱え武芸者として尊敬はされるが、人間どうしの愛情やいたわりには触れることができない。それが「藩公にみいだされた」という誇りとかちあって、しだいに酒癖が悪くなったようであった。
 狩場で斬られた加納平兵衛は、お側去らずといわれた小姓で、親きょうだいは江戸屋敷にいた。藩公は激怒され、すぐに追手をかけろと命じた。これは加納の家族とは関係がない、昂軒はおれに刃を向けたのだ、上意討だ、と名目をはっきりきめられた。――昂軒は狩場からいちど帰宅したが、すぐに旅支度をして出ていった。そして出てゆくとき、彼は門弟の一人に向かって、これから北国街道をとって江戸へゆく、逃げも隠れもしないから追手をかけるならかけるがよい、と云い残した。
 そこで誰を討手にやるか、という詮議せんぎになったが、相手が相手なのでみんな迷った。彼なら慥かだ、という者もみあたらないし、私がと名のって出る者もない。だからといって一人の相手に、人数を組んで向かうのは越前家の面目にかかわる、どうすればいいかと、はてしのない評議をしているところへ、双子六兵衛が名のって出た。人びとは嘲弄ちょうろうされでもしたように、そっぽを向いて相手にしなかった。六兵衛はおびえたような顔で、唇にも血のけがなく、からだは見えるほどふるえていた。よほどの決心で名のり出たのだろうが、名のり出たという事実だけで、もう恐怖にとりつかれているようすだった。
 ――よしたほうがいい、と一人が云った。返り討にでもなったら恥の上塗りだ。
 だがほかの者は同意を示さなかった。六兵衛が臆病者だという評は、家中に隠れもないことだし、仁藤昂軒の耳にもはいっているかもしれない。その臆病者が討手に来たと知ったら、はたして昂軒はどう思い、どういう行動に出るか。そう考えた一人が、急に膝を打ち、そこにいる人びとを眼で招いた。


かね、いるか」六兵衛は帰宅するなり叫んだ、「来てくれ、旅支度だ」
 兄の居間へはいって来た妹のかねは、大きななりをして帰るそうそう、めしの支度だなんてなにごとですか、と云った。
めしではない旅支度だ」
 いよいよそうか、とでも云いたげに、かねは冷たい眼で兄を見た。世間の嘲笑に耐えかねて、いよいよ退国する気になったのか、と思ったようである。
「そういそがなくともいいでしょう」とかねは云った、「片づけなければならない荷物だってあるし、それに」
「荷物なんぞいらない」六兵衛は妹の言葉を遮って云った、「肌着と下帯が二三あればいいんだ、いそいでくれ」
 おちつかない手つきではかまをぬぎ、帯を解いている兄を見ながら、かねは心配そうに「なにかあったのか」ときいた。
「あったとも」と六兵衛が云った、「ながいあいだの汚名をすすぐときがきた、御上意の討手を仰せつけられたんだ」
 これを見ろと云って、脇に置いてあった奉書の包みを取って渡した。その表には「上意討之趣意」とあり、中には仁藤昂軒の罪状と、討手役双子六兵衛に便宜を与えてくれるように、ということが藩公の名でしたためてあった。藩公の名には墨印と花押かおうがしるされているし、宛名あてなのところには「道次諸藩御老職中」と書いてあった。かねは顔色を変えた。
「仁藤とは」とかねは兄に問いかけた、「あのお抱え武芸者の仁藤五郎太夫という人のことですか」
「そうだ、それに書いてあるとおり」と六兵衛は裸になりながら答えた、「あの仁藤昂軒だ、着物を出してくれ」
「とんでもない」かねはふるえだした、「やめて下さいそんなばかなこと、あの人は剣術と槍の名人だというではありませんか」
 六兵衛はそう聞くなり両手で耳をふさぎ、悲鳴をあげるような声で「着物を出してくれ、旅支度をいそいでくれ」と叫び、風呂舎ふろやのほうへ走り去った。かねはそのあとを追ってゆき、やめて下さいと哀願した。相手は名人といわれる武芸者、あなたは剣術の稽古もろくにしたことがない。返り討になるのは知れきっているし、そうなれば双子の家名も絶えてしまうだろう。わたくしがいつも不平や泣き言を云うので、あなたはついそんな気持になったのだろうが、あなたに死なれるより、まだ臆病者と云われるほうがいい。すぐにお城へ戻って辞退して下さい、これからはわたくしも、決して泣き言やぐちはこぼさない、どうかぜひとも辞退しにいって下さい。かねは涙をこぼしながらそうくどいた。
 風呂舎で水を浴びながら、六兵衛は「だめだ」と云った。
「これは私のためだ」と彼は云った、「おまえの泣き言でやけになったのではない、私も一生に一度ぐらいは、役に立つ人間だということを証明してみせたいんだ」
「お兄さまは殺されてしまいます」
「そうかもしれない、だがうまくゆくかもしれない」六兵衛は躯を拭きながら云った、「道場での試合ならべつだが、こういう勝負には運不運がある、仁藤昂軒は名人といわれ、自分の腕前を信じているが、私は臆病者だと自分で認めている、この違いは大きいんだぞ、かね、私はこの違いにけて、討手の役を願い出たんだ」
「お兄さまは殺されます」と云ってかねは泣きだした、「お兄さまはきっと、返り討になってしまいますわ」
「たとえそうなったとしても」六兵衛はふるえ声で云った、「この役は御上意という名目だから、断絶するようなことはない、私はないと思う、おまえに婿を取っても家名は立ててもらえるだろう、必ず家名は立つと私は信じている」
「わたくしが悪いんです」かねむせび泣きながら云った、「みんなわたくしが悪かったからです、お兄さま、堪忍して下さい」
「さあ早く」と六兵衛が云った、「旅支度をそろえてくれ、泣くのはあとのことだ」

「偏耳録」によると、双子六兵衛は昂軒のあとを追って、三日めに追いついたという。ところは松任まっとう、町の手前の畷道なわてみちにかかったとき、六兵衛は昂軒の姿をみつけた。背丈が高く、肩の張った骨太の、逞しい躯つきは、うしろからひとめ見ただけで、それとわかった。六兵衛はわれ知らず逃げ腰になり、口をあいてあえいだ。口をあかなければのどが詰まって、呼吸ができなくなりそうだったからである。心臓は太鼓の乱打のように高鳴り、膝から下の力が抜けて、立っているのが精いっぱい、という感じだった。
「待て、おちつくんだ」と六兵衛は自分にささやきかけた、「まずおちつくのが肝心だ、向うはまだ気づかない、いまのところはそれだけが、こっちの勝ちみだからな」
 彼は全身のふるえを抑えようとし、幾たびも唾をのみこもうとした。ふるえはおさまらないし、口はからからで、一滴の唾も出てこなかった。昂軒はゆっくりと遠ざかってゆく、大きな編笠をかぶっているが、その笠が少しも揺れないし、歩調は静かで、その一歩々々が尺で計ったように等間隔を保ってい、乾ききっている道だのに、足もとからほこりの立つようすもなかった。
「武芸者もあのくらいになると」と六兵衛は呟いた、「あるきかたまで違うんだな」
 彼は感じいったように首を振り、そろそろあるきだした。
 昂軒は松任で宿をとった。六兵衛はそれを見さだめてから同じ宿に泊り、明くる朝、昂軒がでかけるのを待って、あとからその宿を立った。昂軒と同宿しているということで、六兵衛はおちおち眠ることができなかった。どうすれば討てるかと、いろいろと思案したけれども、これといううまい手段が思いうかばず、ともすると「荒神さま」という言葉にひっかかった。
「なにが荒神さまだ」と彼は昂軒のあとをけてゆきながら首をひねった、「こんなところへなんのために荒神さまが出てくるんだ」
 仁藤昂軒は金沢へは寄らず、北国街道をまっすぐにあるいていった。金沢城下は騒がしく、なにやらものものしい警戒気分が感じられた。往来の者の話を聞くと、将軍家重が上洛するとのことで、怪しい人間の出入りを監視している、ということであった。将軍家の上洛なら東海道であろう、こんなに遠い加賀のくにで、往来の者を警戒するなどとはばかげたことだ。そう云ってあざ笑う者もいた。――昂軒が金沢城下を避けたのは、そんな騒ぎに巻き込まれたくなかったからであろう。将軍上洛のことは、「偏耳録」に延享三年丑八月と記してあるから、このときは七月から八月へかけての出来事とみることができる。すなわち新暦にすると盛夏の候で、北国路でも暑さのきびしい時期だったに違いない。――乾いた埃立つ道をあるき続けながら、双子六兵衛はしだいにうんざりしてきた。自分のしていることがばからしくなり、上意討という名目のそらぞらしさ、そんなことで日頃の汚名をすすごうと思った自分の愚かさ、などについて反省し、昂軒が狩場で加納を斬ったのは、昂軒の個人的な理由があったのだろうし、このおれには関係のないことだ。そんなことを考えながら、汗を拭き拭きあるいていると、突然うしろから呼びかけられた。
「おい、ちょっと待て」とその声は云った、「きさま福井から来た討手じゃないのか」
 六兵衛はぞっと総毛立ちながらとびあがった。とびあがって振り返ると、仁藤昂軒がうしろに立っていた。
「その顔には見覚えがある」と昂軒は編笠の一端をあげ、ひややかな、刺すような眼で、じっと六兵衛をにらんだ、「――うん、慥かに覚えのある顔だ、きさま討手だろう、おれのこの首が欲しいのだろう」
 六兵衛は逆上した。全身の血が頭へのぼって、殆んど失神しそうになった。
「ひとごろし」六兵衛はわれ知らず、かなきり声で悲鳴をあげた、「誰か来て下さい、ひとごろしです、ひとごろし」
 そして夢中で走りだし、走りながら同じことを叫び続けた。どのくらい走ったろうか、息が苦しくなり、足もふらふらと力が抜けてきたので、もう大丈夫だろうと振り返ってみた。白く乾いた道がまっすぐに延びてい、右手に青く海か湖の水面が見えた。道の左右は稲田で、あまり広くない街道の両側には松並木が続き、よく見ると、道の上には往来する旅人や、馬をいた百姓などが、みんな立停って、吃驚びっくりしたようにこっちを見ていた。――十町ほど先で道が曲っているので、おそらくまだそっちにいるのだろう、仁藤昂軒の姿は見あたらなかった。
「逃げるんだ」と彼は自分に云いきかせた、「いまのうちに逃げるんだ、早く」
 六兵衛は激しく喘ぎながら、いそぎ足にあるいてゆき、やがて右手に、松林のある丘をみつけると、慌ててその丘へ登り、松林の中へはいっていった。六兵衛は笠をぬぎ、旅嚢りょのうを取って投げると、林の下草の上へぶっ倒れた。
「危なかった」と彼は荒い息をつきながら呟いた、「もう少しで斬られるところだった、あいつがうしろにいようとは思わなかったからな、いつ追い越してしまったんだろう」
 六兵衛は眼を細めた。仰向けになった彼の眼に、さし交わした松林のこずえと、梢の高いかなたに、白い雲の浮いた青空が見えた。おれはとんまなやつだな、と六兵衛は思った。臆病なうえにまがぬけている、追いかけている人間を追い越したのも知らず、逆にうしろから相手に呼びとめられた。へ、いいざまだ。そんなふうに自分を罵倒ばとうしていると、ふいに「荒神さま」のことを思いだした。
「そうか」と彼は眉をしかめた、「子供のときの話だったか」
 幼いころ母から戒められたことがある。窓から外へ湯茶を捨てるものではない、家の周囲にはいつも荒神さまが見廻っているから、捨てた湯茶が荒神さまにかかるかもしれないし、そんなことになるとばちが当る、というのであった。


 荒神さまといえば、とにかく神であろう。神ならなにごともみとおしな筈であるのに、窓から捨てられる湯や茶がよけられず、ひっかけられてから怒って罰を当てる、というのはだらしのないはなしである。荒神さまが本当に、だらしのない神であるかどうかはわからないが、神でさえ、不意に投げ捨てられた湯茶を避けられないとすれば、人間である昂軒はなおさら避けることができないだろう。六兵衛のあたまの中で、無意識にそのことがちらちらしていたのであった。
「そうか、そんなことだったのか、ばかばかしい」と彼は高い空を見あげたままで呟き、大きな溜息をついた、「――そうだとすれば、追いかけている相手にうしろから呼びとめられるなんて、おれこそ荒神さまみたようなもんじゃないか、ふざけたはなしだ」
 ふざけたようなはなしだ、と呟きながら、六兵衛は自分のみじめさに涙ぐんだ。これからどうしよう、福井へは帰れないし、重職から与えられた路銀には限りがある。どこか知らない土地へいって、人足にでもなってやろうか、――そんなふうに思いあぐねていると、くになまりのつよい言葉で、人の話しあう声が聞えてきた。
「人殺しだって、ほんとか」と一人の声が云った、「それで、誰か殺されたのか」
「うまく逃げた」と他の声が云った、「お侍だったがうまく逃げた、逃げたほうが勝ちよ、相手はおめえ鬼のような凄い浪人者で、十人や二十人は殺したような面構えをしていた、嘘じゃねえ、往来の衆もみんなふるえあがって、てんでんばらばら逃げだしたもんだ」
「ふーん」と初めの声が云った、「おら、これから御城下までゆくつもりだが、その浪人者はまだいるだかえ」
「いまごろは笠松の土橋あたりかな」と片方の声が云った、「御城下へゆくのは一本道だ、危ねえからよしたほうがいいぞ」
 そういうことならいそぐ用でもないから、今日はここから帰ることにしよう、と初めの男の声が云い、その二人の話し声は遠のいていった。街道でゆき会った百姓たちであろう、あたりが静かだから、ここまで聞えてきたのだろうが、十人や二十人は殺したような面構え、という言葉は、六兵衛の耳に突き刺さり、改めてぞっと身ぶるいにおそわれた。
「だが、待てよ」しばらくして彼はそう呟き、高い空の一点に眼を凝らした、「だが待て、ちょっと待て、なにかありそうだぞ、よく考えてみよう」
 彼の顔は仮面のようにこわばり、呼吸が静かに深くなった。彼は荒神さまを押しのけた。隙をねらうという策はだめだ、現にそれは失敗し、なさけないほどみじめなざまをさらしてしまった。とすれば、この失敗を逆に利用したらどうか、「人殺し」という叫びを聞いて、土地の者が恐れ惑った。いま街道で話していた百姓も、城下まで用があって来たのに、そういう浪人者がいると聞き、用事を捨てて引返した。話を聞いただけで引返した。聞いただけで、ただ話を聞いただけで。
「そうか」と呟いて彼は上半身を起こした、「おれは臆病者だ、世間には肝の坐った名人上手よりも、おれやあの百姓たちのような、肝の小さい臆病な人間のほうが多いだろう、とすれば」
 そうだとすれば、と呟いて彼は微笑し、「とすれば」という言葉をこれでもう三度も口にした、と自分を非難し、口をあいて、声を出さずに笑った。
「その手だ」と彼は笑いやんで呟いた、「おれの臆病者はかくれもない事実だからな、いまさら人の評判を気にする必要はない、よし、この手でゆこう」
 双子六兵衛は立ちあがり、旅嚢を肩に、笠をかぶって松林から出ていった。仁藤昂軒はもうそこを通り過ぎていたが、大きな編笠と、際立って逞しいうしろ姿は、六兵衛の眼にすぐそれと判別することができた。六兵衛はいそぎ足に追ってゆき、二十間ばかり手前で足をゆるめた。
「よしよし、そんなふうに威張っていろ」と六兵衛は昂軒のうしろ姿に向かって呟いた、「威張っているのもいまのうちだからな、――いまにみていろよ」
 稲田にはさまれた道の右側に、小高くまるい塚のようなものがあり、そこだけひと固まりに松林が陽蔭ひかげをつくってい、その陽蔭に小さな掛け茶屋があった。あの茶店へはいるなと、六兵衛は思った。昂軒はその茶店へはいり、笠をぬぎ旅嚢を置いて腰掛けに掛けて汗をぬぐった。六兵衛はそれを見さだめてから、十間ほどこっちで立停り、大きな声で叫びたてた。
「ひとごろし」と彼は叫んだ、「その男はひとごろしだぞ、越前福井で人を斬り殺して逃げて来たんだ、いつまた人を殺すかわからない、危ないぞ」
 六兵衛は三度も続けて同じことを叫んだ。小説としてはここが厄介なことになる。その叫びを聞いて昂軒が立ちあがるのと同時に、茶店の裏から腰の曲った老婆と、四十がらみの女房がとびだし、小高くまるい塚のような、円丘のほうへ逃げてゆくのが見えた。
「黙れ」と昂軒が喚き返した、「おれにはおれの意趣があって加納を斬った、おれは逃げも隠れもしない、北国街道をとって江戸へゆくと云い残した、討手のかかるのは承知のうえだ、きさまが討手ならかかって来い、勝負だ」
 六兵衛はあとじさりながらどなった、「そううまくはいかない、勝負だなんて、斬りあいをすればそっちが勝つにきまっているさ、私は私のやりかたでやる、この、ひとごろし」
卑怯者ひきょうもの」と昂軒は喚き返した、「それでもきさまは討手か、勝負をしろ」
 昂軒は大股おおまたにこっちへあるいて来、六兵衛はすばやくうしろへ逃げた。逃げながら「ひとごろし」と叫んだ。その男は人殺しである、側へ寄るな、いつまた人を殺すかもしれない、危ないぞと、繰返し叫びたてた。道には往来の旅人や、ところの者らしい男女がちらほら見えたが、六兵衛の叫びを聞き、昂軒のぬきんでた逞しい容姿を見ると、北から来た者は北へ、南から来た者は南へと、みな恐ろしそうに逃げ戻っていった。昂軒は「勝負をしろ」といって近づいて来、六兵衛は「ひとごろし」と叫びながらあとじさりをした。
「卑怯者」と昂軒は顔を赤くしながら喚きかけた、「きさまそれでも侍か、きさまそれでも福井藩の討手か」
「私はこれでも侍だ」と逃げ腰のまま六兵衛が云った、「上意討の証書を持って、おまえを追って来た討手だ、だが卑怯者ではない、家中では臆病者といわれている、私は自分でもそうだと思っているんだ、卑怯と臆病とはまるで違う、おれは討手を買って出たし、その役目は必ずはたす覚悟でいるんだ」
「ではどうして勝負をしない、おれが勝負をしようというのになぜ逃げるんだ」
「勝負はするさ」と六兵衛は答えた、「――但し私のやりかたでだ」
 昂軒はじっと六兵衛の顔を見まもった。なにが彼のやりかたか、ということをみきわめようとしているらしい。六兵衛は歯をみせて笑った。それは、人がいきなり恐怖におそわれた場合、叫びだすまえに笑うような、笑いではない笑いかたであった。現に、彼は笑うどころではなく、全身でふるえ、額やわきの下にひや汗をかいていた。
「必ず役目をはたすって、おかしなやつだ」と昂軒は云った、「いいだろう、おれは断じて逃げも隠れもしない、ゆだんをみすまして寝首をかくつもりかもしれないが、そんなことでこのおれを討てると思ったら、大間違いだぞ」
「さあ、どうかな」と云って六兵衛はまた歯をみせた、「それはわからないぞ、仁藤昂軒、それだけはわからないぞ」
 昂軒は眉をしかめ、片手を振って茶店のほうへ戻った。双子六兵衛はあとからついてゆき、十間ほど手前で立停り、昂軒のようすを見まもった。昂軒はどなっていた、茶を持ってこいというのである。けれども、さっきの腰の曲った老婆と、その娘らしい四十がらみの女房とは、茶店の裏から逃げだしていった。昂軒がいくらどなっても、彼女たちが戻ってくる公算はない、つづめていえば、仁藤昂軒は一杯の渋茶もすすれないのである。
「それみろ」とこっちで六兵衛が呟いた、「いくら喚き叫んでも人は来やあしない、おまえは人殺しだからな、これからずっとそれがついてまわるんだ、くたびれるぞ」
 茶店の女たちはついに戻らず、昂軒はやむなく、一杯の渋茶も啜らずにその店を出ていった。その夕方、仁藤昂軒は高岡というところで宿をとった。ここも天領で、松平淡路守あわじのかみ十万石の所領に属する。六兵衛はあとをつけてゆき、昂軒が宿へはいるなり、表の道から「ひとごろし」と叫んだ。
「その侍は人殺しだぞ」と彼は昂軒を指さしながら声いっぱいに叫びたてた、「気にいらないことがあるとすぐに人を殺す、剣術と槍の名人だから誰にも止めることはできない、そいつは人殺しだ、危ないぞ」
 洗足すすぎたらいを持って来た小女が、盥をひっくり返して逃げ、店にいた番頭ひとりを残して、他の男や女の雇人たちはみな、おそるおそる奥のほうへ姿を消した。
「人殺しだ」と六兵衛はこっちから、昂軒を指さしながら叫んだ、「その侍は人殺しだ、危ないから近よるな、危ないぞ」
 高岡はさして大きくはないが繁華な町であり、夕刻のことで往来する男女も多かった。それらが六兵衛の声を聞くなり、みんな自分たちの来たほうへあと戻りをするか、いそぎ足で恐ろしそうに通り過ぎていった。
「卑怯者」と云って昂軒が表へとびだして来た、「そんなきたない手でおれを困らせようというのか、女の腐ったような卑怯みれんな手を使って、きさまそれで恥ずかしくはないのか」
「ちっとも」と云って六兵衛はゆらりと片手を振った、「あなたには剣術と槍という武器がある、私には武芸の才能はない、だから私は私なりにやるよりしようがないでしょう、あなたの武芸の強さだけが、この世の中で幅をきかす、どこでも威張ってとおれる、と思ったら、それこそ、あなたの云ったように大間違いですよ、わかるでしょう」
「ちょっと待て」と昂軒が云った、「するときさま、これからもずっとこんなことをするつもりか」
 六兵衛はうなずいた。いかにもさよう、というふうに双子六兵衛は大きく頷いた。
「そんなことは続かないぞ」と昂軒は同情するように云った、「町人や百姓どもなら、きさまの言葉に怯えあがるかもしれない、だが侍は違う、侍には侍の道徳がある、きさまの卑怯なやりかたに、加勢する者ばかりはいないぞ」
「ためしてみよう」と六兵衛は逃げ腰になったままで答えた、「いざとなれば上意討の証書を出してみせるからね、それに、侍にだってそう武芸の達人ばかりはいないでしょう、たいていは私のように臆病な、殺傷沙汰の嫌いな者が多いと思う、私はそういう人たちを味方にするつもりなんだ」
 昂軒は顔を赤黒く怒張させ、拳をあげて、「卑怯者、臆病者、侍の風上にもおけないみれん者」などとののしった。あんまり語彙ごいは多くないとみえ、同じ言葉を繰返しどなり続けた。六兵衛は用心ぶかくあとじさりしながら、人殺し、おまえは人殺しだ、みなさん、この男は人殺しですよ、と喚きたてた。道には往来の者が多く、六兵衛の声を聞くなり、それぞれが元来たほうへ駆け戻っていった。かれらの足許から舞いあがる土埃で、道の上下は暫く灰色のもやおおわれたようであった。
「卑怯者」と昂軒が刀の柄に手をかけてどなった、「きさまが討手なら勝負をしろ」
「勝負といっても、こっちに勝ちみのないことはわかっている」六兵衛はまたあとじさった、「私は私の流儀でやるつもりだ」
「きさまそれでも武士か」
「どう思おうとそっちの勝手だ、私は私のやりかたで役目をはたすよ」
「みさげはてたやつだ」昂軒は道の上へ唾を吐いた、「福井にはきさまのような卑怯者しかいないとみえるな」
「人殺しよりは増しだろう、とにかく、ゆだんは禁物だということを覚えておくんだね」
 昂軒は追いかけようとしたが、それより先に六兵衛が逃げだした。その動作の敏速なことと、逃げ足の速いことはおどろくばかりであり、昂軒はすぐに追いかけるのをあきらめた。
「そうだ、思いだした」と昂軒は呟いた、「あいつはたしか双子なんとかいう、福井家中に隠れもない臆病者だ、あんな男を討手によこすなんて、福井の人間どもはどういうつもりだろう」
 どういうつもりもない、討手を願い出たのは彼だけだったということを、読者はすでに御存じの筈である。そしてこれは、深いたくらみや計画されたことではなく、あの丘の松林の中で聞いた二人の百姓の話から思いついた方法であり、双子六兵衛にとってそのほかに手段はないのであった。――昂軒が掛け茶屋へはいれば、六兵衛は道の上から「人ごろし」と叫ぶ。その男は福井で人を殺して来た、いつまた人を殺すかもしれない、その男の側へは近よらないほうがいい、「その男はひとごろしだ」用心をしろと喚きたてる。まず茶店にいた客たちが銭を置いて逃げだし、次に茶店の者たちが逃げだし、昂軒は一杯の渋茶にもありつけず、六兵衛に悪口雑言をあびせながら、茶店を出てゆくという結果になるのであった。
 宿屋でも同様で、昂軒が店へはいろうとすると同じことを叫ぶ。たいてい店の者に断わられるが、強引に泊り込むときもある、そうすると彼もその宿に泊って、明くる朝のことを頼む、あの侍が出立するときは起こしてくれと頼み、一と晩じゅうこちらからどなりたてる。
「十番に泊っている侍は人殺しですよ」と或る夜は叫び続ける、「あの侍は人殺しです、いつなにをしでかすかわかりません、みなさん気をつけて下さい、あの侍に近よると危ないですよ」
 昂軒がとびだして来ると、六兵衛はすばやく逃げ、逃げながらも叫び続ける。そらあのとおり、あいつは人殺しです、見境もなく人を殺す男です、みなさん用心をして下さい。すると道をゆく人たちは逃げ、店屋は慌てて大戸を閉めるのであった。昂軒も手をつかねていたわけではなく、物蔭ややぶや雑木林に隠れて、六兵衛の不意を襲おうと幾たびかこころみた。けれど一度も成功しなかった。臆病者の六兵衛はあくまで慎重であり用心ぶかく、殆んどつかまえたと思ったときでも、昂軒の手を巧みにすりぬけて逃げた。まるでしろうとうなぎを掴みでもするように、するすると昂軒の手をすりぬけ、風のようにすばやく、逃げてしまうのである。ある宿屋では、逃げだした老人がびっこをひきながら、自分の右足の膝には軟骨が出ていて、医者にかかってもよく治らない、だからよく走れないのだが、どうか斬らないでもらいたいと、泣き泣き哀訴しながら、よたよたとよろめいていた、という悲しいけしきもあった。そして高岡というところへ来たとき、意外なことが起こった。高岡は富山松平家十万石の所領であり、城下町の富山よりもおちついた、静かな風格のある町だった。昂軒は本通りの松葉屋市兵衛という宿に泊り、六兵衛もよく見定めてから同じ宿で草鞋わらじをぬぎ、特に帳場の脇の行燈あんどん部屋に入れてもらった。それから例によって、夕食を運んで来た女中に昂軒のことをきくと、二階の「梅」にいること、いま風呂からあがって酒を飲んでいること、向うでも六兵衛を気にしていること、などを詳しく話した。そこで彼は女中に心付をはずみ、その侍は大悪人であり、自分は討手として追っている者だ。もしかすると隙をみて逃げだすかもしれないから、よく見張っていてくれと頼んだ。女中は承知をし、どんなことがあってもみのがしはしない、とりきんで頷いた。
 夕食のあと六兵衛はざっと湯を浴び、汗臭い着物に埃だらけの袴や脚絆きゃはんをつけて、半刻はんときばかり横になって眠った。ながくは寝ていられない、あいつを休ませるばかりだからな、おれの勝ちみはあいつをへとへとにさせることだけなんだぞ。眠りながらそんなことを思っていると、誰かに呼び起こされた。六兵衛は吃驚してとび起き、どうした、なにかあったのかときいた。さっきの女中がなにか知らせに来たもの、と直感したのであるが、そうではなくて、十七八とみえる美しい娘が、彼を見おろして立っているのであった。――娘はほっそりした小柄な躯で、おもながな顔に眼鼻だちのはっきりした、六兵衛にとって生れて初めて見るような美しい姿をしていた。けれども娘の表情は、怒ったときの妹のかねのそれとよく似てい、彼には美人だなという感想よりも、この娘は怒っているなという感じのほうが先にきた。
「まああきれた」娘は行燈の火を明るくし、六兵衛のようすを吟味するように見て云った、「――あなたはいつもそんな恰好で寝るんですか」
「そんなことはない」六兵衛は首を振った、「にんげん誰だって、いつもこんな恰好で寝るわけにはいかないでしょう、それとも、あなたはできますか」
「あたしは女中のさくらから事情を聞きました」娘は彼の言葉など聞きながして云った、「あなたはうちの二階にいるお客を、闇討ちにしようとしているそうですね」
 六兵衛はちょっと考えてから反問した、「それはどういうことですか」
「きいているのはあたしのほうです」
「私は闇討ちをしようなんて、考えたこともありませんよ」
「その恰好で」と娘は六兵衛の着ているものを指さした、「女中に金を握らせて二階にいる客を見張らせるなんて、それが正しいお侍のなさることでしょうか」
「これには仔細があるんです」
 娘は坐って、膝へきちんと両手を置いた、「うかがいましょう」と娘は云った、「あたしはおようといって十七歳ですが、両親に亡くなられたあと三年も、この宿の女あるじとしてやってきました、そのあいだにいろいろなことも経験し、男女のお客も見てきています、話すことがしんじつか、でたらめなこしらえごとかどうかぐらい、見分け聞き分けるちからはもっているんですから」
 妹のかねと同じだな、六兵衛はそう思い、額の汗を手の甲でぬぐった。すると妹の「兄さんが臆病者だから、自分はこのとしまで縁談ひとつなかったのだ」という思い詰めた言葉と、しんけんな顔つきが思いうかび、その回想にしかけられるかのように、六兵衛は大きく、あぐらをかいて坐り直した。
「よろしい」と彼は云った、「これから私の話すことが、あなたにとってどう判断されるかわからない、だが私はそんなことをぬきにして、正直に自分の立場を話す」
 そして彼は語った。たぶんこんな十七歳の小娘などには理解してもらえないだろう、と思いながら、これまでのゆくたてを詳しく語った。彼にとっては思いがけないことだが、娘は話をよく理解してくれた。彼女は涙ぐみ、呼びに来た女中や番頭を追い返して熱心に聞き、六兵衛が討手を願い出たところでは、眼がしらを押えて涙をこぼしさえした。
「さあ云って下さい」話し終ってから六兵衛が娘を見た、「これで話は全部です、あなたはこの話を信じますか信じませんか」
「あたしが悪うございました」と云って娘は咽びあげた、「堪忍して下さい、疑ぐったりして申訳ありませんけれど、その代り、あたしもお手伝いをさせていただきますわ」
 六兵衛は不審そうに娘の顔を見、娘のおようは彼のほうへ、膝ですり寄った。


 おようは番頭に、あとのことを一切任せ、旅支度で六兵衛といっしょに高岡を立った。土地では古い宿とみえ、旅切手もすぐ手にはいったし、旅費の金もたっぷり用意したらしい。
 そんなことよりも「お手伝い」というのがさらに現実的であり、大きな効果をあげた。これまでは六兵衛ひとりで追い詰めて来たのだが、高岡からはおようという交代者ができたのだ。
 すなわち、六兵衛が休んだり眠ったりしているとき、おようが代って「ひとごろし」と叫びたてるのである。
「その侍は人殺しです」と彼女は昂軒を指さして叫ぶ、「越前の福井で人を殺して逃げたんです、いつまた暴れだして人を殺すかもしれません、みなさん用心して下さい」
 そうして充分に休息し、眠りたいだけ眠った六兵衛が、おように代るという仕組であった。これは昂軒にとって大打撃であった。
 彼は掛け茶屋にも寄れず、宿屋でゆっくり眠ることもできなかった。
「ひとごろし」という叫びを聞くと、茶店の者は逃げてしまうし、宿屋でも相手にしない。客が満員だからとか、食事の給仕をする者もろくにない。
 泊り客たちが逃げだすのはいうまでもないし、宿の者や雇人たちも近よろうとしないのであった。こちらの二人はゆうゆうとしていた。
「あたし本当のことを云うわ」おようは娘らしいしなをつくりながら云った、「あたしの本当の名はおとらっていうんです、兄が一人、姉が一人、小さいときに死んだものですから、この子は丈夫に育つようにって付けたんですって」
「よくあるはなしですよ」
「だっていやだわ、おとらだなんて」おようは鼻柱にしわをよせた、「ですからあたし、自分で名を選びましたの、初めに付けたのがおゆみ、それも気にいらなくって次ははな、それからせき、去年まではさよっていってましたの」
「そしておようさんですか」
「昔のお友達に同じ名の、しとやかで温和おとなしい人がいたんです」
「しとやかで温和しいとね」
「いやだわ」おようは赤くなった、「そういうお友達がいたって云っただけですのよ」
 その他もろもろのことで、二人の話はしだいにやわらかく、親密になっていったが、六兵衛がそんなことで役目を忘れた、などとは思わないでいただきたい。現に富山城下へ着いたときのことだが、昂軒が宿屋へはいろうとするのを見て、当番だった六兵衛が、例のとおり喚きだし、宿の前はこわいもの見たさの群集が、遠巻きに集まって来た。すると、町方与力とみえる中年の侍が、同心らしい二人の男をつれてあらわれ、六兵衛の前に立ちはだかった。
「ここは松平淡路守さま十万石の御城下である」とその中年の侍が云った、「かような時刻に町なかで、ひとごろしなどと叫びたて、往来の者をおどし騒ぎを起こすとは不届きなやつだ、役所まで同行しろ」
 越前の言葉も訛りがひどい。
 だが富山の言葉はもっと訛りがひどいので、正確なところは解釈しにくかったけれども、大体な意味だけは推察することができた。
 そこで六兵衛は事情のあらましを語り、上意討趣意書を出して、その中年の侍に読ませた。
「これはこれは」とその中年の侍は読み終って封へ入れてから、三拝して趣意書を彼に返し、これはまことに御無礼と、急に態度を改めた、「かような仔細があるとは少しも知らず、失礼をつかまつった」
 その中年の侍は古風な育ちとみえ、道にころがっている石ころのように古くさい、きまり文句でながながとごとを並べ、自分の思い違いを悔やんだ。六兵衛にはその半分もわからず、この男は正真正銘の田舎侍だな、などと思いながら聞いていた。
「かように仔細がわかった以上」と中年の侍は続けた、「わが藩としても拱手きょうしゅ傍観はできません、すぐさま奉行所の人数を繰出して、この宿の見張りをさせましょう、あなたはゆっくり休息して下さい、その武芸者になにかあったら即刻お知らせをします、宿はこの向うの田川がいいでしょう」
 宿賃の心配は無用、ほかになにか希望があったら、それも聞いておきましょうと、念のいった親切ぶりをみせた。
「あなたにうかがいたいことがあるんだけれど」と、田川屋へ泊ってからおようが云った、「こんなことうかがうのは失礼かしら」
 宿帳にはこれまでどおり兄妹と書いたので、二人は八じょうの座敷に夜具を並べて寝ていた。
「聞いてみなければわからないな」と六兵衛は答えた、「――もっとも、なにをきかれるかはおよそ見当がつくけれどね」
「あらほんと」おようは枕の上で頭をこっちに向け、つぶらな眼をみはった、「そんならなにをきくと思って」
「うう」と彼はあいまいな声をだし、それから溜息をついて云った、「たぶん私には、上意討ができないだろう、ということじゃないかな」
「そのことなら心配はしていません」
 こんどは六兵衛が振り向いた。
「ええそうよ」とおようは彼に微笑してみせた、女が心から信頼する男にだけしか見せないような、匂やかな微笑であった、「昂軒っていうんですか、あの人はもう疲れきって、身も心もくたくたになっています、いまならあたしにだってやっつけられますわ」
「そうはいかない、武芸の名人ともなれば、いざという場合になると吃驚するように変るものだ、吃驚するようにね」と云って六兵衛は深い太息といきをついた、「――あいつを仕止めるには、まだ相当に日数がかかるよ」
「あたしがうかがいたいのはそんなことではないんです」とおようが云った、「思いきって云いますけれど、はしたない女だと思わないで下さい」
 彼は「そんなことは思わない」と答えた。肝心の話にはいるまでの男女の問答は、およそ紋切り型であるし、退屈至極なものときまっているようだ。そこでその部分をはしょって、本題にはいることにしよう。
「あなたにはもう奥さまがいらっしゃるんですか」とおようがきいた。
「私にですか」と六兵衛はおどろいたように問い返した、「私が隠れもない臆病者だということは、初めての晩に話した筈です、そのため妹は二十一にもなるのに縁談もない、そんな人間のところへ来るような嫁がありますか」
「では結婚なすったことは一度もないんですのね」
 六兵衛は黙って頷いた。
「でも」とおようは疑わしげにきいた、「お好きな方の二人や三人はいらっしゃるんでしょう」
「さてね」彼は恥ずかしそうに天床てんじょうを見た、「家中随一の臆病者と、小さいじぶんから云われどおしでしたから、美しい娘を見ても、いそいで眼をそらしたり逃げだしたり、――私にはこれまで、好きな娘なんか一人もいませんでしたよ」
「ずいぶんばかな御家中ね、なにも武芸に強いばかりがお侍の資格ではないじゃありませんか」
「世間ではからかう人間が必要なんですよ」と六兵衛はまた溜息をついた、「誰にもしんからのわるぎはないんだと思う、よそのことは知らないが、どこでも一人ぐらいは臆病者と呼び、そう呼ばれても怒らないような人間が必要なんだと思います」
「それであんた」思わずはしたない呼びかけをして、おようは赤くなった、「どうしてもあの人を討つ気なんですか」
「さもなければ、妹は一生嫁にゆけないんですからね」
「あなたのことはどうなんですか」
「私のなにがです」
「お嫁さんのことよ」とおようがさぐるようにきいた、「上意討が首尾よくいけば、あなたにもお嫁さんに来る人がたくさんあるんでしょ」
 六兵衛はちょっとのま考え、それから枕の上でそっと首を振った、「そうは思いませんね」と彼は陰気な口ぶりで云った、「――臆病者というのはこの私です、妹は嫁にゆけるかもしれないが、臆病者と呼ばれてきたのはこの私です、一度ぐらい手柄を立てたところで、生来の臆病者の名が消えるわけじゃありませんよ」
 おようは考えこんだ。この宿のどこかで、にぎやかにはやしたりうたったりするのが聞え、床下で鳴く虫の声が聞えた。
「ねえ」と暫くしておようささやいた、「もうお眠りになって」
「いや眼はさめてます」六兵衛はぐあい悪そうに答えた、「じつは女の人と同じ部屋で寝るのは初めてのことだし、私は寝相が悪いので、それが心配で眼がえてしまったらしい、けれどもう少し辛抱すれば眠れるでしょう」
「ねええ」と掛け夜具で口を隠しながら、おようが囁き声で云った、「あたしをお国へつれていって下さらないかしら」
「だって」と彼はどもった、「だってあなたは、松葉屋の娘あるじという、大切な責任を背負っているんでしょう」
「あれは番頭の喜七と、女中がしらのおこうに任せて来ました、あの二人にはもう子供もあるんです」
「私にはよくわからないが」
「詳しいことはあとで話しますわ」と云っておようびた微笑をうかべた、「いまはあたしをお国へつれていって下さるかどうかがうかがいたいんです」
 六兵衛は唾をのんだ、「いいですとも、あなたがそう望むなら、もちろんいいですよ」
「証拠をみせて下さる」
「どうすればいいんですか」
 あなたはじっとしていればいいの、と云っておようは起きあがり、行燈の火を吹き消した。


 昂軒、仁藤五郎太夫は精根が尽きはてた。宿へ着けば「ひとごろし」という叫び声で、客は出ていってしまうし、宿の者も逃げだしてしまう。
 富山松平藩から通報でもあったらしく、到るところに番士が見張っているし、街道の掛け茶屋さえ例外ではなく、空腹に耐えかねて店の品をつまいすれば、代価を置いてゆくのに「泥棒」とか「食い逃げ」などと喚きたてられた。しかも、初めは討手が一人だったのに、いまは娘が加わって二人になった。
 片方がのびのび寝ているとき、片方が起きていて、「ひとごろし」と叫び続ける。その声を聞くと、そこまで食膳しょくぜんを運んで来た宿の女中が、その食膳を持ったまま逃げてしまうのであった。
 越中富山から雄山峠を越えて、道は信濃へはいる。中には天竜川をくだって、東海道の見付へゆく者もあるが、たいていは中仙道を選ぶのが常識だったらしい。仁藤昂軒は後者の道を選んだのであるが、諏訪湖すわこへかかるまえに骨の髄からうんざりし、飽きはててしまった。――名の知れない高山が遠く左にも右にも見え、まわりはいちめんの稲田であった。
 その道傍みちばたのひとところに、松林で囲まれた三尺ばかり高い台地がある、昂軒はそこへあがってゆき、大きな編笠をぬぎ旅嚢を投げやって、大きな太息をついた。
 ――街道のかなたには、旅装の男女が二人、いうまでもないだろうが、双子六兵衛とおようのあるいて来る姿が見えた。
「もうたくさんだ」と昂軒は呟いた、「もうこの辺が決着をつけるときだ」
 彼は頬がこけ、不眠と神経緊張のために眼は充血し、唇は乾いて白くなっていた。
 それに反し、街道をあるいて来る二人はみずみずしいほど精気にあふれていた。どういうことがあったのか、筆者のわたくしにはわからない。六兵衛もそうだが、おようのほうは特にうきうきしたようすで、絶えず六兵衛にすばやいながしめをくれたり、なにか云っては、やさしくひじに触ったり、そっとやわらかく突いたりした。――かれらはまるで、本来の使命を忘れたかのようにその台地の前を通りすぎようとした。
 そこで昂軒は立ちあがり、おれはここにいるぞ、と呼びかけた。二人は仰天したようすで、娘のほうはすぐさま「ひとごろし」と叫びだした。
「やめろ、それはもうたくさんだ」と云いながら、昂軒は台地の端へ出て来た、「そこの双子なにがしとかいう男、きさまおれを上意討に来た男だと云ったな」
 六兵衛は黙って頷いた。
「おれは初めから逃げも隠れもしないといってある」と昂軒は続けた、「きさまも侍なら、どうして勝負をしないんだ、いまここでもいいんだぞ、こんな茶番芝居みたようなことにはうんざりした、勝負をしろ」
「それはだめだ」六兵衛は唇をめてから答えた、「私とおまえさんでは勝負にならない、私のほうでも初めから云ってある筈だ、私は私のやりかたで上意討をするほかはないんだ」
「きさまそれでも武士か」
「それはまえにも聞いたよ」
「しかも恥ずかしくはないんだな」
 六兵衛は頭を左右に振り、「ちっとも」と云った、「私はもともと臆病者と定評のある人間なんだ、いまさらなんと云われようと恥ずかしがることはこれっぽっちもないさ」
「どこまでけて来る気だ」
「それはおまえさんしだいさ」と云って六兵衛は歯を見せた、「――おまえさんがへたばるまではどこへでもついてゆくよ、路銀は余るほど貰ってあるからね」
「きさまはだにのようなやつだ、人間じゃあないぞ」
「福井へ帰ったらそう云いましょう」と六兵衛は逃げ腰で答えた、「きっとみんなよろこぶにちがいない」
「勝負はしないのか」
「そちらしだいです、念には及ばないでしょうがね」
「おれはいやだ、飽きはててうんざりして、生きているのさえいやになった」と云って昂軒はそこへ坐った、「腹はへりっ放しだし眠れないし、寝てもさめても人殺し人殺し、しかも尋常に勝負をしようとはしない、こんな茶番狂言には飽き飽きした、おれはここで腹を切る」
 昂軒は着物のえりを左右にひろげ、脇差を抜いた。
「ちょっと」六兵衛は片手を差し出した、「それはちょっと待って下さい」
「なんだと」
「そうそっちのお手盛りで片づけられては困ります」
「お手盛りとはなんだ」
「おまえさんの勝手に事を片づけられては困るということです」と六兵衛が云った、「ここに私という討手がいるんですからな」
「だが、刀を抜いて勝負する気はない、そうだろう」
 それが私の罪ですか、とでも云うふうに六兵衛は肩をすくめた。
「おれは誤った」昂軒は頭を垂れ、しんそこ後悔した人間のような調子で、しみじみと云った、「おれも誤ったし、世間の考えかたも誤っている、おれの故郷は常陸の在で、何代もまえから和昌寺という寺の住職をしてきた、だがおれはそんな田舎寺で一生を終る気にはなれなかった」
 都へ出て人にも知られ、あっぱれ古今にまれなる人物と、世間からもてはやされるような人間になりたかった。常陸はもともと武芸のさかんな国だし、名人上手といわれる武芸者を多く出している。
 名を挙げるには武芸に限ると考え、自分もそのみちで天下に名を売ろうと思い、数えきれないほど、達人名人といわれる人の教授を受けた。
「だがそれらはみんな間違っていた」と昂軒は云い続けた、「武芸というものは負けない修業だ、強い相手に勝ちぬくことだ、強く、強く、どんな相手をも打ち負かすための修業であり、おれはそれをまなび殆んどその技を身につけた、越前侯にみいだされたのも、そのおれの武芸の非凡さを買われたからだ、けれどもこんどの事でおれは知った、強い者に勝つのが武芸者ではない、ということを」
「まあまあ」と六兵衛が云った、「そんなふうにいきなり思い詰めないで下さい」
「いきなりだと」昂軒は忿然ふんぜんといきり立ったが、すぐにまた頭を垂れた、そして垂れたままでその頭を左右にゆっくり振った、「――いや、これはいきなりとか、この場の思いつきとかいうもんじゃない、そんな軽薄なものではない、おれはこんど初めて知ったのだが、強いということには限度があるし、強さというものにはそれを打ち砕く法が必ずある、おれには限らない、古来から兵法者、武芸者はみな強くなること、強い相手に打ち勝つことを目標にまなび、それが最高の修業だと信じている、しかしそれは間違いだ」そこでまた昂軒はゆらりと頭を左右にゆすった、「くどいようだが、それが誤りであり間違いだということを、こんど初めて知った」
「あなたはそれを、もう幾たびも云い続けていますよ」
「何百遍でも云い続けたいくらいだ」昂軒は抜いた脇差のぎらぎらする刀身をみつめながら、あたかも自分を叱るように云った、「――強い者には勝つ法がある、名人上手といわれる武芸者はみなそうだった、みやもとむさしなどという人物もそんなふうだったらしい、だが違う、強い者に勝つ法は必ずある、そういうくふうは幾らでもあるが、それは武芸の一面だけであって全部ではない、――それだけでは弱い者、臆病者に勝つことはできないんだ」
 六兵衛は恥ずかしそうに、横眼でちらっとおようを見た。
「どんなに剣道の名人でも」と昂軒は続けて云った、「おまえのようなやりかたにかなう法、それを打ち砕くすべはないだろう、おれは諦めた、もうたくさんだ、おれはここで腹を切る、だからきさまはおれの首を持って越前へ帰れ」
「それは」と六兵衛がきいた、「それは、本気ですか」
 昂軒は抜いた脇差へ、ふところ紙を出して巻きつけた。六兵衛は慌ててそっちへゆき、台地の下のところで立停った。
「ちょっと待って下さい、ちょっと」と六兵衛は云った、「あなたは本当に、そこで自害なさるつもりですか」
「そうだ」と昂軒が答えて云った、「――それとも、おまえがおれと勝負をするかだ」
 六兵衛は首を振り、手を振った。
「そうだろう」昂軒は頷いた、「そうだとすれば、おれはもう割腹するほかに手はない、おまえたちが交代でどこまでもついて来て、ひまもなく人殺し人殺しと叫ばれ、めしもろくさま食えないような旅を続けるより、思いきって自害するほうがよっぽど安楽だからな」
 ちょっと待って下さい、と云って六兵衛はおようを振り返り、それからまた、「ちょっと待って下さい」と昂軒に云い、あごへ手をやって首をひねり、またくびのうしろをいたりした。
「では、こうしましょう」と六兵衛は商談をもちかけでもするような口ぶりで云った、「――この気候では、越前まで首を持っていっても腐ってしまう、とすれば、首を持っていってもしようがないし、だからといってなんにも持って帰らないわけにもいかない、そこで相談なんだが」
「生きたまま連れ帰ろうというのか」
 六兵衛は首を振った、「そうじゃない、怒られると困るんだが、おまえさんのもとどりを切ってもらいたいんだ」
もとどりとは」と云って、昂軒は自分の頭を押えた、「――これのことか」
「そのとおり」と六兵衛は頷いた、「髻を切られるということは、侍にとってもっとも大きな屈辱だとされている、少なくとも、わが藩では古い昔からそう云われてきたし、私もそう云い聞かされてきたものだ」
「だからどうしろというんだ」
「済まないが」と六兵衛が云った、「その髻を切ってくれ、それを首の代りに持って帰る」
「髻が首の代りになるのか」
「なま首は腐るからな」と六兵衛が云った、「それに私は、人を殺したり自害するのを見たりするのは、好かないんだ」

「偏耳録」をまたここで引用するが、双子六兵衛は上意討を首尾よくはたし、おまけに嫁までれて来たし、その高い評判によって、彼の妹のかねじょも、中野中老の息子大八郎と、めでたく婚姻のはこびになった。――とある。筆者であるわたくしとしては、これ以上もはやなにも付け加えることはないと思う。





底本:「山本周五郎全集第十六巻 さぶ・おごそかな渇き」新潮社
   1981(昭和56)年12月25日発行
初出:「別冊文藝春秋」
   1964(昭和39)年10月
※「ひとごろし」と「人殺し」と「人ごろし」、「茶屋」と「茶店」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年1月24日作成
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