日日平安

山本周五郎





 井坂十郎太は怒っていた。まだ忿懣ふんまんのおさまらない感情を抱いて歩いていたので、その男の姿も眼にはいらなかったし、呼ぶ声もすぐには聞えなかった。三度めに呼ばれて初めて気がつき、立停って振返った。
 道のすぐ脇の、平らな草原の中にその男は坐っていた。松林と竹藪たけやぶはさまれたせまい草原で、晩春の陽がいっぱいに当っている。浪人者とみえるその男は、坐って、着物のえりを大きくひろげて、蒼白あおじろせたひすばったような胸と腹を出していた。月代さかやきひげも伸び放題だし、あかじみた着物やはかまは継ぎはぎだらけで、ちょっと本当とは思えないくらい尾羽うち枯らした恰好である。年は二十八か九であろう、顔は蒼黒く、頬はげっそり落ち窪んでいるし、あごとがって骨が突き出ているようにみえた。
「呼んだのは貴方ですか」
「そうです」とその男はうなずいた、「――ちょっとお願いがあったものですから」
 十郎太はそっちへ戻った。相手の男は左の手で腹(そのむき出しになっている)をなでながら、右手に持っている抜身の脇差をひらひらさせた。もちろん、切腹をしようとしているのだということは明らかである、けれども十郎太は気がつかなかった。彼の頭はまだ怒りのためにいっぱいで、他人の事に関心をもつ余地などなかったのである。
「用はなんですか」
「えへん」とその男はまた脇差をひけらかし、それからちょっとびた眼で十郎太を見た、「まことに申しかねるが、懐紙をお持ちなら少々お分け下さるまいか」
 十郎太は黙ってふところから懐紙を出した。相手はそれを受取ると、礼を云いながら、すばやくその紙で抜身の七三のあたりを巻いた。十郎太はそれでもう用はないと思ったのだろう、そのまま道のほうへ去ろうとした。そこで男はあわてたようすで、うしろからまた呼びとめた。
「その、まことになんですが、その」
「まだなにか用ですか」
「はあ、じつはその」と男は云った、「――ごらんのとおり私は、切腹しようと思うのですが」
「そうですか」と十郎太が云った。
「そうなんです」と男が云った、「――それであれです、じつに恐縮なんですが」
介錯かいしゃくをしてくれとでもいうんですか」
「そうです、つまり」その男は頷いた、「――もし願えたら介錯をお頼みしたいんですが」
「いいでしょう」
 十郎太は戻って来た。その男は十郎太を見た。十郎太は刀をさやごと取り、下緒さげおをはずしてたすきにかけた。それから静かに刀を抜き、鞘を草の上に置いて、身構えをした。その男は明らかに狼狽ろうばいし、泣きそうな顔になった。
「貴方は本当に介錯するつもりなんですか」
「本当にとは」と十郎太がきいた、「――だってそう頼んだんでしょう」
「それは頼んだことは頼みました」と男が云った、「――けれども、だからといってそう貴方のように、そう安直になにされるというのは、ちょっと私のほうとしてどうかと思いますね」
「どうかとはどう思うんです」
「どうといって、その」と男は口ごもった、「――それは多少その、不人情だと思うんですが」
「ああそうですか」十郎太は頷いた、「――それなら私はごめんこうむってゆきましょう、私はいそぎの旅なんで、じつはそれどころではないんだ」
 そして刀に拭いをかけて、鞘を拾っておさめ、襷をはずして下緒に付けた。その男はそのようすを不安そうに眺めながら、もっと不安そうにきいた。
「すると貴方は、いってしまうわけですか」
 十郎太は黙って刀を腰に差した。
「私を置いてですか」と男は云った、「――切腹しようとしている私を置いて、その理由を聞こうともせずにいってしまうんですか」
「ではいったいどうしろというんです」
 十郎太は少し癇癪かんしゃくを起こしかけた。ここに至って男は度胸をきめたらしかった、彼はもう居直ったという表情で云った。
「貴方のお人柄をみこんでお願いします、私は空腹で死にそうなんです、すみませんが御所持の中から少し拝借させてくれませんか」
「金ですって」十郎太は眠りからさめたような眼で相手を見た、「――すると貴方は、そのために切腹しようとしているんですか」
「手っ取り早くいえば、そうなんです」
「それはどうも」十郎太は相手の姿を眺め、まだ納得がいかない顔つきだったが、ふところへ手を入れて紙入を捜した、「――私もそうたくさんは持っていないが、これから江戸まで帰るもんですからね、しかし」
 ふところには紙入はなかった。彼は首を傾けながら両のたもとを捜し、「ちょっと待って下さい」と云って、背負っていた旅嚢りょのうを解いてしらべ、小さな財布をみつけてまた首をひねった。彼がその財布をはたくと、中から小粒銀が一つと若干の文銭が出て来た。彼はいぶかしげに眉をしかめ、「はてな」とつぶやいた、「今朝あの宿で払いをするときに、――」こうつぶやきながら、うわ眼づかいにじっと、どこかをにらんだ。
「どうかされたんですか」
「ちょっと待って下さい」と十郎太は記憶をたどった、「――ちょっと考えてみるから」
 十郎太はよく考えた。そうしてやがて、紙入は伯父の家に忘れて来た、初めから持って来なかったということを思いだした。
「しまった、なんというばかなことを」
「わかったんですか」
「戻らなければならない」十郎太は掌にある銭を見ながら云った、「――戻るなんて業腹だが、これでは江戸までゆけやしない、これでは三日の道もゆけやしない」
「よかったですね、いま思いだして」と男が勇みたつように云った、「――もっと先までいってからだと大変でしょう、お屋敷はどちらですか」
 十郎太は城下町の名を告げた。
「ああそれなら、十里とちょっと戻ればいい」と男は云った、「――藍川で泊れば明日の午前ちゅうには戻れますよ、まったく世の中にはなにが仕合せになるかわからないようなことがあるものですな、ひとつ私もいっしょにゆきましょう」
「貴方が、いっしょにですか」
「乗りかかった船ですよ」と男は衿をかき合せ、脇差を鞘へおさめた、「――ふしぎな縁でこうしてお知りあいになって、貴方がそんな立場に立っているのを黙って見過すほど、私は不人情な人間じゃあありませんからね、それはやがてわかりますよ、ええ、しかしともかく」と男は立ちあがりながら云った、「ともかく向うの茶店でなにかべるとしましょう、まず食っての相談といいますからね」その男はすっかり陽気になっていた。


 その男は嘘は云わなかった。その男は「私は不人情な人間ではない」と云ったが、まもなくそれが事実だということを証明した。
 二人は茶店で腹をこしらえ、あと戻りして藍川の宿しゅく柊屋ひいらぎやという(十郎太が昨夜泊った)宿で草鞋わらじをぬいだ。二人はお互いに姓名を告げあい、風呂のあとで酒を飲んだ。その男の名は菅田平野すがたひらのというのであった。十郎太は二度きき直して、「すがたひらの」と口の中で云ってみたうえ、「名前も苗字みたようですね」と云った。菅田平野は北越の浪人で、十郎太より三つ年長の二十九歳であった。
 菅田平野は聞き上手で、しかも、座持ちがうまいといわれる種類の人に属していた。十郎太は勘定が気になるので、はじめのうちは酒の数に注意していたが、話が進むにつれて(その話の性質上)やがて気分が昂揚こうようし、自分から景気よく飲みだした。
「よくわかります、うん、私にはよくわかるな、それは」菅田平野はしんみり合槌あいづちを打つのであった、「――しかも陸田くがたさんはなんにもなさらない、超然としてかれらのするままにしているというわけですね」
「いや貴方にはわからない」十郎太は首を振った、「――元来が私は政治などというものに興味はないんです、しょせん政治と悪徳とは付いてまわるし、そうでない例はないようですからね、しかしそれにしても国許くにもとの状態はひどい、まるでもうめちゃくちゃなんだ」
「わかりますよ、私も御領内を通って来ましたからね」と菅田平野が云った、「――あんなに百姓や町人の窮迫している土地も珍しい、あれこそ苛斂誅求かれんちゅうきゅうというやつでしょうが、到るところ怨嗟えんさの声で充満しているという感じでしたからね」
「もっとも悪いのは、かれらがその声を無視することです、家中にだって批判の声が起こっている、若い人間のなかにはしんけんに思い詰めている者も少なくないんだ、しかしかれらはそういう声をまったく無視して、私利私欲のために平然と政治をみだっている」
「それでもなお陸田さんは、城代家老としてなにもなさろうとしないんですね」
「日日時事みな平安なり、そう云うだけなんだ」と十郎太は唇をゆがめた、「かれらの悪徳はおまえがすでに知り、おまえの仲間が知り、心ある者が知っている、もはや隠れることはできないし、腫物はれものはすでにうんでいる、まもなく自分からやぶれるだろう、伯父はこう云うだけさ、世の中は晴天ばかりということはないものだ、五風十雨は泰平の兆し、そうのぼせずにおちついておれとね」
「それもわかるが、私には貴方の怒る気持もわかるなあ」
「われわれは日日平安などと云ってはいられない、ものには限度ということがある」十郎太は眼をぎらぎらさせた、「――かれらがそんなにも無恥陋劣ろうれつで、その悪徳非道にとめどがないとすれば、これを抑える法は一つしかないでしょう、私はそう決心した、私の決心に賛成する者が九人、それぞれが持場を分担して、事を決行しようとしたのです」
「それが事前に露顕したわけですか」
「いや、かれらにではなく、伯父に勘づかれたんです、もっとも詳しいことは知らないでしょう、なにか不穏な事を計画しているという点だけ勘づいて、それで急に江戸へ帰れということになったんだと思う」十郎太は怒りと嘲笑ちょうしょうとでむかつくような顔をし、それから投げやりな調子で云った、「――そっちがそう出るなら結構、私はたって千鳥の婿になんかなりたかあないですからね、江戸へ帰ってみんなぶちまけて、もちろん、殿に直訴しますよ、そうしてこの世にはまだ正義というものがあるんだということを、かれらに思い知らせてやるつもりです」
 菅田平野は考え深そうに頷いた。
 風呂へはいったとき、菅田平野は(十郎太の剃刀かみそりを借りて)月代と髭をったから、いま彼の顔はさっぱりと清潔にみえる。もう酒もずいぶん飲んで、相当に酔っているはずなのだが、その顔は赤くならず、むしろ平静にえてゆくようであった。彼は十郎太の話をよく吟味するかのように、しきりと思いふけりながら鼻毛を抜いた。右手の拇指と食指の尖端せんたんで巧みに鼻毛を摘み、くいと引張って抜くのであるが、抜いたとたんに彼は大きなくしゃみをした。
「失礼しました」と菅田平野は云った、「――これがものを考えるときの私の癖でしてね、どうも失礼」それから抜いた鼻毛を眺めながら続けた、「これは私の杞憂きゆうかもしれませんが、まあたぶん杞憂だろうと思うんですが、そういうことだとすると貴方がこのまま江戸へ帰られるのは、私としてはどうかと思いますね」
「どうかとはどう思うんです」
「どうといって、その」と菅田平野は口ごもった、「――そんな状態だとすると、陸田さんが苦境に立つことになりはしませんか、貴方が江戸へ帰って殿に直訴して、もしそれが成功するとすれば、城代家老としての陸田さんの責任も追究されるでしょう、それよりも、私はそのまえに奸物かんぶつどもが策謀して、罪を陸田さんになすりつけるような、……むろんこれは杞憂だと思うが、奸物どもとしてはそのくらいの謀略はやりかねない、私はそのことを心配しますね」
「するとどうしろというんですか」
「私が云わなければならないでしょうか」
 菅田平野は十郎太の顔を見た。同時に、菅田平野は頭の中で考えていた。
 ――おれはこの機会をものにしてやるぞ。
 彼はゆき詰っていた。こんな放浪の苦しみはもうたくさんである、わずか一食の銭を得るために、切腹のまねをしなければならないところまで来てはどん詰りだ。ここはぜひともこの(単純そうな)男を城下へ伴れ戻して、ひと騒動おこして手柄をたてさせ、ついでにおれも仕官するという手だ。仮に仕官ができなくとも相当な礼金はくれるだろう、おれは絶対にこのつるは放さないぞ、と考えるのであった。
「というと、つまり」と十郎太が云った、「――私に計画を実行しろというのですか」
「及ばずながら助勢しますよ」
 十郎太はうなった。うなって、さかずきをぐっとあおって、そうかも知れないと思った。
「考えてみよう」と十郎太は云った、「――云われてみれば伯父の立場は危ない、日日平安などといって、足もとの崩れるのも知らずにいるんだから、それに、……千鳥だって考えてみればかわいそうだ」
「さっきも云われたようだが、その千鳥というのはどういう人ですか」
「伯父の一人娘ですよ」と十郎太は云った、「――私は婿養子になるはずで、三年まえにこっちへ呼ばれて来たんです」
「御城代の婿養子」
「つまらないことを云いました」と十郎太は首を振った、「――もう切り上げるとしましょうか」


 枕を並べて寝ると、菅田平野はたちまち眠りこんでしまった。喰べたいほど喰べ、飲みたいだけ飲み、温かい夜具に入ったのだからむりもない。横になるとすぐいびきをかいて熟睡した。十郎太はしばらく寝つけなかった。菅田の云うようには決心がつかないのである、いちど燃えあがった火を消されたばかりなので、その火がすぐには燃えつかない、というような感じであった。
「あの黒藤源太夫め」と彼はつぶやく、「――仲島弥五郎に前林久之進、奸物ども」
 そうして、かれら奸物どもの風貌を思いだしてみる。黒藤源太夫は五十二歳の次席家老、仲島弥五郎は四十五歳で留守役上席、前林久之進は五十歳で国許用人。これらが藩政を毒する中心人物で、なかんずく黒藤と仲島とがその首魁しゅかいであった。むろん十郎太はかれらを知っているし、その風貌もありありと眼にうかぶが、同時に「日日平安」などと云う、のんびりした伯父の顔が見え、自分を江戸へ追い払ったことなども頭にひっかかって、どうにも闘志がわいてこないのであった。
「とにかく戻ってからのことだ」と十郎太はつぶやいた、「――いやなら紙入だけ取って江戸へ帰ればいい、戻ってみたうえではらをきめよう」
 菅田平野はいい心持そうに眠っていた。
 明くる日の十時ころ、二人は城下町へ向って宿を立った。十郎太は江戸へ追放されたのも同様だから、夜にならなければ町へははいれない、藍川の宿から城下までは五里足らずで、早く宿を立つわけにゆかなかったのである。心配した勘定のほうは払えたけれども、あとにはわずかしか残らなかった。それで握飯をつくってもらい、宿を出るとすぐ裏道へ曲った。街道をいって、もし家中の者にでも会っては悪いからである。丘を越えたり畑の間をぬけたり、途中の山蔭の泉のわくところで握飯を喰べたりしながら、石鉢山まで来たが、まだ時間が余った。そこは山といっても高さ百五十尺ばかりで、城の東北に当り、城下町がすぐ前に眺められる。二人はそこで日の暮れるのを待ったうえ、夜の八時ころに町へおりていった。
 石鉢山のほうからはいると、武家屋敷の裏にゆき当る。陸田家は大手筋の塔ヶ辻という処にあり、その構えは三十間に四十間ばかりの広大なものであった。北面に正門。西に馬入れの門。三方に築地塀ついじべいを廻らし、南側のほりに沿った一方だけ黒く塗ったさくになっていた。柵の内側は杉の深い林で、その杉林が邸内の半ばを占めている。築地塀の外からもそれらのこずえが高く、くろぐろと夜空をぬいているのが見えた。十郎太は濠に接した築地塀の端までゆき、そこから柵のほうをのぞいた。濠は両岸を石で組んだ幅二間ばかりのもので、かなり豊かな水が音を立てて流れている。風のない暖かい夜で、さあさあというその水音が、杉林にひっそりと反響していた。
「ここから入るんだが」と十郎太が柵の一部を指さした、「――貴方も入ったほうがいいでしょう、人が通ってみつかるとうるさいから」
 菅田平野は頷いた。
 柵の一本が動くようになっている。たぶん粛清派の仲間がひそかに出入りしたのであろう、菅田平野はそんなふうに想像しながら、十郎太のやりかたをまねて、柵の中へ入った。
「ここで待っていて下さい、いちおうようすを見て来ます」
 十郎太はそうささやいて、杉林の中の踏みつけみちを向うへ去った。菅田平野は待っていた。あたりはまっ暗で、湿った空気は重たく杉の匂いがした。
「おれは※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)のがさないぞ」菅田平野は口の中でつぶやいた、「おれは※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)さない、この蔓は決して※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)さない、あの男をそそのかして必ずものにしてみせるぞ、城代家老の婿とくれば本筋だからな、うん、そうやすやすと見※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)せるもんじゃないさ」
 四半とき以上も時間が経って、どうしたのかと思っているところへ、十郎太が戻って来た。暗いのでよくわからないが、荒い呼吸やおちつかない動作で、彼のひどく昂奮していることが菅田平野にわかった。
「貴方の予言が当りました」と十郎太は云った、「――どうかこっちへ来て下さい、相談にのってもらいたいことがあります」
 菅田平野は黙って十郎太についていった。黙ってついてゆきながら、彼は心の中でほくそ笑み「しめたな」とつぶやいていた。
「貴方の心配されたことは杞憂ではなかった」と十郎太は歩きながら云った、「――奸物どもは急に逆手を打って、昨夜この屋敷へ踏ん込み、伯父をどこかへ拉致らちしたそうです」
「城代家老その人をですか」
「いまこの屋敷はかれらの手で押えられ、伯母と千鳥も一室に監禁されて、一味の者に見張られているというのです」
「たぶんそれは」と菅田平野が云った、「――井坂さんが江戸へ帰られたのを誤解したんでしょうな、自分たちの悪事を江戸へ報告にいったというふうに」
「こっちです、静かにして下さい」
 杉林を出た左側に大きな建物があった。その向うにうまやがあるとみえ、馬たちの鼻をならす声や、地面をひづめの音が聞えた。十郎太はこちらの、大きな建物の中へ、菅田平野をれこんだ。それは馬草小屋であった。中へ入って引戸を閉めると、甘酸っぱい乾し草の匂いでむせそうになった。
こいそ」と十郎太がささやいた、「――どこにいる」
 返辞はなかったが、乾し草の山の蔭から(袖で提灯ちょうちんを隠しながら)一人の娘が出て来た。十八ばかりの、小柄なからだつきで、眼鼻だちのちまちまとした、いかにもはしこそうな顔をしている。十郎太は彼女を「千鳥の侍女こいそです」といって、菅田平野にひきあわせた。
 こいそは二人の前でもういちど話した。
「菊井六郎兵衛という大目付の方が指揮で、三十人ばかりの人が来ました」とこいそは云った。「――ゆうべのちょうどいまごろで、旦那さまは庄野主税ちからさまと御対談ちゅうでした」
 踏み込んで来たかれらは、三手に分れて、菊井ら十人は陸田精兵衛と、客の庄野主税を取囲み、他の一組は家士たちを長屋に押込め、もう一組は邸内の警備に当った。菊井らは主人の居間を捜索して、多数の書類を押収したうえ、精兵衛を(客もいっしょに)用意して来た駕籠かごへ乗せてつれ去った。陸田夫人のおの女は温和で気の弱い人だが、さすがに怒って理由を問いただした。しかし菊井六郎兵衛は相手にならなかった。
 ――私はなにも知りません、御家老に汚職の事実があり、それが暴露したそうで、罪状の湮滅いんめつを防ぐために非常の処置をとるのだとか聞きました。
 こう云って、おの女と千鳥をも各自の居間に監禁し、(一人ずつ看視者を置いた)召使たち全部にも厳重に禁足を申し渡してたち去った。いま正門のところに二人、邸内に五人、見張りの者がいるということである。
「戻って来てよかったですな、ええ」と菅田平野は溜息ためいきをついて云った、「――私が貴方を呼びとめ、貴方が紙入を忘れたことがわかった、そのためにこういう、その、危急存亡のばあいに、まにあうことができた、いやまったく、世の中にはなにが仕合せになるかわからないようなことがあるものです」


 夜半を過ぎたであろう、こいその運んで来た握飯を喰べ、茶を飲みながら、二人は対策を練っていた。事態は急を要する、黒藤ら一味の謀略が完成するまえに、事を輓回ばんかいしなければならない。十郎太はあせった、けれども菅田平野はおちついていた。
 かれらは陸田精兵衛を拉致し、居宅から書類を押収していった。これはなにが目的であるか、と菅田平野は考えた。菊井なにがしは「汚職の事実が暴露した」ともらしたそうである。たぶん自分たちの悪事を陸田城代になすりつけるつもりだろう、そうするにはいくつかの方法が想像される。「罪状湮滅を防ぐ非常の処置」とは、じつは罪状を城代に転嫁する工作で、最悪のばあいは自白書を強要したうえに、城代の命を縮める(自害という形式で)という手を使うかもしれない。そうだ、こんな思いきった手段をとる以上、そのくらいのことは予想しなければならない、と菅田平野は考えた。死人に口なし、もし精兵衛が強要されて自白書を書けば、かれらは精兵衛を生かしてはおかないだろう。いや、初めからそのつもりで「非常処置」なるものをとったのかもしれない。
 ――そうだ、たしかにそれに相違ない。
 心の中で頷きながら、菅田平野は鼻毛を抜いた。右手の拇指と食指で、巧みに鼻毛を摘み、呼吸を計ってくいっと抜き、そうして大きなくしゃみをした。
「失礼しました」と菅田平野は云った、「――そこでうかがいたいのですが、井坂さんが奸物粛清をやろうとした計画と、その盟友の人数を聞かせてくれませんか」
 十郎太は旅嚢をひらいて、一通の封書をみつけ、中から巻いてある紙を取出した。
「これをみて下さい、それから説明します」
 菅田平野は受取ってひらいた。それには次のようなことが書いてあった。
斬込隊指揮
井坂十郎太
寺田 文治 (馬廻七十石)
保川英之助 (徒士かち目付五十石余)
河原 源内 (同三十五石)
城がかり指揮
守島 仲太 (鉄炮てっぽう組支配七十石)
関口兵次郎 (櫓番やぐらばん五石余)
八田益太郎 (徒士組番頭六十石)
三方木戸
寺田乙三郎 (文治の弟)
広瀬 半六 (鉄炮組番頭五石余)
島口 存平 (徒士頭五十五石余)
 この連名には血判が押されてあり、奸臣誅殺かんしんちゅうさつの趣意が書いてあった。
「斬込隊は各分担の奸物を斬る」と十郎太は説明した、「――木戸というのは城下町三方の口を押え、城がかりは大手、西、搦手からめての三門を固める、こういう手筈で、各組とも三十人から五十人の部下が集まる予定でした」
「なるほど」と菅田平野が云った。「――なかなかこれはゆき届いたものですな、ええ」
 そして彼はまたじっと考えはじめた。
 陸田城代は自白書を書くだろうか、「日日平安」などという暢気のんきな人だから、高をくくって書くかもしれない。と菅田平野は考えた。しかしすぐには書くまい、いくら暢気居士にしても二日や三日はねばるだろう。子供ではないのだから、それを書けばどうなるかぐらいの想像はつくはずだ。これはかれらが自白書を強要するとしてのはなしだが、と菅田平野は考え続けた。
「この連名者のうちから」とやがて菅田平野が云った。「――腕達者でもっとも頼みになる人間を五人選んで下さい」
「腕が立つといえば、まず斬込隊の三指揮者ですね、寺田、保川、河原、それから関口兵次郎と寺田文治の弟の乙三郎でしょうか」
「その人たちが貴方と共に、事を計った盟友だということは、かれらに知られていると思いますか」
「そんなことは絶対にないでしょう、計画を勘づいたのは伯父だけですから」
「なるほど」と菅田平野は云った。「――ではひとつ夜明け前に、その五人をここへ呼んで来てもらいますかな」
「五人をここへですか」
 菅田平野は頷いて「危急存亡のばあいです」と云った。十郎太はすぐに決意した。危険ではあるが事は切迫している、それが必要ならそうしなければなるまい。こう思って身支度をした。菅田平野は慎重にやるように念を押して、なお、矢立と料紙を求めた。十郎太は旅嚢の中からそれらを取出して渡し、黒い目出し頭巾をかぶって出ていった。
「さて、これで位置は定った」とあとに残った菅田平野は独りでつぶやいた、「――おれはまじめにならなければいけない、自分を英雄ぶったり、傑出した人物だなどと思ってもいけない、おれは単に腹のへっている浪人者だった、そうではないか、切腹のまねまでして、一食の銭にありつこうとしていた人間だ、決して英雄でもなければ大人物でもない、わかるか」そうして片手でとがった顎をなでた、「いまは軍師の位置についたのだ、これはもうたしかなことだ、あとはこのへぼ頭からどれだけの知恵が出せるか、しかもごく短時間のうちに、……これが問題だ、これだけが問題だ、ひとつ考えてみよう」
 彼は提灯をのぞいた。蝋燭ろうそくは(夜食のまえに替えた)まだ充分にある。彼は乾し草の束をいいぐあいに直し、矢立から筆を抜いて、料紙をそこへひろげた。するとそのとき、ふいに引戸があき、明るい提灯の光りがさし込んだ。
「そこにいるのは誰だ」
 こう云って、提灯をかかげて、一人の侍が入って来た。おそらく黒藤一味の見張り役であろう、「邸内に五人いる」と云ったが、その一人に違いない。菅田平野はびっくりしたふうで(すばやく)自分の提灯を倒して消した。
「は、はい、私は」と彼はどもった、「――私は厩係りの小、小者でございます」
「こんな時刻になにをしているのだ」
「はい、そ、それが、いま馬草を」
「なに、はっきり云ってみろ」侍はこっちへ近よって来た、「――いまじぶん馬草をどうするんだ、きさまうろんなやつだぞ」
 菅田平野はおどおどと立った、侍は「こっちへ来い」と叫んだ、菅田平野はますます恐縮し、身をちぢめてそっちへいった。侍は提灯をあげて面態をしらべようとした、そのとき菅田平野の右手が伸び、侍の鼻柱(眼と眼の中間)発止はっしと突いた。侍はのけざまによろめき、提灯を手からとばした。菅田平野はとびかかって、もういちど鼻柱を叩き、足搦をかけて押倒すと共に、衿を取って絞めおとした。かなりな手際にみえたが、もちろん菅田平野がそれほど強いのではなく、巧みに不意を衝き、それが成功したものであろう。相手を絞めおとしたとき、菅田平野は躯じゅうに冷たい膏汗あぶらあせをかいていた。


 約二時間ののち、――馬草小屋の外に人の足音がした。菅田平野が引戸の隙間からのぞくと、暗がりの中にこっちをうかがっている黒い人影が見えた。井坂十郎太らしい。菅田平野はそっと引戸をあけて、名を呼んだ。
「ああ、無事でしたか」と十郎太が寄って来た、「――中がまっ暗だものでなにかあったのかと思いました」
「ありましたよ、しかしそっちの首尾は」
「みんな来ました」
 十郎太はうしろへ振返って手を振った。そうして、暗がりからあらわれた五人の若侍といっしょに、すばやく小屋の中へ入って、引戸を閉めた。
燧袋ひうちぶくろを出して下さい」と菅田平野が云った、「――さっきちょいとした事があって提灯を消したんです、ああ、そこに人間が転がってますから気をつけて下さい」
 五人のなかの一人が燧袋を出した。
 菅田平野は出来事を語りながら提灯をつけ、それで片隅を照らしてみせた。うしろ手に縛られ、猿轡さるぐつわまされて、二人の侍が転がっていた。手を縛ってあるのはかれら自身の刀の下緒だし、口に詰めこんだのは乾し草であった。二人ともすでに息をふき返し恐怖の眼をいっぱいにみはって、こちらを見あげていた。
「二人もですか」と十郎太が云った。
「べつべつにですよ」と菅田平野が答えた、「――第一号はそっちのせたほうで、こっちのは半刻ばかりおくれて来たんです、きっと第一号が見廻りに出たまま戻らないので、捜しに来たんでしょうな」
「するとまた来るかもしれないな」
「そうありたいもんです」と菅田平野が云った、「――陸田夫人と令嬢に付いているのが二人、ここに二人とすると、門を看視している二人のほかに邸内にもう一人いる筈ですからね、こいつが捜しに来てくれればずっと手間が省けるわけです」
「みんな押えるつもりですか」
「それが第一着手です、しかしそちらの方がたに紹介して頂きましょうか」
 十郎太は彼を五人にひきあわせた。
 寺田文治と(その弟の)乙三郎はよく似ていた。兄よりも乙三郎のほうが背丈も高く、筋骨もたくましいようだが、むっとした顔だちや、切り口上な言葉つきなどはそっくりであった。河原源内はやや肥えた小柄な若者で、眼や口もとにあいそのいい微笑をたたえているが、その微笑はむしろ短気で手の早い性分をあらわしているようにみえた。保川英之助は色が黒く眼が大きく、毛深いたちとみえて口のまわりからあごから両の頬まで、こわいざらざらしたひげが生えていた。彼は毎朝きちんと剃刀かみそりを当てるが、日がれるじぶんにはもうそんなふうに伸びるのだそうで、夜になって人と会うときなどは、夕方もういちど剃らなければならないということであった。関口兵次郎はふっくらとしたまる顔で、好人物らしいかわいい眼をした、まだ子供っぽさの抜けない若者だった。
「こいつら、斬っちまったらどうです」
 紹介が済むのを待ちかねたように、河原源内が(微笑したまま)二人の捕虜を指さしながら云った。
「いや待って下さい」菅田平野は首を振った、「――その二人にはなんの罪もないし、自分でしている事の意味も知ってはいない、またその二人に限らず、こんどの事ではできる限り殺傷沙汰は避けることにしましょう」
「斬るのは三首魁しゅかいだけということですか」
「いやその三人もです」と菅田平野が十郎太に云った、「――法の裁きなしに人を斬れば、こちらに理があってもとがめなしには済まない。幾人かの者は責任者として」
「それは覚悟のうえですよ」寺田文治がさえぎって云った。「――われわれは初めから身命を捨ててかかっているんです」
「しかし不必要に死ぬことはない」
「それがいけないんだ」と河原源内が云った、「――そういう考えかたをするから敵に先手を取られたんだ、あいつらは法を無視し、不義無道を平然とやっている、藩中の非難の声にも、領民の哀訴にも耳をかさない、もはや力で倒すほかに手段がないからわれわれはやるんだ、やるべき事は断乎だんことしてやろうじゃありませんか」
「しかし不必要に死ぬことはない」
 こう云いながら、菅田平野は頭の中で考えていた。
 ――これは抑えなければならない。
 もしここで殺傷沙汰を起こせば、あとで必ず責任を問われる。まずくゆけば切腹ぐらいはしなければならなくなるかもしれない。そうすると自分の目的もどうなるかわからない。この藩に仕官しようという、本来の望み(それはもう確定的だと思う)が危なくなる。ここでなんとかこの連中の血気を抑えなければだめだ。こう考えながら彼は云った。
「なぜ不必要かというとですね、かれらはすでに自分の首に縄を巻きつけている。私どもはただその縄の端をつかまえればいいんです」
「もっと具体的にいって下さい」
「かれらは陸田さんを拉致した」と菅田平野は云った、「――おそらく罪を陸田さんに転嫁するつもりでしょう、諸兄も井坂さんから聞かれたと思うが、奸物どもは押収していった書類を悪用し、陸田さんを脅迫して罪状の告白書を書かせるのだと思う、そこで私どもが陸田さんを奪い返せば、それだけでかれらの罪は暴露するわけです」
「奪い返せますか」
「むずかしいな」保川英之助がごりごりと顎の髭をさすった、「――これが陸田さんを取られないまえならいいが、なにしろ陸田さんという人質を握られているからな」
「いやまあ聞いて下さい、こうなんです」
 菅田平野は自分の計画を語った。
 敵は井坂十郎太が江戸へいったものと信じている。そこで、「十郎太は江戸へいったのではなく、城下にいて同志を集め、奸臣誅殺の密謀をめぐらしている、某日某刻、一味は某所で会合をひらいている」ということを敵に知らせてやる。敵は必ずその「某所」へ押寄せるだろう、その隙にこちらは陸田精兵衛を奪い返す。というのであった。
「しかし」と関口兵次郎が云った、「――われわれが密会しているということを知らせて、はたして、かれらがひっかかるでしょうか」
「むろん内偵させるでしょう」と菅田平野は云った、「――だからここにいる六人と、他の四人、守島、八田、広瀬、島口の諸兄もいっしょに姿を隠す、つまり全部がここへ集まるんです。かれらは密告された十人の在否を内偵するでしょう、そして全員がその家にいないとすれば、某所で集合しているという密告を信ずるだろうし、即時に一網打尽の手を打つに違いないと思う、どうでしょう、みなさん」


 井坂十郎太がまず頷いた。彼は菅田平野の計画をすばやく検討したらしい、しっかりと頷いて、「それでやろう」と云った。
「事態はこのとおり一刻を争うし、ほかに適切な手段もなさそうだ、この一手でやることにしようじゃないか」
 菅田平野は他の者のようすをうかがっていたが、誰にも異存はないようであった。そこで彼はみんなに坐るように頼み、自分の計算を書きとめた料紙をひらいて、これからの行動を詳しく説明したうえ、その担当者を定めた。その一は邸内に残っている五人の見張りを捕え、陸田精兵衛の所在を白状させること。その二は守島仲太、広瀬半六、八田益太郎、島口存平らを呼び集めること。その三は密告状を投じて敵の動きを看視すること。などで、第一は即座に七人全部が協力してやり、次に手分けをして第二第三をやる、という順序であった。
 この相談がほぼ終ったとき、小屋の外にひたひたと乱れた足音がし、「井坂さま」という女の声が聞えた。菅田平野が提灯を隠し、みんな総立ちになった。十郎太はつぶてのようにとんでゆき、引戸をあけて外を見た。二人の女がすぐそこまで走って来てい、そのうしろから幾人かの侍(一人が提灯をかかげて)たちが追いつめて来るのが見えた。夜明けが近いとみえ、空がぼかしたように仄白ほのじろくなり、そうして小雨が降っていた。そのごく仄かな薄明りで、走って来る女の一人がこいそ、もう一人が千鳥であるのを十郎太は認めた。
「寺田、来てくれ」と彼は叫んだ。「――きゃつらだ」
 そして外へとびだした。とびだすとき刀を抜くのが見えたので、菅田平野も寺田文治に続いて出ようとし、そこへ駆け込んで来た二人の女性と、危なくぶつかりそうになった。
「この人たちを頼みます、出ないで下さい」
 彼は残った四人にそうどなって、寺田文治のあとを追った。
 追って来たのは三人で、菅田平野がそこへいったときには、すでに一人は倒され、他の二人も十郎太と文治の前に動けなくなっていた。
「大丈夫ですか」菅田平野はせつけながらきいた、「――斬りはしないでしょうな」
「大丈夫です」と十郎太が答えた。
「声をたてるなよ」寺田文治は刀をつきつけたまま相手に云った、「――黙って馬草小屋まで歩け、騒ぐと斬るぞ」
 十郎太は二人から刀を奪い、落ちている提灯を拾おうとした。他の見張人にみつかっては悪いと思ったのだろう、菅田平野は倒れている一人を引起こそうとしながら、「そんな物はいいでしょう」と云った。
「残っているのは二人だけだから、すぐにやってしまおうじゃありませんか」
 十郎太は頷いた。菅田平野は倒れている男を引起こして肩に担いだ。さして大きな躯ではなかったが、気絶しているのでひどく重い。文治と十郎太は二人を追いたてながら、かれらは馬草小屋へ戻った。そうして、すぐにその三人も手足を縛り、猿轡さるぐつわませたが、残っているのは正門の二人だということが(こいその証言で)わかったので、十郎太と菅田平野を除いた他の五人が、すぐに小屋から出ていった。
 五人が出てゆくと、十郎太は提灯を持って千鳥のそばへいった。千鳥は乾し草の束に腰をかけ、こいそもたれて泣いていた。
「さあ話してごらん、どうして逃げだしたんだ」
 十郎太が云った。千鳥は涙を拭きながら十郎太を見た。十郎太はそこへかがんだ。千鳥は事情を語りだした、彼女は十七歳という年よりも子供っぽくみえる、背丈も高いし躯も成熟しているが、眼鼻だちのおおらかなまる顔や、のびやかな身ごなしや、あまえたような言葉つきなどに、あどけないといいたいくらいな、ういういしさが匂っていた。
「えっ、伯母上が自害、――」
 十郎太が叫んだ。その仰天したような声を聞いて、菅田平野が振向いた。
「ええ、いいえ」と千鳥が云った、「――そうするはずだったんです、母が自害をして見張りの二人が騒ぐ隙に、わたくしが逃げだす約束だったんです、それがわたくしがまごまごしたものですから、すぐに見張りの者にみつかってしまいましたの」
「逃げだしてどうするつもりだった」
こいそと二人であなたのあとを追うつもりでした」
「乱暴なことを」と十郎太が云った、「そうすると伯母上は自害なさらなかったんだな」
「でもわかりませんわ、わたくしの逃げたあとで自害したかもしれませんし、失敗したのでやめたかもしれませんし」
「冗談じゃない」と十郎太はとびあがりながら云った、「――泣いているひまにどうしてそれをさきに云わないんだ」
 そして彼は小屋の外へとびだしていった。千鳥はまた泣きだした。菅田平野は彼女が濡れたままの足袋はだしなのを見て、こいそに「足袋をぬがせておあげなさい」と云い、そばへいって自分の名をなのった。
「足袋をぬいだらよく拭いておくんですね、風邪をひきますから」と菅田平野は云った、「――もう泣くことはありません、お父さまを救い出す手筈もついているし、まもなく無事におさまりますよ、じつに世の中はふしぎなものだと思うんですが、井坂さんが戻って来たのは私と出会ったからでしてね、その出会ったもとはといえば、私が死ぬほど空腹だったからなんです、恥を話さなければ理がとおらないといいますが、お聞きになりたいですか」
 千鳥はいぶかしそうにこちらを見た。その眼には涙が溜まっていたが、菅田平野の話を聞いているうちに、眼鼻だちのおおらかな顔がしぜんとほぐれ、十郎太が本気になって介錯しようとした、というところまでくると、あどけない唇に微笑がうかんだ。しかし、彼の話が終らないうちに、十郎太が陸田夫人をつれて戻った。
「まあ、お母さま」
 千鳥は叫び声をあげて、母親のほうへ両手をさし伸ばした。おの女は静かに入って来て娘のそばへ寄り、娘の手を握りながら乾し草の束へ腰をおろした。
「お母さまはここへ入るの初めてよ」おの女は小屋の中を眺めまわしながら云った、「――乾し草がよく匂うこと、お母さまはこの匂いが大好きよ、あなたおけがはなくって、千鳥さん」
「ええお母さま」千鳥は母の腕のところをでながら云った、「もうちょっとで捉まろうとしたとき、じゅろう(十郎太)さまが助けに来て下さいましたの」
「聞きましたよ」
「それからじゅろうさまたちは、お父さまも助け出して下さるのですって」
「それもいま聞きました」とおの女はまた小屋の中を眺めまわした、「――乾し草っていつもこんなによく匂うものかしら」
「ええいつも匂いますわ、わたくしときどき入ったことがあるけれど、いつだってこのとおり匂っていますわ、ねえ、じゅろうさま」
 十郎太はせきをし、聞えないふりをして、五人の捕虜たちを仔細しさいらしく点検した。陸田夫人はいぶかしげに娘を見た。
「あなたこんな処へお入りになったの」
「ええそうよお母さま」と千鳥は云った、「――ここは昼間でも薄暗いし、誰も来る者がなくって静かでしょ、それで乾し草の上へ横になると、躯がふわっと沈むような、浮いているような気持になって、そして草の甘い匂いに包まれたまま、うっとりと眠くなってしまいますの、ねえじゅろうさま」
「あら、じゅろうさんもごいっしょだったの」


「ええもちろんよ、お母さま」千鳥は頷いた、(向うでまた十郎太が咳をしたが)彼女は続けた、「わたくし一人でなんか来られやしませんわ、いつでもつれて来て頂きますの、いちどなんかわたくしじゅろうさまのお腕を枕にして、ほんとに眠ってしまったことがありますわ」
「まああきれた、あなたそうして起こされるまでおよってらしたんでしょ」
「いいえお母さま、まさかいくら千鳥だって」
 菅田平野は戸惑いをした。母親も娘ものんびりしたものである。この切迫した状態のなかで、男性と二人きりで乾し草小屋へ隠れたなどと、平気で告白する娘も娘だし、それを聞いてそう驚きもせず、かくべつ叱ろうともしない母も母である。――育ちが違うんだな、と菅田平野は思った。これはのんびりどころではない、むしろみやびた趣きというのだろう。
 ――これは一家そろって日日平安だ。
 菅田平野は心の中でそうつぶやいた。
 母娘の対話は、帰って来た寺田たちによって中断された。かれらはやや強い降りになった雨の中を、首尾よく捕えた正門の二人をいて戻った。用心のためあとへ保川英之助を残したそうであるが、これで邸内にいた敵の見張りは全部押えたわけで、七人のうち一人は前林家の小者、他の六人はみな黒藤源太夫の家士であった。――菅田平野は密告書を書くために、料紙をひろげながら「みんなの集まる(仮定の)場所はどこにするか」といた。あまり遠くても近くてもいけない、城下町からほぼ一里くらいの距離で、なるべくなら寺がいい。こういう条件で十郎太と寺田文治が相談し、大里村の光明寺がよかろうということになった。
「光明寺なら約一里」と十郎太が云った、「昨日私たちの通って来た、石鉢山の向うです」
 菅田平野は書きはじめた。
 十郎太は押籠おしこめられている家士たちを解放しにゆき、こいそは(やはり禁足されている)小者や召使たちに知らせて、朝食の支度をさせるために出ていった。寺田たち四人は、捕虜を一人ずつ責めて、陸田精兵衛の所在を自白させようとした。だが、かれらはまったく知らないもようであった。自分たちは御城代が伴れ去られたときあとに残されたので、知っている道理がない、と云うのである。短気な河原源内はきみわるく微笑しながら、「きさまら正直に云わないと、この馬草小屋といっしょに焼き殺してしまうぞ」などとおどしたが、ついに聞きだすことはできなかった。
 侍長屋から十郎太が戻って来た。彼は頭から雨合羽あまがっぱをかぶっていた。家士の物を借りたのだろう。雨はいまこの小屋の高い板屋根にやかましい音をたてるほど降りだし、しかも地雨のようであった。しずくの垂れる合羽をぬいで、十郎太がこっちへ来ると、寺田文治が陸田氏の所在の知れないことを告げた。
「こいつらはあとへ残されたので、本当に知らないらしいんだ」
 十郎太はひどく失望した。それがいちばん肝心な点である。伯父を救い出すことが第一の目的なので、その所在がわからないとなると、こっちは行動できなくなる。十郎太は濡れた草鞋わらじで地面を踏みつけながら、腹立たしそうに菅田平野へ振返った。
「するとどうしますか、菅田さん」
「ちょっと待って下さい」菅田平野は太息といきをついた。「――ひとつ考えてみましょう」
 十郎太は伯母のほうへいった。どうやら策戦はすべて菅田平野に任せたというふうである。彼は伯母のそばへいって、菅田平野のことを話そうとした。おの女はすでに娘から聞いていたらしい、「知っていますよ」と云ってそっと笑った。それから彼女は、自害すると云ったのではなく、自害のまねをすると云ったのだそうで、だが、いざとなったら「自分で恥ずかしいような照れくさいような気持」になり、どうにもそんなまねはできなかったと云って、いかにも照れたように赤くなりながら笑った。
 そのとき菅田平野がくしゃみをした。思案しながらまた鼻毛を抜いたのだろう、すばらしく大きなくしゃみなので、みんなびっくりして彼のほうへ振向いた。
「失礼しました」と菅田平野は云った。するとまたくしゃみが出た。「どうも失礼」と彼はみんなに目礼し、十郎太に云った、「――とにかくこうしましょう、井坂さん」
 十郎太は彼のそばへ戻った。他の四人も集まった。菅田平野は云った。
「ほかに応急の手段もなさそうだから、まず密書を投じてかれらの動きをみるのです、かれらがもし密会所へ人数を出すとすれば、同時に陸田さんを奪回されないような方法もとると思う」
「どうもそれは、たしかとはいえないようですが」と十郎太が口ごもった、「――ほかに手はないですか」
「問題は時間ですからね」
 こう云って、それから突然「あっ」と菅田平野は声をあげた。彼は本能的に鼻の穴へ指をもっていったが、鼻毛を抜くのはやめ、その手を拳にして自分の額を叩いた。
「なんという頓馬とんまだろう」と彼は云った、「このおれはなんという頓馬の、へぼ頭だろう、自分で自分を忘れているとはあきれはてたものだ」
「なにかあるんですか」
「この私ですよ」と菅田平野は云った、「――私自身が密書になるんです」
 みんなけげんな顔をした。
「こうです」と彼は続けた、「私はごらんのとおり尾羽うち枯らした姿です、この私が黒藤邸へいって密告するんです、宿賃がないので寺の縁下に寝たと云ってもいいでしょう、そこで密会している貴方がたの密談を聞いた、耳にはさんだ名前はこれこれ、どうです、これなら間違いはないでしょう」
 十郎太は寺田に振返った。寺田文治は珍しく微笑したし、他の三人も頷いた。
「ではそれで計画をたて直しましょう」
 菅田平野は書きかけの密書をひき裂いた。
 新しい計画はこうである。彼は黒藤源太夫に会って密告する、座敷へとおされるだろうから、源太夫や家内のようすで、陸田精兵衛がどこに押籠められているかわかるだろう。もし他の場所だったら辞去して出て知らせるし、邸内にいるとわかった場合には(乱暴だが)火をかけて火事を起こす。その煙を認めたら十郎太たちが踏み込んで来る、という手順であった。菅田平野はこれを二度繰り返して説明し、みんなはよく了解した。――待機する人数は二十人、そのときの条件でどっちへでもすぐ動けるように、三老臣の屋敷の中間に当る、火の見のつじへ伏せておき、三老臣それぞれの屋敷に見張りの者を付ける。最後に争闘のときもできる限り人を傷害しない、ということが約束された。河原源内と寺田乙三郎は、「人を傷害しない」という点がひどく不平そうであった。
「やむを得ない場合はいいですよ」と菅田平野は譲歩した、「――但し、そのときでも足くらいにしておいて下さい、これは貴方がた自身のためでもあるんですからね」
 こいそが朝食の支度のできたことを知らせに来た。陸田夫人はここで喰べたいと云う、馬草小屋がすっかりお気に召したらしい。それでは握飯にして持って来よう、ということになった。
「私は喰べずにでかけます」菅田平野はこう云ってこいそを呼びとめた、「――かなり空腹ですが、空腹のほうが放浪者らしく自然にみえるでしょう、ひとつ捨てるようなぼろ傘と、放火用の綿を頼みます、古綿でいいですから燈油を浸ませてね、燧袋は井坂さんのを借りてゆきますよ」
 こいそが去ると、寺田文治が弟を呼んだ。
「おまえと関口とで守島や広瀬を呼びにいけ」と文治は云った、「――八田と島口の四人にすぐここへ来いとな、二人で分担してやるんだ」
 乙三郎は「うん」といって関口を見た。関口兵次郎は頷いて元気に立ちあがった。菅田平野は袴のひもをしめ直しながら、一昨夜、藍川の柊屋で髭を剃らなければよかった、と思うのであった。


 約半刻ののち、菅田平野は、黒藤邸の庭先に立っていた。かなり広い庭で、樹が多く、配石のもようなどもなかなか凝ったものである。躑躅つつじに囲まれた池があり、そこでは鯉が(産卵期なのだろう)しきりにばちゃばちゃと騒いでいた。
 ――作法を知らぬやつだ、これでたいてい人間がわかる。
 彼は心の中でそうつぶやいた。
 だがそれは公平ではない、彼の姿は乞食と区別がつかなかった。縞目もわからないほど古びて継ぎだらけの垢じみた着衣、やぶれたぼろ傘、すねまではねのあがった草鞋ばきの泥足。これでは「庭へまわれ」と云うのが当然かもしれない。それは菅田平野も認めるが、しかもやはり承服できない。たとえ乞食のように落魄らくはくしていても侍は侍である。「御主人の大事について」と云うものを、庭先へまわすというのは無礼である。
「これだけでも黒藤というやつが品性劣等だということを証明している」と菅田平野は口の中で云った、「――これはよほどうまくもちかけないと、座敷へは通さないかもしれないぞ」
 廊下へ白髪頭の老人が現われた。少しばかり腰が曲っている、着物も粗末だし袴はしわくちゃであった。ひと眼で家扶かふだということがわかる人態で、正しくそのとおりだった。そこで菅田平野は本気に腹を立てた。
「私は御主人に会いたいと申上げた」と彼は尖った声で云った、「――御主人のお命にかかわる大事だからわざわざまいったので、御主人に会えないのなら帰ります、なに、こっちはどうでもいいことなんだ」
 彼は雨の中へ出てゆこうとした。家扶はあわてて呼びとめた。一命にかかわる、というのを聞き捨てにはできないだろう、「しばらく」といって、曲りぎみの腰をもどかしそうに奥へ去った。菅田平野は唾を吐いた。それからふと、自分が本当に腹を立てているのに気がついた。しんじつ黒藤源太夫のために来てやったような錯覚にとらわれたらしい、菅田平野は「なんと、――」とつぶやいて苦笑した。
 小者が洗足の道具を持って来た。家扶が現われて奥へとおれと云う、菅田平野は足を洗い、袴の裾のはねを払い、肩から旅嚢を取り、刀を脱して、右手に持ちながら広縁へあがった。
 案内されたのは六帖ばかりの暗い部屋であった。そこで形式だけの茶菓が出た。薄くてぬるい茶に、かびの生えたような打物うちものである。菅田平野は茶をひと口すすっただけで、あとは手を出さなかった。彼は両手をひざに重ね、心をしずめて、脇玄関から庭、広縁からその部屋へ来るまでの、建物の配置を頭の中に書きとめた。四半刻ほども経ってから、若侍が現われて「こちらへ」と云った。菅田平野はちょっと考えたが、旅嚢の脇へ刀を置いて立った。中廊下を少しゆき、いちど左へ曲って、八帖の明るい座敷へとおされた。そこはさっきの庭とは反対側に面しているらしい、あけてある障子の向うに、石燈籠いしどうろうなどを配した内庭を隔てて、土蔵が三棟並んでいる。たぶん武庫だろうと思ってぼんやり見ていると、まん中の土蔵から中年の侍が出て来た。その侍は手籠のような物を持っていたが、出て来るとそれを下に置いて、土蔵の観音開きを重そうに閉め、それからいま置いた手籠ようの物を持って、雨の中を跳ぶように去っていった。
 彼がぼんやりとそんなけしきを眺めているところへ、黒藤源太夫が出て来た。年は四十三、四、肥えてはいるがひき緊った精悍せいかんな躯つきだし、眉の太い、眼の大きい、厚い唇をきつくむすんだ顔つきも精悍にみえた。源太夫は坐ると同時に懐紙を出し、かっとのどを鳴らして唾を吐いた。そのとき六時を知らせる時計の音が聞えた。
 源太夫は話を信じた。その顔の表情の変ったことで、話を信じたことが明瞭にわかった。
「井坂といいましたか」源太夫は膝の上の手をぎゅっと握った、「――そんなはずはないのだが、名前はなんといいました」
「名は云わなかったようです、なにしろ縁の下で聞いていたものですから」と菅田平野は云った、「――あとから来た一人が、江戸へゆかれるのではなかったのか、ときいていましたが、これは寺田という男のようでした」
「ほかに聞かれた名がありますか」
「うろ覚えですが、――そうです、広瀬、島口、それから」と菅田平野は首をひねった、「――保田、いや保川でしたかな、寺田というのは二人いたようです、それと、関口とか八田などという名も聞えました。記憶ちがいがあるかもしれません、呼びあう声で数えたのは十五人でした」
 源太夫の片方の膝が上下に動きだした。
「すると」と源太夫が云った、「つまり井坂が江戸へゆくとみせて光明寺へ留り、そこへ同志の者を呼び集めたということですね」
「私の申上げた姓名にお心当りがありますか」
「ある、全部ではないが、三、四心当りがある」
「では人をやって在不在をたしかめて下さい」と菅田平野は云った、「――私はかれらが手分けをして、こなたさまをはじめ、仲島、前林のお三方を誅殺すると聞いたのですから、現在その連中が家にいなければ、事実だということがおわかりになるでしょう」
 源太夫は鈴を鳴らしながらきいた。
「かれらは日時を申していたか」
「昨夜半の話で明後日と云っていましたが、今日の夜にはさらに人数を集めるように聞きました」
 若侍が廊下へ来てかしこまった。源太夫は料紙と硯箱すずりばこを持って来るように命じ、それが来ると、(菅田平野に聞きながら)九人まで名を書き、「この者たちの在否を至急にたしかめさせろ」といって、若侍に渡した。
「はなはだ汗顔の至りですが」と菅田平野が云った、「――昨日から食事をしておりませんので、まことに申しかねるが、朝食の馳走にあずかりたいのですが」
 源太夫はこちらを見て頷き、いま支度をさせるから、と立っていった。


 まもなく若侍が戻って来て、また元の六じょうへ彼をつれ戻した。そうして食膳を出されたが、麦ばかりのようなどす黒い飯に、冷えた味噌汁と漬物だけで、その汁にも千切り大根の欠けたのが三つしか入っていなかった。菅田平野はまた腹を立てた。
「食い残しじゃないか」と彼はつぶやいた、「――なんという無礼なけちくさい家だろう」
 だが空腹には勝てない、腹を立てながら喰べ終ったが、このあいだに家の中がざわざわし始めた。表廊下をしきりに往き来する足音や、人を呼びたてる声などが聞えた。
「もうおれのことなんぞったらかしか、そうだろうな」と菅田平野は独り言を云った、「――それならこっちは、ひとつ」
 彼はしばらく物音を聞き定めてから、立ちあがって、そっと中廊下へ出た。
 ――陸田城代がここに監禁されているかどうか、いるとすればどの辺の座敷か。
 中廊下の左右を眺めた。人の来るようすはない、彼はさっきの八帖間のほうへ歩いていった。そちらが奥で、ずっと座敷が続いているらしい。だが、内庭の見える処まで来ると、ふいに右手の襖があいて、中年の侍が顔を出した。
「誰だ」とその侍はこっちを見て、それから仰天したようにどなった、「きさまなに者だ」
「手洗いにまいりたいのだが」
「なに、手洗いだと」相手は出て来て、つかみかかりそうな勢いで叫んだ、「きさまどこから入って来た、こんな処でなにをしている、これ渡辺、渡辺はいないか」
 その侍のわめき声で、向うから若侍がとんで来、(それが渡辺というのだろう)彼のことを説明した。中年の侍は納得したが、「むやみに歩きまわっては困る」と云い、若侍に手洗い場へ案内しろと命じた。
「ひどくものものしいですな」菅田平野はこう云いながら若侍の表情をぬすみ見た、「――なにか奥に秘密でもあるようじゃありませんか」
「いま客が来たのです」若侍は答えた、「――御老職がお二人、なにか御内談があるようですから、こちらです」
 菅田平野が手洗いから戻るまで、その若侍は待っていて、彼を元の六帖へ伴れ戻した。食膳しょくぜんはそのまま置いてあり、茶を持って来るようすもない。
 ――たしかに、あの奥のほうになにかある。
 彼はこう思った。むろん、それが直ちに陸田の存在を示すものではないかもしれない、そうだと考えるのは早合点だろうが、あの中年の侍の(仰天したような)そぶりから察すると、たしかになにかあるとみていいように思えた。来客の二老職とは、仲島弥五郎と前林久之進に違いない、そして、源太夫が二人を呼んだのは、寺田たち九人の者が不在であること、したがって大里村の光明寺に徒党が集合しているという密告が、信じられたことを証明するであろう。
 ――かれらは討手を出すに相違ない。
 菅田平野は少しあせりだした。かれらが光明寺へ討手の人数を出したらすぐにこっちの行動を始めなければならない。それにはぜひとも陸田氏の所在を探知する必要があった。「あの三老職の話が聞ければいいんだが」と彼はつぶやいた、「――三人の会談の席へ出られれば、なにか緒口がつかめるだろうが」
 彼はそのほかに手段はないと思った。そこで、まだ云い残したことがあるから、といって取次ぎを頼もうと決心したとき、おりよく一人の若侍が入って来た。これはあの渡辺という男よりずっと若く、ぶあいそうなふくれ面で、大きな手籠を持っていた。
「お済みになりましたか」と若侍は云った、「よろしければ片づけます」
 食膳をさげに来たのである。済んだというと、手籠をそこへ置き、食器をその中へ入れたうえ、膳を持って出ていった。菅田平野は取次ぎを頼もうとはしなかった。彼は眼を半眼にし、少し口をあけて、壁の一部をじっと見まもっていた。
「おれは盲人だ」と彼はつぶやいた。「――あの中年の侍が土蔵から出て来たとき気がついていいはずだ、そうではないか、あの手籠が食器を運ぶための物だということは、たったいまわかったのだからな」
 菅田平野は手をすり合せた。さっき中庭を隔てて見た情景が、ありありと眼にうかんでくる。三棟並んだ土蔵のまん中のそれから、中年の侍が手籠を持って出て来、あとを閉めて雨の中をたち去った。その手籠はいま眼の前で見たのと同じ物のようである、正しく、中年の侍は土蔵の中へ食事を持っていったのだ。
「おれは盲人だ」と菅田平野はつぶやいた、そしてにやにやと微笑した、「――だが運の好い盲人だ、幸福な盲人といってもいいかもしれない、あとはただ一つ、……討手を出したことがわかったら、ひとつ」
 その部屋には六尺の戸納とだながあった。彼はそっとその唐紙をあけてみた、上下の段にきっちり蒲団が重ねてある。客用のではない、家士たちの使う予備のものらしい。彼は旅嚢から油綿の入っている油紙包と、燧袋とを取り出して(いつでも使えるように)旅嚢の下へ隠して置き、それからそこへ横になって、この家の動静に耳を澄ませた。
 約半刻ばかりのち、裏手と思われるあたりで、馬を曳き出すけはいや、多数の人々のたち騒ぐ物音が聞えた。馬もかなりな頭数らしく、いななきや蹄の音が右往左往するようであった。菅田平野はじっと横になっていた。廊下を足音が近づいて来て、この部屋の襖をあける者があった。それでも菅田平野は動かなかった、旅嚢を枕にして、じっと眠ったふりをしていた。襖はすぐに閉り、足音は廊下の向うへいった。
 やがて騎馬の者たちの出てゆくのが聞えた。重おもしい蹄の音が一隊になって、この屋敷の外を右から左へ廻り、そうしてたちまちのうちに遠く、はるかに遠く消え去った。――菅田平野は起きあがり、包をあけて油綿を出した。彼は用心ぶかくやった、燧石は戸納の中で打ち、油綿をよくほぐして、両端に火をつけた。火はなかなか燃えつかなかったが、油紙へつけてやると燃えついた。それを上段の蒲団の上にのせ、さらに、戸納の天床てんじょうの板を外して斜めにし、その板から天床へ燃え移るようにした。油紙は景気よくほのおをあげ、油綿もくすぶりながら、赤い焔の舌をちろちろとひろげた。戸納の中はたちまち油臭い煙で充満したが、その煙は天床の(板を外した)穴へすいすいと吸いこまれてゆく。菅田平野はその火が板に移って、天床へ燃えつくのを待っていた。だが、とつぜん襖があいて、「あっ」と叫ぶ声がした。さっき寝ているのを見に来たから、そっちのほうは安心していたので、襖のあくまで人の来たことに気がつかなかったのである。
「どうしたんですその煙は」
 菅田平野は唐紙を閉めながら振返った。部屋の中にも思ったより多く煙がもれていた。その煙越しに、渡辺という若侍の立っているのが見えた。
「なんです、火事ですか」
 こう叫びながら、若侍が入って来ようとした。菅田平野はそこにある刀を取り、ひき抜いて相手の前へつきつけた。
「声を立てるな」と彼は云った、「――こっちへ入ってその襖を閉めろ、騒ぐと斬るぞ」
 若侍は飛鳥のようにとびのき、「火事だ」と絶叫しながら廊下を走っていった。
 菅田平野は煙にせながら、刀の下緒を外してたすきにし、袴の股立ももだちをしぼった。戸納の中では天床板のぱちぱちと焼けはぜる音がし、唐紙の隙間からは濃密な煙があふれ出て来た。彼は燧袋と旅嚢を持って、こんこんと咳きながら廊下へ出た。
 廊下の左手から三人ばかり、血相の変った侍たちが走って来た。菅田平野は右へ、奥座敷のほうへ走り、中庭へとびだした。三人は追って来なかった、「火事だ」とか「水だ水だ」という叫び声が聞える。もちろん火を消すほうが大事だろう、――菅田平野が石燈籠いしどうろうのところで振返ると、屋根とひさしのあいだから灰色の煙が吹きだして、雨の中へとたなびき流れるのが見えた。
「これならわかるだろう」彼は煙を眺めながらつぶやいた、「――雨が邪魔だが、このくらい煙があがれば外から見えるに違いない」
 廊下は人の駆けまわる足音や、わめき叫ぶ声でもみ返している。菅田平野は土蔵のほうへ振返った。すると、例のまん中にある土蔵の前に、中年の侍がいて、観音開きをあけようとしているのが見えた。
 菅田平野は「あ」といって走りだした。
 疑う余地はない。かれらは大事出来しゅったいとみて、その中にいる人物をよそへ移すか、またはその場で片づけるつもりだろう。菅田平野は走りながら旅嚢と燧袋を投げだし、
「待て、その蔵に手をつけるな」
 と、叫んだ。相手はこっちへ振向いた。そして、さっととびのいて刀を抜いた。
 菅田平野はおどりかかった。抜いたまま持っていた刀を上段にふりあげ、走っていった勢いで真向から斬りつけた。相手は大きく脇へかわした。菅田平野はむろん相手を斬るつもりはない、井坂十郎太たちが討入って来るまで、その土蔵を守っていればいい、――相手にかわされた彼は、三間あまり駆けぬけ、追い打ちに備えて、刀を横に払いながら振返った。ところが、振返ったとたんに足が滑り、前のめりに烈しく転んだ。はね起きようとして眼をあげると、意外に近く、相手の殺到して来る姿が見えた。
 相手は大喝だいかつしたらしい、声は聞えなかったが、口と両眼をいっぱいにあけ、充血した顔に歯をき出し、そうして刀を打ちおろしながら踏み込んで来る。その姿ぜんたいが、こちらの眼にはほとんど十倍の大きさにみえ、思わず眼をつむりながら(夢中で)地面の上をまりのように転げた。
 そのとき寺田乙三郎が走せつけた。寺田とほかに二人、徒士組の若侍とで、三人はつぶてのように走って来、呶号どごうしながら相手をとり囲んだ。
「斬ってはいけない」菅田平野は立ちあがりながら叫んだ、「――斬ってはいけません、陸田さんはその土蔵の中にいます、もうこっちのものですから」
 彼は泥まみれで、口の中にまで泥が入ったので、それを吐き出しながら向うを見た。家の中の障子が乱暴にあけ放されて、井坂十郎太と他に三人ばかり、抜刀を持って廊下へ出て来るのが見えた。
 ――完全な成功だ。
 と菅田平野は心の中でつぶやいた。
 ――おれの策戦は完璧かんぺきだったぞ。


 正しく、菅田平野の策戦は成功した。
 光明寺へ討手を出したために、黒藤邸の人数がごく少なかったのと、その少ない人数が火事を消すのに夢中で、井坂らの侵入に気づかなかったのとで、勝敗は瞬時に決定したようなものであった。
 火事は部屋二つと屋根の一部を焼いただけで消された。三老職は一室に監禁し、陸田精兵衛は土蔵の中から救い出された。光明寺へいった討手に対しては武者押むしゃおし(演習)という触出しで、鉄炮組、槍組、徒士組の人数をすぐに差向け、かれら三十余騎の引返して来るところを、石鉢山の切通しで捕えた。この指揮には寺田兄弟と島口存平、守島仲太らの四人が当った。
 この「武者押」の手配も菅田平野の建策であったが、彼の仕事はそれで完了したといってもよかった。十郎太が彼を陸田老にひきあわせたとき、彼は謙遜けんそんで品位のある態度を示した。
「いや私の力ではございません」と菅田平野は云った、「井坂さんたち御一同の団結した力と、幸運に恵まれたおかげです、私の策戦など取るに足らぬものでございます」
 それから彼は、泥まみれの燧袋を、十郎太に返した。十郎太は不審そうに、それを指で摘んで受取った。
「拝借した燧袋です」と菅田平野は云った、「――よごしたままで失礼ですが、勘弁して下さい」
 黒藤邸を閉鎖して、家士小者には禁足を命じた。仲島、前林らの居宅にもそれぞれ手配をし、三老職は城中へ護送した。こうして、さて陸田精兵衛らが屋敷へひきあげようとしたとき、みんなは菅田平野のいないことに気がついた。手分けをして邸内を捜してみたが、彼はどこにもいなかった。
「どうしたんだ」十郎太はあっけにとられて云った、「――いったいこれはどうしたことだ」
 十郎太は茫然と、雨空の向うへ眼をやった。
 菅田平野は脱走したのであった。
 彼は雨の中をしょんぼりと歩いていた。江戸へゆく道とは反対の方向へ向って、――彼は黒藤邸の庭で(いちど捨てた)あのやぶれ傘をさしていた。片方の手には泥まみれで空っぽの旅嚢りょのうをさげ、足にはやはり黒藤邸でつっかけて来た、ちびた古下駄をはいていた。
 彼は疲れているうえに、ひどく空腹で、おまけに眠かった。
「これは虚栄心だかもしれない」歩きながら彼はつぶやく、「――本当は虚栄心か、偽善かもしれない、おれはそうではないと思う、おれはそんなふうには思いたくない、あの燧袋、泥まみれの燧袋を拾って返したとき、こんな気持になったのだ、あれを井坂に返したとき、井坂がいぶかしそうな顔をして、二本の指で摘んで受取ったとき、おれの中でなにかが起こった、なにかが、……ちょっと口には云えないが、ともかく逃げだすのは今だ、たったいまここから逃げだせ、という気持だった」
 彼の腹の中で妙な音がした、その音がなにを意味するかは知る者ぞ知るであろう、彼はなさけないような顔をして、ぐっと生唾をのんだ。
「いや虚栄心じゃない、これは虚栄や偽善じゃあない、良心の問題だかもしれない」と菅田平野は続けた、「――おれは恥ずかしいような、照れくさいような気持になった、そこがふしぎなんだが、いや、おれにはふしぎでもなんでもない、このへぼ頭から絞りだした策戦が、あんなにみごとに成功したということは恥ずかしい、策戦をたて、自分が行動しているあいだはよかった、心身とも爽快に緊張していたが、策戦が完全に成功し、一つの齟齬そごもなくすべてが完了したとき、そうだ、おれは索寞さくばくと恥ずかしくなり、いたたまれなくなった……どうしてそこにいられるか、事が完了した以上おれは余計な人間じゃないか、あとは、そうだ、はっきり云おう、あとはおれの功績が計算される番だ、おれはそれを願っていなかったろうか、おれは初めからそれを願っていた、おれは初めにこの蔓は放さないぞと思った、おれはその蔓をものにして仕官するつもりだった、万事が完了したとき、それがはっきりと浮きあがってきたんだ、……となれば、おれの良心としてそこにいられる道理がない、これは侍の良心の問題だ」
 疲れきって、空腹で、死ぬほど眠いにもかかわらず、菅田平野は高邁こうまいな感情に包まれていた。精神もすがすがしく、爽やかであった。もっとも腹の中のことはべつである。腹の中では(もうずっとまえから)まったく違う声が彼を非難していた。
「くうくうくうこの虚栄心の強い偽善者め」とその声は云うのであった。「きさま空腹のあまり切腹のまねまでしたじゃないか、なにが侍の良心だ、きさまは充分に役立ったし、仕官は確実に眼の前にあった、くうっ、くうっ、さあ戻れ、すぐ十郎太のところへ戻れ、仕官するのが照れくさいのなら約束の金だけでも借りろ、あの男の紙入の中にはおまえに約束した金があるんだ、さあ戻ってゆけ」
「頼むから戻ってくれ、お願いだから」と腹の中の声は続けるのであった、「こんなに空腹で無一物でどうするんだ、おれはいやだぞ、こんなに腹ぺこでなにが高邁だ、おれはいやだ、いやだいやだいやだ、やいこの……なにか食わせろ、やいなにか食わせろ」
 菅田平野は唇を曲げて立停った。頬がかゆいので手で擦ると、乾いた泥がぽろぽろと落ちた。彼は自分の躯を眺めまわし、半ば乾いた泥まみれの、古びて継ぎはぎだらけの着物や袴を見、やはり泥だらけの素足にはいた、古下駄を見た。
 腹の中でまた鳴音がした。それは馬蹄の音のようであった。菅田平野はどきりとした、彼の名を呼ぶ声が聞えるのである、腹の中の鳴音から馬蹄の音が分離し、彼の名を呼ぶ声がはっきり聞えたからだ。
 彼はどきりとしながら振返った。
 井坂十郎太が馬をとばして来た。笠も合羽も着ず、鞭をあげてけんめいにとばして来た。馬蹄のあげる雨水のしぶきが、そのときほど爽快に、またたのもしくみえたこと(菅田平野にとって)はなかった。
「どうか戻って下さい、菅田さん」
 乗りつけた馬からとびおりると、井坂十郎太は懇願するように云った。
「いやわかっています」と十郎太は息をはずませながら云った、「貴方がどうして立去られたか、私にはよくわかっています、しかしそれはいけません、貴方のお気持はあっぱれだが、それでは私どもが困るのです」
「――貴方がたがお困りになる」
「伯父にどなられたのです」と十郎太が云った、「こんどの事で、貴方に藩の内紛を知られてしまった、藩の内紛を知られたからには、このまま菅田さんをよそへやるわけにはいかない、ぜひ戻って任官されるか、客分として留まってもらわなければならない、すぐ手分けをして追いつけと云われたのです」
 菅田平野は心の中でわれ知らず叫んだ。
 ――有難い、これで堂々と帰れるぞ。
 だが、彼はできるだけ渋い顔をして頷いた。
「なるほど、それはおっしゃるとおりかもしれませんな」
「戻ってくれますか」
「やむを得ません」と菅田平野は云った、「――御藩の平安のためですから戻りましょう」
 そしてつい知らずおじぎをし、十郎太を見て、もうがまんしきれずに笑いながら云った。
「どうも有難う」





底本:「山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま」新潮社
   1983(昭和58)年1月25日発行
初出:「サンデー毎日臨時増刊涼風特別号」
   1954(昭和29)年7月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年5月27日作成
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