風流化物屋敷

山本周五郎




一 柘榴ざくろ屋敷に物怪もののけの沙汰


 住宅難のこんにち、こんなことを云うと殴られるかも知れないが、僅か十数年まえまでは東京市内などにもよく化物屋敷といわれる空家があった。かく申す風々亭の住んでいた大森馬込にもそんなのが二軒あって、酔った元気で探険に乗込んだりしたことがある、片方は滝夜叉姫でも現われそうな荒れ朽ちた景色だったが、もう一方はまださして古くない門構えのがっちりした二階家で、いもや南瓜を作るには余るくらいの広い庭が付いていた。こんなのがかなり貸家不足になってからも長いこと空家で放ってあったのだから、怪異をおそれる人情がどんなにゆかしいものであるかということを想像して頂きたい。原子力などというとんでもない物が現われるつい十数年まえでさえこんな風であった。これが旧幕時代となると化物の基本的人権が確認されていたので、かれらの跋扈跳梁ばっこちょうりょうはあたかも黄金境の観を呈し、幽霊もののけ妖怪変化、死霊いきりょう魑魅魍魎ちみもうりょう狐狸こり草木のたぐいまでが人を脅し世を騒がしては溜飲りゅういんをさげていた。「化物屋敷」などは通俗の俗でいささかも珍しくはなかったのである。
 安芸のくに広島は浅野家四十二万六千石の城下で、市中の家数一万余軒、商品が自由交易性のため他国から出入りする商人も多くて、中国地方第一の名にそむかない繁昌な土地であった。……体閏院たいじゅんいんさまは末年の頃というから享保年代のことだろう。この繁華な広島城下のしかも武家町の中に一軒の化物屋敷があった。城の東に縮景園という藩侯の泉邸がある、場所はその近くで、武家町としてははずれのほうだったが、もう七八年というもの空家になっていた。ひと頃は望んで住む者もあり、中には「ひとつ己れが退治てやろう」などと押しかける手合もあった。けれどもよくってひと晩、いくじの無いのは夜なかまで保たない、例外なしにあおくなって逃げだすと、それっきり口を拭って寄りつかないのであった。元禄享保といわれるくらい四民は鼓腹して泰平に酔っていた時代である。武士の気風も弛廃堕落していたんだろう、などといきまくには及ばない、いつどこにでも岩見重太郎や宮本武蔵がいる訳ではなく、武士だって大抵は人間なみの神経を持っていたし、「怪力乱神を語らず」といって、むしろ化物いじりなどは軽忽けいこつとされたくらいである。
 その家は自体もう古くてかなり荒れていた。元は五六百石の侍が住んだものだろう。部屋数も多いしうまやもある。庭も五百坪ばかりの広さだが、樹という樹は遠慮もなく枝をひろげ、それへ藪枯やぶからしだの刺草いらくさだのがむやみに絡み繁って、さながら欝蒼うっそうたる密林の観を呈している。庭正面の空いた所は、一面に女竹のたけのこがにょきにょき伸び、そのまん中に高さ一丈五尺もありそうな柘榴ざくろの木があって、季節になると枝という枝に朱色の花をびっしり咲かせるが、荒廃した風景のなかでその毒々しい赤さは一種の妖気ようきを帯びてみえる、誰の眼にもそう映るのだろう、いつからかこの家は「柘榴屋敷」と呼ばれていた。……さて家の裏はくぬぎと杉の林、東は深い藪で、西側に屋根付きの井戸がある。そこから三四間おいて檜葉ひばの生垣を境に、三浦十兵衛という隣り屋敷と続いている。……三浦は馬廻りの二百五十石で五人家族、夫婦と老婆と一男一女である。長男はまだ八歳、娘はとみといって十七になる、この家族はみんな隣りの化物屋敷のことをよく知っているが、なかんずく娘のとみが最も熱心な観察者であって、彼女はそのために浩瀚こうかんな備忘録を書いている。ぜんたいとみは幼い頃から「ものに驚く」ことが好きで、この世に不思議や不可解な事が無かったら生きている張合いもないと断言しているくらいだ。したがって化物屋敷についての備忘録は極めて入念詳細にわたり、年月日、天候、時刻、現象、度数など、その記述の科学的なること井上園了氏の「幽霊学」をしのぐこと万丈である。その一班を摘要してみよう、――通例として怪異現象は人が住んだり「退治に」乗込んだりする時に最も活溌である。光り物と烈しい響音(天床裏を石臼いしうすでも転げるような)と哀哭あいこく悲鳴とが建物ぜんたいを包む、それは正に「化物どもが獲物を迎えて大饗宴きょうえんをひらく」ようだと彼女は記述している。人間がいないと現象はずっと低調になった。光り物は母屋の廊下を通過するか、軒先から屋根の上などへ現われて消える、響音も慟哭どうこくもごくかすかで、あたかも「化物共は無聊ぶりょうかこっている」ようだと備忘録には記載してある。……しかし書割はこのくらいにして、これから読者諸君を現場へ御案内することにしよう。だがちょっと待って下さい、いま三浦家の門へ少年が一人とびこんだようです、ああとみ嬢の弟の小太郎ですね、彼は庭ですぐ姉をみつけました、そして肩で息をして血相を変えてこんなことを云っています。「姉さん大変だよ、隣りの化物屋敷へ誰か引越して来るよ」「まあ」とみ嬢はぱっと眼をみはった。それはほんもののチョコレートを箱に一杯貰った子供の表情そっくりである。しかもなかなか美しい、彼女は弟に事実かどうかをたしかめたうえ、もういちど大きく、「まあ――」と叫び、たぶん備忘録を書くためだろう、あたふたと家の中へ駈け上っていった。

二 世に人間のいればいるもの


 柘榴屋敷へはいったのは御座みくら平之助という若侍である、浅野家の江戸家老で一万二千石を取る植田主水という人の三男坊だが、絶家していた御座姓を継いで広島詰めになった。年は二十七歳、肉付のいい五尺七寸あまりの堂々たる体躯たいくと、のんびりした図抜けて明るい上品な顔が人眼をひく。ゆらい、三男はすばしっこくて負け嫌いの暴れん坊と商標の定ったものだ、しかるに平之助は全然その逆であった。いや逆などというなまやさしいものではない、「世俗の異端者、常識の謀反人」というべきである、もっともこれは彼の精神がひねくれていて、ことさら俗習に反抗したというわけではない、捻くれるどころか彼ほど純真無垢むくで生一本で明けっ放しで明朗な人間は、神か白痴の社会でなければみいだすことはできないと保証してもいい。なにしろ、生家が一万二千石というちょっとした大名くらいの収入があり、育ち方も違うのだがしかし、――否、それは物語の進むにつれて自然とわかってくることだ、ひとつ彼のすることを見るとしよう。
 隣りの小太郎少年が報告に駈けつけた日には、係りの下役人と御座の下僕がやって来て、掃除をしたり荷物を運び込んだりしていった。そのとき下役人たちは権八といういきな名前の下僕(彼は二十七八の相撲でも取りそうなたくましい壮漢であった)に向ってしきりになにか冗談を云っていたが、権八のほうはせせら笑って、「人を馬鹿にするない、おらあ旦那に奉公する給銀は貰うが、化物のお相手をする義理あねえんだ」と威張っていた、「そんなことを云ったって化物は家に付いているんだ、この家へ奉公すればいやでも化物と取っ組合いをやらざあなるめえ」「化物の出るなあ昼間じゃあねえだろう」権八はもういちどせせら笑い、「夜んなったら余所よそへ泊りゃあいいんだ、べらぼうめ男は頭だ」こういきまいていた。その翌日、御座平之助が飄然ひょうぜんと現われたのである、彼の風貌はすでに紹介してあるから、忘れた読者は前を参照して頂けばいい。前の日ともかく掃除はしてあるが、なにしろ十年ちかくも定住者が無かったので、ちっとやそっとお役目の掃除をしたくらいでどうなるものではないが、彼にはかくべつ気にもならないとみえ、実に飄々悠々と門をはいり、敷石を踏んで家へ上った。権八が案内役で家の中を見せてまわる、「ここが風呂舎でござります、ここがお端下はしたで、向うに三つばかりなんに使うのかわからないお部屋がござります、へい、この廊下をこう曲りまして御接待、お控え、表のお客間、一つおいてこれが御新造さま、次が同じくお寝間、風炉の間、お仏間、これが御隠居さまで廊下のそちらが旦那のお寝間、へい、こちらへ曲ってこれが奥のお客間、お控え、旦那のお居間と、あらましこうなっておりますんで、へい」平之助は温和おとなしく聞き歩いていたが、すっかり見てしまうとやおらこう云った、「ふむ、で……この家の主人はなんという人だ」「へっ?」権八は旦那を見た、「な、なんとおっしゃいましたんで?」「それでこの家の御主人はどういう人かといているんだよ」「とすると」権八は手を頭へやった、「それはその、詰るところ、旦那でござりましょうがな」「旦那というとこのおれか」「……で、ござりましょうがな」「おまえはどうかしているぞ」平之助は首を振りながら、おれには隠居だの御新造なんかありやしないとつぶやいたが、そのとき彼はふと庭へ眼をひかれた、女竹の筍がむやみとにょきにょき突立っている庭のまん中に、例の柘榴がいま満枝に朱色の花を咲かせているのである。荒れ放題に荒れた周囲の風物に対して、その華やか過ぎる毒どくしい色は妖気を放つかのようにみえた。平之助はこの景観をつくづく眺めてから、やがて人の好さそうな微笑をうかべながら、「うん」とうなずいた、「なかなかいい、うん、――こりゃあなかなか閑静でいい」権八は疑わしげに旦那の顔を見た。皮肉じゃないかと思ったのである、「お庭もまあちっとずつ苅込かりこみますで、へい、なにしろおそっきゅうのことで今日の間に合わなかったものでござりますから」「いや手を付けてはいけない、気に入ったよ」平之助は恍惚うっとりと眼を細くした、「これだけ自然の味を出すというのはなみ大抵じゃあない、凡手ではない、よっぽど腕のある庭師でなければこうはいかない、うむ、――気に入った、草一本うごかせやしない、うん」これは皮肉ではない本気だと思ったとたん、権八は感激の余りこの旦那のためには骨身を惜しむまいと誓ったものである。なにしろこの手入れをするということを考えるだけでうんざりしていたんだから。――このとき向うの檜葉の生垣からこっちを見ている娘があった、即ち三浦のとみ嬢である。彼女はそこから、広縁に立っている御座平之助の姿をじっとみつめていた、好奇と憧憬どうけい嫉妬しっとと反感と執着と羨望せんぼうと憎悪と愛着と、――その他ありとある感情情緒をひっくるめたまなざしで、じっと、じっとみつめていた、それから「まあ、――」と溜息ためいきをつくように低く叫んだ、「まあ、――」

三 だんだんと日の昏れゆく庭


 午飯ひるめしになると市中の「古梅亭」という料理屋から酒を付けて食事が届いた。なにしろだいぶみんなで奔走してくれたが、奉公人がとんと無かった、当時は三月が奉公人の出替りと定っていたので、季節はずれにはなかなか無いものだ、それでも柘榴屋敷でなければ二人や三人都合のつかないわけはない。給銀を倍にして前払いでやっと承知をしたのが権八ひとりで、それも「親が病気でているから夜だけ看病にゆかせて貰う」という条件つきであった。仕方がなく権八は自分の食事を作るとして、平之助は誰かみつかるまで料理屋から運ばせることにしたのである。……午飯を食べると彼は横になった。片付けに来た権八がみると酒に手がつけてない、「これは召上らねえのでござりますか」「うん――」「おげこでおいでなさるんでござりますか」「なにどこへもゆきあしないよ」「いえ御酒はおたしなみやあしゃらねえのでござりますか」「酒か、うん、――酒は飲まない」旦那はこう仰しゃった、「酒を飲むと酔っていけない、詰らないもんだ」「へえごもっとも、ではこのまま」権八はごくっとのどを鳴らして膳部ぜんぶを下げていった。平之助は半刻はんときばかりうとうとした、午飯の後のひと眠りは少年時代からの重要な日課で、それをしないと夜の寝つきが悪いのだそうである。人を訪問した時もこれだけは欠かしたことがなかった。さてひと眠りして起きると権八を呼んで将棋盤を出させた、「将棋とは結構な御証文でござりますな、へえ、わっちはもうおからっぺたでござりましょうが」「おまえ時どき妙なことを云うなあ――」平之助は盤の上へ駒を並べながらこう云った、「お嗜なみやあしゃらないだの、おそっきゅうだの結構な御証文だの、おからっぺただの……それは広島の方言か」「法眼だか検校だか知りませんが、へえ、へえええ、まだそのお武家ことばをよく存じやしゃらねえので」「そうか、しゃらねえのか、ふむ――」こんなことを云って並べたのを見ると、迎え中飛車で中盤どころまで指掛けてある駒組だった。てっきりお相手と楽しみにしていた権八がっかりして、「旦那お独りでお指しやしゃ、しゃしゃ」「舌をむなよ」「……しゃるでござりましょうがな」「そんな詰らないことはしゃりあしない、相手はちゃんとあるよ」「というと、このお土地の方で?」「なに江戸だ」「江戸」と権八は唾を喉へ突掛けた、「と仰しゃると、その、ずっと遠くのあのお江戸でござりますか」「そうだ、ずっと遠くの江戸だ」「へえ、――でその、その江戸のお相手と、お指しなさるんで」「その相手と指すのさ」「へえ――」権八はごくっと唾をのんだ、「それでその、どうやってその」「どうやるものか、将棋は向うが一手指せばこっちが一手指すときまったものだ、相手は笹野久太夫といって江戸屋敷ではなかなか強い、これはおれが先手で始めたんだが、笹野にこの五五歩を突かれて取るかどうかに迷っているところだ」「えへへへへ」権八はあたりを見まわしながら少しずつ後ろへ退りだした、「で、――その、さ、さ、笹野さまは、そのどっちにお坐りになって」「ばかだな、おれがこっちにいれば笹野はそっちに定ってるじゃないか、それそこだ」「わわ――」てえと権八は横っ跳びにどこかへすっ飛んでしまった。脅かしでもなんでもない、江戸を立つとき指掛けになったのを、これから一手ずつ飛脚便で指し継ごうという約束をして来た、笹野と彼の将棋は長考で名が高い、一番に二十三日という記録がある、これが一手ずつ手紙に書いて、広島と江戸を飛脚の往復で指そうというのだから、なん年かかるか、幾ら昌平の世でも桁外けたはずれである。後で事情を聞いたから安心したようなものの、権八はてっきり旦那が幽霊と指すもんだと信じたのだそうだ。……さて五五の突歩を取るかどうか、考えているうちに夕飯が届いた。詰り早くも日がれるわけである、権八はそわそわしながら膳部を運んで来たが、また酒が付いているのではと迷った、終るのを待っていれば旦那は食事が長いから日が昏れてしまうだろう、といってそこへ置いたばかりで、酒はとも訊けない、だいぶ迷っていたが喉の鳴るのにはかなわない、えいと覚悟をきめてお伺いをたてたら、旦那はやっぱり嗜なみやあしゃらねえと仰しゃる、「ではこれから親の看病にやって頂きますでしょうが、へえこれは持っていって病人に頂かせますでしょうがな」むやみに仮名ちがいの言葉がぬたくってうまく頂戴した。午飯の時のと合せて五合、こいつを抱えて後は野となれ、権八はいっさんに柘榴屋敷をとびだしたが、それから半刻もすると天満川の河岸っぷちにあるいかがわしい家のひと間で、おでこであかっ毛の肥った女を相手に、「なにしろおめえ場所が柘榴屋敷だ、そこへもってきて江戸にいる人間が旦那の向うに坐って将棋を指そうってんだから肝っ玉をつぶさあ」などと看病に熱をあげていた……こちらはその柘榴であるが、旦那の平之助はまだ将棋盤に向って考えこんでいた。行灯の光が明けてある縁側から庭へこぼれるので、例の柘榴の花がおどろおどろしく見えるが、旦那は、なんとも思わないようすで、盤面を見たまま頻りに首を捻ったり、「ふむ、――と来るか、なるほど」などと呟いていた。

四 寝耳うるさき床下の声


 平之助が寝たのは、十時過ぎであった。ひる寝をしたおかげでぐっすりと眠りこんだが、なん時間ぐらい経ってからだろう、天床でおそろしく騒がしい音がするので眼がさめた。鼠にしては激し過ぎる、沢庵石でも転がすような具合で、ごろごろがらがら天床いっぱいになにか走り廻るのであった。「むーむ」平之助はこううなって天床を見上げ、大きな欠伸あくびを一つするとやおら寝返りをうって眼をつぶった。物音はぴたっと止った……耳を聾するような激しいとどろきが急に止ると、きみの悪いほどしんと夜陰の静寂がのしかかった、なんの音もしない、正札付き、「死の如き静寂」だ、然しその沈黙のなかに、やがてなにかの微かな声が聞えだした、途切れ途切れのごく微かな声である。始めはどこでなんの声がするのかわからなかった。やや高くなり、また低くなり、訴えるが如くむせぶが如く断続していたが、やがてそれが人間の呻く声だということがわかるようになった。……しかもそれは平之助の寝ている直ぐその床下から聞えて来るようだ、「ああーああうう」その声はこう呻いている、それからやがて木の箱を爪でひっくような音がする、がりがりがりがり、「ああ――」絶望的な呻きからやがて絶え絶えなあえぎと言葉に変る、「おねがいです、ここから出して下さい、棺箱の中は苦しくって堪りません、ああ、――おねがいします、棺の中から出して下さい」それからまた絞られるような声で呻く。平之助はまた寝返りをうった、なにしろ枕のすぐ下から聞えるので熟睡できないらしい、舌打ちをして、彼はだるそうに寝床の上へ起き上った。眠いので眼がくっついている。両手をひざへ突いて、頭を垂れて、「うーむ」とうなった。すると床下の声は絶え入るようなすすり泣きに変って、「あああさましい、手も足もこんなに腐ってしまった、あたしはもうはんぶん骸骨だ、ここから出たい、おねがいします、どうかこの棺の中から出して下さい、――」「うーむ」と権八の旦那は唸った、それからまた一つ大きな欠伸あくびをしたと思うと、さすがに少し怒ったとみえ、「なんだか知らないが昼間のことにしてくれ、眠くってしようがありやしない」こう呶鳴どなってごろりと横になった。床下の声はそれからも続いた、棺箱を爪でひっ掻くぞっとするような音も。……けれど旦那も黙ってはいなかった、二三ど寝返りをうったと思うといびきをかき始めた、しかもそこらにありふれた俗な種類の鼾ではない、それは、極めて組織立った五音階の轢音れきおんと擦音とより成り、繰返されるフォルテッシモの部分において巧みに主題を表現するのであるが、その単純な主題の反復変化するだけでかくの如き荘重華麗な効果をあげる例は、モウリス・ラベル作るところの交響詩曲「ダフネとクロエ」以外には類が無いであろう。床下の声も物音もんだ、その音楽的効果に於て、とうてい敵すべからずとみたに違いない、それからもどこかでふすまの開く音や、廊下をゆく忍び足の音などが起った。天床でとつぜん、「けらけら」と女の笑う声もした、これらは床下の声よりも洗練された技巧と表現をもっていたが、結果としては旦那の鼾の伴奏に役立っただけである。……権八は夜が明けてから帰って来た、旦那は化物にとり殺されたか、それとも夜なかに、どこかへ高飛びをしたに相違ない、特別契約で倍額の給銀を前取りにしているから、そうなれば占めたものだ、こう考えながら家へはいった、それから鼻唄などのいい気持で廊下をずっと旦那の部屋へゆくと、蚊帳が釣ってあって夜具が敷いてある、しかし旦那の姿はどこにもみえなかった、思わず、「かッちけねえ」と叫びかかったが、ふと裏のほうで旦那の声がした、「私は御座みくら平之助という者です」こう云って誰かと挨拶を交わしているようだ、びっくりしてそっとのぞくと、旦那は井戸端に立って隣り屋敷の人と話をしている。「あっ、生きてやがる」思わずそう云ったものの、こいつはいけねえと横っ跳びに台所へとびこみ、どうか縁起の直るようにと、力いっぱいりきんで一つをひった。実にこれらの人間は下賤なものである。……生垣をはさんで平之助と挨拶を交わしていたのは、三浦のとみ嬢であった、彼女は昂奮こうふんと感動で全身がいっぱいになり、立っているのもようやくという風に見えた。「それで、――それでゆうべは、よくおやすみ遊ばしまして?」「よく寝ました。私は昼寝さえすれば夜はぐっすり眠れるほうです」「なんにも、別になんにも、変ったことはございませんでして?」「そうですね、……」彼は手拭で衿首えりくびをこすった、とみ嬢の好奇心は正に頂点に達し、両手は夢中で生垣の檜葉のむしりちらしている。平之助はなかなか口を開かない。とみ嬢は堪りかねたのだろう声を震わせながら、「わたくしお宅で色いろな物音や人の泣声などがするように聞きましたけれど」「ああそうそう」旦那はにこっと笑ってとみを見た、「そうでした、そんなことがありましたよ、やかましくって眠れないもんですからね、とにかく昼間のことにしてくれと云っておきました」「昼間の――」「だって夜なかにどうしようがあるもんですか、誰だって寝る時刻ですからね」「まあ、――」とみ嬢の両手がこの時ほど勢いよく生垣を毟りだしたことはない、彼女は庭師のはさみよりすばやく檜葉を毟りながら、そして驚異とあこがれの燃えるような眼で、激しく平之助を仰ぎ見ながら、深く深くこう嘆息をもらした、「まあ、――」

五 深夜にお茶を運ぶ足音


「ああとうとう私の望みの果される時が来た、小さい時から色いろ不思議なものを見たり聞いたりしたが、御座さまほど私の心をたかぶらせき着けゆすぶって火のようにしたものはない、どんな化物も幽霊もあの方に比べれば真昼のほたるくらいなものだ、なんという方だろう、なんという――」寝不足の眼を赤くして、むやみに感歎詞を並べながらとみ嬢は備忘録をつけていた。ふっくらとふくれた胸は激しく波をうち、頬はぽっと上気に赤らんでいる、彼女にこんな悩ましいほどの美しさが隠れていようとは思わなかったが、まあこれは備忘録を書かせておいて、我々は柘榴屋敷へいってみよう。……平之助は朝飯を終って縁側へ出ている、もう半刻はんときもそうやって茫然と坐っているのである、時どき首を捻ったり唸ったりする、なんだか知らないが物忘れをしてそれを思いださなければならないような気持なのだ。なんだろう、なにか頭にひっかかっている、たしかに――胸の中のようでもあるがいや頭だ、どうも頭のこのへんだ、などと考えている。屋敷の中は静かである、権八は看病疲れだとみえて、ひと掃除したあとすぐ自分の部屋へ引込み、いま居眠りのまっ最中だ。……午飯までなに事もなかった、午睡もちゃんとやったし、夕飯も無事に過した。権八は今日もまた古梅亭の酒を五合せしめて、昏れる前にとっととずらかった。旦那は五五の突き歩を十時頃までにらんでいた、それからやがて眠くなったので、寝間へいって蚊帳の中へはいった。……権八がずらかって間もなく降りだした細かい雨が、陰々と更けてゆくひさしにひそかなささやきの音を立てている、静かだ、ひきこまれるように静かな夜だ。蚊帳の外にある有明行灯の火がじじじとまたたく、なに事もない、……いやそうじゃあない、廊下の隅のほうがぼうと明るくなった、青白い光がふわふわ揺れている。ぴた、ぴた、ぴた、廊下を素足でこっちへ歩いて来る者がある、青白い火の玉はその足音の先になって、ゆらゆらと宙を泳ぐように飛んで来る。しかし旦那は熟睡していてなんにも知らない、足音と火の玉は寝間の前を通り過ぎ、廊下の突当りまでいってまた引返して来た。だが旦那は依然として身動きせず眠っている、――平之助が習俗の異端者であり常識の謀反人であると申したわけを今こそ読者は諒解りょうかいされたであろう。現在かれの示している態度は自然現象に対する冒涜ぼうとくであり、神秘への最大な侮辱だ。といきまいてみたところで、当人がこのとおり眠っちまっているんではどうしようもない、気の毒なのは廊下の化物氏であって、これでは氏としても立場がないわけである。フランス国にデカルトという肥ッちょがいて「人はいんちきするが故にぞんざいになる」と後悔しているが、これに照しても人間は眠るにさえぞんざいであってはならないということがわかる。……青白い光は廊下の向うへ消えてしまった。足音も聞えなくなった。化物は悟ったのである、かかる神経の持ち主に対しては情緒的手段は無価値である、専ら実効的具象的方法に拠るべきだ。果然! 天床で例の石臼でも転げるような音が轟き始めた、ごろごろがらがら家鳴り震動である、床下でもきいきいきゃあきゃあ得体の知れない悲鳴が起った。平之助は眠りを妨げられ、余りの騒々しさにむくむくと起き上った。そしてまだくっ付いている眼をしかめて、ふきげんにこう天床を眺め、片手でぼりぼり衿首を掻いたと思うと、欠伸をした。家鳴り震動はますますさかんである、床下でも負けずに景気をあげている、「うーん」旦那は閉口して唸った、とたんにあらゆる物音が死滅した。天床も床下もぴたっと鳴りをひそめたのである、墜落的沈黙というやつで、家ぜんたいが墓場の中のように森閑と鎮まりかえり、庇を打つ雨の音がしとしと聞え始めた。「やれやれ」ほっと太息をついて旦那はまた寝ようとしたが、ふとなにか聞きつけてふり返えった、……襖がすうっと開いたのである、奥の客間へ通じている襖がすうっと開いて、暗がりの中からこっちへ入って来る者があった、行灯は反対側にあるし火が細くしてあるからよく見えないが、たしかに誰かはいって来る、……それは蚊帳のそばまですっと音もなく近寄った、手にお盆を持っている、そしてしずかに蚊帳の外へ坐ると、細いかすかな声で、「お茶をあがれ……」と云いながら、こっちへ向いてこう顔をあげた。まっ白いぺろんとした顔に目が一つ、眉毛も鼻もなしで、まっ赤な口が横に裂けている、平之助は坐り直して「やあ、――」と云った、「それは済まない、そこへ置いといて下さい」、「…………」化物は口をあけてなにか云った、「なんです、なにか云いましたか」平之助はこう云って初めて相手の顔を見た、「やあ、――これはどうも、失礼ですがたいへんな怪我ですねえ、火傷ですか」「……なにが」「なにがって、いや失礼、眼鼻だちがだいぶ欠けておいでだから、火傷でもなすったのかと思ったんですよ」「……これは火傷なんかじゃありませんよ」「すると生れつきですか」「生れ……変なことを云わないで下さい、ばけものですよ」「腫物はれものですか、面疔めんちょうというやつですね」「一つ目小僧ですよ」さあ面白くなってきた……。

六 出る幽霊は出るだけの訳


「ほほう一つ目ね」旦那は気の毒そうに頭を振った、「さぞ不自由でしょうなあ道なんか歩くのに、その代りまあ見当が狂って、物に突当っても、ぶっつける鼻が無いんだから差引きはついてるわけだ」「……お茶をあがれ」化物は自分の任務に気がついて哀ァれな声をだした。「ああそうそう折角だから頂きましょう、お手数だがここへ下さい」「……あがるんですか」「貰いますよ」「……困っちゃったなあ」化物はこう呟いてもじもじし始めた、「そのう実は、実はないんですよ、これは空っぽなんで」「……というと、それはどういうことなんです」「全然お茶なんか入っちゃあいないんですよ、すっからかんなんで」「へえ、――で、それをわざわざ持って来たんですね」「ええ、つまり、持って来たんです」「するとなんですね、初めからだます積りで来たというわけですね」旦那はむっとしたようである、化物は慌てて手を振った、「決してそんな騙すなんて、そんな失礼なことは考えちゃあいませんよ、だってこんな筈じゃあなかったんで、あれしたもんなんですから」「じゃあどんな筈であれしたんです」「どんな筈って、――どうも困っちゃったなこれは、済みません、ちょっと待って下さい」とうとうやりきれなくなって、化物はこそこそ立っていった。どこへなにをしにいったのか、ひとつ後からいていってみましょう読者諸君、足音をさせないようにこっちへこう来て下さい。……廊下を二た曲りして端下の更に向う、権八のなんに使うかわからないと云った部屋の一つに、十人ばかりの人間が車座になっている、行灯にはおおいが掛けてあるので光は暗いが、人間であることは間違いがない、しかも中に年増と若いのと二人の女性も混っていた。一つ目小僧はここへとび込んで来たが、冠っていたお面とかつらほうりだすなり、「おいみんな助けてくれ、おらあやまったよ」とそこへぶっ坐った。どうしたどうしたとみんな寄って来る、一つ目先生は(三十前後で職人体のなかなか好男子である)片手で滝のような汗を拭きながら、「なんだっておめえ、いきなり火傷かとくるんだ」と口から唾をとばした。「目が一つで見当が狂うだろうが、物に突当ってもぶっつける鼻がねえから差引き損はねえてんだ、茶をあがれてったら貰おうと来た、おまけにここへくれと云われた時にあ進退きわまりだ」「なぜきわまりなんだ」「なぜっておめえ茶なんかへえっちゃあいねえじゃあねえか、お手数だがと、先方が礼儀で来るのに幾ら化物だっておめえ――まさか空っぽの茶碗が」「なにを云やあがる――それで引っ込んで来たのか」「だっておめえ先方は怒っちまった。実は空っぽだってったら騙したのかってよ、おらあ肝を潰して、取り敢えず」「なにが取り敢えずだ、化物の方で肝を潰してりゃ世話あねえや」「そういうけれどもおめえ、あのさむれえは化物てえものを知らねえらしいぜ、まるっきり」「およしよ辰さん、ばかばかしい、世の中に化物を知らない人間があるもんかね」年増のちょっとあだっぽい女性がこう云った、「いいよ私がやってみよう、久し振りで腕っきりやってみるから、みんなも来て見ているがいい――六さん支度はあったね」「持って来てあるよ」「手伝っておくれな」さあ急ごう読者諸君、もういちど旦那の部屋へ元がえりだ。……大丈夫、まだ旦那は起きていた、待ってくれと云われたので待っているのだろう、しかしよく見ると寝床の上に体は起きているが、両方の眼はくっついてしまったし、こくりこくりと頭がのめる、要するにいい心持で居眠りをしているのである。……夜はすっかり更けてきた、庇を打つ雨の音が、しとしとしとしとと滅入るように聞える、と、やがて、そこの襖がすうっと開いて、暗がりの中からゆらゆらとなにかが現われた、ふらふらと、こっちへ近づいて来る、長いさんばらの散らし髪が顔から肩をすべってだらりと垂れ下り、青白いせた手を、こう……前へ泳がしている、半面どす黒い血に染った顔で歯をくいしばり、眼を三白に吊上つりあげた凄惨せいさんな表情である、骨立った細腰を折れたようにかがめ、長い裾をきながら蚊帳の側まですうっと近寄って来た。そして糸のようにかぼそい怨念のこもった声で、「うらめしやな、……」と呻いた。旦那の頭はこくりと前へのめったが、怨念の声は聞えなかったようだ、幽霊はもういちどうらめしいと云って容子を見た。二分ばかり待ってから、こんどは少し高い声でやった、けれど旦那にはまだ聞えないようである、しようがないもっと大きな声でやるか、しかし怨念の声などというものは糸のように細くて哀れなのが相場であって、野球の応援団のように景気よく喚きたてるわけにはいかないのである、そうかといって相手を眠らせて置いたんでは仕事にならない、仕方がないから、「えへん」とせきをしてみた、咳払いをする幽霊なんてそうざらにあるもんじゃないが、こいつは利目があって旦那の肩がぴくっと動いた、これはうまいともう一つ追っかけてやった、果して旦那は眼をさまし、「ああ誰だ、権八か」とねぼけたような声をあげた、「もう夜が明けちゃったのか」こう明朗に出られようとは夢にも思わない、幽霊は戸惑いをした、また眠られては困るから、取急ぎすごんだ声で、「うらめしやなあ――」と呻いた。

七 知らない者の強さにも隙


「ええなんだって」平之助は振返えった、「ああおまえさんか、お茶を持って来てくれたんだね」「違いますよ」相手の調子に釣られて思わず――こう返辞をしてしまった、「違うってそれじゃあなんです」「うらめしやな――」「よく聞えないが、おやおやこれは人が違いますね、一つ目さんかと思ったらあなたは御婦人ですね」「うらめしやな――」「その、失礼だが貴女の声はばかに小さいんでよく聞えないんだが、もう少し高い声は出せないんですか」「それあ出せば出ますよ」「ああそれなら聞える、一つそのくらいの声でやってみて下さい」「そんなことを仰しゃったって、これは一つやってみるなんてものじゃないんですからね、旦那のほうでもようく聞いてて下さらなくちゃ困りますよ、洒落しゃれや冗談じゃないんですから」幽霊は自尊心を傷つけられたとみえてすっかり腹を立てたらしい、「ようござんすか、やりますからね」こう念を押してから、改めてぐっと凄いところを呻いてみせた。「ははあ――」旦那はよくわからないとみえて、あいまいな薄笑いをしながら「こんどは聞えました」と保証した。「聞えただけですか」「いやそんなこたあない、私も大体まあそういったような訳だと思いますよ」「そういった訳ってどんな訳ですの」「貴女がいま云ったような訳ですよ」「私の云ったことには別に訳なんかありやしません、ただ云っただけですわ」「それならなおさら文句はないでしょう、――これだから女は嫌いだ」終りの言葉はごく小さく呟いたのだが、幽霊のほうはかんが立っていたから聞きとがめた、「なんですって、これだから女は嫌いですって、へえ、――旦那は女がお嫌いですか」「ああ嫌いですね、大嫌いです、殊にそんな風につんけんする時の女は、蚯蚓みみずよりも嫌いですよ」「みみずですって、へん」幽霊はひらき直った、「仰しゃいましたね、旦那、私のことを蚯蚓って仰しゃいましたね」「そんなことを云うものか、蚯蚓よりも嫌いだと云ったんですよ、蚯蚓はそんな詰らない理窟りくつをこねやあしないし、泥まみれの顔に髪も結わない失礼な恰好なんかで人の前へ出て来やあしない」「大きにお世話さま、これは泥じゃないんですからね、紅と胡粉ごふんを練って付けた血のりなんですから、髪だって結っていたのをわざわざ解いて来たんだ、へん、訳もなんにも知らないであんまり人を馬鹿にしないがいい」「うるさい、私はそういう声を聞くと癇癪かんしゃくが起ってくる、済まないが出ていって下さい、ここは私の寝所ですから」「まっぴら御免ですよ、こんな恥をかかされて、へえそうですかと出てゆくようなねえさんとは姐さんが違うんだから、出すなら出すようにちゃんと話をつけて貰いましょう」こう云ったと思うと、幽霊はそこへ立膝をして、どっかと坐り込んだ。とうとう喧嘩けんかになってしまった。立膝をした裾合から水色縮緬ちりめんなまめかしいものがちらちらみえる。けだし彼女は長年の経験から、かかる場合に最も効果的な姿勢を取ったわけであろうが、半面を血のりで塗りたくって散らし髪というこしらえだから、その効果はむしろ逆になったというべきだろう、平之助はまだ怒りを抑えていた、「じゃあ出てゆかないですね」「ああいきませんよ」「本当に出ませんか」「出ないから好きにしたらいいでしょう、さあ斬るとも突くとも御勝手にして下さい」「――――」平之助はすっと立って蚊帳を出た。とたんである、隣りの部屋から、「まあまあ旦那どうぞしばらく」と云いながら、十人ばかりの人間がどやどや雪崩なだれこみ、片方は幽霊を、片方は平之助を押しなだめにかかった、「へえなんとも申しわけがござんせん、あれは瘋癲ふうてんのお松というあばずれ者で、腹を立てると相手の見境がつかなくなる性分でござんす、どうかまあ旦那お腹立ちでもござんしょうがげて一つ」「おびはどんなにでも致しますから、どうか御勘弁を」「命ばかりはどうか助けておんなすって」寄ってたかって拝み倒しにかかった、「なにをそう騒ぐんです」平之助はあっけにとられて、「私はどうもしやしない、あの人が出てゆかないと云うから向うへいって寝るところですよ」「へえ、向うで、――?」「居間のほうで寝ますよ」こう云って出ようとしたが、そこでふと十人余りの人間の現われたことがいぶかしくなり、振返ってからみんなを眺めまわした、「ほう、だいぶ大勢いますねえ」「ええ、えっへへへへへへどうも、なんです、とんだお邪魔で」「つまり権八の云った御隠居と御新造というのは、貴方がただったんですね」「いえ隠居だの御新造なんてそんな者じゃござんせんので、へえ」口の利けそうな五十がらみの男がこう云いながら進み出た、彼はこの旦那が図抜けてのんびり育ったお坊ちゃんで、本当に化物も幽霊も知らないし、世間の裏おもてなぞはまったく無知だということを察したのである。手数をかけることはない、これならじか談判でごまかせる、こう考えたから、勿体もったいをつけてもう一つ笑った。「実はそのなんです、旦那におすがり申して、ぜひ助けて頂かなくちゃあならねえことがござんすもので、こうやってまあそろってお邪魔をしたと、こんなわけでござんすが」「それあどうも、私にはなんの力もないが、とにかく向うで事情だけでも聞きましょう、居間へ来て下さい」平之助はこう云って寝間を出た。

八 生垣の葉の伸びる暇なし


「お早うございます」「やあ、――」雨の中を屋根があるから駈け足で井戸端へやって来ると、いきなり声をかけられてびっくりした。生垣の向うに傘をさして昨日の娘が立っている、「貴女でしたか、早いですね」「貴方こそお早うございますわ、わたくしは寝過して、とび起きて来たんですの」「とび起きて、――なにしにです」「なにしにって」こう云いかけて娘はぱっと赤くなった。読者諸君は信じないかも知れないが、風々亭は決して嘘は云わない、とみ嬢は赤くなった、そして自分が赤くなったことに気がついたら、はずかしさの余りもう一段と赤くなって、それからつんとした、「なにがって、それはあの、ゆうべもなにか変ったことがあったかどうか、それがあの、伺いたかったからですわ」「ああそうですか、そのことならゆうべもありましたよ、一つ目小僧なんてのが茶を持って来ましてねえ」「まあ、――」ととみ嬢はみはれるだけ眼をみはり、片手でひしと生垣の檜葉をつかんだ、「それがお茶のはいっていないのを持って来たもんで、先方はたいへん恐縮していましたっけ、ところがその後でさんばら髪の血のりなんか付けた女が、これは幽霊というんだそうですが、現われましてね」「まあ、――まあ、――」とみ嬢の手は、非常な勢いで生垣のを毟りだした、「それで、御座さまは、それをごらんになったんですのね」「仕方がありません、向うでやって来るんだから」「まあ、――」娘は感動の余り胸がひき裂けそうになり、眼がくらくらして来た。ああ私の体はあの方の胸へ倒れてゆく……こう思ったくらいである、そして実際倒れかかったのだが、仕合せなことに生垣があって支えてくれた。そこでとみ嬢は返報にその葉をすさまじい速度で毟りちらし、「まあ、――」と叫ぶなり家のほうへ走り去っていった。恐らく備忘録をつけるのであろう、平之助旦那はなにがなにやらわからず、釣瓶つるべへ手を掛けたまましばらくその後を見送っていた。……柘榴屋敷は平穏になった、もはや天床で沢庵石も転がらないし、火の玉も飛ばない、床下で棺箱から出してくれと頼む声もなくなった、泰平無事である。変らないのは毎朝の井戸端だけで、とみ嬢と旦那は必ずいちど顔を合せて話をする、「ゆうべは静かでしたことね」「ええもう静かなもんです」「化物はやっぱり出ますの?」「ええ来ますよ、しかしもう温和しいもんです」こんな会話であるが、これも日の経つに従って少しずつ変化が起った、その一は場所の移動で、立話をする所が井戸端からだんだんと西へ動いてゆく、どうして移動するかというと、これは専らとみ嬢の生垣を毟る趣味に由来するのであって、即ち井戸の附近が毟り尽くされたために、自然と檜葉の秀の茂っている方へ方へと動くわけである。その二はとみ嬢の挙措言動が変ってゆくことで、彼女はいつか薄化粧を始め、白粉おしろいや髪油の匂いをさせるようになった。生垣の毟り方なんぞもひと頃よりぐっと上達して技巧が加わり、小指をこう美しくぴんとらせて、ごく上品に優雅に、ちょいちょいとやるといった具合である。その三は会話の内容で、化物の事などはもう拝啓前略と片付け、人事百般あらゆる問題が話にのぼる、就中なかんずくすこぶる家庭的傾向を帯びてきた。例えば、「化物といえば、お食事はどうなすっておいでですの」こんな風である。こっちものんびりしたもので、「食事って、化物のですか、私のですか」「もちろん御座さまのお食事ですわ」「私なら古梅亭から運ばせています、飯炊きも料理人も来手がないもんですからね」「それはお気の毒ですこと、料理屋の食事なんてもうけるために作るので心が籠っておりませんもの、お食事だけは愛情だと申しますのにね、――お世話をする者がいなくてはいけませんわ」またこんな事もある、「まあどうあそばしまして、お風邪でもおひきになりましたの?」これは初めから化物ぬきであった、「風邪なんかひきませんよ、どうしてです」「だってあわせを召しておいでじゃあございませんか」こっちはにっと笑う、「これはね、単衣ひとえ帷子かたびらもみんな汚れちゃって着る物が無くなっちゃったんですよ」「まああきれた、どうして洗濯をおさせになりませんの?」「だって権八はそんなことをしやしません、しかし江戸の家へそういってやりましたから、やがて送って来るでしょう」とみ嬢は、いけませんわいけませんわと五六遍やった、「それで汚れ物はどうなさいますの?」「みんな突込んであります」「そんなにして置くと傷んでしまいますわ、私がお洗濯いたしますから、権八に持たせてよこして下さいまし、今日すぐでございますよ」その日、権八は山のような汚れ物の包みを背負って、裏から三浦家へいった。しこうして更にその午後、とみ嬢は生垣を毟るよりも活溌に洗濯をしながら、「お世話をしてあげる者がなくっては、なくっては」と歌のように独り言を云い、旦那は五五の歩を睨みながら、「お食事は愛情だ、ふむ、――五五歩を構わず、いっそこっちは飛車をまわして、お洗濯とゆくか」などとやっていた。

九 妻は内助の交渉が先


「昨夜は大勢お客さまでしたのね」ある朝とみ嬢は不審そうに訊いた。こっちはなおさら不審である。「客なんかてんでありませんよ」「だって」とみ嬢は指さしをした。生垣の茂みを追って移動した結果、二人は今や柘榴屋敷の裏口の見える所まで動いていたのである、「あそこからさっき、十二三人出ていった方たちがありましてよ」「あああれですか、あれは化物ですよ」「なーんですって」「化物ですよ、客なんかじゃありません」この方はまだ寝呆けていらっしゃるのだ、「いいえ化物なんかじゃございません、わたくしちゃんと見たんですもの、みんな立派に五体の揃った人間でしてよ」「それあそうですとも、五体揃ってなければ歩けやあしません」「でも化物だと仰しゃったじゃあございませんか」「だから、――つまりあれが化物なんですよ」「貴方はどうかしていらっしゃいますわ、だって」「いやどうもしてやしません、こういうわけなんですよ」旦那は解説を始めた、「あの連中はなん年も前からこの屋敷で、丁半という商売をやって来たんだそうです、そこへ私が入ったものだから彼等としては退かなければならない、しかし他には適当な場所がないし、ここは絶対安全で都合がいいから、今後も使わせて貰いたいという相談をされたんですよ」「まあ、ずいぶんずうずうしい」「そんなことはありません、みんな気の好い化物ですよ、商売の丁半だってずっと離れた部屋でやるし、絶対に静かで音も声も立てやしない、私はぐっすり眠れるし、彼等も一つ目や幽霊なんかやらずに済むから安楽だと云ってます、おまけに席料とか云いましたっけ、私は見やしませんが、毎晩なにか銭のような物を包んで置いてゆきますよ」「まあ、――」とみ嬢の手は久し振りで活溌に生垣を毟りだした。しかし彼女の思考力は既に空想の美から現実の美へと移っている。即ち観察者の立場から世話人の席へ引越していたので、その「まあ」は危険予知の信号ともいうべきものであった、「ずいぶんおかしな話のように思いますけれどいったいその丁半という商売はどんなものなんですの」「私はよく知りませんがねえ、時どきがらがらッぽんなどという音がして、丁目だ半目だなんていう声が聞えますよ」「まあ、――まあ、――」とみ嬢は激しくあえいで身震いをし、今や両手はめざましい勢いで生垣を毟りだした。それから更にまあと喘ぎ、「いけません、いけません」と叫んだ、「それで、貴方はその人たちから銭を受取っていらっしゃったんですね」「受取りあしませんが置いてゆきます」「まあどうしよう、どどうしよう、――」「なにか心配事でも出来たんですか、なんなら」「わたしじゃあございません、貴方のですわ」「私の――」「貴方は一万二千石の御家老の御三男で、なんにも御存じないでしょうけれど、その丁半というのは賭博のことですわ」「なーんですって」「け事、博奕ばくちといって卑しい遊びです」「だって、それは法度で厳しく取締られているでしょう」「ですから化物屋敷のまねなどやって誰も入れないくふうをしたんです、今だから云いますけれど、奉公人が来ないのも、みんな化物が出るということを知っているからなんですわ」「それは不愉快ですね」旦那は頭を振った、「化物は出ても構わないが、博奕は困る、早速ひとつ町奉行に云ってやりましょう」「いけません、そんなことをしたら貴方も巻き添えをくってしまいますわ」「私が、――」「そうですとも、貴方は席料というものをお取りになった、いいえ彼等はちゃんと企んであるんです、もしつかまりでもすれば、貴方が博奕と知った上で、席料まで取って貸した同類だと云うに違いありません」「なるほど、――そいつはうまい理窟だ」「感心なさる場合ではございません、少しはしゃんとあそばせ」とみ嬢は世間の女房がその良人おっとをたしなめるが如くたしなめた、「宜しい、しゃんとしましょう、しかしどうしたらいいんです」「――こうあそばせ」彼女はついに生垣から妙案を毟り取った、「今夜あの者たちの所へいらっしゃるんです」「連中に会うんですね」「そしてごく穏やかに相談をするお積りで、こんど嫁を取ることになったと仰しゃるんです」「ははあ」「嫁は母親だの女中だの伴れて来るし、自然召使いたちもふえる、女は口の軽はずみな者だから、要心のためにほかを捜して移って貰いたい、残念だがこれまでの席料も返すから、――こう仰しゃるんです。お断わり申して置きますが、わたくしは決して口が軽はずみじゃあございませんのよ、これは世間一般の女をいうんですから、仰しゃれまして?」「そのくらいなことなら云えますよ、しかし、もし嫁を貰わなかったら、連中は怒るでしょうな」「お貰いになれば……」と云いかけて、とみ嬢はとつぜんまっ赤になり猛烈に生垣を毟ったと思うと、こんどはまっさおになった。そして、「明朝また、あの、――ごめんあそばせ」と云うなり、あっけにとられている旦那を残して、家のほうへと走り去っていった。その夜、いや話を端し折って朝へいってしまおう。で、その翌朝のこと、旦那と令嬢とは生垣を中にして会った。
「いやどうも驚きましたねえ」今朝は平之助のほうから口を切った。「貴女の賢いのにはびっくりしますよ、単衣は洗濯すればちゃんと着れるし、料理屋の食事はまったく愛情がありやしない、毎日毎日鯛の刺身に吸物に」「ゆうべはどうなさいましたの、ゆうべは」「あれもぴったりです、文句なしですよ、嫁が母親と女中を伴れて来ると云いましたらね、連中ああそれではだめだと一遍なんです、他の事ならどうでもするが、嫁さんと嫁さんのお袋じゃあ命が危い」「まあ失礼な、なんという恥知らずの破落戸ならずものでしょう」「よく知らせて下すった、長いあいだお世話さまと云いましてね、もう決してお邪魔はしないからって穏便に話がつきましたよ」「ではもうなにもかも心配ありませんのね」「ええ、さっぱりしました」「なんにもですの?」「ええ、爪の先ほども心配はありません」「宜しゅうございますこと」「いい心持ですよ」とみ嬢の手は生垣の上にあった、しかし今朝は一つも檜葉を毟らないのである。眼は伏せたままだし、胸乳のあたりは大きく波うっている。たしかに、生垣を毟るよりも重大な「なにか」を待っているようだ。旦那のほうも、しきりに頭を捻っている、またいつかの物忘れをしたことがあって、それを思いだせないといった気持だ。そうだよ、なにか云うことがあったっけが、はて――などと考えている。女性の敏感ほど神秘なものはない、とみ嬢はすぐにこれを見破って「この方はなにもかも」と、心の中で合点した、「それこそなにもかも側からお世話してあげなくてはいけないんだわ」これは人道的であり母性の保護本能であって、些さかも利己心や牽制の意味は含まれていないのである、で、彼女はこう云った、「でも残った問題は唯一つですのね、奥さまをお貰いになること、そうでございましょう」「ああそれですよ、それが重大な」「では御免あそばせ、また明朝……」そしてとみ嬢は、彼の表情にある効果の表われたこともたしかめて、誇らかに凛然りんぜんとそこを離れた。それから一刻の後、旦那は五五の歩を睨みながら、こんなことを呟いていた、「そうだ、五五の歩は捨てとけ、将棋は嫁を詰めれば、嫁じゃない王をめとれば、いや違う、――ええ違ってもよし、嫁を詰めろ」で、同じとき三浦家では、とみ嬢が備忘録にこう書いていた、「あの方はお申込みになるに違いない、そうしたら私はきっぱり断わるわ。ええきっぱりと、そして尼寺へはいって一生きよらかに、あの方を想って泣きながら暮すわ。これは神さまに誓って断然そうするのよ、どんなに望まれたってお嫁になんかいかなくってよ、ええ決して、――でも衣装は模様物なんか止すわ、どうせ一度きりですもの、それより秩父織とかつむぎとか実用向の物をたくさん作って頂くことだわ、でもそうするとお式にはなにを着たらいいかしら、ああ困った、心配だわ心配だわ……」





底本:「山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分」新潮社
   1983(昭和58)年8月25日発行
初出:「講談雑誌」博文館
   1947(昭和22)年10月号
※初出時の表題は「化物屋敷」です。
※初出時の署名は「風々亭一迷」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年3月27日作成
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