霜月のよく晴れた日であった。
お由美は
舌を焦がすような渋茶を
――雄物川の岸にも咲いていた。
ふと故郷の山河が眼にうかんで来た。
「きれいな色でございますこと」
よねも眼を細めながら云った。
「秋らしくて、いい花ね。いちばん好きよ、秋田へ行くと一面にこれが咲いているの、雄物川という大きな川の堤なのよ……子供のじぶん親しいお友達と二人きりで、誰にも教えない約束をして、大事にしていた場所があったわ」
「あちらはずっと北国でございますか」
「そう、今じぶんはもう雪だわ」
お由美は遠くを見るように眼を上げた。
雪国で育った肌は
「あの……もし」
そう呼ばれてお由美が振返ると
「ちょっと是を」
云いながら小さな紙片を差出した。
なんの気もなく受取ってみると、二つ折にした中になにか書いてある、
お話があります、供の者をお帰しなさい、不承知なら其処 へ名乗って出ます。
その短い文字はお由美の全身の血を凍らせた。息の止まるようなとは此事であろう。お由美は懸命に
「分りました、これで」
と銭入から夢中で、幾らとも知れず取出して女の手へ渡し、
「よね、参りましょう」
そういって立上った。
震える足を踏みしめながら二三十間行くと、
……不承知なら其処へ名乗って出ます、そういう声を、すでに忘れて久しい男の
「……ああ、よね」
お由美はふと立止った。
「おまえの家はたしか、この近くではなかったかえ」
「はい、瓦町と申しまして此処から」
「
口早に云って銭入を取出し、
「是で家へなにか買って行っておやり」
「……まあ、奥様」
「日暮れまえに帰って来れば宜いからね」
そう云い捨てると、よねが口を

よねが怪しみはせぬかという心配より、男が理不尽なことをしたらと思う方が怖しかったのだ。……振向きもせず、東本願寺の方へ曲って暫く行くと、後の跫音がすたすたと追いついて来て、
「そこを左へお曲りなさい」
と
「左側に桔梗という料理茶屋があります、そこへお入りなさい」
もう糸に操られる
後から囁く
――帰らなくてはいけない、こんな場所にいてはいけない。
お由美は
男は不健康な、蒼白い疲れた顔に、眼ばかり大きくぎらぎら光らせている。太い眉の片方をあげ、唇を左へ
「しばらくでしたな、お由美どの」
そう云いながら後手に
秋田の国許から、季節になると名物の

お由美はそっと
三右衛門は黙々と
「……どうしたのだ」
ふと三右衛門が眼をあげた。
「
「はあ、……いいえ別に」
「顔色も悪いぞ」
お由美はぐっと
「実は、お願いがございまして」
「……なんだ」
「あのう……
三右衛門は
「実は弟の半之助が江戸へ来て居りまして」
「半之助が来た……?」
お由美の弟に半之助というのがいる、まだ前髪の頃から悪童の群と近づき、絶えず
「それはよかった。いま
「今日浅草寺の戻りに会いまして、色々と事情を聞いたのでございますが、ひどく苦労した様子で……すっかり
「それはいけないな、江戸へ来たなら訪ねて参ればよいのに。……兎に角明日にでも拙者が行って伴れて来よう、何処にいるのだ」
「それが……あの」
握り合わせたお由美の指はじっくりと汗ばんでいた。
「半之助が申しますには、今の姿を御覧に入れることはどうしても出来ませぬ、これから上方へ行って修業を仕直し、立派な武士になったうえ、改めてお眼にかかりたいと申しますの」
「うん。……然し躰を悪くしていては直ぐに旅立つという訳にも参るまいが」
「わたくし、弟の心任せにしてやりたいと存じますが、お
嫁して来て足掛け三年、苦労を知らぬ明るい気質で、眉を
「いいとも」
三右衛門は無造作に
「半之助だってもう二十一歳になる、自分でそう云うほどなら本当に眼が覚めたのだろう、では拙者は知らぬ積りにしているから、おまえ
「有難う存じます」
お由美の眼にふっと
「御迷惑を掛けまして、本当に申訳ございません」
「なんだ、
三右衛門は微笑しながら箸を措いた。
「おまえの弟なら拙者にも弟だ、改って礼を云うなんて他人行儀だぞ、このくらいのことで半之助が武士に成れれば仕合せではないか、……然し、今夜は

お由美はそっと泪を拭きながら、
――嬉しゅうございます。
と心の裡に
その明くる日、勤めから退出して来た三右衛門は、妻が珍しく薄化粧をし、自分の好きな着物を着てけざやかに微笑しながら出迎えたのを見て、ほうと眼を
お由美の眼は活々と
「行って来たか」
「はい、行って渡して参りました」
良人の脱ぎ捨てた衣服を畳みながら、お由美はすっかり元気になった声で、
「よく申し聞かせましたら、もう二度と御迷惑は掛けませぬ、必ず立派な人間になってお伺い致しますと、泣きながら申して居りました」
「よかった、よかった」
「半之助が真人間になれば故郷でも心配の種が無くなるというものだ。それとなく
「はい……」
お由美はどきっとした様子だったが、
「でもまだ、なんだか知らせるには早いように存じますけれど」
「直ぐでなくともいいさ」
三右衛門は妻の様子に気付かなかった。
「そのうち
「……はい」
「拙者から書いてあげてもいいぞ」
「いいえ、わたくしそう申して遣ります」
「ああ腹が空いた」
三右衛門は締めた帯を叩きながら、
「さあ食事にするかな」
と居間へ入って行った。
三右衛門はお由美と五つ違いの二十八であった。父が勘定奉行だった関係で二十歳の時に江戸詰の留守役を命ぜられ、今では筆頭の席に就いている。……まえにも
お由美は嫁いで来てから
――こんないいお方だったのか。
とようやく気付いたときには、いつか自分が良人の静かな愛情にしっかりと包まれているのを知って、身の顫えるような歓びを感じたのであった。
――由美は仕合せ者よ。
既に三年になる此頃でも、折に触れては心からそう呟くほど、お由美の生活は幸福に溢れていたのである。
「半之助はもう出立したかな」
明くる夜も三右衛門はそう云った。
「若い時分に道楽をするくらいの者は、いちど眼が覚めると
「そうあって
「早くいい
そんなことを話し合ってから、五日ほど経った或朝だった。
お由美が出仕する良人の支度を手伝っていると、家士の彦右衛門が一通の書面を持って入って来た。
「申し上げます。唯今、見知らぬ使の者がこの書面を持参致しまして、奥様へお眼に掛けて下さるようと申しまするが」
「私に……」
お由美はさっと顔色を変えた。
受取って見ると表には姉上様とあり、裏には半之助と認めてあった。分りましたと家士に答えてそのままふところへ入れようとすると、
「……半之助からだな」
と三右衛門が
「披いて読んで御覧」
「はい、でも後でわたくしが……」
「読んで御覧」
静かではあるが拒むことを許さない声音だった。……お由美は震える手で封をひらいた。
なんとも申訳ありません、頂いた金子で直ぐに上方へ出立する積りだったのですが、滞っている借銭などを払っている内に足りなくなりふと魔がさして博奕 場へ入って了いました。旅費だけ拵 える積りだったのが逆に五十両負け、退引 ならぬ場合に立到っています。明朝十時までに此金が出来ぬと繩目の恥辱を受けなければなりません。姉上……真 に申訳のないことですが……
「矢張りいけなかったか」
みなまで聞かず三右衛門は立った。
それっきりで後はなにも云わず、大剣を差して出る良人を、お由美は玄関へ送って出たが、そのまま暫くのあいだ其処に茫然と居竦んでいた。
「……やっぱり、いけなかった」
良人の言葉がふと
お由美は自分の呟きにはっと気付いて、きらきらと光る眼を大きく
――そうだ、このひまに。
と頷いて立上った。
着替えをするのももどかし気に、急に入用の買物があるからと云い残して家を出ると、七軒町の辻で
お由美が入って行ったとき、その部屋では風態の悪い三人の男が酒を呑んでいた。
いつぞやの新五郎と名乗る浪人者の他は、二人とも
お由美は蒼白く、ひきつったような硬い表情で、立ったまま先刻の書面を取出し、
「これ、お返し申します」
と投げ出した。
「まあお坐りなさい」
新五郎は嗄れた静かな声で云った、「立っていたって仕様がない、火の側へ寄って
「これで結構です、……沼部さま」
お由美は怒りを抑えながら、
「貴方は先日お約束なすったことをお忘れではございますまいね、わたくし良人のある躰でございますのよ、……貴方がお躰を悪くして其日の生活にも困ると
「もっと静かに話したらどうです、そんなに一途に怒られても仕様がない、それでは相談が出来ませんよ」
新五郎は唇を左へ歪めながら、まるでお由美の怒りを楽しんででもいるように見上げた。
「相談などする必要はございません、先日お金を都合して差上げたことがわたくしの落度でございました。これで失礼いたします」
「お待ちなさい」
新五郎は少しも騒がずに云った。
「お帰りになるなら止めようと云わないが、明朝までに五十両、待っていますよ」
「そんなこと、……お断り申します」
「無情なことを云うものじゃない、今こそこんなに
「なにを仰有います」
「なにをって、……嘘だとでも云うんですか」
唇を歪め、片方の眉を吊上げながら、相変らず
「貴女が十五で拙者が十九の春、秋田の
「沼部さま」
お由美はさっと色を変えた。
「貴方はあんな、子供時代の
「子供の戯れだと云うんですか。なるほど、そうかも知れないな、末は
「わたくし末は夫婦などとお誓いした覚えはございません、それは貴方のお間違いです」
「誓いの有無は水掛け論だ、此処で幾ら論じたところで
新五郎はふところから、ひと束の古い封書を取出して其処へ置いた。
「…………」
「どんな文字が書いてあるかは、貴女がよく御存じだろう」
「…………」
「お由美どの」
新五郎は初めてにやりと冷笑した。
「拙者は困っている、五十両の金が是非とも入用なのだ。昔の恋人がこんなに困窮しているのだから、五十や百の都合はして下さるのが人情じゃありませんか」
「…………」
「貴女がどうしても出来ないと仰有るなら、この手紙を持って加納を訪ねるだけです。……加納は筆頭留守役、妻の昔の恋文なら五十両が八十両でも買って呉れるでしょう」
お由美は
「分りました」お由美は辛うじて答えた。
「明朝十時までに参ります」
「五十両ですよ」
相手の声も夢心地に聞いて、お由美はよろめくように其処を立出でた。
沼部新五郎。彼は秋田藩士で二百石の馬廻りだった、……お由美とは兄の友達として幼い頃から親しく、一時はまるで家族のように往来したこともある。
兄と弟のあいだに一人の女子として愛されて育ったお由美は、美貌で才気のある新五郎にいつか乙女心のほのかな
然し、それは何処までも乙女心の夢のような
……むろん、それがはしたないことだったのは事実で、自分でもそれに気付くと直ぐ彼から遠退いて了ったのだ。
新五郎は美貌で才子だったが、その二つのものが身に
以来まる八年。
浅草寺に詣でた帰りに、見違えるほど変った相手を見たときでも、お由美は殆んどそのことは忘れていたのである。そして……病気で食うにも困っているからという相手に心を動かされて、良人から金子を貰って遣ったのだ。
然しそれがいけなかった。
――このお金は弟に遣ると云って持って来たものです、どうか是で御病気を治して、立派な武士にお成り下さい。
と云った言葉を逆に利用された。
そして昔の
――良人に知らせてはならない。
お由美は胸のなかで絶叫した。
今ほど強く、烈しく良人を愛したことがあったろうか、お由美は空想のなかで良人を抱緊め、祈り叫ぶように
……然しそうする後から新五郎の冷やかな眼が見えて来る、五十両はさて措き十両の金も自分には得られない。
――もう一度良人に頼もうか。
そうすれば良人は自分で会うと云うに違いない。そして半之助でないことが知れたら更に結果は悪いだろう。
「どうした、ひどく顔色が悪いぞ」
三右衛門は着替えをしながら、
「加減が悪いなら休まなくてはいけないな、おまえが来てから此家は
「……御気分を損じまして、申訳ございませぬ」
「謝るやつがあるか、おまえのことを心配しているんだ」
三右衛門は笑って、
「風呂がよかったら入りたいな、それから、今夜は久しぶりに酒を飲ませて貰う」
「はい、……なにか支度を」
「いや有る物でいい、夕食のあとでちょっと外出して来るから」
「お出掛けでございますか」
「うん、碁仲間が集って会をやるのだ、これから御用繁多になるから今の間に打ちだめをして置こうという訳さ」
なんの屈託もない明るい調子だった。
三右衛門が明るいほど、お由美の自責は烈しかった。……良人の健康な顎が、
――五十両の金。
――なにをするか知れない新五郎。
――良人の恥辱。
そんな言葉が
「先に寝ていていいぞ」
そう云って三右衛門が出て行くと、お由美の追詰められた感情はもうぬきさしならぬ絶望の壁へ突当っていた。心が狭いとひと口に云う、云うのは男、男から見るとそうかも知れない、然し女は男ほど生活のひろがりを持っていない、
――もうどうしようもない。
お由美は決心した。
今宵ひと夜を名残りに、明日は行って此身の貞潔を
「彦右衛門、此処だ」
「は、……行って参りました」
伝法院の
「疑われはしなかったか」
「いえ、夜の方が人眼につかぬから、茶屋町の
「御苦労だった」三右衛門は微笑しながら、「ではもういいから其方は帰って居れ、今宵のことは他言を禁ずるぞ」
「仰せまでもございませんが、私も此処に」
「いや、いけない」
固く首を振って
「奥様になにか……」
「別に
彦右衛門は心残るさまだったが、やがて下谷の方へと小走りに立去った。
三右衛門は大剣の鯉口を切った。
ずっと見通しの田圃から、吹渡って来る風は強くはないが、その冷たさに指が
二、三間やり過しておいて、
「ああ其処へ行く方々、……此処でござる」と呼びながら出た。
三人は
「誰だ、誰だ」と暗がりを透すように居合腰になった。
「なにをそんなに驚かれる、貴公の望み通り五十金を持参したのだ、貴公の方でもむろん、約束の品はお忘れあるまいな」
「お由美どのの手紙か」
新五郎は手紙の束を出して、「
「いや誰にも頼まれぬ、今朝あの人の心配そうな姿を見て後を
「よかろう、商売は拙速を貴しとする、先ず金を拝ませて貰おうか」
三右衛門はふところから金包を取出して渡した。……新五郎は用心深く、伴れの提灯で封を切って
「
とふところへ
「では慥かに受取ったと、お由美どのにそう伝えて呉れ、頼むぜ三右衛門」
「そうか」
三右衛門は苦笑して、「矢張り拙者と知っていたのだな、
「ふん、そんな御託は家へ帰ってからにしろ、
「待て待て、約束の品をどうする」
「おや、おめえ本当にこの手紙を取返せる積りでやって来たのか。冗談じゃあねえ、是せえあれあ金の
言葉も態度もがらりと
「そうか、では仕方がない」
と羽折の
「沼部、貴公の性根は見届けた、生かしておけばいずれ故主の名を汚すだろう、成敗するぞ」
「やるか!」
と叫んで身を退こうとした。
然しそれより
見ていた二人はあっと、悲鳴のような叫びをあげて逃げようとする。
「待て待て、逃げるな」
三右衛門は烈しく呼止めた。
「貴様たちまで斬ろうとは云わぬ、早く医者を呼んで手当をしてやるがよい、片足は無くなろうが命には別状ない筈だ」
「……へえ」
「暫く何処かへ隠れていて、傷が治ったら江戸を立退け、拙者はこれから五十金盗難に遭ったと届出る、まごまごしていると繩にかかるぞ」
「へえ、……か、か」
「沼部、身にしみろよ」
と云い残して
お由美は仏壇に燈明をあげていた。
寒気の厳しい朝で、指にかけた水晶の
――これで再び帰らないのだ。
そう思っても、既に覚悟が出来ているせいか案外心は平らかだった。暫く祈念して燈明をしめし、もういちど自分の居間へ帰って不始末なところはないかと検めてみた。夜のうちに片付け物は済ませてあるので、もう遺書の上書きさえすれば出られる。
――是で大丈夫。
と立上ったとき、庭の方から、
「由美、由美」
と良人の呼ぶ声がした。
「ちょっと来て手伝って呉れ」
「……は、はい」
お由美は心を鎮めながら、慎ましく縁側へ出て行った。
昨夜の寒気を語るように、外はいちめん雪のような霜である、良人の三右衛門は庭の霜柱を踏みながら、枯枝を折って小さな
「……なんぞ御用でございますか」
「うん、其処に、その」
と三右衛門は顎をあげて、「古い手紙があるだろう、そいつを焼いて了おうと思うんだ、おまえ小さく裂いて渡して呉れ」
「……はい」
お由美は云われるままに縁側の端に置いてある手紙の束を取上げたが、その表を見、裏を返すなり、危うくあっと叫びそうになった。
――どうして是が。
どうして是がと眼も
そのために死のうとまで覚悟した自分の手紙、稚き日のあやまちの手紙、どうしてこれが良人の手にあるのか、どうして新五郎の手から此処へ来たのか。
「さあ、どんどん裂いて呉れ」
三右衛門は勢いよく燃えはじめた
「考えることはない、早く裂いて
「……あなた」
「いいんだ、分っているよ」
三右衛門はなんども頷いた。
お由美は夢中で手紙を引裂いた。その一通ずつが、自分の命を取返す救いの神のように思われた。……三右衛門は裂かれた文反古を、次々と火にくべた。
薄青い煙の尾は、研いだような青空へゆらゆらと立昇った。
――良人は知っていた。
――良人は新五郎の始末をして呉れた。
――自分は赦された。
お由美は感動に胸を
「お由美、……おまえは三右衛門の妻だ、おまえは三右衛門をもっと信じなくてはいけないぞ、歓びも悲しみも、互いに分け合うのが夫婦というものだ、こんな……詰らぬことで、二人のあいだに若し不吉なことでも出来たらどうする」
「…………」
「三右衛門は舟だ、おまえは乗手だ、
お由美は
……そして、さも快さそうに胸を張りながら空を見上げて云った。
「さあ泪を拭いて庭へおいで、よく晴れている、お城の天主が霜で銀のように光っているぞ」