山本周五郎




 月見山で電車を下りると、いつもひっそりしている道の上に、ざわざわと人の動くのが見えた。正三しょうぞうはべつに気にもとめず、山手のほうへ大股おおまたに登っていくと、空地の角にある音楽家の住居で、近所から薔薇ばら屋敷と呼ばれている邸の門前にも、音楽家の若い妻君を中心に付近の婦人たちが四五人集まって何かひそひそ話している。正三はその傍を通り過ぎるとき、音楽家の妻君が、
「宅では拳銃の弾丸を買いにやりました」
 と云っているのを聞いた。
「ただいま」
 庭先から挨拶しておいて、離屋になっている自分の部屋へあがると、間もなくおい一政かずまさがやって来て、縁先から、
「叔父さん、大変ですよ」
 と大声で呼んだ。
「どうした」
「あのねえ須磨寺のひょうが逃げたんです、人が二人たべられましたって」
「豹が逃げた――?」
 正三は何をいうかと思いながら、障子を明けて縁側へ出た。五歳になる一政は、好奇と恐怖の錯雑した表情で、
「本当です、小田さんとこではペスを鎖でつないでしもうた」
「お帰りなさい」
 あによめ純子じゅんこが、母屋の縁先に立って、ふところ手をしたまま静かに声をかけた。正三は庭穿にわばきをつっかけて、一政の肩に手を回しながら母屋のほうへ行った。
「お風呂へお入りなさい」
「政ちゃんは?」
「僕もう入ってしもうた」
 云ってから、そっと母の眼を凝視みつめ
「もう一度入ったろか」
 低い声で云いながら舌を出した。そして純子のきつい眼のこないあいだに、何やら喚きながら、隣との庭境のほうへ駈出した。

 正三の兄がアメリカで客死したのは二年前の夏であった。兄はX汽船会社の支店長をしていたのだが、赴任して三年めに拳銃で自殺をしてしまったのだ。原因は金銭上の問題であるともいうし、さる三流女優とのトラブルであったとも伝えられたが、結局のところ真相は知れずにおわった。
 嫂は兄の渡米と同時に、横浜にあった住居を神戸に移していた。表面の理由は本社が神戸にあるので、兄との通信に便利だということだったが、じつは正三一家の白い眼から遠退きたかったのである。正三たちの父は、初めから兄たちの結婚に反対であったうえに、結婚後の二人の派手な生活がことごとにかんに障ったらしい。もともと兄は学生時代から贅沢ぜいたく好きで、煙草は葉巻にめていたし制服も四季それぞれ山崎に造らせなければ気に入らなかったようだ。いま正三が用いているネクタイなども、ほとんど大部分兄のお下りで、それも丸善から買ったのを二度か三度しめたきりでくれてしまうのだ。こうした兄の性格に、嫁でもとったら――という望みをかけていた父は、兄に負けぬ派手好きな嫂の暮しぶりをみて、一政の生れる前すでに、
 ――正一の家とは付合うな。
 と云わせてしまった。
 汽船会社の社員などに、父流の質素な生活を望むことは無理なのだ、ことに兄のようにとんとん拍子の出世をするような者には、生活の贅沢さくらいなんでもないはずなのだ、正三はいつも、そう弁護をしていたが、そのとんとん拍子の出世ということを極端に軽蔑けいべつしていた父の気持を、やわらげることはできなかった。
 ――いまにきゃつは身が詰るぞ、そのときがきたらおれの言葉が分るだろう。
 そう云っていた父の予言が、不幸にも適中したのである。
 兄の死後、半年めに父から嫁の離籍のことが問題になった。当時まだ二十六で、一政を生んで以来驚くほど美しさを増していた純子は、当然離籍を承諾するものと思われていたが、一政の成人まではどんなことがあっても久良くらの家を出ないと、頑強にはねつけた、これは父にとって少からず意外だったらしい。
 ――ふん、久良家の財産が欲しいのだろ。
 口では軽く冷笑していたが、心の中では老学者らしく嫁の態度を貞嬬の節と解釈したのであろう、それ以来嫁に対する感情が少しずつ溶けていった。一周忌のときに、一政をれて純子が上京してくると、
 ――この家へ一緒にならぬか。
 とすすめたうえ、純子が承知しないのをみると、正三に神戸まで送ってゆけと命じた、正三が須磨の家へ訪れたのはそれが最初で、二度めはこの春二週間ばかり、今度は夏からずっと、もうふた月の滞在であった。
「熱くはありませんか」
 後で声がしたので、正三は躰をしめしながら振返った。嫂が微笑しながら流しのほうへ入って来た、
「熱かったらうめさせましょう」
「ちょうどいいです」
「そう」
 と云って足を止めたが
「まあ、正三さん、良い躰だこと、肩なんか兄さんそっくりねえ」
 嫂の声に思いがけぬつやこもっているのを知って、正三はあしうらまであかくなるような気持を感じながら、熱めの湯槽の中へ身を沈めた。純子はさぐるような微笑をみせて
「背中を流してあげましょう」
 と云う、ときどきずばっと意外なところで、針を刺すようなことを云う嫂の性格は、そのたびにひどく正三を狼狽ろうばいさせた。今度の滞在にも、最初の晩餐ばんさんの食卓で、
 ――正三さん、あなたお目付でしょう。
 と笑いながら云った。いきなりそういうふうに人から斬込んでこられることに慣れていない正三は、お目付という言葉をどう解釈するまでもなくあかくなってしまった。
「遠慮することないわ、兄さんのもときどき流してあげたんです」
「大丈夫です、僕ひとりでやれます」
 純子はくくとのどで笑った。
「ばかねえ、ひとりで洗えるのは分ってますよ、子供じゃあるまいし」
 正三もしかたなく笑った。純子はこのまま風呂場を出ていった。

 夕食のぜんについたとき、
「豹が逃げたんですって――?」
 とくと、純子は興の無さそうなようすで、
「そうね、何だかそんな話よ」
 と答えたきりだった。給仕していた女中は、口を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)みたくてむずむずしていたが、純子の気性を知っているので、口裏までこみあげてくる饒舌慾を懸命に我慢しているようすだった。一政はいつもさきに食事をして、子供部屋へやられる習慣だったので、もうそのときは向うの部屋で中働きのおよしと歌をうたって遊んでいたから豹の話はそのままになってしまった。
 食事のあとで、応接間に使っている部屋へ行って珈琲コーヒーすすっているところへ隣家の和田という神戸で貿易商をやっている男がやって来た。頭の薄禿うすはげになった好色らしい四十男で、何かしら口実を設けては接近し、いやな眼つきでひとを見るというのでひどく嫂は嫌っていた。
「奥さん御安心なさい、わたしが付いていますから」
 和田は窓の外から、猟銃を見せながら気安そうに声をかけた。純子はにこりともせずに新刊書の頁を繰つつ、
「べつに心配もしておりませんのよ」
 とにべもなく答えた。その瞬間正三はぐんと自分の感情が嫂のほうへひきつけられるのを感じた。和田は相手の不愛相などは気にもとめず、窓からのぞきこむようにして、舌長に豹の逃げた顛末てんまつを話しだした。
 その豹は正三も見たことがある。遊園地のおりの中に、不敵な眼をして動き廻っているかっこうが、動物園の獣らしくない野性のままのすごさをもっていた、説明標では、その豹がサイパンで捕獲されてから半年に満たぬもので、捕獲するときには土人が三名もまれたというようなことが記されてあったと思う。和田の話によると、昼の食事(午前十時ころやる)のとき、食肉を持って檻の中へ入って行くと、どうした間違いか境の扉が開いていて、豹はいきなり番人に跳びかかった。はっと思ったまま身がすくんで動けなくなった番人は、左肩を噛砕かれそこへ倒れて、気を失った。
 檻をでた豹は、離宮道のほうへ来て、そこでもう一人、通行中の女中を噛んだのちどこかへ姿を隠してしまったのである。
「なにしろ肉食獣やから、山へ入るはずはないと思います、きっとこの辺をうろついているに違いありません」
 和田は猟銃をまさぐりながら、やがて自分の庭のほうへ帰って行った。嫂は冷然と書物の頁を繰っていたが、しばらくして、
「正三さん、今夜はこっちへお泊りなさい」
 と云った。
「怖いですか」
 と訊くと笑いもせずに、
「あなたが怖いでしょうと思ってよ」
 と答えた。正三は母屋の二階で寝た。

 明くる日正三は、日課にしている図書館行を止めて家にいた。
 夕方ちょっと散歩に出たが、いつも閑散な住宅地の隅々まで、うそうそとした不安な動きがあって、人々の眼も妙に落着を失っていたし、白じらとした、道の上を吹通る浅秋の風も、なにか脅かすような、冷えびえとした肌触りをもっていた。
 夜になってから、例によって猟銃を持った和田がやって来て、一時間ばかり前に上今池のほうで、大きな番犬が豹のために噛殺されたという話を伝えた。町のほうでは青年団や在郷軍人が招集されて、今夜は山狩をするそうであると云うと、純子が冷やかな微笑で、
「和田さんも山狩隊に加わったらよろしい」
 と皮肉を云った。
「いや、わたしはここを離れられませんのや何しろ女房や餓鬼があるし――それに、奥さんところやって不要心で」
「うちは安心ですのよ」
 純子は平然と、
「正三さんがいますから、どうぞ私のところはおかまいなく」
 和田はちらと正三に横目をくれると、何やら口のうちでつぶやきながら、むっつりと庭を向うへと歩み去った。
「気の毒ですよ、あんなにおっしゃっては」
「何が」
「せっかく好意をもって来てくれるのに、あれじゃあ曲がなさすぎますよ」
 純子はきつい眼で正三をにらんだ。
「あなたは黙っていらっしゃい、あんな男に同情したりして、あなたにはまだ分らないのよ――」
「何が分らないんです」
「何もかもよ」
 純子は手の書物をつと卓子テーブルの上へ置いて、じっと空をみつめていたが、ふいに正三のほうへ向いて云った。
「正三さん、あなた兄さんがなぜ自殺なすったか御存じですか」
「嫂さんは――」
「ほほ」
 純子は声だけで笑って、身を反らせながら大胆に足を組み、圧倒するような調子で云った。
「兄さんはねえ、家政婦と問題を起したんです、ポルチュギスで、綺麗きれいなひとだったそうです、名は何といったかしら――忘れてしまったわ、年は二十五で小柄な、日本風の温和おとなしい娘だという話でした」
 正三はそのまま信じていいか悪いか、取付ようのない気持だった。純子の表情は日頃の静かさをすこしも変えていなかったが、言葉の端々には隠しきれぬ心の動きが感じられる。
「信じないのね、いいわ。必要ならその女から来た手紙を見せてあげます、その女が兄さんの子供を生んだとき寄来よこした手紙を――」
 正三が驚いて顔をあげようとしたとき、近くで鈍い銃声が起った。そして裏手の空地のほうを、けたたましく何やら罵喚わめきながら、四五人の人たちの走り過ぎる気配がした。
「さあ、寝ましょう」
 純子が静かに立上った。
「嫂さん」
 正三は思い切った調子で
「それ、本当ですか、兄さんが家政婦に子を生ませたという話――」
「内緒よこんなこと、私どうかしてるのね今夜、聞かないつもりでいてちょうだい、ねえ」
 返事をどうしたらいいか迷っていると、前より遠くで、また続けさまに二三発銃声がした。純子は扉から出て行きながら、
「正三さん今夜もこっちへお泊んなさい」
 と呟くように云った。
 明る日正三は図書館へでかけて行った。
 兄の自殺の原因を初めて具体的に聞いて、正三の気持はひどく動揺していた。父や親戚しんせきの反対を押切って、無理やり結婚をしたほど嫂を愛していた兄が、三年そこそこの別居で外の女に子を生ませたという。そのほかにもいろいろ複雑な事件が絡み合ったのであろうが、ついにはそのために自分を殺してしまったという。あの生活力の旺盛おうせいな、しかし立派な紳士であった兄が――。正三は人間の奥底にひそんでいる情熱の避けがたい力強さをはっきりと身近に感じた。
 書物を借出したがそれをひらいてみる気力もなく、半日ぼんやり過したあとで図書館を出た正三は、足の向くままに湊川へ出て食事をしたのち、ふらっと映画館へ入った、そして猥雑わいざつな映画の動きに眼を放しながら、幾時間かを過して外へ出ると夜だった。
 それでもまだ家へ向う気持にならないので、公園の闇を歩き廻ってから山手通りのほうまで行った。するとどうしたわけか、ふいに嫂の声を聞きたいという慾望が、激しく正三の胸をかき乱しはじめた。まるで熱病のようだった、たった今、即座に嫂の眼に触れなければ、そのまま頭が狂ってしまうような気持だった。正三は自動車を呼止めて須磨へ向った。
 薔薇屋敷の前で車を下りたときは、さすがに先刻の異常な情熱は冷えかかっていたが、玄関に嫂の顔を見ると、ふたたび挨拶にも舌のもつれるほど、どうにもならぬ愛着が盛返してきて、相手の眼を正視することができなかった。
「どうなさったの、こんなに晩くまで」
 純子はいぶかしげに正三の眼を覗きこんだ、正三は思切って嫂の眼をひたと覓めたが、じきに外向いて、
「僕、今夜あっちで寝ます」
 と云うなり、玄関を出て離屋のほうへ走るように立去った。
 何時ころであったか、正三は静かにふすまの明く音を聞いて眼をました。すると嫂が蒼白あおじろい顔をして立っているのを見つけた。
「どうしました」
 正三が驚いて起上ると、純子はゆがんだ微笑を見せながら、
「いま裏のほうで妙な音がしたんです。豹が来たのじゃないかしらと思って」
「見て来ましょうか」
 正三が立上ると、純子は近寄って来て、
「いえいいのよ、まさか雨戸を破って入っても来ないでしょう。久しぶりで胸がどきっとしたら、すっかり眼がえちゃって」
 正三は床を片寄せて、机の上のスタンドのカバアをけようとした、すると純子が急いで正三の手を押えながら、
「いいのよ、いいのよ、私すぐ帰るから」
 と云った。純子の手が触れた一瞬、その冷たい触覚が正三の脳へしびれるような感を伝えた。正三は息を呑みながら本能的に身を退けた。それにもかかわらず堅くふくれた嫂の胸が、光をたたえた眸子ひとみが、張りきった丸味のある肩が、豊かな腰が、一時にぐんとのしかかってくるような幻暈めまいを感じて正三は低くあえいだ。
 外は風だった、庭先の松が音を立てている、裏のほうで何か倒れたらしい、正三はその物音にはっと顔をあげた。
「豹じゃないでしょうねえ」
「大丈夫です」
 正三は上ずった声で云うと、
「とにかく見て来ましょう」
 と立上った。
「私も行きます」
 純子は低く云いながら、正三について廊下へ出た。廊下は暗かった、正三が先立って中ほどまで来ると、いきなり庭先でからからと烈しく竹桿たけざおの倒れる音がした。
「正三さん」
 純子は低く叫びながら、左手でぎゅっと正三の手を握った。
「大丈夫です」
 正三はとっさに片手を純子の背へ廻した。喘ぐような純子の息吹が正三の面をおおった。むっとする香料の匂いと、ぬれた女の唇が自分のを強く求めて動くのを感じた。

「叔父さん、叔父さん」
 庭先から一政の呼ぶ声がする、正三はとっくに眼を醒していたが、終夜眠れずにいたので、熱をもった手足がるく、返事をするのも気が重かった。
「叔父さん、叔父さん」
 一政は歌うように呼びつづけている、正三はようやく身を起して、縁先の雨戸を一枚開けた。澄み透った秋の空が、寝不足の眼にしみて痛い、母屋のほうを見ると、広縁に籐椅子とういすを出して、ひざの上へ書物を置いたまま、純子がこちらを見て微笑していた。
「叔父さんたら」
「何だ」
 正三は純子の眼を外らしながら、縁先にかがんで一政を見た。
「あのねえ、豹が殺されたんですよ」
「ほう、いつ……?」
「昨日叔父さんがお留守のあいだに、ねえ母さま」
 正三はちらと母屋のほうを見た、純子は大きくみはった眼で冷やかな頬笑を浮べながら、しばらく正三を覓めた後外向いた。
「僕おやつをいただいていたんです、そうすると村雨堂のほうで鉄砲の音がしたんですよ、なにかしらと思ってねえ、芳やと一緒にお庭のほうへ出ていると、ずいぶん経ってから小田さんのおじさんが来たんです、そして今そこで豹をうったって云うんです」
 正三は放心したように空を見上げた。一政は熱心に、芳やと見に行ったときの情景を語っていたが、正三の耳にはまるで違った言葉がよみがえってきていた。
 ――裏で物音がしたんです、豹じゃないかしらん?
 韻の深い嫂の声だ。
 それにしてはそのときすでに彼女は、数時間前に豹が松風村雨堂の付近で射斃されたことを知っていたはずではないか。正三は悪寒を感じたように、唇を噛みしめながら立って部屋へ戻った。そして射斃された獣よりも、もっともっと身近に、闇の廊下で自分の唇の上に押合わされたもののほうが、豹の正躰であったのだと知った。その日の午後、正三は須磨の家を立って東京へ帰った。





底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
   1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「アサヒグラフ」
   1933(昭和8)年9月20日号
※「あかく」と「あかく」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年8月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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