兵法者

山本周五郎





 寛文という年代のなかごろ、或る年の冬の夜のことだった。常陸ひたちのくに水戸の城中とのいの間で、当番のさむらいたち数名の者が火桶ひおけをかこんで話し更かしていた、とのい部屋は御しゅくんの寝所に接しているので、火桶をいれたり話をしたりすることは禁じられるのが通例である。水戸でも頼房の代にはそうだったが、光圀が世を継ぐと間もなく、――とのい番というものは非常の備えだからいざというとき手足が冷え屈んでいては役に立たぬ、火も置き湯茶もすすりいくさ物語などもして身躰しんたいのびやかに詰めさせるがよい、そういうことではじめて許されるようになったのである。その夜のはなしは、武田晴信と上杉輝虎との優劣の論が中心だった、川中島に戦うこと十余年にわたって、しかも決定的な勝敗をみずに終った両者の器量、軍配の比、治民の法など、どちらにも一長一短ありで論はなかなか尽きなかった、するとその座にいた兵法者なにがしという者が、とつぜん押しかぶせるような調子で口を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)はさんだ、「三木どのの論をはじめたいがい甲陽軍鑑を元にしておるようだが、あれは虚妄きょもうの書で信ずるに足らぬ、士人の読むべきものではないとさえ申すくらいだ、そのような書をもとにしての論はむやくなことであろう……」くちぶりがあまりぶ遠慮だったので三木幾之丞はむっとした、「甲陽軍鑑が武田の旧臣によって書かれたものであり、したがって武田氏に依怙えこの部分があるということは聞いている、これは旧主従のよしみとしてありがちのことで、われらが御しゅくんの年記を編むとするも必ず避けられることではないであろう、しかし虚妄にして信ずべからずという説はいまはじめて耳にする、そう云うからにはなにか根拠があってのことと思うが、どういうわけで信ずべからずと断言するのか」「すでに軍鑑が武田の旧臣の撰に成り、依怙の条が多いとわかっているなら、虚妄と申した根拠のせんさくには及ばぬであろう」と兵法者なにがしは冷やかに答えた、「……ただそれがしはさような信じがたき書をとりあげて、いかにあげつらってみても、げんざい御奉公の性根のかためには役だつまいと申すのだ」あきらかに言葉はかれの好むほうへと曲げられた。幾之丞は若いので早くも額を白くしたが、なにがしはそれを無視してつづけた、「新参者のそれがしにはよくわからないが、ご家中にはお上のがくもん御奨励をはき違えて書を読む風はさかんだが、武芸に出精するものは案外すくないようだ、これでは武士として万一のとき心もとなく思われるがどうであろうか」まるで挑みかかるような口調である。捨てておくと口論になると思ったので、年嵩としかさのひとりが「武芸といえばお上のお相手に出たとき……」とさりげなく話題をほかへと変えてしまった。
 兵法者なにがしは光圀にみいだされて召抱えられた新参である。刀法の達者としてみいだされ、お気にいりのようすでつねづね側近に仕え、新参には例のないとのい番にさえ出る、筋骨のすぐれてたくましい怒り肩の、いかにも兵法者というからだつきである。相貌も挙措もかなり尊大で、家中とのおりあいはあまりよくなかった、――どうしてあのような者を好んでお近づけなさるのか、そういって光圀の意を不審がる者も少なくない。特にこのごろかれは苛立いらだっているようすだが、おそらくは兵法者として召抱えられたのにまだ師範の役を申しつけられないのが不満なのだろう、機会のあるごとにおのれを前へ押し出すような口をきくのだった。
 その夜から数日すぎた或る日、光圀は兵法者なにがしをつれて庭をあるいていたが、ふと思いだしたように云った、「……先夜そのほうとのい番のときに、甲陽軍鑑は虚妄の書なれば士人の読むべからざるものだと申していたが、あれは少し違いはせぬか、なるほど筆つきに依怙があり、記述に誤りが無いではない、けれども撰者はその時代に生きて戦塵せんじんを浴び、攻防輸贏しゅえいをまのあたりに見て書いたのだ、翻読してまなぶべきところは少なくないと信ずる、……またそうでなくとも、史書を読んで事実の真偽を穿鑿せんさくするのは学者のしごとであろう、武士には武士の読みようがある筈だ、そうではないか」なにがしははあといったが承服した声ではなかった。光圀はしばらく黙ってあるいていたが、「……またあのおり奉公の性根ということを申したようだが」とさあらぬ態で言葉をついだ、「そのほうはいったいどのような性根で余に奉公するぞ」「それは申上げるまでもないと存じます」「いや聞きたい、申してみろ」こちらへ背中を向けてしずかにあるいている、その背中に光圀のきびしい意志が表白されているようだった。なにがしは昂然こうぜんと眉をあげて、「わたくしは、いつにても身命をたてまつる、この一念にて御奉公を仕ります」「たしかに」そうつぶやいて光圀はうなずいた。


「たしかに、そうであろう、だがその性根にゆるぎがないかどうか、……ひと口に身命をささげると申しても実際にはなかなかむずかしいものだ、大事に当面すればここぞという見切りはつく、しかし家常茶飯のうち、それとはみえぬことがらのなかにその見切りがつくかどうか……」「わたくしの刀法は」と兵法者なにがしは光圀がまだつづけようとする言葉をさえぎって云った、「その大事小事にまぎれのない性根をかためることを以て神髄といたします」光圀はふり返った。そしてなにか珍しいものをみつけでもしたように、なにがしの顔をつくづくと眺め、やがて、「……そうか」としずかに頷いた。
 そのとき以来、光圀の眼がときおり自分の挙措にするどく注がれるのを兵法者なにがしは感じはじめた。かれは心をひきしめた、――御しゅくんは自分を試みようとしておいでになる、そう思ったのだ。かれは召抱えられるまえから光圀を敬慕していたが、そば近く仕えるようになっていっそうその感がつよくなり、この御方のためにはよろこびを以て身命を捧げることができると確信していた。およそさむらいとして主仕えをするのにその覚悟のない者はないだろうが、かれはおのれの確信を誰よりもたしかだと自負している。刀法というものは奥底の知れぬものだから、自分がめいじん上手であるとは思わない、けれども、ながい困難な修業によって会得するところが無いではなかった、自分のは刀法のための刀法ではない、さむらいとして御しゅくんに奉ずる不動の一念をかためるためのものだ。かれはそれをひとすじの目標として生きて来た。したがって庭で光圀に答えた言葉は思いあがりではなく、確信を正直に述べたまでにすぎない。もし御しゅくんが自分を試みようとなさるのならむしろよろこんでその試みに応じよう、おそらくそれを機会に自分の用いられる時が来るであろう、かれはそう思ってゆだんなく勤めていた。……すると或る日、にわかに召されて伺候したかれが、ふすまの際に平伏した刹那せつな、その襖が左右からすさまじい勢いでぴしりと閉められた。その蔭に若ざむらいが隠れていて、かれが敷居の上へ平伏するとたんに閉めたのである。しかしはげしい勢いで閉められた襖は、かれの頭を中心に一尺ばかりの空間を残してぴたりと停り、かれ自身はみゆるぎもせず平伏していた。側近にいた侍者たちはちょっと意表をつかれたようすだったが、光圀は微笑して、「よしよし、かくべつ用事ではない、ふと思いついたいたずらだ、もうさがってよいぞ」そう云って機嫌よく頷いた、かれは再拝して座をすべった。侍者たちはそのときはじめて、かれが敷居の上に鉄扇を置いていたのをみつけたのである、「さすがに……」そうささやきあうこえを耳にしながらかれは御前をさがった。
 それから幾日か経って、光圀はまたかれをつれて庭をあるいた。春のように暖かい日で、枯芝の上には陽炎かげろうがゆれ、林のあたりではのどかに小鳥のさえずりが聞えていた。泉池の畔を扈従こしょうしながら、かれは問われるままに自分の流儀のことを語った。光圀はもともと非凡な力量をもち、小天狗流の刀法にもくわしかったので、問いかける言葉はするどく、且つ要点をついたものだった。それゆえ、ゆだんをしてはならぬと思いながら、かれはいつかしら問答に気をとられ、ふっと襲われるようなものを直感したときには、はげしい力で横から突きのめされていた。それは泉池へ架けた橋の上だった、まったくの不意をつかれたかれは橋から池の中へ飛沫しぶきをあげて墜ちこんだ。……光圀がひじょうな膂力りょりょくをもっていたという例として、人と炉端ではなしをしながら、両手の指でわれ知らず火箸ひばしい合せてしまったという話が伝えられている、その大力でふいをつかれたのだからまったく手も足も出なかった。頭から水浸しになってあがって来ると、光圀は笑いながら「兵法者には似合わぬゆだんだな……」と云った。かれは閉口したようすで、まことに見苦しい態をごらんにいれて恥入ります、と答えそこそこに御前をさがっていった。
 翌日もまたかれは庭へ扈従を命ぜられた。そしてその次の日も、さらにまた次の日も、光圀はしきりにかれを庭へつれ出した。そういうことが四五日つづいた或る日、いつものように泉池の架け橋へさしかかると、もう少しで渡りきろうとしたとき、光圀はとつぜんまたかれをだっと突きのめした、兵法者なにがしは躰をひねるようにみえたが、そのまま横さまに池の中へ転落した。……光圀はかれのあがって来るのを待って「そのほうは水へ落ちるのが巧者だな」と云った。なにがしはずぶ濡れのままそこへ手をついて、「おそれながらお上の左のお袖をごらん下さるよう」と云った。


 云われるとおり左の袖をみると、たもとの端に小柄こづかが縫い込んであった。突きおとされる刹那のはやわざである、……光圀はそれを抜き取ると、かれの眼の前へ投げだしながらきびしいこわねで云った、「たしかにそのほうの性根をみた、いとまを遣わす、もはや主従ではないぞ」そしてあっと眼をみはっているかれをうしろにさっさとそこをたち去ってしまった。……この始末をひそかに見ていた者がある、それは三木幾之丞だった、かれは御しゅくん守護の意味で、どんな場合にもかならずみえがくれにあとをつけていたが、そのため橋の上の出来事を二度とも仔細しさいに見た。だがいま眼前に見た二度めの思いがけぬ結末は、かれにはどうにも理解することのできないものだった、――なんのための御勘当だろう、なにが御不興をまねいたのか。御殿のほうへ去ってゆく光圀のあとを追いながら、幾之丞はあれこれと考えめぐらしてみたが、どうしてもはっきりうなずくことができなかった。
 一ときほど経って幾之丞は光圀に召された。兵法者なにがしの住居へいってかれのようすを見て来いという申付けだった。幾之丞はすぐに立っていった。かなり手間どって戻った報告によると、――なにがしはすでに家の始末をしてたち退いた、ということだった、「浜街道をとってたち退くのをみとめたと申す者がございました……」「よび返してまいれ」光圀はさっと色を変えながら云った。絶えてみたことのないきびしい調子だった。「助三郎と久左をつれてゆけ」「はっ」と幾之丞は御前をさがり、佐佐助三郎、中野久左衛門の二人に旨を伝え、馬をそろえて城を出ていった。浜街道を疾駆していったかれらは、城下から三里ほど南に当る小さな村はずれで兵法者に追いついた。馬蹄ばていの音を聞きつけたなにがしはふり返って三人を認めると、笠をぬいで道の傍らに立停った、まっさきに乗りつけた幾之丞が、馬をおりて光圀の命を伝えた。「お召し返しとな……」かれはそう云って三人の顔をつぎ次ぎに見まわした。そしてさっとびんのあたりを蒼白あおじろくした、「よび返せという仰せか……」もういちど云うと、――やむを得ぬ、そう呟きながら何を思ったかいきなりそこへ坐り、えりをくつろげた。「どうなさる」助三郎がこえをかけて押し止めようとしたが、それより早く、兵法者なにがしは差添を抜いて腹へ突きたてていた。すばやく、断乎とした割腹である、三人は寧ろあっけにとられて立ちつくした。
 三人の復命を聞いたとき光圀はしばらく黙っていたが、「……そうだろう」としばらくして云った、それだけだった。――そうだろうとはいかにもその結果をみとおしていた感じなので、三人にはますますわからなかった。しかしき返すわけにもゆかず、そのことはわからぬままに忘れられていった。
 それから二十年あまりの歳月が過ぎて、元禄三年に光圀は致仕し、太田郷の西山というところに隠棲いんせいした。桃源遺事という書に「西山の御山荘はとりわけびたる御事なり、御簷ごえんかやをもてけるがうへにしはきりといふ草おひ茂れり、御門牆もんしゃう[#ルビの「もんしゃう」はママ]には蔦かつらひかかり、表のかたに竹垣一重のみありて、その外は山につづき御かこひといふもの一重もなし」云々とあるとおり、きわめて簡素なくらしであり、僅かな侍臣たちも多く付近の谷蔭などに住居をもっていて交代に詰めるという風だった。或る年の霜月、時雨しぐれの降りしきる宵であった。三木幾右衛門(さきの幾之丞)はめずらしくただひとり炉端でおはなし相手をつとめていたが、ふと言葉がとぎれたとき、思いだしたように、――二十余年まえ兵法者なにがしという者が暫くお側に仕えていたのを御記憶あそばすかとたずねた。光圀はよく覚えていたらしい、炉の火をみつめたまましずかに頷いた、「かの者について今日に至るまで合点のまいらぬ事がございます、折あらば御意のほどを伺いとう存じておりましたが……」「なんだ」光圀はやはり火をみつめたまま云った、「申してみい」幾右衛門はしずかに、「かのなにがしにおいとまの御意がありました節、わたくし物蔭より始終の事を拝見しておりました、そのまえに御前がはじめてかれを池へお墜しあそばした折にも、やはりひそかに拝見していたのでございます、けれども二度めのときの御不興がいかなる仔細によるものかどうしても相わかりませんでした」「…………」「それからまた佐佐と中野の三名にて、かれを呼び返しにまいりまして、かれが即座に割腹した始末を言上つかまつりましたとき、そうであろう、との仰せでございました、わたくし共にはかれの割腹したしょぞんも計られず、仰せの意味もおそれながら拝察いたしかねました、いかなる御意でございましたろうか、お申し聞けねがいとう存じまする」幾右衛門の言葉が終ると、光圀は粗朶そだを折って炉にくべながら、「……あの頃はおれも若かった、むざんな事をしたと思う」と嘆息するように云った。


 ひさしを打つ時雨の音がひとしきりはげしく、山からひいたかけひをこうこうと水の走るのが聞える。「かれはいつでも、身命を奉る一念にておれに仕えると申した……」と光圀はしずかに云いだした、「さむらいとしては当然な覚悟である、然しそのほうたちには限らぬ、このおれも青年の頃からその覚悟でいた、……わが命は今日かぎり、おれも日々そう思いきわめて生きてきた、そのほうたちがおれに仕える如く、この光圀も公儀に仕えるさむらいであり、公儀はまた禁廷より征夷せいいの勅命を拝している、下は足軽小者より、上は征夷将軍にいたるまで、いつなんどきたりとも身命を捧げる一念に生きる、これがさむらいの道だ、……おのれみずから、一命は今日かぎりと思いきわめ、館を出れば再び館へ戻らず、水戸を出るときは再び水戸の土を踏むこと能わずと思い、常住きびしく身を持した、覚悟はそのとおりだったけれども肉躰はなかなかそこまでは徹しきれない、疲れを感ずれば睡くなり、飽きれば欠伸あくびも出る、歓楽には誘われ苦労は避けたい、こういう弱点を克己の心で抑えることはできるだろう、だが抑えているのでは三年五年はともかく生涯はつづかない、……さむらいの生き方のきびしさは、きびしさが常のものになりきることだ、そうなってはじめて身命を捧げる一念が不動のものとなる……」そこまで云って光圀はしずかに炉の灰をかきならし、しばらくは雨音に聞きいるようすだった。いま光圀は――青年の頃から自分の命はその日かぎりと思いきわめていたと云った。幾右衛門はその言葉から、思い当る多くの事実を回想することができる。光圀は副将軍ともいわれる身分でありながら、生活ぶりはおどろくほど簡素をきわめていた。身のまわりの物すべて、式用のものを別として衣服も調度も寧ろ粗末な品が多く、常着などは幾たびも洗い、みずから糸針をもって継ぎはいだものを用いた。大日本史編纂へんさんのために、書籍だけは費を惜しまず購入したが、骨董こっとう器物には眼もくれず、また身辺に珍蔵秘玩の類を一物も置かなかった。たとえばひとから手簡が届くとその署名花押かおうのところを切抜いて火中し、あとは裏を返して手帖てちょうを作ったり、余白をりついで料紙に使ったりする、紙をむだにしない意味もあるが、重要ならざる物を身のまわりに置かないという戒めが主であった。諸方から贈られる進物なども端から人に与え、いかに奇覯きこうのものでも取って置くということがない、……思いかえせばまさしく一日一日死を期したひとの生き方だった。一死奉公のほかになに一つ執着をもたず、いつ死んでも悔いを遺さぬ生き方だった。幾右衛門はいま、あらためてそのことに思い当り、おのれの身にひき比べて心がすくむように感じた。「……かのなにがしはなかなかみどころのある男だった」光圀はやがてしずかに続けた、「けれどもまだ我執がとれず且つおのれの会得した兵法にとらわれていた、いつでも身命をおれにれるとは云った、おそらく、その言葉に偽りはなかったであろう、しかしそれはそう覚悟していたというに過ぎない、はじめ不意に池へ突き墜したとき、ゆだんだなとおれが云った、兵法にとらわれていたかれはそのひと言で性根が外れたのだ、それで二度めには突き墜されながら、おれの袖へ小柄を縫いつけた」「…………」「まことにかれが光圀へ身命を捧げているのなら、抜きうちに斬られても手出しはできぬ筈である、それが――ゆだんだな、という僅かひと言のために心くらみ、主従の分を越えておのれの兵法についた、しかもその事に対していささかも疑いをもとうとしておらぬ」「…………」「いとまを遣わすと申したのはそこを悟らせるためであった、しかるにかれは退国したという、おれはそのまま他国へやってはならぬと思った、自分で悟らぬなら申し聞かせてやろう、それが僅かなりとも主従の縁をむすんだよしみだ、そう思って呼び返したのだが、かれはその旨を聞くと顔色を変え、即座に腹を切ったという、……顔色の変ったのはおそらく自分の過ちを悟っていて、おれの前にみれんな姿をさらしたくなかったからであろう、……それくらいの覚悟はある男だった、そのほうたちの復命を聞いてそうだろうと申したのは、その覚悟がすぐにわかったからだ」なにか感慨がこみあげてきたかのように、そこで光圀はふと言葉をきって眼をつむった。
 幾右衛門はああそうだったのかと思いながら、からだじゅうの神経がするどくひき緊るのを覚えた。さっき光圀は、自分が若かったからむざんな事をした、と云った。それはそのような方法でなにがしを試みたことが今は心をいためるのに違いない。しかし果してそれがむざんな事だろうか、――さむらいの生き方のきびしさは、きびしさが常のものになりきることだ。光圀その人でさえそのように自戒しているではないか。さむらいの奉公は御しゅくんに身命を捧げるところから始る、だが身命を奉るということはなまやさしい問題ではない、その覚悟が家常茶飯のなかに溶けこみ、まったく常のものになりきっていなければ、その時に当面しても「死ぬ」ことはできないであろう、なにがしは奉公の性根ということを口にし、身命を捧げると云いながらそれほどの試みにも堪えることができなかった。光圀がかれを試みたのは、さむらいの生き方のきびしさがどのようなものかを悟らせるためであった、自分がさきに一個のさむらいとして、きびしく身を持した光圀のこしかたを思い返せば、それは寧ろ慈悲であったというべきだろう。――だが、このおれはどう生きてきたか、幾右衛門はあらためて自分をかえりみた、そして、慄然りつぜんと息をのむよりほかになかったのである。……更けてゆく夜をこめて、雨は小歇こやみもなく降りしきり、炉の火のはぜる音が、ときおり部屋のうちにひっそりと反響をよび起していた。





底本:「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」新潮社
   1983(昭和58)年10月25日発行
初出:「新武道」
   1944(昭和19)年7月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2025年2月10日作成
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