へちまの木

山本周五郎





 房二郎ふさじろうが腰を掛けたとき、すぐ向うにいたその男は、あじの塩焼を食べながら酒を飲んでいた。房二郎は酒を注文し、さかなはいらないと云った。ふくれたような顔の小女こおんなは、軽蔑けいべつしたような声で、酒一本、肴はいらないとさ、とあてつけがましい声でどなった。房二郎は慣れているらしく、知らん顔をしてい、その男はちょっとこっちを見たあと、骨までしゃぶった塩焼の皿を押しやり、芋汁いもじるれと云った。
 その「沢茂さわも」という店は小さかった。客が十人もはいれるかどうか、まだ木ぐちは新らしいが、ぜんたいにひどく気取った造りになっていた。給仕は二人の小女で、どちらも田舎出だろう、化粧をしていないのは当然だが、手足もまっ黒だし、赤ちゃけた髪もぼさぼさ、動作も荒っぽいという、まるで野放しの仔熊こぐまみたような小娘たちであった。
「年に一度か二度のこったが」脇のほうの飯台はんだいで職人ふうの、中年の男二人が、飲みながら話していた、「ついこのあいだまたやりゃあがった、ちっとばかりならいいが、敷蒲団から畳まで濡らしちゃってるんだ」
「富坊はまだ五つだったろう」と相手の男がきいた。
「今年で六つだ」とこちらの男が云った、「六つにもなるのにおねしょじゃあ済まされねえ、その蒲団を背負わせて、町内を三遍廻って来いと突き出してやった」
「おれにも覚えがあらあ、いやなもんだったぜ、みんなにゃあ見られるし、笑うやつもあるしな、富坊もさぞ辛かったろう」
「どうだかな」とこちらの男が云った、「町内を廻って来いと云ったのに、野郎、そのまんま神田までいっちまった」
 相手の男は聞き違えたと思ったように、どこだって、と反問した。
「神田よ、神田の多町までいっちまったんだ」
「だって」と相手の男が云った、「おめえのうちは川向うだろう」
「川向うも川向う、亀戸かめいどの先よ」
「へえー、そいつはおどろきだな」
「おどろきどころじゃあねえや、おれが帳場から帰ると、町内は迷子捜しの大騒ぎよ」
 房二郎はゆっくり酒をすすりながら、二人の会話を聞いて思わず微笑し、同時に、すぐ向うにいる男を仔細しさいに眺めていた。男のとしは三十五六、中肉中背の平凡なからだつきだが、焦茶色の乾いた膚と、よく動くおちくぼんだ眼つき、そして、そこだけ際立って赤い唇などが、なんという理由もなく、房二郎の心をひきつけた。――芋汁というのは、とろろ汁の中へなにか白身の魚と青い物がはいっているらしく、男はその汁で酒を一本飲み、次いで、酒と甘煮を注文した。
「多町の自身番でり紙を出しているのを、町内の人がみつけてくれたのは、その明くる日のことさ」
「懲りたのは親のほうってわけか」
「みごとにしっぺ返しをくらったようなものさ」
 房二郎はまた微笑し、けれどもすぐに、眉をしかめた。その子は町内の人たち総出で捜しだされた。おれのうちはどうだろう、父や母や兄や姉たちは、おれを捜しているだろうか。いや、そうではあるまい、おそらく厄介払いをしたと、ほっとしていることだろう、と彼は思った。
「おい、おちょぼ」と前にいる男が小女を呼んだ、「そこにいるおちょぼ、聞えないのか」
 指をさされた小女はむっとしたように、頬をふくらせてこっちへ来ながら、自分の名はおつゆで、おちょぼなんていうへんてこなものではない、と抗議した。
「おつゆだって」と男はよく動く眼でじっと小女をみつめながら、歯を見せて、声を出さずに笑った、「悪かったな、ずいぶん丈夫そうなおつゆさんだ、お通じはきちんとあるかい」
 房二郎は危なくふきだしそうになった。
「わかんねこと云うお客だよ、このひと」とその小女は云った、「用はなんだね」
「酒と刺身だ」と男は云った、「刺身はまぐろの中とろだよ」
 おかしな注文をするな、と房二郎は思った。鰺の塩焼の次に芋汁、そして甘煮のあとで刺身とは、順序が逆のようじゃないか。人によって好みはあるが、四番めに刺身というのは珍らしい、そんなことを知らない男とは見えないし、とすれば、ことによるとなにかあるな、と房二郎は直感した。その直感ははずれなかった。脇の飯台で飲んでいた二人が、勘定を払って出てゆくとすぐ、刺身を二三きれたべた前の男が、大きな声で小女を呼んだ。
「そこのおちょぼ」と男は云った、「ちょっと板前を呼んでくれ」
「あたしの名はおつまっていうです」とその小女は云った、「なんの用ですか」
「板前を呼んで来いと云ってるんだ」
「旦那はいそがしくって、いま手が放せねえです、用はなんですか」
「旦那なんて誰が云った、板前だよ、板前」と男は云った、「この刺身を作った板前を呼べと云ってるんだ」
「それが旦那です、うちじゃ焼くのも煮るのも、刺身を作るのもみんな旦那さんがやるです、なんの用ですか」
「その旦那を呼べっていう用さ、おっと」男は片手をあげた、「いそがしくって手が放せねえとは云わせねえぞ、客はおれとこちらの二人っきりだからな、わかったか」
 小さな店だから、男の声は板場へ筒抜けである。小女がゆくまでもなく、片襷かただすきをした四十がらみの男がこっちへ出て来た。
「あっしをお呼びですか」
「ああ、おまえさんかい、この店の旦那で板前さんてえのは」
「ええ、あっしがこの店のあるじで板前をしています」
「じゃあこの刺身をたべてみてくれ」
「なにかお気に入りませんか」
「たべてみろよ」と男は刺身皿を押しやった、「おめえも庖丁ほうちょうを握るしょうばいなら、庖丁をどう使うかぐらいは知ってるだろう、まあたべてみろよ、かなっ臭えから」
 旦那はどきっとしたようであった。男は右のひじを飯台に突き、頬杖ほおづえをしながら、そのよく動く眼をぎろりと光らせた。
「おまえさんはいだまんまの庖丁を使った」と男はねっちりした口ぶりで云った、「研いだ庖丁は水でさらしあげてから使うものだろう、水で晒さずに使えばかなっけが付く、そのくれえなことを知らねえ筈はねえと思うんだが、どうだい」
「相済みません、親方」あるじは片襷を外しておじぎをした、「人手がねえもんで、ついぞろっぺえなことを致しまして」
「ちょっと待った」と男はさえぎって云った、「人手がなくって客にかなっ臭え刺身を食わせるくれえなら、店を閉めたらどうだ」
 おいでなすったな、と房二郎は思った。
「おらあな、馬喰ばくろ町の文華堂っていう瓦版屋の、木内桜谷おうこくってえ者だ」と男は云った、「こんどうちから、評判のいい小料理飲み屋の番付を出すことになった、この沢茂ってえ店はうまい物を食わせると聞いたから、それでためしに寄ってみたんだ」
「まことに相済みません」とあるじは続けさまにおじぎをし、頭のうしろをいた、「こんなしくじりは初めてでして、いつもお客さまにはよろこんでいただいているんですが」
「もういい、勘定をしてくれ」
「いいえとんでもない、お気に入らない物を差上げて、あっしのほうからおびをしなくちゃあなりません」
「よしてくれ」と男は高い声を出した、「おらあ勘定をふみ倒す気で文句を云ったんじゃあねえぜ、この沢茂の名を思えばこそ」
「まあ親方」と中年増ちゅうどしまの女が出て来た、このうちの主婦だろう、小さな紙包みを持っていて、それをすばやく男のたもとに入れた、「どうか親方、お勘定の心配なんぞなさらないで、いつでもお好きなときにいらしって下さい、その代り」と云って彼女はあいそ笑いをした、「――瓦版のほうはよろしくお願い致します」

「親方」と房二郎が呼びかけた、「いや、おまえさんだよ、文華堂の親方、木内桜谷さんとかいったね」
 男はぎょっとしたように振り返った。「沢茂」は日本橋小網町にあり、木内という男はれかけた街を新堀のほうへあるいていた。道には往来する人が多く、房二郎の声に振り返る者もいた。
「なんだおめえは」と木内はおちくぼんだ眼で房二郎の全身を見あげ見おろした、「――おう、おめえ沢茂で会ったっけ」
「まあ、あるきましょう」と房二郎は男の背に手を掛けて云った、「人立ちがしますからね」
「なんの用だ」
「おつまさんの云うようなことはよしにしましょうや、親方」
「馴れ馴れしいやつだな、いってえおめえは誰だ」
「名は房二郎、房って呼んでくれればいい」と彼は云った、「いまの店のお芝居は面白かった、たっぷり見せてもらったぜ、親方」
「芝居たあなんのこった」
「あるこう」と房二郎が云った、「馬喰町とは方角が違うんじゃねえかな、親方」
「いちいち親方、親方って云うなよ、なにが云いてえんだ」
「まあそうせきなさんな、おらあおめえを他人とは思えなくなった、これからよろしく頼むぜ」
「なにをよろしく頼むんだ」
「とぼけなさんな、いまの沢茂のくちさ」房二郎は低く笑った、「瓦版屋で小料理飲み屋の番付を作る、そのために評判のいい店をためしに廻ってる、なんざあ泣かせるせりふだぜ、だがなあ親方、刺身がかなっ臭えなんていうところは瓦版屋じゃあねえな、おまえさんはどこかれっきとした料理屋の板前だろう」
 木内桜谷は笑いだした。昏れがたの街の、往来する人たちが振り向いて見るほど、大きな笑い声であった。


「これがおれのねぐらよ」と木内は云った、「飲むか、若いの」
焼酎しょうちゅうはだめだ」房二郎は自分のおくびの酒臭さに眉をしかめた、「酒ももうたくさんだ」
「おまえさんお武家だね」
「そんなことはどっちでもいいじゃねえか、人足だろうと駕籠かごかきだろうと、人間が人間だということにゃあ変りはねえさ」
 四じょうはんと六帖の、裏長屋のその住居には、火のない長火鉢と小さな茶箪笥ちゃだんす、そして竹行李たけごうりが一つしかなかった。それらは古道具屋から買ったものらしく、長火鉢も茶箪笥もこばが欠けたり、板にひびがいったりしてい、竹行李などは四隅がやぶれていた。
「しかし文華堂へ勤めるとなると」と木内は湯呑茶碗で焼酎を啜りながら云った、「人別にんべつだけははっきりしなくちゃあならねえからな」
「そいつあとんだへちまの木だ」
へちまがどうだって」
「こっちのことさ」と房二郎は云った、「姓は池原、名は房二郎、としは二十三歳、――池原は千二百石の旗本で、屋敷は芝の桜田小路こうじ、おれは三男で養子にやられようとしたので、家出をして来たというところだ、このくらいでいいかい、親方」
「それに嘘がなければな」と云いかけて、木内は眼をみはった、「千二百石の旗本ですって」
「おれのじゃあねえ、家に付いた石高こくだかだぜ」
「だって房さん、千石以上っていえば御大身ごたいしんじゃありませんか」
内所ないしょは火の車さ、おれの婿縁組も先方じゃあ金がめあてなんだ、へっ」房二郎は肩をすくめた、「おれだって男だ、持参金なんぞ背負っておめおめと婿にいけるかい、そうだろう木内さん」
 親方とか木内さんとか呼ばれるたびに、桜谷はくすぐったいような、また誇らしげな気持になるらしい。よく動く眼を細めたり、しわのある小さな顔をでたり、口をすぼめたり、躯ぜんたいで貧乏ゆすりをしたりした。
「もってえねえような話だが、気持はよくわかりますよ」と木内は云った、「明日すぐに文華堂へゆきましょう、いまちょうど手不足だし、まず断わられるようなことはねえと思います、もちろんおまえさん、このほうはできるだろうね」
 木内桜谷はなにか書くような手まねをした。
「よせやい」と房二郎が答えた、「昌平黌しょうへいこうじゃあ松室寧斎まつむろねいさいのまな弟子だったんだぜ」
「学問と瓦版とはまるで違うんだが、まあいいでしょう、文華堂のおやじにはまたおやじの思案があるでしょうから、ときにねぐらだが」
「おらあここでもいいぜ」
「野郎二人はいけねえ」木内は手を振った、「一人でもうじがわくっていうのに、二人じゃあ手に負えねえや、文華堂でよしときまったらおれが捜してやるよ」
「やっぱりおめえは他人たあ思えねえ、頼むよ親方」
 少しだが金なら持ってると、房二郎が云い、木内桜谷は、今夜ひと晩は泊ってゆくようにと云った。

 馬喰町三丁目の文華堂は、道を隔てた向うに郡代ぐんだい屋敷があり、土堤どてには松林が茂ってい、その土堤囲いの中に池でもあるのか、なにかの水鳥の鳴き交わす声や、飛び立ったり舞いおりたりするのが見えた。――文華堂は土蔵造りの二階建てで、下では絵草紙とか黄表紙、人情本、それに駄菓子などまで売ってい、帳場格子の中にはいつも、主婦のおそでがでんと坐っていた。あとでわかったことだが、絵草紙も人情本など、みなよそで刷って売れなくなった版木を安く買い、とくに黄表紙や人情本は題名と作者名を変えて、新版物のようにみせかけた本ばかりであった。――その店はおかつという二十五になる女中と主婦の二人でやっていた。おかつは背丈も高く、きりょうもいいほうだが、どもりで、暇もなくおそであごで使われながら、しょっちゅうびくびくしていた。
 おそでとしは三十八九、大きな躯で、立ったりあるいたりすると、床がみしみし鳴るくらいであった。そのくせ顔は狐のように細く骨ばっていて、人間どもはみな敵だとでもいうように、とがった三白眼でゆだんなくあたりをねめまわしているし、ものを云う言葉はひとことひとことがとげを持っていて、相手に突き刺さるように感じられた。
「この店はあの女狐めぎつねのものなんだ」と木内桜谷が房二郎にささやいた、「まえの亭主が米相場をやっていて、死ぬ間際にどかっともうけたらしい、その金をめあてに、あのちょびひげがとりいってものにし、この文華堂を始めたんだそうだ」
 房二郎が云った、「世の中には酔狂な人間がいるもんだな」
「しっ、聞えるぜ」と木内が云った。
 いまでいえば編集部というのだろう。二階の往来に面したほうに、八帖二つをぶち抜いた部屋があり、古机が五つ、一方は記事を書く部屋、一方には絵描きや摺師すりしや、版木彫りの職人たちがいた。絵描きの常さん、版木彫りの源さんは、ともに五十がらみでともに独身、いつも「この世界がひっくり返ればいい」とでも云いたげな、渋い顔をしてい、どちらも、自分は江戸一番の職人だ、という自信を躯いっぱいに詰め込んでいるようにみえた。摺師の松やんは三十そこそこで、せがたの美男であり、もう妻と三人の子持ちだということであった。彼は腰が低く、無口で、人と話すようなことは殆んどない。京橋二丁目にある耕文堂で、子飼いから摺師を仕込まれたが、いまの女房といっしょになるとき、耕文堂の主人夫妻となにかもめごとがあり、江戸では表向き、一流の職にはつけないような処分を受けたのだそうであった。
 記事屋は三人、木谷桜所、木内桜谷、木原桜水という。桜所は品のいい五十男、桜水は背丈が低く肥えていて、としは二十五六だろう、いつもにこにことあいそがよく、主婦のおそでもこの男だけには、あまったるいような声で話しかけるようであった。
「あの女狐は平公とできてるんだ」と木内が房二郎に耳うちをした、「木原桜水なんて名のってるが、本当は大工のせがれで平次っていうのさ、ときどき女狐のごきげんをとって、うまく小遣いをせしめているらしい」
「いくらなんだってあんな女に、へえー」と房二郎は云った、「それが本当ならとんだへちまの木だぜ」
 そして主人の西川文華は三十四五歳、背丈は五尺そこそこだし、痩せていておちつきがなく、鼻の下にちょび髭を立てていた。いつもちょこちょこと動きまわっているようすも、小さな目鼻だちも、そのきいきい声やちょび髭まで、鼠そっくりにみえた。「せやさかい」というのが口ぐせであり、江戸弁は荒っぽいから、しょうばいには上方訛かみがたなまりに限る、というのがその主張であった。
「そないに勘定や勘定やと云われてもな」といつか版木屋が勘定取りに来たときに、彼がきいきい声で云うのを房二郎は聞いた、「――こっちゃもしょうばいやよってに、あんじょう儲からんことには払えやしまへんがな」
 記事部屋は北向きで、うす暗く、湿っぽく、九月にはいるともう隙間風が寒かった。瓦版はたいてい一枚摺りだが、ときに三枚じ五枚綴じのこともあった。綴じの多いときは小説ふうのこしらえ記事で、赤絵を使った、じるしのような内容のものが多かった。――売り子は香具師やしの若い者で、常連になっているのが七人、一枚売れば幾らという歩合制であるが、記事のたねを持って来れば、相当な手間賃になるようで、かれらのほかにも、火事とか落雷とか、心中、傷害などの早記事を持ち込む者が幾人かいた。
 房二郎は小舟町に部屋を借りた。木内桜谷が捜してくれたもので、女一人の後家ぐらしであるが、仕立て物を教えていて、二十人ちかい娘たちが毎日かよって来た。女主人のおるいは躯こそ小柄だが、ちょっと珍らしいほどの美貌びぼうで、細おもての顔や躯つきが調和がとれているため、すらっとして背丈が高いようにみえた。木内桜谷は自分で世話をしたのに、おるいの美貌に気づかなかったのか、半月ばかりすると、しきりに房二郎にからみだした。
「房やん、もうあの後家さんとできたんじゃあねえのか」
「なんだい、その後家さんてえのは」
「小舟町のおるいさんよ、しらばっくれたってだめだぜ」
 房二郎はくすっと笑った、「初めて聞く名だが、おれが部屋を借りてる、うちのばあさんのことかい」
「ばあさんだって」
「よくは知らねえが、もう三十四五になるんだろう、おれにゃあおふくろみてえなもんだ」
 文華堂の隣り町、馬喰町二丁目の横丁に「とんび」という小さな店がある。五十くらいの夫婦だけでやってい、店構えも器物もしもたやふうだし、肴も三品より多くは出来ないけれども、酒だけは新川からじかに取るそうで、それを自慢にしていた。みつけたのは房二郎で、帰りには一日おきくらいに、木内をさそって飲みに寄った。
「おふくろか」と桜谷は酒を啜りながら、渋い顔をした、「そういうことを聞くと、自分のとしを思いだすよ」
「そんなことよりも」と房二郎が云った、「あの木谷桜所と木原桜水の二人はなに者だい、木内さんとおれは朝から夕方まで、ずっと記事部屋に詰めっきりで、あることないこと書きどおしに書いてるのに、あの二人は好きなときに顔を出して、ちょっとした短けえ記事をほうり込んで、勝手にさっさと帰っちまう、あれはどういうことなんだい、木内さん」
「二人はかけもちなんだ」と木内が云った、「瓦版屋を幾軒かかけもちにしていて、記事によって高く買う店と、安く買う店をうまくこなしてるのさ、文華堂へ持って来るのは安いほうのくちだが、その代りおれたちは、外廻りをしなくっても済むってえわけさ」
「だって売り子が記事のたねを持って来るじゃねえか」
「記事の取りかたが違うんだよ」と木内が云った、「房やんが今日書いた、深川の親子心中だって、――まあいいや、そのうちにわかってくるさ」


「だろうさ」と房二郎がやけになったような口ぶりで云った、「人間としをとればいろんなことがわかってくる、わかるにしたがって世の中がどんなにいやらしいか、人間がどんなにみじめなものか、ってことがはっきりするばかりだ」
「生きてくってことは冗談ごとじゃあねえからな」
「げにもっとも」と云って房二郎は、からになった燗徳利かんどくりを取って振った、「おやじ、酒だ」
「だめです」ととんびのあるじはかたくなに云い返した、「うちは酒をあじわってもらう店で、酔っぱらうために飲ませるんじゃあねえんだから」
 つけ板のまわりにはほかに二人、お店者たなものらしい中年の男が、この店のかみさんの酌でひっそりと飲んでいた。房二郎はあいそのない亭主の言葉にむっとした。仮にもしょうばいをしているのに、そんな客を突きとばすような挨拶はないだろう、と思ったのであるが、他の二人の客のことを考えて、尋常に頭をさげた。
「これもげにもっとも」と房二郎は云った、「勘定をしてもらおうか」

 房二郎はどきっとし、坊主枕から頭をもたげた。暗くしてある行燈あんどんほのかな光で、自分の横に女が寝てい、裸の足と手が、自分の躯に絡みついているのに気づいた。
「おい、起きてくれ」と彼は女の肩をゆり動かした、「ここはどこだ、おまえは誰だ」
 女は房二郎にしがみつき、その胸に顔をすり寄せながら、黙って眠って、と囁いた。そのまま眠ってちょうだい、あたしすぐに向うへゆくから、と付け加えた。彼はまたそのまま眠ってしまった。

 明くる朝、文華堂の記事部屋で、房二郎はあおい顔をして、水ばかり飲んでいた。
宿酔ふつかよいかい」と木内桜谷がにやにやしながら云った、「房やんはあまり強くはないんだな」
「ゆうべはどのくらい飲んだのかな」
「おれの知っている限りじゃあ二合とちょっとだったぜ、そのあとは知らねえがね」
「うーん」房二郎はうなった、「どこで別れたのかね」
「おまえさんはむちゃだよ」木内はせっせと筆を動かしながら云った、「一杯飲むとすぐにどこかへいこう、と云ってきかねえんだ、五軒か六軒まわったかな、こっちが疲れちまって、小網町で別れたよ」
 房二郎はぎょっとしたように振り向いた、「小網町だって、まさか沢茂じゃあねえだろうな」
「それが沢茂さ」
「冗談じゃあねえぜ」
「どうしてもゆくんだってきかねえんだ、こんどはおれが刺身のかなっけをためしてやるんだってな」
「冗談じゃねえ、総毛立つぜ」房二郎は首をすくめた、「それで刺身を食ったのか」
「なんにも食わなかったよ」木内はまたにやっと笑った、「五つ品ぐらい注文したかな、みんなはしで突つくだけで、なにか文句ばかり云っていたようだぜ」
「ぞっとするね、ひでえもんだ、おらあ本当は酒はだめなんだ、婿の縁談が始まってから、やけくそになって飲みだしたんだが、さかずきで五つも飲めばぶっ倒れるほうさ」と云って房二郎はさぐるように木内を見た、「それで、ゆうべ別れるときに、まっすぐ小舟町へ帰るようだったかい」
「どうだったかな、おれも酔ってたから覚えちゃあいねえが」
 そのとき、廊下を隔てた裏座敷で、ひーという主婦の叫び声が聞えた。そこは主人夫妻の寝る八帖で、主婦のおそでがそういう声を出すときは、きまってやきもち喧嘩げんかであり、主人の西川文華はすぐさま記事部屋のほうへ逃げて来るのがきまりだった。躰力たいりょくでも腕力でも、そして弁舌においても、文華はとうてい女房に対抗することはできなかったからである。
「文華はね、房やん」と木内が囁いた、「あのちょび髭で女狐をたらし込んだのさ、もちろん金がめあてでね、――ところが、ちょび髭はあの女狐をたらす役に立っただけで、女狐は財布のひもをがっちり握ったままだし、いまのように喧嘩となると、三文の役にも立たねえ、哀れなちょび髭さ」
「記事はまだかい」と隣りから彫り師の源さんが呼びかけた、「こっちは手をあけて待ってるんだぜ」
「まだ新らしいのはねえな」と木内が大きな声で答えた、「昨日の深川心中でも増し摺りをしていてもらおうか」
「なんだい、あんなすべたあまになんぞだまされやがって」と裏の八帖からおそでの叫び声と、頬でも叩くような音が聞えた、「あたいの財布からくすねてった二もあのくそあまにやったんだろ、すぐに返せ、いますぐにここで返しやがれ、このとんまの**野郎のひょっとこのおたんこなすめ」
 また頬でも叩くような音と、けんめいになだめようとする文華の、低いやさしげな声が聞えた。
「さあ、ここいらでさわりを入れるかな」木内桜谷は休みなく筆を動かしながら云った、「――うんすん歌留多かるただ、うんすん歌留多だ」
 彼はよく書いた。一升徳利を机の脇に置いて、冷やのまま湯呑に注ぎ、それを啜りながら、朝から夕方まで、独り言をつぶやいたり、にやにや笑ったりしながら、書きに書きまくった。文華堂でいう早記事、いまでいう速報というようなものはもちろん、芝居の評判記とか、役者と婦人たちとの情事、いうまでもなくでたらめな拵え記事だし、内容は思いきって下品なものであり、表現はそのまま猥本わいほんといっていいものであった。
「またうんすん歌留多かい」ときどき彫り師の源さんが云った、「こう型がきまっちゃあ面白くも可笑おかしくもねえぜ、木内さんもたまにゃあ変った女と寝てみるんだな」
「源さんとはとしが違うからな」木内は顔をくしゃくしゃにし、口だけは負けずにやり返す、「――そのうちにだんだん勉強するつもりだけれど、そんなに変った女がいたら教えてもらいてえな」
「おらあ三十五のとしから女は断ってるんだ」と源さんは版木に向かいながら云った、「しかし女ってやつは一人として似た者はいなかった、顔かたちはもちろん、あのほうの好みだって、からだのぐあいだって、声の出しかただって、みんなそれぞれに違うんだ、おまえさんの書く物は引写しで、生きた女は一人も出ちゃあこねえ、これじゃあいくら安手の印だって売れやあしねえぜ」
「三十五から女を断ったって、どうしてだい源さん」木内は筆を動かしながら、それとなく話を変えた、「なにかいわくがありそうじゃねえか」
「弁慶は一遍きりで女を断った、っていう話を聞いたこたあねえかい」
「おらあ源さんのことを聞いてるんだ」
「てめえのざんげ話をするほどぼけちゃあいねえよ」
 裏座敷の喧嘩はおさまったらしく、おそでの鼻にかかった、あまだるいようなうめき声が、とぎれとぎれに聞えてきた。まもなく木谷桜所があらわれ、ひんのいい声と身ぶりで、一とつづりの記事を木内桜谷に渡し、いい瓦版になりますよと云って、いかにも品のいい身ぶりで去っていった。
 ――ゆうべはどこで泊ったんだろう、と房二郎は思いあぐねていた。あの女は誰だったんだろう、沢茂で木内と別れたとすると、なか(新吉原)はもちろん知らねえし、女と寝るような場所へは近よったこともねえんだからな。
 女中のおかつが昼めしを告げに来たとき、房二郎は「よかったらおまえさんがべてくれ」おれはなんにも欲しくはないと云った。絵描きの常さんも彫り師の源さんも、そして摺師の松やんも木内桜谷まで、みんな弁当持ちでかよって来るが、房二郎だけは近所の弁当屋から昼めしを取っていた。ほんとかね、と女中のおかつは赤くなってどもりながら聞き返し、本当に喰べていいと知ると、顔じゅう崩して嬉しそうに微笑し、ありがとうと、吃り吃りおじぎをした。
「このうちじゃあろくな物は食わせないんだ」と木内が云った、「一年じゅう麦めしに漬物、十五日と晦日みそかに味噌汁が一杯、そのときは汁の中のを皿に取ったのがおかずで、ほかには漬物も喰べさせねえそうだ」
「夫婦も同じなのかね」
「女狐のその日の機嫌によるそうだ」
「嘘のような話だな」と云って房二郎は首を振った、「その記事、手伝おうか」
「むりだな」木内は弁当の包みを開きながら云った、「まおとこの現場を押えた亭主が、女房と男を庖丁で斬ったという話だからな、気分が直ったら写し物を続けてればいいよ」
 房二郎は文華堂へはいってからずっと、仮名書かながき女庭訓おんなていきんという写し物をしていた。原本は高名な漢学者で、原題を「啓蒙婦女おんな庭訓」といい、広く読まれている評判の本であった。その文章を少しずつ変え、仮名書にして売ろうというのである。つまり偽書にせがきを作るわけで、房二郎は一字書くごとに、恥ずかしさで汗をかく思いだった。
「しょうばいだよ、しょうばい」と木内桜谷は慰めてくれた、「にんげん生きてゆくためにゃあ、どんな恥ずかしいことも忍ばなくちゃあならねえときがある、気にしなさんな、そのうちに慣れるさ」


「そんなとこへ寝ちゃあだめよ、風邪をひくじゃないの、起きてよ池さん」
「おめえ誰だ」と房二郎が云った、「ここはいってえどこだ」
「あんたの部屋のあるうちじゃないの、小舟町よ」
 房二郎は頭をもたげておるいを見、ああ、あんたかと云ってまた眼をつむり、畳の上で仰向けに寝返った。
「だめねえ、飲めもしないくせに」おるいは立ってゆき、坊主枕と掻巻かいまきを持って来て、房二郎に枕をさせ、掻巻を掛けてやった、「苦しいんじゃないの、水を持って来ましょうか」
 房二郎には聞えなかったらしい、「――いっそ乞食にでもなればよかった」と呟き、掻巻の中へ顔を隠した。
 どうして自分の部屋へはいったか、房二郎にはまったく覚えがなかった。肩をゆすられて眼をさますと、枕許まくらもとにおるいがいて、湯呑茶碗を彼にすすめた。
「これを飲んで」とおるいは云った、「いやだろうけれど、宿酔には迎え酒がいちばんきくんですって、鼻を摘んでもいいから飲んでごらんなさい」
 房二郎は起き直って、その湯呑を受取ったが、燗をした酒の匂いをぐなり、胸がむかむかし、危なく嘔吐おうとしそうになったので、顔をそむけながらおるいに返した。
「それじゃあ今日は休んでゆっくり寝ていらっしゃい」
「そうします」房二郎は横になりながら云った、「誰か人を頼んで文華堂へそう届けさせてくれませんか」
「いいじゃないの、そんなこと」おるいは掛け夜具を直してやりながら云った、「あんないやらしいお店なんかやめておしまいなさいよ」
「やめてどうします」
「ゆうべは乞食になればよかったっておっしゃってたわ」とおるいが云った、「その気にさえなれば、あなたはなにをなすっても、きっと人のかしらに立つ仕事をものになさるわ」
「そんな者にはなりたくないな、山へでもはいっちまいたいよ」
「なに云ってるの、まだ世の中をのぞいたばかりの若いくせに、さあひと眠りなさい」おるいは掛け夜具を直して云った、「そうすればまた元気が出ますよ」
 房二郎はすぐに眠った。ほんのちょっと眠ったような気持だったが、人の話し声を聞いて眼をさますと、行燈に火がはいってい、その脇のぜんに向かって、木内桜谷が酒を飲んでいた。房二郎が声をかけると、木内はよく動く眼を細め、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「朝このうちから使いが来たんでね、どんなようすか見に寄ったんだ」
「そんな心配はいらなかったのに」
「ゆうべがゆうべだからな」
「というと、――なにかあったのかい」
「忘れちまったのか」と木内はうまそうに酒を啜って云った、「今月から手当をきめてくれって、ちょび髭に談じ込んだんだよ」
 ああと云って、房二郎は顔をしかめた。ちょび髭との問答を思いだしたのである。雇われてから約四十日、見習いということで、これまで一銭の手当もなかった。桜田小路の家から持って来た金も残り少なくなったので、思いきって文華に申込んだ。房二郎より三寸以上も背丈の低い文華は、ちょび髭をでながら、幾たびもせきをした。
 ――手当や手当やいうても、こっちゃもしょうばいやよってにな、と文華は例のきまり文句を云った、本当はな、記事屋というものは、店から手当を貰うより、記事のたねを金にするものときまったもんやがな。
 ――記事のたねを金にするとは、どういうことです。
 ――桜谷はんにきいてみなはれ、と云って文華は三角の小さな眼を皮肉に細めた、それにな、弁当屋から弁当を取って喰べるような結構な身分で、銭かねのことを云うなんて似合いまへんで。
 そのとき房二郎は、ちょび髭を殴りつけたくなったが、急に自分が恥ずかしくなり、文華の前からひきさがった。こんな卑しい写し物などをして、給銀を貰おうなどと思った自分が、なんともあさましく感じられたからである。
「木内さんあれを聞いていたのかい」
「だから酒をつきあったのさ」と木内は云った、「あんたはいつかのように梯子酒はしござけで、おれは泥棒になりてえって、大きな声で云い続けていたよ」
 その気持はよくわかる。だが世間というものは、きれいごとだけで生きてゆけるものではない。瓦版屋はずいぶんあるが、ごまかしでない、本当の記事で売れている店はごく僅かなものだ。あとは大なり小なり悪質な、こしらえ話か事実無根のあくどい記事で、ようやく生計を立てている、というのが大多分なのだ。その中で文華堂が、いちおう店を張っているのは、おそでが金を持っていること、家作も十軒ばかりあるし、どうやら小金貸しもやっているらしいからで、それでなければ古版木ふるはんぎの改版や、印を売るぐらいでは、とうていやってはゆけないだろう、と木内桜谷は云った。
「おれだって、いまのような仕事をしているのは恥ずかしいよ」木内は酒を啜り、頭を垂れた、「自慢にゃあならねえだろうが、房やんのとしごろには、おれは芝居の作者になりたくって、いろんな芝居の作者部屋へ出入りをし、竹柴宗七の代作ということで、舞台に乗った本が五つほどあった、そのまま順調にいけば、いまごろはたて作者になっていたかもしれねえ」
 それが女のことで、と云いかけたとき、おるいが酒を持ってはいって来た。
「あら起きたの」おるいは房二郎を心配そうに見た、「気分は直って」
「どうやらね」と房二郎は起きあがった、「少し酒が欲しくなった」
 おるいは酒を木内桜谷の膳に置き、いそいで房二郎のそばへ来て、着物と丹前をうしろから着せかけ、むすんであったひらぐけを解いて渡した。
「もしお酒をあがるんならちょっと待ってね」とおるいが云った、「朝からなにも喰べていらっしゃらないんですもの、かゆが出来ていますから、それを喰べてからになさいな」
「喰べ物はいやだな、まず酒にしよう」
「だめよ」と云っておるいは房二郎の肩を打った、「もう出来てるんだから待って、すき腹のまま飲むとまた苦しむだけよ」
 すぐですからねと云って、おるいはいそぎ足で出ていった。木内桜谷はにやにやしながら、まるで夫婦のようだな、と云った。房二郎はその向うへ坐り、片手を出して、その盃を貰おうと云った。
「だめだね」木内は首を振った、「すきっ腹に酒は毒だからな、ごしんぞの云うとおりだよ」
「そんないやみは痛くもかゆくもねえ」と云って房二郎はひょいと眼をあげた、「忘れていたが、記事のたねを金にするとはどういうことだ」
「考えないほうがいい、あんたにはできっこもなし、やらせたくもないこった」
「けれどもおれだって、生きなくっちゃならねえからな」と房二郎が云った、「できたら記事屋としてやってゆきてえし、そのために必要ならなんでもするつもりなんだ」
 おるいが盆を持ってはいって来、房二郎の膳を出すと、ゆきひらと茶碗、梅干の小皿と箸を並べ、お待ち遠さまと云った。房二郎は自分でやるからいいと云ったが、おるいは相手にせず、卵の入った粥を茶碗に取り、房二郎に渡した。彼は木内桜谷に、ちょっと待ってくれと云い、箸を取りあげた。粥の匂いを嗅ぐと、にわかに腹が減ってきたのである。粥は塩かげんもよく、卵も半熟で、こんなにうまい物があるだろうかと思いながら、房二郎は茶碗に二杯たべた。おるいはそのようすをたのしげに見ていて、お味が薄かったかしら、ときいた。
「わからないな、なにしろ粥なんて、覚えてから初めて喰べたんでね」と房二郎は茶碗を置きながら云った、「しかしうまかったよ」
「よかったわ、それだけあがれば大丈夫よ」おるいゆきひらや茶碗を盆に移しながら、その代りに燗徳利と盃と、肴の小皿を二つ膳へのせた、「でも気をつけてね、やけになって、飲みたくもないのに飲んだりしてはだめですよ」
「おれが叱られてるみてえだな」と木内は首をすくめて云った。
 おるいが去ると、房二郎は手酌で酒を一杯注ぎ、飲もうとはせずに、さあ聞こう、と緊張した顔つきで云った。
「話してもむだなんだがな」木内は酒を啜って云った、「いや、話すほうがあきらめがつくかもしれねえな、云っちまおう、――記事のたねを金にするというのはな、古い手だがゆすりなんだ」
「ゆすりだって」
「金持のうちの内情をあばいて、これこれの記事を瓦版にして売り出すんだが、お宅の名を書かなければならないので、あらかじめお知らせをしに来た、ともちかけるんだ」と木内は云った、「大店おおだなや金持ともなれば、世間に知られたくないようなないしょ事が、二つや三つはあるもんだ、金で済むことなら世間に恥をさらすことはねえからな、その記事を買いましょう、ということになるわけさ」
 房二郎は膳の上から盃を取り、眉をしかめながらあおった、「へえー、そういうことかい、へえー、そいつはとびきりへちまの木だ」
「おめえときどきそれを云うが、へちまは木にゃあならねえぜ」
「どうして」と房二郎が反問した、「だって茄子なすの木ってことはみんな云うじゃねえか」
「どっちでもいいが、茄子は一本立ちだから木と云ってもいいだろう、しかしへちまは竹とか木なんぞに絡みつく蔓草つるくさだからな、どうこじつけても木たあ云えねえんだ」


 房二郎は夢の中で、やわらかく、吸いつくような、熱い女の躯の重みを感じた。いつかの女だな、と彼はおぼろげに思った。女の躯は彼を上からおおい、押しつけたり、緊めつけたりした。けんめいに苦痛を耐えているような女の声を聞きながら、また酔いすぎたんだな、と彼は思った。躯の一部に異様な感覚がおこり、その感覚が急に頂点に達したとき、彼は女のかすかな、わけのわからない叫び声を聞き、自分の全筋肉がばらばらにほぐされるのを感じた。

「池さん、もう起きないとおくれるわよ」とおるいが云った、「もし文華堂へいらっしゃるんならだけれど」
「いきますよ」うとうとしながらそう云ってから、房二郎は眼をさまして、枕許にいるおるいを見た、「ああ、あんたか」
「あんまり飲んじゃだめだって云ったのに、こんなに飲んでばかりいるといまに躯をこわしちゃうわよ」
「痛いな」と房二郎は云った、「けれども、男にはね、死ぬほうがよっぽど楽だっていうときがあるんだよ」
「女にはそんなときがないとでもお思いですか」
「痛いな」とまた房二郎は云った、「私は世間を覗いたばかりで、自分のことだってよくわからないんだから」と云って彼はてれたような顔つきになった、「――ゆうべはよっぽどおそかったんですか」
「覚えていらっしゃらないの」
「売り子の段平と久兵衛がいっしょだったんで、知らないところを引廻されたものだから、いつどうして帰ったか覚えがないんだ」
 おるいの顔になまめかしい微笑がうかんだ、「売り子っていうのはやくざなかまの人なんでしょ」とおるいが云った、「まさか悪いところなどへいったんじゃないでしょうね」
「そんなことはないさ」房二郎は顔をそむけた、「もっとも、酔っていたから、どんなところを廻ったかよくはわからないがね」
「女がいたんじゃないの」とおるいはさぐるような口ぶりできいた、「女のひとと浮気をしたんでしょ」
「顔を洗おう」と云って彼は起きあがった、「そう休んでばかりもいられないからな」
「卵粥が出来ててよ」
 房二郎はけげんそうな眼をした、「へえー、どうして」
「酔ったあとにはあれがお好きなんでしょ」
「そんなことを云ったかな」
「仰しゃらなくったってわかるわよ」と云っておるいは立った、「さあお起きなさい、半插はんぞうへお湯を取っておくわ」

 文華堂の前で、売り子の段平と会った。瓦版をひと重ね左の手に、古扇子を右手に持っていた。饅頭形まんじゅうがたの編笠をかぶり、尻端折しりっぱしょりをした布子ぬのこの下に、ほっそりした紺の股引ももひきをはいた脚が、いかにもいなせなように見えた。
「ゆうべは世話になったな」と房二郎が云った、「だいぶ散財させたんじゃないのか」
「なあに、顔馴染の店ばかりでね」と段平は苦笑いをした、「銭なんか使やしねえ、あるとき払いときまってるんだ」
 房二郎は財布の中から幾らか出し、足りないだろうが割前に取っておいてくれ、と云って段平に渡した。そして段平が断わろうとするのをさえぎって、ゆうべはどこで別れたかときいた。
「お宅の前でさ、あんまり酔ってたから送ってったんでさ」と段平が云った、「なにかあったんですか」
「厄介をかけて済まなかった」と彼は云った。
 記事部屋へあがると、木内桜谷が向う鉢巻をし、机に向かって、例のとおり酒を飲み飲み、いさましく筆をはしらせていた。房二郎は自分の机の前に坐ってから、財布を出して中をしらべてみた。家を出がけにおるいが、少し入れておいた、と云って渡してくれたものだ。いましがた段平に少しばかり割前を払ったとき、かなり多額にはいっているようなので、財布をあらためると、一分銀が三枚、二朱が二つと、銭が三十文あった。
 ――段平にったのが二朱だった、とすればほぼ一両か。
 財布をしまいながら、房二郎は顔をゆがめた。部屋の借り賃もたまってるし、こんな金を貰う義理はまったくない。すぐに返さなければならないが、手を付けてしまったのだから、このままでは返せないし、当分は返すあてもない。房二郎はすっかり気が重くなった。
 ――それにゆうべの女だ、いつかの晩と同じ女だと思うが、いったいあれはどこの家のどんな女だろう。
 よほど段平にきこうかと思ったが、どうにも口には出せなかった。桜田小路の家を出れば、そのまま生きた生活にはいれると思った。しかしこれまでのところ、世間は彼を拒絶し、押し戻すようにしか思えない。すべてがちぐはぐで、不合理で、いやらしく不潔な面だけしか彼にみせてはくれなかった。三男坊だから窮屈で不自由な生活だと思ったが、千二百石の旗本に育った神経には、文華堂などという、最低のからくりで経営する店や、町人ぐらしで触れるものごとの一つ一つに、やりきれないほどの抵抗を感じるのであった。
「さあ値上げだ」突然、記事を書きとばしながら木内が云いだした、「月手当の値上げだ、さあさあ値上げだ値上げだ」
「こっちも値上げだ」と隣りの八帖から彫り師の源さんの声が聞えた、「おたなはほかに幾らもあるんだ、こんな手当で仕事をするなんてもうまっぴらだ」
 その声を聞いて、木内桜谷がにやりとし、肩をすくめるのを房二郎は見た。
「そうだ値上げだ」と隣りの八帖から、こんどは絵師の常さんの声が聞えた、「子供の絵本を描いたって、もう少しはましな銭にならあ」
 摺師の松やんはなにも云わず、なにかを刷っているばれんの、きゅっきゅっという音だけが、休みなしに聞えた。そこへ木原桜水がはいって来、皮肉な笑いをうかべながら、だいぶにぎやかですねと云って、記事だねの紙を木内桜谷の机の上に置いた。
辻斬つじぎりと、子供が大八車にひき殺された話です」と木原は云った、「辻斬りは浅草の二天門外、子供のひき殺されたのは神田の鍛冶かじ町、子供は三つの女の子だったそうです」
「たまにはくずだねでねえのを持ってこいよ」木内は筆の手を休めずに云った、「そんな記事じゃあいくら売り子がそそっても、瓦版は売れやしねえぜ」
「それを売れるように書くのが、木内さんの腕じゃあないのかな」と木原はにやにやしながら云った、「この夏、新吉原なかの女郎の心中はよく売れたそうじゃありませんか、二人とも死んだことになってるが、女郎のほうはまだぴんぴんしているし、あの瓦版のおかげで、たいそうはやってるそうですからね」
「よしてくれ」と木内桜谷が云った、「そんなことは聞きたくもねえや」
「筆の力ですよ」木原は軽薄に笑った、「木内さんが書けば、どんなに屑だねでも売れること間違いなしさ、しっかり頼みますよ」
 そしてへらへら笑いながら、木原桜水は出ていった。
「たいした野郎だ」と木内は書きながら云った、「いいたねは金になるほうへ持ってゆき、安い屑だねはこっちへ持って来やあがる、それで実際に書くおれなんぞより、ずっと多くちょび髭から召し上げるんだからな、――なにが可笑おかしいんだ」
 房二郎は手を振って、「いや違うんだ、その話じゃあないんだ」と云った、「いま桜水が神田鍛冶町と云ったとき、初めておまえさんに会ったときのことを思いだしたんだ」
「沢茂のことかい」
「刺身のかなっけのことじゃあねえ」と房二郎がまた忍び笑いをしながら云った、「あのときおれたちの脇に二人の客がいた、その一人がさ、子供が寝小便をしたので、こらしめのためにその蒲団を背負わせて、町内を三遍廻って来いと出してやった」
「おれにも覚えがあるぜ」
「ところが、――その男の家は亀戸かめいど辺にあるらしいが、子供は蒲団を背負ったまま、神田の多町までいっちまったっていうんだ」
「子供のこったからな」と木内は書き続けながら云った、「好きなところへいくさ」
 そのあと、町内が迷子捜しで大騒ぎになったそうだ、と云おうとして、房二郎は急に口をつぐんだ。おまえはどうだ、という声が聞えたのである。芝の屋敷をとびだして、こんな卑しい、三文にもならない仕事をしている、おまえ自身は迷子じゃあないのか。
 ――人間はみんな迷子だ。
 木内桜谷は芝居の座付き作者になろうとしたが、いまは瓦版の拵え記事などを書いて、かつかつに食っている。世間をあざむき人をだますような仕事をしながら、女房にがみがみ云われどおしで、首をちぢめているちょび髭も、源さん、常さん、松やん、そして飲み屋で会った名も知らず、顔もよく覚えていない男たちまで、考えてみるとみんな迷子みたような感じだった。
 ――よくつきつめてみると、人間ってものはみんな、自分のゆく道を捜して、一生迷いあるく迷子なんじゃないだろうか。
 房二郎はますます心が重くなり、迷子のままで一生を終ったような、親族のたれかれを思いだして、深く長い溜息をついた。
「どうした」と木内が呼びかけた、「また宿酔ふつかよいですか」
「そんなところだ、木内さんとはどこまでいっしょだったんですか」
「両国広小路の横丁だったな」木内はやはり手を止めずに云った、「おまえさんは段平と久兵衛にとりまかれてたから、そのあとどうしたか、おれは知らないよ、なにかあったのかい」
 房二郎は答えずに、また溜息をついた。


 十二月にはいって雪の降る朝、房二郎はいつもより半刻はんときも早く、文華堂へでかけた。子供のじぶんから、彼は雪の降るのを見ると、家にじっとしていられず、すぐにとびだして友達をさそいだしたり、友達がいなければ独りで、赤坂の溜池や、馬場や、山王さんのうの森などをあるきまわるのが常であった。しかし下町の雪は積もるあとからき寄せられ、みぞへ捨てられてしまい、狭い空地に残っているものも、きたならしくよごれていて、彼が少年のころ知っていた雪景色とは、まるでようすが違っていた。
 ――赤坂あたりはいまでもきれいだろうな。
 そんなことを思いながら文華堂へゆき、店の脇にある階段を登ろうとすると、女中のおかつがいそいで寄って来て、このあいだはまた有難うねと、顔を赤くして吃りながら云った。喰べたくないときにやる弁当の礼で、このあいだはさばの味噌煮とり豆腐と、菜の胡麻ごまよごしだったけれど、あんなにうまい物を喰べたのは生れて初めてで、喰べながら涙が出てしようがなかった。ということを、吃る者に特有のこまかい表現で語った。
「わかったわかった」と房二郎は遮って云った、「今日のもよければ喰べていいよ、おれは欲しくないからな」
 そして礼を云われるのを避けるように、二階の記事部屋へあがっていった。時刻が早いのか、それとも雪のためか、まだ刷り部屋のほうにも人はいなかった。そして彼が自分の机に坐ろうとしたとき、裏の座敷で物を投げる音がし、主婦のおそでのきーっという叫び声が聞えた。
「寄合いだなんて誰が信用するもんか」とおそでが叫んだ、「とが知らないと思って、ばかにするのもいいかげんにしろ、さあ、ゆうべはどこへ泊って来た、どこのすべたあまと寝て来たんだ、云ってみろ」
「済まなんだ、泊って来たりしてほんまに済まん」と文華の云うのが聞えた、「けど、寄合いは同業のつきあいだし、そのあとだかて、わて独りつきあいから抜けるちゅうわけにはいかんがな、もう帰ろ帰ろと思いながら、つい」
 おそでがまたなにか投げつけた。文華はふすまをあけて逃げだし、廊下へ平伏した。あいにくなことに、女中が掃除したばかりだろう、こっちの記事部屋の障子がまだあけたままなので、へいつくった文華の、せた小さな、貧相な姿はまる見えだった。
「このとおりや」と文華は廊下へ額をすりつけた、「泊ることはつきあいで泊ったが、おなごと寝たりなんぞしやへん、それは誰にきいてみてもわかることや、な、堪忍して、このとおりや堪忍して」
「岡場所みたいなとこへ泊って、おまえが女も抱かずに寝る男か」
「ほんまのことやて」と文華は云い張った、「自分でもなぜかいなあと思ったくらいや」
 おそでがきーっと叫び、またなにかを投げた。それは湯呑茶碗で、廊下へたたきつけても割れず、記事部屋までころげて来た。文華は堪忍や堪忍やと云いながら、平つく這ったまま、頭を上げたり額を廊下にすりつけたりした。ばったのようにという表現を絵にしたような感じで、房二郎はどうにも見ているに耐えず、立ちあがって、刷り部屋から廊下へ出、階段をおりて店へいった。そこへ木内桜谷がはいって来たので、彼は眼くばせをし、二階を指さして頭を振った。
「とにかくとんびへゆこう」房二郎は店の番傘を取って云った、「話はとんびへいってからにするよ」

 とんびの店はあいていなかった。二人はまた小網町の「沢茂」へいった。そこは船頭や荷揚げの親方などが寄るので、早くから店をあけているのであった。
「人間てな面白いもんだな」話を聞いてから、木内が笑って首を振りながら云った、「あの女狐は七日ばかりまえに、桜水の若ぞうと浮気をしやあがった、記事だねを持って来たとき、ちょび髭がいなかったんで、そのまま逢曳あいびき宿へしけ込んだのさ」
「逢曳き宿なんて、初めて聞くな」
「この裏に幾らもあるさ、江戸じゅうどこへいったって不自由なしさ」と云って酒を啜りながら、木内は顔をくしゃくしゃにして、皮肉に笑った、「おまえさんは千石の旗本育ちだからわかるまいがね」
「ちょび髭はそれを知らないのかい」
「知ってるさ」と木内は云った、「まえにも云った筈だが、夫婦となれば、そぶりだけだってそんなことに勘づかねえわけがねえ、ちょび髭はちゃんと知ってるんだ」
「それなら今日なんぞ、どうしてやり返してやらないんだ」
「金だよ、房やん」木内はそのよく動く眼をぎろっとさせた、「ちょび髭は女狐の持ってる金をねらってるし、女狐はそれをよく知ってる、つまりお互いに化かしあいをやってるってところさ」
反吐へどが出そうだな」
「世間をよく見てみな、みんなお互いに化かしあっているようなもんだぜ」
 木内桜谷はそう云ってへらへらと笑った。房二郎はがくっと肩を落し、溜息をついて、こっちにも酒をれと云った。彼はそれまで香煎こうせんを啜っていたのだが、酒でも飲まなければどうにもやりきれない気持になったのであった。
「いいのかい」と木内がきいた、「おらあ一文なしだぜ」
「大丈夫、――だろう」房二郎はふところを押えて云った、「あの女房のようすじゃあ、まだ相当に長びくだろうからな、あんな騒ぎは二度と見たくないよ」
「そうできればな」木内はまた皮肉な笑いをもらした、「そうできれば、生きてゆくのに苦労はないさ、しかしもし記事屋になるつもりなら、どんなに卑しい、きたならしい事でも眼をそむけちゃあいけねえ、むしろこっちからぶっつかってゆかなくちゃあな」
「こんなこととは思いもよらなかった」
 小女こおんなのおつまが酒と摘み物を持って来、なにが思いもよらないんですか、ときいた。
「こっちの話だ」と房二郎が云った、「そうだ、たいの刺身を頼む」
「悪いしゃれだ」と木内が云った。
「ほんとにあがるんですか」とおつまはにやにやした、「今日はうずらの串焼きのうまいのがあるのよ」
「刺身だ」と房二郎は手酌で一つ飲みながら云った、「かなっけのことは心配するなって云ってくれ」
「悪いしゃれだ」とまた木内が云った。
 文華堂へ戻ってみると、刷り部屋の者もみんな来ていたし、記事部屋には木谷桜所が、自分の机の前におっとりと坐り、房二郎の書いた物を、おっとりと読んでいた。房二郎の写し物を読んでいたことはすぐにわかった。房二郎が自分の机の前に坐ると、桜所が立って来て、書いた紙の束ねを、静かに机の上に置き、拝見しましたと云った。
「拝見しましたが」と桜所はごく上品に云った、「これは雅文がぶんですな、仮名がき女庭訓というのは、子守っ子にも読ませようというものですから、もっと俗語で書かなければ売れないと思うんですがね」
「俗語と雅文とどこが違うんですか」と房二郎が反問した、「教えていただきましょう」
 桜所は柔和に微笑した、「あなたが道をあるいてるときとか、飲み屋で聞いたり話したりするときの言葉です、こんなことは云うまでもないでしょうがね」
 房二郎はかっとなったが、桜所のにこやかに微笑しているのを見ると、気がくじけてどなり返すこともできなかった。桜所がゆったりと、会釈をして出てゆくなり、房二郎は机の前に坐って、きざな野郎だと、舌打ちをした。
「人さまざまさ」と木内桜谷が云った、「桜所は桜所で、やっぱり生きていかなくちゃならねえからな、それに、――いま桜所の云ったことは間違っちゃあいねえ、おまえさんは気を悪くするかもしれねえが、こういう仕事は、もともとまともなものじゃあない、世間を騙して売っちまえばいいというしろものだ、そのくらいの写し物は二日か三日で片づける、つまりすぐ反故ほごになるというつもりでやらなければだめなものなんだよ」
「それが人間の仕事だろうか」
「それが世間というものさ」木内はにやっと笑った、「もういちど云うが」
「わかったよ」房二郎は首を振って遮った、「沢茂で初めてあんたに会い、この文華堂へ入れて貰ったときに、その覚悟はしていたんだ、けれどもこういう中でだって、少しはまともな仕事ができるんじゃないか、いや、こういう世界でこそ、まともな仕事をしなくちゃあいけないんじゃあないか、と思ったんだ」
「世の中はそうあまいもんじゃあない、っていうことがわかったわけだ」
「かなしいな」と云って、房二郎は両手で顔を押えた、「だんだん自信がなくなってきたけれど、なろうことなら記事屋になるつもりだから、どんなことにも慣れることにするよ」
「危ねえもんだ」と木内が云った、「よしたほうがいいんじゃねえかな」
 そこへ文華がはいって来た。
「いま桜所はんから聞いたんやけど」とちょび髭をでながら、文華は房二郎に云った、「あんたの写したのんは売り物にならんそうやな、どうでっか」
「そんなことはありませんよ」と木内が云った、「桜所さんには桜所さんの意見があるでしょう、けれども池さんの雅文調の写しも、売り出してみれば長続きがするんじゃないんですか」
「記事屋はんの勘では、売れるか売れないかの判断はむりでっしゃろ」鼻で笑うような口ぶりで文華は云い、房二郎の机の上から写した物を取りあげた、「――これ、ちょっと読ましてもらいまっせ」


「えっ」と房二郎は顔をあげた。
「鶉の叩きよ」とおるいが云った、「なにをそんなに驚くの」
「ああそうか」と云って彼は頭を振った、「いや、なんでもない、このあいだどこかで、鶉の串焼きが出来る、って聞いたばかりなんでね」
「小網町の沢茂っていうお店でしょ、その話はうかがったわ」
「ひでえもんだな、そんなことまで饒舌しゃべったのか」
「だからあんまり酔っちゃあだめだって云ってるでしょ、飲みたかったらここへ帰ってからあがればいいのに、それなら酔いつぶれたって間違いはないじゃありませんか」
 膳の上にはあん掛け豆腐と、鶉の椀と、香の物が並んでいた。彼は鶉の椀を取って一と口喰べ、うまいなと云ったが、あとは喰べずに膳へ戻し、盃の酒を啜った。
「部屋賃を溜めているうえに、返すあてもない小遣いを貰い、こんな馳走をぬくぬく喰べるなんて」と房二郎は頭を垂れて、いかにも恥ずかしそうに云った、「おれはよっぽどのへちまの木だ、犬にでもなっちまいたくなったよ」
「あたしが好きでしているのに、自分をとがめることなんかないじゃないの」
「それはおばさんの気持だよ」
「まあ、おばさんは可哀そうよ」と云ってから、おるいは二人のとしの差に初めて気づいたとみえ、微笑しながらうなずいた、「そうね、あなたとは七つもとしが違うんだもの、おばさんに相違ないわね」
「そんなつもりじゃあないんだ、ただ呼びようがないもんだから」
「いいのよ」おるいは美しい顔でまた笑ってみせた、「あなたはあんまりこまかく気を使いすぎるわ、もっと気を楽に、自分でしたいようになさるほうがいいのよ」
「済まないけれど寝させてもらうよ」
 房二郎は不安定に立ちあがり、おるいがいそいで、ちょっと待ってと云いながら、立って彼を支えた。房二郎はちょっとよろめき、おるいの肩につかまった。そして自分の部屋までゆくあいだ、さりげなく、肩につかまった手をすべらせて、おるいの背中を撫でた。
「ちょっと待って、そのままじゃだめよ」
 着たなり夜具の中へもぐり込もうとする房二郎を、おるいは抱き止めながら云った。
寝衣ねまきがあっためてあるの」とおるいは云った、「着替えてから寝てちょうだい」
「あとでね」彼は夜具の中へもぐり込んだ、「あとできっと着替えるよ、きっとだ」

「あの肩には覚えがある」と房二郎はつぶやいた、「小さくて柔らかな肩、しなやかで弾力のある背中の手触り、――初めの夜はおぼろげだったが、二度めの晩にはこのまえの女だとすぐにわかった、たしかにあの肩、あの背中だった」
「なにをぼやいてるんだ」と木内桜谷が振り向いて云った、「まだ宿酔が直らないのか」
「宿酔にもいろいろあるんでね」房二郎は写し物を続けながら云った、「世間にはこんなにいろいろな穴ぼこがあるとは知らなかったよ」
「そうして少しずつおとなになるわけさ」
「おれはいっそ、のら犬にでも生れてくればよかったと思うよ」
「のら犬だってえさをあさるには苦労するぜ」
「横っつらへ平手打ちをくうようなもんだ」と房二郎は云った、「家出をしてっからこっち、横っ面をはられるようなことばかりだった、うんざりしたよ」
「そこいらから始まるんだな、苦みや甘みや辛みを、一つ一つあじわいながらな」と木内は云った、「あんたは敷居をまたいだのさ」
「敷居だって」
「おとなの風に当ったということさ」と云って木内桜谷は声を出さずに笑った、「房やんはおくてだよ」
「おまえさんの敷居や風がどんなふうだったかは知らない」と房二郎は云った、「けれどもおれの跨いだ敷居や、初めて吹かれた風は、おまえさんのものとは違うよ」
「みんなそう思うらしい」木内は書き物を続けながら云った、「人間ってやつは誰しも、初めての経験は自分だけのものだとね」
「そうしてだんだん驚かなくなるんだな」と房二郎は云った、「――そして、ああきれいだとか、哀れだとか、かなしい、いたましいと感じることもなくなるんだろう、考えただけでもぞっとするよ」
「まだ自分の知らないことを考えると、恐ろしいような、いやらしいような、きたならしいように感じるものさ」と木内が云った、「そのくせ、そういう未知のものごとに、触れてみたがるのが人間っていうやつさ」
「口で云うぶんには、地面から天まで説明することができるさ」と房二郎が云った、「他人の火傷やけどは痛かあねえというからな」
 そして痛いことが起こった。その夕方、ちょび髭が記事部屋へはいって来て、木内桜谷と房二郎に小さな紙包みを渡し、明日から来なくていいと云った。
「これは僅かやけど、わいのこころざしや」と文華はちょび髭を撫でながら云った、「悪う思わんと取っといてや」
 私の写し物はどうなるんです、と房二郎が云おうとしたとき、木内が机の前からとびあがるように坐り直し、ちょび髭に向かって幾たびもおじぎをした。
「西川先生このとおりです」と木内桜谷は云った、「それだけは待って下さい、私はこれまでもずいぶん書いてきたつもりですが、これからはもっと書きます、桜所さんや桜水さんのぶんも書きますし、印も月に二冊や三冊は書きます」木内はまたおじぎをした、「毎月の手当も減らしてもらっていいです、仰しゃることはなんでも致しますから」
 およしなさい木内さん、と房二郎が云うまえに、ちょび髭がにたにた笑って、それはどこかよそへ持ち込むんだな、と云った。
「木内さん」と房二郎が呼びかけた。
「お願いです西川さん」と木内はまた三度おじぎをした、「どうかいますぐにそうはしないで下さい、せめてあと半年でも待って下さい、そうすれば私がきっとお役に立つ、ということがわかると思います」
「おきなはれ」とちょび髭を撫でながら文華が云った、「なんぼ云うたかてきめたことはきめたこっちゃ、ここでむだな口をきくより、もっと月手当を多く出してくれるとこを捜して、ねっちりうまいこと云わはるがええと思いまんがな」
 木内桜谷は黙り、両手を突き頭を垂れた。いつか木内や、刷り部屋の二人が、手当の値上げだと叫んだ。そして夫婦喧嘩で、文華は廊下へとびだし、平ぐものように頭をすりつけてあやまるのを、このおれに見られた。それらの仕返しをしようというんだな、と房二郎は思った。そのとき、ちょび髭が房二郎に振り向き、歯をみせて皮肉に笑った。
「房やんには手当もろくに出さなんで、ほんま済まなんだな」と文華は云った、「悪う思わんといてや」
 房二郎のがまんはそこで切れた。彼は立ちあがるなり、自分より五寸も低い文華のえりを左手でつかみ、右手で頬へ平手打ちをくれた。
「手当はこっちから呉れてやる」と房二郎はまた平手打ちをくれた、「きさまを人間だと思ったら、こんなことで済ませやあしないんだぞ、よく覚えておけ」
 彼は文華を突き放した。文華はよろけていって、障子ごと廊下へ仰向けに倒れた。そのとたんに木内桜谷がはね起き、いきなりちょび髭に馬乗りになって、片手で衿を掴み、片手で相手の頬を、撫でるように殴った。
「この野郎、人をばかにするな」と木内はどなった、「人をばかにするな、この野郎、このちょび髭野郎、人をなんだと思ってるんだ」
 本当に怒ったときには、人間には思うようなあくたいがつけないものだ、と房二郎は自分のことをこめてかなしく思い、木内桜谷の肩を叩いて、もういいよ、帰ろうと云った。そこへ階下から、女狐のおそでが駆けあがって来、ちょび髭が組伏せられているのを見るなり、逆上したようにきーっと叫んだ。
「泥棒や、人殺しや」とおそでは足踏みをしながら喚いた、「誰か来て下さい、泥棒ですよう、人殺しですよう」
 そして、木内桜谷にむしゃぶりつこうとした。房二郎はそれを突きとばし、木内の肩を掴んで文華から引きがした。刷り部屋はしんとしていて、人の声も聞えず物音もしなかった。おそでは仰向けにひっくり返り、としに似合わぬまっ赤な下の物と、焦茶色のあしが、云いようもなく醜悪に房二郎の眼にうつった。
「いきましょう木内さん」彼は木内を抱き起こしながら云った、「なにも持ってゆく物はないんでしょう」
「人殺しや、泥棒や」とおそでは足をばたばたさせながら喚き続けていた、「誰ぞ来て、誰か番所へ届けてえ」
 房二郎は木内桜谷を抱えるようにして階段をおりた。女狐はまだ喚いていたが、下へおりると女中のおかつが、二人の草履をそろえて待ってい、なにか慰めを云いたそうであったが、吃りであるため、ただ顔を赤くし、意味不明な声を出すばかりであった。
「おまえも早くこんなうちは出ちまうがいいぜ」と房二郎はおかつに云った、「奉公する気なら、もう少しましなところがあるだろう、こんなうちにいると骨までしゃぶられるぜ」
 店の外へ出たとき、うしろでおかつの、ありがとよ、と吃りながら云う声が聞えた。
「飲もうや木内さん」と彼は大きな声で云った、「こんな汚れた銭なんか持ってるのも恥ずかしい、みんな飲んじまおうぜ」
「そうだ、みんな飲んじまおう」あまり元気な調子ではなく、木内も云った、「今日は川向うへゆこうぜ」


「どういう気持だかわからねえ」
「わからねえことはねえさ」と木内が云った、「おめえにれてるからよ」
「いやなことを云いなさんな」
「そうでなくって、着物をこしらえてくれたり、小遣いを貢いだりする道理があるかい」
「だって相手は七つもとし上だぜ」
「もったいないことを云うなよ」木内は湯呑茶碗の酒を啜った、「あれだけの縹緻きりょうよしは千人に一人とはいねえぜ、それに、いろ恋にとしなんか問題じゃあねえさ」
「あら、うらやましいような話じゃないの」と酒を持って来た女が云った、「もっと詳しく聞かせてよ」
「よけいな口出しをするな」と云って房二郎は女の顔を見、狭い部屋の中を見まわした、「ここはいったいどこだ」
「そらっつかいね」女は房二郎の肩を叩いた、「ちゃんと知ってるくせに、はいお酌」
「門前仲町だよ」と木内が云って、女に手を振った、「酌はいいから二人にしてくれ」
「なによう、このしと」女は木内にかじりついた、「いまあしをくどいたばかりじゃないの」
「うるせえ、おれにゃあちゃんと女房がいるんだ」
「おかみさんを持ってるのはあんた一人じゃないよ、なにさ」女は木内をもっと強く抱き緊めた、「かみさんも持たないような男は、いっしょに寝たって面白みはありゃあしない、ねえ、あっちへゆこうよ」
「おれは帰るぜ」と房二郎が云った、「なんだか悲しくなってきちゃった」
「出よう」と木内が云った、「勘定をしてくれ」
「勘定はこっちだ」と房二郎が云った。
「だめだよう」女は木内を押し倒した、「あたしをくどいといて、なにさ」と女は木内の上に馬乗りになった、「今夜は寝かさないからね、帰るなんてったって帰しやしないよ」
 そして女は、木内の頬に吸いついた。
 ――かなしいな、生きるということはこんなにかなしいものなんだな。
 その店を出て、あるきながら房二郎はそう思った。女は木内を心から好いているようではなかった。けれども、しがみついたり、抱き緊めたり、頬に吸いついたりするしぐさには、単にしょうばいだけでないなにかがあった。
 ――迷子だな、あの女も迷子だ、なにか自分の生きるすべを捜している、迷子だ。
 房二郎は声をあげて泣きたいような衝動にかられた。
「あのちょび髭の、ぼけなす野郎」と木内が云った、「ぶち殺してやればよかった」
「木内さんは充分にやったよ」と房二郎は云った、「あんな人間は、一寸刻みにしたって痛いとは思やあしねえ、あれで充分だ、あれ以上やればこっちの手に繩がかかるだけで、相手はとも思やあしねえさ」
「逆だな」と木内が云った、「世の中はいつでもそうだ、今夜は飲みあかそう、おい、酒をどんどん持ってこい」
 その店がどこだか、房二郎にはわからなかった。こおるような川風に吹かれ、河岸かしをあるいた覚えがあるので、両国広小路か、その裏のどこかの横丁の飲み屋らしい。門前仲町で三軒ほど飲んだろうか、川をこっちへ渡ってからも二軒か三軒はしごをしたようである。そして西川文華をくさし、刷り部屋の連中が味方をしなかったことをくさし、おそでは女狐であるより、むしろ女狼おんなおおかみであり、鬼女であるときめつけ、世の中ぜんたいを罵ったりした。
「木内さんはさっき、女房持ちだって云ったようだな」と房二郎がきいた、「ああ、門前仲町の飲み屋でだ、ほんとかい」
「それが問題さ」
 寒い風が吹いていて、灯の見えない街を、二人はもつれあうように歩いていた。
「女房持ちにどんな問題がある」と房二郎が云った、「あの飲み屋の女も云ってたが、女房を持ってるのはあんただけじゃあねえだろう」
「おらあこのまま、どっか遠いところへいっちめえてえんだ」と木内が云った、「おまえさんもうちへ帰るほうがいい、しょせんまっとうにやっていける世界じゃあねえ、ってこともわかったろう、なんとかびを入れて呉れる親類があるんじゃあねえのか」
「ねえこたあねえさ、小旗本へ婿にいった叔父が本所にいるよ」と房二郎が云った、「本所の相生あいおい町で、土屋っていうんだがね」
「その人に頼んで、桜田小路へ帰るんだな、それがいちばんだよ」
「そんなとこへ腰掛けちゃあだめだ、木内さんのうちはもうすぐそこだぜ」
 木内桜谷は道傍みちばたの古材木に腰を掛け、低く垂れた頭を、ぐらぐらと力なく左右に振りながら云った、「おらあうちへは帰れねえんだ」
「ばかなことを云いなさんな」
「今日、私はちょび髭の前で四つん這いになった、池さんはさぞ軽蔑けいべつしたこったろう、人間の屑、卑しい野郎だと思ったことだろう」
 房二郎はなにも云わなかった。
「けれどもな、池さん」と木内は頭を垂れたまま続けて云った、「あのときもし、ちょび髭にちんちんをしろと云われたら、おらあ犬のようにちんちんでもお廻りでもするつもりだったんだ」
「どういうことだい、それは」
「女房を呼んだんだ」と木内は云った、「西川のやつが来月から手当を増して呉れるというんで、箱根から女房を呼んだんだ」
 房二郎は腕組みをした。寒い夜風が吹きわたり、腰掛けている木内桜谷の着物の裾がまくれて、せた細いすねのあらわになるのが、暗がりの中で、さむざむと見えた。
「いつか話したと思う」と木内は続けて云った、「私は芝居の座付き作者になるつもりだった、代作ということでいたに乗った台本も幾つかある、だがそのうちに、或る芝居小屋の、頭取のかみさんとできてしまい、それがばれて、芝居の世界から追い出されちまった」
「もううちはそこですよ、うちへいってから聞きましょう、こんなところでぐずぐずしていると本当に風邪をひきますぜ」
「おれたちは苦労した、いや、苦労したのはおたねのほうだろう」木内は俯向うつむいて両手で顔を押えながら云った、「芝居の世界から閉め出されたのは、おれにとって羽根をむしられた鳥のようなもんだ、出来ると思うことはなんでもやってみたが、結局はけちな筆で生きるよりしようがなかった、文華堂へ転げ込んだのは三年まえだが、ぼろ長屋の店賃たなちんを払って、一人がやっと食えるほどの手当にしかならず、おたねは自分からすすんで、箱根の湯治宿へ女中奉公にいってくれたんだ」
「それにしては」と房二郎が云った、「記事を書きながら、ずいぶんけいきよく飲んでいたな」
「かみさんから仕送りがきていたのさ」
「それで箱根か」
「湯治場は金になるからな」と云って木内はまた頭を垂れた、「――金になる、か、どんな気持で三年、箱根の山の中で苦労したことだろう」
「まさか泣きだすんじゃあないだろうな」房二郎はからかうように云い、木内の腕を取ってむりやりに立たせた、「もう一と跨ぎで長屋の木戸だ、さあ、帰りましょう」
「それがだめなんだ」
「なにがだめなんだ、おまえさんのうちじゃあないか」
「女房が来ているんだよ」木内は力のぬけたような声で云った、「ちょび髭が月手当をあげると云った、それだけあれば夫婦二人のくらしは立つと思ったんで、箱根から呼び戻したんだ、一昨日おとつい返事があって、今日の夕方にはこっちへ着いている筈なんだ」
 ちょび髭の前に平つく這い、恥も外聞もなく泣きごとを並べた木内桜谷の姿が、房二郎には改めていたましく、思いだされた。
「大丈夫だよ」と彼は云った、「夫婦の仲じゃないか、それに箱根までいって稼いで、あんたに貢ぐほどの人だ、事情をよく話せばわかってくれるさ」
「そういう女房だからこそ、よけい顔が合わせられないんだ、――いっしょに来てくれるか」
 房二郎はどぎまぎし、「おれがか」と反問し、すぐに頷いた、「いいよ、おれでよければいっしょにゆこう」
「済まねえな、恩にきるぜ」
 木内桜谷はよろめき、房二郎の肩にもたれかかった。彼は木内を抱えるようにしてあるき、その長屋の木戸口までいった。金棒を突きながら夜廻りが通り、どこかでけたたましく犬がえていた。――木戸はあいていて、長屋の両側がぼんやりと見えた。どの家も灯を消して暗いのに、一軒だけ障子に、ひっそりと灯をうつしているのが見えた。いちど泊っただけであるが、それは木内桜谷の住居に相違なかった。房二郎にはその行燈の脇に、小さな風呂敷包みを置いて、しょんぼり坐っている女の姿が見えるように思い、ぞっとして、桜谷を木戸口にりかからせると、また会おうと云い残して、そこから逃げだした。
「あれも人間の生活なんだな」うしろから呼びかける木内の声をうち消すように、彼はあるきながら声に出して呟いた、「――へちまは木にはならねえ、か、ひがんで考えると、おれのことを云われたみたようだな」
 彼は風の寒さに身ぶるいをした。文華堂の夫婦、吃りの女中、小舟町のおるい、刷り部屋の三人、その他もろもろの人間や景物が、いまはふしぎなほど自分から遠くなり、べつの世界のように感じられるのであった。
「友達の中には、気軽に町人ぐらしに慣れてゆく者もあった」と房二郎は呟いた、「しかしおれはだめらしい、おれはそういう性質には生れついてこなかったらしい、しょうがない、本所の叔父のところへゆこう」
 彼は前跼まえかがみになり、足を早めて、暗い街を大川のほうへ曲っていった。





底本:「山本周五郎全集第十六巻 さぶ・おごそかな渇き」新潮社
   1981(昭和56)年12月25日発行
初出:「小説新潮」新潮社
   1966(昭和41)年3月号
※「躯」と「躰」、「灯」と「燈」、「かなっけ」と「かなっけ」、「しと」と「と」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2021年4月27日作成
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