その「
「年に一度か二度のこったが」脇のほうの
「富坊はまだ五つだったろう」と相手の男がきいた。
「今年で六つだ」とこちらの男が云った、「六つにもなるのにおねしょじゃあ済まされねえ、その蒲団を背負わせて、町内を三遍廻って来いと突き出してやった」
「おれにも覚えがあらあ、いやなもんだったぜ、みんなにゃあ見られるし、笑うやつもあるしな、富坊もさぞ辛かったろう」
「どうだかな」とこちらの男が云った、「町内を廻って来いと云ったのに、野郎、そのまんま神田までいっちまった」
相手の男は聞き違えたと思ったように、どこだって、と反問した。
「神田よ、神田の多町までいっちまったんだ」
「だって」と相手の男が云った、「おめえのうちは川向うだろう」
「川向うも川向う、
「へえー、そいつはおどろきだな」
「おどろきどころじゃあねえや、おれが帳場から帰ると、町内は迷子捜しの大騒ぎよ」
房二郎はゆっくり酒を
「多町の自身番で
「懲りたのは親のほうってわけか」
「みごとにしっぺ返しをくらったようなものさ」
房二郎はまた微笑し、けれどもすぐに、眉をしかめた。その子は町内の人たち総出で捜しだされた。おれのうちはどうだろう、父や母や兄や姉たちは、おれを捜しているだろうか。いや、そうではあるまい、おそらく厄介払いをしたと、ほっとしていることだろう、と彼は思った。
「おい、おちょぼ」と前にいる男が小女を呼んだ、「そこにいるおちょぼ、聞えないのか」
指をさされた小女はむっとしたように、頬をふくらせてこっちへ来ながら、自分の名はおつゆで、おちょぼなんていうへんてこなものではない、と抗議した。
「おつゆだって」と男はよく動く眼でじっと小女をみつめながら、歯を見せて、声を出さずに笑った、「悪かったな、ずいぶん丈夫そうなおつゆさんだ、お通じはきちんとあるかい」
房二郎は危なくふきだしそうになった。
「わかんねこと云うお客だよ、このひと」とその小女は云った、「用はなんだね」
「酒と刺身だ」と男は云った、「刺身は
おかしな注文をするな、と房二郎は思った。鰺の塩焼の次に芋汁、そして甘煮のあとで刺身とは、順序が逆のようじゃないか。人によって好みはあるが、四番めに刺身というのは珍らしい、そんなことを知らない男とは見えないし、とすれば、ことによるとなにかあるな、と房二郎は直感した。その直感は
「そこのおちょぼ」と男は云った、「ちょっと板前を呼んでくれ」
「あたしの名はおつまっていうです」とその小女は云った、「なんの用ですか」
「板前を呼んで来いと云ってるんだ」
「旦那はいそがしくって、いま手が放せねえです、用はなんですか」
「旦那なんて誰が云った、板前だよ、板前」と男は云った、「この刺身を作った板前を呼べと云ってるんだ」
「それが旦那です、うちじゃ焼くのも煮るのも、刺身を作るのもみんな旦那さんがやるです、なんの用ですか」
「その旦那を呼べっていう用さ、おっと」男は片手をあげた、「いそがしくって手が放せねえとは云わせねえぞ、客はおれとこちらの二人っきりだからな、わかったか」
小さな店だから、男の声は板場へ筒抜けである。小女がゆくまでもなく、
「あっしをお呼びですか」
「ああ、おまえさんかい、この店の旦那で板前さんてえのは」
「ええ、あっしがこの店のあるじで板前をしています」
「じゃあこの刺身をたべてみてくれ」
「なにかお気に入りませんか」
「たべてみろよ」と男は刺身皿を押しやった、「おめえも
旦那はどきっとしたようであった。男は右の
「おまえさんは
「相済みません、親方」あるじは片襷を外しておじぎをした、「人手がねえもんで、ついぞろっぺえなことを致しまして」
「ちょっと待った」と男は
おいでなすったな、と房二郎は思った。
「おらあな、
「まことに相済みません」とあるじは続けさまにおじぎをし、頭のうしろを
「もういい、勘定をしてくれ」
「いいえとんでもない、お気に入らない物を差上げて、あっしのほうからお
「よしてくれ」と男は高い声を出した、「おらあ勘定をふみ倒す気で文句を云ったんじゃあねえぜ、この沢茂の名を思えばこそ」
「まあ親方」と
「親方」と房二郎が呼びかけた、「いや、おまえさんだよ、文華堂の親方、木内桜谷さんとかいったね」
男はぎょっとしたように振り返った。「沢茂」は日本橋小網町にあり、木内という男は
「なんだおめえは」と木内はおちくぼんだ眼で房二郎の全身を見あげ見おろした、「――おう、おめえ沢茂で会ったっけ」
「まあ、あるきましょう」と房二郎は男の背に手を掛けて云った、「人立ちがしますからね」
「なんの用だ」
「おつまさんの云うようなことはよしにしましょうや、親方」
「馴れ馴れしいやつだな、いってえおめえは誰だ」
「名は房二郎、房って呼んでくれればいい」と彼は云った、「いまの店のお芝居は面白かった、たっぷり見せてもらったぜ、親方」
「芝居たあなんのこった」
「あるこう」と房二郎が云った、「馬喰町とは方角が違うんじゃねえかな、親方」
「いちいち親方、親方って云うなよ、なにが云いてえんだ」
「まあそうせきなさんな、おらあおめえを他人とは思えなくなった、これからよろしく頼むぜ」
「なにをよろしく頼むんだ」
「とぼけなさんな、いまの沢茂のくちさ」房二郎は低く笑った、「瓦版屋で小料理飲み屋の番付を作る、そのために評判のいい店をためしに廻ってる、なんざあ泣かせるせりふだぜ、だがなあ親方、刺身がかなっ臭えなんていうところは瓦版屋じゃあねえな、おまえさんはどこか
木内桜谷は笑いだした。昏れがたの街の、往来する人たちが振り向いて見るほど、大きな笑い声であった。
「これがおれのねぐらよ」と木内は云った、「飲むか、若いの」
「
「おまえさんお武家だね」
「そんなことはどっちでもいいじゃねえか、人足だろうと
四
「しかし文華堂へ勤めるとなると」と木内は湯呑茶碗で焼酎を啜りながら云った、「
「そいつあとんだへちまの木だ」
「へちまがどうだって」
「こっちのことさ」と房二郎は云った、「姓は池原、名は房二郎、としは二十三歳、――池原は千二百石の旗本で、屋敷は芝の桜田
「それに嘘がなければな」と云いかけて、木内は眼をみはった、「千二百石の旗本ですって」
「おれのじゃあねえ、家に付いた
「だって房さん、千石以上っていえば
「
親方とか木内さんとか呼ばれるたびに、桜谷はくすぐったいような、また誇らしげな気持になるらしい。よく動く眼を細めたり、
「もってえねえような話だが、気持はよくわかりますよ」と木内は云った、「明日すぐに文華堂へゆきましょう、いまちょうど手不足だし、まず断わられるようなことはねえと思います、もちろんおまえさん、このほうはできるだろうね」
木内桜谷はなにか書くような手まねをした。
「よせやい」と房二郎が答えた、「
「学問と瓦版とはまるで違うんだが、まあいいでしょう、文華堂のおやじにはまたおやじの思案があるでしょうから、ときにねぐらだが」
「おらあここでもいいぜ」
「野郎二人はいけねえ」木内は手を振った、「一人でもうじがわくっていうのに、二人じゃあ手に負えねえや、文華堂でよしときまったらおれが捜してやるよ」
「やっぱりおめえは他人たあ思えねえ、頼むよ親方」
少しだが金なら持ってると、房二郎が云い、木内桜谷は、今夜ひと晩は泊ってゆくようにと云った。
馬喰町三丁目の文華堂は、道を隔てた向うに
おそでのとしは三十八九、大きな躯で、立ったりあるいたりすると、床がみしみし鳴るくらいであった。そのくせ顔は狐のように細く骨ばっていて、人間どもはみな敵だとでもいうように、
「この店はあの
房二郎が云った、「世の中には酔狂な人間がいるもんだな」
「しっ、聞えるぜ」と木内が云った。
いまでいえば編集部というのだろう。二階の往来に面したほうに、八帖二つをぶち抜いた部屋があり、古机が五つ、一方は記事を書く部屋、一方には絵描きや
記事屋は三人、木谷桜所、木内桜谷、木原桜水という。桜所は品のいい五十男、桜水は背丈が低く肥えていて、としは二十五六だろう、いつもにこにことあいそがよく、主婦のおそでもこの男だけには、あまったるいような声で話しかけるようであった。
「あの女狐は平公とできてるんだ」と木内が房二郎に耳うちをした、「木原桜水なんて名のってるが、本当は大工の
「いくらなんだってあんな女に、へえー」と房二郎は云った、「それが本当ならとんだへちまの木だぜ」
そして主人の西川文華は三十四五歳、背丈は五尺そこそこだし、痩せていておちつきがなく、鼻の下にちょび髭を立てていた。いつもちょこちょこと動きまわっているようすも、小さな目鼻だちも、そのきいきい声やちょび髭まで、鼠そっくりにみえた。「せやさかい」というのが口ぐせであり、江戸弁は荒っぽいから、しょうばいには
「そないに勘定や勘定やと云われてもな」といつか版木屋が勘定取りに来たときに、彼がきいきい声で云うのを房二郎は聞いた、「――こっちゃもしょうばいやよってに、あんじょう儲からんことには払えやしまへんがな」
記事部屋は北向きで、うす暗く、湿っぽく、九月にはいるともう隙間風が寒かった。瓦版はたいてい一枚摺りだが、ときに三枚
房二郎は小舟町に部屋を借りた。木内桜谷が捜してくれたもので、女一人の後家ぐらしであるが、仕立て物を教えていて、二十人ちかい娘たちが毎日かよって来た。女主人のおるいは躯こそ小柄だが、ちょっと珍らしいほどの
「房やん、もうあの後家さんとできたんじゃあねえのか」
「なんだい、その後家さんてえのは」
「小舟町のおるいさんよ、
房二郎はくすっと笑った、「初めて聞く名だが、おれが部屋を借りてる、うちのばあさんのことかい」
「ばあさんだって」
「よくは知らねえが、もう三十四五になるんだろう、おれにゃあおふくろみてえなもんだ」
文華堂の隣り町、馬喰町二丁目の横丁に「とんび」という小さな店がある。五十くらいの夫婦だけでやってい、店構えも器物もしもたやふうだし、肴も三品より多くは出来ないけれども、酒だけは新川からじかに取るそうで、それを自慢にしていた。みつけたのは房二郎で、帰りには一日おきくらいに、木内をさそって飲みに寄った。
「おふくろか」と桜谷は酒を啜りながら、渋い顔をした、「そういうことを聞くと、自分のとしを思いだすよ」
「そんなことよりも」と房二郎が云った、「あの木谷桜所と木原桜水の二人はなに者だい、木内さんとおれは朝から夕方まで、ずっと記事部屋に詰めっきりで、あることないこと書きどおしに書いてるのに、あの二人は好きなときに顔を出して、ちょっとした短けえ記事を
「二人はかけもちなんだ」と木内が云った、「瓦版屋を幾軒かかけもちにしていて、記事によって高く買う店と、安く買う店をうまくこなしてるのさ、文華堂へ持って来るのは安いほうのくちだが、その代りおれたちは、外廻りをしなくっても済むってえわけさ」
「だって売り子が記事のたねを持って来るじゃねえか」
「記事の取りかたが違うんだよ」と木内が云った、「房やんが今日書いた、深川の親子心中だって、――まあいいや、そのうちにわかってくるさ」
「だろうさ」と房二郎がやけになったような口ぶりで云った、「人間としをとればいろんなことがわかってくる、わかるにしたがって世の中がどんなにいやらしいか、人間がどんなにみじめなものか、ってことがはっきりするばかりだ」
「生きてくってことは冗談ごとじゃあねえからな」
「げにもっとも」と云って房二郎は、からになった
「だめです」ととんびのあるじはかたくなに云い返した、「うちは酒をあじわってもらう店で、酔っぱらうために飲ませるんじゃあねえんだから」
つけ板のまわりにはほかに二人、お
「これもげにもっとも」と房二郎は云った、「勘定をしてもらおうか」
房二郎はどきっとし、坊主枕から頭をもたげた。暗くしてある
「おい、起きてくれ」と彼は女の肩をゆり動かした、「ここはどこだ、おまえは誰だ」
女は房二郎にしがみつき、その胸に顔をすり寄せながら、黙って眠って、と囁いた。そのまま眠ってちょうだい、あたしすぐに向うへゆくから、と付け加えた。彼はまたそのまま眠ってしまった。
明くる朝、文華堂の記事部屋で、房二郎は
「
「ゆうべはどのくらい飲んだのかな」
「おれの知っている限りじゃあ二合とちょっとだったぜ、そのあとは知らねえがね」
「うーん」房二郎は
「おまえさんはむちゃだよ」木内はせっせと筆を動かしながら云った、「一杯飲むとすぐにどこかへいこう、と云ってきかねえんだ、五軒か六軒まわったかな、こっちが疲れちまって、小網町で別れたよ」
房二郎はぎょっとしたように振り向いた、「小網町だって、まさか沢茂じゃあねえだろうな」
「それが沢茂さ」
「冗談じゃあねえぜ」
「どうしてもゆくんだってきかねえんだ、こんどはおれが刺身のかなっけをためしてやるんだってな」
「冗談じゃねえ、総毛立つぜ」房二郎は首をすくめた、「それで刺身を食ったのか」
「なんにも食わなかったよ」木内はまたにやっと笑った、「五つ品ぐらい注文したかな、みんな
「ぞっとするね、ひでえもんだ、おらあ本当は酒はだめなんだ、婿の縁談が始まってから、やけくそになって飲みだしたんだが、
「どうだったかな、おれも酔ってたから覚えちゃあいねえが」
そのとき、廊下を隔てた裏座敷で、ひーという主婦の叫び声が聞えた。そこは主人夫妻の寝る八帖で、主婦のおそでがそういう声を出すときは、きまってやきもち
「文華はね、房やん」と木内が囁いた、「あのちょび髭で女狐をたらし込んだのさ、もちろん金がめあてでね、――ところが、ちょび髭はあの女狐をたらす役に立っただけで、女狐は財布の
「記事はまだかい」と隣りから彫り師の源さんが呼びかけた、「こっちは手をあけて待ってるんだぜ」
「まだ新らしいのはねえな」と木内が大きな声で答えた、「昨日の深川心中でも増し摺りをしていてもらおうか」
「なんだい、あんなすべたあまになんぞ
また頬でも叩くような音と、けんめいになだめようとする文華の、低いやさしげな声が聞えた。
「さあ、ここいらでさわりを入れるかな」木内桜谷は休みなく筆を動かしながら云った、「――うんすん
彼はよく書いた。一升徳利を机の脇に置いて、冷やのまま湯呑に注ぎ、それを啜りながら、朝から夕方まで、独り言を
「またうんすん歌留多かい」ときどき彫り師の源さんが云った、「こう型がきまっちゃあ面白くも
「源さんとはとしが違うからな」木内は顔をくしゃくしゃにし、口だけは負けずにやり返す、「――そのうちにだんだん勉強するつもりだけれど、そんなに変った女がいたら教えてもらいてえな」
「おらあ三十五のとしから女は断ってるんだ」と源さんは版木に向かいながら云った、「しかし女ってやつは一人として似た者はいなかった、顔かたちはもちろん、あのほうの好みだって、からだのぐあいだって、声の出しかただって、みんなそれぞれに違うんだ、おまえさんの書く物は引写しで、生きた女は一人も出ちゃあこねえ、これじゃあいくら安手のわ印だって売れやあしねえぜ」
「三十五から女を断ったって、どうしてだい源さん」木内は筆を動かしながら、それとなく話を変えた、「なにかいわくがありそうじゃねえか」
「弁慶は一遍きりで女を断った、っていう話を聞いたこたあねえかい」
「おらあ源さんのことを聞いてるんだ」
「てめえのざんげ話をするほどぼけちゃあいねえよ」
裏座敷の喧嘩はおさまったらしく、おそでの鼻にかかった、あまだるいような
――ゆうべはどこで泊ったんだろう、と房二郎は思いあぐねていた。あの女は誰だったんだろう、沢茂で木内と別れたとすると、なか(新吉原)はもちろん知らねえし、女と寝るような場所へは近よったこともねえんだからな。
女中のおかつが昼めしを告げに来たとき、房二郎は「よかったらおまえさんが
「このうちじゃあろくな物は食わせないんだ」と木内が云った、「一年じゅう麦めしに漬物、十五日と
「夫婦も同じなのかね」
「女狐のその日の機嫌によるそうだ」
「嘘のような話だな」と云って房二郎は首を振った、「その記事、手伝おうか」
「むりだな」木内は弁当の包みを開きながら云った、「まおとこの現場を押えた亭主が、女房と男を庖丁で斬ったという話だからな、気分が直ったら写し物を続けてればいいよ」
房二郎は文華堂へはいってからずっと、
「しょうばいだよ、しょうばい」と木内桜谷は慰めてくれた、「にんげん生きてゆくためにゃあ、どんな恥ずかしいことも忍ばなくちゃあならねえときがある、気にしなさんな、そのうちに慣れるさ」
「そんなとこへ寝ちゃあだめよ、風邪をひくじゃないの、起きてよ池さん」
「おめえ誰だ」と房二郎が云った、「ここはいってえどこだ」
「あんたの部屋のあるうちじゃないの、小舟町よ」
房二郎は頭をもたげておるいを見、ああ、あんたかと云ってまた眼をつむり、畳の上で仰向けに寝返った。
「だめねえ、飲めもしないくせに」おるいは立ってゆき、坊主枕と
房二郎には聞えなかったらしい、「――いっそ乞食にでもなればよかった」と呟き、掻巻の中へ顔を隠した。
どうして自分の部屋へはいったか、房二郎にはまったく覚えがなかった。肩をゆすられて眼をさますと、
「これを飲んで」とおるいは云った、「いやだろうけれど、宿酔には迎え酒がいちばんきくんですって、鼻を摘んでもいいから飲んでごらんなさい」
房二郎は起き直って、その湯呑を受取ったが、燗をした酒の匂いを
「それじゃあ今日は休んでゆっくり寝ていらっしゃい」
「そうします」房二郎は横になりながら云った、「誰か人を頼んで文華堂へそう届けさせてくれませんか」
「いいじゃないの、そんなこと」おるいは掛け夜具を直してやりながら云った、「あんないやらしいお店なんかやめておしまいなさいよ」
「やめてどうします」
「ゆうべは乞食になればよかったって
「そんな者にはなりたくないな、山へでもはいっちまいたいよ」
「なに云ってるの、まだ世の中を
房二郎はすぐに眠った。ほんのちょっと眠ったような気持だったが、人の話し声を聞いて眼をさますと、行燈に火がはいってい、その脇の
「朝このうちから使いが来たんでね、どんなようすか見に寄ったんだ」
「そんな心配はいらなかったのに」
「ゆうべがゆうべだからな」
「というと、――なにかあったのかい」
「忘れちまったのか」と木内はうまそうに酒を啜って云った、「今月から手当をきめてくれって、ちょび髭に談じ込んだんだよ」
ああと云って、房二郎は顔をしかめた。ちょび髭との問答を思いだしたのである。雇われてから約四十日、見習いということで、これまで一銭の手当もなかった。桜田小路の家から持って来た金も残り少なくなったので、思いきって文華に申込んだ。房二郎より三寸以上も背丈の低い文華は、ちょび髭を
――手当や手当やいうても、こっちゃもしょうばいやよってにな、と文華は例のきまり文句を云った、本当はな、記事屋というものは、店から手当を貰うより、記事のたねを金にするものときまったもんやがな。
――記事のたねを金にするとは、どういうことです。
――桜谷はんにきいてみなはれ、と云って文華は三角の小さな眼を皮肉に細めた、それにな、弁当屋から弁当を取って喰べるような結構な身分で、銭かねのことを云うなんて似合いまへんで。
そのとき房二郎は、ちょび髭を殴りつけたくなったが、急に自分が恥ずかしくなり、文華の前からひきさがった。こんな卑しい写し物などをして、給銀を貰おうなどと思った自分が、なんともあさましく感じられたからである。
「木内さんあれを聞いていたのかい」
「だから酒をつきあったのさ」と木内は云った、「あんたはいつかのように
その気持はよくわかる。だが世間というものは、きれいごとだけで生きてゆけるものではない。瓦版屋はずいぶんあるが、ごまかしでない、本当の記事で売れている店はごく僅かなものだ。あとは大なり小なり悪質な、
「おれだって、いまのような仕事をしているのは恥ずかしいよ」木内は酒を啜り、頭を垂れた、「自慢にゃあならねえだろうが、房やんのとしごろには、おれは芝居の作者になりたくって、いろんな芝居の作者部屋へ出入りをし、竹柴宗七の代作ということで、舞台に乗った本が五つほどあった、そのまま順調にいけば、いまごろはたて作者になっていたかもしれねえ」
それが女のことで、と云いかけたとき、おるいが酒を持ってはいって来た。
「あら起きたの」おるいは房二郎を心配そうに見た、「気分は直って」
「どうやらね」と房二郎は起きあがった、「少し酒が欲しくなった」
おるいは酒を木内桜谷の膳に置き、いそいで房二郎の
「もしお酒をあがるんならちょっと待ってね」とおるいが云った、「朝からなにも喰べていらっしゃらないんですもの、
「喰べ物はいやだな、まず酒にしよう」
「だめよ」と云っておるいは房二郎の肩を打った、「もう出来てるんだから待って、すき腹のまま飲むとまた苦しむだけよ」
すぐですからねと云って、おるいはいそぎ足で出ていった。木内桜谷はにやにやしながら、まるで夫婦のようだな、と云った。房二郎はその向うへ坐り、片手を出して、その盃を貰おうと云った。
「だめだね」木内は首を振った、「すきっ腹に酒は毒だからな、ごしんぞの云うとおりだよ」
「そんないやみは痛くも
「考えないほうがいい、あんたにはできっこもなし、やらせたくもないこった」
「けれどもおれだって、生きなくっちゃならねえからな」と房二郎が云った、「できたら記事屋としてやってゆきてえし、そのために必要ならなんでもするつもりなんだ」
おるいが盆を持ってはいって来、房二郎の膳を出すと、ゆきひらと茶碗、梅干の小皿と箸を並べ、お待ち遠さまと云った。房二郎は自分でやるからいいと云ったが、おるいは相手にせず、卵の入った粥を茶碗に取り、房二郎に渡した。彼は木内桜谷に、ちょっと待ってくれと云い、箸を取りあげた。粥の匂いを嗅ぐと、にわかに腹が減ってきたのである。粥は塩かげんもよく、卵も半熟で、こんなにうまい物があるだろうかと思いながら、房二郎は茶碗に二杯たべた。おるいはそのようすをたのしげに見ていて、お味が薄かったかしら、ときいた。
「わからないな、なにしろ粥なんて、覚えてから初めて喰べたんでね」と房二郎は茶碗を置きながら云った、「しかしうまかったよ」
「よかったわ、それだけあがれば大丈夫よ」おるいはゆきひらや茶碗を盆に移しながら、その代りに燗徳利と盃と、肴の小皿を二つ膳へのせた、「でも気をつけてね、やけになって、飲みたくもないのに飲んだりしてはだめですよ」
「おれが叱られてるみてえだな」と木内は首をすくめて云った。
おるいが去ると、房二郎は手酌で酒を一杯注ぎ、飲もうとはせずに、さあ聞こう、と緊張した顔つきで云った。
「話してもむだなんだがな」木内は酒を啜って云った、「いや、話すほうが
「ゆすりだって」
「金持のうちの内情をあばいて、これこれの記事を瓦版にして売り出すんだが、お宅の名を書かなければならないので、あらかじめお知らせをしに来た、ともちかけるんだ」と木内は云った、「
房二郎は膳の上から盃を取り、眉をしかめながら
「おめえときどきそれを云うが、へちまは木にゃあならねえぜ」
「どうして」と房二郎が反問した、「だって
「どっちでもいいが、茄子は一本立ちだから木と云ってもいいだろう、しかしへちまは竹とか木なんぞに絡みつく
房二郎は夢の中で、やわらかく、吸いつくような、熱い女の躯の重みを感じた。いつかの女だな、と彼はおぼろげに思った。女の躯は彼を上から
「池さん、もう起きないとおくれるわよ」とおるいが云った、「もし文華堂へいらっしゃるんならだけれど」
「いきますよ」うとうとしながらそう云ってから、房二郎は眼をさまして、枕許にいるおるいを見た、「ああ、あんたか」
「あんまり飲んじゃだめだって云ったのに、こんなに飲んでばかりいるといまに躯をこわしちゃうわよ」
「痛いな」と房二郎は云った、「けれども、男にはね、死ぬほうがよっぽど楽だっていうときがあるんだよ」
「女にはそんなときがないとでもお思いですか」
「痛いな」とまた房二郎は云った、「私は世間を覗いたばかりで、自分のことだってよくわからないんだから」と云って彼はてれたような顔つきになった、「――ゆうべはよっぽどおそかったんですか」
「覚えていらっしゃらないの」
「売り子の段平と久兵衛がいっしょだったんで、知らないところを引廻されたものだから、いつどうして帰ったか覚えがないんだ」
おるいの顔に
「そんなことはないさ」房二郎は顔をそむけた、「
「女がいたんじゃないの」とおるいはさぐるような口ぶりできいた、「女のひとと浮気をしたんでしょ」
「顔を洗おう」と云って彼は起きあがった、「そう休んでばかりもいられないからな」
「卵粥が出来ててよ」
房二郎はけげんそうな眼をした、「へえー、どうして」
「酔ったあとにはあれがお好きなんでしょ」
「そんなことを云ったかな」
「仰しゃらなくったってわかるわよ」と云っておるいは立った、「さあお起きなさい、
文華堂の前で、売り子の段平と会った。瓦版をひと重ね左の手に、古扇子を右手に持っていた。
「ゆうべは世話になったな」と房二郎が云った、「だいぶ散財させたんじゃないのか」
「なあに、顔馴染の店ばかりでね」と段平は苦笑いをした、「銭なんか使やしねえ、あるとき払いときまってるんだ」
房二郎は財布の中から幾らか出し、足りないだろうが割前に取っておいてくれ、と云って段平に渡した。そして段平が断わろうとするのを
「お宅の前でさ、あんまり酔ってたから送ってったんでさ」と段平が云った、「なにかあったんですか」
「厄介をかけて済まなかった」と彼は云った。
記事部屋へあがると、木内桜谷が向う鉢巻をし、机に向かって、例のとおり酒を飲み飲み、いさましく筆をはしらせていた。房二郎は自分の机の前に坐ってから、財布を出して中をしらべてみた。家を出がけにおるいが、少し入れておいた、と云って渡してくれたものだ。いましがた段平に少しばかり割前を払ったとき、かなり多額にはいっているようなので、財布をあらためると、一分銀が三枚、二朱が二つと、銭が三十文あった。
――段平に
財布をしまいながら、房二郎は顔を
――それにゆうべの女だ、いつかの晩と同じ女だと思うが、いったいあれはどこの家のどんな女だろう。
よほど段平にきこうかと思ったが、どうにも口には出せなかった。桜田小路の家を出れば、そのまま生きた生活にはいれると思った。しかしこれまでのところ、世間は彼を拒絶し、押し戻すようにしか思えない。すべてがちぐはぐで、不合理で、いやらしく不潔な面だけしか彼にみせてはくれなかった。三男坊だから窮屈で不自由な生活だと思ったが、千二百石の旗本に育った神経には、文華堂などという、最低のからくりで経営する店や、町人ぐらしで触れるものごとの一つ一つに、やりきれないほどの抵抗を感じるのであった。
「さあ値上げだ」突然、記事を書きとばしながら木内が云いだした、「月手当の値上げだ、さあさあ値上げだ値上げだ」
「こっちも値上げだ」と隣りの八帖から彫り師の源さんの声が聞えた、「お
その声を聞いて、木内桜谷がにやりとし、肩をすくめるのを房二郎は見た。
「そうだ値上げだ」と隣りの八帖から、こんどは絵師の常さんの声が聞えた、「子供の絵本を描いたって、もう少しはましな銭にならあ」
摺師の松やんはなにも云わず、なにかを刷っているばれんの、きゅっきゅっという音だけが、休みなしに聞えた。そこへ木原桜水がはいって来、皮肉な笑いをうかべながら、だいぶ
「
「たまには
「それを売れるように書くのが、木内さんの腕じゃあないのかな」と木原はにやにやしながら云った、「この夏、
「よしてくれ」と木内桜谷が云った、「そんなことは聞きたくもねえや」
「筆の力ですよ」木原は軽薄に笑った、「木内さんが書けば、どんなに屑だねでも売れること間違いなしさ、しっかり頼みますよ」
そしてへらへら笑いながら、木原桜水は出ていった。
「たいした野郎だ」と木内は書きながら云った、「いいたねは金になるほうへ持ってゆき、安い屑だねはこっちへ持って来やあがる、それで実際に書くおれなんぞより、ずっと多くちょび髭から召し上げるんだからな、――なにが
房二郎は手を振って、「いや違うんだ、その話じゃあないんだ」と云った、「いま桜水が神田鍛冶町と云ったとき、初めておまえさんに会ったときのことを思いだしたんだ」
「沢茂のことかい」
「刺身のかなっけのことじゃあねえ」と房二郎がまた忍び笑いをしながら云った、「あのときおれたちの脇に二人の客がいた、その一人がさ、子供が寝小便をしたので、こらしめのためにその蒲団を背負わせて、町内を三遍廻って来いと出してやった」
「おれにも覚えがあるぜ」
「ところが、――その男の家は
「子供のこったからな」と木内は書き続けながら云った、「好きなところへいくさ」
そのあと、町内が迷子捜しで大騒ぎになったそうだ、と云おうとして、房二郎は急に口をつぐんだ。おまえはどうだ、という声が聞えたのである。芝の屋敷をとびだして、こんな卑しい、三文にもならない仕事をしている、おまえ自身は迷子じゃあないのか。
――人間はみんな迷子だ。
木内桜谷は芝居の座付き作者になろうとしたが、いまは瓦版の拵え記事などを書いて、かつかつに食っている。世間を
――よくつきつめてみると、人間ってものはみんな、自分のゆく道を捜して、一生迷いあるく迷子なんじゃないだろうか。
房二郎はますます心が重くなり、迷子のままで一生を終ったような、親族のたれかれを思いだして、深く長い溜息をついた。
「どうした」と木内が呼びかけた、「また
「そんなところだ、木内さんとはどこまでいっしょだったんですか」
「両国広小路の横丁だったな」木内はやはり手を止めずに云った、「おまえさんは段平と久兵衛にとりまかれてたから、そのあとどうしたか、おれは知らないよ、なにかあったのかい」
房二郎は答えずに、また溜息をついた。
十二月にはいって雪の降る朝、房二郎はいつもより
――赤坂あたりはいまでもきれいだろうな。
そんなことを思いながら文華堂へゆき、店の脇にある階段を登ろうとすると、女中のおかつがいそいで寄って来て、このあいだはまた有難うねと、顔を赤くして吃りながら云った。喰べたくないときにやる弁当の礼で、このあいだは
「わかったわかった」と房二郎は遮って云った、「今日のもよければ喰べていいよ、おれは欲しくないからな」
そして礼を云われるのを避けるように、二階の記事部屋へあがっていった。時刻が早いのか、それとも雪のためか、まだ刷り部屋のほうにも人はいなかった。そして彼が自分の机に坐ろうとしたとき、裏の座敷で物を投げる音がし、主婦のおそでのきーっという叫び声が聞えた。
「寄合いだなんて誰が信用するもんか」とおそでが叫んだ、「しとが知らないと思って、ばかにするのもいいかげんにしろ、さあ、ゆうべはどこへ泊って来た、どこのすべたあまと寝て来たんだ、云ってみろ」
「済まなんだ、泊って来たりしてほんまに済まん」と文華の云うのが聞えた、「けど、寄合いは同業のつきあいだし、そのあとだかて、わて独りつきあいから抜けるちゅうわけにはいかんがな、もう帰ろ帰ろと思いながら、つい」
おそでがまたなにか投げつけた。文華は
「このとおりや」と文華は廊下へ額をすりつけた、「泊ることはつきあいで泊ったが、おなごと寝たりなんぞしやへん、それは誰にきいてみてもわかることや、な、堪忍して、このとおりや堪忍して」
「岡場所みたいなとこへ泊って、おまえが女も抱かずに寝る男か」
「ほんまのことやて」と文華は云い張った、「自分でもなぜかいなあと思ったくらいや」
おそでがきーっと叫び、またなにかを投げた。それは湯呑茶碗で、廊下へ
「とにかくとんびへゆこう」房二郎は店の番傘を取って云った、「話はとんびへいってからにするよ」
とんびの店はあいていなかった。二人はまた小網町の「沢茂」へいった。そこは船頭や荷揚げの親方などが寄るので、早くから店をあけているのであった。
「人間てな面白いもんだな」話を聞いてから、木内が笑って首を振りながら云った、「あの女狐は七日ばかりまえに、桜水の若ぞうと浮気をしやあがった、記事だねを持って来たとき、ちょび髭がいなかったんで、そのまま
「逢曳き宿なんて、初めて聞くな」
「この裏に幾らもあるさ、江戸じゅうどこへいったって不自由なしさ」と云って酒を啜りながら、木内は顔をくしゃくしゃにして、皮肉に笑った、「おまえさんは千石の旗本育ちだからわかるまいがね」
「ちょび髭はそれを知らないのかい」
「知ってるさ」と木内は云った、「まえにも云った筈だが、夫婦となれば、そぶりだけだってそんなことに勘づかねえわけがねえ、ちょび髭はちゃんと知ってるんだ」
「それなら今日なんぞ、どうしてやり返してやらないんだ」
「金だよ、房やん」木内はそのよく動く眼をぎろっとさせた、「ちょび髭は女狐の持ってる金を
「
「世間をよく見てみな、みんなお互いに化かしあっているようなもんだぜ」
木内桜谷はそう云ってへらへらと笑った。房二郎はがくっと肩を落し、溜息をついて、こっちにも酒を
「いいのかい」と木内がきいた、「おらあ一文なしだぜ」
「大丈夫、――だろう」房二郎はふところを押えて云った、「あの女房のようすじゃあ、まだ相当に長びくだろうからな、あんな騒ぎは二度と見たくないよ」
「そうできればな」木内はまた皮肉な笑いをもらした、「そうできれば、生きてゆくのに苦労はないさ、しかしもし記事屋になるつもりなら、どんなに卑しい、きたならしい事でも眼をそむけちゃあいけねえ、むしろこっちからぶっつかってゆかなくちゃあな」
「こんなこととは思いもよらなかった」
「こっちの話だ」と房二郎が云った、「そうだ、
「悪いしゃれだ」と木内が云った。
「ほんとにあがるんですか」とおつまはにやにやした、「今日は
「刺身だ」と房二郎は手酌で一つ飲みながら云った、「かなっけのことは心配するなって云ってくれ」
「悪いしゃれだ」とまた木内が云った。
文華堂へ戻ってみると、刷り部屋の者もみんな来ていたし、記事部屋には木谷桜所が、自分の机の前におっとりと坐り、房二郎の書いた物を、おっとりと読んでいた。房二郎の写し物を読んでいたことはすぐにわかった。房二郎が自分の机の前に坐ると、桜所が立って来て、書いた紙の束ねを、静かに机の上に置き、拝見しましたと云った。
「拝見しましたが」と桜所はごく上品に云った、「これは
「俗語と雅文とどこが違うんですか」と房二郎が反問した、「教えていただきましょう」
桜所は柔和に微笑した、「あなたが道をあるいてるときとか、飲み屋で聞いたり話したりするときの言葉です、こんなことは云うまでもないでしょうがね」
房二郎は
「人さまざまさ」と木内桜谷が云った、「桜所は桜所で、やっぱり生きていかなくちゃならねえからな、それに、――いま桜所の云ったことは間違っちゃあいねえ、おまえさんは気を悪くするかもしれねえが、こういう仕事は、もともとまともなものじゃあない、世間を騙して売っちまえばいいというしろものだ、そのくらいの写し物は二日か三日で片づける、つまりすぐ
「それが人間の仕事だろうか」
「それが世間というものさ」木内はにやっと笑った、「もういちど云うが」
「わかったよ」房二郎は首を振って遮った、「沢茂で初めてあんたに会い、この文華堂へ入れて貰ったときに、その覚悟はしていたんだ、けれどもこういう中でだって、少しはまともな仕事ができるんじゃないか、いや、こういう世界でこそ、まともな仕事をしなくちゃあいけないんじゃあないか、と思ったんだ」
「世の中はそうあまいもんじゃあない、っていうことがわかったわけだ」
「かなしいな」と云って、房二郎は両手で顔を押えた、「だんだん自信がなくなってきたけれど、なろうことなら記事屋になるつもりだから、どんなことにも慣れることにするよ」
「危ねえもんだ」と木内が云った、「よしたほうがいいんじゃねえかな」
そこへ文華がはいって来た。
「いま桜所はんから聞いたんやけど」とちょび髭を
「そんなことはありませんよ」と木内が云った、「桜所さんには桜所さんの意見があるでしょう、けれども池さんの雅文調の写しも、売り出してみれば長続きがするんじゃないんですか」
「記事屋はんの勘では、売れるか売れないかの判断はむりでっしゃろ」鼻で笑うような口ぶりで文華は云い、房二郎の机の上から写した物を取りあげた、「――これ、ちょっと読ましてもらいまっせ」
「えっ」と房二郎は顔をあげた。
「鶉の叩きよ」とおるいが云った、「なにをそんなに驚くの」
「ああそうか」と云って彼は頭を振った、「いや、なんでもない、このあいだどこかで、鶉の串焼きが出来る、って聞いたばかりなんでね」
「小網町の沢茂っていうお店でしょ、その話はうかがったわ」
「ひでえもんだな、そんなことまで
「だからあんまり酔っちゃあだめだって云ってるでしょ、飲みたかったらここへ帰ってからあがればいいのに、それなら酔い
膳の上にはあん掛け豆腐と、鶉の椀と、香の物が並んでいた。彼は鶉の椀を取って一と口喰べ、うまいなと云ったが、あとは喰べずに膳へ戻し、盃の酒を啜った。
「部屋賃を溜めているうえに、返すあてもない小遣いを貰い、こんな馳走をぬくぬく喰べるなんて」と房二郎は頭を垂れて、いかにも恥ずかしそうに云った、「おれはよっぽどのへちまの木だ、犬にでもなっちまいたくなったよ」
「あたしが好きでしているのに、自分を
「それはおばさんの気持だよ」
「まあ、おばさんは可哀そうよ」と云ってから、おるいは二人のとしの差に初めて気づいたとみえ、微笑しながら
「そんなつもりじゃあないんだ、ただ呼びようがないもんだから」
「いいのよ」おるいは美しい顔でまた笑ってみせた、「あなたはあんまりこまかく気を使いすぎるわ、もっと気を楽に、自分でしたいようになさるほうがいいのよ」
「済まないけれど寝させてもらうよ」
房二郎は不安定に立ちあがり、おるいがいそいで、ちょっと待ってと云いながら、立って彼を支えた。房二郎はちょっとよろめき、おるいの肩につかまった。そして自分の部屋までゆくあいだ、さりげなく、肩につかまった手をすべらせて、おるいの背中を撫でた。
「ちょっと待って、そのままじゃだめよ」
着たなり夜具の中へもぐり込もうとする房二郎を、おるいは抱き止めながら云った。
「
「あとでね」彼は夜具の中へもぐり込んだ、「あとできっと着替えるよ、きっとだ」
「あの肩には覚えがある」と房二郎は
「なにをぼやいてるんだ」と木内桜谷が振り向いて云った、「まだ宿酔が直らないのか」
「宿酔にもいろいろあるんでね」房二郎は写し物を続けながら云った、「世間にはこんなにいろいろな穴ぼこがあるとは知らなかったよ」
「そうして少しずつおとなになるわけさ」
「おれはいっそ、のら犬にでも生れてくればよかったと思うよ」
「のら犬だって
「横っ
「そこいらから始まるんだな、苦みや甘みや辛みを、一つ一つあじわいながらな」と木内は云った、「あんたは敷居を
「敷居だって」
「おとなの風に当ったということさ」と云って木内桜谷は声を出さずに笑った、「房やんはおくてだよ」
「おまえさんの敷居や風がどんなふうだったかは知らない」と房二郎は云った、「けれどもおれの跨いだ敷居や、初めて吹かれた風は、おまえさんのものとは違うよ」
「みんなそう思うらしい」木内は書き物を続けながら云った、「人間ってやつは誰しも、初めての経験は自分だけのものだとね」
「そうしてだんだん驚かなくなるんだな」と房二郎は云った、「――そして、ああきれいだとか、哀れだとか、かなしい、いたましいと感じることもなくなるんだろう、考えただけでもぞっとするよ」
「まだ自分の知らないことを考えると、恐ろしいような、いやらしいような、きたならしいように感じるものさ」と木内が云った、「そのくせ、そういう未知のものごとに、触れてみたがるのが人間っていうやつさ」
「口で云うぶんには、地面から天まで説明することができるさ」と房二郎が云った、「他人の
そして痛いことが起こった。その夕方、ちょび髭が記事部屋へはいって来て、木内桜谷と房二郎に小さな紙包みを渡し、明日から来なくていいと云った。
「これは僅かやけど、わいのこころざしや」と文華はちょび髭を撫でながら云った、「悪う思わんと取っといてや」
私の写し物はどうなるんです、と房二郎が云おうとしたとき、木内が机の前からとびあがるように坐り直し、ちょび髭に向かって幾たびもおじぎをした。
「西川先生このとおりです」と木内桜谷は云った、「それだけは待って下さい、私はこれまでもずいぶん書いてきたつもりですが、これからはもっと書きます、桜所さんや桜水さんのぶんも書きますし、わ印も月に二冊や三冊は書きます」木内はまたおじぎをした、「毎月の手当も減らしてもらっていいです、仰しゃることはなんでも致しますから」
およしなさい木内さん、と房二郎が云うまえに、ちょび髭がにたにた笑って、それはどこかよそへ持ち込むんだな、と云った。
「木内さん」と房二郎が呼びかけた。
「お願いです西川さん」と木内はまた三度おじぎをした、「どうかいますぐにそうはしないで下さい、せめてあと半年でも待って下さい、そうすれば私がきっとお役に立つ、ということがわかると思います」
「おきなはれ」とちょび髭を撫でながら文華が云った、「なんぼ云うたかてきめたことはきめたこっちゃ、ここでむだな口をきくより、もっと月手当を多く出してくれるとこを捜して、ねっちりうまいこと云わはるがええと思いまんがな」
木内桜谷は黙り、両手を突き頭を垂れた。いつか木内や、刷り部屋の二人が、手当の値上げだと叫んだ。そして夫婦喧嘩で、文華は廊下へとびだし、平ぐものように頭をすりつけてあやまるのを、このおれに見られた。それらの仕返しをしようというんだな、と房二郎は思った。そのとき、ちょび髭が房二郎に振り向き、歯をみせて皮肉に笑った。
「房やんには手当もろくに出さなんで、ほんま済まなんだな」と文華は云った、「悪う思わんといてや」
房二郎のがまんはそこで切れた。彼は立ちあがるなり、自分より五寸も低い文華の
「手当はこっちから呉れてやる」と房二郎はまた平手打ちをくれた、「きさまを人間だと思ったら、こんなことで済ませやあしないんだぞ、よく覚えておけ」
彼は文華を突き放した。文華はよろけていって、障子ごと廊下へ仰向けに倒れた。そのとたんに木内桜谷がはね起き、いきなりちょび髭に馬乗りになって、片手で衿を掴み、片手で相手の頬を、撫でるように殴った。
「この野郎、人をばかにするな」と木内はどなった、「人をばかにするな、この野郎、このちょび髭野郎、人をなんだと思ってるんだ」
本当に怒ったときには、人間には思うようなあくたいがつけないものだ、と房二郎は自分のことをこめてかなしく思い、木内桜谷の肩を叩いて、もういいよ、帰ろうと云った。そこへ階下から、女狐のおそでが駆けあがって来、ちょび髭が組伏せられているのを見るなり、逆上したようにきーっと叫んだ。
「泥棒や、人殺しや」とおそでは足踏みをしながら喚いた、「誰か来て下さい、泥棒ですよう、人殺しですよう」
そして、木内桜谷にむしゃぶりつこうとした。房二郎はそれを突きとばし、木内の肩を掴んで文華から引き
「いきましょう木内さん」彼は木内を抱き起こしながら云った、「なにも持ってゆく物はないんでしょう」
「人殺しや、泥棒や」とおそでは足をばたばたさせながら喚き続けていた、「誰ぞ来て、誰か番所へ届けてえ」
房二郎は木内桜谷を抱えるようにして階段をおりた。女狐はまだ喚いていたが、下へおりると女中のおかつが、二人の草履を
「おまえも早くこんなうちは出ちまうがいいぜ」と房二郎はおかつに云った、「奉公する気なら、もう少しましなところがあるだろう、こんなうちにいると骨までしゃぶられるぜ」
店の外へ出たとき、うしろでおかつの、ありがとよ、と吃りながら云う声が聞えた。
「飲もうや木内さん」と彼は大きな声で云った、「こんな汚れた銭なんか持ってるのも恥ずかしい、みんな飲んじまおうぜ」
「そうだ、みんな飲んじまおう」あまり元気な調子ではなく、木内も云った、「今日は川向うへゆこうぜ」
「どういう気持だかわからねえ」
「わからねえことはねえさ」と木内が云った、「おめえに
「いやなことを云いなさんな」
「そうでなくって、着物を
「だって相手は七つもとし上だぜ」
「もったいないことを云うなよ」木内は湯呑茶碗の酒を啜った、「あれだけの
「あら、
「よけいな口出しをするな」と云って房二郎は女の顔を見、狭い部屋の中を見まわした、「ここはいったいどこだ」
「そらっつかいね」女は房二郎の肩を叩いた、「ちゃんと知ってるくせに、はいお酌」
「門前仲町だよ」と木内が云って、女に手を振った、「酌はいいから二人にしてくれ」
「なによう、このしと」女は木内にかじりついた、「いまあちしをくどいたばかりじゃないの」
「うるせえ、おれにゃあちゃんと女房がいるんだ」
「おかみさんを持ってるのはあんた一人じゃないよ、なにさ」女は木内をもっと強く抱き緊めた、「かみさんも持たないような男は、いっしょに寝たって面白みはありゃあしない、ねえ、あっちへゆこうよ」
「おれは帰るぜ」と房二郎が云った、「なんだか悲しくなってきちゃった」
「出よう」と木内が云った、「勘定をしてくれ」
「勘定はこっちだ」と房二郎が云った。
「だめだよう」女は木内を押し倒した、「あたしをくどいといて、なにさ」と女は木内の上に馬乗りになった、「今夜は寝かさないからね、帰るなんてったって帰しやしないよ」
そして女は、木内の頬に吸いついた。
――かなしいな、生きるということはこんなにかなしいものなんだな。
その店を出て、あるきながら房二郎はそう思った。女は木内を心から好いているようではなかった。けれども、しがみついたり、抱き緊めたり、頬に吸いついたりするしぐさには、単にしょうばいだけでないなにかがあった。
――迷子だな、あの女も迷子だ、なにか自分の生きるすべを捜している、迷子だ。
房二郎は声をあげて泣きたいような衝動にかられた。
「あのちょび髭の、ぼけなす野郎」と木内が云った、「ぶち殺してやればよかった」
「木内さんは充分にやったよ」と房二郎は云った、「あんな人間は、一寸刻みにしたって痛いとは思やあしねえ、あれで充分だ、あれ以上やればこっちの手に繩がかかるだけで、相手はへとも思やあしねえさ」
「逆だな」と木内が云った、「世の中はいつでもそうだ、今夜は飲みあかそう、おい、酒をどんどん持ってこい」
その店がどこだか、房二郎にはわからなかった。
「木内さんはさっき、女房持ちだって云ったようだな」と房二郎がきいた、「ああ、門前仲町の飲み屋でだ、ほんとかい」
「それが問題さ」
寒い風が吹いていて、灯の見えない街を、二人はもつれあうように歩いていた。
「女房持ちにどんな問題がある」と房二郎が云った、「あの飲み屋の女も云ってたが、女房を持ってるのはあんただけじゃあねえだろう」
「おらあこのまま、どっか遠いところへいっちめえてえんだ」と木内が云った、「おまえさんもうちへ帰るほうがいい、しょせんまっとうにやっていける世界じゃあねえ、ってこともわかったろう、なんとか
「ねえこたあねえさ、小旗本へ婿にいった叔父が本所にいるよ」と房二郎が云った、「本所の
「その人に頼んで、桜田小路へ帰るんだな、それがいちばんだよ」
「そんなとこへ腰掛けちゃあだめだ、木内さんのうちはもうすぐそこだぜ」
木内桜谷は
「ばかなことを云いなさんな」
「今日、私はちょび髭の前で四つん這いになった、池さんはさぞ
房二郎はなにも云わなかった。
「けれどもな、池さん」と木内は頭を垂れたまま続けて云った、「あのときもし、ちょび髭にちんちんをしろと云われたら、おらあ犬のようにちんちんでもお廻りでもするつもりだったんだ」
「どういうことだい、それは」
「女房を呼んだんだ」と木内は云った、「西川のやつが来月から手当を増して呉れるというんで、箱根から女房を呼んだんだ」
房二郎は腕組みをした。寒い夜風が吹きわたり、腰掛けている木内桜谷の着物の裾が
「いつか話したと思う」と木内は続けて云った、「私は芝居の座付き作者になるつもりだった、代作ということでいたに乗った台本も幾つかある、だがそのうちに、或る芝居小屋の、頭取のかみさんとできてしまい、それがばれて、芝居の世界から追い出されちまった」
「もううちはそこですよ、うちへいってから聞きましょう、こんなところでぐずぐずしていると本当に風邪をひきますぜ」
「おれたちは苦労した、いや、苦労したのはおたねのほうだろう」木内は
「それにしては」と房二郎が云った、「記事を書きながら、ずいぶんけいきよく飲んでいたな」
「かみさんから仕送りがきていたのさ」
「それで箱根か」
「湯治場は金になるからな」と云って木内はまた頭を垂れた、「――金になる、か、どんな気持で三年、箱根の山の中で苦労したことだろう」
「まさか泣きだすんじゃあないだろうな」房二郎はからかうように云い、木内の腕を取ってむりやりに立たせた、「もう一と跨ぎで長屋の木戸だ、さあ、帰りましょう」
「それがだめなんだ」
「なにがだめなんだ、おまえさんのうちじゃあないか」
「女房が来ているんだよ」木内は力のぬけたような声で云った、「ちょび髭が月手当をあげると云った、それだけあれば夫婦二人のくらしは立つと思ったんで、箱根から呼び戻したんだ、
ちょび髭の前に平つく這い、恥も外聞もなく泣きごとを並べた木内桜谷の姿が、房二郎には改めていたましく、思いだされた。
「大丈夫だよ」と彼は云った、「夫婦の仲じゃないか、それに箱根までいって稼いで、あんたに貢ぐほどの人だ、事情をよく話せばわかってくれるさ」
「そういう女房だからこそ、よけい顔が合わせられないんだ、――いっしょに来てくれるか」
房二郎はどぎまぎし、「おれがか」と反問し、すぐに頷いた、「いいよ、おれでよければいっしょにゆこう」
「済まねえな、恩にきるぜ」
木内桜谷はよろめき、房二郎の肩に
「あれも人間の生活なんだな」うしろから呼びかける木内の声をうち消すように、彼はあるきながら声に出して呟いた、「――へちまは木にはならねえ、か、
彼は風の寒さに身ぶるいをした。文華堂の夫婦、吃りの女中、小舟町のおるい、刷り部屋の三人、その他もろもろの人間や景物が、いまはふしぎなほど自分から遠くなり、べつの世界のように感じられるのであった。
「友達の中には、気軽に町人ぐらしに慣れてゆく者もあった」と房二郎は呟いた、「しかしおれはだめらしい、おれはそういう性質には生れついてこなかったらしい、しょうがない、本所の叔父のところへゆこう」
彼は