暴風雨の中

山本周五郎





 烈風と豪雨が荒れ狂っていた。氾濫はんらんした隅田川すみだがわの水は、すでにこの家の床を浸し、なお強い勢いで増水しつつあった。昨日の未明からまる一日半、大量の雨を伴って吹きとおした南の烈風は、ようやくいまやみそうなけはいをみせ始めていた。まだ少しも弱まってはいないが、ときおりあえぎのように途切れるし、空をおおって低くはしる雲の動きも、いくらか緩くなってゆくようであった。
 三之助は二階の六じょうに寝ころんでいた。
 二階には部屋が三つあり、その六帖は東の端になっていた。間のふすまがあけてあるので、他の二部屋も見とおすことができる。そこには畳や襖障子や、その他の家具、箪笥たんすや長持や火鉢や、なにかの箱などがぎっしり積み上げてあった。吹き飛ばされた雨戸の隙からさし込む光りが、それらの家具を片明りに、ほの暗く映しだしていた。それは階下から運びあげたものであった。この家の人たちはそれらの物を運びあげて、朝はやく、まだ暗いうちに逃げていった。
「悪くはなかった、これも一生だ」三之助は口の中でつぶやいた、「おれはおれなりに自分の一生を持ったんだ」
 縞の単衣ひとえの胸がはだけ、三尺帯がとけかかっていた。少しせてはいるが筋肉のよく緊った、精悍せいかんそうなからだつきである。顔は白っぽく乾いていた。こけた頬や骨ばったあごのあたりに、激しい疲労と弛緩しかんの色があらわれていた。疲れきって虚脱しているようであった。なにもかも、身も心も投げだしたというふうにみえた。
「生れてきたことはよかった」こんどははっきりと呟いた、「生れてこないよりは、やっぱり生れてきたほうがよかった、飢えや、寒さや、辛い、苦しいことが多かった、そうだったか、……いつもおれは逃げだすことばかり考えていた、そしていつも逃げだした、逃げださなければもっと悪いことが起こっただろう、……こんどは逃げなかった、逃げだすことができなかった、そして、こうするほかに手はなくなった」
 彼の表情が変った。風と雨の音が家を押し包んでいた。乱打する太鼓の中にでもいるように、その荒れ狂う音が部屋いっぱいに反響した。三之助の眼は憎悪の光りを帯びた。唇も憎悪のためにゆがんだ。しかしその表情はすぐに消え、彼は頭をゆらゆらと揺って、眼をつむった。
「おれはこの腕でおぎんを抱いた」彼はまた呟いた。「おたいやお幸や、まさ公を抱いた。抱いたりでたり、殴ったこともあった。……あいつらは泣いたり、みついたり、爪を立てたりした。あいつらはおれのこの肩や腕に、爪や歯のあとをつけた。あいつらはこの頬ぺたや胸を、あいつらの涙で濡らした、なま温かい塩っからい涙で……おれはその温かさや塩っぽさを味わった」
 生れてきたからこそ、その味を知ることができたんだ。三之助はそう続けた。しかし、その呟きはあまりに低く、殆んど声にはならなかった。突風がするどくえ、雨戸や羽目板へざッざッと雨を叩きつけた。まるで砂礫されきを叩きつけるような音であった。家ぜんたいが悲鳴をあげて揺れ、階下で壁の崩れるらしい物音がした。三之助は「ふしぎだ」と呟いた。ほんの一瞬、風が途絶えると、どこかでごぼごぼと重たく水の鳴る音が聞えた。どこか地面に穴があいて、そこへ水が吸い込まれるような音であった。
「どういうわけだろう」彼は首をひねった。眼はつむったままであった。「ほかのことはよく思い出せない、飢えも寒さも、骨のしびれるほど辛い苦しいおもいをしたことも、まるで遠い景色のようにぼやけてしまっている、思いだせるのはあいつらのことだけだ、抱いてくどいたり、泣かせたり殴ったりして、みんな別れてしまった、みんな長くは続かなかった……おたいはほかの誰とも似ていなかった、おぎんも、お幸も、まさ公も、みんなほかの者とは違っていたが、そのくせほかの女たちと同じだった、少し馴染むとそれがわかった、ひとりひとりは違うのに、みんなほかの女たちと同じものを持っていた。おれのなにより嫌いなものを、……おれは逃げだした、逃げ出さずにはいられなかった、……けれども、それだけじゃなかった」彼は眼をあいて、ぼんやり天床を見まもった、「そうじゃねえ、嫌いなものじゃあねえ、ただ嫌いというのじゃあねえ、なにかしら、……そうだ、それとはべつのものだ、おれを逃げださせたのはそのほかのものだ」
 はっと三之助は首をあげた。この家の北側のどこかへなにかの突き当る音がした。音というよりは響きであった、そうひどくはないが、たしかになにかが突き当ったようだ。
「――あの娘かもしれねえ」
 三之助は自分に云った。
「――きっとそうだ、おしげだ」
 首をあげたまま、三之助はじっと耳をすました。風雨の音のなかから、次に起こるであろう物音を聞き取ろうとした。二階の屋根瓦が飛ばされたらしい、からからと音がして、うしろのひさしへ落ちるのが聞えた。三之助は立って、廊下へ出た。さっと雨が顔を打った。吹飛ばされた雨戸の間から、鼠色に濁ったいちめんの水が見えた。彼は風と雨に叩かれながら、半身を乗りだして、いま物音のした方をのぞいて見た。しかしそれらしい物はなにも見当らなかった。
 風景はすっかり変っていた。
 千住大橋の上から東に向って流れる川が、そこで大きく南へぐっと曲っていた。そこはその曲っている川へつき出た地形だった、不規則な三角形の突端のような場所に、地盛りをしてこの家は建っていた。対岸には水神の森があり、少し下流には真崎稲荷いなりの森があった。水神の森に続いて向島堤の桜並木が見える筈であった。しかし今はそれが見えなかった、水神の森も半ば水に浸されて、灌木かんぼくの繁みのようになり、烈風にぎ倒されては、そのこずえで水を掃くさまが、豪雨をとおしておぼつかなく眺められた。
 男が一人、ずぶ濡れになって、廊下の西の端から、この二階へすべり込んだ。三之助は外を見ていた。その男は裏から屋根づたいに廻って来たらしかった。そして、吹飛ばされた雨戸の間から、手摺てすりまたいで(かなりすばしこく)中へ辷り込んだのであった。
 三之助は外を見ていた。どっちを見ても鼠色の水であった、どこにも地面は見えなかった。風のために波立ってはいるが、水は流れているようではなかった。洪水という激しさは感じられなかった。雨にかき消される彼方かなたまで、重おもしく漫々とひろがっていた。けれどもそれが休まずに増水していることはたしかだった、眼に見えぬちからで、じりじりと、それはもう階下を半ば以上も浸していた。まもなく軒庇までつきそうであった。
「おめえ舟で来たのか」
 三之助が云った。彼は外を見たままで、ごくしぜんにそう云った。


 風が襲いかかり、三之助のつかまっている雨戸が、危なく吹き飛ばされそうになった。三之助は部屋へ戻りながら、もういちど云った。
「おめえ舟で来たのか」
 こんどはまえより高い声であった。そして彼はそこへ坐った。男はぎょっとした。男は次の八帖にいたが、積んである家具の間で、慌てて濡れた手足を拭きながら、なにか答えた。合羽かっぱていたので、めくら縞の長半纒ながばんてんはどうやら乾いているが、髪毛からはまだ水が垂れた。
「断わりなしに入っちまったが」男は頭を拭きながら、こんどは大きな声で云った、「邪魔をしてもいいかね親方」
「舟の当る音がしたっけ」三之助は云った、「おめえ舟で来たんだな」
「小塚っ原から水だった」男は云った、「ちっとばかりが使えるんで、思いきってぎだしたんだが、いけねえ、千住大橋のところで流れに押されてどうにも突っ切れねえ、死にもの狂いでやっとこの家まで漕ぎつけたんだ、いっとき、もうだめだと思った」
 男はこっちへ来た。三十五六の小柄な男だった。柄は小さいが骨太で、がっちりしていた。手足も太く、指はごつごつしているが、どこかに敏捷びんしょうな、ばねのような強靱きょうじんなものが感じられた。毛深いたちらしい、頬からあごにかけて硬そうな無精髭ぶしょうひげが伸びていた。唇は厚く、角張ったまるい顔の中で、小さな細い眼がするどく動いた。その眼はねばり強く、どんなことにもめげない光りを帯びていた。
「おらあ親方なんて者じゃあねえ」三之助が云った、「またこれはおれの家じゃあねえ、ちっとも遠慮することなんかねえんだ」
 男は三之助と斜交はすかいに坐った。それから莨入たばこいれ燧袋ひうちぶくろを出して、煙草を吸いつけた。
「こんな処に家があるとは気がつかなかった」男が云った、「いったいどんな人の家なんだね」
「船七の隠居所さ、隠居所で、客の会席にも使ってたんだ」
「船七ってえと、大橋の脇の船宿かね」
「おしげってえ看板娘がいる、おめえ知ってるんだろう」
「おらあ」男は煙草にせた、「おらあ、船七って名だけは知ってるが、……千住大橋の脇にそんな船宿があるってことは聞いていたがね」
 風で激しく雨戸が鳴り、男の言葉は聞えなくなった。三之助はほどけかかっていた三尺帯を巻き直し、そこへ寝ころんで肱枕ひじまくらをした。男はそれを横眼で見た、その眼がきらっと光った。男は片膝かたひざを立て、きせるを持ち直した。すると三之助が男の方を見た。男は急にきこんだ。
「なにか云ったかい」
「この家はその」男はどもった、「この水を、持ちこたえるだろうか、もう暴風雨あらしはおさまりそうに見えるし、水もこれ以上のことはねえと思うが」
「どうだかな」三之助は唇で笑った、「この家は土盛りをして建てたものだ、七月の大しけのときに土台の石垣が崩された、それを直す暇がなかったんだ、……だから、この家の人たちは朝はやく逃げだしたのさ、命が惜しかったら一緒に逃げろって、おれにもくどく云いながらよ」
「だがおめえはそこにいるぜ」
 三之助は黙って、また唇で笑った。男は疑わしげに、そして念を押すように云った。
「おめえは逃げなかった、まさかこの家がだめだと知って残ったわけでもねえだろうが」
「どうだかな」
「おめえおれをおどかすつもりか」
「ちょいと聞いてみな」三之助が云った、「下の方でごぼごぼ音がしているから畳へ耳をつけるとはっきり聞えるぜ」
 男は耳をすませた。それから畳へ耳をつけた。
「土台のどこかに穴があいてるんだ」三之助が云った、「崩れた石垣がどうかして、この家の土台の下に水の抜ける穴があいたんだろう、この音はそこから水の抜ける音だ、さっきよりずっと大きくなってるが、そうさ、こいつがもっと大きくなれば、この家はたぶんぶっ倒れるか、水にさらわれるかするだろうぜ」
「じゃあなぜ逃げねえんだ、そうとわかっていて、なぜ逃げるくふうをしねえんだ」
 三之助はからかうような眼で男を見た。
「おめえを威かしたってしようがねえ」三之助は云った、「威かすつもりなんぞこれっぽっちもありゃあしねえ、おれが此処ここにいるのは、この家がぶっ倒れるか、水に掠われるかするだろうと思ったからだ」
「なんだって」
「聞き返すこたあねえや、その暇におめえやることがあるんだろう、やることがあって此処へ来たんだろう、そうじゃあねえのか」
 男の眼が絞るように細くなった。その眼ですばやく、三之助の顔を見やった。風がどっと襲いかかり、家ぜんたいが揺れた。裏手のほうでどこかの板のひき裂ける音がし、なにかが庇をぎしぎしとこすった。その聞き馴れない音に続いて、また板の裂ける音がし、そのままえたける風雨のためにかき消された。
「おれが、なにをしに来たって」
「待つことはねえってんだ」三之助が云った、「おめえがなにをしに来たかは初めからわかってる、入って来たときのおめえの身ごなしと眼つきで、おれにゃあすぐわかったんだ」
 男はきせるを置いた。三之助は寝ころんで肱枕をしたままで顎をしゃくった。
「早くやんねえ、おらあ手向いはしねえよ、おらあこの家と一緒に自分の片をつけるつもりだった、今でもそのつもりなんだ、ひとおもいにさっぱりとな、……おらあ決して手向いはしねえぜ」
「それは本気か」男は右手をふところへ入れた、「本当に手向いはしねえか」
「おめえは律義らしいな」
「お上にも慈悲がある、神妙にすれば」
 突風が来て雨戸を一枚また吹き飛ばし、部屋の中まで横さまに雨が吹き込んだ。男は身構えをしながら三之助をにらんだ。
「神妙にすればお上にも慈悲がある、神妙にお繩を受けるか」
「お慈悲だって」三之助の表情がするどく歪んだ、眼に憎悪の色があらわれた。しかしそれは殆んど瞬間のことで、すぐにまたあざけりと倦怠けんたいの顔つきに戻った、「ふん、お慈悲はこっちから進上、と云いてえが、まあいいや、早いとこやってくれ、さもねえとおめえもこの家と一緒に」
 男は三之助にとびかかった。相手が寝ころんでいるにしては、びしびしと容赦のない動作だった。三之助は二度ばかり「うっ」と声をあげたが、反抗はしなかった。男は三之助をうしろ手に縛りあげ、壁際へひき据えて、立ちあがった。彼の顔はあおく硬ばって、醜く歪んでいた。彼はふところから十手を出し、三之助の肩を(作法どおり)打ちながら云った。
「――つくだの三之助、御用だぞ」
 十手の古びた朱房が三之助の頬を撫でた。三之助は壁へ背をもたせてあぐらをかきながら男を見あげた。そうして、低く笑った。
「やっぱりおめえは律義なんだな」
「黙れ、もうむだ口はきかせねえぞ」
 男は三之助を睨みつけた。


「むだ口か、ふっ」三之助は肩を揺った、「それより舟を見て来たらどうだ、おめえの乗って来た舟をよ、その方が大事じゃあねえのか」
 男はぎょっとした。彼は十手をふところへ差込み、慌てて隣りの部屋の方へいった。三之助は皮肉な冷笑をうかべながら、男が合羽を衣る音や、廊下から屋根へ出てゆくのを聞いていた。僅かなあいだに、風の勢いは衰えていた。突風はまだ相当に烈しいが、途絶える時間が少しずつ延びてきた。
「おーい」裏の屋根で男の叫ぶのが聞えた、「おーい、……おーい」
 三之助は左右の肩をひねった。繩がくいこんで痛いらしい、だが、もがけば繩はさらに緊った。三之助は舌打ちをして、勝手にしろというように、また壁へ凭れかかった。男が戻って来た。合羽をかぶっていたのに、長半纒の前はずっくり濡れていた。彼は顔や頭を拭きながら、廊下へ出ていって外を眺め、それから三之助の前へ来て坐った。
 水が軒庇についたのだろう、たぷたぷと重く、下から庇板を打つ音が聞えだした。水面は驚くほど高くなっていた。それは三之助の位置からも見えた、あけてある障子と、雨戸の隙間越しに、……濁ってふくれあがる水の面を、斜めにしのをなして豪雨が叩くので、いちめんに灰色のしぶきが立っていた。
「惜しいことに舟のつなぎようを知らなかった、繋ぐ場所も悪かったらしいな」三之助が云った、「おれにゃあ聞えたが、繋いだ※綱ともづな[#「舟+覧」、133-下-3]が繋がれたところをひっぺがした、舟はそのまま流れていったようだ、そんなような音をおらあ聞いたぜ」
「だから逃げられるとでも思うのか」
「――おれがか」
「おらあ武井屋の佐平ってえ者だ」男はきせるを拾った、「気の毒だがいちどお繩にした以上、どんなことがあったって逃がしゃあしねえから、そのつもりでいろ」
 三之助はふんと云った。そのときどしんと、なにかが家へぶっつかった。流れて来た材木かなにからしい、重たげな響きと共に、家ぜんたいがぐらぐらと揺れた。男は浮き腰になった、外へでもとびだしそうな恰好をみせたが、すぐに坐り直して、きせるを逆に持った。
「おめえは松島町で人をあやめた」男は三之助を見て云った、「日本橋松島町の家主、油屋仁兵衛を短刀でやった、それに間違えはねえだろうな」
「此処で口書きでも取ろうってのか」
「おれの云うことに返答をしろ、それから口のききようを改めるんだ」男は云った、「そんな口のききようをすると痛いをみせるぞ」
 三之助は黙った。
「おめえの気の毒な身の上はたいがいわかってる」男は云った、調子は厳しいが思いりのあるような口ぶりであった、「おやじは佃島の漁師で政吉、おふくろはいちといったな、おめえを入れて子供が四人、千吉、よね、伊三郎、おめえはよねの下で二男坊の筈だ」
「おらあ勘当されたんだ」三之助は眼をつむった、「十五の年に勘当されて、人別にんべつもぬかれたんだ、おれにゃあきょうだいなんかありやしねえ」
「おめえがぐれたわけも知ってるぜ」
 佐平という男は云った。三之助の家はごく貧しかった。父の政吉は愚直で、酒も煙草ものまず、人にだまされたり利用されたりするばかりだった。おれは貧乏くじをひくためにこの世へ生れてきたようなものだ、いつもそう云っていたが、長男の千吉が十一のとき、漁に出て疾風はやてに遭って死んだ。そのとき三之助は六つ、末っ子の伊三郎は二つだった。珍しいことではない、母親と四人の子はその日から生活に追われだした。八つになるよねは子守りに出し、いちと千吉とは佃煮つくだにと貝の行商を始めた。
「おめえはいつも放っておかれた」と男は云った、「おふくろは千吉と一緒に伊三郎を背負ってでかける。おめえだけは家に残された。まわりは漁師町、遊びなかまは乱暴でだらしのない連中が多い、これで悪くならなければふしぎなくらいだ」
 三之助は悪童だった。佃でも築地河岸の方でも、たちまち名を知られ、爪はじきをされるようになった。そのままいたら、やがては島から追い出されたにちがいない。彼は職人になるのだといって、十二の年に茅場かやば町の「指金」へ弟子入りをした。指金はそのころ江戸でも名うての指物さしもの職だったが、三之助は半年そこそこでとびだし、両国橋の「船辰」という船宿へころげ込んだ。それからは喧嘩けんかと賭博で、十七八のときにはもう、佃の三之助ととおり名が付いていた。
「兄貴の千吉は漁師になった」と男は続けて云った、「今でも佃島でまじめに漁師をしている、およねも漁師の嫁になった、末っ子の伊三郎は桶屋おけやの職人で、これも世帯しょたいをもっている、ぐれたのはおめえだけだ、船宿の船頭ではいい腕だそうだが、喧嘩と博奕ばくちはやまず、女でいりはやまず、こんどはとうとう人をあやめるということまでした」
「そのとおりだ、おめえはよく知ってる、よく調べが届いたもんだ」三之助が云った、「しかしおめえは知っちゃあいねえ、おめえにはなんにもわかりやしねえよ」
「なにがわからねえっていうんだ、なにがだ」
「おめえにゃあ縁のねえことさ」三之助は頭を壁へ凭せかけた、「暢気のんきにそんな口書をとるより、此処からぬけだす算段をしたらどうだ、土台の穴も大きくなるばかりだし、もうじき水が二階へきそうだぜ、親方」
「おれがなにを知らねえってんだ、云ってみろ、おれになにがわからねえってんだ」
 三之助は黙っていた。眼をつむって、じっと暴風雨の音に聞きいるようすだった。凭れている壁から後頭へ、じかにいろいろな物音が伝わってくる。階下の土台のあたりの、ごぼごぼと鳴るあの音は、今ではもうべつの、もっと大きな響きになっていた。家の柱は絶えずぶるぶると震え、流れて来る物が当るたびに、家ぜんたいがみじめに揺れた。
「おれのおふくろは泥棒だと云われた」三之助が独り言のように云った、「いつも佃煮を売りにゆく顧客とくいさきで、握り飯を五つ盗んだからだ、鉄砲洲の質屋が近火に遭って、手伝いに来た出入りの者たちに炊出たきだしをした、酒肴さけさかな、握り飯や煮〆にしめがずらっと並んでた、誰でも取ってべ放題、飲み放題だった、……おふくろはもちろん手伝いにいったわけじゃあねえ、佃煮を売りに寄って、ふらふらとそいつに手が出たんだ」
 そのとき一家は飢えていた。母子五人(およねも子守り先から帰っていた、)が四五日なにも喰べない状態だった。特にこれという理由はない、飢えるのは常のことだった。条件のごく些細ささいな変化にも、一家はすぐに食えなくなるし、食えないことには馴れていた。けれどもそのときはひどかった、すすかゆさえも無かったのである。……質屋の下女がそれを見ていた、おいちが握り飯を五つ、竹の皮に包むのを見ていて、やはり佃島から小魚こざかなを売りにゆく漁師に、それを話した。
 ――おいちさんは泥棒をした。
 狭い島のなかで、うわさはすぐにひろまった。子供たちは泥棒の子と呼ばれた。


「その握り飯が手伝いに来た人間に出されたものだとすれば」と男が云った、「おめえのおふくろのしたことは泥棒だ、たとえ一家が飢えていたにしろ、おめえのおふくろはそいつに手を出しちゃあいけなかったんだ」
「おめえ一家で飢えたことがあるのか、親分」
「おらあまっとうな人間だ」佐平という男はいきり立った、「まっとうな人間は一家を飢えさせるようなまねはしねえ、一家を飢えさせるようなやつは人間のくずだ」
「まったくだ、おれもそう思うぜ」
 三之助は歯をみせて笑った。
「そういうやつらは」と男は憎にくしげに云った、「てめえの能無しを棚にあげて世間をうらむんだ、まっとうに暮している者や金持を憎んで、てめえが食えねえのはそういう人たちのためだなどとぬかす、そうしてしめえにゃあ悪事をはたらくようになるんだ」
「そのとおりだ、おめえの云うとおりだぜ、親方」
「てめえおれを笑うのか」男ははずかしめられでもしたようにかっとなった、「さんざっぱら世間に迷惑をかけて、女を幾人も泣かして、しまいにゃあ人をあやめさえしながら、てめえは自分が悪かったとは思っちゃあいねえんだろう」
いとも思っちゃいねえよ」
「自分が悪いとはこれっぽっちも思っちゃあいねえんだろう」
「善いとも思っちゃあいねえさ、本当だぜ親方」三之助は云った、「おれが仁兵衛をやったのは善いことたあ思わねえ、悪いことかもしれねえ、そいつはなんとも云えねえが、おらあやらずにはいられなかった」
「なんとも云えねえって」
「そうなんだ、おれは仁兵衛を短刀でやったが、あの爺いはおれが短刀でやった以上のことを、金と強欲でやってたんだ」三之助の唇が歪んだ、「あの爺いは家主としても鬼のようなやつだったが、そのうえ法外な高利貸をして、貧乏人の血をしぼるようなまねをしていた、あいつのために娘を売った者、親子きょうだいが別れ別れになったり、裸で街へ放りだされた者が、どのくらいあるか親方は知っちゃあいめえ、それだけじゃあねえ、あいつに金が返せねえために、あいつの長屋で首をった婆さんがあった、久松町では大川へ身投げをしたかみさんがいる、ついこのあいだも、あいつの長屋で娘が一人、身を売られるのがいやさに井戸へとび込んで死んだ、……おれの知っているだけでも、あいつのために三人の人間が死んでるんだ、刃物こそ使わねえが、あいつは三人も人を殺してるんだ、あいつこそ人殺しだ」
「それがおめえとなんの関係がある」男が云った、「油屋がもしそんな非道なことをしたんなら、された当人がおかみへ訴えて出ればいいんだ、おめえなんぞの知ったことじゃあねえんだ」
「当人に訴えて出ろって」
「そのためにお上というものがあるんだ、しんじつ仁兵衛が悪人ならお上で放っておきゃあしねえ」
「だって爺いは放っておかれたぜ」
「それは油屋が御定法じょうほうに触れなかったからよ、法に触れるようなことをしねえのに、ただ強欲というだけで繩をかけるわけにはいかねえ」
「そうらしい、そういうものらしい」
 三之助の唇が少しあいて、それが見えるほどもふるえた。顔には悲しみとも苦痛ともとれる、一種の絶望的な表情がうかび、眼には涙がまっていた。ひと際つよく、ずしんと家が震動した。また材木でも流れて来て当ったのだろう、佐平という男はびくりとした。
「貧乏人は貧乏だというだけで、自分から肩身を狭くしている」三之助は云った、「世間だって貧乏人などは相手にしやあしねえし、相手にされねえことは自分たちでよく知ってるんだ、血をしぼられるような非道なに遭っても、お上へ訴えて出るより自分で死んじまう、どこへ出たって貧乏人の云うことなんぞとおりゃしねえ、金があって、ちゃんと暮している者にはかなわねえということを知っているからだ、おれもよく知ってる、おふくろが握り飯五つ取って泥棒と云われたのは、飢えていたからだ、おれたち一家が飢えてもいず、そんなに貧乏でもなかったら、たかが握り飯の五つくれえお笑い草で済むんだ、おらあ、……仁兵衛をやった、生かしてはおけなかった、そういう弱い貧乏人の血をしぼり、娘を売らせ、裸で放り出し、おもい余って三人も死なせやがった、生かしておけばこれからもするやつだ、おらあやらずにいられなくなってやった、それだって善いことをしたとは思やしねえ、決してそんなことは思やしなかった、だからこうして、この家と一緒に身の始末をしようとしたし、おめえが来ればおとなしくつかまりもしたんだ、口惜しいけれども、やっぱりおれも貧乏人のせがれなんだ」
「人並なことを云うな、てめえはどれほどの人間だ」男がやり返した、「きいたふうなことを云やあがって、てめえは油屋を悪く云えた義理じゃあねえぞ」
「おめえにはおめえの理屈があるさ」
「きいたふうな口をききやがって、おぎんやおたい、お幸やおまさのことはどうなんだ、てめえにくどきおとされて、身を任せて、棄てられて、泣きをみているあの女たちのことはどうなんだ」
「そいつはおめえにゃあわからねえ」
「あの女たちのことはどうなんだ」と男はたたみかけた、「四人だけじゃねえ、ほかにもっとあるだろう。そんなにも弱い女たちに泣きをみせて、それでてめえは非道じゃあねえというのか」
 裏で屋根瓦の割れる音がした。やみかかっていた風がまた烈しく、戸障子を揺りたて、庇をかすめてするどく咆えた。
「そうだ、非道かもしれねえ」三之助は低い声で云った、「けれどもしようがなかった、自分でもどうにもならなかったんだ」
「そう云えば済むと思うんだな」
「おめえにゃあわからねえ」
 激しい風の唸りが彼の言葉をさえぎった。そして、そのするどい唸りにまぎれて、一人の娘がこの二階へ巧みに忍び込んだ。佐平と同じように、裏から屋根を廻って来たらしい。その娘は佐平と同じ廊下の端から、もっとすばしこくもっと巧みに忍び込んだ。頭からずぶ濡れで、手にかいを持っていた。その娘は足音をぬすむように、西の端の六帖へ入ったが、歩くにしたがって畳が濡れた。
「おらあだますつもりはなかった、一人も騙しゃあしなかった、みんな本気だったんだ」三之助はまた眼をつむった、「どの一人とも本気でいっしょになった、けれどもみんないけなかった、いっしょになってしばらくすると、どうしても別れずにはいられなくなるんだ」
「飽きがくるからよ、すぐ女に飽きがくる、そして古草鞋わらじのように棄てちまうんだ」
「そうじゃあねえ、違うんだ」
「知ってるぞ」男がどなった、「あの娘もひっかけるつもりだったんだろう、てめえがさっき云った船七の娘、おしげというあの娘もよ」
 三之助は首を振った。隣りの部屋でがらがらと音がした。積んである家具のなにかが、家の震動で崩れたような音であった。


「そうだ、少しわかってきた」三之助はふと眼をあいた、「おしげのことを云われたんで、自分にもよくわからなかったことが、わかってきた」
こじつけたって底は割れてるぞ」
「おしげとは古い馴染だ」三之助の声はやはり低かった、「こっちは川筋のやくざな船頭、向うは大きな船宿の娘だった、おれがこんな人間だということはよく知っていて、知っていながらおれにじつを尽してくれた、口では云えねえ、また云いようもねえほどの、じつを尽してくれた、おかみさんにしてくれと云われたこともある、だがおらあ、……おらあいつもそっぽを向いてた、涙の出るほど有難えと思うときでも、おらあ薄情にそっぽを向いてた」
「もっと相手をのぼせさせるためにか」
「誰より好きだったからだ」三之助は静かに首を振った、「ほかの女とは違うんだ、まるで違うんだ、この娘に手を出しちゃあならねえ、おらあいつも自分にそう云ってた、どんなことがあっても触れるなってよ、……そうなんだ、おらあ身も世もねえほどおしげが好きだったから、おしげには手出しをしなかったんだ」
 廊下へざっと波がかぶって来た。強くなった流れのために、家はぐらぐらと絶えず揺れ、家の周囲や階下の方で、水のみあう音が高く、ぶきみに聞えだした。
「そうなんだ」と三之助は云った、「あの女たちはどこかしらおしげに似ていた、性分はそれぞれ違っているが、みんなどこかしらおしげに似たようなところがあった、けれどもそうじゃあなかった、いっしょになって暫くすると、そうでねえことがわかった、おたいもお幸も、まさ公も、……似たところなんぞこれっぽっちもありゃあしねえ、まるで違う、まるっきり違ってるんだ」
「それがあの女たちの罪か」
「そのうえおらあ気がつくんだ」三之助は独り言のように云った、「あの女たちは、おれといっしょにいるとだめになる、まるでおれのやくざな火が移りでもするように、だんだんとだめな女になるのがわかるんだ、それが堪らなかった、どっちの罪かあ知らねえ、それがおれには見ていられなくなる、どうにも別れずにはいられなくなるんだ」
「笑あせるな」男は喚いた、「云わせとけばいい気になって、洒落しゃれたようなことをぬかすな、この野郎」
 男は平手で三之助の頬を殴った。そのとき隣りの部屋から、娘がそっとこちらへ出て来た、佐平という男には見えなかった。三之助には見えた。佐平はそっちへ背を向けていた、彼は片手で三之助のえりつかみ、さらに三つばかり平手打ちをくれた。
「泥棒にも三分の理というが、てめえのは一分の理もありゃあしねえ、自分ひとりが善いつもりでいやあがって、そんな根性だから」
 三之助があっと云った。
 娘は男のうしろへ忍び寄って、持っている櫂をふりあげたのである、男のうしろに立って、両手で大きくふりあげて、力まかせにその櫂を打ちおろした。三之助は予想もしなかった、娘がそんなことをするとは思いもかけなかった。
「いけねえ、おしげさん」
 吃驚びっくりして叫んだが、櫂はもう打ちおろされていた。三之助のあっという声で、ふり向こうとした男の頭の上へ、……鈍いいやな音と共に、男はうっといって横へのめった。娘はさらになぐった、二度、三度、後頭部と背中を。力いっぱいの撲り方であった。男は俯伏うつぶせに倒れて動かなくなった。
「なんてことをするんだおしげさん」
「刃物はなくって」娘はあえいだ、「あんた短刀を持ってたんでしょ」
 娘は部屋の中を見まわした。のぼせあがって、狂ってでもいるような眼だった。かたちのいいうりざね顔の、濃い眉が逆立ってみえた。小麦色のなめらかな肌で、縹緻きりょうもかなり際立っている、強い気性らしいが縹緻はよかった。娘は短刀をみつけた、三之助のものだろう、それは部屋の隅に放ってあった。娘はそれを抜いて三之助のところへ戻った。
「堪忍して、三ちゃん、堪忍して」娘は三之助の繩を切りながら云った、「あんたが此処にいるって、この男に教えたのはあたしなの、あたしがこの男に教えたのよ」
 娘の眼から涙がこぼれ落ちた。廊下へかぶる波はまえよりひどくなり、飛沫しぶきが二人のところまで飛んで来た。娘は極度に昂奮こうふんして、手許てもとがきまらず、そうでなくとも丈夫な捕繩は、なかなか切れなかった。
「あたしお幸さんのことで嚇としていたの、あんたがお幸さんをれて逃げると思ったのよ」娘はおろおろと云った、「此処でお幸さんと逢って、それから二人で一緒に逃げる、そう思って、嚇となって教えちゃったの、堪忍して三ちゃん、あたしを堪忍して」
「いいんだ、それでいいんだよ、おしげさん」
「よかあない、あたしばかだった、ばかでめくらつんぼだった、いま向うであんたの云うことを聞いて、自分のばかがすっかりわかったの、こんなに長いことつきあっていて、あたし本当のことはなんにも知らずにいた、まるでつんぼめくらのように、なんにもわからずに泣いてばかりいたのよ」
 繩が切れた。娘は繩をかなぐり捨てて、三之助にとびついた。
「堪忍して三ちゃん」娘は三之助の首へ両手で抱きついた、「あたし嬉しい、……あんたの本当の気持がわかって嬉しい、もうこのまま死んでも本望だわ、一緒に死なせて、三ちゃん」
「だめだ、いけねえ、おしげさん」
 三之助は娘を押しのけた。娘の両手をふり放して立ちあがった。娘は悲鳴のように叫んだ、すがりつこうとしたが、三之助は倒れている男の側へいった。
「こんなことをしちゃあいけなかった、この男に罪はねえ、この男は役目で来たんだ、おらあ初めから死ぬつもりだったし、今でも死ぬつもりでいる、だがそれはおれ独りのことだ」
「あたし離れない、あたし三ちゃんから離れやしないわ」
「だめだ、それだけはだめだ」三之助は気絶している男を抱きあげた、「どんなことがあってもおめえを死なせるわけにゃあいかねえ、この男も助けなくっちゃならねえんだ、どうしてもだ、おしげさん」
 三之助は男を抱いたまま廊下へ出た。娘はとびかかって叫んだ、泣きながらしがみついた。三之助はするようにさせて、男の躯をいちど手摺へ凭せかけ、自分が屋根(そこはもう殆んど水に浸っていた)へおりると、こんどは肩に担いで、足さぐりに裏のほうへ廻っていった。娘もそのあとからゆこうとして、ふと思い返し、戻って来て、投げだしてある短刀を拾った。そしてすばやく、いま三之助の出た方とは反対の東の端から屋根へおりて、裏へと廻っていった。
「おしげさん」三之助の叫ぶ声がした、「来てくれ、来なくちゃだめだ、おしげさん」
 そして裏屋根の方で、瓦を踏み割る音がし、三之助が喚いた。娘の悲鳴も聞えた。それは風雨に遮られて判然としないが、いかにも懸命な、切迫した声であった。
「お願いよ」娘が絶叫した、「一生のお願いよ、……三ちゃん」
 その声はずっと遠のいた。強い力でぐっと引離されでもするように、すっと遠のいて、もういちど聞えた。
「――三ちゃん」
 三之助が一人で戻って来た。濡れ鼠のようになって部屋へ戻って来ると、そのままそこへ仰向けに倒れた。
「これでいい」彼は呟いた、「これでいいんだよ、おしげ、……あきらめてくんな」
 彼は荒く息をしながら、左の腕で顔をおおった。するとその二の腕の内側に、大きな掻き傷が二すじできて、血のにじんでいるのが見えた。彼はぐらぐらと頭を揺った、廊下の外で水のはねる音がし、がぶっという声が起こった。続けさまに水がはね、苦しそうに人の喘ぐのが聞えた……三之助は首をもたげた、するとまた水がはねた。彼はとび起きて廊下へ出た、覗いてみると、廊下の西の端に人の手が見えた。その手は危なく戸袋にかかっているが、躯は水の中にあった。三之助は駆けていって、その手を掴んだ。それはおしげというあの娘であった。
「どうしたんだおしげさん、どうして……」
 彼は絶句した。水の中にある娘の躯は裸であった。白いさらし木綿の腰のもの以外にはなにも着ていなかった。泳いで来るために裸になったのであろう、白い腰のものだけが、水の中でひらひらしていた。
「あの人は息を吹き返したわ」
 娘は激しく喘ぎながら云った。三之助に助けあげて貰いながら、両手で三之助にしがみつき、苦しそうに、二度ばかり水を吐いた。
「息を吹き返したわよ、あの人」云いながらおしげは泣きだした、「あの人だいじょぶよ、大丈夫助かってよ、三ちゃん」
 三之助は娘を抱いて、元の六帖へ来て、抱いたままどしんと坐った。その震動で、東側の壁が崩れた。湿って緩んでいた壁が、上から崩れ、さらに大きく崩れ落ちた。
「一緒に死なせて、一緒に」娘は泣きながら叫び、裸の両腕で三之助の首に抱きついた、裸の胸を三之助の胸へ押しつけながら、身もだえをして叫んだ、「あんたがいなくちゃ生きていられない、あんたが死ねばあたし独りでも死ぬつもりよ、三ちゃん、ごしょうだから一緒に死なせて」
「わかったよ、おしげさん」三之助はうわ言のように云った、「勘弁してくれ、悪かった」
 三之助は片手で娘の背中を撫で、娘の頬へ乱暴に頬ずりをした。家がぐらっと大きく揺れ、二人はいっそう強くお互いを抱き緊めた。まるくつややかな娘の脇腹が波をうつようにひきつり、濡れた晒木綿の絡みついた足が、まるで死の痙攣けいれんのように斂縮れんしゅくした。
「うれしい、三ちゃん」
 偶然に二人の唇が触れ合った。そのとき家ぜんたいが宙に浮いた、ふわっと、まるで宙へ浮きあがるように感じられ、柱やはりがぶきみにきしみ、大きく揺れたと思うと、家は西側の方へ、ずずっと三尺ばかり傾いた、そちら側の土台が落ちたのであろう、積んであった家具や箱などが音をたてて転げだし、抱き合っている二人も倒れそうになった。
「おれは考え直した、おしげさん」三之助は顔を引き離して云った、「このまま死ぬなら、一緒に死のう、けれども、死ぬときめるのはよそう、死ぬかもしれないが、助かるかもしれない、いいか、もしも助かったら、二人で生きるくふうをしよう、わかるか」
 娘は喘ぎながら頷いた。家が傾いたので、水はずっと隣りの部屋まで押して来た、水に浮いた家具が互いにぶっつかりあい、障子の折れる音がした。
「このようすじゃあだめだろう、もう死んだも同然だ、もし万が一、助かるとしたら、新しく生れ変ったようなもんだ、そう思わねえか、おしげ
「そう思うわ」娘は三之助の胸へ顔を埋めた、「あたしあんたのするようにするわ、死ぬにしろ生きるにしろ、あんたと一緒でさえあったら本望よ」
「ああもし助かったら」三之助は娘を抱きすくめた、「もし助かったら、こんどこそ」
 家がまたひと揺れして、ぐらっと西へ、さらに一尺ばかり傾いた。傾斜が大きくなったので、水がこの部屋まで入って来た。三之助は娘を立たせ、廊下へ出て手摺に捉まった。娘は両手で抱きついていたが、その指は精がぬけたように力がなかった。
「もうひと辛抱だ、おしげ」三之助は娘の躯をひき寄せた、「死ぬか、生きるか、……どっちにしろ長いことじゃあねえ、ほんのもうひと辛抱だぜ、おしげ
「三ちゃん」
 娘はくいいるように男を見あげた。三之助はそれをぐっとひき寄せた。かれらの上へ、雨がざッざッと降りつけ、かぶって来る波が二人の足を洗った。家のまわりで渦を巻く水のすさまじい音が聞え、空には千切れた雨雲が、低くせわしく、北へと動いていた。





底本:「山本周五郎全集第二十四巻 よじょう・わたくしです物語」新潮社
   1983(昭和58)年9月25日発行
初出:「週刊朝日新秋読物号」朝日新聞出版
   1952(昭和27)年9月
※「三之助」が「佐平」に呼びかける時の「親方」と「親分」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2021年10月27日作成
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●表記について

「舟+覧」    133-下-3


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