枡落し

山本周五郎





 ――ねえ、死にましょうよ、とおうめが思いつめたように云った。二人でいっしょに死にましょうよ、ねえ、おっ母さん。
 表通りから笛やかねや太鼓の、にぎやかな祭囃まつりばやしが聞えてきた。下谷御徒町したやおかちまちの裏にいたときで、秋祭の始まった晩のことだった。
 ――あたし独りで死ぬのは怖いの、ねえ、おっ母さんもいっしょに死んで。
 あのお囃しは備前びぜんさまのお屋敷の、こっちの角にある屋台でやっているのだ、と仕事をしながらおみきは思った。ここへ移って来てから五年とちょっとのあいだに、親子心中が三度もあった。今年の春あんなことがあってから、自分も娘といっしょに死んでしまおうと、幾たび考えたかわからない。あたしたち貧乏人は、どうしてすぐに死にたがるのだろう、生きているより死ぬほうが楽だと思うからだろうか。本当に、生きているよりも死ぬほうが楽なのだろうか、とおみきは思った。
 ――町をあるいていると、みんながあたしの顔を見るの、あれは人殺しの子だって、あそこへゆくのは人殺しの娘だよって、そういう眼つきでじろじろ見るの、あたしにはそれがはっきりわかるのよ。
 表通りでは賑やかに、あんなに元気よく祭囃しをやっている。屋台の上の若者たちの、活気にあふれた顔が見えるようだ。そして、ちょっと裏へはいったここでは、悪い父親を持ったために、死のうと思いつめた娘がいる。珍らしいはなしではない、広い江戸の市中では、同じようなことが幾らも起こっているにちがいない。あたしも三十日ばかりまえなら、ことによるとおうめといっしょに死んだかもしれない。けれどもいまはもう死ぬ気はない、生きていられなくなったらわからないが、いまはもう死ぬのはいやだ、生きられる限り生きて、これまで苦労した分を取り戻すのだ、とおみきは思った。
 ――悪いことをしたのは、あんたでもおっ母さんでもないでしょ、とおみきは娘に云った。自分がしもしないことで、世間の眼なんかに恐れることはないじゃないの。
 ――おっ母さんはあの人たちの眼つきを知らないからよ。
 あたしはあの人の女房ですよ、世間の者がどんな眼で見、どんなふうに耳こすりをするか、知らないとでも思ってるの、女房のあたしを見る眼が、娘のおまえを見るよりとげがないとでもいうの、とおみきは思ったが、口には出さなかった。
 ――死のうと思えばいつでも死ねるわ、でもいったい死んでどうなるの、ごらんよ人殺しの女房と娘が、世間に顔向けがならなくなって死んだって、そこらの人たちの笑い話になるだけじゃないの。
 ――それでもあたし、もう生きているのがいやになったのよ、おうめは泣きだしながら云った。これまでだって、人並に生きたような日はいちんちもなかった、あたしもうたくさんよ。
 ――ここを出てゆくのよ、とおみきは仕事を続けながら静かな口ぶりで云った。引越しをするの、知っている者のいない土地なら、いやな思いをすることもないでしょ。
 ――だって人別にんべつは付いてまわるでしょ、それに仕事のほうはどうなるの。
 ――むずかしいわね、おみきは娘にではなく、独り言のように云った。むずかしいけれど、二人で死ぬことに比べれば、やってみる値打はあるでしょう、あたしすぐ差配さはいさんに相談してみるわ。
 差配の吉兵衛は首をひねった。というのは、それまでに三度おみきは町奉行所へ呼び出された、町役ちょうやくと家主が付添いで、二度は与力よりきの吟味だったが、三度めには壱岐守いきのかみとかいう町奉行がしらべに当り、おみきを叱りつけた。それほど激しい口ぶりではなかったけれども、はっきりした言葉でおみきを責め、叱りつけた。――差配は家主からそのことを聞いていたので、移転させていいものかどうか迷ったらしい。だが、家主や町役に事情を語り、行先さえはっきりしていればよかろう、ということになり、十月のはじめに、この浅草猿屋町へ移って来たのであった。引越しは差配のよろず屋藤吉と、「伊予巴」の職人の芳造が手伝ってくれたが、町内の人たちは知らぬ顔で、一人として手を貸そうという者はなかった。
 町内には親しくつきあっていた家族が少なくない。良人おっとの千太郎がお繩になるまで、こっちの衣食を削っても、できるだけのことはしてやった。むろんたいしたことではない、子が生れてもおむつのない夫婦に、自分や娘の古浴衣ふるゆかたをやったり、仕事にあぶれて晩めしの食えない家族に、かゆにでもと一合二合の米を持っていったり、いわしの安いときには、それさえ買えない人たちに少しずつ分けたり、手作りの牡丹餅ぼたもちこわめしを届けたり、下の物さえないというかみさんに、古くて洗いざらしではあるが、自分や娘の物をそっと持っていったりした。田舎から出て来て、勝手道具をなに一つ買えない家族のために、欠けてはいるが土釜どがまや、茶碗、皿、はしなどをそろえてやったこともあった。たいしたことではない、口に出して云えばこっちが恥ずかしいようなはなしだし、そうしようと思えば誰にだってできることだろう。誰もしてやらないからしてやったまでで、こっちにそれを誇ったり、自慢したりするほどのことではなかった。――けれども、こっちは亭主の千太郎が悪くぐれていて、自分や娘の内職かせぎはみんなかすっていってしまうし、しばしば夜具や着ている物までいでゆくという、はなしにもならない状態の中でしたことであった。云うまでもないことだが、それを恩にきせたり、有難がってもらおうなどという気持は爪の先ほどもなかった。ただ、しなければならないからそうしたまでのことであるが、亭主の千太郎が人殺し兇状でお繩になったとたん、まるで風見車が北から南へ変ったように、一人残らずそっぽを向いてしまった。――引越しによけいな手はいらなかった。古い茶箪笥ちゃだんすと、僅かな勝手道具と、柳行李やなぎごうりが二つと、古夜具が二た組しかない。あとは亭主の千太郎がいつも持ち出してしまうので、差配の藤吉と「伊予巴」の芳造だけでも、充分に手がたりた。実際には少しも手伝ってもらう必要はないのだが、それまでのことを考えると、ひと言の慰めもいたわりの言葉もなく、そっぽを向いたままで、さも「これで厄払い」をしたとでも云いたげな人たちに、おみきは肝の煮えるようなおもいをしたものであった。
 ――そんなふうに思ってはいけない、とおみきは心の中で自分をなだめた。みんな自分が大切なのだ、田舎からこの江戸へ出て来て、どこでどのようなくらしにありつけるか、この江戸で、はたして生きてゆけるかどうか、という考えでいっぱいなのだ、人のことなど構っていられないのが、あたりまえじゃないかと。

「おっ母さん」とおうめが云った、「家主さんがおいでですよ」
 おみきは仕事の手を休めて、振り返った。家主の喜六があががまちのところに立って、着物のえりをくつろげ、片手で顔を拭きながら、扇子で胸元をあおいでいた。十二月だというのに、堅太りの顔は油でも塗ったようにぎらぎらと、赤く張りきっていて、こっちまでが暑くなるように思えた。
「あの角のね」と家主の喜六が云った、「今月いっぱいで空くので、そのあと、あんたたちにはいってもらいたいと思うんだがね」
「あの角というと、版屋さんのいるうちですか」
「ええ、あれがねえ」喜六は顔の汗を拭きながら云った、「じるし猥本わいほんを刷っていたことがわかって、ところ払いになったのは、おとついのこったがね、それで、そのあとへおまえさんにはいってもらおうと思うんで、それで来たんだがね」
 どうだろうと云われて、おみきは返辞に困った。その家はこのろじを出た横丁の角で、部屋も三部屋あり、井戸はすぐ裏で、西側にむくの樹が枝を張っていた。いかにも住みよさそうではあるが、店賃たなちんも高いだろうし、角家かどいえで自分たち親子には晴れがましかった。
「おらおめえさんたちにはいってもれえてえんで、店賃はここと同じでいいんだ、遠慮するこたあねえんだよ」
「考えさせて下さい」とおみきは云った、「御親切はよくわかりますけれど、御存じのとおりの貧乏ぐらしですから」
「だから店賃はここと同じでいいって」
「店賃も店賃ですけれど」
「あとは云いなさんな」と喜六は片手で顔の汗を拭き、片手で胸をあおぎながらさえぎって云った、「よろず屋からあらましのことは聞いているんだ、おまえさんたちが世間を狭くしている気持はわかるが、それにもほどということがある、いつまでそんなにいじけていたってなんの役に立つもんじゃあねえ、おんめさんももうとしごろだし、稼ぎは男にも負けねえほどあるんだ、もう大手を振って世間づきあいをしてもいいじゃねえだろうか」
 おみきは眼が熱くなり、俯向うつむいて、両方の眼がしらをそででぬぐった。――家主の繩屋喜六は、御徒町の差配吉兵衛の幼な友達であり、吉兵衛の世話で、この長屋の一軒を借りたのであった。そのとき人殺し兇状で、伝馬てんま町のろうに入れられている亭主のことも話したのだろう、六十日ほど経つ今日まで、ずいぶん親切にしてもらった。亭主が人殺し兇状で入牢していることなども、決して人にはもらさないし、親子の過去についてはなにも話してはいなかった。繩やむしろわら束などを売るのがしょうばいで、五尺そこそこの肥えたからだで、十二月だというのに吹き出るような汗をかく躰質たいしつだった。癇性かんしょうというのだろうか、いつも赤い顔をして怒りっぽく、いちにちじゅうどこかでどなり声が聞えているというふうであった。


 そのとき「伊予巴」の芳造がはいって来、家主さんの云うとおりにするがいいじゃないか、と云った。彼のとしは二十三歳、小僧から伊予巴に奉公し、そのころからの出入りで、おうめとは兄妹のように仲が良かった。膚は浅黒く、せがたで眉が濃く、いかにもきかぬ気らしい顔つきをしているし、温かい気持とは反対に、態度や口ぶりはずけずけと荒っぽく、無遠慮であった。
「せっかく家主さんがそう云ってくれるんだ、それにここじゃあ誰もあの事を知ってる者はねえんだし、いつまで肩をすぼめてくらしてるこたあねえじゃねえか」
「でもねえ、女世帯おんなじょたい角店かどだなに住むなんて、少し晴れがましすぎると思うから」
「女世帯だって誰の世話にもなっているわけじゃあねえ」芳造はいきまくように云った、「じみちに人一倍よく稼いでいるんじゃあねえか、少しはおんめちゃんのことも考えて、世間なみのくらしをしてもいいじゃねえか」
「そんなにぽんぽん云うなよ」喜六は苦笑いをしながら芳造に云った、「おめえはたしべっこう屋の職人だとかいったな」
「日本橋本町三丁目の伊予巴の職人です」
「よくここの面倒をみてくれるようだな、家主のおれからも礼を云うぜ」
「よしてくんな、こっずかしい、こっちはまだ半人めえ、ここのおかみさんは江戸に幾人という腕っこきだ」
「芳っさん」とおみきが手で叩くまねをした、「そんなばかなこと云わないで」
「話はきまった」と喜六が胸を煽ぎながら云った、「引越しはあさって、掃除をして待ってるぜ」
 そしておみきの返辞は聞かずに、芳造の肩を叩き、「いい娘だな」とささやいて出ていった。芳造の浅黒い顔がちょっと赤くなり、眼をぱちぱちさせながら、上り框に腰をおろし、水を一杯くださいと云った。そしておうめが立ってゆくうしろ姿をちらっと見、しんけんな表情でおみきに云った。
「じつは、おかみのお触れで、たいまいを使っちゃあいけねえことになるらしいんです」
「ええ」とおみきうなずいた、「贅沢ぜいたく禁止とかで、たいまいを使ってはいけないという、お触れが出るって、湯屋でちょっと耳にしました」
「そうだとすると」芳造は頭をき、うしろ首をでた、「本当にそうなるとすると、おばさんの腕がすたっちまうことになる、おらあそれにがまんがならねえんだ」
 おうめが湯呑に水を持って来た。彼はひと口にそれをあおって、「もう一杯」と云い、おうめは勝手へ去った。
「ねえ芳っさん」おみきはなだめるように云った、「三年まえにも金箔きんぱくが御停止になったでしょ、色刷りの錦絵にしきえが御停止になったり、縮緬ちりめん下布したのが御停止になったり、そのときどきでお上からいろいろ御禁制が出たわ、それでも一年か二年も経てばうやむやになってしまうし、御禁制の裏をくぐって、こっそり仕事を続けている者も、少なくないことは知ってるでしょ」
「そこなんだ」と芳造は云った、「おらあおばさんにそんな事をしてもらいたくはねえ、たいまいの代りに青海亀あおうみがめを使ったらどうかと思うんだ」
「聞いたことがないわねえ」
「おっ母さん」とおうめが云った。
「いいんだいいんだおんめちゃん」と芳造は手を振った、「青海亀ってのはねおばさん、赤海亀っていう駄物と違って、※(「王+毒」の「毋」に代えて「母」、第3水準1-88-16)たいまいにいちばん近い甲羅を持ってるんだ」
 でも青海亀の甲羅はの形も、たいまいとはまるで違うじゃないの。この際それもしようがねえんだよ。あたしは※(「王+毒」の「毋」に代えて「母」、第3水準1-88-16)瑁しかやりません、たとえ御禁制が出ようが出まいが、あたしは自分の仕事を続けてゆくつもりです。
「それじゃあ」芳造はちょっと口ごもった、「お二人のくらしをどうなさいます」
 おみきは胸を叩いた、「その心配はないの、まだ半年ぐらいはだいじょぶよ」
「そのあとだよ」
「そのあとならたいまいの御禁止も解けるでしょ」おみきは振り向いて娘に云った、「お茶と栗饅頭くりまんじゅうがあったでしょ」
「おらあいそぐんだ」と云って芳造は腰をあげた、「じゃあ大丈夫なんですねおばさん」
「こっちはだいじょぶよ、本当にいそぐことなんかないのよ」とおみきは云った、「――御禁制だっていつまで続くものじゃないでしょ、いまも云ったとおり、たいてえな御禁制が、いつのまにかうやむやになってしまうわ、世の中ってたいていそうしたものなのよ」
「おばさんには口返しができねえや」芳造は頭のうしろを掻いた、「――念には及ばねえだろうが、そのあいだに、もしも困るようなことがあったら、うちの親方がなんとでもするからって」
「いいの、いいのよ」とおみきは片手を振って云った、「そんな心配はちっともないって、親方に云ってちょうだい」
「なんだか、どうも」と芳造はまた頭のうしろを掻いた、「小僧の使いみてえになっちまったが、とにかくそういうことだから」
「有難うよ、親方によろしく云ってちょうだい、おこころざしは本当にうれしゅうございましたってね」
「なんだか引込みがつかねえが、それじゃあ親方にそのとおり云っておきます」
「おうめ」おみきは娘に眼くばせをした、「その包みを持ってその辺まで送っていっておあげ」
 それにゃあ及ばねえ、と芳造は慌てて云ったが、おうめは待っていたように、包みを持って立ちあがった。
「困るよ」と芳造は強い調子でなく云った、「女といっしょにあるいたりすれば、町の連中のいい笑い者になるばかりだ」
「ここは浅草だよ芳っさん」とおみきが微笑しながら云った、「御徒町とちがって、若い二人伴れなんか珍らしいこっちゃありゃあしない、いいからまあいってごらんなさいよ」
 二人が出てゆくのを、うっとりした眼で見送ってから、おみきは仕事台に向かって坐った。おうめは十七、芳造は二十三。あたしとあの人とは七つ違いだった、七難九厄などということは信じもしなかったけれど、やっぱりそれが当ってしまった。――あの人も初めからあんなではなかった。お父っつぁんに見込まれて養子になり、あたしと夫婦になったころは、まじめで仕事熱心で、酒もタバコも口にしない、素っ堅気な職人だった。それが、お父っつぁんが亡くなってからぐれだし、仕事はそっちのけで酒びたりになり、悪遊びに浸りきるようになった。
「どうしてだろう」とおみきは仕事を続けながらつぶやいた、「もともとそういう性分で、猫をかぶっていたのが、お父っつぁんが亡くなったので本性をあらわしたのだろうか、それとも、――なにかほかにわけがあったのだろうか」
 そのじぶんは日本橋こく町に店があり、職人も七人、下女、飯炊きなど、十一人の家族であった。父は新五郎、母はなかった。おみきが三歳のとき死んだそうで、おみきは顔も覚えてはいない。父はおみき溺愛できあいした。おまえはおふくろにそっくりだ、と云っては晩酌の向うに坐らせて、酒やさかなべさせた。おみきは五歳ぐらいから、酒の味に馴染んだものだ。父は女にも博奕ばくちにも手は出さなかった。母がどんな人だったかおみきは知らない、父はひとことも語らなかったし、近所の人たちも決して母のことを聞かせてはくれなかった。けれども、黙ってさみしそうに酒を飲んでいる姿を見ると、いつまでも父の心は母のことでいっぱいなのだ、としか思えなかった。
 ――おまえはおふくろにそっくりだ。
 という父の口ぶりにも、ぜんの向うに坐らせて酒をすすらせたり、肴を喰べさせるようすにも、そこに亡き母のおもかげを追っているように感じられたものだ。

 おみきが十六歳のとき、千太郎が養子にきまり、まもなく二人は祝言をした。彼は二十三歳、職人なかまのつきあいもせず、仕事だけに精いっぱいうちこんでいた。肉の緊った小柄な躯で、口かずが少なく、いくらかぶあいそなところがいかにも男らしくて、おみきも嫌いではなかった。
 父は肝の臓が悪いそうで、医者から酒を節するように云われた、焼酎しょうちゅうを薄めたもののほうがまだいいと。それから米のめしやうどんをやめて麦粥とか、鳥の卵などを常食にするほうがよいとも。しかし父は医者の忠告など聞くようすもなく、酒はますます量が増すばかりだし、制限された食物も好きなだけ喰べた。
 ――人間はいつかなにかの病気で死ぬものだ、先月は将軍家の子だって亡くなったろう、と父は口ぐせのように云った。それに、酒は人間が作りあげたいちばんたっとい宝物だ、毛物けものにも鳥にも魚にも作れやあしなかった、酒が人間の害になるなんてえのは、えせ医者のたわごとよ。
 人間はいつかなにかの病気で死ぬものだ、どんなに養生に凝っても、人間は死ぬことから※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)のがれることはできないのだ。父はいつもそう云っていた。そして四十歳そこそこで、吐血をして死んだ。医者は酒毒だと云ったけれど、おみき定命じょうみょうだと心の中で思った。父の心は亡くなった母のことでいっぱいだった、あの不養生も早く母のところへいきたいためだったのかもしれない。
 千太郎が跡目を継ぐと、職人たちはみな店から出てしまった。
 ――あんな朴念仁ぼくねんじんの下で働かされちゃあ息の根が止まっちまう。
 職人たちはそう云って、半年ばかりのうちにみんな去っていってしまった。


 角店へ移ってから五六日して、繩屋喜六がやって来た。
「どうしたんだね」と彼はふきげんな口ぶりで云った、「この出窓をふさいだら、うちの中へ陽がはいらないじゃないか、どういうつもりなんだね」
「仕事のためなんです」とおみきは伏眼になって答えた、「あんまり明るいと、仕事がしにくいんです」
 喜六は上り框に腰を掛け、タバコ入れと燧袋ひうちぶくろを出しながら、太い溜息ためいきをついた。
「おらあまた」と彼は云った、「まだ御亭主のことを恥じて、せっかくの出窓まで閉めてしまったのかと思った」
 おみきは「まさか」と口の中で云った。
「こんなことをきくのはてれくせえが」と喜六はタバコをふかしながら云った、「窓が明るくっちゃあぐあいが悪いって、いったいどんな仕事なんだね」
「そんなにむずかしい事じゃないんですよ、ちょっとあがってみて下さいな」
 おうめにお茶をれて、と云いながら、おみきは喜六を家へ招き入れた。その家は六じょうと四帖半二た間に、かわやと勝手という造りだった。裏長屋は総後架そうこうか(いまでいう共同便所のようなもの)といって、厠は二十軒に一つしかない。ここへ来てから、おみき親子のもっとも困ったのはそのことだった。それだけでもこの角店へ移ったことは有難いことであった。
 出窓のある六帖には茣蓙ござを敷いて、腰高のがっちりした台と、脇に道具棚が二つあった。おみきは台に向かって坐り、亀の甲のような物を台の上に固定し、道具棚から薄刃でゆるい三日月なりの刃物を取った。三日月なりというよりもっとゆるやかで、両端に握りが付けてあり、刃は極めて薄く、鋭く磨きあげられてあった。
たいまいの甲羅は十三枚重なっているんです」とおみきは云った、「これを一枚ずつに剥がして、のあるところと、斑のないところを切り分けるんです」
 それから押しをして干し、鼈甲屋べっこうやへ渡すのであるが、斑のある部分と斑のないところを分けて切るところに、小刀さすがの使いかたがあるのだ、とおみきは云った。父が江戸でも指折りの人だったし、おみきも小さいころから見よう見まねに手順を覚えた。そして父が亡くなったあと、出ていった職人たちの、台と道具棚を取りだして、自分もこの仕事をやり始めた。
「いま考えると、それがいけなかったのかもしれません」とおみきは云った、「わたしの作った生地が、鼈甲屋に売れるようになると、まもなくうちの人はぐれだしたんです」
「強い風のために、枝の折れる木もあり、びくともしない木もある」と喜六はタバコをつけ替えながら、呟くように云った、「風のためじゃあねえ、木のたちだと思うがな、へたなたとえだけれど」彼はちょっと渋い顔をした、「――人間はさまざまだ、稼ぎのある女房を持つと、亭主はだめになるっていう、俗に髪結いの亭主ってやつだが、そうばかりでもないんだな、あっしの知っている者の中にも、二人でよく稼いでいる夫婦が幾組かある、つまるところ、人間それぞれの性分じゃあねえかな、どっちにしろ、おまえさんのせいでねえことは慥かだよ」
「有難うございます」とおみきは頭をさげた、「そう云って下さると気が楽になります」
 おうめが茶を淹れて来、喜六はそれをひとくち啜ると、自分が云い過ぎたことを恥じるように、用があったらいつでもいって来てくれ、と云いながら去っていった。
「人間はさまざまだって」とおみきは茶を啜りながら、ぼんやりと呟いた、「――そうかもしれない、そうではないかもしれない」
「なあにおっ母さん」とおうめが云った、「なにがそうではないっていうの」
「なんでもないのよ」おみきはちょっと髪を撫で、そして娘の顔を見た、「――いつかきいてみたいと思ったんだけれど、あんた芳っさんが好き、それとも嫌い」
 おうめは答えずに、茶道具を片づけた。その動作のあいだに、「好きよ」と恥ずかしそうに囁いた。おみきは呼びかけようとして急にやめた。おうめも父のためにどんなに苦労をしてきたか、忘れてはいない筈であるし、人間の性分はさまざま、どんな注意や意見をしてみたところで、実際の役にたつことはないだろう。芳造はいい男らしい、女房に泣きをみせるようなことはないと思うが、自分の亭主の千太郎も初めはそうだった、それがぐれだしたのは、自分が稼ぎだしたからではないかと思うが、家主の喜六に云わせれば、やはりその人間によるのだという、だとすれば、娘になにを助言することがあるだろうか。
「たいていの夫婦はうまくいっている」とおみきは呟いた、「あたしたちの場合は珍らしいのだろう、本当にひどいとしつきだった」

 ――そのほうは婦道ということを知っているか、と町奉行のなんとか壱岐守という人が云った。夫婦は一心同躰どうたい、良人がぐれだしたとみたら、命をけてもそれを止め、戒め励まして、常道に返らせるのが妻のつとめではないか、そのほうは千太郎の悪事を知っていた筈だ、それと気づいたとき、蹴殺けころされてもいいという覚悟でいさめたら、こんなことにはならなかったとは思わないか。
 ほかにも云われたことはあるが、要点は女の道に外れていた、ということであった。そうかもしれない、そういう点では自分はいい妻ではなかったかもしれない。けれども、あの人はいさめたくらいで納得するような性分ではなかったし、こちらも二十三になるやならず、父に溺愛されて育ったから、ぐれたあの人をどうやって引戻せるか、なんの知恵も思いうかばず、まったく途方にくれるばかりであった。おまけに六つになったばかりのおうめに乱暴でもされてもし間違いでもあっては、という心配もあった。
 ――千太郎の罪の幾分かは、そのほうにもあるということを忘れるな。
 町奉行はそうきめつけた。夫婦となり、いっしょに生活していれば、善悪ともに共同の責任がある、それはそのとおりであろう、けれどもそれが全部だろうか、人はさまざまだと家主が云った。夫婦のかたちもいちようではない、どんなにうまくいっている夫婦でも、或るときひょっと狂ってしまうことがある。一心同躰というのは言葉で、本当には育ちも性分もまちまちな、女と男がいっしょにくらしていれば、いい事ばかりはないのが自然であろう、それがうまく納まるか、だめになってしまう場合もある。それにしても、自分たちの場合はひどかった。
 石町の家は父の物であった。千太郎はいつかそれも売ってしまい、おみきやおうめの着物まで売るようになった。鼈甲の生地作りはいい手間賃になる、千太郎はむろんそれを知っていて、毎日のように酒をせびり、銭をしぼった。ちょっと拒んだりすれば、障子ふすまを蹴やぶったり、火鉢をひっくり返したりしてあばれた。妻や娘には手を出さなかったが、千太郎があばれだすたびに、二人ははだしで逃げだすより仕方がなかった。
 それが十幾年も続いたのだ。ぐれだしてからの千太郎はおみきに触れたこともなく、おうめを抱いたこともなかった。金の必要なとき帰ってくるだけで、あとは寄りつきもしない。そしてたまに帰ってくれば、金や金になりそうな物を奪ってゆくのである。近所でも評判になり、町役人からもたびたび注意をされた。
 ――なにが原因だろう、とおみきはいつも考えていた。なにが気に入らないのだろう、あたしを嫌いなのだろうかと。じかに幾たびかきいてもみたが、千太郎はなにも答えなかった。いってみれば縁もゆかりもないならず者が、ときどき踏み込んで来ては、うちの金や物をさらってゆく、というかたちであった。いちばん困るのは、千太郎のいないときに、ごろつきのような男が泥酔して泊り込むことで、そういうときには懇意にしていた近所の家へ頼んで、母子が泊めてもらうより仕方がなかった。
 どうにも風儀が悪いので、近所の人たちが町役へ訴えたのだろう、どこかへ移ってくれと云われた。家も自分の物ではなくなったし、しいて居据わる気はなく、まもなく下谷御徒町の裏店へ引越したのであった。
 差配のよろず屋藤吉がたいそうひいきにしてくれ、亭主とは離別して、新らしいくらしを考えなさい、としばしばすすめられた。千太郎のことなら役人に願って、ちゃんと離別させてみせるから、とも云った。むろんおみきにそんな気は爪のさきほどもなかった。男と聞いただけでも、身ぶるいが出るくらいだったのだ。役人がどうしようと、たとえ人別から抜いてしまおうと、千太郎はおみきからはなれはしないだろう。こっちへ移って来てそこそこ五年、あの出来事があってお繩になるまで、千太郎は五日おき十日おきというふうにやって来て、金がなければ物、それも満足な物がなければ、襖障子を蹴やぶったり、貧しい家具を打ちこわしたりして暴れた。
 そして千太郎が人殺し兇状で牢へ入れられると、近所の人たちの母子を見る眼が、冷やかで嘲笑ちょうしょう的な、軽侮するようなものに変った。それまで親しくつきあい、同情したり親切にしてくれたりした人たちがである。これが世の中だ、これが人の心というものだ。おみきは自分の血の一滴一滴でそう感じた。
「おうめにこのことをよく云っておかなければならない」とおみきは呟く、「芳っさんはいい人らしい、十年以上も知っているけれど、働き者で、まじめで、悪いうわさなんぞこれっぽっちもない、伊予巴では誰にも負けない職人になったのに、いまでも小僧のように生地を自分で取りに来る、――うちの人もぐれだすまでは同じようだった、ぐれだすまえまではね」
 あの人のことはもういい、賭場とばで二人を刺し、一人を殺した。ながいあいだの博奕兇状もしらべあげられたし、たとえ死罪にはならなくとも、佐渡へ送られるか遠島えんとうはまぬがれまい。二度と世間へ戻っては来られないだろう。
「いま肝心なのはおうめと芳っさんのことだ、おうめは芳っさんのことが好きだという」おみきは大きく溜息をついた、「向うではもっとおうめが好きなようだ、芳っさんがあんなにきまじめな働き者でなく、世間なみの、――少しは道楽もするような人だったら、安心なんだけれどね、どうしていいか、あたしにはわからない」


「おばさんはそれを心配しているんだね」
 おうめはそっと頷いた。頭は少しも動かさなかったが、頷いたということは、芳造にはよくわかった。
「にんげん堅すぎてもいけず、道楽者でもいけず、むずかしいもんだ」と云って芳造は冷たくなった茶を啜った、「けれどもね、おれたちとおんめちゃんのおばさん夫婦とは、二つ、大きな違いがあるんだ、その一つはおれの育ちさ」
 自分はあんたたちに劣らず、小さいときからひどい育ちようをした、と芳造は云った。彼の場合は父親ではなく、母親のために苦労させられたのだ。彼は玉川在の百姓の子に生れた。上の二人は女、男は彼一人だった。田が三段に畑が一段という貧しい百姓で、みのりのいいとしでも、親子五人のくらしは楽ではなかった。
「おやじは温和おとなしいいっぽうの、酒もタバコも口にしない、ほとけさまみたいな人だった」と芳造は云った、「百姓だけではやっていけないから、玉川でしじみをとったり、季節の川魚をとったりして売りあるいたもんだ、そのあいだおふくろはどうしていたと思う、ひる日なかから村の若い者を呼んで、酒を飲んだり悪ふざけをしたり、唄をうたったりして、のうのうとくらしてたんだ」
 おれが六つ七つになったころには、上の姉二人は出奔してしまった。氷のような玉川の水にはいって寒蜆かんしじみをとったり、それを父といっしょに宿場へ売りにいったりするのに、耐えられなくなったのであろう。それともほかにわけがあったのかもしれない、幼ない彼にはわからなかったが、二人の姉はいなくなり、まもなく、父親も頓死とんしした。
「おれが七つになったとしの正月、川崎の宿しゅくしじみを売りあるいているうち、急に血を吐いて倒れたんだって、――戸板で担ぎ込まれたとき、おふくろは村の若者たちを集めて酒を飲み、陽気に騒いでいたんだ」と云って芳造は唇をゆがめた、「――人間には定命ってものがあるそうだ、おやじは定命だったかもしれない、だがそうじゃあなかったかもしれない、働きづめに働いて、なんのたのしみもよろこびもなく、往来の土の上へぶっ倒れ、血を吐いて死んでしまった」
 戸板でその死躰が運ばれて来たとき、妻は村の若者たちと酒に酔って騒いでいた。しかしそれは珍らしいはなしではないのだし、父の死とは関係のないことだ。芳造はいまでもそう思っていると云った。たとえ母がそのとき慎しくしていたとしても、父はやはり死んだろうからだ。ただそのあと、――と芳造が話し続けようとしたとき、障子の向うで声をかけてから、女中がはいって来た。そして茶道具を片よせ、二人の前へ食膳を据えたのち、おはちをおうめの脇へ置いて、お願いしますと云った。おうめはすっかり戸惑い、顔を赤くして芳造を見た。女中が去ってから、芳造は頷いた。
「こういう店ではね」と彼は云った、「男と女の二人れの客には、気をきかせて給仕をしないものらしいよ、聞いたことだけれどね」
「ではあたしたち、そんなふうに思われてるのね」
めしにするかい」
「話のあとを聞きたいわ、こんなうちへあがったの初めてだし、あたしなんにも喰べられそうじゃないの」
「おれも初めてさ、話には聞いていたけれどな」芳造は苦笑いをした、「けれども、ゆっくり二人で話すのには、どこがいいかわからなかったんだ」
「あんたは市村座の芝居へさそってくれたわ、それでおっ母さんが出してくれたんだけれど、芝居小屋ではいけなかったの」
「らしいな」と芳造はあいまいに答えた、「おらあ猿若町はおろか、浅草奥山の掛け小屋芝居さえのぞいたことはないんだから」
 おうめは眼を伏せた。祖父が生きていたじぶん、おうめは芝居さえあいていれば、市村座と中村座へはいつもれていってもらった。そして、そこで喰べた弁当のうまさは、いまでも忘れることができない。まだごく幼ないころであったし、祖父が亡くなって、父の代になってからは、一度もそんなことはなく、ただ苦労の味しか覚えなかったけれど、幼ない記憶のどこかに、芝居小屋の華やかな、うきうきするような気分は、おぼろげに残っていた。
「あとを聞かせて」とおうめが云った、「それからどうしたの」
 芳造はちょっと考えた。どこまで話したか、すぐには思いだせなかったのだ。
「ああ」とやがて彼は云った、「おやじが死んだところまでだっけ、おやじはのたれ死に同様に死んだ、すると、その葬式を済ませるなり、おふくろはおれに、しじみをとって売りにゆけと云いだした」
 おうめは眼をみはった。十二月か正月か、いまではよく覚えていないが、玉川の水は氷のように冷たく、七つ八つの彼には、どこで蜆がとれるのかわからなかった。寒さのためにがたがたふるえながら、彼は川の中へひざまでつかりながら、底の砂をしゃくってまわった。川岸に沿って、枯れたよしあしえてい、それが肌を刺すような風に吹かれて、乾いた葉ずれの音をたてていた。
「おらあ泣きゃあしなかった、泣くようなゆとりもなかった」と芳造は云った、「しじみをとらなきゃあならない、しじみはどこにいるんだろうと、それだけで頭はいっぱいだった」
 初めは三十か五十しかとれなかったが、そのうちに五十がらみの男が、やはり蜆をとりに来ていて、可哀そうだと思ったのだろう、しじみはこういうところにいるんだ、と教えてくれた。嘘ではなかった。その男の教えてくれたところには、蜆がいくらでもいた。
「おらあ大名にでもなったような気持で、うちへとんで帰っておふくろに見せた」と芳造は云った、「――そのとき、おふくろがなんて云ったか考えられるかい、おふくろは温たかそうな綿入れの半纒はんてんをひっかけ、ふところ手をして出て来ると、そのまますぐ売りにいってこいと云った、しじみをとるのは朝の暗いうちに限るといわれていた、どういうわけか知らない、本当か嘘かもわからないが、おれは暗いうちにでかけるからめしは喰べていないし、しじみをとるあいだにも、腹はぐうぐう鳴るほどへっていた」
 そのまま売りにいってこいと云われたとき、彼は空腹で眼がまわりそうだった。しかし母親にさからうことは絶対にできなかった。彼は頬冠ほおかむりをし直してでかけた。まだ霜柱の立っている道を、小一里もゆかなければ街道へは出られない、畑にさえ一人の百姓の姿も見えなかった。空腹と寒さとで手も足もしびれてしまい、涙が頬を濡らした。
「お父っつぁん、っておらあ泣きながら云ったもんだ、あれはおいらの本当のおっ母さんかい、ってね」芳造は微笑しようとしたらしいが、唇のあいだから、丈夫そうな歯がちらっと覗いただけであった、「――まだ七つかそこいらの子供のことだ、皮肉でも恨めしさでもない、おれは本気で、死んだおやじにそうきかずにはいられなかった」
 蜆が売れ残ったときのことは、思いだすのもいやだ、と彼は云った。食事の差別や、酒に酔った母親のだらしなさも、いまになって思えばいちがいに非難する気はない。世間をよく見てみれば、それほど珍らしいことではないからだ。けれど、どうしてもがまんのならないことが起こった。彼が九つになったとしの春、母親に男ができたのである。
「こんな話は聞きたくないだろう、おれも本当のところ話すのはいやだ」と芳造は云った、「けれどもおれがどんな育ちかたをしたかって、いうことを知ってもらうためには、どうしても聞いてもらわなければならないんだ」
「そんなことないわ」とおうめはよわよわしくかぶりを振った、「なにを聞かなくったって、あたしには芳っさんがどんな人だかわかってるんですもの」
 芳造は首を振った。おうめがどう云おうと、これだけは話さずにはいられない、という感情が、かたくななほどその顔にあらわれていた。これまで秘めに秘めてきて、いま初めて聞いてもらえる相手、うちあけて話すべき相手をみいだした、という強い意志が感じられた。
「それまでは村の若者たちと、酒に酔ってふざけるだけだった」と芳造はおうめの言葉を聞きながして云った、「――それが急に、若者たちは姿を見せなくなり、代って、見知らない四十がらみの肥えた、いつも眼の赤い男が一人だけ、三日に一度ずつ来るようになった、そして男が来ると、おふくろはおれに、外へいって遊んでこいって云うんだ」
 男はたいてい夜になってから来る。外へいって遊んでこいと云われるが、外へ出ても遊ぶ相手などいるわけはなかった。彼は夜の畦道あぜみちや草原をあてもなく、ぶらぶらあるいたり、草原に腰をおろして、ぼんやり月や星を眺めるだけである。月や星が出ていればのはなしだ、――もういいだろうと、ころあいを計ってうちへ帰ると、男が去っていることもあり、まだそこにいることもある。まだ男がいるときには、そっとあと戻りをして、まっ暗な草原や畦道をあるきまわるほかはない。いちど彼は失敗をした。帰ってみると灯が消えてい、母親の苦しそうなうめき声と、いまにも死ぬかと思うような荒い呼吸が聞えた。
 ――おっ母さんが病気なんだ。
 彼はそう直感して家の中へ走り込み、おっ母さんどうしたのと叫んだ。すると呻き声がぴたっと止まり、やがて、へんにしゃがれた声で母親が云った。いまじぶんなにをのそのそ帰って来るんだ、外で遊んでこいって云ったのを忘れたのかい。それがどんな意味をもつ言葉なのかわからなかったが、彼はいそいで外へとびだした。
「なにかたいへん悪いことをしたような気持だった」と芳造は云った、「もう夜なかにちかかった、おらあ砂でもんだように、唾を吐き吐き草原のほうへ戻った」


「わけはわからなかったが、それからおれは用心するようになった」と芳造は続けた、「もう男はいっちまったろうと思って帰っても、うちの外に立って、中のようすをよくよくたしかめてからでなければ、うちの中へははいらないようにした」
 蜆売りは相変らず続けていた。それで、うちへかよって来るその男が、川崎の宿の、飯盛り女郎を多く置くので有名な、「越中屋」という大きな宿屋の主人であることがわかった。名は勝兵衛、女ぐせの悪い性分で、いつもよそにめかけを囲って置くが、続くのはせいぜい半年か一年。ちょっと飽きがくれば、なさけ用捨なしに棄ててしまう、ということであった。
「おれは恥ずかしさで、道をあるくのにさえ顔もあげられなくなった」と芳造は云った、「としは九つだったが、飯盛り女郎とか妾とか、囲われ者とかいう言葉のもつ、世間の軽侮や嘲笑の意味は、おぼろげながら知っていたからだ、おれはおふくろをけがらわしいと思った、おふくろもおふくろのいる家も、そのまわりの田や畑や、草原や畦道までがけがらわしくなった、そしておれはうちへ帰ることはできないと思い、そのままとびだしちまった」
 目的はなかった。ただ家へ帰りたくないだけで、江戸のほうへ漠然とあるいていった。のどが渇いても空腹に耐えられなくなっても、どうしていいかわからず、鈴ヶ森あたりまでいくとふらふらになり、大きな松の下にある茶店のところでへたばってしまった。
「その茶店で、伊予巴の番頭さんに拾われたんだ」と芳造は云った、「太吉さんていう人だが、四国までたいまいの買付けにいった帰りだったそうで、おれのことを病人だと思ったらしい、おれは孤児で空腹のあまりあるけなくなった、と嘘を云った」
 あとにも先にも嘘をついたのはそのとき一度きりだ、と芳造は云った。それが縁で、彼は伊予巴の小僧になることができた。
「わかったろう、おれはこういう育ちかたをしたんだ」と彼は云った、「――いまでもおれは、血反吐ちへどを吐いて死んだおやじや、けがらわしいおふくろを忘れることができない、立派な職人にならなくともいい、金も欲しくはない、けれども女房や子供には、どんなことがあっても、おれのようなみじめな思いをさせやあしねえと誓った、どんなことがあっても」
「それからもう一つ」と芳造はすぐに続けた、「おばさんは好きで千太郎という人と夫婦になったんじゃあねえ、おやじさんに云われていっしょになったんだ、それでも無事安穏あんのんにいく夫婦もあるだろうが、二人はそうはいかなかった、おばさんに罪があるとは云わないが、千太郎という人がぐれだしたのにも、それなりのわけがあったのかもしれない、――そこなんだ、おんめちゃん、おらあおめえが好きだ、一生を賭けてもおめえを仕合せにしてやりたいんだ、――おばさんは千太郎という人がぐれだすまで、なんの苦労も知らなかったが、おれはこんな小さいじぶんから、みじめなくらしをいやっていうほどあじわってきた、おばさんは親のすすめで男と夫婦になったけれど、おらあ好きで好きでたまらなくって、おんめちゃんといっしょになりたいんだ、この二つの違いは、おばさんにもわかってもらえるんじゃあないかと思う」
 おうめは黙って、膝の上で両手の指をこすり合わせていたが、やがて低い声で、囁くように云った、「――まえにも云ったでしょ、おっ母さんはあたしに、おまえ芳っさんが好きかえって、きいたことがあるって、――好きよ、ってあたし答えたことも、云った筈よ」
 おうめが耳まで赤くなるのを見て、芳造も赤くなり、片手のこぶしで自分の膝を叩いた。
「二年うちに」と彼はたかぶった声で云った、「おらあ自分の店を持つよ、少なくとも二年うちにな、待っていてくれるかい」
 おうめはあるかなきかに頷いた。それからふと顔をあげて芳造を見、玉川在のおっ母さんはどうしているの、ときいた。
「知らねえな」と芳造は答えた、「知りたいとも思わない、もう一生、逢うこともないだろうさ」

 ほぼ同じころ、猿屋町の家では、おみきが妙な男と話していた。――猿屋町は近くに天文台などのある、おちついたしもたや町で、まわりには大名屋敷や旗本の小屋敷があり、表通りでもあまり人の往来はなかった。これは御徒町の差配が、おみき親子のために選んでくれたもので、ここなら顔を知られた者に出会うこともあるまい、と差配の吉兵衛が云ったし、おみきもそうだろうと信じていた。今日はひるちょっと過ぎに、伊予巴の芳造が来て、中村座の木戸札を二枚貰ったからと、おうめを芝居見物にさそった。おみきは承知をし、おうめに支度をさせて出してやった。
 ――もうこの二人をさくことはできない、とおみきはまえから思っていた。人間のゆくすえは神ほとけにもわかるまい、実際に生きてみるほかはないのだ、かなしいけれど人間とはそういうものなのだ。
 芳造が本当に芝居見物に伴れてゆくのか、それともほかに目的があるのか、どちらとも判断はつかなかった。けれどもおみきは、そんなせんさくをしようとは思わなかった。おうめがよろこんでいっしょにでかけた、それが事実なのだ。親が子供のためを思ってどんなに心をくだいても、子の一生を左右することはできない。もしそうなれることなら仕合せになってもらいたい、と祈るよりほかはなかった。――おみきは二人を出してやったあと、むだな思案から※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)のがれるため、仕事に没頭した、そしてそこへ、その男がたずねて来たのだ。
 ――あなたが千太郎あにいのおかみさん、おみきさんでございますね、と男は云った。あっしは千太あにいと同じ牢にいた幸助っていうけちな野郎です、ずいぶんお捜し申しましたよ。
 おみきは息が止まるかと思った。頭にかっと血がのぼり、全身がふるえた。幸助と名のる男は、せた貧相な躯に、古いめくら縞のあわせ、よれよれの三尺に、鼻緒のゆるんだ藁草履わらぞうりをはいていた。前歯が二本抜けていて、口をきくときそこから息が洩れるし、ときどきその抜けた歯のあいだから、きみの悪いほど赤い舌の尖が覗いた。
 ――あっしゃあ大事な話をもって来たんですよ、男は上り框へ斜に腰を掛けて云った。じつはね、と男は声をひそめた。千太あにいは無実の罪でおなわになったんでさ、人殺し兇状なんぞたあとんでもねえ、まったくの無実だったんですよ。
 おみきは眼を細めて男を見た。
 ――いったい、それはどういうことですか。
 ――済みませんが、と男は歯の抜けた口で卑屈にあいそ笑いをした。ちょうど切らしちまってるんだが、タバコがあったら一服だけふるまっていただけませんかね。
 ――うちにはタバコを吸うような者はおりません。
 ――そうですか、ほんの一服でいいんだが、と男はみれんがましく部屋の中を眺めまわした。この辺にタバコを売る店はありませんかね。
 おみきは黙って仕事台に坐り直した。幸助という男はあきらめたのだろう、腰掛けている足を組み替え、とりいるような、けれどもしんけんな口ぶりで云った。
 ――本当に千太あにいは無実なんですよ、あにいは人をあやめるようなことのできる人じゃあねえ、それはいっしょに牢ぐらしをしていた、このあっしが証明しますよ。
 ――御用というのはそれだけですか。
 ――大事なのはこれからでさ、男は上半身をのりだし、いっそう声をひそめて云った。じつはね、おかみさん、その殺しの現場を見ていた証人がいるんです、ええ。
 おみきは仕事台の前でゆっくりと振り向いた。男は少しおろかしいほど人の好い目つきで、自分の言葉の真実さを強めるように、大きく頷いてみせた。
 ――そうなんです、生き証人がいるんです、と男は云った。自分で云うのもなんだが、あっしはけちな野郎で、ほんのつまらねえしくじりのために伝馬町へ送られ、ひと月めえやっと御放免になったんですよ。
 どんな罪で牢へ入れられたか、そして三十日ほどまえに牢を出てからなにをしてきたか、いまどんな仕事をしているか、ということについてもまったく触れなかった。それが自然なのだろう、とおみきは思った。こういう人たちは自分のことは話したがらない、話すとすれば嘘か、巧みなこしらえごとになってしまう。それは良人の千太郎や、そのなかまたちのことで、飽き飽きするほど思い知らされていた。しかしかれらはなかまのことになると、驚くほどしんけんになることがある。いま男は千太郎が無実であり、その現場を見た生き証人がいる、ということには真実らしさが感じられた。自分のことは語らず、あにいと呼ぶ千太郎のために、なにかをしようという言葉には、おみきも心を動かされずにはいられなかった。
 ――詳しく話して下さい、とおみきは用心ぶかく云った。その人の云うことは慥かなんですか。
 ――そいつは大蛇だいじゃたつといって、からだぜんたいに大蛇の刺青いれずみのある、博奕ばくち打ちなかまでは相当に顔の売れた男ですよ、あっしが御放免になって十日ばかり経った或る日、本所業平なりひらのほうのめし屋でひょいと出会ったんでさ、辰あにいはあっしより二十日ばかりまえ、御放免になっていたんです。
 辰は珍らしくいいきげんで、久しぶりで飲もうと云い、梯子酒はしござけをやって、本所二つ目にある木賃宿でいっしょに泊った。そのとき辰が云いだしたのだ、と幸助は云った。夜なかに辰が幾たびも大きな溜息をつき、寝苦しそうに、あっちこっち寝返りばかりうっているので、いったいどうしたのかと幸助がきいた。
 ――辰あにいは返辞をしなかった、と幸助という男は云った。それから三日間、あっしたちはいっしょでした、あっしは博奕のことは知らねえので、ただそばで見ているだけだったが、辰あにいの腕のいいのと、顔の売れてるのには吃驚びっくりしたもんです。
 三日めの晩、二人はまた梯子酒をした。博奕をしているあいだ、辰は決して酒を口にしないが、飲みだすとつぶれるまで飲む。その夜も躯じゅうが酒臭くなるほど飲み、水天宮すいてんぐうの近くの安宿へ、倒れ込むようにして泊った。
 ――すると、もう明けがた近くだったでしょうか、変な声がするのであっしは眼がさめました、辰あにいが起きあがって、腕組みをして考えこんでいるんでさ、あっしがどうしたのかってきくと、いやな夢をみてうなされたっていう、三十に手の届こうという男が、夢をみてうなされたっていうのは可笑おかしかった、辰あにいはおれのほうをじろっとにらみました、もともとどすのきいた男ぶりなんだが、あっしを睨んだそのときの顔は、肝がちぢむようなすごみを帯びていましたっけ、ほんとですよええ。
 千太あにきのことだ、笑いごっちゃあねえぞ、と辰は眉をしかめながら云った。そして、しかめた眉をもっとしかめながら、千太郎の人殺し兇状は無実であり、本当の下手人はほかにいること、それを自分は現場で見ていたし、自分が見ていたのを千太郎が知っていたのだという。牢の中で千太郎に問い詰められたとき、大蛇の辰は口がきけなかった。千太郎はべつに咎めるようすはなく、牢から出てその気になったら、本当の下手人がほかにあり、それがいまでも御府内にいることを、どういう方法でもいいから証明してくれ、と云った。千太郎はその場に辰がいて、事実を見ていたことを知っていたのだ。


「ただいま」と格子をあけておうめの呼びかけるのが聞え、「おっ母さんいて」
 おみきはぼんやり「ああ」と答えた。
「どうしたの」おうめはあがって来ながら云った、「こんなにくらくなったのに明りもつけないで、気持でも悪いの」
「そうだったね、ちょっと考えごとをしていたもんだから、うっかりしてたよ」
「芳っさんが送って来てくれたのよ、ああ、行燈はあたしがつけるわ」
 おみきは立って、土間に立っている芳造に礼を述べ、あがって下さいと云った。芳造はてれたように、ここでもう失礼すると云ったが、おみきにすすめられると案外すなおにあがって来た。おみきはそれとなく芳造の顔を見た。酒に酔ってでもいるのではないかと思ったのであるが、芳造は少しそわそわしているだけで、酒を飲んでいるようすはまったくなかった。おそくなって済みません、めしを喰べてきたもんですから、と彼は云った。そして坐りながら、なにか変ったことでもあったんですか、ときいた。おみきはどきっとし、おうめの持って来た行燈の火皿のぐあいを直しながら、芝居はおもしろかったかときき返した。そのときおうめが、紙に包んだ折りを持ってこっちへ来た。
「はい、芳っさんからのお土産」と云っておうめはそれを母に渡した、「並木町の山城屋のかば焼よ」
「まあそんなことまで」おみきは芳造に眼で礼を云った、「いろいろ散財させちゃって済みません」
「その折りのまんまでね」芳造はいそいで話をそらした、「皿へのっけて蒸すんだって、葉蘭はらんが敷いてあるから、蒸しあがったら折りから出さずに、喰べるんだそうです」
 蒲焼かばやきの折詰は山城屋が初めてくふうしたものであり、ほかの鰻屋うなぎやではまだどこでもやっていないのだ、と芳造は云った。
「芳っさんが注文しておいて、あたしたちはべつの料理屋で喰べたの」おうめは珍らしくうきうきと云った、「あたしね、このごろおっ母さんが寝酒を飲むことを話したのよ、そしたら芳っさんがそんならかば焼がいいだろうって、それで」
「いやだね、みっともない」おみきは娘をにらんだ、「寝酒を飲むなんて、大げさなこと云うもんじゃないよ」
 そんなことはない、決してそんなことはない、と芳造はちからをこめて遮った。ながいあいださんざん苦労してきたのだ、寝酒くらい飲むのはあたりまえだし、そのほうがきっと躯にもいいにちがいない、と云った。そう云う言葉つきには、これまでにない親身な、情愛といたわりが感じられ、おみきは娘と彼のあいだに、なにか新らしい変化が起こったのだなと思った。
「おっ母さん晩ごはんまだなんでしょ」と手早く着替えをしながら、おうめが云った、「かば焼を蒸しましょうか」
「ありがと、もう少しあとにしましょう、なんだかいまは喰べたくないの」そして芳造を見た、「芳っさんもうおそいわ、お店へ帰らなくっちゃいけないんでしょ、せきたてるわけじゃないけれど、お店にいるあいだは」
「いまお茶をれるところよ」
「お茶はいいよおんめちゃん」芳造はそう云ってから、おみきに微笑した、「店のほうは休みだから構わないんだけれど、おんめちゃんを送り届ければ役目は済んだんだから、これでもう帰らしてもらいます」
「おっ母さんたら」とおうめがこっちへ出て来ながら云った。
「いいんだ、いいんだよ」芳造は手を振って云った、「門口まで送って帰るって云ったろう、それがつい、おばさんの顔が見たくなったもんであがり込んじまったんだ」
「でも、もしよかったら」とおみきが口ごもった。芳造は頭を振り、また微笑した。
「女世帯のうちに若い男が、うろうろしているのはみっともねえもんだ、おんめちゃんは慥かにお届け申しました、わたしはこれで帰ります」
 いまお茶を淹れるのに、とおうめが云い、芳造は立ちあがった。気を悪くしたんじゃあないだろうね、とおみきも立ちあがったが、それ以上ひきとめようとはしなかった。芳造は明るい調子で別れを述べ、あっさりと帰っていった。
「ひどいわおっ母さん、芳っさんはもう少しここにいたかったのよ」とおうめは脇を見ながら涙声で云った、「――あの人はおっ母さんのことを、自分のおっ母さんのように思ってる、ずっとまえからそう思ってたって云ってたのよ」
 おみきは自分の気持をひき緊めるような、しらじらとした口ぶりできいた、「中村座の番付は、買って来ておくれだったかい」
「忘れちゃったわ」おうめは火鉢の火に炭をたしながら云った、「初めて聞いたんだけれど、芳っさんは悲しい育ちかたをしているんだって、生みのおっ母さんというのがひどい人で、芳っさんに七つぐらいのとしからしじみ売りをさせたんですって、そして自分は御亭主をこき使いながら、よその若いしゅと酒を飲んで」
「よしてちょうだい」おみきはおどろくほどきっぱりと遮った、「話だけ聞いて人のよしあしを云うもんじゃないよ、人間にはみんなそれぞれの事情があるもんだ、その人の心の中へはいってみなければ、本当のことはわかりゃしない、――御徒町にいたとき、二人でいっしょに死のう、と云ったときのことを考えてごらん、まさか忘れたわけじゃあないだろうね」
 おうめは火鉢の火を直しながら頷いた、「はい、おっ母さん」
「芳っさんの話はいつかまた聞くよ」おみきは言葉をやわらげて云った、「かば焼を温ためてもらおうかね、一杯飲みたくなっちゃったよ」

 もう夜半に近いだろう、昏くした行燈の光が、雨漏りの跡のまだらにある古い天床板てんじょういたを、ぼんやりと照らしていた。蒲焼で五勺ほどの酒を啜り、早く寝たおみきは眼がさめて、そのまま眠れなくなった。並べて敷いた隣りの夜具では、おうめの気持よさそうな寝息の声が聞えていた。
 ――五両でさ、五両だけでいいんでさ、と幸助という男は云った。辰あにいが証人になって名のって出れば、事実を知りながら黙っていたというかどで、少なくとも三十日くらいは牢へ入れられるでしょうな、ええ、地獄のなんとかも金しだいと云って、幾らかでも持っていれば、牢屋のくらしも少しは楽になるんです、ええ、ほんとなんですよ。
 そうかもしれない、そんな話を聞いたような気もする、とおみきは思った。大蛇の辰はいま水天宮の近くの「佐野屋」という安宿に泊っている。千太郎のことを思いだしたら、それが気になるのだろう、博奕場へもゆかず、朝から酒浸りになっている。よほどこたえているらしいから、いまなら証人として名のって出るだろう。五両できなければ三両、いや二両でもいい、辰あにいの気の変らないうちに、「佐野屋」まで届けてもらいたい、と幸助は云った。
 拵えごととは思えなかった。幸助は御徒町の長屋を足がかりに、辻番所つじばんしょや差配や町役ちょうやくに当り、苦労してこの猿屋町の家をつきとめたという。まる三日がかりだった、というのも嘘ではないようであった。
 ――その人が本当に証人になってくれれば、あの人は無実で放免されるかもしれない。
 本当に無実だったら、そのままにしておくわけにはいかないだろう、とおみきは思った。いまでもなにがし壱岐守という、町奉行の言葉を忘れてはいなかった。――夫婦は一身同躰という、良人がぐれだしたと知ったら、命をしてもいさめ励ますのが妻のつとめではないか、と奉行は云ったのだ。
「そうかもしれないわ」おみきは天床を見まもりながらつぶやいた、「――あたしはお父っつぁんの云うままにあの人と夫婦になった、けれども愛情というものは感じたことがなかった、おうめが生れてから、おうめには身も細るような愛情を感じたし、せきひとつしても、心配で眠れないようなことがあった、そんな気持を、あの人にもったことがあるだろうか、いいえ、あたしはあの人が、自分の亭主だと、はっきり感じたことさえなかったようだ」
 あの、なんとか壱岐守というお奉行さまのおっしゃったことは、本当かもしれない。あの人がぐれだしたのも、あたしの愛情がたりなかったのかもしれない。おみきはそう思って眼をつむった。まだ少し残っている酔いと、夜半ということのためかもわからないが、おみきは自分のたりなさをとがめ、千太郎を哀れだと思った。夫婦は一心同躰だとか、一命をけても励ましいさめるものだとかいう、町奉行の言葉が、いつまでも、しつっこく、耳の奥で叫ばれているように感じられた。
 ――四五日うちに頼みます、辰あにいの気の変らないうちにね、と幸助という男は抜けた前歯から息の洩れる声で云った。水天宮の脇にある佐野屋ときけばすぐにわかりまさ、あっしの名を云って下さいよ、辰あにいにへそを曲げられるとおじゃんですからね。
 五両なんてむりだ、とおみきは思った。たいまいが御禁制になり、それがいつ解けるかわからない。青海亀などという物は手がけたこともなし、それでたいまいに似せた生地などを作るくらいなら、いっそほかの仕事をみつけるほうがいい。残っている五つのたいまいを作り終ったら、御禁制の解けるまで生地作りはやめるつもりでいるし、そのために少しはたくわえもある。わけを話せば伊予巴でも貸してはれるだろう、けれども五両という金はむりだ。
「とてもむりだ」とおみきはまた呟いた、「二両くらいでもいいと云った、そのくらいならすぐにでも出せるけれど」
 けれどと呟いておみきは眼をつむった。裏の長屋のほうで、なにか大声でどなりあう男たちの声が聞えた。酔って暴れているのか、それとも喧嘩けんかでもしているのか、はなれているのでよく聞きとれなかったが、その声を聞いているうちに、おみきはやがて眠ってしまった。


 おうめは仕立物の針をはこばせながら、芳っさんから聞いた話はこれでぜんぶよ、と云った。
「可哀そうにね」とおみきはぼんやりと云った、「でも世間には、もっと悲しい育ちかたをした者も、少なくはないのよ」
 母の気持がうわのそらだということに、おうめはまだ気がつかなかった。
「おっ母さんがあたしたちのことで心配しているのを、芳っさんはまえから知ってたんですって」とおうめは続けた、「けれどね、おっ母さんたちとは二つだけ、まったく違うところがあるというのよ」
 祖父が亡くなるまで、母は世間知らず、苦労知らずに育ち、祖父の云うままに結婚した。しかし自分たちはどちらも苦労して育ち、世間の荒く冷たい、用捨のない波風にもまれてきた。そうして、もっとも大切なのは、芳造が心から自分を好いていてくれること、自分も芳造が好きだけれど、芳造のほうがもっと強く、自分に愛情をもっていることなどを、おうめは控えめではあるが臆せずに語った。
「そうらしいね」とおみきはまたぼんやりと云った、「あたしもそうじゃないかと思っていたよ」
「あの人ね、二年くらいで自分のお店を持つんですって」とおうめは云った、「おそくとも二年うちにはって云うの、そして、おっ母さんもいっしょに来てもらいたいって、自分は母親の味を知らないし、まえからおっ母さんを、本当の親のようだと思っていたんですってよ」
「そうらしいね」おみきは同じようなことを繰返した、「あのこの眼つきで、そうじゃないかと感づいてはいたのよ」
「じゃあ、おっ母さん、――いいのね」
 おみきはゆっくりと振り向いて、「なにがよ」と云った。その表情と声とで初めて、母が自分の言葉をよく聞いていなかったのだ、ということにおうめは気がついた。
「おっ母さん」とおうめは恨めしげに云った、「あたしの云ったこと、聞いてくれなかったのね」
 おみきは娘の顔を見て、苦いような微笑をうかべながら、脇のほうへ向いた。
「聞いていたわよ」とおみきは力のない、だるそうな口ぶりで云った、「でもね、それにはいまむずかしいことが起こってるの、おまえは芳っさんが好きなようだし、芳っさんはいい人だと思うわ、それには心配はないと思うんだけれど」
「ほかになにか、都合の悪いことでもあるの」
「そうせっつかないでおくれ」おみきは云った、「おっ母さんにはいま、考えなければならないことがあるのよ」
 おうめいぶかしげに眉をひそめた、「――おっ母さん、それどういうことなの」
「ああ、いいんだよ」おみきは急にわれに返ったように、頬笑みながらかぶりを振った、「いいんだよ、おまえとはかかわりのないことなんだから」
「なにがかかわりのない、ことなの」
「せっつかないでおくれって云ったでしょ、芳っさんがお店を持つまでには、少なくとも二年はかかる、とか云ってたそうじゃないの」
「でもなにかむずかしいことがあるって」
「だから」おみきはそっぽを向きながら、強い調子で云った、「それはあんたの知ったことじゃないっていうのよ、たのむからうるさくしないでちょうだい」
 おうめは息を詰めて母を見た、母の口ぶりがこれまでになく強く、きっぱりとしていたからである。おうめは口をつぐんで、仕立物の針をすすめた。胸がどきどきし、なにか悪い事が起こったにちがいない、いったいどうしたことだろうと、たかまる不安を抑えることができなかった。珍らしくおみきは仕事もせず、勝手へ立ったり、茶を啜ったりしていたが、やがて帯をしめ直しながら、ちょっと用達ようたしにいってくるからと、手ぶらのまま、なにか思いあぐねたように出ていった。
「どうしたらいいだろう」あるきながらおみきは呟いた、「――本当に無実なら知らん顔をしてはいられない、どんなに悪くぐれたって良人だもの、知らないうちならともかく、証人がいると聞いた以上、そのままにしてはおけない、あたしにも、いけないところがあったのかも、しれないのだから」
 けれども、おうめは芳っさんと、まもなく夫婦になるのだし、あの人の性分が変るとは思えない。とすると、――とすると。おみきはうなだれた。頭のどこかで祭囃まつりばやしが聞えている、かねや笛や太鼓の、にぎやかな、うきうきするような囃しの音だ。そしてその音に混じって、「二人でいっしょに死にましょうよ」というおうめの、思い詰めたような声が聞えるのである。――生き証人がいて、本当にしんじつの事を訴えるというなら、それを拒むのは人情に外れる。どんなに悪くぐれても良人は良人、婦道とかいうものはべつとしても、十幾年のあいだ夫婦だったのは慥かなことだ。
「どうしたらいいだろう」あるき続けながら、おみきは途方にくれたように呟いた、「――芳っさんとおうめを早くいっしょにして、どこかほかへうちを持たせ、あたし一人で待っていたらどうだろう、人別にんべつを抜くことは抜いてもらったけれど、あの幸助という人でさえ捜し当てたくらいだし、うちの人がその気になれば、猿屋町のうちをつきとめるのはぞうさもないことだろう」
 狂ったような顔をして、襖や障子をやぶったり、家財道具を叩き毀したりする千太郎の姿が、まだ生々しく記憶に残っている。人別を抜かれていようといまいと、千太郎の帰って来ることに間違いはない、そして、おうめや芳っさんのうちも捜しだすだろう。あたしは夫婦の縁があるからしかたがないとしても、娘夫婦までき込むわけにはいかない。どんなことをしたってあの二人にそんな思いをさせることはできない。では生き証人のいることに眼をつぶり、耳をふさいでやりすごすとしようか。そうすれば、なにもかもうまくいくだろう。自分たちにとっては、それが第一のことだ。けれどもそれでいいだろうか、本当に人殺し兇状が無実で、にもかかわらず佐渡か八丈ヶ島へ送られるとして、それを黙って見ていてもいいだろうか。
「お父っつぁん」おみきは祈るように眼をあげた、「あたしどうしたらいいの」
 危ねえよ、どいたどいた、と云うどなり声でわれに返ると、右の脇をすれすれに、駕籠かごが走りぬけてゆき、そこが蔵前くらまえの通りであることに、おみきは気がついた。御蔵は云うまでもなく幕府の貯米倉庫で、八棟の長い蔵が大川に築き出ており、各棟と棟のあいだには、回米船の出入りする掘割が通じ、空俵あきだわらや繩やむしろを入れる、大きな小屋があった。猿屋町の家主のなわや喜六から、その小屋のことを聞いていたので、おみきは掘割に沿ってその小屋の端までゆき、河岸かしっぷちの石垣のところでしゃがんだ。
 波の静かな大川の上を、大きなにたり船や、ちょき舟、ひらた舟、屋根舟などが、あるいはゆっくりと、あるいは早い拍子で、のぼったりくだったりしていた。屋根舟はひよけ舟と呼ばれるもので、季節がすっかり春になったのだな、ということを感じさせた。
あんがうまくなくなったわ」おみきはぼんやりと、そらごとのように呟いた、「島屋のまんじゅう、――職人でも変ったのかしら」
 それは意識しない独りごとであり、頭の中は千太郎のことでいっぱいだった。あの人をみすてるわけにはいかない、それは人間の道に外れたしかただ。無実の罪だということが立証されて、牢から出られるようになったら、あの人の性分も変るかもしれない。そしてもとの、ぐれだすまえのような、よくかせぐあたりまえな人間になってくれるかも、しれないではないか、――もちろんその逆も考えられる、ぐれたやくざな、悪いとしつきは長かったし、無実の罪で牢へ入れられた恨みも深いことだろう、出てきたらもっと悪くなることもないとはいえない。いや、あの性分がよくなって出て来るよりも、その反対のほうがいちばん現実的だ、と思わなければならないだろう。
 ――良人がぐれだしたとしたら、いのちを賭けてもいさめ励ますのが、妻のつとめではないか。
 なにがし壱岐守とかいう町奉行の言葉が、そのままではないかもしれないが、おみきの記憶にまたよみがえってきた。そうだ、いのちを賭けても。それでいいのなら、あの人が悪いままで帰って来、まえのように乱暴をするようだったら、あたしがあの人を殺し、自分も死ねばいいのだ。
「あの人を殺す、どうやって」おみきはぞっとし、身ぶるいをした、白くなった唇をみ、両手を拳にしたが、その拳もふるふるとふるえた、「――そんなことができるかどうか、わからない、でもその覚悟をしなければならない、いざとなれば女は強くなるというじゃないの、いざとなればあたしにだって」
 そのときのことを想像したのだろう、おみきの顔から血のけがひき、唇をもっときつく噛みしめながら、よわよわしくかぶりを振った。
「だめだわ、あたしにはそんなことはできない、とてもできそうもないと思うわ」とおみきは呟いた、「あたしがそういう気持になったとしても、あの人のほうがもっとすばやいだろう、あたしがなにかしようとするより先に、あの人のほうであたしを、足腰も立たないようなめにあわせるにちがいない」
 おみきはふるえながら肩をすぼめた。いざとなれば女は強くなるという。けれども、千太郎がどんなことをしてきたかを考えると、それだけでもう全身がすくむようであった。できない、とおみきは首を振った。あたしにはとてもできない。ではどうしたらいいのか、あの人をみすてようか、佐野屋という宿屋へゆかなければ、幸助という人は諦めるだろうか、大蛇の辰とかいう人はどうするだろうか。わからない、なにもかもわからない。おみきは眼をつむった。いちばん大事なのは、おうめと芳造の生活をそっとしておくことだ、あたしなんかどうなってもいい、殺されたっていいけれど、あの二人の仕合せだけは守らなければならない。それにはどうしたらいいか、どうしたらそうできるだろうか。
「あたしにはわからない」とおみきは呟いた、「――おおやさんに相談してみようかしらん、なわやの喜六さんは事情を知っているのだから、そうよ、おおやさんなら、なにかいい知恵があるかもしれないわ、そのほかにどうしようもないわ」
 おみきは立ちあがった。ながいことしゃがんでいたので、ちょっとよろめき、両方の膝がしらをゆっくりとんだ。


「そうですか、そんなことがあったんですか」と芳造はうなずき、それから眼をあげた、「そして、それはいつのことですか」
「おとついのことだったそうだ」となわや喜六が答えた、「ここへ相談に来たのは昨日の夕方だったがね」
 芳造は自分の足許あしもとをみつめ、暫く黙っていてから、親方はどう思うか、と反問した。
「わからねえな」と喜六は首を振った、「わからねえ、千太郎という人間のことは、御徒町の吉兵衛から詳しく聞いているが、もし無実だとして帰って来るとすると、また面倒なことが起こるんじゃないかとね」
 芳造はまた頷き、また頷いて、自分の足許を見た。
もっともこれはおれの考えで、千太郎ってやつは、ことによるとまじめな男になっているかもしれねえ、そこのところはなんとも云えねえが、正直なところ、――いや、わからねえな、わからねえって云うよりしようがねえな」
 芳造は口ごもりながらきいた、「――水天宮の近くの、佐野屋とかいいましたね」
「安宿だそうだ、たぶん木賃はたごのようなものだろう」
 芳造は顔をあげて空を見、唇を噛みながら、片手でうしろ首を押えた。
「その、――」と芳造は考え考えながら云った、「その男に、おれが会ってみたらどうかと思うんだけれど、どうだろう親方」
「おれもいっしょにいこうか」
 芳造は手を振った、「それにゃあ及ばねえ、おれ一人で充分ですよ」
「相手が相手だからな、あんまり高飛車に出ねえほうがいいぜ」
 そうします、有難うと、芳造は云った。
 彼はおうめ親子の家へは寄らず、そのまま日本橋かきがら町の水天宮へ向かった。なわやがよく呼び止めてくれた、そうでなければおばさんはなんにも云ってはくれなかったろう、と彼は思った。もしも生き証人がいて、あの人の無実だったことがわかり、牢から出て来るとしたら、おれにとってもお父っつぁんだ。どんなに悪い人にもせよ、こっちがお父っつぁんとして大事にすれば、それほどあくどいことばかりする筈はないだろう。人間はときによってぐれることもある、それが生れつきならべつだが、あの人はぐれだすまえにはきまじめで、口かずも少なく仕事に精をだしていたそうだ。おれはよくは知らない、ぐれだしてからのことしか知らないが、伊予巴の店の者からよく聞いたものだ。
「ためしてみるのもいいじゃないか」と芳造はあるきながら呟いた、「――あの人も人間だ、こっちのやりかたによれば、世間なみなくらしに戻れるんじゃあないか」
 そんな望みのないことはわかっていた。彼は千太郎がどんなことをしたかをよく知っている、ぐれだしたのに理由はなかった。しゅうとが死んで、怖い者がいなくなったとたんに、本性をあらわしたという感じであった。それから十余年、仕事には手も触れず、おばさんから金をせびって博奕場ばくちばへ入りびたりで、金や物のないときには、まるで鬼か悪魔のように暴れた。
「あれはなにか理由があったからではない、本性だ、生れつきの性分だ」と芳造は呟いた、「あれはなおらない、こっちがどんなにやってみてもだめだ、だめだろうというほうが本当だと思うな」
 佐野屋という安旅籠やすはたごはすぐにわかった。幸助という男もいて、猿屋町から来たと云うと、すぐにあらわれた。貧相なからだに、眼のきょときょとした、物欲しげな顔つきで、芳造を見るとどきっとしたように口をあいた。
「おまえさんが猿屋町の」
「いずれは婿になる男です、名めえは芳造、おまえさんが幸助と仰しゃる人ですね」
 幸助は口をもぐもぐさせて云った、「ちょっと外へ出ましょう」
「あっしは大蛇の辰っていう人に会いたいんだ」と芳造は云った、「小判で三両、ここに持って来ました、辰っていう人はいるんでしょうね」
「それがね」と幸助は口ごもった、「それがその、ここにゃあいねえんでね」
「じゃあどこにいるんです」
「ゆうべまではいたんだが、ゆうべおそく賭場とばから使いがあって、でかけたまんままだ帰らねえというわけで」
「じゃあまた出直して来ます」
「ちょっ、ちょっと」幸助は慌て、そこにある草履を突っかけて土間へおりた、「まあそう云わねえで、辰あにいがここへ帰って来ることは間違いはねえんだから、ちょっとそこまで出て話すことにしよう」
 芳造がなにか云おうとするのを、手まねで遮りながら、押し出すように外へ出、水天宮のほうへいった。宿屋の多い町並で、前に馬をつないでいる宿が幾軒かあった。幸助は休みなしに饒舌しゃべった、辰あにいはいちど賭場へゆくと、二日や三日は帰らないとか、けれどもひと区切りつけば必ず自分のところへ帰って来るとか、いったさきはおよそ見当がついているから、迎えにいってもいいとか、たっぷりみつをきかせた甘いような調子で、すらすらと饒舌り、もしよかったら三両の金を持って、呼出しにいってもいいが、と云った。
「そうですか」水天宮の境内へはいってゆきながら、芳造はさりげなく云った、「――おまえさんに見当がつくのなら、あっしもいっしょにゆきましょう、じかに会って、話が本当かどうか慥かめてみたいと思いますからね」
 幸助は急に立停って振り向いた、「すると」と彼は反問した、「するとおまえさんは、おれの云うことが信用できねえってのかい」
「あっしはただ、大蛇の辰とかっていう人に会いたいだけですよ」
 幸助は横眼で芳造をちらっと見た、「その、三両の金は本当に持って来たんだな」
「ここにありますよ」芳造はふところを押えてみせた。
「いやみなことを云うようだが」幸助は石の大燈籠おおどうろうの脇へ寄りながら云った、「賭場なんてのはしろうと衆のゆくところじゃねえ、これはおいらに任せといてくれるほうがいいと思うんだがな」
「つまるところ、その人に会わせたくないんですね」
「なんだって」
「大蛇の辰なんていう人間はいねえんじゃねえのか」芳造はそう思って云ったのではなく、直感的に口から出たのだが、云ってみてから、それが本当ではないかという気がした、「――ええ、そうじゃあねえのかい」
「へん」幸助は咳をし、横眼であたりを見まわした、「おめえ、おれにいんねんをつける気か」
「いんねんをつけられる弱味があるのかい」
 幸助はあいそ笑いをした、「おどろいたよ、おめえは度胸がいいんだな」
「辰とかいう人に会えばいいんだ」
「三両の金は、そこに持ってるんだな」
「ここにあるよ」
 幸助はまた横眼で、すばやくあたりを見まわし、唇をめた。参詣人さんけいにんもなく、境内はしんと静まり、春の陽がいっぱいに照りつけていた。
「その、――」と幸助はうしろ首をきながら、上眼づかいに芳造を見た、「辰あにいに会わせるのはいい、しろうと衆のゆくところじゃあねえが、おめえがそう云うんならいっしょにゆこう、だが、――金は先にみせなくちゃあいけねえ、その金をおいらに預からしてくれねえか」
「そうくるだろうと思った」
「なんだって」
「大蛇の辰なんて人間はいねえんだろう」と芳造は伝法でんぽうな口ぶりで云った、「――そうじゃあねえのか」
「いせえがいいな、あんちゃん」幸助はまた横眼であたりを見た、「おめえ、そんな大きなことを云っていいのかい」
「そんなら辰に会わしてもらおう」芳造はふところを叩いた、「おまえさんたちにはけちな金かもしれねえが、三両といえば堅気の職人にはたいした金なんだ、ちゃんと本人に会って、生き証人になれるかどうかを慥かめたうえでなくちゃあ、渡せねえってのはあたりめえじゃあねえか」
「つまり」と幸助はまた横眼で左右を見た、「要するにおれが信用できねえってことだな」
「信用するかしねえかじゃあねえ、辰っていう人とじかに会いてえっていうことだよ」
「なめるな、若僧」と幸助は云った、「おらあ辰あにいからじかに聞いて、それならと猿屋町のうちまで捜し当てていったんだ、日当にしたってちっとやそっとのたかじゃあねえんだぜ」
 芳造は思わず、にやっとした、「日当ね、なるほど」
「なにが可笑おかしい、なにを笑うんだ」
「笑やあしねえ、正直に日当なんて云われたんでほっとしたんだ」と芳造は云った、「その辰っていう人に会わせてくれたら、おまえさんの日当はべつに払ってもいいぜ」
 幸助は眼を細め、唇を舐めた、「とにかく金を見せてもらおう」
「辰っていう人に会うのが先だ」
「どうしても信用できねえっていうんだな」
「それはおまえさんしだいだ」
 なめるなと云うなり、幸助はふところへ手を入れ、匕首あいくちを抜いて左へ廻った。芳造はあおくなった。匕首のぎらっとした光が、彼を恐怖心でちぢみあがらせたのである。しかし同時に、弱い人間ほど人をおどしにかける、ということが頭のどこかにひらめいた。すぐ刃物をひけらかすようなやつに強い人間はいない。
「そんなおもちゃはしまっとけよ」と芳造は云った、「なにもむずかしい話じゃあねえ、考えてもわかるだろう、たいまい三両という金を、その人にも会わずに渡せると思うか、なめるんじゃねえとはこっちの云うせりふだぜ」
「おれにゃあおれの流儀があるんだ」と幸助はやり返した、「その金を出すか、それともこいつをずぶっとくらいてえか」
「おれは鼈甲屋べっこうやの職人だが、刃物はまいにち使いつけてるんだ」芳造は片方の裾をまくって帯にはさんだ、「やる気なら用心してやんな、おめえ足がふるえてるぜ」
 野郎と云いざま、幸助は匕首をまっすぐに持って突っかけて来、芳造はたいを右にひらいてそれをかわすと、のめってゆく幸助の背中をうしろからすばやく、力いっぱい突きのめした。


「大蛇の辰なんていう人間はいませんでした」と芳造はぬるくなった茶を啜りながら云った、「――幸助という男は大牢たいろうで、おじさんといっしょにくらし、身の上話なんぞもしたんでしょう、そこからこんどのような話をでっちあげたんだと思います」
 いつかもおうめちゃんと話したんだが、この世に生きていると、思いがけないところに枡落ますおとしがあって、うっかりするとそれにひっかかるって。いちど金を渡せば、幸助というやつはなんとか理屈をつけてはせびりに来るでしょう。しかしこれでその心配もなくなりましたよ、と芳造は云った。
「でも、うちの人はどうなの」とおみきがきき返した、「まだ伝馬町にいるとすると」
 芳造は手を振って遮った、「なわやの親方に頼んで、いっしょに北(町奉行所)へいってもらいました、そして調べてもらいましたら、あの人は五十日もまえに八丈ヶ島へ送られたそうです、人別を抜かれたあとだから知らせはしなかったということですが、島送りの書類も見せてもらいましたよ」
「ではもう大丈夫なのね」
「なにしろ八丈ですからね」と芳造は表情をひき緊めて云った、「――あっしは八丈がどこにあるかも知らねえが、いのちけでも島抜けはできめえってこってすよ」
「ありがと」とおうめが云った、「みんな芳っさんのおかげよ、本当にありがとう」
 おみきもちょっと頭をさげたが、口ではなにも云わなかった。憎い、悪い男だったけれど、亭主は亭主、あの人が島流しになって、自分たちの生活は安泰になるだろうけれど、これからの一生、鳥もかよわぬといわれる八丈ヶ島で、囚人ぐらしをしなければならないあの人の気持はどんなだろう。そう思うと、おうめのように、すなおに礼を云う気持にはなれなかったのだ。
「それで」とおみきはきいた、「その幸助っていう男はどうしたの」
「弱い野郎でね、二つ三つ拳固げんこをくらわしてから、松島町の番所へ突き出してやりました」と芳造は云った、「――匕首で威したぐらいのこったから、まあ五六十日で出てくるでしょうがね、もう二度とこのうちに迷惑をかけには来ねえと思います」
「でも危なかったわ」とおうめは芳造の手をいたいたしげに見た、「――匕首だなんて、もしけがでもしたらどうするのよ、これからは決してそんなまねはしないでね」
「相手によるさ、――と云いてえところだが、いいよ、わかったよ、これからは決して乱暴なまねはしねえよ」
「きっとよ」
「ああ、きっとだ」
 おみきは二人を見て頬笑んだ。この二人なら仕合せにやってゆけるだろう、おうめは苦労の味を知っているし、芳っさんは慥かな人だ。生みの母親からも愛されず、小さいじぶんからしじみをとり、それを売りあるいた経験もある。そしてなによりも、おうめを愛しているということが大切だ。あたしとあの人のあいだには、――よくはわからないけれど、――およそ愛情というものを感じたことがなかった。そこがあたしのいけないところだったかもしれない、あたしが女として、あの人を男として愛することができたら、あの人も悪くぐれることはなかったのではないか。あの人の悪いところの半分以上は、あたしの責任かもしれない、とおみきは思った。
「いろいろお世話になりました」とおみきはおじぎをし、おうめに云った、「おまえそこまで送っていっておあげ」

「よかったわ、ほんとによかった」あるきながらおうめは芳造をながし眼に見た、「みんなあなたのおかげよ、芳っさん」
「その芳っさんだけはよしてくれねえかな」
「あらどうして」
「どうしてってこともねえが、なんとなく子供っぽいようでな、ずいぶんなげえこと云われてきたもんだから」
「そうね」おうめは肩をすくめて、くすっと笑った、「そうだわ、あたしこんな小さなじぶんからそう呼び続けてきたわ、もうそろそろ変えてもいいころだわね」
「舌ったらずな口で、芳っさんと呼ばれたことはいまでも覚えてるぜ」
「こんどはなんて呼ぶの」と云ってから、おうめは赤くなった顔を片袖で隠した、「――あらいやだ、恥ずかしい」
「よせやい」芳造もちょっと赤くなり、うしろ首を掻いた、「へんなことを云うなよ」
「ごめんなさい、でも、――」
「いいよ、いいよ、いまっからそんなことを考えることはねえさ」芳造はてれたようにいそいで云った、「めしでも食おうか」
「向島までゆくにはおそいかしら」
「そんなことはねえさ、けれども花はもうおしめえだぜ」
「牛の御前へゆきたいの」とおうめがそっと云った、「亡くなったお祖父じいさんはあそこが好きで、暇さえあれば牛の御前へあるきにいったんですって」
「そうだ、あそこには腰掛け茶屋があって、酒も飲ませるそうだからな」
「お祖父さんはそんなにお酒飲みじゃなかったわ」
「そうは云やあしねえ、そういうわけじゃあなく、そういう掛け茶屋で一本の酒をちびちびやる、っていうこともたのしみの一つだということさ」
「あたしお祖父さんに云いたいの」おうめはあるきながら眼を伏せた、「――牛の御前へいって、みんなうまくおさまりましたって、それだけを云いたいの、日本橋石町から御徒町、それから猿屋町って、引越してばかりいたでしょ、だから牛の御前にいちばんお祖父さんの心が残っているように思えるのよ」
「わかるよ、竹屋の渡しでいこうか」
「危ないっ」おうめは芳造を押しやった、「四つ手駕籠よ、気をつけてちょうだい」
「もうかみさん気取りか、渡し場はこっちだぜ」





底本:「山本周五郎全集第十六巻 さぶ・おごそかな渇き」新潮社
   1981(昭和56)年12月25日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「躯」と「躰」、「灯」と「燈」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年1月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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