麦藁帽子

山本周五郎




 斧田おのだはそうきたがり屋のほうではない、どちらかといえば日頃から口数も少く、自分の身の廻りのこと以外にはあまり物事に興味をもたぬ男であったが、その老人には初めから奇妙に注意をかれた。
 温泉のある海村へやって来て二日め、散歩に出た斧田が海沿いの道をみさきのほうへ下りてゆく途中、三方に断崖きりぎしを負ってひとところだけたくましく雑草の茂った小高い台地にさしかかったとき、一人の老人がその雑草の中に座って釣糸を垂れているのに出会った。――老人はすっかり着古してすり切れてしまった羅紗らしゃ外套がいとうをひきかけ、すばらしく大きな古い麦藁むぎわら帽子をかぶって身動きもせずにじっと遠く沖のかなたを見戍みまもっていた、潮にやけた頬には銀色のひげまばらに生え伸び、ひざを抱えた両手の指は、関節が木の根株のように固くこぶをなして、みるからに荒仕事をしてきた過去の生活をしのばせるようであった。
「何か釣れるのかね」
 斧田が声をかけると、老人はしずかに振返って赭黒あかぐろい顔を愛相のいい笑いで崩しながら、べらを釣っているのだと答えた。
 その次の日も老人は同じ場所で、同じようなかっこうをして釣りをやっていた。そして斧田の来るのをみつけると、大きな麦藁帽子のひさしをあげながら挨拶をした。
「昨日はたくさん漁があったかね」
 斧田が近寄りながら訊くと、老人は彼のために少し体をずらせて、そこへ腰をかけるようにとさし示した。
「日並が悪いでどうも喰いがたたねえ、昨日はひとつもあげなかっただあ、ところ島せえってこの沖に寄り場があるで、あそこならえさを換える暇もないほど釣れるだがね、――お客様は対洋館に泊ってござるんかの」
「そう、煙草を一本どうだ」
 斧田はケースの中から煙草を抜出して与えた、老人は眼を細くして受取るとそっと鼻へもって行った。
「ほう、舶来だねえ、いつかもこんな吸口の付いたやつをすったことがある、さあいつのことだったか、吾八ごはちがけから堕ちる前だったかあとだったか――」
 斧田が火をつけてやると、老人はうまそうに頬をへこませて二三服ふかしたが、すぐに火をもみ消して外套のポケットへしまった。
「わしはいつでもここに来ているだで、退屈なときには遊びにござるがいい。よかったら吾八の話でも聞かせるべえから」
「何かあったのかね」
「わしの屋敷で使っていた下男だがのう、猿のたたりで崖から堕ちて白痴ばかになってしまっただ、かわいそうに良い男だったが、――ずっと前、そうだ、柿のってる時分だっただ」
 老人は何か思出しでもするように、しばらく沖のほうをみつめていたが、やがて深く溜息ためいきをもらしながら続けた。
「わしの家はこの村でも旧家のほうでな、世間じゃあ松屋敷と呼んでいるだ、お客様も来るときに見てござらっしゃったろうが、神戸橋を渡ったところに深い森があるだ、わしの子供の時分にはあれが今の十倍も広くて、野猿がしこたまいたし、ときによると鹿が迷いこんで来たりしただが、わしの屋敷の庭というのがあの森と地続きになっていましたのじゃ、子供の時分――わしはよくこう云って起こされたもんでさ、さあ起きるんだぞ、野猿が柿を盗みに来ているから」
 呼び起こされて出てみると、庭続きの柿畑にいっぱい野猿が群っている、そこで下男の吾八が鉄砲を持って駈けだして来る、静かな朝の霧をゆるがして空砲が鳴る、すると猿どもはやかましく鳴き叫びながら柿の実を持ったのやかじりかけのやつが、後になり先になり森の奥へとげて行く、下男の吾八は鉄砲の筒口から硝煙を吹きだしながら云う。
 ――いつかあの親猿を仕止めてやろう。
「あの時分はよかった」
 老人はしばらく黙っていたのち云った。
「わしの嫁になるべき娘がいてなあ、その娘はとうとうよその者と一緒になっただが、わしたちはよくあの森の中で会い会いしたもんじゃった。野辺香草や常山花が匂っていたことも、あの娘の髪毛に霧の粒が光っていたこともわしは忘れない、――この麦藁帽子は、その娘がよそへ嫁ぐときわしに買ってよこした物でさ」
 老人は少しはじらいながら、そのすばらしく大きな麦藁帽子をぬいでみせた。
「あれからすっかり村のようすは変った。森には端から斧が入ったで、野猿も鹿もどこかへ行ってしまったし、岬の鼻は波にけずられて少しずつ海の下になっていく、そしてあの娘も今では孫がある」
「それで吾八は――?」
「さあどうしているかのう、かわいそうに。村じゅうの可愛がられ者だったが、白痴になるとまもなくどこかへ行ってしまって戻らねえだ、今はどうしていることだか」
 老人は肩をおとして太息をついた。

 その夜、斧田が寝際の酒を命ずると、したくをして来た若い女中が、
「お客様はきょう、松屋敷の吾八と話をしていらっしゃいましたね」
 と笑いながら云った。
「吾八と――? どこで」
「岬道のところで釣りをしながら話していらしったじゃありませんか」
 斧田は意外なことを聞いたのでさかずきいた。
「あれが吾八なのかい」
「誰だと思いなさいましたの」
「いやべつに誰とも思わないが、吾八の話はあの爺さんから聞いたぜ」
「ほほほほ」
 女中は可笑しそうに笑った。
「それじゃお客様も吾八の嘘にひっかかりなすったんですよ、自分は村一番の旧家の主人だって云いましたでしょう」
「なんでもそんなことだった」
「それから自分の嫁になるはずの娘があって、よそへ片付いたとか、かぶっている麦藁帽子はその娘がくれた物だとか云ったでしょう、――嘘ですわ、みんな作りごとですわ」
「嘘かい」
 斧田は苦笑しながら盃を取上げた。女中は酒の酌をしながら話しだした。
 その老人、――吾八は、子供の時分に父親と二人でこの村へ流れて来た男であった。父親というのがひどい酒精アルコール中毒で、村へ来ると間もなくほとんどのたれ死のようにして死んだのち、そのころ村長をしていた佐野源七さのげんしちという旧家に引取られて育った。松屋敷というのはその佐野源七の家のことである。
 吾八はすなおに成長した。気だてのやさしい頭の良い子供で、村人たちは彼の怒ったり泣いたりした顔を見たことがなかった。佐野源七に絹子きぬこという娘がいて、吾八より四つ年下だったが、屋敷うちの誰よりも吾八になつき、朝も晩も彼でなくてはすまぬほど親しみ馴れていた。
 松屋敷には広い庭があって、神戸の森と地続きのところが柿畑になっていた。そして秋になって柿が実ると、森の中から猿の大群が柿を盗みに来た。それは松屋敷ばかりでなく、村うちはどこでも多少その被害に見舞われたのであるが、伝説はその猿を鎮守八幡の神獣と伝えていたので、堅く殺すことを忌んでいたから誰も積極的にそれを駆除しようとはしなかった。
 吾八が二十になった年の秋のことである、ある朝柿畑に猿の群がやって来たので、逐いはらうために吾八は鉄砲を持ってとび出して行った。そしていつものごとく脅しの空砲を放ったのだが、どうした間違いか実弾がこめてあったので、大きな親猿の一ぴきを射殺してしまった。驚いて駈けつけた吾八は、神獣を殺したと知るや茫然としてそこへ立竦たちすくんだ。
 それから少しずつ吾八のようすが変っていったのである。日頃から明るく愛想のよかった彼が、だんだん気むずかしくなり、人を嫌いはじめ、どうかすると物蔭へひっそりと座って何か溜息をついていた。
 吾八が兵役に出て帰ってくるとまもなく源七の娘の絹子が隣村の網元の家へ嫁にゆくことにまった。十月に結納の交換があって十一月はじめに輿入こしいれするということであった。その結納の日に、吾八が大船山から馬草を運んで来る途中、足を過って崖から転げ堕ち気を失ったまま屋敷へ担ぎこまれた。ほかに傷はなかったが、ひどく頭を打ったので、早速医者を招いて治療したけれど、すっかり記憶をなくして、そのまま白痴同様になってしまったものである。
 吾八が病床にいるあいだ、絹子はほとんど夜もろくに眠らぬほど看護してやったが、吾八は反対に絹子の近づくのを嫌い、彼女が嫁いでいってしまうまでまったく口を利かなかったという。――吾八が白痴になったことについては、村人たちは誰でも猿の祟りであるといっている。
「それ以来ずっと松屋敷で世話をみてもらっているんですの、なかなかできたことじゃございませんねえ」
 女中は饒舌おしゃべりにひと区切つけた。
「なんでも松屋敷のお嬢さんが十二三の頃、町へ出たときあの人に麦藁帽子を買って来てあげなすったことがあるそうですけれど、それがいつまで残っているわけもありませんし、またあんなに大きな物じゃなかったという話ですわ、まあ白痴のことですから好き勝手なことを云うのでしょうが、あれでいつまでも生きていられては松屋敷でも大変でしょうよ」
「その絹子という人はどうしたのかい」
「今でも達者でいらっしゃいますわ、もう五人もお孫さんがおありです」
 斧田は一人になると、自分の心がひどく痛めつけられているのを感じた。なぜであろうか、女中の話した吾八の身上はきわめてありふれたもので、その中にはことさらに人を感動せしめる悲劇も喜劇も含まれてはいない。絹子がかつて彼に贈ったという麦藁帽子と彼が自分で云うところの、嫁になるべきであったある娘が嫁ぐ前に贈ったと称する帽子とが、何か深い連関をもっていると考えることはあまりに通俗小説めいていて真実をげることになろうし、崖から堕ちたことも、愛する娘が他人の嫁になるときまった絶望の結果、彼が自らそうしたのであると思えば思えぬこともないが、それとしてもおそらく事実から遠い空想にすぎないであろう、――そうとすれば、斧田が女中の話で心を傷つけられた原因はひとつしかない、それは斧田が老人から与えられた楽しい幻想をむざんに打砕かれたからである。老人の話は茫漠として取止めのない断片であって、統一した筋もなくまとまりもなかったが、それには全体として現実をとびはなれた奇妙な美しさが匂っていた。麦藁帽子をぬいで斧田に示したときの老人の眼は、どれだけ多くの条件を具えた真実よりもずっと高い真実に輝いていたし、哀れな吾八をいたむ口調の中には、底知れぬ愛情と憐愍れんびんがこめられてあった。
 宿の女中の話は疑いもなく本当のことであるに違いない、けれどもそれはただ本当のことであるというにすぎないのだ。
「嘘ですわ、何もかも嘘ですわ、お客様はだまされなすったんですよ」
 そう云った女中の言葉は、明かに罪人を裁く法官の鋭さと搨抉とうけつをもっていた、それにしてもなんと法官の多いことであろう。

 二日ばかり雨が続いた。
 雨があがると何よりも先に斧田は老人に会いたくなり、宿から釣道具を借りてでかけて行った。老人はすでにいつもの場所へ来て、例のごとく独りじっと釣糸を垂れていたが、斧田の顔をみると手をあげて悦びの合図をした。
「今日は僕も釣りに来たよ」
「ようござった、餌は何を持って来さしったかね、ああこれは駄目だあ」
 老人は斧田の餌箱をのぞいて頭を振った。
「この餌じゃべらは喰わねえ、わしがのをお使いなせえまし、なあに足らねえばいくらでも掘って来て進ぜるで」
 老人は斧田のために場所を選び、餌のつけかたや浮木うき下の加減をみたのち、並んで草の中へ座った。――よく晴れた日で、遠くところ島の岩礁が白く泡立あわだっているのが見え、ゆるい東南の風に送られて、沖のほうから寄せる波が足許あしもとの岩にうち当ってさあと砕けた。
「このあいだはつまらぬ話べえお聞かせ申しお客様はさぞ迷惑だったべえのう」
 しばらくして老人が云った。
「そんなことはないさ」
「昔語りというやつは、話す当人が面白いほど聴く者には退屈なもんだ、だけれどもわしがのように年寄りになると、行末のたのしみというものがねえで、過去ったことを考えたり人に聞いてもらったりするのが何よりの慰めになるだよ、――お客様あ若いに似合ずよくこんな年寄の思出話を聞いてくらっしゃる、これが村の者とくると」
 老人は眉をしかめながら頭を振った。
「村の人たちはいけないかね」
「わしにはあの衆の気持が分らねえだ――まあたとえばあの娘のことを云うとする、ところが村の衆はそんな娘はいなかったぞと云うだ、なるほどわしはずっと昔ひどく病んだことがあるで、あんまり物覚えの良いというほうではねえだ、けれどもわしのことはわしが一番よく知っている、――そうだ、あの話をお客様に聞いてもらうべえ」
 老人は居住いを直した。
「あの娘が嫁に行ってから、そうだのう二年ばかりしてのちだっけだ、わしらは岬のはなのところで会ったことがある」
 娘は髪を大きなまげに結って高く裾をからげていた。裾廻りの派手な色が、娘の淋しい顔だちをひどく阿娜あだに彩り、もうからだつきがすっかり女になりきって、肩や腰の肉づきは驚くほど豊かだった。
 その二三日前にひどい時化しけがあって、村の漁舟のうち沖へ出たまま帰らぬものが四五そうあった。それで村の人たちはいずれも岬のはなへ詰めかけ、夜になるとかがりきあげて帰らぬ舟を待っていた。それらの中に娘の婚家の持舟が一艘交っていたので、彼女もそこへでかけて来たのであろう、――彼もまたようすを知るために岬へ行こうとしていた、その途中でふたりは出会ったのである。
 彼はしるしの松(漁舟が帰港するとき目印にするもの)のところまで来たとき、すすきの中をこちらへやってくる彼女をみつけた。女のほうでは彼より先に気付いていたらしく、彼が眼を向けると頬をあかくしながら遠くから会釈を送った。彼はちらと前後を見廻したが、松林の中にも茫の原のかなたにも人影はなかった。ふたりは近々と歩み寄って足を停めた、女はふと裾を端折っているのに気付き、恥かしそうにしなをつくりながら急いでそれをおろした。
 ――お宅の舟は帰ったか。
 彼が訊いた。すると女は悲しげな眼をあげて彼を見上げながら頭を振った。
 ――しかしきょうにも帰るだろうから。
 慰めるように云って彼は女の熱い凝視からのがれるように外向いた、海は時化の余波なごりで波が高く、すごいほど青黒く澄透った水の上を白い泡が縦横に騒ぎまわっている。
 ――まだその帽子を冠っていますね。
 ――いけなかったら……
 ――いいえいつまでもそうしていてください、勝手なことばかり云って、さぞあなたは怒っていらっしゃるでしょうけれど。
 彼はそれには答えず、茫の葉を千切って噛んだ、女はそっと太息をしながら、しばらく男の横顔を見戍っていたが、やがて思切ったような調子で云った。
 ――いちどゆっくり会って、いろいろお話しなければならぬことがあるのです、近いうちにどこかで落合っていただけないでしょうか。
 彼はそれにも答えなかった。口をひらけば何か恐ろしい言葉がとび出しそうなのだ、――女は眼で彼の返事を待っていたが、そのとき岬のほうから人の来る気配がしたので、
 ――二三日うちにあなたの家へ柿を届けさせます、そしたら神戸の森まで来てください、いつかふたりで会ったもみの木のところで待っていますから。
 そう云いすてると、彼女は素早く会釈をして立去った。
「それから二三日して」
 老人はしばらくまをおいて続けた。
「約束どおり柿が届いてきましたよ、どうしたらいいだ……わしはすっかり困っただ、向うはもう他人の嫁だでのう、もし世間にひろまりでもしたらと思うと、どうにも決心のつけようがなかったでさ。考えに考えたが――やはり若かっただなあ、わしは出かけて行きましたよ、神戸の森へ」
 老人の声はかすかにふるえを帯び、沖を見やっている眼には明かになにか滲出にじみでていた。
「だが彼女あれは来なかった、ひるが過ぎても、日が暮れても、夜まで待ったがとうとうあれは来なかった、むろんそりゃそのほうがいいだ、わしは帰って来て寝ましたじゃ、そしてそれからこっちずっと、わしはあれの顔を見ずに過しましただ、何十年も何十年も」
 斧田はその話を聞きながら、老人のいう彼女が松屋敷の絹子ではあるまいかと思い、話のどれだけが真実であるかを考える余地もないほど自分が感動させられているのに気付いた。
「それそれ、喰っていますぞ」
 老人に注意されて斧田は急いでさおをあげたが、餌をとられたはりむなしくあがって来たにすぎなかった。
「わしが一番心配したのは、あれがいつまでもわしのことを気懸りに思っていやせぬかということじゃった。だがそんな心配もなく、それからはあれも幸福にやっているということでさ、男の子供はそろって出来者だしのう、娘が二人あったがそれも片付いただ、今じゃ暢気のんきに孫の子守りをしているそうで、――わしもこの頃はすっかり気が落着いただよ」
「もう一生会わぬつもりかね」
「老人には柿の実は毒だでなあ」
 そう云った老人は低く笑った。

 斧田が東京へ帰ってまもなく、その海村の宿の主人から一通の手紙が届いた。
 ――松屋敷の吾八の死去をお知らせ申上候。彼は海に落ちて溺死できしせしものにて、その左手にしかと彼の麦藁帽子をつかみおり候より察するに、風に吹払われて海へとびし帽子を拾わんとして、過ってこの結果をみたるやと、一同の意見一致し候。なんにしても村よりよき笑話の種ひとつ失せ候こそ残念と、皆々そのことのみ申合い候。ちなみに葬儀のおりは……。





底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
   1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「アサヒグラフ」
   1934(昭和9)年11月14日号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2021年6月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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