めおと蝶

山本周五郎





「ただいやだなんて、そんな子供のようなことを云ってどうなさるの、あなた来年はもう二十一になるのでしょう」
「幾つでもようございますわ、いやなものはいやなんですもの」
 こう云って文代はすました顔で菓子を摘んだ。小さい頃から、「あたしのお鼻はてんじょうを向いているのよ」と自慢していた鼻が、そんなふうにすますと正しく反ってみえ、子供っぽい愛嬌あいきょうが出るので面白い。信乃はつい笑いそうになりながら、茶を注いでやった。
「いったいその武井という方のどこがお気にいらないの、御家族も少ないというし、御身分のつりあいもいいし、申し分はなさそうじゃないの」
「ですから申上げたでしょう、その方には不足はないんですのよ、ただいやなんです、本当はわたくし結婚するということがいやなんです」
「まだそんな詰らないことを云って、だってあなた、女はどうしたって、いつかは家を出なければならないものなのよ」
「ええわかっていますわ、でも結婚しなくってもお家を出ることはできるでしょう、尼さんになってもいいし、なにか芸事を教えて独りで暮してもいいし……わたくしだってそのくらいのことは考えていますわ」
 文代の言葉つきにはいつもとは違って、なにか思いつめたような響きがあった。信乃はちょっと驚いて妹の顔を見た。
「あなたそれはまじめにおっしゃってるの、文代さん」
「まじめですとも、わたくしもうずっとまえからそう思っていたんです」
 子供っぽくすましていた文代の顔が、そのときひもを緊めるように硬くなった。
「藤田の弓江さまはもう二人もお子があるし、ほかのお友達もたいてい婿を取ったりお嫁にいっていますわ、その方たちのお暮しぶりをみていて、わたくしつくづく結婚というものがいやになったんですの、……もっと直接にいえばお姉さまよ、お姉さまだってこの上村へいらしって五年になり、甲之助さんというお子もあって、よそ眼には平穏無事にみえるかもしれないけれど、決しておしあわせでないということは文代にはよくわかっていますわ」
「まあ、あなたなにを云うの」信乃はびっくりして遮った、「――そんな乱暴なことを云いだしたりして、もし人に聞かれでもしたらどうなるの」
「ではお姉さまはおしあわせですの」文代はしんけんな眼でみつめる、「結婚して五年も経つのに、お二人のようすはまるで他人のようじゃございませんか、お義兄さまはあの石仏のような冷たいお顔で、なにもかも気にいらないという眼つきで、はかばかしくは口もおききにならない、お姉さまはただもう遠慮して、ごきげんを損ねないようにと絶えず気を張っていらっしゃる、こんなふうでいて、それでもお姉さまはおしあわせだと仰しゃいますの」
「もうそれでおやめなさい、いいえたくさん、おやめにならないと怒ってよ」
 信乃は強くこう云った。じっさい怒りそうな顔つきであったが、その美しく澄んだ眼には狼狽ろうばいの色があらわれていた。妹が黙ると、信乃は静かに茶をれながらおちついたゆっくりした調子でこう続けた。
「人間の幸不幸はたやすく判断のできるものではないわ、ことに夫婦のあいだのことはむずかしいものよ、はたから見て仲が良いとか悪いとかいう感じだけでは、とうていわからない事がたくさんあるの、経験のないあなたが自分の眼だけを信じて、そんなふうに考えるのはたいへんなまちがいよ」
 文代は姉の言葉をうわのそらに聞きながした。はいはいなどとおじぎをして、その話しはそれでやめにしたが、なにかまだ云いたいことがあるらしい。ようすがおちつかないと思っていると、やがてさりげない顔つきで、意外なことを云いだした。
「お姉さま、西原の知也さまが牢舎ろうやへおはいりになったことご存じでしょう」
「――知也さまが、……なんですって」
「梶さま岩光さま大炊さまなど六人いっしょに、ひと月ばかりまえにお召出しになって、そのままお城の牢にいれられておしまいなすったんですって、ご存じなかったんですか」
「――いいえ、ちっとも……」
 信乃は体の震えてくるのをけんめいに抑えながら、とつぜんきっとした気持になり、いくらかあおくなった顔をあげて妹を見た。
「でも文代さん、あなたはどうしてそんなことをわたくしに仰しゃるの、西原さんのことなんてわたくしに関わりがないじゃないの」
「――ええ、べつに関わりありませんわ」
 ゆがんだ微笑をして文代はうなずいた。
「――そんなつもりで云ったんじゃないんです、わたくしたち古くから親しくしていたし、あんまり思いがけない事になったので、……お姉さまはご存じかと思っておききしただけなんです」
「わたくしなんにも知りません、それに御政治むきの事なんて、知りたいとも思いませんわ」
 文代はじっと姉を見あげた。それからくいと顔をそむけ、片手で眼の上をおおうようにしながら、低い声でそっとささやいた。
「――お可哀そうなお姉さま」


 それから六七日のあいだ、信乃はおちつかない悩ましい日を送った。知也がどうして城中の牢へいれられたか、その理由だけでも知りたかった。実家の兄は納戸奉行をしているので、兄にきいたらわかるかもしれない、そう思って、
「妹の縁談のことで住川へいってまいりたいのですが」
 こう云ってみたが、良人おっとはこっちへは眼も向けず、いつもの冷やかな声で拒絶した。
「いま御用が多忙だ、留守にされては困る」
 文代が石仏のようなと云った、感情の少しもあらわれない、とりつく島のない態度である。信乃はひきさがるよりしかたがなかった。――そうだ、なまじ知らないほうがいいかもしれない、理由がわかったところで自分にはどうすることもできない、……それに、今の自分とは関係のない人だ。
 自分でこう自分をなだめ、なるべくその事を忘れようと努めた。しかし事実は反対で、気持はおちつくときがなく、頭のなかではいろいろな想いが、渦紋のように絶えず消えたり現われたりした。その中心にあるのはいつも知也であり、ついでなにかを指摘するかのように妹の囁きが聞えた。
 ――お可哀そうなお姉さま。
 妹のその囁きは信乃をぞっとさせる。それは罪の自覚を促すように思える。知っていたのだろうか、知也と自分とのことを。そんな筈はない、妹に気づかれたような記憶はないし、あの僅かな、一陣の風の吹き去ったような出来事は、決してはたの者にわかるようなものではなかった。
 ――それではなぜ可哀そうだなどといったのだろうか。
 信乃はそこでつまずき、そのたびにやはり一種のぞっとした気持におそわれるのであった。
「今日は夕刻から客がある、酒の支度をしておいてれ」
 良人が或る朝こう云った。
「お客さまはお幾人くらいでございますか」
「三人か四人、それより多くなることはない、しかし、……そこは適当にしておけ」
「御祝儀でございますか、それとも……」
 祝儀と不祝儀では支度が違う、それでそうきいたのであるが、良平はふきげんな眼でとがめるようにこちらを見、それから黙ったまま出ていった。
 折悪しく甲之助が熱をだした。良人が出仕すると間もなく、乳母のすぎが知らせて来て、それから医者を呼んだり、手当をしたり、午後までなにをする暇もなかった。甲之助は三つになるが、良人の主張で生れるとすぐから乳母の手に任せられ、信乃は殆んど世話をしてやったことがない。
 ――女親はあまく育てるからいけない。
 良平はこう云うのであるが、それは妻を自分にひきつけて置きたいのと、自分の子を乳母に育てさせるという虚栄心のためのようであった。彼は五十石足らずの組頭の家に生れ、ずいぶん貧しい生活をしたらしい。国家老の井巻済兵衛に認められて、横目役所からついに大目附にまで出世したが、日常のごく些細ささいなことで、女の信乃が恥かしくなるほどこまかく、倹約というより寧ろ吝嗇りんしょくにちかいところが少くなかった。その反面には自分が大目附だという意識から、ときおり妙な格式ぶったことをする、甲之助を乳母に育てさせたのもその一例であるが、生活ぶりとちぐはぐなので、たいていのばあい虚栄心の自己満足に終ってしまう。
 ――この人には自分のことしかない。
 信乃は上村へ嫁して来てまもなくそう思った。井巻国老が大目附に推挙したのはそういう性分を買ったためかもしれない、物差で割りつけたように隙がなく、つねに冷静で、ものに仮借がなかった。
 ――この結婚は自分にはまちがいだった。
 初めの半年くらいで信乃はそう悟ったものであった。
 甲之助は健康なので、これまで母としてなんの苦労もしていなかった。それが病気になられてみると、耐えられない自責になった、医者の診察によると、その高熱は腸の疾患からきたもので、熱よりはそのほうが重大だという。すぎは十日ばかり下痢が続いていると答えたが、医者は怒ったような顔で、
「小さい子の健康は便でみわけをつけるというくらいではないか、そんなことでは大切な乳母の役はつとまらぬだろう」
 こう云って叱り、信乃もよく気をつけるように注意された。
 そんなごたごたもあり、予想よりも早く良人が客を伴れて来たので、夕方の二時間ばかりは、信乃は息をつく暇もないほど忙しかった。客は五人、十時まえには帰ったけれども、良平は接待が気にいらぬらしく、客が去るとすぐ信乃を呼んで怒った。
ぜんの物も給仕もなおざり過ぎる、朝から申しておいたのに、ぜんたいなにをしていたのか」
 召使にでもどなるような荒い声であった。信乃はあやまらなかった、自分でもよそよそしいと思う声で、下を見たまま云った。
「――甲之助が急に病気になりまして」
 良平はちょっと息をのんだ。
「病気とは、……どんな病気だ」
「――医者の申しますにはたいへん腸を悪くしているそうで、二三日は大事をとるようにとのことでございました」
「それなら城へ使いをよこすべきだ」
 こう叫ぶと、どこに寝かしてあるかといって、良平には珍らしくせかせかと立った。
 甲之助はその夜ひきつけを起した。医者を呼びにやり、手当をして貰うとおさまったが、明けがたまで間歇かんけつ的にふるえの発作があって、信乃はとうとう朝まで寝ずに看護していた。……良平は医者といれちがいに寝間へ去った、初め甲之助の苦しむのを見たときは、顔色を失い、唇を白くして、自分でもからだを震わせていたが、寝所へはいるとそれなり出て来なかった。
「こんなとき知也さまならどうなさるだろう」
 すぎもさがらせたあと、独りで甲之助の顔を見まもりながら、信乃は無意識にこうつぶやいて、その声に自分でびっくりして、眼をかたくつむった。激しい自責の思いと、悩ましい思慕のような感動とで、胸がせつなくなり頭がくらくらした。
 ――もしこの子が死ぬとすれば、あのとき自分に勇気がなかったことの罰だ。
 信乃は全身に針を打たれるような感じで、ながいこと眼をつむったまま坐っていた。
 良平は甲之助のそばへも近よらず、容態をきこうともしなかった。信乃も話す気になれない、良人の冷酷に似た硬い顔を見ると、口まで出かかった言葉がのどにつかえてしまう。たとえ甲之助が死んだとしても、自分から良人には云うまいと思った。……実家の住川から母と妹がみまいに来たが、そのとき母に、これからは自分で世話をするがいいと云われた。
「上村さんの家風もあるだろうけれど、やっぱりおなかを痛めた母親が育てなければだめですよ、乳母はどうしたって乳母で、血を分けた者とは違うんですから……それにまるで情がうつらないじゃありませんか、こんなことは殿方にはおわかりがないのだから、あなたからそう仰しゃらなければだめですよ」
 信乃もそうしようと思った。それで、甲之助がもう大丈夫と云われたのを機会に、そのことを良人に申し出た。
「これまでどおりにやって貰おう」
 良平の返事はにべもなかった。
「甲之助は上村家の跡継ぎだ、おれの子はおれの思うように育てる」
 まるでさしでがましいといったような調子である。信乃は黙って、眼を伏せたままそこを立った。……それまでは良人を愛せない気持だったが、そのときから信乃は彼を憎みだした。そうして妹がいつか云った言葉、お姉さまはおしあわせではないと云った言葉が、決して独り合点ではなく、妹にははっきり察しがついていたのだということを認めた。
 ――知也さまはどうしていらっしゃるか。
 信乃は現在の暗い冷たい生活から逃げだすように、しばしば回想のなかへ閉じこもった。西原知也は亡くなった父の友人の子で、ながいこと親族のようにつきあっていた。気性の明るい、感動しやすい、多少乱暴ではあるが思い遣りのふかい、誰にでも愛される素質をもっていた。
 おとなしい一方の信乃は、早くからひそかに彼を愛していた。それは人を愛するということがどういうことであるか、まだ自分でもわからない年頃だったので、本能的な自己保護と、もうひとつは羞恥しゅうちから、自分ではそうしようと思わずに彼を避けはじめた。
 ――なんだかいやに冷淡になったね、逃げてばかりいるじゃないか、私が嫌いになったのか。
 知也にそう云われたときの、隠しようのない混乱とふしぎなよろこびの感情を、信乃は今でもありありと思いだすことができる……それから約半年ばかり後のことだったろう、青井川のあしの中で、ふいに信乃は知也に抱かれた。そのときは知也の母と、こちらは信乃と母と妹と、兄の繁二郎と六人で、螢狩ほたるがりに出たのであった。はじめつないだ屋形船の中で重詰をあけ、船宿から三人ほど来て酒を温ためたり、生簀いけすから揚げた魚を作って出したり、にぎやかに小酒宴をひらいた。
 信乃はそのうちに妹にせがまれて、やむなく独りで螢を取りに船から出た。船宿で作って呉れた小笹の束ねたのと、螢籠を持って、なかなか取れない螢を追ってゆくうち、いつか広い河原の葦の繁った中へまぎれこんでいた。そこへ知也が捜しに来たのである。
 ――信乃さん、どこです、信乃さん。
 こう呼ぶ声が聞えた。信乃は黙っていた。くすくす笑いながら、黙ってしんと葦の中に立っていた。しかし信乃は白っぽいの単衣を着ていたので、飛び交うおびただしい螢の光にうつって見えたのだろうか、やがて葦をかき分けながら知也が近づいて来た。


 肩を抱き緊めた激しい力、頬や唇にうけた気の遠くなるような接触。それは思いだそうとしても思いだすことができない、身内のどこかに感覚の記憶として遺っている、たしかに記憶には遺っているのだが、……風のないむしむしする夜であった、葦の繁みはそよとも動かなかった。青井川の流れの音が、囁きのように聞えていた。
不味まずい、なんだこれは」
 或る宵の食膳で、良平が煮物をはしでつつきながら、鋭どい眼でこちらを睨んだ。それから箸を投げだし、
「こんな物は食えぬ、片づけろ」こう云ってあらあらしく立ちあがった。眼が憎悪に燃え、両手のこぶしが震えていた。
「おれは、これまで、……食事のことで文句を云ったことはない」彼はあえぐような声で云った、「――どんな物でもたいてい、黙って食べる、だがこのごろのおまえのこしらえる物はなんだ、こんな物を食わせるほどおれを軽侮しているのか」
 軽侮という言葉を聞いて信乃は顔をあげた。良平はそれを上から射貫くように、すさまじいほどの眼で睨み、なにか云おうとして、そのまま自分の居間のほうへ去った。……信乃はじっと坐っていた、ふしぎにこころよいような、復讐ふくしゅうでもしたもののような、一種の痛痒いたがゆい感情がわいてきて、我にもなく微笑さえうかんできた。
 ――少なくとも今のは本気だった。
 信乃はこう思い、だが知也はどんなばあいにも、本気でぶっつかっていたということを追想した。……その夜半のことであるが、寝所で良平は信乃にあやまった、乱暴なことをして悪かったというのである。
「役目のことでむずかしい問題が起っている、気持が少しもおちつかない、苛々いらいらしていたのでついあんなことを云ったのだ、しかし、……いや悪かった、忘れて呉れ」
 良平はこちらへ手を伸ばした。けれども信乃は黙って反対のほうへ寝返った。
 上村の縁談は井巻国老から出たものであった。そのとき信乃がどうして断われなかったのか、まだ生きていた父も、母も兄も強制はしなかった。しかも信乃は承諾したのである。……青井河畔の夜の出来事が、信乃には罪のように感じられていた。そのときの一瞬の戦慄せんりつに似た深い感覚の歓びは、はばかり隠すべきもの、不道徳なもの、受けてはならぬもの、恥ずべきものというふうに思えた。おそらくそういう意識が、上村との縁談を承知させたのであろう。慥かに、承諾の返辞をしたあとでは、ながいあいだの精神的緊張から解放されたかのように、静かに心のやすらいだのを覚えている。
 上村との結婚に妹だけは反対した。もちろん誰も相手にしなかった。妹は信乃が上村へ来てからも反対の意志を変えぬふうで、頻繁に訪ねて来ながら、どうしても良平になずもうとしなかった。
 ――お義兄さまの眼は世の中を善悪の二つにしか区別できない眼だわ、喜びも悲しみも知らない、ゆるすことも人を愛することも知らない、冷たい、石のような眼だわ。
 文代はしばしばむきになってそう云った。
 ――お義兄さまを見るとこっちがぞっとしてくるの、氷った石にでも触ったように、ぞうっと寒気立ってくるわ。
 信乃は笑って聞きながすかごく軽くたしなめる程度であしらった。自分の心をみすかされないために、あなたにはなにもわかっていないのだ、そういう態度をとって来た。そうしてついには結婚の幸不幸について、説諭めいたことさえ云ってしまった。それに対して、妹はただひと言で答えた。
 ――お可哀そうなお姉さま。
 かなり日が経ってからも、それを思いだすと信乃はぞっとした。体を縮め、かたく眼をつむって、息苦しさの余り喘ぐのであった。
 十一月になってから、良平は城中で泊ることが多くなった。役所の仕事が多忙だそうで、――それは「むずかしい問題が起って」と云ったことに関係があるらしい、――ときには四、五人の同僚を伴れて帰り、居間で夜を徹することなどもあった。
 客が三人泊った翌朝のことである。まだほの暗いじぶんに朝食を命じ、それが済むと良平も客といっしょに出ていった。そのあと、良人の居間を掃除していると、ひと綴りの書類をみつけた。……これまで決してそんなことはなかった、特に公用に関する物は大切にしていて、机の上に出して置くことさえなかったのであるが、それは机の向うに落ちていたし、いそいでいたので忘れたものだろう。そのまま机へ載せようとして、信乃はなにげなくばらばらとめくってみた。
 それは五六葉の綴りで、罪科書だろう、人名に数行の罪状を附したものが列記してあり、その各個の上に「死」「追」「永」などの字が書いてある、死という字は朱であった。


 信乃はああと声をあげた。そのなかに知也の名があった。馬廻総支配助役四百二十石十人扶持ぶち西原知也。そうしてその上に「死」と朱で書いてあるが、墨で二度まで消してあるのは、他の罪科を改めたものとみえる。罪条はごく簡単に――井巻国老はじめ重臣数名を暗殺しようとした首謀者、ということが記してあった。
 非常におそろしい物を見たように、信乃はそれを机の上へ投げだした。それからまたすぐにそれを机の向うへ、元のように落とした。ちょうどそのとき、廊下を走るようにして、あわただしく良平が戻って来た。危うい一瞬であった。信乃がほうきを持つのと殆ど同時に、良平がはいって来て部屋の中を見まわした。
「ここに書いた物が無かったか」
 彼は鋭い眼でこちらを見た。信乃は自分でもびっくりするほどおちついて、
「なにかお忘れ物でございますか」
 こう云いながら静かにまわりを眺めやった。良平は慌てたようすで机のそばへゆき、抽出ひきだしをあけたり、書類棚をかき捜したりしたが、やがて机のうしろにあるのをみつけ、それを取って、ほっとしたようにふところへ入れた。
「今夜は城で泊る」
 良平はこう云って、さらになにか云おうとしたが、頭を振っていそいで出ていった。
 昼の食事も信乃はのどをとおらなかった。あれから妹は例によって、四、五日に一度くらいの割で来るが、知也のことはまったく口にしなかった。むろんこっちからきくわけにはいかない、まだ牢舎にいるのか、それとも出たのか、どんな罪でそうなったのか、なにもわからなかった。もしかすると妹がこちらの気を試すつもりで、無根のことを云ったのではないかとさえ、思っていた。
 ――それが重臣暗殺の首謀者、……しかも罪科は死罪だという。
 暗殺の謀計などは理由なしに行われるものではあるまい、どんな理由でそのようなことが計画されたのだろうか。そのころの政治はいうまでもなく専制で、当局者のほかはこれを批議することを許されない、特に婦人たちは――異例もないわけではないが――殆どのぞくこともできなかった。したがって信乃も藩の政治情勢などはまったく知らず、そこにどのような事情が隠されているか、それが有り得ることかどうかさえ見当がつかなかった。
「――なんとかしなければならない」
 その夜ひと夜、寝所で転々しながら信乃は独り言を云った。
「――知也さまは死罪になる、知也さまが、……いいえいけない、あの方を死なせてはいけない、なんとかして助けてあげなければ――なんとか法を講じて、……でもどうしたらいいだろう、どうしたら助けてあげられるだろう」
 信乃は実家の兄に相談しようかと思った。夜が明けたら訪ねようと決心したが、兄も納戸奉行をしている以上、そういう大事を知らぬ筈はないし、助けることができるものならそれだけの工作はしたであろう。とすれば、兄の力ではそれが不可能であったか、じっさい知也の謀計が死にあたいするものか、どちらかに違いない。
「――兄ではだめだ、兄では、……それではほかにどんな方法があるだろうか」
 国家老の井巻済兵衛。父方の叔父に当る中老の黒部武太夫、母方の伯父で老職肝入をしている松島外記。……頼めそうな人をある限り思いだしてみた、けれどもやがて「自分が上村良平の妻である」という事実につき当った。
「――そうだ、自分は大目附上村良平の妻だった、自分にはなにもできはしない、仮に方法があったとしても、上村の妻である自分が他の男のためになにかするということは赦されない、世間も人も、赦さないだろう」
 ほのかに明けがたの光のさす小窓を見あげながら、信乃は独りで絶望のうめきをあげた。
 明くる日の午後、良人が城から今夜も帰らないという使いをよこした。それで信乃は、乳母に甲之助を抱かせて、ずいぶん久方ぶりに実家の住川へいった。なにか事情がわかるかと思ったのであるが、母も兄嫁も妹もそのことはなにも知っていなかった。
「なんだかむずかしいことばかり云って、ごたごたばかり起して、男の方たちっていやだわねえ、甲さん」
 母は甲之助を抱いてあやしながら、しごく暢気のんきにそんなことを云った。
「うるさいもめごとや諍そいのない、静かな世の中がこないものかしら、相当な智恵者がそろっていて、いつもなにかかにかやりあっているのだもの、ねえ甲之助さん、あなた大きくなったら、もっと静かな住みいい世の中にして下さいね」
 信乃は思いきって、知也が死罪になる、ということをうちあけようとした。だがうちあけたところで彼女たちにどうすることができるわけでもない、ことに自分の見た書類も判決文であるかどうかも、はっきりと断言はできないのである。それで結局はなにも云わずに、二時間ばかりいて家へ帰った。
 城で泊ると使いをよこした良人は、その夜十時ごろになってとつぜん帰って来た。
「御用が意外に早く片づいたので」
 良平は珍らしくそんなことを云った。酒を飲んでいるとみえて、そのためでか、ほかにわけがあるのか、例になく明るい顔つきで、眠っている甲之助を見にいったりした。
 明くる日は午後から六人の客があり、夜にかけて賑やかに酒が続いた。
 ――なにかひと片ついたのだ。
 酒席のはずんだ話しぶりにはそれが明らかに表われていた。良平が「むずかしい問題」と云っていた事であろう、同時にそれは知也にもつながっているのかもしれない。あの書類に列記されていた人たちの罪が決定したのだろうか、知也はやはり死罪なのだろうか。……給仕をしながら、眼で、耳で、あらゆる神経でそれを探り取ろうとした。だがかれらは用心ぶかく役所の話には触れず、なにごとも知ることができなかった。
 良平の登城下城は平常にかえった。
 気のせいか眉がひらいて、寝る前の酒――彼は独りでは食事のときは飲まなかった――には笑い顔さえみせるようなことがあった。こんなふうにして七日ばかり経った或る夜、れがたから雨になっていたが、いつもの時刻に茶を持ってゆくと、
「このごろ甲之助はどうだ」
 良人が常になくこう話しかけた。そんなことは初めてである、信乃はそこへ坐った。
「やはり甲之助がそばにいてくれなくては寂しいか――」
「いいえ、もう慣れましたから」
「慣れたから、うむ……慣れた」
 良平はふと雨の音を聞くように黙った。それから窓のほうを向いたまま、両手の指を組んで火桶ひおけの上へかざし、囁くような低い声で、独り言のように云った。
「子供は私とおまえの血を分けている、初めから私の子であり、おまえの子だ、……しかし私とおまえとは、もとは他人だ、……おまえがなにを望み、なにを考えているか、私には心底まではわからない、……それでは堪らない、夫婦であるからには、お互に心の底までわかりあいたい、それには二人の密接な時間が必要だ。ことに私はこんな性質だから、自分で納得のゆくまでは安心ができない、……底の底からおまえを知り、身も心も私の妻にしたかった、それで子供もおまえから離したのだ」
 信乃は眼を伏せたまま黙っていた。ずいぶん利己主義だと思った。母親から子をひき離してまで、妻を自分にひきつけて置いて、かたちだけ密接であれば気持もそれに応ずるというのだろうか、自分がそれで納得できれば、離されている子供や母親はどうでもいいのだろうか。夫婦は子供を通じてはじめて、密接につながれるものではないだろうか。こう思いながら、だが信乃はなにも云わなかった。
「おまえは私に不満かもしれない、私は小身者の出だ、ずいぶん苦しく貧しいなかで育った、日常のことでも、おまえの眼には軽侮したいようなぶざまなことが多いだろう、それはよく知っている」
「――――」信乃はびっくりして眼をあげた。
「しかし私はこのままではいない、ここまでこぎつけるためにはすべてを棄てなければならなかった、なにもかも、……人らしいところまで出世をするために、……そうしてその時が来た、これからはいくらかおちつくことができる、少しはそのほうの修業もして、おまえにも軽侮されないくらいの人間に……」
 良平はそこで言葉を切った。廊下をいそぎ足に来る音がする、それは障子の外で止り、囚獄方から使が来たと伝えた。
「――囚獄から使者」
 良平は首をかしげた。
「急を要しますので、お玄関までと申すことでございます」
 よしゆくと云って良平は立った。どういうつもりでもない、一種の直感にひかれて、信乃はそのあとからついてゆき、玄関脇のふすまの蔭に身をひそめた。
「――なに破牢、牢を破ったというのか」
 驚愕きょうがくしたような良人の声が聞えた。
「――牢番に内通者があったようでございます、巽口たつみぐちで三名捕えましたが、あとは、……お城の搦手からめてへぬけたらしく、……御門の人数は倍増しに致しまして、……町奉行の手の者も」
 そう云う使者の声もとりみだしていた。信乃は足音を忍ばせてそこを離れ、良人の居間へ戻って坐った。
 ――破牢、――知也さまだろうか。
 牢舎は城外にもある。庶民を入れるもので、鉄砲馬場の北の、刑場の森の中にある、城中のは侍だけのものだが、どっちで破牢があったのだろうか。……信乃はなにを祈るともなく祈るような気持で、しんと頭を垂れながら眼をつむった。良平はすぐに戻って来た、そうして立ったまませかせかと云った。
「御用で出る、今夜は帰らぬかもしれぬ」


 良人に支度をさせて送りだしたあと、召使を寝かせてから、自分もいちど寝所へはいった。しかし眠れそうでもないし、ことによると良人が帰るかもしれないと思い、居間へ戻って火をかき起し、茶を濃く淹れて、縫いかけの物をとり出して坐った。
 ――おまえは私に不満かもしれない、私は小身者の出だから、……軽侮したくなるようなぶざまなことが多いだろう。
 良人の云ったことが思いだされた。軽侮という言葉はいつかも出た、今夜は二度、しまいのほうで中断されたが、おまえに軽侮されないような人間にと云った。……信乃は良人を愛することができない、それが高じて憎むようにさえなってきた。けれども「軽侮」などということは、自分では夢にも感じたことはなかった。
「――なにを思い違いしているのだろう、自分のどういうところがそんなふうに見えるのだろうか」
 信乃は針の手をひざに置いて、これまでの良人との明け昏れを思いかえそうとした。
 そのときであった。すぐ縁側の外の雨戸をひそかに指先で叩く音がし、自分の名を呼ぶような声が聞えた。……初めは風が戸を揺らし、雪の囁きだと思った。が、すぐに、信乃さんという低い囁きをはっきり聞き、ぞっと背筋に水を浴びたように感じながら、信乃は夢中で立って廊下へ出ていた。
「――信乃さん、信乃さん」
 声は雨戸のすぐ外でしていた。
「――知也です、あけて下さい、信乃さん」
 信乃はがたがたと震えた、あけてはいけない、こう思いながら殆ど無意識に、手は雨戸をあけていた。もう積りはじめて、うっすらと白くなった庭に黒い人影がみえ、あけた戸口へり着くように寄って来た。
「――かくまって下さい、私のためではない、藩ぜんたいのために死んではならないのです、あなたが武士の娘ならわかる筈だ、お願いします」
 それが知也であるとはっきりわかるまえに信乃は彼を上へあげ、雨戸を閉めた。
「庭に足跡は残っておりませんか」
「大丈夫です、雪が消して呉れました」
「そのままこちらへ、どうぞ」
 知也は跣足はだしであった。ざっと拭いただけであがると、信乃は自分の居間へつれてゆき、納戸をあけて中へいれた。
此処ここはわたくしのほかに決して人はまいりません。いまなにか温かい物を持ってまいります、……そこに古夜具がございますから、どうぞお楽になすっていて下さいまし」
 信乃は襖を閉めて戻り、廊下から畳の上をよく見てまわった。
 ――良人はみつける。
 汚れたところを丹念に拭きながら、頭のどこかでそういう警告を聞いた。良人は必ずみつけるに違いない、あの冷酷な、容赦のない眼から逃れることはできない。
 ――きっとみつけるに相違ない。
 信乃は喉へ固い物が詰ったように感じ、睡をのみこもうとして、きそうになった。
 炉の間で雑炊を拵えていると、甲之助のむずかる声がし、乳母がかわやへ抱いてゆくのが聞えた。そのあとはまた森閑と鎮まった。……さいわいなのは子供と離されていることだ、甲之助と乳母とは廊下をかぎなりに曲って、五つばかり向うの部屋にいる、良人の好みで召使たちもずっと離れていた。
 ――でも良人はみつけるだろう。
 信乃は雑炊が出来たのを持って納戸へいった。知也は横になっていたらしい、はね起きるとあかに汚れた髪や体の、いやな匂いがした。
「わざと此家をねらって来たんです、出口をふさがれてしまってね、大目附の私宅なら安全だと思って、逆に虎穴を選んだわけですよ」
 知也は暗がりでさじを取った。居間からさしてくる燈影で、彼の姿がおぼろげに見える、髪もくしゃくしゃだしひげも伸びていた。蒼白あおじろく頬がむくんで、すっかり顔つきが変っていた。――彼は飢えているのだろう、熱いので顔を歪めながら雑炊を啜り、こちらは見ずに低い声でせかせかと話した。
 暗殺計画などではない、井巻国老と腹心の重臣数名が、青井川の改修工事をめぐって、かなり大掛りな涜職とくしょくをしている。そのほかにも年貢収納の関係で大地主たちと不正の事実がだいぶあった。それを摘発して政治の粛正を計っていたところ、どこからか漏れて、かれらから先手を打たれ、暗殺の謀計ということに糊塗ことされたのだという。
「こうなれば喧嘩けんかですよ、かえってさっぱりしました、ここに調書を持ってますからね」知也は腹帯と思えるあたりを叩き、にっと笑いながら云った、「――警戒がゆるんだら脱出して江戸へゆきます、一藩のためですから、御迷惑だろうがお願いします」
 そして初めて信乃のほうへ眼をあげた。


 三日ばかり良人は家へ寄りつかなかった。
 信乃は必要なときは甲之助を伴れて来て、自分の居間で遊ばせた。そんなところへ良平がとつぜん帰ったりしたが、彼はべつになにも云わず、食事をしたり着替えをしたりして、すぐにまた出ていった。……妹が来たのは五日めのことである。来て坐るなり、文代は非常な大事を知らせるように、破牢のことを語った。
「牢を破ったのは七人ですって、三人はどこかの御門でつかまり、もう一人は大橋のところで、それから街道口で一人、つまり五人捉まったけれど、知也さまともう一人の方はお逃げになったらしいですわ」
「――でもそれが、逃げられたのが知也さまだということがどうしてわかるの」
「西原のお家へ役人が詰めているのですって、五人も夜昼ずっと詰めて見張っているということですわ、もう大丈夫よ、もう五日も経つんですものね」
「――どうしてそんなことをなすったのかしら、どんな悪い事をなすったのかしら」
「なにかわけがあるのよ、あの方が悪いことなどなさる筈がないじゃありませんか」文代は怒ったようにこう云って肩を揺った。よほど知也はここにいることを告げようかと思ったが、まだその時期ではないと思い、しまいまで知らぬ顔をしていた。
 七日めごろから良人の勤めはまた平常にかえった。おそらく捜査はうちきられたのであろう、神経のとがった、苛々した顔になり、食事もすすまぬようすで、些細なことにびっくりするほど怒って声をあげた。……知也へは日に三度、雑炊を運び、夜半にはおかわをあけてやる。なんでもないようだが、人の出入りの隙をみてするので、絶えず緊張しているうえに「みつかったら――」と思う恐怖がつきまとい、熟睡することもできない日夜が続いて、信乃は身も心も疲れはてていった。
 或る夜半、気温が高く雨の降る一時ごろであったが、そっと寝所をぬけだし、知也のおかわをきれいにして、納戸の前まで戻って来ると、寝衣のままで良人が居間へはいって来た。足音も聞かせず、とつぜんぬっと、良人がそこへ現われたとき、信乃はあっと叫び声をあげ、紙で包んだおかわを持ったなりそこへ立竦んだ。
「――なにをしている」
 良平はぎらぎらした眼でこっちを見た。
「――そこに持っているのはなんだ」
「ああ、ああびっくり致しました」
 信乃は大きく喘いだ。必要以上に大きく喘いで、そうしてごくしぜんに微笑しながら、
「殿方のご存じないことでございます、あちらへいらしっていて下さいまし、こんな処へいきなりいらしったりして、……まだこんなに動悸どうきがひどうございますわ」
 こう云って、わざと襖は明けたまま、納戸の中へはいっていった。もう二足か三足、良人がこっちへ来れば、知也はみつけられるだろう、咳ひとつしてもおしまいだ。信乃はめまいがしそうになった、心臓が喉へつきあげるような感じで、わきの下に汗が流れた。
「――寝そびれたようだ、酒を飲もう」
 こう云って居間で良人の坐るけはいがした。信乃は「はい」と答え、知也に手を振ってみせてから納戸を出た。
 ――良人が感づいた。
 信乃はそう思った。こんな夜半に酒を飲むなどということは例がない、なにか気づいたので坐りこんだに違いない。こう思ったけれど、こんどは信乃は逆におちついた。いずれにせよ長い時間ではない、発見されたときは自害をするだけだ。できるなら知也を逃がして、……信乃は酒の支度をしながら、ひそかに懐剣の袋を解き、すぐ抜けるようにして、帯の間へはさみ入れた。
「おまえにも一つまいろう」
 支度が出来て坐ると、良平はまず飲んでから信乃に、さかずきをさしだした。それを受取るとき、信乃の手はふるえた。
「どうした。ひどく顫えるではないか」
「いま驚いたからでございますわ、本当に面白いように顫えますこと」
「まるで悪事でもみつけられたようだな」
「――ええ、そうかもしれません」
 信乃はこびのある眼で良人を見た。
「――仮にも旦那さまの眼に触れてはならないものを見られてしまったのですから、でもとつぜんはいっていらしった方も悪うございますわ」
「そんなにむきになって云いわけをするほどのことか」
 良平は唇で笑いながらこちらを見た。信乃は頭がくらくらしてきた。叫びだしたくなった。納戸の襖をあけて、声かぎりに、「さあごらんなさい、あの方は此処にいます。わたくしがかくまっていたのです」と絶叫したくなった。それは衝動のように激しく、殆ど立ちそうになったが、そのとき良平が首を振って、退屈そうに盃を持ちながら云った。
「――女は詰らぬことに気を使うものだ」
 そしてそれからはいつものように、冷やかな顔で黙って飲み、まもなく寝所へ立っていった。
 ――助かった。気づかれなかった。
 体じゅうの筋がばらばらになるような、深い安堵あんどと気おちとで、信乃はやや暫らく立つこともできなかった……。その夜は久方ぶりに熟睡した。あの危うい瞬間にも良人に感づかれなかったという安心のためだろう、朝のねざめもすがすがとして、頭がこころよくえ、体にも力がみなぎるように思えた。
 登城する良人を送りだしてから、信乃が納戸へ食事を持ってゆくと、知也が脱出したいと云いだした。良平の勤めぶりで察すると、或る程度まで警戒はゆるんでいるらしい。そうでないにしても、日が経ち過ぎると手筈が狂うということだった。
「――巽門で捉まったのはおとりです、わざと三人で追手をひきつけ、その隙にわれわれが逃げたのですが、梶、大炊、岩光、そのなかで二人捉まったとすると、誰が脱出できたかわからないし、一人ではいつまで待ってもいられないでしょう」
「どこかで待合せるお約束ですのね」
「青井川の下流の蒔山という船着です、もう十日以上になりますから」
 そこで思案したのだがと、知也は自分の計画を語った。それは雨か雪の日に、妹に供を伴れて来させる、下僕の着物と雨具をひとそろえ持って来て貰い、知也がそれを着て、供の者が実家へなにか取りにゆく態でぬけ出す。文代は日の昏れるまでいて、夕方のごたごたしたときに帰る、というのであった。
「――いろいろ案を立ててみたんですが、これよりほかに手段はなさそうです、文代さんと御相談のうえ、御迷惑でしょうがぜひそう手配をして下さい」
「わかりました、では妹を呼びまして」
 信乃は頷いて立った。聞いているうちにそれがいちばん良い方法だと思ったのである、それですぐに妹へ使いをやった。
 文代の驚きは非常なものであった。それから手をち合せて声をあげ、例のてんじょうを向いている鼻を反らせ、昂奮こうふんのあまり頬を赤くして、居ても立ってもいられないというふうにはしゃいだ。……知也が信乃のふところへ逃げこんだということが、まずたいへん気にいったらしい、それをさらに自分がひと役買って、此処を脱出させようという。文代にはこれが刺戟しげきの強い物語を読むような、胸のどきどきする興味をそそられたようであった。
「やっぱり知也さまは頭が良いのね、石仏さんのところへもぐるなんて、よほど智恵がまわって勇気がなければできることではないわ、お姉さまもよくなすったわ、よくその勇気がおありになったわね、おりっぱよ、わたくしこれで胸がせいせいしました」
「もっとまじめになって頂戴、ひとつまちがえば知也さまもわたくしも生きてはいられないのよ」
「お姉さま、……ねえ」
 文代は膝ですり寄り、信乃の手を握って、思いつめたような眼で、じっとこちらをみつめた。
「知也さまと御相談なすって、お姉さまもごいっしょにお逃げなさいませんこと」
「まあ、なにを云うのあなたは」
「それが本当だと思うんです、わたくし知っていましたわ」文代の眼にきらきらと涙があふれてきた、「――お姉さまが知也さまをお好きだということ、知也さまもお姉さまを好いていらしったこと、いいえお隠しにならないで、わたくしちゃんと知っていましたの、お二人はいっしょにならなければいけませんわ、そうすればお二人ともしあわせになれるんです。お姉さま、もういちど勇気をおだしになって、人間は二度とは生きられませんのよ」
 信乃は妹に手を取られたまま眼をつむった。良人の顔がみえた。冷酷な眼が、感情のない声つきが、そしてぞっとするような微笑が。信乃はその幻像を思いうかべながら、やがてふと寒気でもするように肩を縮め、
「ありがとう、文代さん、うれしいわ」
 こう囁くような声で云った。
「人間は二度とは生きられない、……勇気をだしてみるわ、本当にありがとう」
 文代は涙をこぼしながら、その濡れた頬を姉の手にすりつけ、まるで笑うような声で、肩を震わせてむせびあげた。……信乃は瞳孔どうこうのひらいたような眼で、じっと空を見あげていた。
 それから三日めにひるまえから雨が降りだした。
 このところずっと気温が高く、今年は雪が少なそうだと云われていたが、その日は前夜からひどく凍て、朝になると空はいちめん雪雲におおわれ、氷ったものがいつまでも溶けなかった。冷えたのだろう、良平は腹が痛むと云って、勤めを休むことにし、役所へ使いをやった。
 ――今日は降るだろうに、困った。
 信乃は当惑したが、はたして十一時まえに雨が降りはじめ、午を過ぎるとかなり強くなって、そうしてその雨のなかを妹がやって来た。


「上村が休んでいるのよ、どうしましょう」居間で向き合うとすぐに信乃が云った、「納戸は寝間にそう遠くないし、上村は耳が早いから、気づかれたらおしまいよ」
「断じてやるのよ」文代は躊躇ちゅうちょなく云った、「――断じて行えば鬼神も避くだわ、運は天にありよ」
 それから声をひそめてきいた。
「――あの御相談、なすって」
「ええ、あとで話すわ」
 信乃は頷いて用ありげに立った。
 いよいよ決行することに定った。文代は甲之助を抱いて来て、居間や廊下でいっしょに遊びだす。信乃はそのあいだに納戸の知也に支度をさせ、隙をみて裏口から出してやる。
 ――住川まで物を取りにいってまいります。
 こう云って門をぬけだす手筈だった。供部屋は玄関の横にあるので、裏から廻って出ると門番にみつかる危険が多い、たのみは雨であるが、無事に通りぬけることができるかどうか。
「あなたにはたいへんな御迷惑でした」
 支度が終ると知也はこう云って、くいしめるような眼で信乃を見た。
「今後のことは予想もつきません、ことによるともっと御迷惑をかけることになるかもしれない、……けれども信じて下さい、私はどうしてもこれをしなければならなかったのです、そして私の力の及ぶ限りは、あなたを不幸にはさせないつもりです、信乃さん、……どんな事があっても気を折らずにしっかりして、待っていて下さい」
「――よい御首尾を、お祈り致します」
「大丈夫やってみせます、では、……こんどは天下晴れてお会いしに来ますよ」
 避けるひまもなく信乃の手を取り、それをかたく握って、知也は静かに笑った。
 裏口から彼を送りだすなり、信乃は間を計って玄関へゆき、障子をあけて門のほうを見た。脇の小部屋から若い家士がなにごとかと出て来たが、手を振るとすぐに引込んだ。そのとき前庭へ知也が現われた。雨合羽を着、笠をふかく冠って、前跼みにすたすたと門のほうへゆく。……信乃は息が詰ってきた。心のなかで合掌し、神に祈った。
 知也は無事に門を出ていった。
「――済んだわ」
 居間へ戻った信乃は、文代にこう云うなり、くたくたとそこへ坐って、虚脱したように溜息をつき、もういちど低く茫然と呟いた。
「――すっかり済んだわ」
 文代は昏れ方までいた。雨は雪になったが、その雪のなかを借りた提燈ちょうちんを供に持たせて帰っていった。人の出入りもあり時間も経っていたので、門番は気がつかなかったらしい。べつに不審されることもなかった。
 年を越えるとすぐ、江戸から使者が来て、井巻済兵衛は待命になり、次席の渡辺主税が国家老を代行することになった。信乃にはもちろんその方面のことはわからないが、少なくともそれが知也と無関係でないという点だけは察しがついた。おそらく彼は脱出に成功し、江戸へいったに違いない、井巻国老の待命はその証明であると思っていいだろう。
「おめでとう、お姉さま、とうとうやったわね」
 妹は訪ねて来て、手を拍って云った。
「もしかするとって、思ったけれども、やっぱり知也さまだわ、大掃除が始まるのね、きれいさっぱりと、誰がどうなって誰がどうなるか、ともかく新しい風が吹きだすんだわ、お姉さま、勇気をおだしになってね、……文代はどんなにでもお力になるわ、こんどこそ本当にお姉さまらしく生きる機会よ」
「もう心配は御無用、勇気はだしているわ」
「きっとよ、約束してよ、これでわたくしの夢がかなうわ」
 文代は三日にあげず来て、いろいろの情報を伝えた。江戸からは二度め三度めの使者があり、老職のうち佐渡幸左衛門と沼野又蔵が差控え、筆頭年寄の小林道之助が謹慎を命ぜられた。ついで母方の伯父の、松島外記が筆頭年寄を代行し、実家の兄が老職肝入を命ぜられたという。……このあわただしい変動のなかで、良平はしだいにおちつかなくなった。初めのうちは客も多く、更けるまで密談をしたり、またこちらから夜になって出てゆき、夜半に帰ることなどもたびたびあった。それがやがてぱったりと絶え、客も来ず外出もしなくなると、眼に見えて気力が衰え、意気沈むという感じになった。
「――暗くなる、蒼茫そうぼうと暗くなる」
 こんな独り言を呟いたり、じっと壁を眺めながら溜息をついたりした。
 藩主の大和守貞昭が帰国したのは二月下旬であった。そして数日して良平は召出しをうけ、そのまま家へ帰らなかった。妹の報告によると城中の牢へいれられたのだそうで、良平のほかにも原田市之丞という収納方や、郡奉行の川口大助、坂本数右衛門など、五六人の者が牢舎へはいったということだった。
 裁きの内容は知りたくもなかった。上村の家は門を閉められて番士が附き、乳母と下女一人を残したほかは、家士も召使も暇を出した。ときおり裏から妹が来るだけである、それも内密の許しだから長くはいられない、話すことを話すとすぐに帰っていった。
「――お姉さまたいへんなお知らせよ」
 或る日、文代が来て息をせいて云った。
「――知也さまが大目附に御就任なすったんですって、昨日お沙汰があったということよ」
「それで、……なにがたいへんなの」
「――まあ、お姉さまにはこれがなんでもないの、知也さまが大目附よ」
 信乃の頭のなかで、そのとき悲しげな呟きの声が聞えた。
 ――蒼茫と暗くなる。
 文代が帰ってからも、その声は訴えるように、いつまでも頭のなかで呟いていた。その次の日のことであるが、なかば公然と知也が訪ねて来た。信乃は乳母を取次に出して、どうにも気分が悪いからと、会うのを断わった。彼は三日ばかりしてまた来たが、そのときも乳母を代りにやって、――良人の罪の定まるまでは誰にも会わない、ということを伝えさせた。知也はそれでこちらの気持を察したのだろう、
「こなたの御尽力で藩政改革にこぎつけることができた、この御恩は自分ひとりのものではなく、一藩の救いともいえる、母子お二人のことは必ずひきうけるから、体を大切に、気をしっかり持っていて貰いたい」
 こういう意味の伝言をしていった。
 良平から離別状が来たのは三月中旬のことであった。横目から役人が来、良平の遠い親族が三人寄って、家財の目録を作り、信乃の物はすべて別にした。……離別状は去年の十二月の日附であるが、それは良平に重科があったとき、信乃に累を及ぼさないための考慮で、良平の意志か、ほかに案を授けた者があるかは知るべくもなかった。
 信乃は甲之助と乳母のすぎを伴れて実家へ帰った。甲之助がなついていてすぎを離さないのである、信乃が抱いてやってもすぐ乳母のほうへゆきたがるし、夜は乳母と寝床を並べなくては眠らなかった。
「母親はあまく育てるなんて、ごらんなさいな」
 母はじれったそうに云った。
「すぎを離してやりなおさなければだめですよ、あなたたちは赤ちゃんから独りで寝たんですから、あんなに附いていてなにすると、気の弱い子になるし、丈夫には育ちませんよ」
「ええ、そう思うんですけれど」
 信乃はさびしげに笑って答える。
「そのうちにそう致しますわ、もう少しわたくしが元気になりましたら……」
 だが進んで母の云うようにするふうはみえなかった。昔の自分の部屋は兄嫁が使っているので、離れになった隠居所に独りで寝起きしていた。兄夫婦も母も妹も、信乃の気をひきたてようとして、社寺の参詣さんけいとか、野遊びなどにさそい、暇があると集まって、歌留多とか双六などをするようにした。信乃はしいて拒みはしなかったが、外へ出ることは承知せず、遊び事もすぐ疲れたと云ってぬけたがった。
「もうあなたには関係がなくなったのだから、上村との事はいっさい忘れて、これから幸福になるんだと思わなくてはだめですよ、あなたはまだ若いんですから」
「そう思っているのよ、でも……そんなに早く気持を変えることはできませんわ」
 信乃はやっぱり静かに笑って答えた。
「もう少しそっとしておいて下さいまし、だんだんおちついてきましたから、もうすぐ元気になりますわ、……若いんですもの」
 五月、六月と経つうちに信乃はしだいにようすが明るくなり、化粧などもするようになった。一日じゅう母屋のほうにいて、くりや庖丁ほうちょうを持ったり、母や兄嫁や妹たちと、笑い声をたてて話し興じたりした。……知也はいちども来なかったし、家人のあいだに知也の話しの出ることもなかった。しかし裏では双方から交渉が進められていたようである、それはときおり文代の口うらに現われた。
「わたくし承知してあげたわ、お姉さま」
 八月になってからの或る夜、隠居所にいる信乃のところへ来て、文代が例の鼻を反らせながら云った。
「なんど断わってもきかないんですもの、熱心にほだされたし、お姉さまもおしあわせになるんだし、このへんがみきりどきだと思ったのよ」
「それは、いつかお話しのあった方」
「ええ、武井という人よ、名は武右衛門というので、わたくしこれがいやだったの」文代は唇をへの字にして、妙な声で云った、「――武井武右衛門でござる、ええ武右衛門でござる」
 そして自分でぷっとふきだし、おなかを押え、身をんで笑い転げた。
 井巻済兵衛らの罪が定ったのは、その年の十二月の下旬であった。この疑獄は意外に大掛りになって、豪農からも数名の罪人が出、井巻済兵衛は切腹、重臣のうち二名は改易、三名は重謹慎、その他七名追放と、永謹慎、削禄、閉門など、全部で二十名が申渡しを受けた。……重臣の処罰は幕府の認可を取らなければいけない、大和守はそのため届けをして、規定の参覲さんきんよりひと月早く、正月の祝いを済ませるとすぐに、江戸へ立っていった。


 三月五日に判決が公表された。
 上村良平は追放で、二日後の三月七日、関屋口から追われるということである。その前日の夜、文代が隠居所へいってみると、信乃は男物と女物の旅衣装を出し、なにかこまごました物を包んでいるところだった。
「なにをしていらっしゃるの、お姉さま、お手伝い致しましょうか」
「ありがとう、もう終ったところよ」
「こんな旅装束なんかお出しになって、まるでどこかへいらっしゃるようね」
「だってそうなのですもの」信乃は包んだ物を脇へ置き、妹を見て微笑した、「――明日は暗いうちに出なければならないのでしょう、今夜こうしておかなければまにあいませんもの」
「いやあねえお姉さま、なにを仰しゃるの」
 文代は笑おうとして、急にはっと色を変えた。姉の静かな表情と、おちついた微笑と、心のきまった姿勢と、……文代は叫び声をあげ、母を呼びに立とうとした。信乃はそれを制止し、低い声で母には知らせないでと云った。
「お母さまにも、誰にも知らせたくないの、あなただけ聞いて頂きたいことがあるのよ」
「お姉さま、……いらっしゃるのね」
「ええゆきます、上村といっしょに」
 信乃は膝の上に手を重ね、眼を伏せて、おちついた静かな声で云った。
「あなたいつか仰しゃったわね、わたくしがしあわせではないだろうって、――そのとおりだったの、上村へいってからすぐ、この結婚はまちがいだったと思いはじめ、甲之助が生れてからも夫婦らしい愛情はもつことができなかったの、――そうしてしまいには、憎むようにさえなっていたわ」
 信乃は正直にすべてをうちあけた。病気になった子供の看護さえ思うようにさせなかった良平、いつも信乃を自分のそばへひきつけておこうとし、こちらに対する感情とか精神的ないたわりのない自己中心主義、……やりきれなくなって、心から憎みだした自分の気持など、隠さずにみんなうちあけた。
「そういう気持がなければ、知也さまをお匿まいしたかどうかわかりません、あのときは誇張して云えば、なにか仕返しをするような感じもあったわ、……でもまちがっていたのよ、上村に不満ばかりもって、わたくし自身、少しも上村の本当の気持を知ろうとしなかった。上村は孤独な気の毒な人だったのよ」
 あの夜半の上村の告白を殆んどそのまま信乃は妹に云った。
 ――子供は私とおまえの血をわけている、だが私とおまえはもとは他人だ。おまえがなにを望みなにを考えているか、私には心底まではわからない、それでは堪らない。
 ――私はこんな性質だから、自分の納得のゆくまでは安心できない。二人だけの密接な時間を持って、底の底からおまえを知り、身も心も私の妻にしたかった。
 彼は自分が小身者の出だということを云った。信乃に軽侮されることをおそれると云った。なぜだろう、彼は信乃を愛していたのだ。これからは軽侮されないような人間になる、おれを軽侮しないで呉れ、五年の余もいっしょに暮し、子供まであって、それでなおそういう告白をするのが、単に自己中心な考えだけであろうか。
「人にはそれぞれの性質があるわ、上村には小身者の出だというひけめがあって、生れつきの性質がいっそう片寄っていて、妻を愛していながら、ほかの方のようにそれをあらわすことを知らない、知っていてもできなかった、……上村には才能もあり出世もしたけれど、心からの友達もない――誰にも好かれていない、いつもみんなから敬遠されていたわ、――慰めもなく、孤独で、ほかの方のように妻を愛することもできない、本当にさびしい気の毒な人だったのよ」
「よくわかるわ、お姉さま、上村さまのことはよくわかってよ」
 こう云って文代は姉の手を押えた。
「でもあの方がお気の毒だからといって、そのためにお姉さまの一生を不幸にすることはないわ、知也さまはお姉さまを愛していらしった、これまで独り身でいらしったのもそのためとはお思いにならない、……お姉さまが上村と縁が切れて、こんどの騒ぎがおちついて、一年でも二年でも経ったら、お姉さまを嫁に迎えたいって、……このあいだからお兄さまや母さまと御相談なすっていますわ、知也さまは今でもお姉さまを愛していらっしゃる、そしてお姉さまも知也さまをお好きな筈よ、本当におしあわせになる時が来ているんじゃありませんか、お姉さま、……お願いよ、文代のお願いよ、御自分をどうぞ不幸になさらないで」
「ありがとう、うれしいわ文代さん」信乃は片手の指で眼を抑えた。しかし声は静かで、しめやかにおちついていた。
「でもわたくしやっぱり上村といっしょにゆくわ、あの離別状をどんな気持で書いたかわかるの、上村はわたくしを愛していて呉れた、今でも愛していて呉れるわ、……そうしてこの世の中で、上村の気持をわかってあげ、上村を愛することのできるのはわたくしひとりよ、……こんどこそ、わたくしたちはこんどこそ、本当の夫婦らしい夫婦になることができるのよ」

 翌三月七日の午前十時。
 囚獄方の役人に囲まれて、上村良平が関屋口のなわての松林までやって来た。追放者の多いばあいは、各人べつべつに放すのが通例である。編笠と銭三百文、両刀を渡すと、改めて追放の旨を云いわたし、領境を越すまで見送って慥かめるのである。……しかし役人たちは云いわたしが終ると、良平の歩きだすのを見て、すぐ城下のほうへひき返していった。
 良平は茫然と、ひきずるような足どりで、松林の中を歩いていた。せて、眼がおちくぼんで、唇の色も白く、尖った肩を前跼まえかがみにして、いかにもうち砕かれたような姿である。明るく晴れた空から、木洩れ日が彼の顔にまだらの光紋を投げ、また消えては投げする。……こうして松林を出ようとしたとき、右側の松の蔭から、旅支度の信乃が静かに出て来た。良平は足を止めて、眼をしかめながら、不審そうにこちらを見た。
「お待ち申しておりました」信乃はこう云って良人を見あげた。良平にはまだわからないらしい、俯向うつむいてそっと頭を振り、それから改めて信乃を見て、そうしてとつぜん、激しく顔を歪めた。
「――信乃、どうするのだ」
「ごいっしょにお供を致します、あなたのお支度も持ってまいりました、どうぞお着替えあそばして」
「――離別状は届かなかったのか」
「わたくしが至らなかったのです、わたくしが、身勝手な、いけない女でございました、でもこれからはなおしてまいります、きっと良い妻になれると思います、お願いでございます、あなた、どうぞ信乃をお伴れ下さいまし」こう云ってたもとで顔を掩い、信乃は肩をふるわせて嗚咽おえつした。……良平は黙っていた。しかし信乃の云うことはわかったのだろう、暫らくして、そっと独り言のように、
「――伴れていっては、おまえを不幸にする、拒むのが本当だ、拒まなくてはいけない、けれどもおれには拒めない、……おれはおまえにいて貰いたい、この世の中で、おれにはおまえが唯ひとりの味方なんだ、信乃、……いっしょに来て呉れるか」
「あなた、うれしゅうございます」
 信乃は叫ぶように云って、良人の胸へすがりついた。良平は持っていた編笠を投げ、両手で妻の肩を抱いた。
「おまえがいてくれればおれは生きることができる、もう一度、……」
 そして彼は激しく妻を抱き緊めた。
 それからまもなく、旅支度に改めた良平と信乃が、畑に挾まれた道を、伴れだって、東に向って歩いていた。春の日はきらきらと暑いほど輝き、畑いちめんに咲いた菜の花の黄が、まるで燃えるようにうちわたして見えた。
「――甲之助は大丈夫だな」
「はい、すぎと母が見て呉れます、……わたくしたちがおちつきましたら、迎えにまいりましょう」
「――明るい、勿体もったいないほど、明るい景色だ」
「初めてでございますわね」
 信乃はこう云って、媚のある笑いかたで良人を見あげた。
「あなたとわたくしと、二人で、こうしていっしょに、旅へ出ますのは、……うれしゅうございますわ」
 菜畑からそれて来た蝶が二つ、良平と信乃のあとを追うように、楽しげにひらひらと舞っていった。





底本:「山本周五郎全集第二十二巻 契りきぬ・落ち梅記」新潮社
   1983(昭和58)年4月25日発行
初出:「講談倶楽部 春の臨時増刊号」大日本雄弁会講談社
   1950(昭和25)年4月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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●図書カード