めおと鎧

山本周五郎





 香田こうだ孫兵衛が飛竜ひりゅうを斬ったのは、「犬」といういきものが嫌いだったからではない。どちらかといえばかれは犬は好きであった。世間にはよく犬とさえみれば無差別に呼びかけたり頭をなでたりする人がいるが、それ程ではないにしても、好きなほうではあった。しかし飛竜は、かれの好きな犬の部類にははいらなかった。あまりに大きすぎるし、眼つきがわるい。態度が傲慢ごうまんだった。人を人とも思わぬつらつきで、――おまえたちの弱みはみんな知っているぞ、とでもいうような風をする。権門に依存する人間にはよくある風だ。そして、じっさい飛竜は、権門にびるための存在だった。つまり、菊岡与吉郎が、ご主君浅野幸長よしながのおためになるよう、石田三成に贈るしたごころで飼い育てていたものである。与吉郎は孫兵衛には義兄に当っていた。かれの妻の兄である。そのしたになお弥五郎という弟がいて、これはなかなかの武弁者なので気が合ったけれど、義兄とはときが経つほど疎隔するばかりだった。主君のおためにというのはよいが、権門に物を贈るという根性はさむらいとして屈辱である。しかも与吉郎の場合には、あわよくばご主君をさし越えておのれが治部少輔じぶしょうゆうの気にいろうとするようすさえあった。太政大臣秀吉がこうじて一年、豊臣氏の権勢の中枢はいま治部少輔三成の手にあるが如くみえる。これに対して徳川家康がようやくその大きい存在を示しはじめていたし、この二者の対立は心ある人々の眼にかなりはっきりしたものになりつつあったが、めのまえの権勢きりみえない人たちはしきりに治部少輔の門へ出入りした。与吉郎もそのたぐいである。それが孫兵衛にはよくわかっていた。――なんとかしなくてはいけない。折にふれては、そう考えていたのである。その「なんとか」がつまり飛竜を斬ることになったのだ。
 それは初めて霜のおりた朝だった。まだ暗いうちに備前島のほうへあるきにでた孫兵衛が、屋敷へ戻ろうとして京橋のほうへ向ってゆくと、菊岡の家の足軽で権六という者が、飛竜をつれてやって来るのと会った。まえにも記したようにこうしほどもある大きなやつで、太い綱をたすきのようにかけている。その綱の端を権六がつかんでいるわけだが、犬をいているというよりは、犬に曳かれている恰好だった。――なんという不甲斐ふがいないざまだ。まず権六を見てそう思った。つぎに犬を見ると、こいつはまたいかにも人を見くだした眼つきで、うさん臭そうにあたりをねめまわしながら悠々とあるいている、「うん、おれが治部さまのお手飼いになったら、おまえたちにも出世のみちをひらいてやるよ」といった風な態度だった。孫兵衛はむらむらと腹がたってきた。それで会釈をしながら近寄って来る権六に、「おい、ちょっとその綱をはなしてみろ」と云った。主人の義弟にあたるのでよく知っている相手だし、まさか斬られようとは考えなかったので、権六は綱をはなした。犬はそのままあるいてきたが、動物の本能で危険に対しては敏感だから、めのまえにぬっと立っている孫兵衛をみると、あゆみをとめてじろっと見あげた、「なんだおまえは」そう云うこえが孫兵衛には聞えるように思えた。それでぐっとねめつけながら、「きさまはなんだ」とどなった。犬はううと低くうなった。孫兵衛はなんだと云いながら一歩でた。犬はまたううと呻り、上唇をあげてきばを見せた。
「なんだ、そのつらはなんだというんだ」
 孫兵衛は、また一歩まえに出た。犬はがあとのどをならし、ぜんぶの歯をむきだした。
「ああ香田さま、危のうございます」
 と権六がこえをかけたとき、犬はそれにけしかけられたようにごうと歯をみならした。おどしである。こういう犬は決して吠えない。いきなり噛みつきもしない。ちょっと、自分の威力がどんなものか見せつけるのである。権六が声をかけ、犬が歯を噛みならしたとき、「ぶれい者」と叫びながら、孫兵衛が抜打に一刀さっと浴びせた。それは身をひこうとする飛竜の首を、半ばまで斬り放した。犬は奇妙なこえでひとつほえると、横ざまにとんでいって草地へ倒れ、地面へつけた首を中心にくるくると二度ばかり廻って動かなくなった。
「香田さま、こ、こなた様は」権六は、まっさおになってつめ寄った。「こなた様は、なにをなさいます、こ、このお犬は、このお犬は治部さまへ」
「なんだ、おまえおれに文句を云うのか」


「わたくしの役目としてこんな」
「だまれ」孫兵衛は刀にぬぐいをかけながら云った。「おまえはなんだ、人間か犬か、人間ならもうすこし腰をまっすぐにしろ、りっぱな男子が犬の供をしてあるくさえ恥ずべきなのに、お犬とはなにごとだお犬とは。足軽だって身分こそ軽いが、武士にはちがいあるまい。犬のお守がうまくてもさむらいのほまれにはならんぞ」権六は、ぎゅっと唇を噛んだ。孫兵衛は刀をおさめ、「飛竜はおれがぶれい討ちにした、いいぶんがあったらいつでも来い、待っていると云うがいい、わかったか」そう云ってそこをあゆみ去った。
 屋敷へもどっておのれの長屋へはいると、かれは妻の屋代やしろをよんで始末を語った。まえから良人おっとのそぶりで、いつかはこういうことがあるものと覚悟をしていたらしい、妻はさしておどろくようすもなかった。「与吉郎どのは、近頃めにたって治部へとりいっている。殿のおためというが、それが本当ならむしろ殿の恥辱でさえあると思う。それとなくご意見をするのがおわかりがないらしい。それでとうとうこういう手段をとった。おそらく菊岡とは義絶になると思うが、そうなった場合おまえはどうする」屋代は良人を見あげて、それはあらためて申上げるまでもないと云った。「だが、もっと悪いことになるかもしれぬぞ」「いかようなことになりましょうとも」と屋代はつつましく答えた。「わたくしは香田家の嫁でござります」きまりきった返辞ではあるが、やはりきめどころをきめたという感じで、孫兵衛は心がおちついた。
 与吉郎が石田三成にとりいろうとするのを、どうしてそこまでかれが憎んだかというには理由があった。ごしゅくん左京大夫幸長の父は、弾正少弼しょうひつ長政である。もと織田信長の家臣であり、秀吉とはあい婿の親族であったが、秀吉が関白太政大臣とまで栄達するあいだに、ふたりのあいだがらは必ずしも折合いがよくはなかった。長政は二度まで秀吉のために、危くころされようとした。その二度とも徳川家康が調停にたって命はたすかったが、二十余万石の大名としては、ぬぐいがたき屈辱だった。そのうえ、去年秀吉が逝去せいきょして間もなく、――浅野長政は、ひそかに徳川どのを討とうと謀略をめぐらせている、という密諜みっちょうを、徳川家へ通じたものがあった。むろん根も葉もないことだったが、長政としては命を救われた恩があるので、すぐに五奉行の職を去り、武蔵のくに調布の里に隠棲いんせいして、二心のないことを証さなければならなかった。そしてこの密諜が、治部少輔から出たものだということは、いまでは知らぬ者がないといってよい。これらの事情を思いあわせると、与吉郎がご主君のためと称してしきりに三成へとりいっていることが、屈辱のうわ塗りであると云っても無理はないだろう。まして、あわよくばおのれの運の踏段にしようというはらがあるとすれば、孫兵衛が最悪の場合をも辞さぬ気持を持ったことは、決して不当ではなかったのである。
 ――なんと云って来るか。そう思って待っていたが、菊岡からはべつになんのたよりもなかった。そして四五日すぎたある日のこと、かれはお召しをうけて、主君幸長の御前へ出た。「庭へまいれ」ひどく機嫌のわるい顔でそう云うと、幸長は小姓のささげていた佩刀はかせをとり、誰も来るなと云いながらさきに立って庭へおりた。唯ならぬけしきだった。なんだろうと不安ながらいそいでついてゆくと、幸長は泉池のほとりで立ちどまった。孫兵衛は、その前にひざをついて平伏した。
「そのほう、与吉郎の犬を斬ったそうだな」
 そう云われて、孫兵衛はあっと思った。――あいつめ殿へご訴訟しおったのか。じかに押しこむ勇気がないので、しゅくんの裾へすがって返報しようとした、これほどまでに性根がみれんになっていようとは思わなかった。卑劣なやつだと、思わず孫兵衛はこぶしをにぎった。
「事実か、本当にそのほう与吉郎の犬を斬ったか」
「まことに恐れいり奉る、じつは」
「いいわけ無用」幸長のこえは、御殿までびんとひびいた。「斬ったかどうかをたずねるのだ。申せ、まことに犬を斬ったのかどうだ」「はっ、……たしかに」「斬ったと申すのだな」「…………」「孫兵衛、そのほうの刀は、犬を斬るほど無益なものか、刀はさむらいの魂とも云う、そのほう武士の魂で……ばか者」さけぶのといっしょに、つと身をかがめた幸長は片手で孫兵衛のえりをつかみ、こぶしをあげて力まかせになぐりつけた。


 二つ、三つ、なぐりつけ、そこへぐいぐいじ伏せたと思うと、幸長はとつぜん一封の書状と短刀を孫兵衛の手につかませ、「これを徳川殿までお届け申せ」とささやくようなこえで云った。「屋敷まわりは治部少輔の眼がある、いかなる方法でもよい、気付かれぬようにぬけだしてゆけ」声は低かったがその内容の重大さは雷のように孫兵衛の胸をうった。はっとさげる頭を、幸長はさらに一つ打ち「不心得者め、このたびはゆるす、以後はきっと申付けるぞ」そうどなりつけると、大股おおまたに御殿のほうへと去っていった。
 孫兵衛は地面にうち伏したまま、すばやく封書と短刀をふところへねじこんだ。書状の裏にはかずしげ(三成)とはっきり書いてあった。密書である。家臣にも知れぬようにわざわざそのような仕方で孫兵衛に托さなければならぬほど、それは重大な密書にちがいない。したがって、屋敷まわりに治部少輔のきびしい見張りがあることも、事実だろう。――いまこの屋敷を出る者は、その眼をのがれることはできない。どうしたらよいか、孫兵衛はしずかに立ちあがり、衣服の土を払いながら遠侍とおさぶらいのほうへもどった。そしてお広縁へあがろうとしたとき、菊岡与吉郎とばったりであった。かれは同役の者四人といっしょだった。孫兵衛の眉が、とつぜんびくっとひきつった。
「与吉郎待とうぞ」かれはそう叫びながらとびあがり、与吉郎の前にたちふさがった。そのようすがあまり切迫していたし、自分にうしろめたく思い当ることがあったのだろう。与吉郎は身をひきながら反射的に刀のつかへ手をかけた。しかし孫兵衛はそれより早くとびこむと、「みれん者、庭へでろ」と組みつき、おのれもろともだっと縁から下へころげ落ちた。「香田なにをする」「あぶない」四人のつれが、びっくりして声をかけたとき、はね起きた与吉郎がぬきうちに胴へ斬りつけた、孫兵衛は二度までその切尖きっさきをくぐった、そしてからだがひょいと縮み、つぶてのように跳躍したとみると、与吉郎は脾腹ひばらから逆に肩のあたりまで斬り放され、刀を手からとり落しながら身をねじるように顛倒てんとうした。「おぼえたか!」孫兵衛の叫びごえは、人を呼びたてる四人の声に消された、「喧嘩けんかだ」「出会え」という四人のこえにつれて、廊下のあちらこちらから人が駈けつけて来た。孫兵衛はちょっとゆき場に迷っている風だったが、駈けつけて来た人々が庭へとびおりるのといっしょに、血刀をさげたまま走りだし、そのまま屋敷の門からそとへとびだしていった。
 あとから駈けつけたいちぶの人々は、そのままひっしと追っていったが、残りの人数は門前に集ってがやがやとののしりたてていた。「どうしたのだ」「孫兵衛が菊岡を斬ったんだ」「だって親族同志で、いったい理由はなんだ」「飛竜を孫兵衛が殺したんだ」事情を知っているとみえ、ひとりがあらましのことを話していた。「しかし逃げるとはみれんだな、日頃の孫兵衛にも似合わぬばかなことをするものだ」「けれど、菊岡の命ととりかえは惜しいよ」「さきに抜いたのは菊岡だった、孫兵衛は斬るつもりはなかったと思う、おれは見ていたんだ、証人もある」こういう問答は、かなりこわだかに交わされていたので、もし治部少輔のめつけがうかがっていたとしても、これが孫兵衛の必至の機智だったとは気付かなかったにちがいない。
 孫兵衛は、息をかぎりに走った。玉造たまつくりのあたりで追手をまったくひきはなし、黒門口から平野川のほうへ脱出した。そのころ、治部少輔は加藤、福島らの五武将と不和のことがあって居城である近江のくに佐和山へ帰っていた。だから伏見城にいる家康のもとへゆくのに、おもての道をとっては石田のめつけをのがれることはできない、そこで孫兵衛は、奈良路を四条畷しじょうなわてまでゆき、河内のくにからよどへとはいった。それまでに二日かかった。淀でようすをきくと家康は伏見城にはいず、川をへだてた向島のだいに移っているとのことだった。かえって孫兵衛のためには、仕合せである。かれは巨椋池おぐらのいけのほとりにひそんでいて日が暮れてから家康の第をおとずれた。
 本多中務の家臣に、平林大膳という知りびとがいたので、そのとりなしで好都合に家康と会えた。対面はさしむかいで、ひとりの扈従こじゅうもなくおこなわれた。家康は黙って封書をひらき、燭台しょくだいのほうへ傾けて読んだ。……孫兵衛は、そのおもてをじっとみつめていた。


 家康は、そのとき五十八歳だった。小づくりのからだは老年の肥えかたをみせはじめていたが、日にやけた肌はつやつやと張っているし、白毛しらがをまじえた厚い眉にも、細くてつぶらな双眼にも、いく十年の霜雪をしのんでようやく円熟の境に達した人の、おおらかに重々しい風格がにじみ出ていた。密書の内容は伝わっていないが、その翌年、関ヶ原合戦というかたちで現実となったその企劃きかくの誘いであることだけは、たしかだった。家康は読みおわると、すぐに、燭の火をうつしてそれを灰にした。短刀は吉光の九寸五分、三成が秘蔵の品として名だかいものである。家康はよくよくあらためたのち、それはおのれのふところにおさめた。「幸長どのから、なにか口上はなかったか」「なにもござりません」「そうか、さぞつかれたであろう。今宵はここへ寝てゆくがよい」そう云って家康は扈従をよび、孫兵衛に食事を与えるように命じた。
 しゅびよく大役をはたした孫兵衛は、接待の酒にもこころよく酔って、与えられた寝所にはいった。そこまで張りつめた気持で、ひとすじに誤りなくやりとおして来たが、やくめを無事にはたして、はりつめていた心がゆるんだときに、そのときにかれの「覚悟」がよろめきだした。夜半にふと眼ざめたかれは、そのまま寝つかれぬままに――さてこれからどうするか、ということを考えた。治部少輔のめつけの眼をくらますためには、いかなる方法をとってもよい、ごしゅくんはそう云われた。また与吉郎を斬ったことは、自分としてはすべきことを為したという意味で悔いはないけれども、それではこのまま屋敷へ帰れるかという疑問があった。与吉郎には弟がいる。親族もある。かれらが黙って、孫兵衛のしたことをうけいれる筈はない。ことによると、弥五郎はもうおれのあとを追って屋敷を出ているかもしれぬ。武弁者の弥五郎は、おそらく半刻はんときも安閑としてはいないだろう、屋敷をでかけるかれの気負った顔つきが、孫兵衛には見えるように思えた。これがあたりまえのはたしあいだったら、与吉郎を討ったその場で割腹するか、そうでなければ弟弥五郎を迎えて勝負したであろう。しかしそれとこれとは事情がちがうのである。このうえ弥五郎を斬る必要はすこしもないし、また与吉郎づれの命と自分をひきかえにするのもまっぴらだ。――ではいったいどうしたらよいのか。
 孫兵衛は明けがたまでひとつことを考えつくした。そしてつまりはいずれとも心のきまらぬままで、向島の第を辞去した。その朝はことに霜がふかく、まだほの暗い野づらは雪でも降ったようにみえた。――とにかく、大阪へもどってみよう。とりとめもなくそう思いながら、宇治川の岸まで来たとき、いましも渡し舟がついて四五人の客があがって来るのをみた、そのなかに武士がひとりいた、孫兵衛はぎょっとしてすばやくかたわらの叢林そうりんのなかへとびこんだ、幸運だった、身を隠した刹那せつなには「いやまさか」と思ったのだが、渡し舟からあがって来たさむらいは菊岡弥五郎だった。そう認めると、そのまま孫兵衛は叢林のなかを足にまかせて走った。――命が惜しいのではない、いや命は惜しい、だが卑怯ひきょうで惜しいのではない、こんなことで死にたくないだけだ。やがて大阪と関東とのあいだに合戦がある、必ずある、おれは武士としてその合戦に会わずに死ぬことはできない、その時までは生きるんだ、そして御馬前にむくろをささげるんだ。走りながら、かれは自分を説きふせるようにそれを繰り返していた。
 三日めに孫兵衛は、琵琶湖びわこの西岸を北へむかってあるいていた。近江のくに朽木くつきには、朽木元綱の居城がある。その家に、和泉兵庫介という知りびとがあった。伏見を出てから五日めのたそがれ、ちょうど降りだした雪のなかを、孫兵衛は朽木の町へはいっていった。兵庫介は主用で京へいったあとだったが、家族の者はこころよく迎えてくれた。
 弥五郎が追いついて来たのは、そのつい翌々日のことであった。和泉と香田とが知己のあいだがらだということは、縁者としてよりもおなじ家中として、弥五郎が知っているのは当然である。
「大阪から、人がおみえでございます」和泉の家人がそう告げに来たとき、孫兵衛は昼の食事をしまったところだった。「いま出ます」そう答えて、家人が去るより早く、かれは大剣をひっつかんで家の裏へとびだした。朝から降りだした雪がまだやまず、戸外はもうくるぶしを埋めるほど積っていた。かれは山地のほうへ、けんめいに走った。おおいという叫びごえが聞えた、三度めには、よほど遠かった、それでふりかえってみると、吹きまくる雪のかなたに弥五郎の姿がちらとみえた。孫兵衛は、首里岳しゅりだけのほうへまっしぐらに走りつづけた。


 年があけて、慶長五年となった。孫兵衛のやすむひまなき転々流浪のあとを記す要はあるまい、秋八月、かれは加賀のくにで、石田三成の挙兵をきいた。――治部少輔どのの軍勢が、伏見城をとりかこんだそうな。伝わってきた風評は、すでにいくさがかなり発展していることを示していた。そしてその事実を証拠だてるように、金沢の前田利長がにわかに出兵し、おなじ加賀の大聖寺だいしょうじと小松城との攻撃をはじめた。大聖寺には山口宗永、小松には丹羽長重がいる、両者とも石田軍に属する北方のまもりだった。孫兵衛は、しまったと思った。待ちに待った時が、あまり早くきた。そして戦は、きわめて急速に進捗しんちょくしているようである。――もし合戦におくれたら。ああもしそんなことになったとしたら、武士の名もすたれ、二百余日のあいだ意地をしのんで隠れまわった苦心が、水のあわとなってしまう、かれはとびたつように出立した。
 春のころいちど、若狭のくにから妻へ消息をだしたが、はたして届いているかどうか、ともかくいちど大阪へ出ようと考えた。しかし、大聖寺との開戦で、越前への道はみんな塞がっていた。危険を冒してゆくか、それとも飛騨ひだをまわってゆくか、心せきながらどうしようかと迷っているうちに、戦のようすがだんだんわかってきた。三成の挙兵は家康が上杉氏討伐の軍を東へすすめたあとのことで、御主君浅野幸長もその討伐軍に加わっているらしい。――それでは大阪へゆく意味はない。孫兵衛はすぐに思いとまった。妻のことが気にかかったけれど、いまはどうするいとまもない。道をひきかえして越中から飛騨へとはいった。浅野家の領地は甲斐かいのくに二十万石で、居城は甲府だった。領地からも出兵するにちがいないし、すればその西上する途中で会えるだろう、そう思ったのである。
 飛騨のくに高山へでたのが九月八日だった。そこは金森兵部長近の領地で、兵部入道も、やはり家康の東征軍にしたがっていたが、その子出雲守可重いずものかみありしげは三成挙兵の報にはせ戻り、はやくも美濃へと攻め入ったあとだった。それで、かなりくわしく戦の模様をきくことができた、それは加賀できいたものより、もっと急迫していた。すなわち伏見城をおとしいれた西軍は、伊勢へ侵入する一方、本隊は東攻して大垣城を奪取、すでに三成はそこに営をすすめている。また東海道を攻めのぼった徳川軍の先鋒せんぽうは、八月二十三日に西軍の前衛たる岐阜城を攻略し、諸将は赤坂の駅まで陣をすすめているという。岐阜城の戦はかなり激戦であり、浅野幸長も合戦の一翼にあって、はなばなしい手柄であったということだった。――おくれた、おくれた。孫兵衛は、じだんだを踏んだ。通信のきわめて不便な時代であり、諸方いちどに戦が起っているので、風評をきいてとびだしたときにはもうおそかったのだ。かれは、夜も日もなく道をいそいだ。――両軍の主力戦はこれからだ、命をしてもその戦におくれてはならぬ。道はきわめて困難だった。山はけわしく谷は深い、しかも要所要所には厳重に番所ができていて、少し怪しい者とみれば、どしどし検束してしまう。心はせくが、なかなかはかどらなかった。そしてようやく美濃へはいったのが十二日、岐阜城を見たのは十三日だった。
 徳川家康は、本隊をひっさげて十一日に清洲へ到着し、十三日には岐阜へ来ていたので、そこは軍馬でみかえす混雑だった。孫兵衛は本多忠勝の陣をたずね、平林大膳に面会をもとめた、……かれは平服のままだった、小具足を買うことさえできなかった、それで大膳にたのんで足軽の具足でもよいから借りようと思ったのである。しかし平林大膳は、そこにはいなかった。先発隊といっしょに前線へ出たあとだったのである。――よし、それならこのなりで斬りこんでやろう。武士が戦場へ出るのに物具もけないというのは恥としてある。けれどもうそんなことを考えているいとまはなかった。孫兵衛は、心をきめて赤坂の駅へとむかった。浅野幸長は、垂井たるいの駅の西に陣をしいていた。十四日の夜、かれは垂井へはいったが、どうしてもごしゅくんの陣へ伺候する気にならなかった。なにかひと働きしてからでなくては朋輩ほうばいにあわせる顔もない、孫兵衛は折からのはげしい雨を冒して、闇夜の道をさらに西へと進んでいった。
 慶長五年九月十五日、夜明けと共に雨はやんだが、山野はいちめんに濃霧がたちこめ、あい対峙たいじする東西およそ十四五万の軍勢は、ひき絞れるだけひき絞った弓弦ゆんづるのように、満を持して戦機の到るのを待った。かくして午前八時、東軍の左翼にあった井伊直政が、敵右翼にある宇喜多秀家にむかって敢然と戦をいどみ、ここに関ヶ原合戦の幕はきっておとされたのである。


「おおっ、そこへゆくのは香田孫兵衛ではないか」乱軍の中だった。松平忠吉の陣をぬけて、合戦のまっただ中へ斬りこんだ孫兵衛が、しゃにむに前へ前へと突進していたとき、ふいに脇からそう呼びかけられた。ふりかえってみると、本多の陣へたずねた平林大膳である。「平林どのか」「どうした……怪我をしたそうではないか」そう叫びながら、大膳がはせつけて来た。「怪我? おれがか?」「井伊どのの先陣について浅野の別働隊が斬りこんだという、めざましいはたらきぶりで、香田孫兵衛が重傷を負ったといま聞いたばかりだ」孫兵衛は、あっけにとられた。自分のほかに、香田孫兵衛がいるというわけはない。なにか間違いではあるまいか。「しかし、それはたしかなのか」「たしかだとも、あ、みろ」と、大膳は手をあげて右手をさした。「あそこへひきあげて来る人数がそれだ。あの差物さしものは二つ矢羽根、たしかに貴公の差物ではないか」
 まさにそうだった。黒の四半に白く二つ矢羽根をぬきだした差物、まさしく自分の差物にちがいない。「のちに会うぞ」そう叫んで、孫兵衛はいっさんにそっちへはせつけた。およそ十五六人の兵が、負傷者を載せた盾をまもってやって来る。近寄ってみると、それは孫兵衛の支配する槍組の兵たちだった。かれらも孫兵衛をみてあっと声をあげた。「待て、その盾の上にいるのは誰だ?」兵たちはなにか答えようとしたが、黙ってしずかに盾をおろした。負傷者の着ているよろいは、孫兵衛のものだった。頭の脇に置いてあるかぶともかれのものである。「誰だ、貴公は誰だ」孫兵衛は、横たわっている相手の肩へ手をかけた。負傷者はしずかにふり向いた、それは妻であった、妻の屋代であった。孫兵衛は、愕然がくぜんと息をのんだ。「おまえか、屋代、おまえだったのか」「旦那さま」屋代はひどくかすれた、弱々しいこえで、とぎれとぎれに云った。「おゆるし下さいまし、お具足をけがしました、女の身で、さしでたことをいたしました。でも……お待ち申していたのです、お待ち申して、もう間にあわぬと存じましたから……」「云うな、おれのおちどだ、おれのおくれたのが悪かったのだ」かれは、妻の手をしかと握った。屋代はうるんだ眼で、じっと良人を見た。「身代りのことは、誰にも知れぬようにしてございます、それをどうぞお忘れなく」「わかった」孫兵衛はつよくうなずいた、「いまはなにも云わぬ、さがって早く傷の手当をするがよい、心をたしかにもっているんだぞ」「わたくしは……大丈夫でございます」「よし、ではもうひと我慢、その鎧をぬいでくれ」無理だとは思ったが、抱き起して鎧をぬがせた。脇壺がいたましい槍瘡やりきずだった。眼をつむって、妻の血に濡れた鎧を着た。「では屋代、ゆくぞ」
「…………」妻は燃えるような眸子ひとみをあげて、くいいるように良人を見た。「ご武運めでたく」
「……死ぬなよ」云いきると共に、かれは決然と乱軍のなかへ斬って行った。
 うまの刻までは、東軍の苦戦だった。どちらかというと圧迫され、あるときは家康の本陣までが、危うくみえた。雨あがりの戦場は、軍馬のためにこね返され、斬りむすぶ兵たちは、敵も味方も泥まみれだった。孫兵衛は、島津惟新の隊へまっしぐらに斬りこんでいた。それはまったく捨て身のたたかいだった。むらがる敵中へ、まったく単身で挑みかかったのである。「左京大夫浅野幸長の家臣、香田孫兵衛」かれの叫ぶなのりは、どよめきあがる喊声かんせいのなかに、幾度も高くひびきわたった。するとそれにつづけて、「おなじく菊岡弥五郎としのぐ」というなのりが聞えた。――弥五郎! 孫兵衛は、殴りつけられたように感じた。かれは声のしたほうへふりかえった。敵兵のなかに、まさしく菊岡弥五郎の姿がみえた。そして孫兵衛のほうをちらと見た。なにか叫んだようだった。孫兵衛がふりかえったのは、ほんの目叩またたきをするひまであったが、その僅かなひまに敵兵がふたり襲いかかっていた。
 わっと喚きながら突っかける槍を、わすいとまがなかった。高腿たかももをふかく刺された。しかし刺させたままかれは相手の脇へ太刀を突っこんだ。相手は横へよろめいた、そのとき二人めの敵が斬りこんできた。その刀は、鎧の胴にあたってかつと鳴った。孫兵衛はひだりへ躰を転じようとしたが、高腿に刺さったままの槍が足にからんだので、そのままだっと横倒しになった。――しまった。はね起きようとする真向へ、敵の二の太刀がうちおろされた。かれは自分の頭蓋骨ががんと鳴るのを感じたきり失神した。
 孫兵衛が我にかえったとき、すぐそばにいたのは菊岡弥五郎だった。――ああおれは弥五郎に救われたのだな。そう思った。弥五郎はかれが眼をあいたのをみてにっと微笑して、「戦は勝ったぞ」と云った、「金吾秀秋のねがえりは効を奏した、石田軍は支離滅裂の敗軍で、いま味方はひっしに追撃ちゅうだ」
 孫兵衛はうなずいたまま、しばらくじっと弥五郎を見あげていたが、「貴様どうしておれを救ったのだ」と、喉のかすれたこえで云った。
「救いはしないよ」弥五郎は、かぶりを振った、「貴公は自分で敵を倒した、相手の太刀が貴公の真向へ割りつけたとたんに貴公は敵の胴をとっていた、すさまじい一刀だった、相手はそのひと太刀で倒れたんだ、おれはただ此処ここまで担いで来ただけだよ」「なぜ斬らなかった」「…………」「そのときなぜ斬らなかったんだ」
 弥五郎は手をのばして、孫兵衛の肩をおさえつけた。それから遠くの空を見るように眼をあげ、しずかなこえでつぶやくように云った。「おれは貴公を伏見城へ追っていった、それから近江の朽木へも。……若狭へもいった、但馬たじまのくにまで捜したよ、だが、それは……貴公を斬るためにではない、ごしゅくんのもとへ帰るようにと云うためだった」孫兵衛は、不審そうに眼をみはった。「弥五郎、それはどういう意味だ」「おれは……兄がどのような男か知らなかった、それで殿から仔細を聞かせて頂いたときは、恥かしくて身の置きばがなかった。しかしそれだけではない、殿は貴公の身をお案じあそばされて、迎えにゆけと仰せだされたのだ、それでおれはあとを追ったのだ」
 孫兵衛は、思わず歯がみをした。――そうだったのか、ああそうだったのか、自分はただ仇討あだうちをしかけられるものとのみ思っていた。みれんだった、臆病ともいうべきだ。心さえきまっていたら、……やくめをはたしたあと、討たれてやる覚悟さえゆるがなかったら、二百余日も逃げ隠れる要はなかったのである、「きたるべき合戦までは生きのびたい」そう思いはじめた心のゆらぎが、合戦にもおくれ妻に重傷を与える結果となったのだ。――武道の根本は死を怖れぬところにある。このわかりきった真理を、しかし孫兵衛はいま身をもって体験したのだ。
「屋代は命をとりとめたよ」弥五郎が囁くように云った。「貴公のことも伝えておいた、向うきずだといったらよろこんでいたよ」「……戦場をみせてくれ」孫兵衛は、妻をおもうことに堪えられなかった、それでわざと話題を転じた。弥五郎がよしと云って抱き起してくれた。
「よく見ろ、ここは桃配山の本陣つづきだ。むこうが関ヶ原、正面にあるのが天満山だ、貴公はあの森のわきのところから……」弥五郎が手をあげて説明するこえも、なかば耳にはいらなかった、孫兵衛はせきあげる涙をかくしながら呟いていた。――屋代、もうすぐ会うぞ。





底本:「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」新潮社
   1983(昭和58)年10月25日発行
初出:「講談雑誌」博文館
   1943(昭和18)年1月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2025年8月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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