山だち問答

山本周五郎





 追手門を出ると、遠い空でかみなりが鳴りだした。ひるさがりからむしていたし、雲あしがばかに早くなったので、これはあぶないなと思っていると、桜の馬場をぬけたところでとうとう降りだした。こおり玄一郎はちょっとあたりを見まわしたが、向うに昌光寺の塔があるのをみつけてそっちへ急いだ。
 石段を登るところでざっと来た。そして彼が山門へ入るのといっしょに、侍女をつれた武家の娘がうしろから駈けこんで来た。玄一郎はそちらを見ないようにしながら、濡れた頭や肩裾を拭いた。……いちめん雲におおわれて暗くなった空から、斜めに銀の糸を張ったように落ちてくる大粒の雨は、激しい音をたてて地面を叩き、霧のように飛沫しぶきをあげた。道を隔てた向うは矢竹蔵やたけぐらの長い土塀どべいになっているのだが、あまり強い降りでそれさえ今は見えなかった。
「困ったねえこれは」とうしろで娘の声がした、「……おまえが通り雨だと云うから来てしまったのだけれど、これではちょっとあがりそうもないじゃないか、こんなことなら待っているか傘を持って来るんだった」
 ひどく権高な調子だし、言葉つきがまるで男のものだった。玄一郎はわれ知らずふり返った。娘はそれを予期していたらしい、そのくせそ知らぬ風を装っているのがよくわかった。年はまだ十七くらいだろう、うわ背のある肉付ゆたかな体で、横顔だからよくはわからないが、線のはっきりしたかぬ気らしい眉つき口もとをしている、かたくひき緊った頬と、くくれたようなあごに特徴があった。
「宗田でも気が利かないねえ」娘は玄一郎を無視した態度で続けた、「……私が途中で降られているくらいわかるだろうに、雨具を持たせてよこす気にもならないのかしら、こうしてぼんやり雨宿りをしているくらいばかげたかたちはないよ」
 これはたいへんな者だと、玄一郎は驚いた。
 宗田といえばこの大垣藩の老職を勤める戸田采女正うねめのしょうを指す、戸田に三家あるので、宗田という処に屋敷のある采女正をそういうのだが、宗田と呼捨てにできるのは国家老だけの筈だ、たとえ公けの席でないにしてもそこにげんざい家中の侍がいるし、然もまだ年若の少女の身で平然とそう呼ぶのはなみ外れて聞える、――いったい誰のむすめだろう、玄一郎はもういちどそっちを見た。
「ひどい飛沫じゃないか」と、娘は片手で裾前をつまみながら云った、「……こうしていては雨をよけても飛沫で濡れてしまう、おまえ宗田までいって雨具を借りておいで」
 侍女は「はい」と答えたが、どしゃ降りの空を見あげて、ちょっと足が出せないようすだった。娘はまったく無関心に、「なにをしているの」と促す、侍女は思いきったように両方の袖を頭の上へ重ねてとびだそうとした。玄一郎は見かねて、「ちょっとお待ち」と呼びかけ、着ていた羽折をぬいで侍女の手へ投げ与えた。
「それを冠っておいで、幾らかしのぎにはなるだろう、いや遠慮はいらない持っておいで」
「では……」と、侍女はなにか云おうとしたが、殴りつけるような雨なので、軽く会釈をするとそのまま、羽折を頭から冠って駈けだしていった。
 娘は初めてこちらを見た。こんどは玄一郎がすばやく顔をそむけた、それでもなにか云いかけそうなそぶりだったので、彼はくるっときびすを返して山門の裏がわへ来た。意地を張る積りではなく、話しかけられるのがうるさかったのである、……するとそのとき昌光寺の庫裡くりのほうから、寺の印のある傘をさした一人の若侍が出て来て、向うから玄一郎に声をかけた、それは、彼と同じ書院番を勤める矢内又作という同僚だった。
「雨宿りかね、こう激しくては雨宿りも風流とはいえないな」
 又作はそう云いながら近寄って来た、「……こいつはなかなかやみそうにもない、どうせ途中だから家まで送っていこう、入らないか」
 頼もうと云って、玄一郎は傘の中へ入った。山門を出ようとしたとき、又作はそこにいる娘をみつけた、そしてたいへん吃驚びっくりしたようすで低頭した。玄一郎は見向きもしなかった、石段を下りて左へ、半町あまり来てから、又作はなにか秘密なことでも告げるように、「勘斎老人のお嬢さんだよ」と云った。勘斎老人とは老職戸田内記のことで、その老人に小雪というずぬけて男まさりのむすめがあるということは、玄一郎もいつか聞いた覚えがある。小太刀、弓、薙刀なぎなたなども達者だし、殊に馬にはひじょうに堪能で、しばしば独りで遠く城下外まで乗りまわすという評判が高かった。
「老人はまるで、眼の中へでも入れたいような可愛がりようさ、それだもんですっかり野放図になってしまった、立ち居ふるまい言葉つきまで男そっくりだよ、いつかなんぞ客のいる部屋の前を風呂からあがった素裸のまま平気で通ったというからな」
「世間のうわさは無責任なものだよ」
「然しあの女の場合は噂以上さ、現におれがこの眼で見ているんだから、それに」
「有難う」
 曲り角へ来たので、玄一郎は傘の中から出て別れを告げた、「……もうそこだから駈けていこう、おかげで助かったよ」


 玄一郎はそれなりその日の事を忘れた。小雪という娘のことも、侍女に貸してやった羽折のことも、……それというのが間もなく彼に縁談が始まったし、書院番から馬廻り扈従こじゅうに役替えになったりして、なにやかや身辺が忙しくなったからである。縁談の相手は槍奉行を勤めている佐田権太夫のむすめで、権太夫が自分から玄一郎をみこんでの話だった。仲人には老職の大高半左衛門が立つことになっていた。郡の家がらにすれば破格のことである。はじめ玄一郎は躊躇ちゅうちょした、彼はごく平凡な人間でとりたててれという能才もない、「おれのとりえはただ出しゃばらないのと口数の少ないことだけだ」自分でそう信じているくらいだった。然し世間は妙なもので、あまり口数もきかず、必要でない限りいつもしんと自分の座を守っている彼の挙措をたいへん高く評価し始めた。或るとき誰かが「郡は人物だ」と云った、それが人々の眼をいっせいに彼へ集め、「なるほど郡にはなにかがある」とうなずかせた、そんな程度だろうと玄一郎は推察している。書院番のときにもいつかしら肝入役に推されていたし、馬廻り扈従にひきぬかれたのも番がしらが眼をつけたからだった、そして槍奉行の女との結婚には老職が仲人に立つという、もちろん式だけの役ではあろうが、――然しこれはかなり不相応だ、彼はそう考えた。ことさら自分を卑下する気持もないが、不相応に買いかぶられるのは迷惑である、それでかなりためらったのだが、おそらくそれを察したのだろう、佐田権太夫が再三やって来て、
「人間は謙虚であることもよいが、然るべき場合には堂々と自分を主張することも大切だ。才分というものは備わっていると同時にみずから認めなければ萎縮いしゅくしてしまう、今そこもとに必要なのは自分が千人にすぐれた人物だという自信をもつことだ」
 繰り返しそう云った。単にそれだけが原因ではなかったが、その言葉から思い当ることもありまた権太夫の熱心さにうたれて、結局その縁談を承知したのであった。
 佐田のほうで知己に語ったのであろう、はなしがまとまるとすぐ、同僚たちが、入代り立代り祝いに来た、「いよいよ時節が来たな、おれは以前からそう思っていたんだ、いまに郡は出世するぞってさ」「この機会を外さずひとふんばりやってれ、おれで役に立つことがあったら犬馬の労をとるぞ」「うしろにおれたち昔の仲間が控えていることを忘れないように頼む」みんなたのもしげに、或いはかなり追従ついしょうめかして、それぞれに友情のこもった言葉を述べていった。……式は霜月にあげられる約束だった。
 その八月中旬のことである、玄一郎は御しゅくん左門氏西の仰付で、急に彦根の井伊家へ使者に立った。
 家を出たのはもう午に近かった。供は弥九郎という下僕ひとりである、秋とはいっても日中はまだ暑く久しく雨が無かったので、乾ききった道からは歩くたびにほこりが舞い立ち、それが流れもせずにそのまま元の地面におちつくほど風もなかった。……垂井でちょっと休んだだけでそのまま道を続けた、不破の関趾のあたりでれかかったが、宿をとるようすがないので供の弥九郎が注意した。
「そう、ちょうど宿あいになったな」と、玄一郎はちょっと立止った、「……昼は暑いし、山を越すには夜のほうがいいだろう、今夜は月もいいだろうから」そしてまた歩きだした。
「大丈夫でしょうか、伊吹越えには時どき悪い狐が出るという噂でございますが」
「狐は困るなあ、然し、御用も急ぐからな」
 山にかかると夜になった。幸い山峡に月が出たし、気温もこころよく冷えてきたので登りには楽だった。峠の路高みへ出たところで、岩清水を井にしてあるのをみつけ、そこへ腰を下ろして夜食の弁当をつかった。月はすでに中天へ昇っていた、どこか遠くで渓流の音が聞え、杉やひのきけやきなどの亭々と生い茂っている森の奥で、なにかにおびえたようにとつぜん鳥たちの鳴き叫ぶ声がしたりした。ゆっくりひと休みしてから、二人はそこを立った。……道はつづら折りになって、片側に森、右側に谷を見ながら、近江のくにへはいった、ちょうどくに境を越したあたりの山蔭になった処で、とつぜん二人のゆくてへ四五人の男が現われて立ちふさがった。左側の叢林そうりんの中からとびだして来たのである、……そこだけ月の光が明かあかとさしているので、男たちの風態は鮮やかなほどよく見えた。みんな小具足を着け、武者草鞋わらじ穿き、いかめしい武器を手にしている、その一人の持っている素槍の穂尖ほさきが、月光をうつしてぎらぎらと光っていた。
「旦那、賊です、賊です」と、下僕の弥九郎はなかば悲鳴のように叫びながら、玄一郎の背後へ身を隠した。
 玄一郎は左手で刀の鍔元つばもとつかみ、眼前にいる男たちよりは、左側の叢林の中と背後にある暗がりのほうへすばやく眼をやった。叢林の中にも十四五人いるようだし、月光の届かない背後の暗がりにも十人以上の人数が見える。玄一郎は鍔元を掴んでいた手を放した。
「なんだ、貴公たちはなんだ」
「見るとおりさ」と、玄一郎の問いに対して一人のずぬけた巨漢が答えた、「……それとも駕籠舁かごかき馬子とでも思うかね」
「こちらはべつに馬子とも駕籠舁きとも思わないが、それで、……なにか用があるのか」
「大した用ではない、金品はもちろん、身ぐるみ脱いでいって貰いたいのだ」その巨漢はひどくおちついた声で云った、「……然し断わって置くがわれらは野盗でも山賊でもない、みんな志操高潔な武士だ、志操高潔なるがゆえに汚らわしい世間と交わることを欲せず、同志あい求めて山中に隠れ清浄なる自然のなかで身心を鍛錬しているのだ、伊吹山はすなわちわれらが城地、此の峠はわれらの関所だ」
「さむらいにして此の関を通る者は」と、巨漢の脇にいた一人が、大地に槍を突き立てながら喚いた、「……たとえ大名諸侯、将軍たりともわれらに貢しなければならぬ、清浄の地を汚濁の足で踏む代価だ、所持の金品は云うまでもない、大小衣服のこらず置いてゆけ、不承知なら論には及ばぬ、ひと戦だ」
「やるか」と叫びながら、叢林の中から背後の暗がりから、合せておよそ三十人ばかりの人数がばらばらと前後へと詰めた。……玄一郎は動かなかった、眼の前にいる巨漢の顔をみつめながら、黙ってかれらの云うことを聞いていた。おそろしく時代な、芝居めかした言葉つきだなと思った。もっとも芝居めかすからいいので、これが日常ふつうの挨拶でやったらかえって妙なものかも知れない、などとも思った。そして、賊どもがぐるっと前後をとり囲んだとき、彼はしずかに巨漢に向って云った。
「話はよくわかった、貴公たちの申し分はよくわかった、それがおきてというなら身ぐるみ脱いでゆきたいが、自分は御しゅくんの御用で彦根までまいる途中だ、ここで裸になっては御用をはたすことができない」
「人にはそれぞれ用のあるものだ。これはそんな斟酌しんしゃくをする関ではないぞ」
「そこで相談をしたいのだ」玄一郎はふところから金嚢かねぶくろを取り出し、巨漢の手に渡しながら云った、「……この中に二十金ほど入っている、まず是れを渡すから衣服大小はみのがして貰いたい、もしみのがすことがならぬというのなら、彦根から帰るまで自分に貸して貰えまいか」
「貸して欲しい、それはどういうわけだ」
「御用をはたせばすぐこの道を帰って来る、おそくも明後日の夜には戻って来る、そのとき衣服大小を渡すと約束しよう」
「ばかなことを云うやつだ」槍を持った男がわっはっはと哄笑こうしょうした、「……そんなたわごとを真にうけて、おおそうかと貴様の帰りを待っていられるか、そんな子供だましに乗るわれわれではないぞ」
「子供だましかどうか自分は知らない、然し約束は約束だ」と、玄一郎はしずかに云った、「……御用をはたした帰りには必ず身ぐるみ脱ぐ、志操高潔だという貴公たちがさむらいならわかるだろう、武士に二言はない」
「やかましい、裸になるかひと戦さか二つに一つだ、文句はぬきだ」
「武士なら武士らしくきっぱりしろ、抜くか、脱ぐか」
「ええ面倒だ片付けてしまえ」
 段だん気合が乗ってきた。かれらは自分たちの呶号どごうに自分たちが昂奮こうふんし、おのおの得物をとり直して、まさに打ちかかるようすだった。すると例のずぬけた巨漢が、「待て待て」と大きく手を挙げて仲間を制止した。
「いいからみんなちょっと待て、こんなばかげた話は初めてだが、武士に二言はないという言葉が気にいった、それに嘘がないかどうか試してみよう」
「それでは承知して呉れるか」
「待とう、但し断わって置くが、約束を破ったり変なまねをしたりすると、この始終を天下に触れて笑いものにするぞ」
「念のいったことだ」
 玄一郎は微笑しながら頷ずいた。
「……では借りてまいる」
 そして主従はそこを通りぬけた。……峠を越えて下りにかかると、月光の下に坂田郷の山々の美しい起伏が展開し、道の左右にもちらほら人家がみえだした。供の弥九郎はそれまでものも云えず、足も地に着かぬようすだった、然し明り障子に灯影のさしている家などがみえはじめると、ようやく生気をとり戻したとみえ、急にわっはっはと笑いだした。彼は急に能弁になり、「あんな間の抜けた山賊は伊曽保物語にもあるまい」とか、「あいつらが今日か明日かとばかな面をして待っている恰好が見たいものだ」とか、「それにしてもあれほどうまくかれらを言いくるめた旦那の奇智と胆力はすばらしい」とか、たいそうな元気で饒舌しゃべりたてた。玄一郎は黙って饒舌らせて置いたが、さいごにひと言こう云ってたしなめた。
「そんなことをむやみに口にしてはいけない、人に聞かれたら恥になるぞ」
 彦根に着いて用事をはたしたのはその明くる日のことだった。用事が済むとすぐ、彼は弥九郎ひとりをれて帰途についた。むろん道を違えるか、さもなければ所の役人に訴えて警護の人数を同伴するものと信じていた下僕は、訴え出たようすもなく、然も同じ道を帰るのはどうする積りかと、主人の気持を量りかねて疑い惑うようだった。……玄一郎はそんなことに頓着せず、ずんずん道を早めて、まるで夜半のときを計ったように、元の峠へさしかかった。


 月は高かったが雲があるので、道は明るくなったり暗くなったりした、谷のほうからはしきりに冷たい風が吹きあげて来た。……ちょうど十二時ごろであろう、一昨夜の場所まで来ると玄一郎はそこで立止った。左の手で刀の鍔元を掴み、しばらくあたりの物音を聞きすますようだったが、やがて「おーい」とすばらしく大きな声で叫んだ。
「おーい山だちどの、おーい」
「旦那なにを」弥九郎はびっくりしてあおくなりながら手を振った、「……そんな乱暴なことをおっしゃって、待って下さい、とんでもない」
「山だちどのはいないか」と、玄一郎は構わず叫び続けた、「……一昨夜ここを通った者だ、山だちどのはいないか」
 おうと答えるのが聞えた。下僕は妙な声をあげ、刀の柄を握りながらうろうろと玄一郎の背後へ身を隠した。右手の杉林の中でがさがさという音がして、松の火がこちらへ下りて来た。見ていると、そこへ現われたのは例の巨漢と十人ばかりだが、やっぱり道の向うの暗がりへ十四五人、うしろ備えというかたちで身をひそめるようすだった。
「これはこれは」と、道へ下りた巨漢は要心ぶかくこちらの態度に注意しながら近寄って来た、
「……まさに先夜の御仁だな」
「約束をはたしにまいった。御用が済んだから借りた物を返してゆく、取って呉れ」
「なるほど二言なしという言葉どおりか、よろしい脱いでゆけ」
 そう云いながらも巨漢はゆだんなくこちらの動作を注視している、玄一郎は無ぞうさに大小をとって渡し、くるくると思い切りよく裸になった。それをひと纏めにするのを待ち兼ねたように、片方から賊の一人が手を出して奪い取った。
「そこでひとつ頼みがある」裸になった玄一郎は下帯を緊め直しながら云った。「……おれは約束だから脱いだが、供の者は気のどくだから、みのがして貰いたい」
「いかんいかん、だいいち主人が裸になったのに下郎が着物を着ていては義理に欠ける、いっしょに裸になれ」
 弥九郎も裸になった、主従とも下帯ひとつきりのまったくの素裸である。それで安心したのだろう、暗がりに隠れていた賊たちもぞろぞろとそこへ現われて来た。玄一郎は笑いもせずにかれらを見まわし、「これでいいか」と云った、そして供を促して歩きだした。……巨漢はじっとそのうしろ姿を見送っていた、そして主従が森蔭の暗がりへ入ると、感に堪えたというように低くうめいた。いかにも心をうたれたというようすだった。
「さても世の中はひろい、妙な人間がいるものだ」
 峠を下った玄一郎は松尾という村で朝になるのを待ち、通りかかった村人に頼んで駕籠を雇って貰った。むろん供の分と二ちょうである、そしてその日の午さがりに家へ帰った。
 決して他言してはならぬと、かたく口止めをしたが、おそらく下僕がもらしたのだろう、その噂がたちまち人の口にのぼり始めた、「なんということだ、武士たるものが」「ひと太刀も合せるどころか、手を突かんばかりに命乞いをしたそうだぞ」「見そこなった、そんな腰抜けとは思わなかった」「なにおれはちゃんと知っていたよ、あれはあれだけの男さ、正体を出したというだけだよ」
 そしてその評判は野火のように大垣藩の隅ずみまで弘がっていった。
 確たる根拠もなく「郡は人物だ」と云って彼を推し挙げた世評が、今や事実をはるかに飛躍して彼を叩きのめしにかかった。それは圧倒的であり辛辣しんらつを極めた、知る者も知らぬ者も、彼が昔から臆病者で、小心で、然も人にとりいることが上手だなどと云った。いつか地震が揺ったときには竹藪たけやぶへ入ったまま三日も出て来なかったとか、道で馬子に喧嘩けんかを売られて一言もなくあやまったとか、常づね上役に袖の下を遣うので、いつかさる老職に面罵めんばされるのを見たなどと証言する者もあった。……そしてしきりに郡の家の門へ、落首や嘲罵ちょうばの文句を書いた紙がられた。
 二十日ほど経った或日、佐田権太夫がいかめしい顔をして訪ねて来た。ふきげんに眉をしかめ口をへの字なりにして、相対して坐った玄一郎をじろじろと見上げ見下ろした。
「世間の噂があまりひどいのでたしかめに来た。伊吹山で山賊に遭い、手をつかねて身ぐるみがれたというのは事実か、おそらく嘘であろうがどうだ」
「嘘ではございません殆ど事実です」
「そうか、事実か」権太夫は口をねじ曲げ、みつきそうな眼でこちらをにらんだ、「……では念のためにくが、どうしてさようなみれんなまねをしたか、なにか所存があってしたことかどうか説明して貰おう」


「特に所存というほどのこともございませんが」と、玄一郎は悪びれた風もなく答えた。
「……お上の御用を仰付かってまいる途中のことで、御用をはたすまでは大切なからだですから、できるだけの争いは避けたいと思いました」
「それが身ぐるみ脱いだ理由か」
「そうです、争いを避けるためには、どうしても衣服大小を渡すと約束しなければなりませんでした」
「それは往きのことであろう、御用をはたした帰りには他にとるべき手段があった筈だ」
「然し帰りには衣服大小すべて渡す約束でしたから」
「約束、約束、約束」と、権太夫は我慢を切らしたように叫んだ、「……正しい人間に対してならかくべつ、山だち盗賊を相手になんの約束だ、そんなたわ言は申し訳としても通用はせんぞ」
「そうかも知れません、けれど私はたとえ相手が山だち強盗でも、武士としていったん約束したことは守るのが当然だと信じます」
「信じたければ信ずるがよい、人間にはそれぞれ考え方のあるものだ、見解の相違を押し付けるわけにもゆくまいからな」
 然しと権太夫はそこで開き直った、「……然しこのように見解の相違があっては婿しゅうとになってもうまくはまいるまい、幸いまだ祝言まえのことだし、むすめとの縁組はいちおう破談にしようではないか」
「それがお望みなれば致し方がありません、どうぞ宜しいように」
 玄一郎はさすがに額のあたりを白くした。権太夫は、また改めてその使いをよこすと云って去った。……その事のあった翌日、下僕がふいと出奔した。自分の口から不用意にもれたことが意外な騒ぎに発展したので、たぶん居たたまれなくなったのだろうが、「こんな主人をもっていては世間へ出られないから」という置き手紙を残していった。これを知ると三人の家士も暇を取った、ごうごうと、なにもかもいっぺんに崩壊し去るような具合である。……あとには古くからいる老年の下婢かひと玄一郎の二人だけになった。
「出たい者は出てゆくがようございます」下婢は老年のおちついた態度で、若い主人を慰めるように云った、「……世間の評判を気に病んで主人を袖にするような人間は、どこへいっても芽の出るわけはございません、旦那さまも気になされますな、たかが七十五日のご辛抱でございますよ」
「いい時はよく悪い時は悪いものさ」と玄一郎も苦笑するだけだった、「……どっちにしてもたいした事はないよ」
 そんなことを話し合っていた或夜、厨口くりやに女のおとずれる声がした、老婢が出ていったが、不審そうな顔をして戻り、「若いお女中が旦那さまにお眼にかかりたいと申しますが」と伝えた。
「お眼にかかってお返しする品があるとか申しております、いいえわたくしもまるで知らないお女中でございます」
「なんだろう、とにかく会ってみようか」
 老婢に案内されて入って来たのは武家に仕える侍女というなりかたちで、凡そ十七八になる大柄な娘だった。つつましく会釈をして坐るのを見たとき、玄一郎はどこか見覚えのある顔だなと思った。
「もうお忘れかと存じますが」と、娘は眼を伏せたまま云った、「……わたくしなつと申しますが、今年の春の終り頃、昌光寺の山門で雨宿りを致しましたとき、お羽折を貸して頂いた者でございます」
「ああ思いだした」やっぱり見覚えがあった筈だと、玄一郎はわれ知らず声をあげた、「……そんなことがあった、すっかり忘れていたがひどい夕立のときだったな」
「さようでございます、あのときお羽折を拝借いたしまして、戻ってまいりましたら貴方さまはもうおいであそばさず、お所もお名前も存じあげませんので、お大切な品を今日までお返し申すこともかなわずまことに申し訳ございませんでした」
「そんなことは構わないでよかったのに」
「先日さるお方に伺いました、ようやくこなたさまとわかりましたのでお礼にまいりました、まことにながいあいだ有難うございました」どうぞお納め下さいと云って、包みにした羽折を老婢のほうへ差出した。
「詰らぬ品をわざわざ却って迷惑だったろう」玄一郎はなにやら明るい気持を感じながらそう云った、「……なにも無いがあちらで茶でもんでゆくがいい、かね、もてなしてやれ」
 はいといって老婢もいそいそと娘を促して立った。玄一郎は久方ぶりに胸のすがすがしくなるような、明るく楽しい気持を感じた。あの激しいどしゃ降りの日から百四五十日も経っている、こちらがすっかり忘れていたのに、向うではそのあいだ捜し求めていた、その気持が云いようもなく嬉しかったのである、殊に世間の軽薄な評判に叩きのめされていた時なので、感じ方もいっそう強かったのだろう、彼はしぜんと眉がひらくように思い、「やっぱり世の中に絶望することはないな」とつぶやいた。……半刻も経ったであろうか、老婢のかねがなにか浮かぬ顔つきで入って来た。
「あの娘を使ってやって頂けませんでしょうか」と、かねは主人の気を兼ねるように云った、
「……できたらぜひわたくしからもお願い申したいのでございますが」


「然しあれは戸田老職の家に仕えている筈ではないのか」
「それがお暇になったのだそうでございます。お羽折を拝借しましたとき、お所も名も伺わなかったのが戸田さまのお嬢さまの御きげんを損じ、そのように作法を知らぬ者は使っては置けぬと間もなくお暇が出たのだと申します」
「それはお気のどくだな」あの豪雨の中では所も名も訊くひまはない、悪いのは先に立去ったこちらで侍女のおちどではなかった、もしそれが原因で戸田家を追われたとすれば、その責任の幾分かは自分にもある筈だ、「……いいだろう、おまえが置いて差支えないと思ったら使ってやるがいい」
「それは有難うございます、さぞ娘もよろこぶことでございましょう」
「だが念のために身許みもとなどはよくたしかめないといけないな、すべておまえに任せるから頼むぞ」
 老婢は、自分のことのように喜んで立っていった。
 悪評の嵐はなおやまなかったが、こちらがまるで平然としているため、さすがに張合がないのだろう、あまり手厳しいことは少なくなっていった。そして郡の家の日常はまるでそういうものの影響の外にあるかの如く、少しの変化もなく静かに明け暮れしていた。……当然お役替えになるものと覚悟していたが、幸いその沙汰はなく、勤めのほうもとにかく無事に過ぎて、季節は冬を迎えた。
 ひっそりと時雨の降る宵だった。茶を運んで来た侍女のなつが「火をみましょう」といって火桶ひおけをひき寄せ、なにやら仕にくそうに炭をつぎ足しにかかった。玄一郎はなにげなくなつの顔を見た、こちらへ横顔を向けている。その眉もと口もとが、ふと玄一郎の胸をどきっとさせた。彼は自分の眼を信じ兼ねるように、改めてなつの顔かたち体つきをじっと見直した。……彼の眼はするどく光り、唇はぎゅっとひき緊った、その注視のはげしさに気づいて、なつがちらとこっちを見あげた、玄一郎はその眼をひたとみつめてから、机上にひらいてある書物のほうへ向き直った。
 明くる朝のことだった。非番に当るのでゆっくり朝食を済ませた玄一郎が、雨あがりの暖かい日のさす縁側に出て庭を見ていると、向うの物置の蔭にある菜園で、なつが、くわを持ってしきりにうねの土を柔らげていた。彼もそれで土を打ったことがあるが、並よりは大きくてかなり重い鍬である、なつはそれをいかにも軽がると使っていた、腰の据えようも足の踏み方も正しい、さくっ、さくっとき返す手ぶりのたしかさはむしろ楽しげにさえみえた。……玄一郎は庭へ下り、気付かれぬように物置の脇へ近寄っていったが、やがてそこから出てなつの前へぐいと出た。
薙刀なぎなたも鍬も、扱う心得は詰り一つか」
「……まあ」なつはふいを衝かれて大きく眼をみはった。
「……びっくり致しました」
「まあ鍬を置かないか、少し話がある」玄一郎はじっとなつの眼を見まもった、「……おまえは此家へ来るまえにおれの評判を聞いていた筈だ、そうではないか」
「はい」なつまぶしそうに眼を伏せながら頷ずいた、玄一郎は続けた。
「山だちに遭ってひと太刀も合せず、身ぐるみ脱いで命乞いをした臆病者、小心で、人にとりいることが巧みで、上役に袖の下を遣うことが上手で」
「おやめ下さいまし」なつが堪りかねたように叫んだ。
「……どうぞそんなことは、どうぞ、お願いでございます」
「だが世間ではみなそう云っている、そしておまえもそれは知っている筈だ、それなのにどうして此家へ住みこむ気になったのか、いやごまかさないで正直なことを聞きたい、なぜだ」
「わたくし、戸田さまを、お暇になりましてから」なつのどつかえるような声で、どもり吃り云った、「……他にこころあてもなし、お羽折をお借り申した縁で、もしや使って頂けたらと存じたものですから」
「私は正直なことが聞きたいのだ、小雪どの」玄一郎は冷やかに云った、「……どうして郡玄一郎の家へ来る気になったのか、なぜ侍女だなどと偽わらなければならなかったのか、それをはっきり聞かせて頂きたいのだ」
「…………」娘はふかく頭を垂れた。
「答えては貰えませんか」やや暫く待ってから玄一郎はそう促した。
「お答え申します」
 娘はようやく心を決めたように、しずかにその眼をあげて云った、「……そのまえにひと言お伺い申します、郡さまはわたくしに就て世間にどんな噂があるかお聞きではございませんでしょうか」
「聞いたと云えるほどは聞いていません」
「なみはずれた男まさり、気が荒くて、我がままで、馬を乗りまわし言葉も動作も男そっくりだし、客のいる部屋の前を湯あがりの裸で通る、……こういう評判をお聞きではございませんでしたか」


「噂のことは云いますまい」玄一郎は無遠慮に娘を見た、「……然し私は昌光寺であなたに会った、あなたの言葉を聞きあなたの態度を見た、そしてあれが身分正しい大家の息女の作法とは思えなかったということを告白します」
「そう云って下さる方があったら、もし五年まえにそう云って下さる方があったら」と、小雪は訴えるような調子で云った、「……そうしたら小雪は違った育ちようをしたと存じます、わたくしは負け嫌いの生れつきでした、我が儘でもございました、けれどもそれを好んでいたわけではございません、自分では恥じて、め直そうと努めました、ずいぶんそう努めたのですけれど、まわりの見る眼はもうそれを許しませんでした、小雪はなみ外れていなくてはならないのです、娘らしくふるまったり優雅であってはいけないのです、馬を乗りまわしたり、小太刀を遣ったり男のような口をきかなければならないのです、不幸なことには、父親さえもそれが小雪の本身だと信じていることでした、……美しい衣裳いしょうを着たい年ごろ、お化粧をしたり、髪かざりをすることがなにより楽しい年ごろの娘に、そうするのが嬉しいことだとお考えになれましょうか」彼女はつよく玄一郎の眼を見あげた、「……そんなになみ外れた娘であるほうがよいならそう成ってみせましょう、負け嫌いの性分がそう決心させました、その結果小雪がどんな者になったかは昌光寺の山門で郡さまもごらんのとおりです、でもあのとき、……郡さまが侍女にお羽折をお投げになった、あのとき、……わたくしは背から水を浴びたように慄然りつぜんと致しました、自分のあらあらしいふるまいと郡さまのやさしい思遣りとが、あまりにはっきり対照されたからです、あなたが矢内さまとごいっしょに先へおいでになったあと、わたくしは山門の蔭に隠れて侍女の戻って来るまで泣いておりました」
 小雪は矢内又作から彼の名を聞いたと云った。彼に会って礼も云い、自分の苦しい気持をうちあけたいという激しい欲望を感じて、その機会の来るのを待っていたと云った。然しその機会もなく決心もつかないうちに時日が経って、「山だち騒ぎ」が起った。そしてたちまち玄一郎に対する悪評が彼女の耳にも伝わった、それはそれまで彼女が聞いていた玄一郎評とは似ても似つかず、およそ無責任な悪意に満ちたものだった。小雪はここでも世評が人を殺そうとしていると思い、どうか玄一郎だけはそんな世評に負けないで欲しい、小雪のように自分を失わないで呉れるように本当に心から祈ったと云った。だが悪評はなかなかまず、縁談はやぶれるし、家士、下郎までがそむき去ったと聞いた。
「わたくし、息が詰るように思いました」と、小雪は苦しげに声をおとして云った、「……郡さまがどんな気持でいらっしゃるか、自分でその苦しみを味わったわたくしにはよくわかります、その苦しみを知っている小雪なら、いって郡さまの、心の支えになってさしあげることができる、そう考えましたとき、佐田権太夫さまがみえて、あなたとの問答を父に話すのを伺いました、武士の約束に相手の差別はない、たとえ山だちの強盗なりとも約束した以上その約束を守るのが武士の義理だ、……そう仰しゃったと伺って心がきまりました、このようにおりっぱな方を無責任な悪評で殺してしまってはならない、お側へあがって心の支えになってさしあげなければ、そして、わたくし父に願いました、侍女だと偽わったのは素性を隠すという父との約束ですけれど、そうしなければお側へあがることができなかったからでございます」
 玄一郎には、彼女がどのようにして父親を説き伏せたか見えるようだった。そしてそういう決心をさせた原因は玄一郎に対する同情もあろうが、根本的には自分が救われたかったのだ、世評のためになみ外れた者になってしまった自分を、同じ境遇にある玄一郎の許で、彼といっしょに生き直したかったのだ。それはこの家へ来てから百日あまりの生活でよくわかる、柔かいしとやかな立ち居、つつましい言葉つきや表情、侍女ということが不自然でない控えめなしずかな態度、……小雪は玄一郎の心の支えになろうと思いながら、実はこうして自分がむすめらしく生きはじめたのである、然もそれがどんなに彼女に似つかわしかったことだろう。
「よくわかりました」玄一郎はやがてそう頷ずいた、「……そこまで案じて頂いたことはかたじけないと思います然し、あなたが老職の御息女とわかった以上は、このまま此処ここにいて頂くわけにはまいらない」
「お待ち下さいまし」
「いやいけません、どんな事情があるにせよこのままいて頂くことは」
 そう云いかけて玄一郎はふり返った。誰か門を明けてとび込んで来た者がある、「郡うじ、郡うじはいないか」と叫びながら、すぐにこっちへ走って来た。矢内又作であった。
「此処にいる」玄一郎は出ていった。
「大変なことがもちあがったぞ」又作は駆け寄りながら片手を振った、「……槍、薙刀、鉄砲などを持った十四五人の野武士どもが城下へ踏込んで来た、いま追手先で徒士かち組の者がとり鎮めようとしているが、火繩のついた鉄砲を振り廻していて近寄れない、なにしろ追手先のことでたいへんな騒ぎになっているぞ」


 そこまで聞くと玄一郎は足早に家の中へ入ってゆき、すぐに身支度をして出て来た。又作はあっけにとられた、
「貴公どうするのだ」
「徒士組が出たというのに馬廻りの者が黙ってもいられないだろう、他の場所ならいいけれど追手先だからな」
「然しもうその手配はしたんだし、一人や二人にんずが殖えたところで」
 だが玄一郎はすでに門のほうへ歩きだしていった。
 騒ぎは予想以上だった、追手の広場のまわりにはぐるっと人垣ができ、徒士組の者や足軽たちが右往左往している、馬に乗った番がしらが四五人、なにか指揮したり怒鳴ったりしている姿も見えた。……問題の野武士たちは広場のまん中にいた、みんなひげだらけで、小具足を着け武者草鞋を穿き、槍、薙刀、棒、鉄砲などの得物を持って、いかにも傲然ごうぜんとふんぞりかえっている、そしてそのなかの一人が、二尺に五尺あまりの高札のような物を押立てていた、それにはかなり達者な筆つきで左のような文字が書いてあった。
売申す身命の事
一騎当千のつわものども十五名一党、食禄千石にて身命を売りたし、但し頼みがたき主には当方より断わり申す事
天和三年吉日 伊吹山住人  赤松六郎左衛門
 玄一郎がそれを読んでいるとき、その一党のほうへ馬上の侍が近寄っていった。槍奉行の佐田権太夫である、彼は右手に素槍をかいこみ、馬上からのしかかるような姿勢で、「このあぶれ者ども、退散せぬか」と絶叫した、「……素槍、鉄砲を持って城下に押入り、追手先を騒がせるとは重罪に当るぞ、おとなしく退散すれば見のがしてやる、さもなければ押包んで討ち捨てにするぞ」
「面白いやって貰おう」一党の中からずぬけて巨きな体躯たいくの男が立ちあがった、彼は五尺もありそうな野太刀を背にかけ、手には筋金入りの六角棒を持っていた、「……戸田殿は徳川家の名門だ、その本城の追手先でひと合戦できれば、面目といえよう、遠慮は無用さあお掛りあれ」彼はそう喚き返すなり、片手をあげて仲間を呼びかけた。
「火繩をかけろ、ひと戦だ」
「おのれ申したな」権太夫はぐっと馬の手綱をひき絞った、「……さらばその首十五討ち取ってさらし物にして呉れるぞ、えるな」
 呶号して馬を返そうとする刹那せつなだった。人垣の中からとびだして来た郡玄一郎が、「そのあぶれ者おひきうけ申す」と叫んで、権太夫と、一党の間へ割り込んだ。……彼はたすきはち巻をし、はかま股立ももだちを取り、左手で大剣に反をうたせながら、巨漢の前へ大きく踏み寄った。
「赤松と名乗るのはそのほうか」
「赤松六郎左衛門、いかにもおれだ」
「伊吹山の住人と書いてあるがそうか」
「念には及ばぬ、勝負だ」赤松と名乗る巨漢はそう喚いた、「……みんなぬかるな」
 応と答える十五人はすでに充分殺気立っていた。玄一郎はにっこと笑った。彼はうしろへ一歩さがり、刀の柄に手をかけながらこう云った。
「よく聞いて置けよ、おれはそのほう達に貸しがある、去る八月の月の夜半、伊吹越の峠路でそのほう共に身ぐるみ剥がれた、あのときの侍はこのおれだ」
「や、や、や」彼等はあっと眼を瞠った。
「御しゅくんの御用を帯びていたから恥を忍んで裸になった、然し今日はその必要がない、こんどこそはそのほう達の番だと思え、さて勝負だ」
「ああ八幡、なむ八幡」巨漢は棒を投げだし、仲間のほうへふり返って狂喜の声をあげた、「……みんな聞いたか、みつかったぞ、弓矢の神のおひき合せだ、この人だ、とうとうわれらの主人がみつかったぞ、みんな坐れ」
 かれらは武器を投げ、巨漢といっしょにそこへ土下座をした。玄一郎も驚いたが、佐田権太夫はじめ広場を埋めた群衆の驚きはひじょうなものだった。……巨漢は大きな眼を子供のように輝やかせながら、
「あなたを捜していたのです」と玄一郎に向って云った、「……あのときから今日まであなたを探しながら廻国かいこくしていたのです、あなたを捜しながら」
「でそれは、いったいどういうわけだ」
「正しく武士に二言のないという、あのときの純粋な御態度にまいったのです、あのように生きることができたら、いや人間ならあのように生きなくてはならぬ、そう思いました、そしてあなたを捜し当てたうえ、御家来の端に使って頂こうと相談をきめたのです、それだけを目的に今日までお捜し申しました、お願いです、どうかわれわれの望みをおかなえ下さい、お願いです」
「命がけのおたのみです」と、みんな口をそろえて云った、「……どうか御家来にして下さい、われわれを人間らしく生かして下さい、このとおりおたのみ申します」
 世の中には、いつどこでなに事が起るかもわからないものだ。この「山だち騒ぎ」は藩主の耳に聞えた、左門氏西は事の珍しさに声をあげて笑い、「面白い、志もなかなか奇特だ、その者たちを玄一郎の家士にしてやれ、扶持ふちは身から遣わそう」と云いだした。こうして玄一郎は、扶持付きで山だちあがりの家士を十五人持つことになったのである。……その後、騒ぎが鎮まったとき、佐田権太夫が郡の家を訪れた。老人はかなり具合の悪そうな顔つきで、坐ってからも暫らくせきをしたりひざでたりしていたが、やがて、「実はさきごろの縁談のことだが」と口を切った。「まことに申しにくいのだが、あの縁談を破約したのはわしの粗忽そこつで」
「ちょっとお待ち下さい」玄一郎は相手の言葉をさえぎった、「……お話を伺うまえにおひき合せ申したい者がございますから」
 そして、「小雪まいれ」と呼んだ、すぐにふすまを明けて小雪が来た。玄一郎はその坐るのを待って、権太夫にこう云った。
「私の妻、小雪でございます」





底本:「山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分」新潮社
   1983(昭和58)年8月25日発行
初出:「講談雑誌」博文館
   1946(昭和21)年6月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2021年11月27日作成
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