山椿

山本周五郎





 梶井主馬かじいしゅめと須藤きぬ女との結婚式は、十一月中旬の凍てのひどい宵に挙げられた。
 主馬は二十五歳のとき亡き父の職を継いで作事奉行になった。それには世襲の意味もないではないが、彼にはその才能のあることが認められたのもたしかだ。作事奉行は建築営繕のいっさいを管掌する、城館しろやかた、寺社の修復、表座敷から台所に至る諸什器じゅうき調度の修繕、掃除、検査など、事務は複雑多岐にわたっているが、主馬は職を継いで一年と経たぬうちに、その適任であることを証拠だてた。然しこれは、主馬がとびぬけた俊才だという訳ではない、むしろ彼は平凡な事務家であった。現実的できちょうめんで、なにごとでも類別し統計し、対照表に作ってみないと承知しないという風だ。母親が父に一年おくれて亡くなったあと、みちという従妹が主婦の役をしている。彼女は母親の末弟ののこした孤児で、十六の年に梶井へひきとられて来た。思わしい縁談もないうちに婚期が過ぎてしまい、自分でもあきらめたのだろう、古流の生花と二条流の笛をせっせと稽古して、これで身を立てるのだと云っている。……こういう不遇な身の上にもかかわらず、みちは陽気でものにこだわらない性質だった。明るいびやかな気分をつくることがうまく、家の中に適当な笑い声を絶やさない。だが主馬にはこれが軽薄でうるさく、苦にがしいだけだ。叱るほど不愉快でもないが、いっしょに笑うようなことはめったにない、かえって事務のことで出入りする下僚たちが、若い叔母か姉にでも対するように、うちとけたようすで相談をもちかけたり内証で酒をねだったりする。主馬は別に小言は云わないが、決してそれを宜しいと思うことはできなかった。――須藤家との縁談が始まったのは九月のことだ。それから五十日あまり、細ごましたことで主馬はずいぶん気をつからせた。儀礼のほうは叔父の大沼兵庫に頼み、家うちの事は従妹に任せたが、それで済ましていることのできない性分だから、詰りは自分で指図する結果になった。そのうえ嫁の父親である須藤宗右衛門が、中老という身分にこだわるので、ともすると派手になりがちなのが、いっそう気持の負担だった。
「一生にいちどのことですもの、いいじゃあございませんか」
 みちはこう云って、なんでも新調しようとした。
「一生にいちどだから、慎ましくしなければならないんだ」
 主馬は役所の事務のように費用を削った。従妹は逆らわずに笑いながら、削られた物もたいていは買い調えるという風だった。
 結婚式はとどこおりなく終った。祝いの酒宴もなごやかに済み、招待客たちが帰ったあと、両家の親族だけで改めてさかずきがとり交わされた。それは半刻はんときあまりかかった、そしてこれらの人々がいとまを告げたとき、いつか外は雪になっていた。――主馬はまだひと役ある、花嫁が仲人につれられて奥へゆくのをしおに、彼は別棟になっている隠居所へ顔をだした。そこでは役所の下僚たち十人ばかりが、彼等なりに気楽な祝宴を張っていたのである。
 主馬が席に坐るとすぐ、みち銚子ちょうしを持って側へ来た。彼女は接待役をしていたのだが、みると眼のまわりや頬が赤く、息も少し荒いようだった。結婚祝いでもあり、みんな親しい者たちとはいえ、未婚者の多い中で色に出るほど盃を受けるのは不作法だ。主馬はふきげんに眉をひそめ、低いささやき声でたしなめた。
「みぐるしいじゃないか、赤くなっている、どうしたんだ」
「脇田さまと小倉さまでかかっておいなさるのですもの、それにわたくしも――」
 みちはふと眼をそらした。
「もうみなさまとは、これでお別れでございますから」
 主馬はそれを聞きながして挨拶を述べ始めた、みちはそっと立っていった。言葉を結ぶと主馬はくだけた姿勢になり、微笑ほほえみをみせた。
「むずかしい客は帰ったからゆっくりやってれ、ちょうど雪が降ってきた。よかったら雪をさかなに飲み明かしても結構――河上、まずいこう」
 雪と聞いて座の空気が更に浮立った。一人が障子をあけにいった、だがそれだけでは見えない、別の一人が燭台しょくだいを縁先に持ちだした。庭には椿つばきの老樹が並んでいる、その繁った枝葉や樹下の暗がりが燭台の光りを生かすので、こんどは舞い落ちる雪がかなりはっきり眺められた。
「これはおあつらえ向きじゃないか、本当に飲み明かすか」
 脇田信造がそう云うと、笑い声がどっとあがった。
「なにも開き直ることはない、雪でなくったってその積りで来たんだろう」
「脇田が飲むのに誂え向きでないものは絶対にないね」主馬が珍しく口を出した、「いつかひどい風邪で寝ていたときだ、高い熱でまっ赤な顔をしてうなりながら、玉子酒にはお誂えですと云ったからね」
 間もなく主馬はそこを立った。――仲人の秦野はたの夫妻を送り出したのは、十二時まぢかのことだ。それから加減をみさせて風呂にはいった。……湯に浸って、からだが温たまってくると、宵からの緊張がほぐれ、神経や全身の筋のこころよくのびてゆくのが感じられて、解放された者のようになんども溜息ためいきが出た。――彼は悠くり浸っていた、五十日以来の煩わしさが終った、これでともかくもひと片ついたと思うあとから、一種のあやされるような、好ましい、新鮮な感情がわいてきた。彼は眼をつむった。


 心ときめくというほど純粋な激しい感動ではない、もう年も二十八になるし、作事奉行としてあしかけ四年、宴席の遊びも知っている。ましてごく平凡な作法どおりの結婚だから、それほど大きな歓びの期待がある訳はない。だが今かれの胸へわきあがってくる素朴な好ましい感情も、決してそれより価値が低くはないだろう、――彼はなごやかに遠火で温ためられるような、その楽しい恵まれた気分から離れるのが惜しくて、ながいことじっと湯に浸っていた。
 主馬が寝間へはいってゆくと、花嫁はまだ起きていた。暗くしてある行燈あんどんの柔らかい光りで、金屏にかこまれた夜具の色が、きよらかななまめかしさをみせている。きぬ白無垢しろむくの上に打掛を重ね、両手を膝に置き、ふかく俯向うつむいたまま坐っていた。主馬は自分の寝床の中へはいり、彼女のほうへ背を向けて、眼をつむった。
 かなり時間が経っても、花嫁の動くけはいがしなかった。振返って見るときぬは同じ姿勢で坐っていた。
「もう寝なければいけない、凍てるから、風邪をひいてしまうよ」
 彼女は聞きとりにくいほどの声ではいと答えた、主馬は頭を元へ戻した、隠居所のほうから唄が聞えてくる、雪のために反響を消されて、現実というよりは記憶からよみがえってくる声のようだ。――主馬はそれからも二ど寝るようにすすめた、然し花嫁は朝まで寝なかった、躯を固くして、俯向いたまま身ゆるぎもせずに、じっと坐っていた。
「どうかなさいまして、たいそうお顔色がすぐれませんわ」
 みちが疑わしげな眼で従兄を見た、きぬが里帰りから戻った翌朝のことである。――主馬と新嫁のあいだがうまくいっていないのは慥かだ、新婚の明くる夜から新嫁は自分の居間で寝る。寝所のことは須藤から付いて来た小間使が世話をして、きぬ女は手を出さない、登城や下城の着替えもまだみちに任せたままでいる、然も殆んど二人が口をきかないのをみちは知っていた。
「どうもしやあしないが――」
 主馬は口籠くちごもった。ふと相談してみようかという気になったのだ、然しそれが不可能なことは明白である、彼は憂鬱に眉をひそめて、そのまま沈黙した。――自分を拒む妻の態度をどう解釈したらいいだろう、嫌っているのだろうか、羞恥しゅうちだろうか、年齢の若いためだろうか。もしそれほど嫌いだったとしたら、嫁には来ない筈だ。羞恥はなにも彼女ひとりのものではない。あらゆる新嫁がその羞恥心に勝たなければならない瞬間を持つ、年も十八歳なら若すぎるとはいえない、ではいったいなにが原因なのだ。計算や統計の上でものごとを考えたり処理することに慣れている彼の頭は、人の感情とか心理の問題になると手も足も出ない。そこで彼は自分に対してもはらを立てた。――どうとも勝手にしろ。
「わたくし明日おいとま致しますわ」
 従妹が或る夜こう云いに主馬の居間へ来た。彼は役所の事務を机の上にひろげながら、しきりに火桶ひおけの炭火を吹いていた、みちは従兄の髪毛に付いている灰を払い、火桶を自分のほうへ引寄せた。
「家の事もたいていおねえさまにわかって頂きました、でもすっかりではありませんから、あとはお従兄さまが、わからないところは指図をしておあげにならなければいけませんわ」
 主馬は従妹の顔を見た。みちは俯向いて火を直しながら続けた。
「もっと近しくなさらなければね、此の頃は夕餉ゆうげにもお酒を召上らないし、いつも黙ってむずかしい顔をしていらっしゃるわ、――そんなではおねえさまにも、気ごころの知りようがないじゃございませんか、もっと良人おっとらしくしてあげなければお可哀そうよ」
「お母さんの箪笥たんすと鏡台を持っていっていいよ」主馬は筆を取りながら云った、「暇があったら時どき来て呉れ、――家のことは心配しなくってもいい」
 みちは従兄の横顔を見まもった。それからしばらくしてつぶやくようにこう云った。
「時には不作法が作法になることもありますわ」
 結婚したら大沼兵庫がみちをひきとることに定っていた。従妹が去ると、明けれがにわかにひっそりとなった、そのなかで主馬は同じ言葉を繰り返し考え続けた、――不作法が作法になることもある、という言葉を。
 祝言から十七日めに当る夜、主馬は夕餉に酒を命じた。彼は酒が好きで、朝食まえにも少し飲む、夕餉にはかなり過すことも珍しくはない、それはたいてい下僚の来ているときで、殊に脇田とか小野平助などにぎやかな者が集まると、彼等と従妹のとりとめのない談笑を聴きながら、黙って楽しそうによく飲んだ。結婚してからは殆んど盃を持たなかったが、その夜は酔えるだけ酔う積りでいた。
「独りも手持ちぶさたなものだ、ひとつ受けないか」
 少しまわってから主馬は盃を差出した。きぬは俯向いたまま「不調法でございますから」と答えた。主馬はできるだけ砕けた調子で、そして自分には似合わないと思いながら、冗談のようにこう云った。
「そう俯向いてばかりいないでたまにはこっちをごらんよ、私はまだ妻の顔さえよく知らない良人だ、――これは少し変則だと思うがね」
 きぬはしずかに顔をあげた。


 蒼白あおじろい仮面のような顔だ、魂のぬけた感情のかけらもない顔だった。少しせてはいるが、美しい眼鼻だちである。濃い睫毛まつげにふちどられた眼が、特に美しい、だがそれは石像のように冷たくて硬かった、主馬は慄然りつぜんと眼をそらした。
 法泉寺の十二時の鐘を聞いてから、主馬は起き上って寝所を出た。そしてかなりためらう気持を押し切って、妻の部屋のふすまを明けた。きぬはまるで襲われた者のように、非常な速さで起き上り、恐怖におののく眼でこちらを見た。――その眼が主馬の自制心を失わせた、彼はずかずか寄っていった、きぬは夜具からすりぬけ、行燈の掛布を取った。そして明るくなった光りを楯のように、正座して頭を垂れた。主馬は構わずその側へいって立ち、荒い呼吸の鎮まるまで暫く待った。するときぬが絶入りそうな声で云った。
「わたくし、母の喪が、まだ明けませんので――」
 これは無警告の然も手厳しい足払いに似た言葉だ。一瞬にして火は消え、血は冷めた。主馬はくじかれたみじめな気持で、然しその言葉に辛くも救いを感じながら、やや久しく沈黙した。
「もっとお互いにうちとけよう、そんなことまで云いそびれるなんて自然じゃない。――男はどこかぬけているものだ、細かいことや気持のあやなどわかりにくい、黙って許りいないで、不満や希望はどしどし云って呉れなければね、きぬは梶井の主婦なんだから、わかるだろう」
 きぬはそっとうなずき、「はい」と答えた。主馬はなお云いたいことがあった、然し言葉にするとちぐはぐなものになりそうだ、彼はできるだけいたわりをめて、こう云いながら立った。
「さあおやすみ、驚かせて済まなかった」
 彼は数日してきぬの亡母の喪が二月はじめに明けることを知った。喪の明けるまで良人に許さないという習慣が世間にあるかどうか、彼はまるで知らないし、多少疑問もあった。けれども待つことに異存はなかった。そのあいだに精神的な接近ができると想ったから、――正月になるとすぐ急に多忙になった。四月に藩主が江戸から帰る、それまでに本丸の東御殿を改築せよという命令が来たのだ。ずいぶん大掛りな設計で、入費や用材の点から相当に無理をしなければならない、彼は城中に幾晩も泊った、資材購入のために数日がかりで旅行した。勘定役所や納戸方などと絶えず折衝し、重役に了解を求め、工匠たちの割り振りに頭を悩ました。そして家へ帰るときには、心から休息と慰安が欲しいと思うようになった。
 勿論もちろんその望みはかなえられなかった。家の中は、いつも空堂のようにひっそりしていた、妻は食事の給仕に坐る、着替えも手伝う、送り迎えもする。だがそれだけだった。俯向いて、執拗しつように俯向いたままで、手をひざに置いて、しんとしている。足音もせず空気も動かさずに歩く、口から出るのは、「はい」というひと言に殆んど限られている。――召使たちにもそれが影響した、彼等も囁くように話し、歩くのに足音をぬすむ、みんなが聞き耳を立て、息をころして、なにかをじっと待っているという感じだった。……きぬの亡母の喪がもう明けたということに気づいたのは、こういう状態に耐えきれなくなったときであった。三日ぶりで家に帰った彼は、あらびた気持で夕餉の酒を飲んでいた、酔いはなかなか起こらず、疲れた神経はとげとげしくなる許りだった。彼は眼の前に坐っている妻の、固い非人情な身構えや、陶器のように冷たい衿足えりあしを見ながら、ふとそれを従妹のみちと置き替えていた。
 ――荒神様は罰を当てる神様なんですってね。
 突然まじめな顔でそんなことを云いだす。たいてい座には誰かいて、あっけにとられながら、「荒神は台所の神でしょう」とか「専門に罰を当てる神様というのはないでしょう」などと云う。みちは確信のある顔でこう断言する。
 ――あら、だってそう云いましたわよ。
 いちど是はこうだと聞けば、そのとおり信じて少しも疑わない「だってそう云いましたわよ」というのが彼女の口癖であり唯一の証明である、「そらまた出た」と云ってみんな笑いだす。……当時は苦にがしいと眺めていたその情景が、主馬にはいま、かなしいほど懐かしく思い出された。そういえば、此の頃は誰も来ない、来ても食事どきはよける、坐って酒を飲むような者はごくまれで、用事が済めばさっさと帰ってゆく。あの頃はこんなではなかった、家の中は賑やかで温たかく、話したり笑ったりする声が、絶えなかった、それが今はどうだ、まるでこれは喪中の家のようではないか。
 主馬はこう考えたとき、妻が喪に服しているということに気づき、続いてそれが既に明けている筈ではないかと思った。日を繰ってみた、慥かにもう数日前に明けていた。主馬は眼の覚めたような顔で妻を見た。
「今日は十二日だったね、――もう涅槃会ねはんえか、これで寒さもおしまいだね」
 とがった神経が酔わない酒のためにあらぬほうへゆがんでゆく、主馬は努めてそれを鎮めながら、十二時を聞くまで寝床の中で輾転てんてんしていた。それから思い切ったように起きて妻の部屋へはいっていった。
 襖の明く音ではね起きたきぬは、恐怖の眼でこっちを見ながら、夜具をすりぬけ、行燈の掛布を取ろうとした。主馬は鋭く「きぬ」と云いながら襖際に立止った、きぬは伸ばした手を下げ、追詰められた獣のように身を縮めた。――あの夜と同じ姿である、微塵みじんも変ってはいない、母の喪というのが口実だったことは慥かだ、主馬は前へ出た。するときぬは身震いをしながら救いを求めるような声で云った。
「どうぞ今夜だけ、――今夜だけお待ちあそばして……」
 そしてけんめいな哀願の眼で主馬を見上げた。なんという眼だったろう、とつぜん、主馬は自分が汚らわしく堕落した人間のように思われ、一種の吐き気に似た胸苦しさに襲われながら、逃げるようにその部屋を出て、うしろ手に襖を閉めた。――屈辱と怒りのために頭がしびれ、足が震えた、自分を醜い唾棄だきすべき者のように思う反面、不当な侮辱に対する怒りが抑えようもなく燃え上った。なにがいけないんだ、どこにこんな扱いを受ける理由があるんだ、いったい、然し主馬はぎょっとして振返った。彼はまだ襖の前に立っていたが、部屋の中でなにか物音がするのを聞いたのである。それはしずかに、箪笥をあける音のようだった、じっと耳を澄ますと異様なけはいが感じられた、彼はすぐ襖をひきあけた。
 きぬは夜具の上に坐り、懐剣を抜いたところだった。襖のあく音を聞くなり、彼女はそれを逆手に持って胸を刺そうとした、然し主馬はそのひじつかみ、烈しくじ上げながら懐剣を奪った。きぬは別に反抗しなかった、寧ろ冷やかなくらいおちついていた。主馬は掴んだ肱ごとぐいときぬを向き直らせ、「訳を聞こう」と低く叫んだ。
「生きてはいられないのでございます、今お止め下さいましても、明日、明後日、――いつかは、どうしてもこの身の始末を致さなければ……」
「それが梶井の家名を汚すと承知のうえでか、私の一生がめちゃめちゃになるのを承知のうえでか、――いや、おまえにはそんな権利はない」主馬は激怒のために震えた、「七十日ちかくも人を惑わし悩めたうえ、そんな勝手なことをする権利はおまえにはない筈だ」
「わたくし御家名を汚しますでしょうか」
「結婚して間もない妻が自殺をする、理由もなにもわからない、これが梶井の家や私の面目に無関係だと思えるのか」
 ああときぬうめき声をあげた。慥かに彼女はその点を忘れていた、こうせざるを得なかった原因が余りに大きく重すぎるため、結果のよび起こす影響までは思い及ばなかったのである。きぬは初めて両手で面をおおい、絶入るように泣きだした。
「わたくしどう致しましょう――」
「訳を話すがいい、どうしても死ぬ必要のあるものなら止めはしない、理由に依っては死後に名の立たぬくふうもある、話してごらん」
 きぬはながいこと泣いていた、形容しようもなくいたましい、哀れな泣き方だった。それからやがて嗚咽おえつに声をとぎらせながら、非常な努力で口を切った。
「わたくし想う方がございました、――もう二年まえのことでございますけれど、……」
 思いがけない告白だった。然し主馬にはそういう予感があったように思う、彼は努めてなにげなく後を促した。きぬは続けた。――二年まえの四月、そんな季節には稀な火事で、武家町の一画まで焼けたことがある、そのとき須藤家の遠縁の者が類焼して、半年ばかり彼女の家へ寄宿していた。榎本良三郎といってそのとき二十二になり、納戸方に勤めてまだ独身だった。彼が怠け者で身持がよくないといううわさは、まえからきぬは聞いていた、だが家へ来て住むようになると間もなく、そんな噂は信じられなくなった。きぬの眼には彼が孤独で気の弱い人間にしかみえない。誰にも相手にされず、友達もない。寂しげな、当惑したような眼で、よく庭に立って雲を見ている、唇にはいつもあきらめたような微笑がうかんでいる。きぬは激しい同情をそそられた。そこから二人のちかづきが始まった。親しくなるに従ってきぬの確信は強くなった。良三郎は優れた才能を持っている、それを周囲が認めない許りでなく、寧ろそのために、嫉妬しっとの余り共同で彼をおとしいれるのだ。だが彼は少しも恨んではいなかった。
 こういう時代なんです、私は誰をも憎みはしません。罪はこういう時代にあるんですから、彼等は好きなようにやるがいいんです。
 俗悪な世間をあわれむように、よくこう云って微笑し、当惑げな寂しい眼で、それとなく空を眺めた。――だが暫くするときぬに愛を求めた、もしきぬが自分を愛して呉れるなら、俗物どもをしのいでひとかどの人間になってみせる、きぬのため自分の才能を生かしてみせたい。……きぬはそれをなんの疑いもなく信じた、そして変らない愛を誓った。二人の恋は五十日あまり続いたが、母親に発見されて仲を割かれた。母は誰にも知らせず、口実を設けて彼を家から出した。別れる前に、きぬは結婚を申込んで呉れるようにと繰り返し頼んだ。彼はまだその時期でないことを説いた、今のままでは許される望みがない、自分がひとかどの者になるまで待つように、それも精ぜい一年か二年だからと。
「別れてからはいちども会う折がございませんでした、そして母も亡くなりました、こちらとの縁談が起こりましたとき、もし母が生きていて呉れましたら、――」


 縁談がきまったとき自決すべきだった。然しそれにはなにかが欠けていた、良三郎にいちど会いたかったのも慥かだ、どこかに生きるみちがあるように思えた、漠然とした、然し烈しい、生への執着もあった。もう少し時を待とう、ぬきさしならぬ場合でもおそくはない、そしてずるずるとここまで来てしまった。
「わたしがみれんで愚かな許りに、貴方へもあの方へも申し訳のないことになってしまいました、でも、わたくしも苦しゅうございました、今日こそ、明日こそと思いながら、いざとなると心が臆れまして、――どうぞ、お赦し下さいまし」
 主馬は黙ってきぬの泣くのを聞いていた。それから持っていた懐剣を静かにさやへおさめ、大きく溜息をつきながら云った。
「いま話したとおりを、遺言に書くがいい、その人に関するところはなるべくくわしく、私は向うで待っている」
 懐剣を持って主馬はその部屋を出た。――寝所の行燈を居間へ移し、火桶の埋み火をおこして炭をついだ。庭の椿のあたりで猫の声がする。そうだ、もうとっくに椿が咲いている筈だ、今年はまだいちども見ていない。主馬は火箸ひばしを取って意味もなく灰をかきならした。首を振ったり、低く呻いたりした、「その他に方法はない」そんなことを呟いた、「きぬは自害しなければならない、だが自害とわかってもいけない、病死でなければ、――」主馬はまた呻いた。
 きぬが居間へ来たのは、半刻ほど後のことだった。いちどに五つも老けたように、憔悴しょうすいしてみえた、頬が眼立ってこけ、唇は殆んど灰色になっていた。彼女はかなり部厚く巻いた書簡を、俯向いたまま主馬のほうへ差出した。
「念のために読ませて貰う」
 彼はこう云ってそれをひらいた。きぬの膝から肩へかけて、絶えず細かい戦慄せんりつがはしる。浅い急速な呼吸のために、胸がはげしく波をうつ、そして庭の椿のあたりでは、けたたましい猫の叫びが続いていた。
「私はもう止めない」主馬は読み終ったものを巻きながら云った、「そのほかに途はないだろうと思う、身じまいをして白無垢に着替えておいで、仏間へ支度をして置くよ」
 夜明け前に医者が呼ばれて来た。太田順庵といって、亡くなった父とごく親しかった老医である、主馬は妻の居間へ案内した。二人はかなりながいことそこにいた。そこから出て来たとき、順庵は首を振りながらこう云った。
「亡くなってから一刻も経っている、ふん、この病気には耆婆ぎばでも扁鵲へんじゃくでも手が出ない、さよう、すぐ納棺するんだな」
 老医は耳が遠いので声が高かった。
「この病気で死ぬと、二昼夜は躯から毒が出る、納棺したらすぐ蓋を閉めなさい、決して蓋をあけてはいけませんぞ、この毒を吸ったらそれで、――」こう云って、白髪の頭を振った、「いいかな、貴方が独りでしなされ、そこは夫婦の情だ、ふん、が、忘れても他人を近寄せてはなりませんぞ、御係りへはわたしから届ける、もう一つ、麝香じゃこう※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)きなされ、無ければ持たせてよこす、毒を消すには至極だから」
 医者が帰るとすぐ、必要なところへ使者を出し、主馬は独りで、また妻の居間へとはいっていった。
 両家の親族が駆けつけたとき、死躰はもう納棺されてあった。そして順庵老の厳しい戒しめで、実父の須藤宗右衛門でさえ死顔を見ることが許されなかった。――余り突然であり、夢のようだ。通夜の席ではそのことが繰り返され、主馬に同情が集まった。彼は石のように黙って、終夜きちんと棺の側に坐っていた。
 その翌日の朝、葬礼が行われた。初七日が済むと主馬は勤めに出はじめた。御殿改築の責任者だから、長く休む訳にはいかなかったのである。大沼から手伝いに来ていた従妹は、相談の結果そのまま留まることになり、荷物も運び戻された。家の中は少しずつ平常の姿に返っていった、暗い不幸の匂いは消えないにしても、あるじの多忙な明け昏れにつれて、生活はしぜんとおちつきをとり戻した、――こうして日が経っていった。
 三十五日の法要があった翌日、主馬は納戸奉行の栗原和助をその役所に訪ねた。栗原は主馬より三つ年長である、彼は主馬の話を聞いていぶかしさに眼をすぼめた。
「榎本良三郎というのはいるよ、然しそれはよしたほうがいいね、あれはだめだ、とても使えるような人間じゃないよ」
「いや使ってみたいんだ、大概なところは知っているが、少し考えることがあるんでね」
「私はすすめないな、無能な許りでなくずるい、人に仕事を押付けておいて自分がしたようにこしらえる、むやみに中傷や誹謗ひぼうで人を傷つける、不平やごたごたの起こるもとだよ」
「だが人間は使いようがあるからね、とにかく手続きをするから頼むよ」
 こういう話があって間もなく、榎本良三郎は作事奉行へ勤め替えになった。二十四という年よりずっと老けてみえる、色のえない、眼の濁った、憂鬱にふてたような顔つきだ、華奢きゃしゃな躯にも拘らず、どこかしら脂肪でたるんだような感じがあり、きみの悪いほど白く、長い指をしていた。――主馬は彼を見たとき、憐憫れんびんを感ずるほど不快におそわれ、眼をそむけた。


 主馬はその日、下城するとき良三郎を誘って、京町の「小倉」という料亭へあがった。良三郎は不安そうに手をんだり、ふてぶてしい冷笑をうかべたりして、ひどくおちつかない居心地の悪いようすだった。
「今日は二人だけで飲もうと思うんだが、そのまえに少し話がある、――まじめな話だからその積りで聞いて呉れ」
 主馬は平静な眼で相手を見た。良三郎は白じらしい微笑をうかべ、人を馬鹿にした調子で悠くり首を振った。
「酒なら御馳走になりますが説教は勘弁して呉れませんか、私にはなにより苦手ですから」
「なにすぐ済むよ」主馬はさりげなく云った、「それはね、これからまじめに勤めて貰いたいということなんだ、私が栗原に頼んで作事方へ呼んだには、それだけの考えもあるし責任も感じている、できるだけ力になるから、ここでひと奮発してみないか」
「然しちょっと高価たかくつきますぜ梶井さん、相当に高価くつくがいいですか」
 良三郎は毒どくしく唇を歪めた。主馬はその顔を審しげに見ていたが、その眼はしだいに平静の色をなくしていった。
「高価くつくとはどういう意味なんだ、もっとはっきり」
「云いましょうか」良三郎は主馬の言葉におっかぶせて、ぐっとあぐらをかいたが、すぐまたにやりと笑った、「だがまあこの次にしましょう、墓の中のことなんか別に急ぐ必要もないでしょう、掘り返してみたところで、死んだ者が生き返る訳じゃあないですからね」
「それは私を脅す意味なのか」
「さあどうでしょう、私が残念なのは、或る人の葬式に立会えなかった、ということなんです、立会っていたら、……さよう、私は棺の蓋を明けましたね」
 主馬は額からさっとあおくなった。良三郎は濁った眼でそれを眺めながら、もはや疑いのない勝利を楽しむように、悠くりと、然し冷酷にこう続けた。
「蓋を明けると毒にやられる、とんでもない、棺の中はただ匂いがするだけですよ、毒どころか唯の匂い、――つまり血の匂いだけですよ」
「ではなぜそうしなかった」主馬はある限りの力で自制しながら云った、「それだけ確信があるなら、どうして蓋を明けに来なかったんだ」
「今だって間に合いますさ、……なに、墓を掘ってみればわかるこった、やってみますかね」
 主馬は右手を大きく振って、良三郎に頬打をくれると、更にとびかかって捻伏せた。良三郎は首を振りながらもがき、主馬の手へみ付いた、主馬は噛ませておいて殴った。力いっぱい、頬骨の鳴るほど殴りつけた。彼の眼からぽろぽろ涙がこぼれ、それが良三郎を濡らした。殴るだけ殴ると、彼はそこへ坐って、あえぐ息を抑えながら云った。
「貴様の察しどおりだ、きぬは病死ではない、ではどうして死んだか、……性根まで腐った貴様などにはわかるまいが、見せるだけは見せてやる、きぬの遺書だ、読んでみろ」
 主馬はふところから封書を出して、いぎたなく倒れている良三郎の前へ押しやった。――遺書と聞いたとき良三郎はびくりと足を縮めた、それから起直って衿を掻寄かきよせ、暫く封書の裏表を眺めたのち、震える手でそれを披いた。主馬はそっと眼をつむり、なにかを祈るように頭を垂れた。……良三郎は途中まで読んでまた始めへ戻った。幾たびも眼を拭き、幾たびも読んだところを読み直した。それが終ると、遺書を持ったまま手を膝に下ろし、がたがたと、全身を震わせた。
「結婚して七十余日になるが、夫婦の契りはいちどもなかった、あれは榎本良三郎に操を立てとおしたんだ、――どんなに苦しかったろう、良人への義理と、榎本良三郎への義理と、板挾いたばさみの七十幾日を独りで苦しんだ、……縁談の定ったとき死ねばよかった、けれども死ねなかったと云う、愛する者にみれんが残った、どんなみれんだと思う榎本、――あれは貴様にすぐれた才能があると信じた、あなたが愛して呉れればひとかどの人間になる、貴様のそう云った言葉も信じた、それが、……どうしようもないめぐりあわせで、梶井へ嫁がなければならなかった、あれはそのことをびたかったんだ、貴様にひとめ会って、詫びてから死にたかったんだ」
 主馬は手を伸ばして遺書を指した。
「それを読んでみろ、もういちど読んでみろ、貴様をどんなに信じていたか、裏切る結果になったことをどんなに詫びているか、――自分は死んでも自分の愛は変らない、あの世から御出世を信じてお護りします、……そう書いてはないか、榎本、人間は一生にいちどくらい、本気になるもんだぞ」
 良三郎は放心したように、重たげな鈍い手つきで遺書を巻き納めた。――主馬は噛まれた手首の血を懐紙で拭きながら、床間にある鈴を取って鳴らした。
「話はこれで終りだ、約束だから酒を飲もう」
 良三郎はさりげなく立った、「ちょっと顔を洗って来ます」そう云って廊下へ出た。力のないふらふらした足どりで、廊下の途中まで来たと思うと、右側に障子のあいている小座敷を見て、すばやく中へはいり、坐って衿を寛げた。


 脇差を腹へ突立てようとする瞬間まで、主馬は廊下から見ていた。そしてその瞬間に、とび込んでいって止めた。
「このほかに途はありません、放して下さい」
「放すよ、だが今じゃあない」主馬は脇差を奪い取った、「あの人は榎本良三郎のゆくのを待っている、然しこんなみじめな榎本を待っていやあしないぜ、榎本、証拠をみせろ、あの人の信じていた人間になれ、それまでは石にかじりついても死ねない筈だ、……そうじゃあないのか」
 良三郎は両手を膝に突き、面をせて泣きはじめた、初めて彼は泣きだしたのだ。
「二年やってみろ、その証拠を見たら、おれが墓の前へつれて行ってやる、二年だ、もし今の決心が嘘でないなら、もし貴様に幾らかでも人間らしい気持があるなら、――いいか、二年のあいだにその証拠をみせるんだ、生きている者はごまかせるが、死んで魂になったものはごまかせないぞ、……それだけは忘れるな」
 御殿改築は藩主の帰国に辛うじて間に合った。結果はかなり上首尾で、その係りの者には褒賞さえ下った。――然し費用の点がずいぶん無理があったから、そのあと始末に五月いっぱいかかり、ようやくすべてが終ると季節はもう夏だった。
 梶井の家にはまた人が来はじめた。主馬はよく人に隠れて宗泰寺へ墓参にゆくが、日常は快活できげんがよかった、これまでのどの時期より明るい顔で、酒のときなどには、みんなと一緒に笑うことが珍しくなかった。――みちも相変らずである、此の頃は従兄がむずかしい眉を見せないので、いっそう起ち居が浮き浮きとしている。そして時どき例のふしぎな証明を出して人を笑わせる。……ちょうどみんな集まって飲んでいたとき、星空なのに遠雷が鳴りだした、みちは縁先にいたのを急いで座敷へはいって来た。
「雷獣って割りかた引っくんですってね」
 勿論まじめな顔である、わっとみんな笑いだした。脇田信造などは笑いが止らないで、苦しがって涙をこぼしながらころげた。少し鎮まりかかると側で、「へえ――雷獣は割りかた引っ掻きますかねえ」と云う、それでまた脇田は転げまわる。しまいに仰反あおむけになって、どうやらこうやら笑い止んだとたん、みちが例の証明を出した。
「あら、だってそう云いましてよ」
 脇田はひーいと両手で耳をふさぎ、なにか訳のわからないことを叫びながら、驀地まっしぐらに廊下へとびだしていった。
 主馬はこういう情景を眺めるだけでなく、今はそれを味わうこともできるようになった。以前の彼には苦にがしいだけだった。馬鹿げた、騒々しいものに過ぎなかった。合理的なこと、計算し統計に取れるもの以外は興味がもてなかった、――けれども今はもう違う、彼はどうやら憩いの味を知った、疲れた躯を休め、仕事でいっぱいになった神経を、理屈なしに柔らかくほぐして呉れるもの、慰安と休息がどんなものかということを、ようやく彼は知り始めたのである。
 明くる正月の年賀の登城で、納戸奉行の栗原和助と一緒になった、そのとき栗原は警戒の身ぶりをしながら云った。
「いまにやられるよ、いまにね、気をつけなくちゃあいけない、蛇は冬眠しているだけだよ」
 然しその翌年の正月、栗原は主馬を脇のほうへ誘って、つくづくと、顔を眺めながら嘆息した。
「こんなことも、有るんだね、こんなことも、――いったいどうやってたたき直したんだ」
「信じただけだよ」主馬は微笑した、「信じられるくらい人間を力づけるものはないからね、彼は自分で立ち直ったんだよ」
「ほんものらしいね、かぶとをぬぐ、人は使いようだということを認めるよ」
 主馬の家の椿がまた咲いた。二月十日のことだった。早く下城して来た主馬は、「あとで丸屋が物を届けて来るから受取って置くように」こうみちに云い残して、着替えもそこそこにまた出ていった。――表には榎本良三郎が待っていた。彼は二年まえとはだいぶ違ってみえる、躯の肉付が緊ってきたし、顔は日にけて健康なつやと張がある、眼はどこか沈鬱な光りを帯びているが、濁りは殆んど消えたようだ。――彼は主馬の少し後ろについて歩いていた、そして武家町を出はずれて、太田川の橋を渡るとすぐ、なにか気づいたという風にはっとそこへ立停った。
「ゆく先は宗泰寺でございますか」
「そうだよ」主馬は振返った、「二年めには三日早い、あれの三回忌は十三日だ、然し法会の前がいいと思ってね、――それとも」
「いいえまいりましょう」良三郎はすぐに静かな笑いをうかべた、「正直に申しますが、思い違いをしていました、あれは三月だったものですから」
「では三月にしようか、私はそれでもいいんだが」
「いいえ今日にします、今日のほうが却って、――」
 そして彼は進んで歩きだした。
 宗泰寺は春日丘の下にあった。石段を登って山門をはいると、庭を掃いている若い僧が、親しげに挨拶をした。
「方丈は明いていますか」主馬はそう云いながら、馴れたようすで玄関からあがった。若い僧の声で走って来た小坊主が、口の端を手で拭き拭き、客間へ案内した。


「ここでやって迷惑はかからないのですか」
 坐るとすぐ良三郎が不審げに云った。
「やるというのは、なにを、――」主馬は立とうとした膝を戻した、「まさか腹を切るという意味じゃないだろうな」
「然しそのために来たんじゃあないのですか」
「なんのためかといえば生きるためさ、榎本良三郎は生きるんだ、それだけの証拠をおれはみせて貰った、だから此処ここへ来たんだよ」
「私にはわかりません、どういう訳なんです」
「宜しい、わかるように云おう、だがちょっと待って呉れ」
 主馬は足早に出ていった。なにをしにいったものか、やや暫く時間をとって、戻って来たときには娘をひとりれていた。
「待たせて済まなかった」
 こう云いながら伴れて来た娘を良三郎の左へ、自分は二人の中間へ坐った。
「ひきあわせる者がある榎本、私の遠縁に当る娘で梶井きぬというのだ。見て呉れ」
 きぬという名に良三郎は身震いをした。そしておびえたように振返った。――きぬであった。色を変えてああと云う良三郎を、きぬは涙のあふれる眼で見上げた。
「おまえの信じたとおりだったね、きぬ
 主馬は低い声でそう云った。
「榎本は才能のある人間だった、きぬの考えていたよりも、はるかに高くそれを証拠だてた、恋というものは、ときによると人を堕落させる、だがときによるとこんなに、すばらしく人を生かす、……恋をするなら、こうありたいものだね」
 きぬはくくとむせびあげた、良三郎も手で面をおおった。
「おめでとう、きぬ――おめでとう、榎本、とうとう二人の日が来た、勝ったね」
 主馬は彼等を残してそこを出た。そして方丈へ寄った、二年間きぬを預かって貰った礼と、もう暫くの世話を頼みに、――それから、たいそうさわやかに楽しそうな顔をして寺を出ていった。
 夕餉のぜんに坐ってからも、かなり酒がすすんでからも、従妹はとりとめない話をするだけで、肝心のことはまったく念頭にないようすだった、主馬は仕方なしに、「丸屋から届けて来なかったか」と訊いた。
「ええ届けてまいりました、お居間に置いてございますわ」
「持って来てごらん」
 みちは立っていったが、すぐ帖紙たとうに包んだ物を両手に抱えて戻った。届いたままあけてみもしなかったのだ、いかにもみちらしい、主馬はふと眼頭が熱くなるのを感じながら、「あけてごらん」と云った。
「なんでしょう、お衣裳いしょうですわね」
 帖紙をひらくと花の咲いたように美しい模様が出て来た。まあきれい、みちは子供のような声をあげて眼をみはった。
「ちょっとそれを肩へ掛けてみないか」
「わたくしがですか」
 みちは華やいだようすで、いそいそと立ち、その衣裳を肩へ掛けた。古代紫のぼかしに、眼もあやな百花の友禅模様が染出してある。みちは続けざまに、「まあ、まあ」と云いながら、身を捻ったり、裾をひろげたり、酔ったような顔でいつまでも見惚みとれていた。
「なんてきれいなんでしょう、初めてですわ、こんな美しい模様を拝見するのは、……ごらんなさいましな、この牡丹ぼたんの花、まるで生きている花のようですわ、あら、これ撫子なでしこですわね」
「無定見なことを云うね、見てごらん、まるで葉が違うじゃないか、それは桔梗ききょうだよ」
「でもきれいですわ、どうして染めるのでしょう」
「さあ知らないね」主馬の唇がほころびる、「そいつは染屋にくよりしようがない」
「やっぱり人が染めるんですわね」
 主馬はとうとう失笑ふきだした。みちは裾をいて振返ったり、長いたもとを返してみたりしていたが、従兄に笑われて赤くなりながら、「あら」と云った。主馬はすかさずその先を越した。
「そう云いましたかね」
 だが彼は途方にくれた。それがみちの結婚衣裳で、それを着て梶井の嫁になるんだということを、どういう風に話しだしたものかと。――みちはまだ模様に見惚れていた。





底本:「山本周五郎全集第二十一巻 花匂う・上野介正信」新潮社
   1983(昭和58)年12月25日発行
初出:「講談雑誌」博文館
   1948(昭和23)年3月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年8月27日作成
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