夕靄の中

山本周五郎





 彼は立停って、かがみ、草履の緒のぐあいを直す恰好で、すばやくそっちへ眼をはしらせた。
 ――間違いはない、たしかにけて来る。
 その男はふところ手をして、左右の家並を眺めながら、ゆっくりとこちらへ歩いて来る。古びた木綿縞の着物に半纒はんてんで、裾を端折り、だぶだぶの長い股引ももひきに、草履をはいている。仕事を休んだ紙屑かみくず買い、といった、ごくありふれた風態である。どこにこれという特徴はないが、とぼけたような眼つきや、ひどく悠くりと、おちついた歩きぶりには、隠すことのできない一種のものがあった。それは老練な猟犬のもつ、誤りのない判断と、ぎつけた獲物は決してのがさない、冷静で執拗しつようなねばり、という感じを連想させるものであった。
 ――こんな筈はない、ふしぎだ。
 彼は歩きだした。どうしたってそんな筈はない、江戸へ入ってから、いちども知った者には会わないし、彼が戻って来るということを、感づく者もない筈である。
 町角を曲るときそっと、眼の隅で見た。間合は少しひらいたが、男はやはりつけて来る。こちらへはまるで眼を向けず、依然としておちついた、きみの悪いほどせかない歩きぶりで、悠くりと跟けて来る。……そこは片側が武家屋敷、片側が町家であった。暖かかった冬の一日の、もうすっかり傾いた日ざしが、道の上に長く影をおとしている。黄昏たそがれには間のある、ふと往来の途絶えるいっとき。街ぜんたいがひそかに溜息ためいきでもつくような、沈んだ、うらさびしい時刻であった。
 ――おじけがついてる、こんな感じは初めてだ、ことによると危ない、年貢のおさめどきになるかもしれないぞ。
 しかし彼の表情は少しも変らなかった。歩く調子も決して乱れはしない、人の眼には平凡なおたな者とみえるだろう、いくらか苦みばしった美男で、身だしなみのいい、若い手代といったふうに、……慥かに、これまで彼はついぞ、その自信を裏切られたことはなかった。それだけが、いまの彼には命の綱のようであった。――いつかはそうなる、誰だって、いつかいちどはそうなるんだ、が、今はいけない、少なくともあと一日、今夜ひと晩でもいい、あいつを片づけるまでは、それまではどんなことをしたって。
 大きな寺の門が見えて来た。
 上野の山内の森が、まぶしく夕焼けの光りをあびている。すると寺は根岸の大宗寺だ。彼は右手をふところへ入れた、腹巻の中の短刀へ触るまえに、ひとさし指の爪際が鋭く痛んだ。とげを刺したのかと思って、出してみると、それはささくれであった。
 そうだ、あの寺の墓地は広かった。
 彼は指のささくれめながら、まっすぐに(初めからそれが目的であったかのように)門前の茶店へはいっていった。
 暗くじめじめした、かなり広い土間に、茣蓙ござを敷いた腰掛が並び、壁によせて、しおれた菊や、しきみや、阿迦桶あかおけなどが見える。十七八の娘が一人、土間にむしろをひろげて、せっせと小さな花の束を作っていた。
「花と線香を下さい」
 娘はこっちを見た。色が黒くてまるっこい、田舎から出て来たばかりといったふうの、愛想のない顔だちであった。
「おまいりですか」ぶっきら棒に云って、いま作ったばかりの花束を、むぞうさに一つ取り、跼んだまま出してみせた、「こんなのでどうですか」
 そして横眼でこちらを見たが、慌てて鼻の頭をこすった。
「もう少し大きいのにして下さい、そっちの大輪の菊を入れて、いいえその白いのがいい」
「これは高価たかいけどいいですか」
 彼は花を選ませながら、眼では巧みに表を見ていた。その男は悠くりと、いちど店の前を通り過ぎ、また戻って来て、元のほうへと、のんびり通り過ぎた。月代さかやきがうすく伸び、たくましいあごにも無精髭ぶしょうひげがみえた。年は三十五六、日にやけた肉の厚い頬に、眠たそうな、細い眼をもっていた。
「お線香は火をつけるんですか」
 花の束が出来ると、娘はそう云って、一種の眼つきでこちらを見た。それは好意のまなざしかもしれないが敵意を含むように思えた。
 阿迦桶を持って、ついて来ようとする娘を断わって、彼はその店を出た。


 寺の門をくぐるまで、そして、鐘楼の脇を通って墓地へ入るまで、彼は息苦しいほど緊張した。
 ――かかるなら墓地へ入るまえだ。
 そして、墓地へ入ってしまえば、慥かにとはいえないが、脱走の機会があるかもしれない。彼はからだじゅうの神経で、うしろのけはいに注意した。
 その男は跟けて来る。振返ってみるまでもない。その男は眠たそうな(しかし少しも紛れのない)眼でこっちの背中をみつめながら、迷いも焦りもない、拾うような足どりで、跟けて来る。それはちょうど、眼にも見えず切ることもできない糸で、しっかりと結びつけられてでもいるような感じだった。
 だが彼は墓地へ入った。
 ――東の端へ、まっすぐにゆけ、そこから入谷へぬけられる。
 線香の煙にせて、せきが出た。石敷の道を左に曲り、右に曲る。墓は豪奢ごうしゃな区域から、しだいに簡素となり、貧しくなる。一方は金に飽かして造り、絶えず手入れをして、拭き清めたようにきれいになっているが、片方では古びて、欠けて、かしいだり倒れたりしたのや、また竹垣もなく墓石もなく、ただ数枚の卒塔婆を立てたばかりのものもある。
 ――貧乏人は死んでもこんなものだ。
 彼は唇をゆがめた。幾曲りかすると、もう道にも石は敷いてない。下駄の歯の跡の付いた、裸の赭土あかつちつづきで、安い線香と土の、気のめいるような匂いが漂っていた。墓はどれもささやかで小さい、古いのも新しいのも、みな狭いところへごたごたとり合って、あたかもかれらが生きていたときのように、慎ましく控えめに、じっと肩をすぼめているようにみえた。
 彼は足を停めた。
 右がわに新しい墓があった。それはごく新しく、まだ十日とは経たないのだろう、盛上げた土も乾かず、白木の墓標の表の名号を書いた字も、墨の香が匂うようであった。……彼は墓標のうしろへまわってみた、俗名おいね、年は二十六歳、命日は十三日まえの、霜月七日と書いてあった。
「おいねちゃんていうんだね」彼はそっとつぶやいた、「――縁のない人間が花なんぞあげて、迷惑かもしれないが、のっぴきならぬばあいだから勘弁して貰うよ」
 そして前へ戻った。
 青竹の筒の片方に、線香を立てる。二三本折れて、折れたのは土の上で煙をあげた。花は大輪でもあるし多すぎた、竹筒へ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)せるだけ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)して、余ったのは墓標の前へ、横に置いた。それから、そこへ跼んで、眼をつむりながら合掌した。
 あの男はこっちを見ている。そう遠くない物蔭から、辛抱づよく、あの細い眼で、じっとこっちをうかがっている。
「二十六というと、おれとは三つ違いだったんだな、おいねちゃん」口の中でそっとこうささやいた、「娘のままだったのか、それともお嫁にいったのか、この墓のようすじゃあ、あんまり楽な暮しでもなかったらしいが、死んでほっとしているか、それともやっぱりみれんの残ることがあるか……」
 傷心を装うために、そう呼びかけたのであるが、つむっている眼の裏へ、ふっとおつやの姿がうかんできた。
「――おつや
 ふしぎに目鼻だちははっきりしない。色の浅黒い、ひき緊った顔も、肩の細いしなやかな躯つきも、すべてが小づくりで、ふんわりと軽く、柔らかそうであった。
 ――あたしをれて逃げてお呉れ、お父さんは金次を婿にする気よ、もう逃げるほかにどうしようもないわ。
 両手で肩を抱き緊め、頬へ頬をつけて、身もだえするように云った。熱い呼吸と抱いた手の烈しい力が、まざまざと、現実のようによみがえってくる。おつやの父親は「橋場の七兵衛」という、かなり名を売った博奕ばくち打である。こっちは仕立職からぐれて、自分ではいっぱしのやくざ気取りでいた。……おつやは一人娘、想いあって、ゆくすえの約束までしたが、橋場一家にとっては、彼などは雑魚ざこの一尾にすぎなかった。
 ――逃げるのはいいが苦労するぜ。
 ――いっしょなら、どんな苦労だって。
 そしてしめし合せたがぬけ出すところをみつかって、取巻かれた。
 ――半さん、死なないでおれ。
 つかまったおつやの叫びが聞えた。眼のくらむような気持だった。夢中で短刀を抜き、とびかかって来た金次を、刺した。左の脇腹だった。そのぶきみな手ごたえに、きもが消えた。
 ――生きてて呉れ、おつや
 喚きながら逃げた。
 桐生という処で一年半仕立職をしながら、おつやを呼びよせる折を待った。
 ――死なないでお呉れ。のどを絞るような女の絶叫が、いつも耳の奥にあった。死なないでお呉れ、半さん、死なないで。
 月に一度ずつ、江戸へゆく機屋はたやの手代に、橋場のようすを探って貰った。金次の傷は浅かった、しかし婿縁組を延ばす役には立った。おつやも首を振りとおし、七兵衛の気持も変った。事情は少しずつ好転し、二人の運がひらけるように思えた。けれども、半年まえに七兵衛が卒中で倒れ「代貸」だった金次の位地がはっきりと一家を押えた。……そして五日まえ、機屋の手代が金次とおつやの結婚を知らせて来た。もちろん金次の無理押しだろう、じっさいにはもう、四五十日も以前に、おつやは金次のものにされていたという。
 桐生に住んで以来、堅気の職人でとおした。おつやと一緒になったら、生涯、仕立屋で暮すつもりだった。
 ――汚れた紙は白くはならない。
 短刀をふところにとびだして来た。そのさきがどうなるか、まず金次を片づけて、後はなりゆきに任せようと心をきめて、今朝、千住の宿から市中へ入ったのである。


 静かな足音が近づいて来る。
 ――さあ、勝負だぞ。
 手を合わせたまま、つむっていた眼をそっとあける。跼んだ足の指先が、きっちりした足袋の中でしびれている。足音はなお近づく。なにかをはばかるように、……用心ぶかく、殆んど忍び足で。そうして、それは彼の脇まで来て、静かに停った。
 ――どうしようというんだ。
 彼はごく自然に、片手をそっとふところへ入れた。指のささくれが痛んだ。そのときうしろで、その人間の動くけはいがした。彼の手は短刀をつかんだ。
「――あのう、失礼でございますが」
 ためらいがちに、女の声でこう云った。振返ってみると、五十歳ばかりの女が、そこにいた。彼は立ちあがって、ぼんやり黙礼しながら、ずっと向うの、墓石の蔭に、あの男がいるのをちらと認めた。
「わざわざおまいり下さいまして、有難うございます、越後屋さんのお店の方でいらっしゃいますか」
「ええ……そうです」
 彼は眼を伏せる。彼女はせていて、顔色が悪い、黒っぽい着物を着た躯も、しなびたように小さく、髪毛には白いものが多かった。阿迦桶の中に花があり、片手に持った線香から煙が立っていた。
 ――うまくやれ、と出るかもしれないぞ。
 あの男が見ている。絶好の機会だ。
「ああ、これはどうも」
 彼は自分が墓の前を塞いでいることに気づいて、愁いに囚われた者のように、頭を垂れながら、そっと脇へ身をよけた。
 老女は礼を述べて、墓の前へ進んだ。彼のあげたもので竹筒はふさがっている、まだ柔らかい盛り土を掘って線香の束を立て、花は彼の供えたのと並べて置いた。それから阿迦桶の水を、墓標の前の(死んだ仏の使っていたらしい)茶碗に注いだ。これらのことを、彼は黙って、放心したように、脇から眺めていた。
「すっかり覚えが悪くなってしまいまして」老女は会釈をして云う、「失礼でございますが、初めてお眼にかかるのでございましょうか」
「ええ、……そうです、たぶん」
「わたくしおいねの母でございます、このたびはお店の皆さまに、いろいろと御厄介をおかけ致しまして……」
 彼女はくどくど礼を云う。あの男はさっきの場所にはいない、だがあの眠そうな眼は、こっちを見まもっている。飽くことなく、じっと、どこかついその辺から。……彼はうなだれて、無気力に溜息をつき、ふところの手をだらっと下げる。
 このあいだに、老女の声は少しずつ変ってきた。それがふと途切れて、なにかを探るようなまぶしそうな眼で、彼を見あげた。
「あのう、こんなことをおたずねしては、失礼かもしれませんが、もしや貴方は、……あの繁二郎さんとおっしゃるのではございませんか」
 彼はどきりとする。すぐには返辞ができない。ええと口ごもるのを、老女は自分の思いどおりに受け取った。
「お手代の繁二郎さまでございますのね」
「ええ、そうです、……繁二郎ですが」
「やっぱりそうでしたか、いねからお名前だけは伺っておりました、あれは御存じのように口の重いでございます、詳しいことはなにも申しませんでしたけれど、でも、……病気がいけなくなってから、うわごとによくお名前をお呼び申しておりました」
 彼は顔をそむけた。老女の声はふるえ、その眼はにわかに強く、期待と哀願の色をこめて、彼を見あげた。
「仰しゃって下さいまし、貴方はあれと、なにか約束をして下すったのではございませんか」いたましいほどおろおろと云った、「――あれは息をひきとるまで、貴方がおいで下さるのを待っていたようでございます、なにか、二人のあいだになにか、約束をして下すったことがあるのではございませんか」
 彼はしばらく答えない。顔をそむけたまま、じっと息をひそめている。それからやがて、静かに、うなずいてみせた。
「――ああ」
 老女は手で口を押えた。
 いつのまにかもやがたって、墓地はうすい鼠色にたそがれてきた。彼は老女の語るのを聞きながら、頭はやはりあの男から放れない、耳も眼も、絶えずそのほうへひきつけられている。
「わたくしが今どんなに嬉しいか、とてもわかっては頂けないでしょう」
 老女は眼を拭き拭き、しどろもどろに、こうかきくどいていた。
「おいねは御存じのように、温和おとなしい気だてのやさしいでございました、ずいぶん早くから縁談もあったのですが、一人娘のうえ、父親があれの十七の年から中風で寐ついて、暮しの苦しいことを知っていたのでしょう、――婿に来るような人は嫌いだ、と云いまして、自分からさっさと、越後屋のお店へ奉公にあがったのでございます」
 父親はおいねの二十四の年に死んだ。母親は家へ帰って婿を取るようにすすめたが、おいねは笑って首を振った。こんな年になっては、嫁にゆくにしても相手は知れている。自分は一生独身でとおすことにきめた。もう少しお店で働いて、なにか小あきないでもするだけ貯めたら、おっ母さんと二人で気軽に暮したい、と云うのであった。
「わたくしはこう思いました」と老女はむせびあげた、「――わたくしがいなければ、あの独りなら、まとまる縁談があったのです、わたしがいるために、纒まるはなしも纒まらず、やがてあんな病気になって……死んでしまいました」
 老女は面をおおって泣いた。
「貧乏人の子に生れて、苦労の絶えなかったことは、運不運とあきらめて貰えます、けれども二十六という年まで、華やいだことも、浮気めいたこともなく、とうとう、夫婦の味も知らせずにしまったかと思うと、可哀そうで、可哀そうで、それだけは諦めがつきませんでした、どう考えてもそのことだけが……」
 彼女はまた激しく泣いた。そして、嗚咽おえつによろめく声で、自分自身を納得させるかのように、続けた。
「でも今はもう、幾らか諦めがつきます、貴方に此処ここでお眼にかかって、あのにも貴方のような方があった、……たとえ夫婦にはなれなかったにしても、貴方という方がいて下すったと思うと、……嬉しくって、嬉しくって」
「もうやめて下さい、どうかもう」彼は呟くように云った、「あの人が、恥ずかしいでしょうから、おいねさんが、あの人はいつも、恥ずかしがりやでしたからね」
「ああそうでございます、あのはいつもそうでございました」老女は涙を拭いた、「――小さいときからそんなふうで、たまにいい玩具でも貰ったりしますと、恥ずかしがって友達にも見せられない、よその子ならみせびらかすところを、あのかえって隠すという性分でございました、そうでございます、……貴方という方のいることも、あのにはやっぱり恥ずかしくて、わたしに話すことができなかったのでございましょう」
 彼はふと、おいねという娘の姿を想像した。越後屋といえば江戸いちばんの呉服屋で、番頭手代だけで何十人といる筈だ。そういう店にいて、二十六になるまで、ついに結婚の機会もなかったとすれば、あまり縹緻きりょうもよくなかったことだろう。友達よりも良い玩具を持つと、恥ずかしくて見せられなかったという、内気で温和しい娘。……いつも他人を立てて、自分はひっそりと蔭に坐っている。繁二郎という手代とはどんな関係だったのか、息をひきとるまで、うわごとに名を呼んでいたというが、死んでも訪ねて来ないようすから察すると、片想いだったと考えられる。
「私はおいねさんと夫婦約束をしていました」
 彼は衝動的にこう云いだした。いけない、ばかなことを云うなと、抑える気持もあったが、口をついて出る言葉はもう止めようがなかった。
「もう少し待てば、店を出して貰えるんです、五年まえから好きあって、末は夫婦と約束をしてからも、二年経ちます」
「まあ、……そんなにまえから」
「あと半年、せいぜい半年もすれば、店が出せる、そうしたらおっ母さんにうちあけよう、私には親きょうだいがありません、祝言をしたらおっ母さんにも来て貰って、三人いっしょに暮そう、そう話しあって、楽しみにしていたんです」
「そうでしたか、そんなふうに云って下すったんですか、わたしまで引取って下さるって」老女は頷いた、「――それをうかがえばもう充分です、あのがどんなに喜んでいたかがわかります、わたくしもこんな嬉しいことはございません、貴方、有難うございました」
 そして、老女は墓に向って、こう囁いた。
「よかったねえ、おいね、おまえは仕合せだったんだねえ」
 彼も心のなかで、墓の主に云った。
 ――嘘を云って済まないが、おまえのおっ母さんが喜んでるんだ、勘弁して呉れるだろうな、おいねちゃん。
 だが彼はあっと云った、とつぜん右の腕を掴まれたのである、強い力で、右の二の腕をぐっと掴まれ、ふり向くと、あの男がそこに立っていた。
「橋場身内の半七だな、騒ぐなよ」
 男はこう云いざま、こっちのふところへ手を入れて、短刀をさっと取りあげた。みごとな手並である。老女は茫然と眼をみはっていた。


 老女との話に気をとられていた。相手がそこへ来たのも知らなかったし、短刀を取られてはっとしたが、すぐには口がきけなかった。
「な、なんですか、貴方はどなたですか」
「とぼけちゃあいけない」
 その男は眠たそうな眼で、側であっけにとられている老女をちらと見、それから皮肉な冷笑をうかべながら云った。
「おまえが金次をやりに来たということは、ちゃんと知らせが届いてるんだ、桐生の機屋の店から、といえばわかるだろう」
「なにを、なにを仰しゃるんだか、私にはてんでわかりません」
「おれにもわからないことがある」男は云った、「――金次が橋場一家を押え、おつやという娘の押掛け婿になったことは、あくどいやり方だ、普通の世間ならまわりが許してはおかないだろう、しかし、やくざの世界はべつだ、腕と度胸がものを云う、やくざ仲間では、無理でもあくどくっても勝つ者が勝つんだ、……おまえは堅気に戻った、そのことは機屋の番頭からよく聞いている、想いあった女を横取りされて、口惜しいだろうが、おつやはもともと博奕打の娘だし、そうなってしまえばそれで、しぜんとおさまってゆくものだ、おれも現に見ているが、どうやら波風の立つようすもない、そこへ今おまえが乗込んで、金次を刺すことができたとしても、おつやの躯が娘に返るわけでもなし、金次に代って、いきなりおまえが橋場を背負って立てもしない、悪くこそあれ、善くなることは一つもありゃあしない、どうしてそんなつまらない量見を起こしたか、おれにはそれがわからないんだ」
「あの失礼でございますが」脇から老女がおそるおそる云った、「貴方は町方の親分さまでございますか、もしもそうなら、これはとんでもないお間違いでございます」
 男は悠くりと振返った。老女は微笑して、気の毒そうに頷きながら云った。
「こちらは駿河町の越後屋のお手代で、繁二郎と仰しゃる方です、わたくしは山崎町の藤兵衛だなにいる、おかねという者ですが、この方は、死んだわたくしの娘の墓まいりに来て下すったところなんです」
「するとおまえさんは、この男を知っているのかえ」
「存じておりますとも、よけいなことを申上げるようですが、この方と死んだ娘のおいねとは夫婦約束ができていたのですから」
「だが、墓まいりに短刀はおかしかあないか」
「それは」と老女が口ごもった、「――この方のようすでお察し申すのですけれど、おいねに死なれて、思いつめたあまり、……」
 その男は彼のほうを見た。彼は眼を伏せたまま、そっと頷いた。男はそれを細い眼で眺めながら、穏やかな口ぶりで云った。
「この人の云うことに相違ないか、おまえ本当に堅気の、越後屋の手代か」
 彼はまた頷いた。
「そうか、おれの眼ちがいか」
 その男は初めて、掴んでいた腕を放した。それから取りあげた短刀を、ゆらゆらと揺りながら、
「そいつはとんだ迷惑をかけた」と低い声で云った、「――桐生の機屋にいるのが、おれの友達で、そいつがまた半七という男を好きなんだ、まちがいのないように頼むと、急飛脚をよこしたので、千住で見張っていたところおまえを見かけ、てっきりこいつと思いこんだわけさ、半七という男は仲間を斬って逃げたんで、捉まればお繩になる、もちろん、こんな話はおまえさんには関係のないことだろう」
 そして、持っている短刀を見せ、
「だがひとつお節介をさせて貰おう、想う娘に死なれたからって、思いつめて死ぬなんざあみれんすぎる、そのくらいなら、こうしてあとに残ったおふくろさんの面倒をみてあげたらどうだ、そのほうが、死んだ娘のためにも功徳になるぜ」
「まあとんでもない、どうかそんな、わたしのような者のことなんぞ」
「なあにこいつはただ云ってみただけのことさ、……迷惑をかけて済まなかった、この危ないものはおれが預かってゆくぜ」
 その男は短刀をふところへ入れた。かちりと音がしたのは、十手があったからだろう。じっと細い眼でこちらを見つめて、それから悠くりと去っていった。夕靄……が濃くなって、墓地の向うはおぼろにかすんでいる。男の姿はその靄の中へと、静かに消えていった。
「あの人はまあなにを勘違いしたんでしょう」
 老女はこう云って太息といきをついた。
「似ていた私が悪いんですよ」彼はなだめるように云った、「――貴女がいて呉れたので、早く疑いが解けて助かりました、しかしああいう職の人間にしては、思い遣りのありそうな人でしたね」
 解放されたように、気が楽になった。桐生から此処へ来るまでの、どす黒い、歪んだ感情。泥まみれに汚れた途の、すぐ脇に、こういう静かな、無事な世界があった。そのつもりなら、いま云われたように、この老女を伴れて桐生へ帰ることもできる。
 ――そいつはあんまりきざだ。
 そして、幾らか不自然でもあるがそうすることができれば、自分も仕立職としておちつくことができるかもしれない。
「暮れてきましたね」彼は阿迦桶を持ちながら云った、「――帰るとしましょうか」
「あら、それはわたくしが」
「いいえ私が持ちます、ついでにお宅まで送ってゆきますよ」
 なにか云いたそうな老女の背へ、彼はそっと手をかけ、いたわるように並んで、歩きだした。……夕靄をゆすって、鐘が鳴り始めた。





底本:「山本周五郎全集第二十三巻 雨あがる・竹柏記」新潮社
   1983(昭和58)年11月25日発行
初出:「キング」大日本雄辯會講談社
   1952(昭和27)年2月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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