彼は立停って、
――間違いはない、
その男はふところ手をして、左右の家並を眺めながら、
――こんな筈はない、ふしぎだ。
彼は歩きだした。どうしたってそんな筈はない、江戸へ入ってから、いちども知った者には会わないし、彼が戻って来るということを、感づく者もない筈である。
町角を曲るときそっと、眼の隅で見た。間合は少しひらいたが、男はやはりつけて来る。こちらへはまるで眼を向けず、依然としておちついた、きみの悪いほどせかない歩きぶりで、悠くりと跟けて来る。……そこは片側が武家屋敷、片側が町家であった。暖かかった冬の一日の、もうすっかり傾いた日ざしが、道の上に長く影をおとしている。
――おじけがついてる、こんな感じは初めてだ、ことによると危ない、年貢のおさめどきになるかもしれないぞ。
しかし彼の表情は少しも変らなかった。歩く調子も決して乱れはしない、人の眼には平凡なお
大きな寺の門が見えて来た。
上野の山内の森が、
そうだ、あの寺の墓地は広かった。
彼は指のささくれを
暗くじめじめした、かなり広い土間に、
「花と線香を下さい」
娘はこっちを見た。色が黒くてまるっこい、田舎から出て来たばかりといったふうの、愛想のない顔だちであった。
「おまいりですか」ぶっきら棒に云って、いま作ったばかりの花束を、むぞうさに一つ取り、跼んだまま出してみせた、「こんなのでどうですか」
そして横眼でこちらを見たが、慌てて鼻の頭をこすった。
「もう少し大きいのにして下さい、そっちの大輪の菊を入れて、いいえその白いのがいい」
「これは
彼は花を選ませながら、眼では巧みに表を見ていた。その男は悠くりと、いちど店の前を通り過ぎ、また戻って来て、元のほうへと、
「お線香は火をつけるんですか」
花の束が出来ると、娘はそう云って、一種の眼つきでこちらを見た。それは好意のまなざしかもしれないが敵意を含むように思えた。
阿迦桶を持って、ついて来ようとする娘を断わって、彼はその店を出た。
寺の門をくぐるまで、そして、鐘楼の脇を通って墓地へ入るまで、彼は息苦しいほど緊張した。
――かかるなら墓地へ入るまえだ。
そして、墓地へ入ってしまえば、慥かにとはいえないが、脱走の機会があるかもしれない。彼は
その男は跟けて来る。振返ってみるまでもない。その男は眠たそうな(しかし少しも紛れのない)眼でこっちの背中を
だが彼は墓地へ入った。
――東の端へ、まっすぐにゆけ、そこから入谷へぬけられる。
線香の煙に
――貧乏人は死んでもこんなものだ。
彼は唇を
彼は足を停めた。
右がわに新しい墓があった。それはごく新しく、まだ十日とは経たないのだろう、盛上げた土も乾かず、白木の墓標の表の名号を書いた字も、墨の香が匂うようであった。……彼は墓標のうしろへまわってみた、俗名おいね、年は二十六歳、命日は十三日まえの、霜月七日と書いてあった。
「おいねちゃんていうんだね」彼はそっと
そして前へ戻った。
青竹の筒の片方に、線香を立てる。二三本折れて、折れたのは土の上で煙をあげた。花は大輪でもあるし多すぎた、竹筒へ


あの男はこっちを見ている。そう遠くない物蔭から、辛抱づよく、あの細い眼で、じっとこっちを
「二十六というと、おれとは三つ違いだったんだな、おいねちゃん」口の中でそっとこう
傷心を装うために、そう呼びかけたのであるが、つむっている眼の裏へ、ふっとおつやの姿がうかんできた。
「――おつや」
ふしぎに目鼻だちははっきりしない。色の浅黒い、ひき緊った顔も、肩の細いしなやかな躯つきも、すべてが小づくりで、ふんわりと軽く、柔らかそうであった。
――あたしを
両手で肩を抱き緊め、頬へ頬をつけて、身もだえするように云った。熱い呼吸と抱いた手の烈しい力が、まざまざと、現実のように
――逃げるのはいいが苦労するぜ。
――いっしょなら、どんな苦労だって。
そして
――半さん、死なないでお
――生きてて呉れ、おつや。
喚きながら逃げた。
桐生という処で一年半仕立職をしながら、おつやを呼びよせる折を待った。
――死なないでお呉れ。
月に一度ずつ、江戸へゆく
桐生に住んで以来、堅気の職人でとおした。おつやと一緒になったら、生涯、仕立屋で暮すつもりだった。
――汚れた紙は白くはならない。
短刀をふところにとびだして来た。そのさきがどうなるか、まず金次を片づけて、後はなりゆきに任せようと心をきめて、今朝、千住の宿から市中へ入ったのである。
静かな足音が近づいて来る。
――さあ、勝負だぞ。
手を合わせたまま、つむっていた眼をそっとあける。跼んだ足の指先が、きっちりした足袋の中で
――どうしようというんだ。
彼はごく自然に、片手をそっとふところへ入れた。指のささくれが痛んだ。そのときうしろで、その人間の動くけはいがした。彼の手は短刀を
「――あのう、失礼でございますが」
「わざわざおまいり下さいまして、有難うございます、越後屋さんのお店の方でいらっしゃいますか」
「ええ……そうです」
彼は眼を伏せる。彼女は
――うまくやれ、めと出るかもしれないぞ。
あの男が見ている。絶好の機会だ。
「ああ、これはどうも」
彼は自分が墓の前を塞いでいることに気づいて、愁いに囚われた者のように、頭を垂れながら、そっと脇へ身をよけた。
老女は礼を述べて、墓の前へ進んだ。彼のあげたもので竹筒は
「すっかり覚えが悪くなってしまいまして」老女は会釈をして云う、「失礼でございますが、初めてお眼にかかるのでございましょうか」
「ええ、……そうです、たぶん」
「わたくしおいねの母でございます、このたびはお店の皆さまに、いろいろと御厄介をおかけ致しまして……」
彼女はくどくど礼を云う。あの男はさっきの場所にはいない、だがあの眠そうな眼は、こっちを見まもっている。飽くことなく、じっと、どこかついその辺から。……彼はうなだれて、無気力に溜息をつき、ふところの手をだらっと下げる。
このあいだに、老女の声は少しずつ変ってきた。それがふと途切れて、なにかを探るような
「あのう、こんなことをお
彼はどきりとする。すぐには返辞ができない。ええと口ごもるのを、老女は自分の思いどおりに受け取った。
「お手代の繁二郎さまでございますのね」
「ええ、そうです、……繁二郎ですが」
「やっぱりそうでしたか、いねからお名前だけは伺っておりました、あれは御存じのように口の重いこでございます、詳しいことはなにも申しませんでしたけれど、でも、……病気がいけなくなってから、うわごとによくお名前をお呼び申しておりました」
彼は顔をそむけた。老女の声はふるえ、その眼はにわかに強く、期待と哀願の色をこめて、彼を見あげた。
「仰しゃって下さいまし、貴方はあれと、なにか約束をして下すったのではございませんか」いたましいほどおろおろと云った、「――あれは息をひきとるまで、貴方がおいで下さるのを待っていたようでございます、なにか、二人のあいだになにか、約束をして下すったことがあるのではございませんか」
彼は
「――ああ」
老女は手で口を押えた。
いつのまにか
「わたくしが今どんなに嬉しいか、とてもわかっては頂けないでしょう」
老女は眼を拭き拭き、しどろもどろに、こうかきくどいていた。
「おいねは御存じのように、
父親はおいねの二十四の年に死んだ。母親は家へ帰って婿を取るようにすすめたが、おいねは笑って首を振った。こんな年になっては、嫁にゆくにしても相手は知れている。自分は一生独身でとおすことにきめた。もう少しお店で働いて、なにか小あきないでもするだけ貯めたら、おっ母さんと二人で気軽に暮したい、と云うのであった。
「わたくしはこう思いました」と老女は
老女は面を
「貧乏人の子に生れて、苦労の絶えなかったことは、運不運と
彼女はまた激しく泣いた。そして、
「でも今はもう、幾らか諦めがつきます、貴方に
「もうやめて下さい、どうかもう」彼は呟くように云った、「あの人が、恥ずかしいでしょうから、おいねさんが、あの人はいつも、恥ずかしがりやでしたからね」
「ああそうでございます、あのこはいつもそうでございました」老女は涙を拭いた、「――小さいときからそんなふうで、たまにいい玩具でも貰ったりしますと、恥ずかしがって友達にも見せられない、よその子ならみせびらかすところを、あのこは
彼はふと、おいねという娘の姿を想像した。越後屋といえば江戸いちばんの呉服屋で、番頭手代だけで何十人といる筈だ。そういう店にいて、二十六になるまで、ついに結婚の機会もなかったとすれば、あまり
「私はおいねさんと夫婦約束をしていました」
彼は衝動的にこう云いだした。いけない、ばかなことを云うなと、抑える気持もあったが、口をついて出る言葉はもう止めようがなかった。
「もう少し待てば、店を出して貰えるんです、五年まえから好きあって、末は夫婦と約束をしてからも、二年経ちます」
「まあ、……そんなにまえから」
「あと半年、せいぜい半年もすれば、店が出せる、そうしたらおっ母さんにうちあけよう、私には親きょうだいがありません、祝言をしたらおっ母さんにも来て貰って、三人いっしょに暮そう、そう話しあって、楽しみにしていたんです」
「そうでしたか、そんなふうに云って下すったんですか、わたしまで引取って下さるって」老女は頷いた、「――それをうかがえばもう充分です、あのこがどんなに喜んでいたかがわかります、わたくしもこんな嬉しいことはございません、貴方、有難うございました」
そして、老女は墓に向って、こう囁いた。
「よかったねえ、おいね、おまえは仕合せだったんだねえ」
彼も心のなかで、墓の主に云った。
――嘘を云って済まないが、おまえのおっ母さんが喜んでるんだ、勘弁して呉れるだろうな、おいねちゃん。
だが彼はあっと云った、とつぜん右の腕を掴まれたのである、強い力で、右の二の腕をぐっと掴まれ、ふり向くと、あの男がそこに立っていた。
「橋場身内の半七だな、騒ぐなよ」
男はこう云いざま、こっちのふところへ手を入れて、短刀をさっと取りあげた。みごとな手並である。老女は茫然と眼をみはっていた。
老女との話に気をとられていた。相手がそこへ来たのも知らなかったし、短刀を取られてはっとしたが、すぐには口がきけなかった。
「な、なんですか、貴方はどなたですか」
「とぼけちゃあいけない」
その男は眠たそうな眼で、側であっけにとられている老女をちらと見、それから皮肉な冷笑をうかべながら云った。
「おまえが金次をやりに来たということは、ちゃんと知らせが届いてるんだ、桐生の機屋の店から、といえばわかるだろう」
「なにを、なにを仰しゃるんだか、私にはてんでわかりません」
「おれにもわからないことがある」男は云った、「――金次が橋場一家を押え、おつやという娘の押掛け婿になったことは、あくどいやり方だ、普通の世間ならまわりが許してはおかないだろう、しかし、やくざの世界はべつだ、腕と度胸がものを云う、やくざ仲間では、無理でもあくどくっても勝つ者が勝つんだ、……おまえは堅気に戻った、そのことは機屋の番頭からよく聞いている、想いあった女を横取りされて、口惜しいだろうが、おつやはもともと博奕打の娘だし、そうなってしまえばそれで、しぜんとおさまってゆくものだ、おれも現に見ているが、どうやら波風の立つようすもない、そこへ今おまえが乗込んで、金次を刺すことができたとしても、おつやの躯が娘に返るわけでもなし、金次に代って、いきなりおまえが橋場を背負って立てもしない、悪くこそあれ、善くなることは一つもありゃあしない、どうしてそんなつまらない量見を起こしたか、おれにはそれがわからないんだ」
「あの失礼でございますが」脇から老女がおそるおそる云った、「貴方は町方の親分さまでございますか、もしもそうなら、これはとんでもないお間違いでございます」
男は悠くりと振返った。老女は微笑して、気の毒そうに頷きながら云った。
「こちらは駿河町の越後屋のお手代で、繁二郎と仰しゃる方です、わたくしは山崎町の藤兵衛
「するとおまえさんは、この男を知っているのかえ」
「存じておりますとも、よけいなことを申上げるようですが、この方と死んだ娘のおいねとは夫婦約束ができていたのですから」
「だが、墓まいりに短刀はおかしかあないか」
「それは」と老女が口ごもった、「――この方のようすでお察し申すのですけれど、おいねに死なれて、思いつめたあまり、……」
その男は彼のほうを見た。彼は眼を伏せたまま、そっと頷いた。男はそれを細い眼で眺めながら、穏やかな口ぶりで云った。
「この人の云うことに相違ないか、おまえ本当に堅気の、越後屋の手代か」
彼はまた頷いた。
「そうか、おれの眼ちがいか」
その男は初めて、掴んでいた腕を放した。それから取りあげた短刀を、ゆらゆらと揺りながら、
「そいつはとんだ迷惑をかけた」と低い声で云った、「――桐生の機屋にいるのが、おれの友達で、そいつがまた半七という男を好きなんだ、まちがいのないように頼むと、急飛脚をよこしたので、千住で見張っていたところおまえを見かけ、てっきりこいつと思いこんだわけさ、半七という男は仲間を斬って逃げたんで、捉まればお繩になる、もちろん、こんな話はおまえさんには関係のないことだろう」
そして、持っている短刀を見せ、
「だがひとつお節介をさせて貰おう、想う娘に死なれたからって、思いつめて死ぬなんざあみれんすぎる、そのくらいなら、こうしてあとに残ったおふくろさんの面倒をみてあげたらどうだ、そのほうが、死んだ娘のためにも功徳になるぜ」
「まあとんでもない、どうかそんな、わたしのような者のことなんぞ」
「なあにこいつはただ云ってみただけのことさ、……迷惑をかけて済まなかった、この危ないものはおれが預かってゆくぜ」
その男は短刀をふところへ入れた。かちりと音がしたのは、十手があったからだろう。じっと細い眼でこちらを見つめて、それから悠くりと去っていった。夕靄……が濃くなって、墓地の向うはおぼろにかすんでいる。男の姿はその靄の中へと、静かに消えていった。
「あの人はまあなにを勘違いしたんでしょう」
老女はこう云って
「似ていた私が悪いんですよ」彼はなだめるように云った、「――貴女がいて呉れたので、早く疑いが解けて助かりました、しかしああいう職の人間にしては、思い遣りのありそうな人でしたね」
解放されたように、気が楽になった。桐生から此処へ来るまでの、どす黒い、歪んだ感情。泥まみれに汚れた途の、すぐ脇に、こういう静かな、無事な世界があった。そのつもりなら、いま云われたように、この老女を伴れて桐生へ帰ることもできる。
――そいつはあんまりきざだ。
そして、幾らか不自然でもあるがそうすることができれば、自分も仕立職としておちつくことができるかもしれない。
「暮れてきましたね」彼は阿迦桶を持ちながら云った、「――帰るとしましょうか」
「あら、それはわたくしが」
「いいえ私が持ちます、ついでにお宅まで送ってゆきますよ」
なにか云いたそうな老女の背へ、彼はそっと手をかけ、