雪の上の霜

山本周五郎





 その仕事は簡単なものであった。街道に立っていて、荷物を(重たそうに)持っている旅人が来たら、あいそよく呼びかけて、こう云うのである。
 ――次の宿しゅくまでその荷物を持ちましょう。つまり、馬や駕籠かごに乗るほどではないが、歩き草臥くたびれて少しばかり荷物が厄介になった、という客のために、馬や駕籠よりも安価な駄賃で、荷物を持ってやる。というわけである。……これはもちろん三沢伊兵衛の新案ではない、妻と二人の、ながい、放浪の旅のあいだに、子供がやっているのを、幾たびか見たことがあった。みんな十歳前後の子供たちで、またそのくらいの者に適当した、ほんの小遣稼こづかいかせぎにすぎないだろう。伊兵衛のように背丈が五尺八寸もあり、武芸で鍛錬した十七貫余もある躰躯たいくでは、不似合というよりいささか滑稽である。
 だがそんなことに構ってはいられなかった。妻が病気で倒れまる二た月も医者にかかり、現在なお滝沢の湯治宿で、予後の療養を続けている。また此処ここあい宿しゅくで、さし当りほかに稼ぐ方法がなかった。彼としては、むしろ相当な思いつきだと考えたくらいであった。
 仕事そのものは簡単であるが、実際にやってみると(生業なりわいというものがすべてそうであるように)おいそれとうまくはゆかなかった。おちぶれてはいるが人品が違うし、からだもぬきんでているから、客のほうで誤解するらしい。こちらで呼びかけると、急におびえたような顔になり、返辞もせずに駆けだす者があった。初めのうちはしばしばあった。また次には、親切な気持からしてれる、と思うのだろう、たいそう恐縮して、途中もなにかと鄭重ていちょうに話しかける。しょうばいのことや、時候気象のことや、不良なせがれのことや、そのほか各種多様なことについて。……伊兵衛はもちまえの気のやさしさと、なにごとにも丁寧な性分から、相手よりもなお慇懃いんぎんな態度で、熱心にあいづちを打ち、おどろいてみせ、感じ入り、適度に反対したり、あいそ笑いをしたりする。そうして、峠を一つ越えて仲山という宿へ着くと、相手は荷物を受取って、あつく礼を述べていってしまうのである。
 ――まことにおなごり惜しい。
 などと云うが、伊兵衛としても、まさか駄賃を呉れとは云えない。こちらもなごり惜しいような心持で、また次の客を物色する。といったような例もずいぶんあった。
 むろんそんなことばかりはなかったし、馴れれば調子もわかるから、十日ばかりするうちには、どうやら少しは稼ぎになるようになった。すると、世の中というものはむずかしいもので、こんどはべつの方面から、ぐあいの悪いことが起こってきた。というのは、街道の馬子や駕籠きたちが、いやな眼でじろじろ見たり、皮肉なようなことを云ったりする。
 ――もともと客の少ない街道で、こう稼ぎ手が多くてはやりきれない、これでは共食いである。
 ――だいたい建場たてばに籍のない人間が、この街道で稼ぐというのは違法ではないか。
 そんなふうなことを云うのである。
 初めのうち伊兵衛は気づかなかった。彼のめあては、馬や駕籠に乗るほどでない客、ちょいとした荷物が面倒になったという客で、他人の稼ぎを横取りするとは思われない、ほんのおこぼれを貰っていると思っていたからである。しかしちかごろになって、ようやく、それが自分に対する当てこすりだ、ということがわかってきた。
 ――これは困ったことになった。
 そう気がついたが、それにしてもやはり、かれらの邪魔になるほどのこととは思えないし、せっかくとりついた仕事なので、できるだけ控えめにしながら、続けてゆくよりしかたがなかった。
 二月中旬のよく晴れた日のことであった。
 午前ちゅうに客が二人あり、ひる飯を喰べるとすぐに、また一人、商人あきんどふうの客があった。五十ばかりになる、肥えた、血色のいい男で、歩きだすとすぐに、胆石病の話を始めた。
「なにしろおまえさん、胆石病とくると木っ端へ火がついたようなもんさ、眉毛と眉毛の間に茶色のしわができる、それが胆石病の始まりさね、うっちゃっとくとそれが黒味をもってくる、そうなったら療治はむずかしい、ぶちこわした長屋の古材木みたようなもんさ」
 伊兵衛は例の如く感心し、巧みにおどろいたり感じ入ったりした。客は続けて、胆石病の痛みは丸鑿まるのみまれるようだ、と云った。胃のさしこみは小刀でえぐられるようだし、肝臓の痛みはきりで穴をあけられるようである。はらわたとくるとびたのこぎりかれるようだし、急性の腎臓じんぞうは千本の針を突込んでかきまわされるようである。だがなんといっても、胆石病の痛みにまさる痛みはない。などとも云った。……伊兵衛はしまいには、あいづちの打ちようがなくなったので、やむなくこういてみた。
「失礼ですが胆石病をわずらっていらっしゃるんですか」
「私が胆石病ですって」客はふり返って、心外なことを聞くものだ、とでも云いたそうな眼つきをした、「とんでもない、冗談にもそんな、私は脚気かっけの持病こそあるが、胆石病なんぞにはまだお眼にかかったこともありませんや」
「はあ、そうでございますか」
「そうですとも、大仏さまのふんどしのようなもんでさあ」こう云いながら、客はさらに続けて、胆石病に効験のある薬とか、信仰するに適した神仏とか、秘伝のまじないとか、忌むべき飲食物などを挙げたうえ、「それからおまえさん、大事なのは寝る方角さね、胆石病にはいぬいが禁物で、胆石病の者が乾の方角へ頭を向けて寝るのは、欠け茶碗をはだしで踏んづけるようなもんでさあ」
 そんなことまで云うのであった。
 道は峠にかかった。歩くうちに、汗ばむほど暖たかい日で、雪のまだらに残った地面からは、しきりに陽炎かげろうが立っていた。客の饒舌じょうぜつに少しばかり飽きてきた伊兵衛は、峠にかかるとまもなく、うしろから来る二人の馬子の(聞えよがしな)たか声に気がついた。
「いつまで遠廻しに云ったってしようがねえ、相手はおめえそらを使ってるんだ、はっきりけじめをつけてやろうじゃあねえか」
「おらあ初めからそう云ってるんだ、仲山と吉田の建場だけでも十八人、指をくわえて見てるこたあねえやな」
 明らかに暴力の暗示だった。これまでの、当てこすりやこけおどしとは調子が違っていた。まるで違っていた。そして、その意味をさらにはっきり聞かせるためだろう、二人の言葉はもっと強く、じかで、汚なくなっていった。
 ――そんなにも邪魔なんだろうか。


 峠を登りつめると、松平対馬守つしまのかみ(四万六千石)の城下が見える。峠の下にある仲山という宿場が、ほぼ領境りょうざかいに当り、そこから城下町まで約一里ほどあった。
「やあ御苦労さま、此処で結構ですよ」
 峠の上の茶店の前まで来ると、客は胆石病の話をやめてそう云った。
「いや仲山まで持ってまいりましょう」伊兵衛はあいそ笑いをした、「駄賃は此処まででよろしいのですが、戻りの客をひろうのに仲山までまいります、どうせついでですからお持ち致しましょう」
「いやもう結構、それには及びませんよ」客はこう云って、鼻紙と銭入を出し、伊兵衛の見ている前で、銭を一枚二枚と数えたうえ、少ないがこころづけだと、なお三枚加えて、その鼻紙で包んでさしだした、「おかげで楽に峠を越しました、また御縁があったらお頼みしますよ」
 そして荷物を受取って、茶店の中へと入っていった。
 ――どうしようか。
 伊兵衛はちょっと迷った。仲山まで客をひろいにおりようか、それとも今日はこれで帰ろうか……迷いながらふと、いま貰った駄賃の包をあけてみた。なんとなく手触りがへんだったからであるが、あけてみると、鼻紙の中には小さな石ころが五つあるだけだった、一枚の銭もないし、銭らしいなに物もなかった。ただの小さな石ころが五つだけで、これには伊兵衛はびっくりした。
 ――いったいこれはどういうわけだ。
 殆んどあきれてふり向くと、客は茶店の中に腰をかけて、煙草を吸いつけているところだった。伊兵衛は慌ててそっちへゆき、手の上の物を見せながら、あいそ笑いをした。
「――どうしたんですね」
 客は手の上の物を見、それから不審そうに伊兵衛を見た。
 伊兵衛は当惑した。まわりの縁台には旅人が六七人と、向うには駕籠舁きらしいのが四人ばかりいたし、なおまた、うしろから来た例の二人の馬子も(馬をつないで)こっちへ入って来た。あんまり人が多いので当惑したけれど、黙ってひっこむわけにもいかない。彼はもういちどあいそ笑いをして、云った。
「これはいま頂いたものなんですが、あけてみたらこんな物が出て来たもんですから」
「ほほう」客は悠然と煙を吐いた、「――なんですか、石ころみたように見えますな」
「ええ、私もそう思うんです」
「それじゃあきっと石ころなんでしょう」
「ええそうなんです、石ころなんです」
「それで」客は煙管きせるをはたいた、「その石ころをどうしようというんです、なにか手品でもして見せようというわけですか」
「とんでもない、そうではないんです、いま頂いたのが駄賃ではなくあけてみたらこんな物ですから、たぶんなにかの間違いではないかと思いまして」
「間違いって……どういう間違いです」
「つまり貴方が包を間違えて」
「冗談を云っちゃあ困るね、私はおまえさんの眼の前で銭を数えた、駄賃のほかに些少さしょうだがこころづけも添えて包んだ、おまえさんそれを見ていた筈じゃあないか」
「ええそうです、たしかに見ていました」
 そのとき向うで、誰かの失笑するのが聞えた。店の中にいた人たちは(駕籠舁きや馬子たちも)この珍しい問答を聞きつけ、もうさっきから笑いを耐えながら、こっちを見ていたのである。
「それならいいじゃないか」肥えた客はまた莨盆たばこぼんを取って煙草に火をつけた、「――眼の前で数えて眼の前で包んで、手から手へじかに渡したんだ、受取ったあとでおまえさんがなにをしたか」
「いいえ決して、とんでもない、私はなんにもしないんです」彼は激しく首を振り、「――私はなにもしません、本当に、決してです」
 また向うで誰かが失笑した、客はからかうように煙をふうと吐きながら云った。
「おまえさんがなにかしたかしないか、私は此処で煙草をつけていたから知りゃあしない、受取ったときに文句をつけるならべつだが、いまになってそんなことを云ったって、誰が本当にするもんですか、こっちは初めて道中をするわけじゃないんだ、つまらない云いがかりはやめて貰いましょう」
 伊兵衛はへどもどして赤くなり、われ知らず頭へ手をやっておじぎをした。こんどはいっぺんに、五六人の者が失笑した。そこでますます狼狽ろうばいし、恥ずかしくなり、なにかわけのわからないことを云って、表へとびだした。
 ――醜態だ、なんということだ。
 五尺八寸の躯が、只の三寸くらいに縮まったような心持で、恥ずかしくて恥ずかしくて、そのまま地面にめり込むか、煙になって消えてしまいたいくらいだった。
 ――たかの知れた駄賃のことで。
 なんのためにあんな文句をつけたのか、あの客はあのとおり、肥えた堂々たる恰幅をしていた。身なりもいいし、荷物も重かった。どこかの裕福な商人だろう、決して僅かな銭をごまかすような人柄ではない。にもかかわらずあんなことを云うなんて……こんなふうに思いながら、茶屋を出て吉田のほうへ戻ろうと、十四五間来たとき、うしろから呼びかける声がした。
「そこの人、ちょっと待って呉れ」
 ふり返ってみると、馬子や駕籠舁きが七八人、なかには息杖いきづえや棒などを持って、こっちへ追いかけて来た。かれらはいまの出来ごとを見て、ずうたいは大きいが人間はへぼだ、と思ったらしい。駆けつけて来ると、伊兵衛をぐるっと取巻いて、おそろしく高飛車にどなりだした。
「おらあ土橋の権六てえもんだが、うぬはいってえどこの人間だ、どこから流れて来て此処でなにしようとしてやがるんだ、何者だてめえは」
 伊兵衛はおじぎをした。
「どうも済みません、私は三沢伊兵衛という浪人でございまして」
「嘘うつきやがれ」他の馬子の一人が脇から叫んだ、「――おらあ崖下がけしたの勘太てえもんだ、いくらおちぶれたって侍のはしくれなら竹光ぐれえは差してる筈だ、人をめやがって、浪人だと云えばおらっちが腰を抜かすとでも思やがるのか」
「いえ嘘は云いません、本当に浪人です」伊兵衛は泣きたいような気持で、しかしけんめいに弁明した、「もちろん刀は持っていますが、刀を差していては客がひろえませんので、本当にだめなんです、客がみんな怖がるらしくって」
「やかましいやい、なにが客だ、おらあこぶの八兵衛てえもんだが、この街道にだって建場てえものがある、旅の客で稼ぐには建場の株を買って、馬子は馬子、駕籠は駕籠の仲間にへえらなけりゃあならねえ、それをうぬはどこの牛の尻尾か知れねえ身で、おらっちに挨拶もしねえで客をひろい、平気な面あしておらっちの稼ぎを横取りしやあがる、さあ云ってみろ、どこの誰に許されてそんなまねをしやあがるんだ」
「どうも済みません、まことにどうも」伊兵衛は続けさまに低頭した、「――そういうきまりがあるとは知りませんでしたし、病人を抱えてほかに仕事がないものですから」
「この野郎、まだ云いぬけをするつもりか」
「面倒だ、ぶちのめして山犬の餌食えじきにしろ」
 こう喚いたと思うと、いきなり一人が殴りかかった。伊兵衛はそのひじつかんで、
「ああ待って下さい、どうかそれだけは」片手を振りながら懇願した、「病人がいるのですから、あやまりますから、あっ危ない、どうかやめて下さい、危ないですから、あっ失礼、どうかもう、お願いです」
 口では鄭重にあやまっているし、乱暴をするつもりなどは決してないが、身に付いた武芸はどうしようもない。軽くかわす手や足が、みな要所に当るので、かれらは四五間もすっとんだり、みごとに転倒したり、こぶの八兵衛などは殺されるような悲鳴をあげたりした。それでかれらはますます逆上し、棒や息杖をふるって、前後左右から襲いかかった。
「どうか待って下さい、勘弁して下さい」伊兵衛は哀訴した、「――このとおりです、頼みます、どうかそんな、あっ、ごめんなさい」
 棒を奪い、息杖を奪った。それらは五本あったが、その五本を両手に持って、おじぎをし、あやまりながら、なおとびかかって来る相手を、右によけ左によけ、さらに大きな声をあげて、
「誰か来て下さい、どうかこの人たちを止めて下さい」と叫びたてた。強いほうが助けを求めているので、脇から見たらよほど面白い光景だったろう。事実、さっきからのようすを、一人の武士が笑いながら眺めていた。五十ちかい年配で、小柄ではあるがたくましい躯つきの、眼のするどい男だった。そのするどい眼で、伊兵衛の動作をじっと眺めていたが、もうよかろうという顔つきで、
「手を引け、下郎、控えろ」
 こう叫びながら近よって来た。
箕山みのやま城下の小室青岳こむろせいがくだ、やめろ」
 よほど名の知れた人物なのだろう、小室青岳と聞いて、かれらはさっととびしさった。三人ばかりはぶっ倒れて、死ぬほど苦しげにあえいでいたが、これらも吃驚びっくりしてはね起きた。
「おれはあの茶屋にいて、きさまたちの相談を聞いたのであとを追って来た」青岳はきめつけるように云った、「――そしてすっかり見ていたが、このかたは土地の習慣を知らず、なお病気の母親を抱えて難渋しておる、済まなかったとびておられる、それをののしはずかしめ、多数をたのんで打ちかかるとは、無法千万なやつらだ」
「もうどうか」伊兵衛は手を振った、「――これは私が悪いのですから」
「いや申さねばわからぬやつらです」
 青岳は会釈を返して、なお烈しく叱りつけた。
「きさまらにはわかるまいが、この方は一流の達人だ、本気になられたらきさまら、一人も無事では済まぬところだったぞ、おれがお詫びを申してやる、此処へ来てみんなあやまれ」


 おたよは夜具の上に坐って、はかまを着けている良人おっとの姿を、気遣わしそうに眺めていた。
 まだ病後のやつれはあるが、若い躯は恢復かいふくも早いらしく、皮膚はつややかになり、血色もよく、活き活きと光りをたたえた眼もとなど、一種のなまめかしささえ加わったようである。
「それで、その小室さまと仰しゃる方とは、どこでお知合いになりましたの」
「それはあれです」伊兵衛はちょっと詰ったが、「――その問屋の店でですね、ほんのちょっとしたことからなんだが、そういうわけならぜひ訪ねて来い、という話になりましてね、私もいちどは断わったんだが」
 荷物持ちの稼ぎのことは、妻には固く内密であった。むろん峠の出来ごとなどは、話せない。おたよの知りたいのも、その点ではなく、これから良人が訪ねる、小室青岳という人物と、その用件がなんであるかということであった。
「また御仕官のお話ではないでしょうか」
「どういうことになるか」伊兵衛はせきをして、「――まだ詳しい話はしてないし、とにかく訪ねてみてのことなんだが、しかし、もしかして仕官の話でも、いちおう当ってみるつもりですよ」
 おたよは良人の眼をじっと見つめた。
 良人はまれな才能をもっている。学問は朱子、陽明、老子に及び、武芸は刀法から槍、薙刀なぎなた、弓、柔術、棒、馬術、水練、しかも(学問はそれほどでないにしても)それらの武芸は無類の腕で、どの一つをとっても第一級の師範になれる……だがその反面、良人の性質はひとに抵抗ができない。自分のことよりひとの立場を先に考える、ひじょうに謙遜けんそんで、涙もろくて、自分の生活が楽なときは、世間の人たちに済まないと思うし、自分の苦しいときは、ひとはもっと苦しいだろうと思う……こういう性分のために、代々二百五十石で仕えていた主家を浪人し、以来七年あまり、おたよと共に放浪の旅を続けている。このあいだに幾たびとなく、その才能を認められて、仕官できそうな機会があった。しかしその性質のために(その性質が邪魔をして)結局は一つも実現しなかった。
 人間が生活してゆくには、大なり小なり他人を押しのけなくてはならない。伊兵衛にはそれができなかった。眼に見えなければいいけれども、少しでも、自分が誰かを押しのけ、誰かの邪魔になっている、ということがわかると、決してその席にとどまることができない。相手が気の毒になり済まなくなって、自分から身をひいてしまうのであった。
 ――良人には出世はできない、良人の性質が変らない限り、決して栄達は望めない。
 おたよはこう信ずるようになった。
 ――けれども良人は、いつも誰かを幸福にしている、当然自分が占めるべき席、当然、自分が取ってよい物、それらをいつも他に譲ってしまう……これでよいのだ、良人には稀な能力がある、しかもその能力で、いつも誰かに幸福を分けている、これでよいのだ。
 良人はいまでも、出世の機会を求めている、それはおたよのためである。おたよは九百五十石の準老職の家に生れ、苦労知らずに甘やかされて育った。そのおたよに貧乏させ、放浪の旅を続けさせることが、良人には耐えられないのである。他人の席を奪うことはできないが、妻には幸福を与えたい。この二つのあいだにはさまって、良人は絶えず悩んでいる、それがおたよにはよくわかっていた。
 ――わたくしこれで幸福です、これ以上のものは決して望んではいないのです。
 たびたびこう云ったが、良人は此処でもまた、同じ失望を繰り返そうとする。それがおたよには堪らないのであった。
「私は千遍でもやりますよ」
 伊兵衛は続けて云った。彼にも妻の気持はわかっていた。それがかえって、彼を奮い起たせるのであった。
「ほかにちょっとわけもあるし、こんどは多少のところは眼をつぶってもいいと思っているんです、ではいって来ます」
 妻のうるんだ視線から※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)のがれるように、扇子を持って、彼は宿を出ていった。
 滝沢という湯治場は、街道から二十町ばかり、山へはいったところにある。街道へ出たところが吉田という宿で、箕山城下までは、峠を越えて三里ちかくあった。……伊兵衛は吉田の宿端しゅくはずれへ来たとき、昨日までそこに立って、客を待っていた自分の姿を思いだし、
「おい三沢伊兵衛、しっかりしろよ」とつぶやいた、「――峠の騒ぎで、おまえはもう此処では荷持ち稼ぎもできないんだぞ、小室さんを訪ねたらうまくやるんだぞ」
 すると(そんな処に立停っていたからであろう)向うから馬をいて来た馬子が、
「お客さま馬はどうだね」
 と呼びかけた。伊兵衛はやあとふり返って、相手を見てびっくりした。それは昨日あの峠で、まずいことになった連中の一人、崖下の勘太という馬子であった。
「やあこれは、どうも昨日は、失礼しました」
 こういうと、相手はなお驚いた、伊兵衛の恰好がすっかり変っているし、侍姿になると際立った風格があらわれる。やや眼尻の下った、まるっこい顔の、てれたような表情をべつにすれば、まるで違う人間のようにしか思えなかった。
「これは旦那、どうもあの」馬子は眼をまるくしてどもった、「――どうもその、とんでもねえこって、どうかひとつ、なにぶんとも」
 そして慌てていってしまった。


 小室青岳は槍術家であった。
 箕山城下の呉服町に大きな道場をもち、松平家の侍たちに教授している。扶持ふちも貰っているらしく、藩主が在国のときには、城へも手直しにあがる、ということであった。対馬守成正つしまのかみなりまさという藩主はたいそう武芸に熱心で、城下にはほかに念流の刀法を教える、津村九郎兵衛という者の道場があるし、柔術家や弓道などで、家臣に召抱えられている者もあった。
 小室は相当に名を知られているとみえ、他の藩から教えを乞いに来る者も多く、現在ではそういう門人が八人いた。
 青岳は伊兵衛を槍術の達者とみたらしい。伊兵衛がゆくと、まず門人の四五人と立合せたが、予想よりはるかに腕が立つ、いや、うっかりすると自分より上をつかうかもしれない、ということがわかって、すっかりれこんだようであった。
「これだけの腕があって、あのような稼ぎをなさるには、なにか仔細しさいがあることでしょう、しかし私にはそんなことはどうでもよい」青岳はこう云った、「――もしよろしかったら、と申すよりぜひ、この道場で稽古をつけて頂きたいのだが」
「はあ、至って不調法ですが、もし私でお役に立ちますなら、どうか」
 彼が承知すると、青岳は喜んで、月々の謝礼は金一枚でどうかと云った。思いがけない高額で、伊兵衛はわれ知らずほくほくしたが、そのあとがちょっと当惑した。
「昨日聞くと、病身の母御がおられるというが、滝沢はなにかと不便でもあろうし、当方でもなるべく道場に住込んで頂きたいので、こちらへおれしてはと思うのだが」
「はあそれは、そうしたいですが」
「幸いこの地内に空家がひと棟あります、よかったらそこを使って下すって結構です」
「それは有難いですが、その」
 青岳は峠の騒ぎのときも、母親がおられると云った。なにかで感ちがいをしたらしい、だが伊兵衛には訂正ができなかった。自分が病母を抱えているものと信じて、青岳が親切にして呉れるのかもしれない。暫くはこのままにしておくほうが無難だ、と思ったからである。
「実は医者のすすめで、もう少し湯治を続けさせたいと思います、もうひと月もすればと思うのですが」
 必要なら自分が住込んで、五日か七日にいちどみまいに帰ってもよい。こう答えると、青岳もしいては云わず、では部屋の用意をしておくから、明日からでも来て呉れるように、ということで話はきまった。
 それから稽古槍を選び、稽古着の尺を計ったりし、現今の契約金に似た、支度金の包を貰って、伊兵衛は勇気りんりんと滝沢へ帰った。
「それはおめでとうございました」
 おたよは嬉しそうに祝いを述べた。嬉しそうにというのは、そうよそおったという意味である。彼女は、これで無事におさまる、とは信じていない。必ずなにか故障が起こる、きっとまた此処を出てゆくようなことになる。そう考えていたからであった。
 もちろん、そんな考えは表には出さなかった。かたちだけでも祝いたいと云い、自分が起きて、ささやかながら、祝いの膳拵ぜんごしらえをした。
「こんどはね、うまいことを思いつきましてね」久しぶりの酒で、たちまちいいきげんになった伊兵衛は、ぜんぶの筋がばらばらになったような顔で、にこにこと笑いながら云った、「これまでどうして、そこに気がつかなかったか、と思うんだが、ひと口に云うと石中の火を出さないんですよ、火を押えるんです」
 これにはちょっと説明がいる。伊兵衛は少年時代に、宗観寺の玄和という禅僧から、心身両面の薫陶くんとうを受けた。そのなかで、
 ――石中に火あり、打たずんば出です。
 というのような言葉があった。石の中に火がある、打たなければ出ない、どう打つか、いかに打って火を発せしめるか。そういう意味であって、伊兵衛の武芸の真髄がそこにあった。つまり「打って火を発する一点」が、彼のわざかなめだったのである。
「これまでは火を発する一点、ということで試合をしました、だから勝負がはっきりし過ぎたんですよ」彼は眼尻を下げて云う、「――こんどは押えるんです、発しようとする火をこうぐっと押え込むんです、相手の中へね、わかるでしょう」
「わかりませんけれど」おたよは微笑し、うなずいた、「――でもわかるように思えますわ」
「これは進歩です、たいした進歩なんですよ、ええ、莫大といっていいくらいです」彼は上々のきげんで、まっ赤に酔った顔を絶えずにこにこさせながら、これからの稽古についても、各種の抱負を語り続けた、「もうこれで大丈夫です、と云ってもいいと思うんだが、こういう発明もしたし、小室さんは良い人だし、こんどこそ」
「いいえもうおっしゃいますな」おたよは笑いながらさえぎった、「――此処でおちつくにせよ、また旅へ出るにせよ、わたくしの仕合せには少しも変りはございません、どうぞあなたのお心の済むように、決してむりな辛抱をなさらないように、それだけをお願い申しますわ」
 伊兵衛は悲しげに頬笑み、そして黙って頭を下げた。
 道場に住込むということも、おたよは承知した。七日にいちど帰る条件も必要がない、変ったことがあれば知らせるから、休日にでも戻って呉れれば充分である。こういうことで、その翌日、身のまわりの物を持って、彼は箕山へと立っていった。
 峠を越えたのが十時ころであろう、そのままくだって、仲山の宿へかかろうとすると、宿の手前のところで、なにか騒ぎが起こっていた。馬が五頭うろうろし、侍たちと馬子らしいのが、声だかになにか云いあっていた。
 ――おやおや、あれは土橋の権六じゃないか。
 馬子たちの一人を見て、伊兵衛はこう呟きながら、近よっていった。
 ――いやどうも、崖下の勘太もいるぞ。
 ほかにも峠でやり合って、記憶のある顔がみえる。こんどは侍たちに文句をつけているのか。こう思いながら側までいった。ところがそうではなかった、馬子たちは平身低頭しながら駄賃を呉れと頼んでいる。
「二里以上もお乗せ申したんで、駄賃を頂かなければ、こんにち女房子にかゆすすらせることもできません、どうかおからかいなさらずに、定りだけ頂かしてお呉んなさい」
 権六がそう云うと、他の四人もいっしょに、頭を下げて懇願した。
「いかんいかん、だめだ」
 侍の一人が唾を吐いた。みんな同じ年ごろだが、その侍はいちばん老けていて二十七八にみえる。大身の者の子だろう、秀でた相貌だし、着ている物もりっぱだった。
「初めに駄賃を定めながら、酒手を余分にねだるとはふといやつだ、きさまたちは、いつもそうやって、旅人たちに迷惑をかけているのだろう」
「迷惑なんてとんでもない、酒手というのはわたし共のしきたりで」
「黙れこいつ、酒手を当然のしきたりなどと云うからは、なおさら勘弁ができない、街道往来の諸人のためだ、おのれ斬って呉れるぞ」
 その侍は刀を抜いた。伊兵衛には威しということはわかるが、これまでのゆきがかり上、馬子たちは仰天し、思わず左右へとびのいた。そのとき、伊兵衛が呼びかけた。
「やあ土橋の権六さんじゃありませんか、どうしました」
 こう呼びかけて、にこにこ笑いながら、大股おおまたにそっちへ進んでいった。


 馬子たちはあっといった。息をのんだ。姿は変っているが、自分たちが峠でいんねんをつけ、逆にさんざんなにあわされた相手である。そのぬきんでた風貌と、にこやかな顔は、忘れることのできないものであった。
 ――向うも忘れてはいまい。
 ――おそらく怒っているだろう。
 これはますますひどいことになるぞ、というふうに思ったらしい。が、伊兵衛は侍たちには眼もくれず、例のまるっこい顔をにこにこさせ、おじぎをして、
「やあ、あのときは失礼しました」とあいそよく話しかけた、「おかげでこんど働き口が定りましてね、あの小室さんの道場のお手伝いをすることになったのですが、それだもんですから、これからは決してもう貴方がたには迷惑はおかけしません、本当です」
 馬子たちはへどもどした。かれらには伊兵衛の真意がわからない、本気で云っているとは思えなかった。ところが伊兵衛はなおにこやかな顔で、
「いま向うで聞いていたんですが、この方たちとなにかゆき違いがあったらしいですね、いったいどうしたんですか」
「へえ、それがその、へえ、その」
「はあはあ」彼は独りで頷いた、「この方たちが馬へ乗って、その駄賃を払わないというんですか、まさかそんな、いやそんなばかなことが、それは冗談ですよ」
「いやそのとおりだ、払わないんだ」
 年長の青年がそう云った。際立った良い服装からも、その態度の驕慢きょうまんさからも、これが五人の中の音頭とりであり、相当な身分の者だということは察しがつく。彼は抜いていた刀をさやにおさめながら、
「われわれは馬子を相手に、冗談を云うほど、暇つぶしに困っているわけではない、こやつらが不埒ふらちなことを申すから、街道の諸人のために」
「ええそれは聞いていました」伊兵衛はおじきをした、「――酒手を呉れということですが、あれはそれほどお怒りになることじゃないんです、御存じないでしょうけれども、かれらはみんな貧しいんです、馬も建場から借りている者が多いし、そうでなくとも駄賃の中から幾割かは建場へ納めなければなりません、おまけに乗って貰うには安く云うのがかれらの習慣ですから、じっさいの収入は心付なり酒手だ、ということになるわけなんです」
「そんなことはわれわれは知らない、また旅客の知ったことでもないだろう」
「いやわかりますよ」伊兵衛はにこにこと云った、「――旅馴れている者はもちろん、このくらいの距離で駄賃がどれほどぐらい、子供でない限りはおよそ」
「無礼なことを云うじゃないか」べつの若侍が唾を吐いて云った、「駄賃の多寡ぐらい子供でない限りわかるって、われわれを子供扱いにするのか」
「つまらんつまらん」もう一人が云った、「――そんな問答は愚劣です、ゆきましょう岩野さん、ばかげてますよ」
「待って下さい、それはいけません」伊兵衛はかれらの前へまわった、「それは罪ですよ、みんな貧しい人たちなんですから、どうか駄賃を払ってやって下さい、お願いします」
「いやだ、そこをどいて貰おう」
 岩野と呼ばれたいちばん年嵩としかさの青年が、冷笑しながらあごをしゃくった。
「どうしてもだめですか」伊兵衛は念を押した。それから馬子たちのほうへふり返り、侍たちを指さして、「私はこういう人たちは嫌いです」
 とむっとしたような声で云った。
「――刀を差していて弱い者いじめをするなんて、きっと本当の侍じゃなく偽者なんでしょう、それにお金も持っていないのかもしれませんよ」
「無礼者、偽侍と申したな」
 唾を吐いた青年が喚いた。そして、自分の喚きに釣られたように、きらりと刀を抜いた。みんな同年配の若者たちだから、こういういさましい行動には誘われやすい、きらっと刀が光ったとたんに、みんなそろって抜刀した。
「いけません、いけません、およしなさい」伊兵衛はなだめるように手を振った、「そんなけんのんなことはやめましょう、危ないですから、お互いにつまらないし、貴方がたにけががあってはいけませんから」
「無礼者、動くな」
 先に抜いた青年がさっと斬りつけた。
 本当に斬るつもりだったかどうか、半分は威しだったろうと思うが、斬りかかったとたん(どうしたものか)その刀は伊兵衛の手に渡った。もちろん受け渡しをしたわけではない、奪い取られたのだ。しかも当の青年は、自分の右手の肱を左手で掴みながら、悲鳴をあげて脇のほうへすっとんだ。他のばあいならもっと手加減をするのであるが、伊兵衛はそのときはむっとしていた。彼は弱い者や貧しい者をいじめる人間に対してはこらえ性がない。誰でもそうだろうが、彼は他の誰よりもそれが激しかった。また、その侍たちにしても、いまの一手で相手の腕がわかる筈である。まるでけた違いなのだから、そこで譲歩すべきであるのに、眼がないというか血気の勇というか、まるっきり逆上したようすで、左右から伊兵衛に向って斬りかかった。
「やめて下さい」伊兵衛は叫んだ、「……乱暴はよして下さい、危ないですから」
 しかし彼の動作は眼にもとまらず、そのやりかたは珍しく痛烈であった。
 手刀というのであろうか、ぴしっぴしっと烈しい音がし、悲鳴やうめきが起こり、侍たちはたちまち(右から斬込んだ者は左へ、左から斬込んだ者は右へと)つんのめり、すっとんで、五人のうち四人は地べたや枯草の上に倒され、他の一人は小川の中へ頭から落ち込んでしまった。
「どうも失礼しました、どうも失礼」伊兵衛は岩野という青年の前へゆき、にこにこあいさつをしながら云った、「おけがはないでしょうね、そう痛くもなかったと思うんですが、さ、手をお貸ししますから立って下さい、どうもまことに」
 相手を立たせ、ひょいとおじぎをして、彼は手を出した。
「……そこでもういちどお願いします、どうか馬子たちに駄賃を払ってやって下さい」
 馬子たちは向うで、ばかにでもなったような顔で、ぽかんとこっちを眺めていた。


 小室道場での生活はすばらしかった。
 青岳は宝蔵院流から出て、自分の名を冠した一派を立て、「一字」という独特の技をもっていた。伊兵衛は中也派を学んだが、そのうえに薙刀の法を加えて、穂尖ほさきよりも石突きに重点をおくような、特殊な操法を会得していた。小室道場としてはむろん「青岳流」を教えるわけで、他流の技を教えるなどということはない筈である。伊兵衛もそこを心配したのであるが、青岳はなにか思案があるとみえ、教授法についてはなにも云わず、すべて伊兵衛の好むままに任せた。
 伊兵衛はあふれるような元気で、いかにも楽しそうに稽古をつけた。
 彼はじっさい楽しかった。精気に満ち溢れていた。これまでしばしば、自分は武芸をするために生れて来たのかもしれない、と思ったのであるが、武芸ならなんでもいい、相撲でも結構。身心の全能力を尽して勝負を決する。明快で清潔で、しかも自分の才能をこれほど単直に示すものはない。伊兵衛はすべて明快単直が好きであった。
 ひとに稽古をつけることは、これが初めてといってもいいくらいだが、やってみるとまんざらではない。それに従来と違って、「勝負を抑える」という法を案出しているので、門人たちのうけもよかった。
「三沢先生もうひと手お願いします」
「そう詰めてやっても疲れるだけですよ、今日はもう貴方はおあがりなさい」
「いえ大丈夫です、済みませんがもうひと手」
 そんなふうに熱心に、稽古をせがむ者が多かった。
 ただ一つだけ当惑することがあった。というのは、青岳に一人の娘がいて、そのひとが身のまわりの世話をしてくれる。まるで侍女かなんぞのように、起きるから寝るまで、殆んど付きっきりで、しかも、いわゆるかゆいところに手の届くといったふうな、心のこもったやり方である。年は(その頃としては)やや老けていて、二十二か三くらいであろう、名は千草ちぐさといった。
 女としては背丈が高く、ひき緊った肉付きの、いい躰格であるし、顔だちもひじょうに美しい。眼と眼のあいだ、眼と眉のあいだがひろく、ゆったりしている。鼻も高い。口は大きいほうである。ぜんたいがぱらっとして、おおまかなつくりであるが、そのままで極めて美しかった。
 母親はかなりまえに亡くなったらしい。以来ずっと、父の世話をしていたものとみえ、伊兵衛に対する動作も神経も、じつにおちついて、ゆき届いたものであった。
 伊兵衛の部屋は、青岳父娘おやこの住居と同じ棟の、道場に近い六じょう二た間であった。片方が寝間で、居間のほうには切炉きりろがあり、机とか手文庫とか、用箪笥だんすなどが備えてある。床の間にはいつも花が活けてあるし、しばしば千草が来て、その切炉を使って茶をててくれた。
 彼女はことば少なであった。しかし身ごなしや表情が、口かずの少ないのを充分に補った。朝早く、彼女は伊兵衛を起こしに来る。洗面をさせ、着替えを助け、朝食の給仕に坐る。
「もう結構です、自分でやります」彼は番たびそう云うのであった、「どうか構わないで下さい、自分でするほうが勝手ですから」
 しかし千草は微笑するだけである。稽古ちゅう、ちょっと汗を拭きに出ると、もう井戸端でちゃんと待っている。ひると夕食はたいてい青岳といっしょに喰べるから、むろん千草の給仕だし、寝間の支度も、寝るときの着替えも、すべて彼女の手を離れることがなかった。
 ――これは困った、じつに困った。
 なんとも当惑したが、しかし迷惑というのではなかった。たしかに、ときどき(千草の匂やかな躰臭を身近に感じて)ふと滝沢の宿を想い、妻のおたよに済まないような気持になることがある。それはおそらく、隠れた意識でなにかしら良心がとがめるのだろうが、自分ではそうとは気がつかない。男女関係の微妙な点については、伊兵衛は子供のように単純であり、無知であった。
 道場の休みは月二回、五日と二十日であった。
 彼はその翌月の五日、十七日ぶりで滝沢へ帰った。おたよは順調に恢復しているらしく、以前よりも肥えてきたし、血色もよく、肌も艶やかに張っていた。
「もう一昨日から、自分で食事の支度もしておりますの」おたよは笑いながら云った、「……そのほうが宿料も安くなりますし、躯のぐあいもようございますわ」
「宿料のことなんて、そんなばかな」
「いいえ、この家はもともと湯治宿で、客はみな自分で炊事をするのが定りなのです、もう病気は治ったのですから、同じようにしなければ居辛うございますわ」
「では宿を変えましょう」
 伊兵衛はこう云って、ふところから謝礼の包を取り出した。今朝、出がけに青岳から渡されたものである。
「見て下さい、毎月これだけ貰えるんです」
 おたよは良人の顔を見た。それから包をあけると、中には一両二分あった。
「やあこれは」伊兵衛はわれ知らず大きな声をあげた、「……これはどうも、金一枚という約束だったが、一両二分あるようですね」
「はあ、一両二分ございますわ」
「どういうのでしょうかね、半月とちょっとなんだから、まさか日割りで差引くということはないにしても、約束より多いというのは、もちろん、よもや勘定ちがいはないでしょうし」
 それだけ腕を高く評価してくれたのであろう。自分からそうは云えない、おたよが云ってくれるところである。が、彼女は云わなかった。良人の不審に調子を合わせるようすもないので、伊兵衛はちょっと不満だったが、
「とにかくこれだけずつ貰えるんだから、この家がそんなわけなら、もう少しましな宿へ変えることにしましょう」
「はあ、それはまた次にでも……」
 おたよは答えを濁して、午餉ひるげの支度に立っていった。
 彼にはよくわかる。妻はまだ信じられないのだ、その収入が確実であり、此処でおちつくことができる、ということを。……伊兵衛は悲しかった。妻がいじらしくて堪らなかった。しかし、妻を説得し、こんどこそ大丈夫、と、証言する勇気は、彼にもまだなかった。
 ――七年余日にわたる放浪、苦い経験のかずかず……。
 さよう、底を割ってみれば彼自身も、これでおちつける、という確信はなかったのかもわからない。久方ぶりに夫婦で午餉を喰べ、一ときほど話をして、さて道場へ戻ろうとすると、おたよは謝礼の金を良人に返した。
「わたくしのほうには、まだ支度金の残りが充分にございます、いつなにごとがあるかわかりませんから、これはお持ちになっていて下さい」
 侍は肌付きの金を持っているのが作法でもある。どうしてももってゆけと云うので、彼はやむを得ず、それをまたふところへしまった。
「ではまた二十日に来ますからね」
「こちらは大丈夫でございますから、月が変ってからでも結構でございますわ」
 おたよは気丈に云って微笑した。


 その戻り道のことであるが、伊兵衛は妙なことに気がついた。というのは、十歳前後の子供たち、(女の子もいた)が、まえに彼のやっていたように、旅客の荷持ちをしているのである。峠へかかるまでに、往く者と来る者で五人もあった。なかには相当に重そうな荷を、うんうんといって背負ってゆく者もある。
 ――やあ、だいぶおれの後輩ができたな。
 こう思って、ちょっと頬笑ましく、嬉しいような気持になった。彼の性分として、こういうときに黙ってはいられない。同じ年ごろの少年が二人、重そうな荷物を背負ってゆくのを見て、にこにこしながら声をかけた。
「やあ、えらいな坊やたち、重たいか」
 その荷物の主だろう。三十五六の、商人ふうの旅人が、こっちを見た。伊兵衛はあいそよく笑って話しかけた。
「ついこのあいだまで、私もこの仕事をやっていましてね、仕事というほどのものじゃありませんが、今はやめましたけれども、こういう子供たちを見ると、仲間のような気持がするんですよ」
 旅人はあいまいに(幾らかきみ悪そうに)笑い返した。こちらの堂々たる侍姿と、話すことがにおちないらしい。伊兵衛はそんなことにはお構いなしで、
「しかしあれですね」
 と続けて云った。
「――この荷物は少し重そうですね、子供たちにはちょっとむりじゃないですかね、このくらいの荷物なら馬か駕籠でないと……」
「私もそうしたいんです」旅人は頷いて云った、「そうしたいんですが、吉田から仲山までは、馬も駕籠もないということでして」
「吉田から仲山まで」伊兵衛は旅人の顔を見た、「――そのあいだ馬も駕籠もですって、まさかそんな筈はないでしょう」
「いや本当らしいんですよ、こうして見ているんですが、じっさい荷駄にも駕籠にもゆき合いませんからね」
 そう云われてみると、そのとおりだった。今朝、箕山城下から来るときも、街道には馬も駕籠もみかけなかったようだ。
「するとなんですかね、今日はかれらの休み日というわけですかね」
「そんな話は聞いたこともありませんな、馬子や駕籠舁きが揃って休みを取るなんて、幾らなんでもそんなことはないでしょう」
「すると、――なにかわけがあるんですね」
「わけはあるよ」
 荷物を背負っていた少年の一人が、立停って、息をつきながら云った。
「ほう、坊や知っているのか」
「吉田から仲山まではね」と少年は額の汗を拭いて、「――馬も駕籠も、稼ぎに出ちゃいけないことになったんだよ」
「へえ、妙なことになったね、どうしてだい」
「出るとひどいめにあわされるんだよ、箕山のお侍たちにさ、おいらのちゃんも、この吉べえの父も、ほかに三人もひどい目にあって、みんな家で寝ているよ」
「おらの父は腰の骨が抜けちゃったんだ」もう一人の少年がいった、「お医者にかかる銭もねえしよ、米を買うこともできねえし、それでおらっちが稼ぎに出ているだよ」
「とすると、しかし、それはへんじゃないか、どうしてまた侍たちが、そんな……」
 こう云いかけて、伊兵衛はとつぜんぎょっとした。殴られでもしたように、左右を見まわし、低くうなった。すると、先に話しだした少年が、横眼でこっちを見ながら、
「そうだよ」
 と云った。
「――小父さんのためなんだ、小父さんは善い人だって、父もみんなもそう云ってた、悪い人じゃないらしいって、でもよけいなことをしてくれたってよ」
「仲山の騒ぎのときのことか」
「いま小父さんが、荷物持ちしていたって云ったから、わかったんだ、騒ぎのときに黙っててくれればよかった、そのときの駄賃は損しても、こんな仇をされることはなかった、でも、小父さんは親切で、してくれたんだろうし、今ではやっぱりお侍だから、じ込むわけにもいかないって、そ云ってるんだ」
「ああ知らなかった、それは知らなかった」伊兵衛は顔をゆがめて呻いた、「そんなこととは夢にも……まさか武士ともあるものが、そんな卑劣なまねをしようとは思わなかった、こうしてはいられない」
 そうして慌てて旅人に向い、
「まことに申し訳のないことですが、いまお聞きのような事情で、この子供たちの親をみまってやらなければなりません、もうそこが峠の茶店ですから、ひとつそこで子供たちを返してやって下さいませんか」
「いいよ小父ちゃん」少年たちが慌てて云った、「――小父ちゃんが来てくれたってしようがねえし、おらっちは稼がなきゃなんねえだから、おらこの荷物持ってゆくだよ」
「いや済まない、坊やたちにも面目ないが、稼ぎ賃は小父さんが出すし、むろんお医者にもかけてあげるし、もっと大切なことを相談しなければならないからね」
「そんなこと云って、またよけいなまねをするんじゃないのかい」
「そう云われると一言もない」伊兵衛はまじめに低頭した、「――このとおりあやまるよ、しかしともかくいっしょに帰っておくれ、このままにはしておけないし、とりあえずみまいをして、それからいろいろとぜひその」
 彼はすっかりしどろもどろで、しかしどうやら、二人の少年を納得させることに、成功した。


 青岳は腕組みをして、むずかしい顔で、黙って聞いていた。ひどくむずかしい顔つきで、横にある行燈あんどんの火がまたたくと、恐ろしいような影ができた。
「そして、そのときは駄賃を払ったのです」伊兵衛は事情を語るのに熱中していた、「よけいなことだったかもしれませんが、多少の酒手、というより暇かき代も払うように頼んだのですが」
「その話は聞きました」青岳が冷やかに遮った、「――必要ならその先を話して下さい、なるべく要点だけにして」
「ではその先を、要点を」伊兵衛はちょっとまごついた、「――で、そういうわけで、私はもうすべて円満におさまったと思っていたのですが、まもなく、さよう、その日から五六日あとだそうですが、岩野久馬という人と、その中間ちゅうげんが十人ばかり、峠の下へやって来て、今後この街道で稼ぐことはならんと云い、通りかかる駕籠舁きや馬子を、片っ端から捉まえては殴りつけたり倒したり、五人も負傷者を出したというのです」
 伊兵衛は昂奮こうふんしていた。
 彼は子供たちを案内に、五人の家をみまい、その話をじかに聞いたのである。土橋の権六など(吉べえという少年の父であったが)は、大腿骨だいたいこつの付根を脱臼だっきゅうして、半年は歩くこともできまい、ということであったし、他の四人も相当な傷で、みな医者の治療を必要とする状態であった。
「かれらはその日稼ぎで、もっとも貧しい無力な人間です、どこも家族が多くて、子供の荷持ちぐらいでは満足に喰べることもできません、そういう弱い者をですね、幾らなんだからといって、武士たる者があんまりひどいじゃないでしょうか」
「それで、結論としてどうしようというのですか」
 青岳の口ぶりは冷静で、その表情にも少しの変化もなかった。それがどうした、とでも云いたそうな感じであって、伊兵衛はちょっと気勢をくじかれた。
「はあ、結論を申しますと、要するに」
「その人足どもに治療代を遣り、街道の稼ぎを元どおりにすればいいわけですか」
「それはもちろん、それだけは、なんとしても」
「よろしい、私がそうするように計らいましょう」青岳はてきぱきと云った、「――但し、貴方はこのことから手を引いて下さい」
「はあ、それはその、有難いですが、小室先生にそんな御迷惑をかけるのはあれですし、それにまた私としましても、ただ治療代を出す、元どおりに稼げる、というだけでは気が済まないので、ほかのこととは違いますから、どうしても是々非々をはっきりさせ、二度とかようなことのないように、乱暴した者をみんな伴れていって、かれらに謝罪させたいと思うのです」
「かれらに、というと、その人足どもにですか」
「ええそうです、さもなければ私の気が済みません、これは単に金銭の問題ではないと思うんです」
 言葉はやわらかいが、そう云い切った調子は烈しかった。青岳はあっけにとられ、ややしばらく顔を見ていたが、やがて感嘆したように、ゆっくりと云った。
「貴方は珍しい人だ、初めて峠で会ってから、ずっと日常を見ているが、まことに当代稀なお人柄だと思う、しかし、少しばかり度が過ぎはしないだろうか、……正義感の強いのもいいが、雪の上に霜を加えるような努力は徒労でしょう」
「それは、……どういう意味ですか」
「まあお聞きなさい」青岳はなだめるような口ぶりで、「――私は仲山宿の騒ぎを知っています、或る者から告げられたのですが、その貴方がこの道場にいるとわかってちょっと面倒なことになりそうだったのです、それで私は、五人の者に会い、貴方の御性分をよく話して、かれらに了解して貰いました」
「あの連中に了解して貰ったのですって、……それはいつのことですか」
「貴方が稽古を始めてから、七日ほど経った頃でしょうか」
「はあ、それは、少しも知りませんでしたが、しかし、どうしてそんなことをなすったのですか」
「理由は二つあります」青岳の渋い顔が少しゆるんだ、「――まず第一に、あのときの岩野久馬は次席家老の子で、ほかに老職格の家の者が二人いました、かれらのしたことは悪かったが、血気ざかりの若者たちだから、ときに羽目を外して暴れることもある、しかも相手は街道の人足で、いつぞやは貴方に対しても難題を吹きかけ、衆を頼んで乱暴をはたらいた」
「いやあれは、あれは私にも落度がありましたので、私はかれらにあやまったのです」
「だが私が制止しなければ、あの騒ぎはもっと大きくなったでしょう」青岳は頭を振った、「――岩野ら五人のばあいはもっと単純なことです、貴方は黙って通りすぎればよかった、人足どもの面前で、侍五人を取って押えることはなかった、あれは貴方のやり過ぎです」
「私は、私は、そうは思いません」
「では今からでもいい、そう思って下さい」青岳は押えつけるように云った、「私が五人に了解を求めた理由の第二は、貴方と家中の者とを、気まずい関係にしたくなかった、なぜなら、……よい折だから申上げるが、私は貴方に、この道場の後継者になって貰いたい、と思っているのです、御存じだろうが、藩侯が御在国のときは、お手直しに城中へあがる、その役も、しぜんいつかは貴方に代って貰うつもりです」
 伊兵衛は眼をみはった。青岳は続けた。
「こう云えばもう察しがつくと思うが、そして、たぶん御異存はあるまいと思うが、娘の千草をめとって戴きたいのです」
 こんどは伊兵衛は首をかしげた。なにか聞き違えたかと思ったらしいが、すぐにその意味がわかり、うっといって坐り直した。
「お嬢さんを私に、娶れと仰しゃるのですか」
「そうです、初めからそのつもりで、お世話させて来たのです、千草はもちろん承知のうえですし、貴方も、黙って世話をおさせになったようすでは、ほぼ納得されていたことと思う」青岳は初めて柔和な顔になった、「――というわけで、家中の者とはなるべく折合ってゆくように、殊に岩野家は、次席ながら藩の名門で、この道場が扶持を戴くについては、たいへん岩野氏の尽力を得ているのですから、今後はそこをよく考えたうえで」
「お待ち下さい、どうかちょっと」
 伊兵衛が片手をあげて遮った。彼の顔は赤くなり、その眼には怒りと、悲しみと、恥ずかしさのいり混った複雑な光りがみなぎり、しかもぜんたいとしてはべそをかくような表情になった。
「いろいろお話をうかがいましたけれども、まことに僭越せんえつでございますけれども、また、申し訳のないところもございますけれども、私は御意見に添うわけにはまいりません」
「どこが不承知ですか」
「全部です、しかし理由は云いません、申してもわかって戴けないでしょう、わかって戴けるように話すこともできないようです、私はおいとまを戴きます」
「――なんですって」
「これだけは良心に咎めるので申上げますけれども、私には妻があるのです」
 こんどは青岳が眼をみはった。よほど意外だったらしい、眼をみはってからうっといった。
「滝沢の宿にいるのは妻です、したがってお嬢さんを戴くわけにはまいらないのです」
「しかし、貴方は、母親であると」
「いいえ申しません、それは貴方がお考え違いをなすっていたのです、おそらく峠の騒ぎのとき私が、病人を抱えていると申したのを誤解なすったのでしょう、もちろん誤解をなすっていることにはあとで気がつきました、そこは相済まないところなのですが、私が病母を抱えているために貴方が世話をして下さるものと思い、あの際は御親切に頼るよりほかなかったものですから、そのうち折をみてと」
「それで知らぬ顔で」と青岳は堪りかねたように云った、「――知らぬ顔で、娘の世話を受けていたのか、半月以上にもわたって」
「気がつかなかったのです、微塵みじんも、そんなお気持とは少しも気がつきませんでした、本当です、これだけは良心にかけて云います、単に御親切からだと思い、じつに恐縮していたんです、これだけは誓います」
 青岳はなにか云おうとした。しかし言葉が出なかった。伊兵衛は続けた。
「そういうしだいですから、はなはだあれですけれども、私はただいまからおいとまを戴いて、もちろん頂戴した一両二分は、ああそうでした、初めのお話より二分も多く頂戴して済みませんでした、たいへん、ひじょうに有難うございました」そこで彼は丁寧におじぎをした、「――あれはすぐお返し致します、こんなことになるとは知らなかったものですから、けがをした馬子たちに分配して来てしまったんです、済みません、すぐにあれしてお返し致します」
「そんなことは無用です、が、そういうわけならお引止めはしません」
 青岳もまた複雑な眼つきで云った。怒りが胸いっぱいにこみあげている。だまされたような、愚弄ぐろうされたような感じで、がんと一つどなりつけたいのだが、伊兵衛の邪気のない童子のようにあけっ放しなようすを見ると、むしろいたわり慰めてやりたくなり、それがまた肚立はらだたしくなるのであった。
「これからといっても夜になったことだし、明朝早くお立ちなさるがよかろう」
「いえ、お嬢さんに対してもそれはできません、有難いですが、じつにあれですけれど、ただちょっと」彼はうしろへしさって、「――ほんのちょっとでかけてまいりたいんです、すぐ帰って来て、そしてすぐにおいとまします、ほんの半刻ばかり出てまいりますから」
 そして彼は、忙しげに立って、その部屋を出た。すると、廊下のそこに、千草がいた。伊兵衛はどきっとし、
「ああこれは、どうも」
 吃りながら、おじぎをした。千草はこちらを見あげた。暗いのでわからないが、泣いていたようなそぶりであり、息づかいであった。
「済みません」伊兵衛はささやくように云った、「――どうぞ勘弁して下さい、どうぞ、ごめんなさい」
 子供が母親にあやまるような、哀しげな声であった。千草はなにか云いそうにみえたが、黙って顔をそむけて、力の抜けた歩きぶりで、向うへ去った。伊兵衛はそのうしろへ、もういちどおじぎをしてどこかへ出ていった。


 まさに春暖である。
 遠い山にはまだ雪が見えるけれども、畑には麦が伸び、菜の花が咲きさかっている。道端には草の芽がやわらかく萠え、林も薄紫にかすんでみえる。日は暖かく、風も……風は少しあるが、いかにも春らしい軟風で、歩くには却って爽快そうかいなくらいだった。
「それで、それからどうなさいました」
 旅装のおたよは、含み笑いをしながら、笠を傾げて良人を見あげた。
「わかるでしょう、私の勘弁ならない気持が」伊兵衛は歩きながら力をこめて云う、「小室さんは善い人ですよ、もののわかった、見識の高い善い人です、しかし悲しいかな扶持を取っている、道場を持ち門人があり、安楽に暮している、それで理非の判断がにぶるんだ、扶持を失いたくない、道場や門人を失いたくない、安楽な生活は放したくない、そこで自分では気づかずに、若気の悪戯だなんて云うんですよ」
 彼はどしんと片足を踏みつけた。
「若気の、血気ざかりの、冗談じゃない、片方は貧しい弱い人たちですよ、それを武士たる者が刀で脅やかしたり、はらいせに十人も集まって、私に向って来るならいいが、なんの後盾もない弱いかれらをやっつけ、大けがをさせたうえに職業まで奪う、血気ざかりもくそも、こいつはごく悪質ですよ、こんなやつらと折合ってゆくなんてまっぴらです」
「それはわかりましたわ」おたよはやはり含み笑いをしたまま、「――お返しになる謝礼のお金は、どうなさいましたの」
「それなんですがね、ええ、おたよはもう怒らないと思うんだが、いつか許しを得た筈なんだが、だって小室さんへ返すのは一両二分だけれども、けがをして寝ている者がいますからね、五人とも家族が多くて、食うに困ってる状態なんですから、それはおたよもいってみればわかると思うんだが、じつに気の毒で哀れで、なんです、どうして笑うんです」
「仰しゃればよろしいのに、け試合をなすったのでしょう」
「つまり、その、つまるところ、そうなんです」彼は赤くなり、気まずそうに笑った、「念流の道場をやっている、津村九郎兵衛という者がいるんです、そこへいって少しばかり強引に申込みました、承知しそうもなかったが、ちょっと怒らせましてね、ふしぎなことに道場のあるじなんて者は、怒らせると賭け試合をやるんですよ、ええ、それはふしぎなくらいです」
「小室さまはお受取りになりまして」
「受取らないというので置いて来ました、食費や世話になった代もありますからね、婿にならない以上、そういうものも払わないと義理が悪いでしょう」
「婿にならないって、なんのことですの」
「なんのことって、千草というお嬢さんを私の、いや私をその、……ええと、ああ茶店がある」伊兵衛はなにやら慌てて、向うを指さした、「――ちょっと休みませんか、少し早いが午の弁当をついでに」
「いいえ、今のお話をうかがいますわ」おたよは首を振って、きっと良人の顔を見た、「その千草とか仰しゃる方は、小室さまのお嬢さまなのですね、そしてあなたがその方の、お婿さまになるというわけなのですか」
「いやそれが、それはですね、小室さんがそういう気持でいただけで、私はまるで」彼はまた赤くなり、吃った、「――まるっきり、私は知らなかったんです、本当です、だから、それがわかったので、ますますいられやしない、で、すぐに出て来たんです」
「どういう方ですの、そのお嬢さま、おきれいだったんでしょ」
「冗談じゃない、てんで、そんな、……要するにそういうわけで、すぐとびだしてですね、それから夜道をかけて五人の家をまわりました、寝ているのを起こして、金を配りましてね、かれらは泣いていましたよ」
「年はお幾つぐらいですの、そのお嬢さま」
「本当にかれらは泣きましたよ、権六の家ではかゆを喰べてゆけと云いました、泊ってゆけと云った家もありましたがね、さあ来ました、この茶店でちょっと休みましょう」
 伊兵衛はこう云うと、さっさと道端の茶店へはいっていった。
 此処は吉田の宿から西、箕山城下とは反対のほうへ、もう四里ちかくも来ている。滝沢を暗いうちに立ったが、おたよの足を劬って、悠くり休み休み歩いた。途中ちょっと駕籠に乗せたが、大部分は歩いたので、(彼としては)疲れるよりも腹が減ってきたのである。
「おたよにはまったく済まない、どうか勘弁して下さい」
 腰掛に掛けて食事の注文をするとすぐ、彼はひそめた声でこう云った。
「やっぱりそうでしたの」おたよは横眼でにらんだ、「――やっぱりその千草という方となにかおありでしたのね」
「ばかなことを云わないで下さい、私はまじめです、こんどこそおちつける、条件もいいし自分でも悟るところがあった、こんどこそおちついて、少しはおたよにも楽な生活がさせられると思ったのに、やっぱりだめになってしまって、じつになんとも、面目ないといっていいか済まないといっていいか」
「もうたくさんです、わかっていますわ」
 おたよはそっと良人の腕に触った。
 ――あなたはいつも自分の取るものを投げだして、誰かを救ったりかばったり、仕合せにしてやったりなさる。どうしても、そうなさらずにはいらっしゃれないし、これからもその御性分は変らないでしょう、それでいいのです。おたよはそういうあなたが好きです。そういうあなたとごいっしょに暮すことができれば、それだけでおたよは仕合せですわ。
 彼女はこう云いたかった。しかし、じっさいには逆に、やさしく睨んで、もっと声をひそめながら云った。
「あなたがそんなに仰しゃるのは、本当はやはりその千草という方となにかあったからでございましょう、わたくしにはよく……」
 おたよは言葉を切った。伊兵衛が手で制止したからである。伊兵衛は表のほうを緊張した眼で注視した。
 往来をこっちへ、高ごえで話しながら、来る者があった。
「なにしろおまえさん、胆石病とくるとひっ傾がった家が地震をくらうようなもんさ、初めは両方の眼の下に茶色のしみができる、こんなふうに、そいつが素人にはちょっとわからない」
 こう云いながら、二人づれの旅人が、この茶店へ入って来た。伊兵衛はあっといった。一人はまさしくいつかの客だ、年のころは五十ばかり、よく肥えた、血色のいい、商人ふうの男である。
「わからないうちにそれが、その茶色のしみが黒っぽくなってくる」笠と両掛りょうがけを置き、腰をおろしながら、「――そうなったらおまえさん、もうまるで、まるで」
「やっぱりそうだ、貴方でしたよ」伊兵衛はこう云いながら、立っていって、にこやかに挨拶した、「どうも聞いたような話だと思ったが、またおめにかかれましたね」
 男はこっちを見て、眼をすぼめた。姿が変っているのでわからないらしい。
「お忘れですか」伊兵衛は笑ってみせた、「――いつか貴方の荷物を持たせて貰ったでしょう、吉田宿から峠の茶屋まで」
 男は「ギ」という声を出した。「ジ」かもわからない、ともかくそんなふうな声を出し、片手で両掛と笠を掴んだ。
「おわかりになったでしょう」伊兵衛はあいそよく云った、「――あのときの私です、面白かったですねえあれは、あの茶屋で頂いた駄賃が石ころに化けたときは」
 男はさっと消えた。両掛と笠を掴んで、横っとびに外へとびだしたのだが、あまりに敏速なので、消え失せたように見えた。
「あっ、もしもし」伊兵衛もあとから追って出た、「もしもし、どうしたんですか」
 見ると、男はもう五六丁も先を走っていた。すばらしい速力で、うしろにほこりの帯をきながら、たちまち小さく、ぐんぐん遠く……。
「どうしたんだろう」伊兵衛は後頭部をきながら、不審に耐えぬもののように、口のなかで呟いた、「――おかしな人があればあるものだ」
 おたよが出て来て告げた。
「あなた、お支度ができてまいりました」





底本:「山本周五郎全集第二十三巻 雨あがる・竹柏記」新潮社
   1983(昭和58)年11月25日発行
初出:「面白倶楽部」光文社
   1952(昭和27)年3月〜4月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2021年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード