若殿女難記

山本周五郎





 東海道金谷の宿はずれに、なまめかしい一かくがある。間口の狭い平べったい板屋造りで、店先にさまざまな屋号を染出した色暖簾いろのれんを掛け、紅白粉べにおしろいの濃い化粧をしたなまめかしい令嬢たちが並んでいる。茶屋小料理めかしたり、土産物を売るていこしらえているが、食事をしに入ったり土産物を買いに寄ったりするとひどいめにあう。そこに並んでいるなまめかしい令嬢たちは割かた朴訥ぼくとつで飾り気がないから、そんな客には遠慮ぬきで嘲弄ちょうろう悪罵あくばをあびせかける。悪くすると塩をかれて、おとといおいでなどと云われるから御注意が願いたい。
 梅雨どきには珍しいどしゃ降りが四五日続き、なおじとじと霖雨りんうが降っている。普通なら客足の少なくなる条件だが、この一廓はいまたいした繁昌ぶりだ。というのは大井川が出水で渡渉禁止となり、駅には旅客があふれている。宿という宿、料理屋という料理屋。どこもかしこも客だらけで、それが泰平の世の有難さに、降りめられた退屈しのぎのどんちゃん騒ぎでにぎわっている。これらのこぼれがかのなまめかしい一廓へぬけ遊びに押掛けるわけだ。……ところでその中の「おそめ」と暖簾を掛けた店へ、毎晩やって来る侍客があった。こんな所へ来る侍はたいてい足軽か精ぜいお徒士かちきまったものだが、その客は着ている物も立派だしずばぬけた美男で、おまけに恐ろしく金放れがいい。年は二十四五だろう。初めて相手に出た朴訥な令嬢はすっかり魅惑されて、
「まあ嬉しく好い男っぷりだこと、おらあ商べえ気を忘れたあよう」こう云いざま受取った金をすばやく帯へ押込み、客の腕を思いっきりひねりあげたくらいである。「まるでお大名の若殿みてえだ、おらのほかに浮気でもしたら、眼のくり玉へ金火箸かなひばしをぶっ通すだぞ」
「はっはっは、お大名の若殿か」その客はこう笑って握りこぶしで鼻をこすり、「案外そうかも知れねえ」とあごでた。
 三晩四晩と続けて来る、表の暗がりに必ず誰か待っていて、頃をみはからってはれて帰る。
「お友達なら一緒に伴れて来なあよ」
 えりがみを取ってこう揺すぶったら、
「あれあ家来だ」と済ましている。
「四斗だるの尻を抜くような法螺ほらをこくでねえ、面あこそ生っ白くて若殿みてえだが、なんかの時にあ折助より下司げすもの好みをするだあ、家来持ちが聞いてあきれるだよ、この脚気かっけ病みの馬喰ばくろうめ」
「なにをかす、うぬこそ裾っぱりで灰汁あくえごい、ひっりなしで後せがみで、飽くことなしのすとき知らず、夜昼なしの十二ときあまだ」
「へんはばかりさまだよ、女御にょごひいさまから橋の下の乞食まで女という女はこう出来たもんだ、お蔭でおめえなんぞも気が狂わずに済むだあ、この煮干の首っくくりめ」
 これらの語彙ごいはすべて朴訥な愛情の表現である。その証拠に令嬢はこういった後で客の肩へしたたかみ付いた。
「いいかげんにしろすべた阿魔、恐れながら十八万六千石の御尊体だ。あざでもついたら」
「えへん」
 外でこうせきばらいの声がした。例の家来なる者であろう、客は首を縮めて黙り、握り拳で鼻をひっこすった。総じてこの客は、人品に似合わず言葉も挙動も劣等である。なにかといえば拳骨で鼻をこするが、その容子ようすは正に軽子かるこ駕舁かごかき人足といった風だ、けれえなる者にもこれが遺憾だったらしく、「おそめ」から帰る途中の暗がりで、こっぴどく叱られた。
「なんという口の軽いやつだ、ばか者、――あれほど云っておいたのに、このばか者」
「皆ながそう云わあ」彼は平気でにやにや笑った。
「あいつの馬鹿は生れつきだって、へん、久しいもんだ」
 五晩めに来たときである。家来なる者が表の暗がりに待っていると、そこへ三人ばかり覆面した侍が近寄って、互いになにかすばやくささやきあった。その中で一人が、
「ああ癖もよく覚えた、このくらいでよかろう」などと云うのが聞えた。「声も大丈夫、なに下品を真似るくらい」
「では――」
 そして彼等はまた暗がりの街へ消えた。もちろん家来なる者は残ったのである。そうしていつもより早く伴れをき立てて帰ったのだが、諸君、ここをよく注意して頂きたい、二人が表通りへ出たとたん、十人ばかりの覆面した暴漢が現われて彼等を取巻いた。すわ、いかなる惨劇が展開するだろう、演者わたしも思わずひざを乗出したが、――いや待たれよ、惨劇は展開しなかった、展開どころか人影はむしつぼんだ、そのときただひと声、「きゅう」というようなうめきが聞えたばかりである。そしてなんと、家来なる者とその伴れとは悠々と町のほうへ去り、十人の暴漢はなに者かを担いでしょぼ降る小雨の夜道を西へとずらかったのである。
 読者諸君は「おそめ」にける下賤げせんな卑しい会話を辛抱して下すった、ついでにこの思わせぶりな夜道の出来事をも、根問い抜きに受入れて頂けるものと信ずる。そこでもっと明るい部屋へ御案内するのだが、――あ、ここだ、金谷の駅の本陣「太田屋良助」と看板の出ているこの宿屋ですよ、ここには七日まえから美作みまさかのくに津山で十八万六千石、森伯耆守ほうきのかみの江戸邸の家臣が十七人泊っている。彼等は美作の国許くにもとから来る若殿、大助さまをここまで迎えに出たもので、しかもかなり微妙な役目さえ帯びて来ているのである。


 太田屋の奥座敷に五人の侍が坐っている。煌々こうこう燭台しょくだいが明るいのでよく見えるが、その内の二人はさっき「おそめ」から帰った例の客と家来なる者だ。残る三人は五十塚いそづか紋太夫、額田采女ぬかだうねめ、原野九郎兵衛という、いずれも森家江戸邸の物頭ものがしら格以上で、五十塚は七百石の扈従こしょう組支配を勤めている。四十がらみの肩の怒った体、色の小黒いひげの濃いにらみのきく顔つきだ。
「いいか伝吉、いよいよ今夜から貴様の役目が始まるんだぞ」紋太夫は刺し通すような声でこう云う。
「――貴様の云うことはなんでも聞いてやった、望むことはすべてかなえてやった、が、もう終りだ、これまでのことはなにもかも忘れるんだ、いいか、もう貴様は伝吉ではない、卑しい遊びや安酒や下司げすな暮しとは縁切りだ、わかっているだろうな」
「あたぼうのまん中でさあ」おそめでひどくもてた客、すなわち五十塚に伝吉と呼ばれたこの若者は、膝をぽんと叩いてみえを切った。「わっちだって一升一匁八分なんて酒より、剣菱けんびし三鱗みつうろこの生一本とくるほうが正月だからね、あんなおこぜの生れかわりみてえなすべたの代りに御殿女中だのお姫さまと浮気を」
「その口を閉めろ、ばか者」紋太夫は低く叱りつけた。「今夜からの貴様の役はそんな暢気のんきなものではない、われわれの申付けを守って温和おとなしくしておれば栄耀えいよう栄華な一生が送れる、が、申付けを守らず、ちょっとでも詰らぬ失策をすると縛り首だ、これが空威からおどしでないことは、自分の役目を考えるだけでわかるだろう」
「け、けれども」伝吉は拳骨でぐいと鼻をひっこすった。「けれどもですね、わっちゃあ」
「黙れ口を閉めろ、そのわっちも唯今から禁ずる、起ち居も動作も、言葉づかいも、かねて教えられたとおりにやる、いいか、貴様は馬鹿だ、自分は愚か者だということを毎もはらで考えておれ、おれは馬鹿だ、すべて付いている者のいうままになろう、――常にこう考えるんだ、わかったな」
「けれどもですね、その、わっちは」
「それもう出る、縛り首だぞ」紋太夫は平手打ちをくれるように、真向からきめつけた。それから例の家来なる者に振返って、「これはやはり其許そこもとがいかぬとだめだな、宙野、いってくれるか」
「まいりましょう」宙野、即ち家来なる者は宙野儀兵衛という、二十七歳のたくましい青年で、小脳のしわ一つ多いといった眼つきをしている。「しかしすぐ付くという訳にもまいりますまいが」
「それは原野氏の才量に任せよう、其許が若殿お付ということは通じてあるから、それに坂次昌治郎もおることゆえ故障はあるまい」
「さよう、たぶん面倒はございますまい」原野九郎兵衛がうなずいた。「ではそろそろ立つと致しましょう――」
 伝吉をはさんで、宙野儀兵衛と原野が立った。かれらは身支度を直し物具を着けて、人眼を忍ぶように雨宿の裏から出た。そこには三人の侍が待っていて、無言のままかれらを導いてゆき、宿しゅくはずれの雑木林へはいったと思うとみんな馬に乗って、そぼ降る小雨の夜道を西へ向って去っていった。
 ――せっかく明るい部屋へ御案内したものの、これもまたいんちき臭くいかがわしい場面と相成ってまことに恐縮である、しかしお蔭で話は滑りだしたようだ、我々もひと晩ゆっくり眠ると致そう。
 翌日、本陣太田屋の前には森家の定紋をうった幕を張り、打水、盛砂という、諸侯御宿泊の正式の用意が整えられた。即ち森伯耆守の若殿大助さまが津山の国許から出府され、今日この金谷へお着きになる、五十塚紋太夫はじめ十七人は、江戸邸からここまで出迎えに来たものなのであった。
 ――大助さまは伯耆守の二男で、十五歳の年に或る事情から国許へ移されていた。名目は「風狂ふうきょう」ということになっているが、実際は世継ぎ争いであって、妾腹しょうふくの子の栄之進を世子にするため、彼が追われたというわけなのである。しかるに栄之進が今年の春に死去し、伯耆守が病床にして再起の望みなしと宣告されたので、改めて彼が世子として江戸へ迎えられることになったのだ。こう申上げれば、察しの早い読者には大助が悲運の公子であることを御諒解りょうかいなさるであろう。しかも江戸へ迎えられてゆく現在、なおその蔭になにやら悪謀めかしい企みがあることを思えば、今後の運命もまた非なりと云わざるを得まい。だが行列が着いたようだ、十八人の家臣に守られて乗物が停まると、我らの大助さまが悠然と現われた。――大助さま、美作のくに津山十八万六千石の若殿、だが、いやはやなんと御覧なされ、いま乗物から立ち出た大助さまは、ゆうべ夜陰にこの宿から出ていった伝吉と瓜二つでござる、いや瓜二つどころかむしろ伝吉その者と云っても差支さしつかえござらぬ、なぞは解け申した、五十塚はじめ一味の奸臣かんしんどもは、不敵にも「若殿すり替え」をやってのけたのでござる。
「出迎えたいぎであった」広間へ通った大助さまは、家臣たちの祝辞挨拶に対してこう仰せられた。
「旅中の骨折りさぞかしと思う、さかずきをとらせたいから酒宴の用意をせよ、無礼講じゃ、おんなどもなど呼んでまいれ」
「おそれながら」五十塚がびっくりして手をあげ、ぐいと片眼で厳しくにらみながら、「このたびの御出府は大切の御儀なれば、途中でさようなお慰みは相成りますまい、平にお控えあそばすよう」


 その夜は金谷のお泊りであったが、若さまが寝所へはいると紋太夫がやって来て、「この馬鹿者」と叱りつけた。隣りには津山から供をして来た侍たちがいるから、声は低いが恐ろしくすごんだ怒り方である。
「あれほど遊んでもまだ妓などとぬかす、国から来た供に気付かれたらどうするのだ。貴様ほどおんな好きの馬鹿もない、本当に縛り首だぞ」
「だがなあ紋太夫」若さまはにやりと笑って云った。「おれはおんな気なしでは半日も過せねえ人間だ、それは初めにちゃんと断わってある。行儀も言葉も云われるとおりにするが、おんなだけはちゃんと付けてくれなければ困る、そう云ってある筈じゃないか紋太夫」
「黙れ、このれ者、江戸の御殿へはいれば侍女腰元が付く、それまで辛抱しろというのだ」
「この馬鹿者、縛り首だぞ」こう云って若さまはくすくす笑った。「うまいだろう紋太夫、すっかり覚えちゃった」
 寝間を出た紋太夫は、別間で一味と密会をした。驚くべし、そこには国許から供をして来た侍が十三人も加わっている、つまり奸臣は江戸にも津山にもいて、両者通謀のうえ事を計ったものらしい。供頭は脇屋白左衛門と云うが、彼を入れて僅か三四人しかまともな家来はいないということになる。
「それで、あの方の始末はついたのだな」こう紋太夫がきいた。
「御念には及びません」宙野儀兵衛が一味を代表して答えた。「私と金吾武吉郎きんごぶきちろうがお伴れだと申して、首尾よく――」
「死体から足の付くようなことはあるまいな」
「決して」金吾武吉郎なる者がきっぱりと頭を振った。「その点は大地がくつがえりましょうとも御懸念は無用です」
「それは結構」紋太夫は大きく頷いた。「――おのおのの協力でここまでは無事に運んだ、が、これから御親子ごしんし御対面、将軍家おめみえ、並びに御為派追放の大事が残っておる。これを果すまでは油断大敵と心得、いっそう気を緊めてやって貰いたい、あの馬鹿者のことは宙野と金吾に任せるから、ぬかりなきよう特に注意して頼みたい、ではこれで――」
 そして密会は終った。
 明くる朝早く、大助さまの行列は大井川を渡って東へ向った。途中なんのお話もなく、いや、お話というではないがちょいとした事があった。それは三島の駅で泊ったとき、若殿が宿の寝所の窓から結び文を投げたことだ、外は如法闇夜であったが、家の蔭からつと一人の小者が現われてそれを拾い、東の方へいたちのように走り去った。それからさらに藤沢の駅と神奈川とで同じようなことがあった、いかにして外部とそんな連絡があるか、なにごとを誰としめし合せているのかわからないが、この事実は諸君の記憶に留めて置いて頂きたいのである。――さて行列は芝愛宕下にある森家の中屋敷に着いた。ここでひとおちつきして、それから伯耆守長武と父子対面をするわけである。大助さまが到着した夜、中屋敷ではまた奸臣共の密会があった、側用人松田久弥、勘定奉行灰山主税、筆頭年寄増井琴太夫、中老角田精一郎、同じく瀬沼六郎兵衛、大目付小林三之丞、これらに五十塚、額田、原野などを加えた十八名、森家重臣のうちでも名だたる連中がそろっていた。――一言にして申せば、彼等は十八万六千石の政治をおのれ等の手に掌握しようとしているのである。そのためには明敏な大助さまが邪魔だから、百方に手を尽して若殿に瓜二つの伝吉なる者を捜し出し、出府途上でまんまとすり替えた。そしてこれがお世継と定ったら御前会議を催おして、忠義だてする御為派の連中、江戸家老はじめ重職五名を追放するのが最後の懸案なのである。
 広間で奸臣共の密議しているとき、奥殿では大助さまがたいへん悦に入っておられた。御独身だから宙野儀兵衛に金吾武吉郎に窓井益造という三人の侍が付いている。しかし盃盤の世話をするのは八人のお腰元だ、八人とも十六七から二十どまりで、縹緻きりょうのいい上に着付け化粧が美しいから、それだけでもちょっとまぶしいくらいであるが、なにしろ久しいこと仕える殿のなかったところへ、ずばぬけた美男の若殿を迎えたので、みんなほっと上気して眼を潤ませて、起ち居それぞれに嬌態きょうたいすいを見せるという次第だから、若さまの御満悦は断わるまでもなかろう。
「これこれ、そなたはなんという名だ」八人の名を片端からいていったが、十八あまりになる双葉という腰元がお気に召したらしい、お側へこうひきつけて、「双葉とはいい名だな、一杯いこう、いや一つまいろう」
「若さま」宙野がそっと声をかけた。「――さようなことはお慎しみあそばさぬと」
「いや捨て置け捨て置け、余はこの屋敷の主じゃ、なあ双葉そうであろう、いいから盃を取れ、酌はわっちが、いや余がしてとらせるであろう、ぐっとやんねえ」
勿体もったいのうございます」双葉はじっと若さまの顔をながしめに見上げ、盃を頂きながら体ぜんたいで艶めかしくこびをつくった。「ふたしなみでございますゆえ、どうぞお軽く」


「いやみごと、そのほうちょいといけるな、もう一ついきねえ、いやもう一つ重ねるがよい、かけつけ三杯ということがある」
「若さま、――恐れながら」
「いや構うな宙野、美人で酒がいけるときては矢もたてたまらねえ」若殿にはだいぶ酔がまわられたらしい、双葉の肩先から手を廻されて、「おうそっちのねえさんたち、今夜はこの双公ふたこうちんかもにするからな、おめえたちは済まねえがちょいと眼をつぶってくんねえ、なあ双公いいだろう」
「まあ勿体ない若さま」双葉嬢は二杯の酒にぽっと眼のふちを染め、またとなきこの恩寵おんちょうに対して飛切りの嬌睨ながしめをもって答えた。「――そんなに仰せられますと本気にお受け申しましてよ」
「ようよう、眼もと千両ときたな、本気も疝気せんきも脚気もねえ、十八万六千石の若殿さまだ、いいからぐっといきねえ、明日の朝あたまが痛えなんという酒じゃねえなだの生一本、おまけに勘定つけの心配がねえとくるから安心だ」
「若さまお言葉が過ぎまする」宙野が堪りかねて睨んだ。「御座興も程々にあそばさぬと御老職に聞えまするぞ」
「そしてまた縛り首か」若さまはふんと鼻で笑った。「こうやってこの席に坐っちまえば大磐石だいばんじゃくだ、そんなこけ脅しには驚かねえ、なあ双公、もしおいらが縛り首になるとしたら、おめえも同じ繩にかかってくれらあなあ」
「仰せまでもございませんわ、若さまに万一そんな御不幸がございましたら、わたくし一刻も生きてはおりませんよ」
「へっ、これが本当の殺し文句か、さあ嬉しくなっちゃったぞ、どんどん酒を持って来い、さかなもこんな白けたもんじゃあなく、いわしのてんぷらに中とろのぶつ切りといこう、烏賊いかの黒作りにかつおの塩辛、もつなべどじょう汁でもそ云ってくんねえ、こうなったら無礼講だ、構うこたあねえからじゃんじゃんやれ、ここらで誰か一つとーんとぶっつけて貰いてえな」
 またしても読者諸君には申訳のない、低級至極な場面と相成ったが侍女腰元たちは決してそう思わないようである。この若殿のいかがわしい言動に対して、誰ひとり眉をひそめたり不快な顔をする者がない、いや、むしろますます魅了され眩惑げんわくされ執着をそそられたようである。
「まあ――」と一人が溜息ためいきをつく。「なんて粋な若さまでしょう」
「ちっともお気取りのない竹を割ったような御気性だわ」
「鰯のてんぷらに中とろのぶつ切りですって、よっぽど食通でいらっしゃるのね」
「大殿さまより下情に通じておいでなんだわ、きっとなにもかも御存じなのよ、なにもかも」或る一人はこう云って悩ましそうに眼をつむった。「ええなにもかもよ、わたし胸がどきどきしてきたわ」
 つまり彼女たちには、若殿が若殿であることにいささかの疑念もないのである。もっとも大名などの奥の生活は、われわれが想像するほど上品清潔なものでないという学者もある。裏長屋の熊公八公より卑しく猥雑わいざつで無恥乱倫だといきまく考証家も少なくない。現に筆者も華胄かちゅう学院の姫君たちが「あん畜生、こないだの約束をしょんべんしやあがった」とか「おいなあ公、こんどの火曜日はどうかつへエスケープしようぜ」などと仰せられているのを聞いた経験がある。十七八のやんごとなき姫君でさえくの如しとすれば、すり替え若殿の言動くらい些さかも怪しむに足らないかも知れない、さらば諸君にも疑惑ぬきでお読みを願うと致そう。――若殿はたちまち酔いつぶれてしまわれた。騒ぐことは一人前だが酒はあまり強くないとみえる。それとも待望の淑女たちに取巻かれて、彼女たちの発する温柔※(「女+以」、第3水準1-15-79)おんじゅうじびの姿態と芬薫ふんくんたる香気に悩殺されたのかも知れない。三人の侍臣に担がれて寝所へ運ばれる、木偶でくのように着替えをされて夜具の中に横たわった。
「おう紋太夫を呼んで来い」夜具の中でこんなことを喚く。「あいつはふてえ野郎だ、縛り首にしてくれるからしょっぴいて来い、ついでに酔いざめの水を頼むぜ、姐さん、こう見えても十万、じゃあねえ十二万、でもねえ十八万六千石のばか殿だ、いいかばか者ッとくらあ、おう誰かいるか、――誰かいたら茶漬でもぶっかけ飯でも持って来い、ばか殿をばかにすると承知しねえぞ」
 えへん、という咳払いが宿直とのいから聞えた。そして宙野儀兵衛の声で、「窓井は退りました。おやすみ遊ばせ」と囁やいた。なにごとであろう、それを聞いたとたん若殿は喚きやめて寝返りをうった。それから、「寝るぞ」と云うと、やがて静かな寝息をたてて眠りだされた。緞帳どんちょう芝居の幕は下り、劣等至極なばか騒ぎは終り申した。――奥庭をまわる柝の音、御殿のひさしをかすめる夜風の囁やき、なにもかも静寂安穏な眠りにおちつきめされた。と、思ったらこれはしたり、御寝所の萩戸はぎどがそろそろと開くではござらぬか、かかる深夜に御寝間おねまをうかがうとは、必定お命をねらう刺客などでござろう、ああ危うし、――と思ったらこれはなんと、なんとこれは婦人でござるぞ。しかも艶めかしい長襦袢ながじゅばん扱帯しごきひとつ、胸乳のたかまり、腰のまるみをあからさまに、爪先へ紅をさした素足でしんなりと上段へ歩み寄ると、たもとで片頬を隠しながら、「若さま」とやさしく囁やかれた。果然、これは双葉嬢でござる。このとき若殿はうっとりと眼をさまされ、けげんそうに、「なんだ」とおつむもたげ召された。


「誰だ――」こう云って若さまは半身を起したが、そこにいる人間と、そのまばゆい姿を見て眼をみはった。「そなた――双葉ではないか」
「はい双葉でございます」彼女は袂の蔭から火のような眼でじっと若さまを見、豊かな膝をするすると寄せた、「お言葉を忘れずにまいりました、でもわたくし、なんにも存じませんので、――はずかしゅうございますわ」
「待て待て、まあ待て」若さまはびっくりして手をあげ、夜具のこちら側へぬけ出した。「それはしかし、とにかく深夜ではあり、男女は七歳にしてというし、女性の尊厳というものは厳そかにして尊い意味であって、従ってそのこういう誤解の起るところのものは」
 彼女は恍惚と若さまの顔を見ていた。それからやおら体ぜんたいに曲線の波をうたせながら、熱い太息といきといっしょにもうひと膝すり寄せて、清純無邪気にこう囁やいた。
「ねえ若さま、おはなしは後に致しましょう」
 ニイチェなる破戒僧の箱書に依れば、男は先ず思案してから失敗を犯し、女は失敗してから思案するという。若さまはこの箱書を御存じないとみえ、狼狽ろうばいして立上ると、「要するに貴女あなたは花の如く清浄な――」などと云いながらとばりを排してどこかへいってしまった。双葉は若さまの夜具へつっ伏して泣き沈んでいるところを、老女にたすけられてつぼねへ帰ったが、待兼ねていた腰元たちの羨望せんぼう好奇に満ちた質問をあびると、
「若さまはお可哀そうよ」と云ってむせびあげた。
「言葉では云いきれないほどわたくしを愛しておいでなのですって、男女七歳のときからおまえを想っていたっておっしゃいますの、わたくしのことを厳そかで尊い女性だとも仰しゃいましたわ、ああ広いこの世に、こんなに、こんなに烈しく深く愛された者が二人とあるでしょうか」そして彼女は泣き沈んだ。「本当に、二人とあるでしょうか、わたしの他に一人でもあるでしょうか」
 腰元たちは互いに※(「目+旬」、第3水準1-88-80)めくばせをし頷き合った。女性たちの間にあって自分が誰よりも深く熱烈に愛されているなどと宣言することは月評家たちの前で自作の朗読をする小説書き同様からきめに遭う。二十一二になる侍女の一人が、まずとげを真綿に包んで双葉嬢の心臓へ拶着さっちゃくした。
「お羨ましいわねえ双葉さま、そんなに愛して頂だくなんて女に生れた冥利みょうりというものだわ、ではもちろん貴女のお香箱の蓋は破れたわけですねえ」
「いいえそんなことはありませんわ」双葉嬢は忿然ふんぜんと顔をあげた。「若さまの愛はもっと美しいんですわ、卑しいところやいやらしいお考えなんぞ爪の先ほどもお持ちなさいませんわ、本当に純情でおきれいで、そして」
「そしてお寝間へ貴女ひとりを置いてお逃げなすったの」別の一人がこう云った。「熱烈な純情ってずいぶんあっけないものですわねえ」
 派手な笑い声が局の壁ふすまを震動させたが、彼女たちおのおのの心臓は壁ふすまより烈しく震動していた。若さまは双葉嬢を愛さなかったのである。若さまのおからだはどこもかしこも、お寝巻や夜具もろともまだ純潔のままである、この事実の確認は「可能性」の火を彼女たちの胸に放ち、最も醜い年増の侍女をさえ誘惑した。
「若さまは初心うぶでいらっしゃるんだわ」彼女はこう胸の中でつぶやいた。「だからまず道をあけて差上げなくてはだめなのよ、それには若い方じゃいけないわ、栗饅頭くりまんじゅうを食べるにしたって若い方は唯もう食べることに夢中だから、割り損なって栗をこぼしたり、のどにつかえさせてせたりする、栗饅頭を食べるにはまずそっと手に取って柔らかいか固いか、よくけているか色艶はいいかどうかを調べるんだわ、こうして固さや柔らかさや蒸け加減や色艶をためしているうちに、口のなかへ程よく生唾がいてくる、それから静かに割るんだけれど、そこでもすぐに口いっぱい頬張ってはだめよ、まず小さく欠いたのを少し入れて、あま味や練り具合をよく味わい、茶をひとくちすすっていちど後味を消し、舌を休ませてからこんどは栗のはいった噛みごたえのあるところを入れる。そしてまた茶を啜って甘味と渋味を充分に舌で味わい、更にあとを食べるという風にする、こうして、ゆっくりと焦らずに、甘味とお茶とで舌を楽しませながら食べるのでなければ、本当に栗饅頭を頂いたことにはならないんだわ」
 年増の侍女でさえかかる独白ひとりごとに熱中するくらいだから、甘味といえば選り好みなしの若い腰元たちが、いかなる空想にふけり幻想に酔ったかはお察しなされよう、だが閑話休題と致す。
 翌日は伯耆守との対面で、牛込若宮町の上屋敷へいった。
「いいか、くれぐれも云って置くがなにも申すなよ」紋太夫が例の如く噛んで含めるように呶鳴どなりつけた。「おなつかしゅう存じまする、こう云ったらあとは涙を拭くまねだけしておる、十年ぶりで父に逢って、嬉しさかなしさに言葉が出ないと云うふりをするんだ」
「だけども紋太さん、上屋敷にも腰元や侍女はいるかね、そうでないとわっちは」
「その口を閉めろ馬鹿者、今日の対面は最初の度胸さだめだ、次には将軍家拝謁という大事がある、肚を据えてやるんだぞ」


 伯耆守との対面は、すばらしい成功だった。長武侯は病床からわが子を眺め、そのすこやかに逞しい成長ぶりを見て落涙あそばされ、「大助か、大助か」と幾たびも繰返し頷かれた。「りっぱな御成人でめでたい、余もこれで安堵あんどしたぞ」
「――――」
 若さまは手をついたまま、じっと伯耆守を見上げていた、万感胸をふさいで言句に詰るという態である、双眼からは滂沱ぼうだと涙があふれ落ちた。十年不遇の公子がいま晴れて父君に会うのだ、お側にいる者はその胸中を思いやって貰い泣きをし、なかには嗚咽おえつの声をあげる者さえあった。紋太夫などは下座のほうで見ていたのだが、思わず「うまいぞ伝吉」と叫びたくなったくらい、若さまの演技は神に入ってみえたのである。津山からの見舞い品をささげ、一文字の短刀をいただいて、この感動的な対面が終ったとき、若さまは静かに「母上の御位牌いはいへ御挨拶を致したい」と云った。紋太夫やその一味の者はぞっと背筋を寒くした。こういう事には故実がある、で、それが筋違いになりはしないかと心配したのである。だが伯耆守は快よく許し「奥へ案内するように」と老女に命じた。
 大助さまが奥へはいっているあいだ、奸臣一味の者たちがどんなに胆をったかは御想像に任せよう、ついでに大助さまが無事に戻り、すべての首尾が上々であると知ったときの、彼等の安心の大きさも御推察にお任せする。正しく極上にして割引なしの大収穫で、若さま御一行は愛宕下の中屋敷へお帰りになった。紋太夫が初めて笑顔をみせたのはこの時である。
「母上の御位牌に挨拶をしたいなんて、よくあんな大胆不敵な智慧ちえが出たな、どうして思いついたんだ」
「だってそれが人情てえものだろう」若さまはにやりと得意そうに笑った。「わっちがひょいと気づいたからよかったが、さもないとおやじ怒ったかも知れねえ、こいつは御褒美の値打があるぜ、紋太さん」
「よし二三日は手足を伸ばして呑め、家臣引見の式までは息をつかせてやる」
 紋太夫は珍しい機嫌でこう頷いた。
 その夜の酒宴も格式ぬき順序ぬきの繩暖簾的豪華さであった。若殿はどじょう汁や鰯の塩焼をせがまれ、侍女たちに景気よく裸踊りをお命じになった。
「さあみんな裸になれ、すっ裸になって底抜けに踊ってみせろ」
 だが本当に彼女たちの一人が帯を解き、緋色ひいろの下着の袖をぬくのを見るとびっくりして手を振りながら、
「やめろやめろ」と叫んだ。「とんでもないやつだ、ここで本当に裸になるということがあるか、洒落しゃれのわからねえ女は始末にいかねえ、おめえ屋島とかいったな」
「はい屋島と申します」
「洒落がわからなくちゃあいけねえぞ洒落が、なあ、盃をやるから一杯やんねえ」
 なんだか訳のわからないことを云ってこじ付けたが、屋島なる腰元はお言葉の裏にある意味を解して全身かっとなり、お盃を受けながら思いのたけを籠めて若さまをみつめた。――その結果は酒宴の終ったあと、若さまが御湯殿へいらっしゃったとき現われた。酔心地でうっとり湯槽に浸っておいでなさる。
「やい紋の字をしょっぴいて来い、若殿の御入浴だぞ、来てあかを擦り奉れだ、あーっときた、なんでえ面白くもねえ、侍女だって腰元だって乙に済ましあがってとーんと一ちょう端唄のいける女もいやあしねえ、あーっときた、気に入らねえ紋太夫、十八万六千石をちょろまかそうてんだ、けちけちしねえでいっぺん芸妓の総上げでもやってくれ、ばか者め、縛り首だぞ」
 戸が開いて誰かはいって来た、お次にいる金吾だろうと思って、「どうだうまいだろう」と云ったが返辞がない。「誰だい」こう云って振返ると、濛々もうもうたる湯気の中に卵のように白いはだ芥子けしの花のように赤いものが見えた。
「なんだ金吾、妙な浴衣を持って来たな」
 こう云って湯槽から出たとたん、若殿は火傷やけどでもしたように叫び、慌てて湯槽の中へ逆戻りをなされた。よく脂肪の乗った艶つやとまるい素膚、僅かに腰をおおっている緋色の湯具、おそれと羞らいに上気した顔が、湯気を押分けて嫋々じょうじょうと現われたのだ。
「いかがあそばしました」お次にいた金吾武吉郎が、若殿の叫び声に驚ろいて戸を開けた。
「お召しでございますか」
 若さまは、ただ指さしをするばかりだった。金吾はそこに居竦いすくんでいる腰元を見て苦笑し、手まねで給仕口から出てゆかせた。
「ああびっくりした」若さまはゆだって赤くなった体から、不動明王のように湯煙を立てながら出て来た。
「おらあ癇性かんしょうで人に体を触らせたことがねえ、まして女なんぞに来られて堪るものか、江戸の大名なんてみんなこうするのか」
「いかがでございますか存じませんが」金吾はにやにや笑って、「唯今のは垢擦りに上ったのではないようでございますな」
「垢擦りに来たんじゃあないって」若さまは金吾を睨んだ。「じゃあ――なんだ」
「御酒宴のとき仰せられた洒落でございましょう」
「だってあれは」こう云いかけたが、侮辱されたように片手を振り、「そんなばかなことがあるか、あんな言葉だけで、れっきとした処女むすめが――浴衣だ、出る」


「そんなばかなことがあるか」若さまはひと晩じゅう寝所でこう呟いていた。「女性というものは温順貞淑なんだ、男には毛物けものめいたものがある。しかし女性は神に近い存在だ、雪のように清浄で花のように無垢むくなものだ、たとえ相手が主人にしたところで、たったひと言なにか云われただけで、そんな風に、いや――おれは信じない、これはなにかの間違いだ、決して女性はそんなもんじゃない筈だ」
 だが明くる日も酒宴、次ぐ日も馬鹿騒ぎで、しかも女性の清純を確信する若殿は、そのたびに寝所から逃げださなければならなかった。伝吉はおんな好きである、従って伝吉のふんする若殿もおんな好きでなければならない、故に若殿は婦人とみれば口説く、これほど整然たる三段論法はござるまい。にもかかわらず口説くことが成功するたびに若殿はひたすら逃げをうたれる、そのうえ女性の尊厳などを口にされるとはいかなる理由であるか、そも――いやそれより更にけぶなことが起った。明日は家臣引見の式があるという前夜、若さまの寝所へ二人の侍がひそかに伺候した。宿直には金吾と宙野が詰めている。お寝間から低い囁やき声で、「無事に召伴れました、観念したとみえ神妙に致しております」などと云うのが聞えた。
「――増井琴太夫」
「御意にございます、次に大目付小林、中老角田、この三人で宜しゅうございましょう」
「ぬかるな」
 そしてしばらくすると二人は出ていった。宙野と金吾が目礼したところをみると、かれらは互いに知己であるらしい、寝所からは間もなく軽い寝息が聞えはじめた。
 夜が明けると引見の日である。披露役は側用人松田久弥で、早くから中屋敷へ現われ、紋太夫と二人で若さまに御教導を繰返した。
「いいか今日おめみえに来るのは物頭以上の四十二人、おれが姓名を披露するとき、えへんと咳払いをしたら、それが味方の人間だということを覚えておけ」松田は特徴のある低い調子でこう云った、「――えへん、こう咳をしてそれから云う名前がわれわれの味方、即ち森家十八万六千石を建直す誠忠の同志だ、わかったな」
「咳払いはたしかでしょうな」若さまは念を押した。「もしそのとき咳が出ないようなことでもあると敵味方がごちゃごちゃになって」
「黙れその口を閉めろ」紋太夫が側から叱りつけた。「貴様は云われたとおり覚えればいいのだ、むだ言を云わずに申付けられたことを忘れるな、――それからもう一つ、江戸家老の梱方万里こおりがたばんりという者がなにか言上などと申すかも知れぬ、お人払いなどと申すかも知れぬが、誰がなにを云おうと聞かぬふりをするのだ。いいか」
 こうしていよいよ時刻となった。江戸家老の梱方万里はじめ四十二人、若殿の御着御目見おちゃくおめみえなので盃は出ない。松田久弥が名を呼び挙げると、一人ずつ上段の前へ来て辞儀をする、中老以下は二人ずつ一緒である。梱方は六十あまりの白髪の篤実そうな老人で、御前へ出ると眼にいっぱい涙を溜めながら、やや久しく若さまの顔を見あげていた。――この家老は十年まえ世継ぎ争いのとき、大助さま擁立の主唱者で、側用人派のために敗北し、近年まで閑職にいたのであるが、伯耆守が病臥びょうがと同時に挙げて江戸家老に任ぜられたのである。こう申せばいま老人の大助さまを見る眼に涙の溢れてくる仔細しさいがお判りなされよう。若さまは困ったようにちらと松田久弥の顔を見たが、一代の智恵を絞ったのだろう、万里がなにも云わないうちにこう声をかけられた。
「堅固でめでたいなじい、みな達者か」
「身に余るお言葉、かたじけのう存じまする」老人は平伏しながら泣いた。「おすこやかに御成人あそばされめでたく――御世継ぎとして御帰館あらせられ、わたくしども一同、祝着に存じ奉りまする」
「まだ祝言を聞くには早い、まだこれから踊ったり歌ったりしなければならぬようだ」若さまは調子に乗ったものか、とんでもないことを云いだした。
「江戸にはない踊りぶり歌いぶり、近ぢかにとっくり見せてやる、また会おうぞじい
 いやどうも、用人や紋太夫らのびっくりしたこと、だが終りの一句がぴたりとはまっていたため、万里にそれ以上なにも云わせなかったのは偶然の収穫であろう。次で筆頭年寄の増井琴太夫が進み出た、これにはえへんと咳払いがついている。以下四十人のうち咳無しの者が十七人、即ち過半数が奸臣一味という結果があらわれたのである。――引見の式も成功であった、家臣たちが退出したあと、松田久弥、増井琴太夫、角田、瀬沼、五十塚、額田ら十八名は居残って、殆んど暮れ方まで謀議を凝らしていた。若さまは例の御酒宴である。なにか腰元たちに悪戯いたずらをしているものとみえ、きゃあきゃあ、きいきい、たいへんな騒ぎだ。
「案外あの馬鹿が役に立つのは驚いた」増井琴太夫は、語を果して、先に帰るためにこう云いながら座を立った。「御対面の折もそうだが引見の席で梱方を扱かったところなど板に着いておる。ちょっと偽者とは思えないくらいだった、五十塚氏の丹精であろうが正に感服の至りだな」
はさみと馬鹿はなんとやら申します」紋太夫は褒められて苦笑しながら、「なにしろ酒とおんなのほかに慾のない男でございますから、――しかしなお怠たらず注意を致します」
 では先にと云って琴太夫は出ていった。


 増井が出ていって屋敷の角を曲ったかと思う頃、供をしていた侍があおくなって駈け戻って来た。
「暴漢が現われて御老職をさらっていった」という。
「それっ」と居合せた者八人ばかりが押取おっとり刀でとびだしていった。――さあ活劇である。たまにはちゃんちゃんばらばらでも起ってくれないと話がしにくくって困る、いざ諸君ご一緒に見物を……と云いかけたら、やれやれもはや終りとみえ、出ていった連中が帰ってまいった。
「手後れでした」彼等は肩で息をしていた。「青松寺のほうへ逃げたと云うのですが、まったく人影がみえませんでした」
「いったいどうしてそんな事が起ったのだ」
「まるで通り魔と申す他はありません」増井の供侍が震えながら説明した。「お屋敷の土塀どべいを出外れまして、あの大榎おおえのきのところまでまいりました。すると木蔭から五人、覆面の者が現われて二人は私を羽交絞めにし、三人が御老職にとびかかると、当身あてみでもくれたのでしょうか、ひとこえ呻く御老職をひっ担ぎました、私もこれは一大事と思い、必死の勇をふるって二人を投飛ばし、早速ここへ御注進に」
「二人を投飛ばす力があったら、注進にくる暇でなぜ追いかけなかった」
「さればそれが一期の不覚なれど」供侍はこう云って袂から一通の手紙を取出した。「その代りかような物を拾ってまいりました」
 見せろと云って松田久弥が取る。封のしてない無記名の手紙である、中をひらくと達筆な文字で「――お次は大目付、小林どの御要心のこと。大」と書いてあった。紋太夫が受取って、眉をひそめながら「はて、大とは」と首を傾げたとき、額田采女がふと振返って、「奥がばかに静かではないか」と云った。そういえばきゃあきゃあ騒ぎが聞えなくなってだいぶ時間が経つ、まだ酔いつぶれるには早いだろうし、まさか、と思ったが紋太夫の顔色が変った。
「――門、門を頼む」
 こう叫びながら彼は奥へ駈け入った。そこは盃盤をそのまま、燭台しょくだいばかり煌々こうこうと明るいが人間は誰もいない。「誘拐ゆうかい」という文字が頭へきたので、我知らずとび出そうとすると、御屏風びょうぶの蔭から赤いひものような物がみえる。そっと近寄っていってのぞくと一人の腰元がこっちへ背中を向けて俯伏うつぶしになっていた、赤いのはほどけた扱帯しごきの端である。
「――これ」紋太夫がそう呼ぶと、腰元はきゃっといって振返った。
「そんな所でなにをしておる」紋太夫は怒鳴りつけた。「若殿はどうなされた、若殿は」
「は、はい、わたくしは、存じませぬ」
「知らぬということがあるか、おまえはどうしてこんな所に隠れていた、なにごとが起ったのだ、お付の者たちはどうした」
「はいそれは、あの」紋太夫の血相が変っているので腰元はすっかり怯えてしまった。「――あの、初め、わ、若さまが、おかくれになりまして」
「なにおかくれ、若殿は御死去か」
「いいえ唯のおかくれでございます」
「はっきり申せ、なにがどうしたというのだ」
「あのう、あのう、隠れんぼう」腰元はぽっと頬を染めた、「――隠れんぼうでございます」
「と申すと子供のするあれか」紋太夫は溜息をつきながら汗を拭いた。「なんというばか者、いや馬鹿ばかしいことを、……ではみんな隠れているというわけだな」
「はい、こんどは若さまが鬼でございますから、みんな隠れているのでございます」
「出てまいれ」こう紋太夫が絶叫した。「おまえもいって呼んで来い、そして若殿をお捜し申すのだ」
「でも――若さまが鬼でいらっしゃいます」
 黙れと叱られた腰元がとんでゆく。紋太夫の声でまず窓井益造が現われた。次で腰元たちが二人三人と来る、金吾が来る宙野が現われる、いちばん最後に若さまが、蹌踉そうろうとよろめきながら出てまいられた。
「よう紋太さんおめえもへえるか、いやなに紋太夫そちもはいるか」若さまはこう云って五十塚によろけかかった。「こいつあ面白え、まざった者の鬼だぜ、いいか」
「おだまりあそばせ」紋太夫は人にはわからないように力いっぱい若殿の腕をつかみ、上座へ伴れていって坐らせた。「――将軍家おめみえ前の大切なお躯でござる、かような軽がるしいお遊びは相成りません、お付のそこもとたちも慮外が過ぎる、心得ましょう」
 叱りつけて置いて、紋太夫は立った。なにしろ一味の重鎮がさらわれたのだから、じっとしてはいられない。三人の侍臣に念を押して出てゆくと、若さまは大笑いに笑いだした。
「みんな固くなるこたあねえぞ、紋太なんぞおれの家来だ、さあ呑め、隠れんぼうが悪けれあめくらの鬼だ、じゃんじゃん騒ごう」
「若さま少し静かにあそばせ」宙野が渋い顔をした。「私どもが迷惑を致しますから」
「じゃあねぎま鍋でも持って来い、そいつで呑み直しだ、早くしろ」
 だが、酒宴見物もお飽きなされたでござろう、話も少々いそがしく相成った。――と申すのは、その明くる夜のことだが、琴太夫掠去りゃっきょの善後策を講ずるため、一味が中屋敷で集まった帰途、またしても大目付小林三之丞が暴漢に掠われたのである。こんどは供を五人伴れていたが、相手は十人で来て旋風のように誘拐し去った。後には封無しの手紙があり、「――お次は、中老、角田どの御要心のこと。大」と書いてあった。――大、大とはなに者であるか、紋太夫はすぐ若殿の安否を見にいった。酒宴の支度もしてあり、侍臣も腰元たちもいるが、若殿と宙野がみえなかった。
「若殿はいかがなされた」
「お湯殿でございます」窓井益造が肩を張って答えた。「お悪酔いをあそばされまして、ましにおいであそばしたのです」
「悪酔いを風呂で醒ます」
 紋太夫は首を傾げながら、すぐに湯殿へとんでいってみた、お次には宙野儀兵衛がしんと坐っていた。


「彼はまだ入っているのか」紋太夫は引戸へ手を掛けた。「音がせぬようではないか」
「お錠が下りてございます」儀兵衛は紋太夫の手を押えた。「たいそうな悪酔いで、つい今まで暴れておりましたが、ようやくひと鎮まり致しましたので、少し寝るからと云って中から錠を下してしまいました」
「ばか者が――」紋太夫は舌打ちをして、これと呼びかけたが、そこに衣服があるのを見て安心したのだろう、「昨夜は増井殿、今夜はまた小林うじが掠われた、恐らく御為派の仕事に相違あるまい、ことによると若殿をもねらうかも知れぬ、よくよく注意を頼むぞ」
「承知仕りました、その儀なれば些さかも御心配はございません、必ずお護り申しますから」
 紋太夫は去った。しかしなぜだろう、五十塚が去ると宙野はほっと息をつき、静かに額の汗を拭った、まるで大難をのがれた者のような表情である。――そして間もなく、湯殿の中でかたりと音がした、給仕口の戸が開いて閉ったように聞える。続いて、「いるか」と低く呼ぶ声がした。
「これに」儀兵衛がそう答えると、なにやら衣摺きぬずれの音が聞え、すぐにざあざあと湯の音がした。
「あーっといい湯だ、おい紋太夫」若さまの声である、「このばか者ッとくるか、ばかの柱をかき揚げにして一杯やるからって、紋太夫にそう云え、はっは狼狽うろたえてやがる」
「もうこれきりにあそばせ」宙野が低い声で囁やいた。「角田は彼等がやります、お危のうございますから」
「危ねえのは腰元のほうだ、さっきかえでというのに、ちょいとからかったが、今夜もまた寝所じゃあ寝られねえな、ああ」若さまの声がそこでしんとなった。「――なあ儀の字、おれは本当に馬鹿かも知れないぞ、津山では殆んど女というものを知らなかった。おれにとっては亡くなった母上がたった一人の女性だと云ってもいい、だからすべての女性が母上のようにみえる、貞潔で心温かく、汚れを知らず卑賤に染まず、咲きでた花のように純浄だと信じていた、ところがなんと、実際に触れたおんなはどうだ、ひといちばい美しいあの処女たち、賢こさもあり行儀作法も心得たあの処女たちが――」
「婦人は美しいもの強いものにかれると申します」宙野が慰めるように云った。「詰るところ若殿のおひとがらと御美男におわすのが」
「やめろやめろ、なにが美男だ、おれは本気なんだぞ儀兵衛――津山へ帰りたくなった」
 これも怪訝けげんな会話であるが、お許しを願って次へ進もう。中二日おいて、若殿は上屋敷へお移りになった。「上屋敷はうるさいから今までのようにばか騒ぎはならん」紋太夫にこう戒められたが、早速その夜から酒宴、またしても侍女を口説くという始末である。中老の角田精一郎が掠われたのは、若さまが腰元たちとお庭へ出て、鬼ごっこをしていらっしゃる時のことだった。庭では鬼になった若さまが見えなくなり、一方では御殿を退出した角田がお屋敷内で姿を消した。紋太夫一味がどんなに仰天したかお察しあれ。こんどこそ若殿も掠われたというので角田精一郎は二の次にして騒いだ。しかし幸いなことに、その騒ぎのまっ最中に若さまは奥庭から出て来られた。
「どうもたいへんな庭だ」若さまははかまの裾をはたきながらこう云われた。「まるで八幡の藪知やぶしらずだ、到るところに計略があって踏み込んだがさいご見当がつかなくなる、戦いの時に敵を誘い込むにゃあ持って来いだ」
「ばか者ッ黙れ」紋太夫は声を殺してこう叫んだ。「御殿を出るなとあれほど申したのを忘れたのか、ここには敵が雲霞うんかとおる、貴様その手に掴まったら」
「縛り首だろう、わかったよ紋太夫、それよりおまえさん忙しいんじゃないか」若さまはにやりと笑いなされた。「おれはこれから松ヶ枝てえ腰元としけ込むんだ、いいからいきねえ」
 紋太夫は噛み付きそうな眼をしたが、ようやく自制してそこを去った。――その夜の奸臣会議は、重大な緊張したものであった。掠われた三人は一味にとってみな中枢的人物である。増井琴太夫は年寄役の筆頭、角田は中老の元締りであって、いざというときにはその役の代表者として発言権を持っている。また小林三之丞は大目付として検察官の実権を握っているわけだ。もしこの三者を敵に悪用されるとすれば、ことによると一味にとって致命的な打撃となるかも知れない。
「これは先手を打つ時期だな」側用人の松田久弥が結論を与えるように云った。「御為派がこのように動きだしたのは、彼等も肚を据えたという証拠だ、彼等に時をしてはならんぞ」
「それがいいでしょうな」勘定奉行の灰山主税が直ちに頷いた。「今まで黙っていましたが、あの封なしの文の『大』という署名がどうも怪しい、私には大助さまの意味ではないかと思われてならないんです」


 灰山の言葉は、座にいる人たち全部を慄然りつぜんとさせた。大助さま、東海道袋井の駅で片付けた若殿、もしその人が生きて来たとすると――。
「いやそんなことはない」紋太夫は断乎と首を振った。「あの方が生きているということは絶対にない、万一そんなことが、――万一ですぞ、万一そんなことがあったとしても、既にこちらは御父子御対面も済み家臣引見も済んでおる、それこそ偽者として有無を云わせず片付けることができるではないか」
「たしかにそこは動かない」松田が膝を叩いた。「今さら名乗って出たところで御為派以外の者が信ずる訳はないが、それにはやはり事を早く断行すべきだ」
「さよう早いほうが万全ですな」
 こうして会議は終った。ところがその直後である、紋太夫が若殿の御殿へゆくと、奥でなにやらきゃあきゃあ女の声がする。宿直には窓井と金吾がいるので、「どうしたんだ」と訊くと、窓井が苦い顔をして、「どうも申上げようがございません、いって御自分でごらん下さい」と云う。紋太夫は舌打ちをして、またばか騒ぎかと呟やきながら、寝所へはいろうとすると、中から若さまがとびだして来た、片手で腰元を引きずっている。
「なにごとです、若殿」こう紋太夫が呶鳴りつけた。「なにをさように御乱暴あそばすか」
「助けてくれ紋太夫、乱暴をするのはおれじゃあない、この連中が、おれを――」
「いいえお放し申しません」腰元はこう叫んだ。「わたくしお言葉がかかったのですから、今夜はどうしたってお放し申しません」
 いやはや、若さまが腰元を引きずっているのではなく、腰元が若さまの手を放さないのである。そればかりではない、寝所の中ではまた四五人の声で、
「あたしはお中屋敷でちゃんとお約束したんです」
「いいえ、わたしのほうが先です」
「なんというずうずうしい方でしょう、なんという」
「放して下さい、若さまはあたしをお召しなんですから」
「なんというずうずうしい」
「お黙んなさいあたしが」
「いいえ放しません、放すもんか」
「お中屋敷ではこうみえてもつぼね持ちだよ、へん」
「畜生、放さないかこのあばずれ」
「まあ呆れた、なんてずうずうしい」
「ええこうしてやる」
「あらおやりあそばしたわね、負けるものか」
 こういう派手な叫びといっしょに、どたんばたんと取っ組合いが始まり、きいーきゃーとたいへんな騒ぎである。こちらでは若さまが掴まれた手を振り放そうとする、腰元はしがみつく、突きとばして逃げる、泣声をあげて追い駈ける。
「助けてくれ紋太夫、こいつをどうにかしてくれ、おーい金吾」
「金吾なんか来たら、ひっちゃぶいてやるから」腰元は追いまわしながら叫ぶ。「どうしたって今夜という今夜は、ええ口惜しい」
 いやどうも紋太夫、口が渇き眼がちらくらして暫らくは声も出なかった。しかし彼は智恵のある男だった。女性たちがこのように燃え上っては手はつけられない。それはちょうど一片の肉を争う猛獣の群に等しく、うっかり中へはいるとこっちがずたずたに引き裂かれてしまう、現に腰元のひとりは、「金吾なんかひっちゃぶいてやる」と云ったくらいではないか。これを鎮めるには肉を与えるより他に方法はない、少なくとも目的の肉が得られるという可能性を与えなければだめだ。
「みんな鎮まれ」紋太夫は天床板も裂けよと呶号した。「そしてここへ一列に並べ、公平に籤引くじびきだ」
 籤引きという一言は効果的だった。彼女たちはとっ組合いをやめ、髪の※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしり合いをやめ、引掻きっこをやめた、そしてわれ先に駈けて来て、紋太夫の前へ並んだ。――三人、五人、七人、なんと十七人ござるぞ。「うーん」紋太夫は唸って若さまの顔を見た。若さまは両手をひろげて肩をすくめ、「済まねえ」というように泣きべそをかいた。「いま籤を作って来るからそこに待っておれ」紋太夫はこう云って、若さまと一緒に表へ出た。
「僅か十日やそこらで」紋太夫はつくづく若さまの顔を眺めた、「――僅か十日やそこらで十七人とは」
「我ながらこれには呆れた」
「呆れるのはこっちだ、いったいあれだけの人数をどうする積りなんだ」
「どうったってしょうがねえ、ちょいと口を利くと出来ちまうんだ、おらあもううんざりした、みんなおめえにるよ紋太夫」
「黙ればか者、それどころではない大事が迫っているんだ、はっきりしろ」
 紋太夫は窓井と金吾を呼んで、「当りのない籤を十七本作って引かせろ」と命じ、また今夜は若さまを表へ寝かせるようにと注意して自分の小屋へ帰った。――それから三日めの夜のことである、松田久弥、灰山、額田、それに紋太夫の四人が若さまの居間に集まった。いよいよかねての事を断行するときが来たのである。松田用人は長い巻紙に書いたるものをそこへ置き、「これをよくみろ」と若さまに云った。

十一


「第一条から第八条まで、江戸家老以下の政治壟断ろうだん、私曲秕政ひせい、収賄涜職とくしょくの事実が挙げてある、これを明日、おまえが御前で読みあげ、記してある重職五名それぞれ永蟄居えいちっきょ、閉門、追放を申渡すのだ」
「そいつは面白えな」若さまは乗気になって巻紙を取上げた。「そのほう不忠者ども、下れおろうーってえわけだな、音羽屋あとくるところか、しかしおれがそう云うだけで利くかしらん」
「下拵らえしてあるんだ、若殿御詰問の儀ありということで、明日の御前会議はもう定っているし、罪条摘発があれば後はわれわれが始末をする、だがしくじったら大変なことになるぞ、もしおまえが下手なまねをすれば」
「縛り首か、大丈夫うまくやるよ、おまえさんたちがあっと云うくらいうまくやってみせらあ、本当だぜ」
「とにかく稽古をつけてやる、そこへ坐れ」
 それから一刻あまり四人がかりで教え、これなら間違いあるまいというところでその夜は別れた。その翌日でござる、読者諸君、奸悪無道なる一味は、巧みに病床の伯耆守を動かして重職一統を召集し、いかがわしき若殿を傀儡かいらいにいよいよ御為派追放を計り申した。――黒書院上段には伯耆守が病床のまま臨席なされた。全重職十六名が下に居並ぶ。若殿は上段際に着座され、次で側用人松田久弥が控えた。
「――みな出たか」若さまがまずこう発言をなされた。「今日は思う仔細あって皆の者を呼んだ、いずれも多用のところ大儀である」
 奸臣一味はびっくりした、びっくりしてからほくそ笑んだ。言葉つきも態度も堂々たるものだし、殊に相貌そうぼうが際立って凛然りんぜんとしてきた。「こいつは占めた上々吉だ」勝負はこっちのものだと思い、末席にいる紋太夫などは貧乏揺ぎをしたくらいである。若殿はお続けなされた。
「余は津山にある折から、藩政に就いてかんばしからぬ事のあるのを耳にしていた。父上が御病床に在すを幸い、重職らのうち奸悪の者あい計り、しきりに内政紊乱びんらんを策しておると申す、心痛のあまり余は人を遣わしてくわしく内偵させ、その事実なることを慥かめてまいった、今日はこれよりその罪条を挙げ、不臣の徒に屹度きっと申付けるであろう――じょう!」
 こう云って、巻物を取上げると、重職たちは一斉に頭を下げた。どうしてなかなか、とても一夜稽古のでっちあげとは思えない、張のある声はびんびんと書院の四壁に響きわたり、端座した体からは光を発するかと疑われる。「――第一条」若殿はこう読み始めたが、一々ここに挙げることはござるまい。第二条、三条と読み進んでゆくうちに、奸臣一味の者が妙な顔をし始めた。……どうも少し違うのである。挙げてある罪条は似ているが、一味で捏造ねつぞうしたものとはどこかしら違う、第五条となり六条となるとますます違ってきた。少し違うどころか、それはむしろ自分たち一味の罪条に近い、いや自分たちの罪そのものになってきた。どうしたことだろう、なんの間違いだろう、これは中止だ、そう狼狽ろうばいしだしたときはもう遅かった。
「右八箇条の罪に依って申渡す」若殿はいちだん声を張上げて読んだ。「――側用人松田久弥、年寄役増井琴太夫、勘定奉行灰山主税、以上家禄召放しのうえ国払い」
「恐れながら」松田久弥が仰天して声をあげた。「こは思いがけなき仰せ、さような儀は私いっこうに」
「まったくもって覚えのない」灰山も震えながら云った。「これはなにかの間違いでござる」
「中老角田精一郎、追放」若殿は耳もかけず続けた、「大目付小林三之丞、永蟄居、中老瀬沼六郎兵衛、閉門、小姓組頭五十塚紋太夫切腹、額田采女、原野九郎兵衛……」
 いやどうも、ずらずら奸臣一味がきれいに名を挙げられてしまった。――正にあっといった感じで、茫然と我を失った一味の者を若殿はしずかに見下ろしながら、
「宙野、その者をき出せ」と云った。
 声に応じて宙野と金吾とが、お広縁へ一人の若者を曳きだした。若殿はその男を見ろと指さした。
「紋太夫あれを見ろ、伝吉だ」
「ああ――」紋太夫は馬鹿のように口をあけた、「ああ伝吉、貴様か」
 正に伝吉である。この物語の初めに金谷の宿で、朴訥な令嬢たちにもてたあの男である。
「不審が晴れねば申してやろう、そのほう伝吉と余を袋井の宿ですり替えた積りであろう、だがその前夜すでに余は伝吉とすり替っていたのだ、袋井にいたのが伝吉で、あの前夜、金谷からまいったのが余自身であった、――これでもはや云うことはあるまい、増井、角田、小林の三名も罪条を自白しておる、のがれんぞ」
 物語はめでたく終り申した。一味の処罰が済んで、腹心の士である宙野や金吾らと、はじめて心おきなく酒を囲んだとき、若殿大助さまにはこのように仰せられたと申す。
「これでどうやら、事はおさまった。みんなおまえたちの助力のお蔭だ、――しかしおれにとって、今なにがいちばん嬉しいかわかるか」
 若さまこう云って、にこりとお笑いなされた。
「――それはもう、女を口説かなくともよくなったことだよ」





底本:「山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分」新潮社
   1983(昭和58)年8月25日発行
初出:「講談雑誌」博文館
   1948(昭和23)年2月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年3月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード