夜の蝶

山本周五郎





 本所亀沢町の掘割に面した百坪ばかりの空地に、毎晩「貝屋」という軒提灯のきぢょうちんをかかげた屋台店が出る。貝をさかなに酒を飲ませるのと、盛りのいいぶっかけ飯が自慢で、かなり遠い町内にも名が知られていた。
 車屋台のまわりを葭簀よしずで囲い、その中に白木の飯台と腰掛が置いてある。屋台の鍋前にも腰掛があり、そこにも三人くらいは掛けられるから、客のたて混むときには十二、三人は入ることができた。――掘割の向うは公儀の御米蔵で、堀沿いにずっと土塀どべいが延びているし、うしろは佐渡屋、丸伍、京伝などという大きな問屋が並んでいる。もちろん、みんな板塀の裏手が見えるだけで、夜になると燈も漏れず、あたりはひっそりと暗くなる。
 もう三月中旬だというのに、かなり冷える或夜のこと――
 午後から雨もよいになったせいか、夕方のたて混む時刻が過ぎると、「貝屋」は珍しくひまで、九時をまわる頃には、常連の飲む客が四、五人だけになった。担ぎ八百屋の竹造、大川端の土屋の船頭の勇吉、この二人は古い地つきの友達らしく、どちらも二十八、九になる。二人の前に、飯台をはさんで向合っているのは表の佐渡屋の蔵番で、年は五十六、七だろうか、本名は六兵衛というのだが、いつも酔っているので「ずぶ六」と呼ばれている。
 そのほかに二人、一人は初めて見る顔で、旅の者らしい、手甲てっこう脚絆きゃはん草鞋わらじをはき、合羽かっぱを着て、頭にちりよけの手拭をかぶっている。年はもう三十六、七、これは鍋前に掛けて、主人の与平とぼつぼつ話しながら、焼きはまぐりを肴にゆっくりと飲んでいた。
 もう一人は、――これは飯台の端に酔いつぶれている。酔いつぶれているのだろう、腰掛から落ちそうな恰好で、飯台に俯伏うつぶし、だらしなく曲げた腕に顔をのせたまま動かない。あかじみた布子(木綿の綿入れ)によれよれの三尺をしめ、頭の毛は灰色だし、伸びている無精髭ぶしょうひげも灰色で、ぜんたいが云いようもなくみじめにうらぶれていた。
「待っておくれ、高次、どこへゆくの」
 外でそういう女の声がした。葭簀張りのうしろのほうらしい。「どこへゆくのよう」といい、そのまま聞えなくなった。
「旦那はこれから旅へいらっしゃるんですか」主人の与平が燗徳利かんどくりを出しながらいた。「それとも旅からお帰りになったんですか」
「帰って来たんだが」とその客は少し上方訛かみがたなまりのある言葉で云った。「どうやら、またでかけなければならないようだ」
「この御近所ですか」
「いや、――」
 客は口ごもった。「この先に、この先の緑町二丁目に知ってる者がいたんだが、いってみたら引越しちまって、どこへいったかわからないんだ」
「あの辺は辰年(天明四)の火事で焼けましたからね」
 向うの飯台から竹造が云った。
「おやじ、酒だ、それから味噌煮を一つ」
「こっちは濁ったのをくれ」と勇吉が云った。「ついでに汁のお代りだ」
 旅装の客は自分の盃に酒をつぎ、ゆっくりとひと口すすって、大事そうに下へ置いた。塵よけの手拭を深くかぶっているので眼鼻だちはよくわからないが、日にやけた浅黒い横顔や、甲掛けから出ている手爪先や、また身妝みなりのさっぱりとしたようすでみると、大きな商家の番頭というふうであった。
「どこへ隠れたの、高次、どこよう」
 空地の向うで(また)女の声がした。
「京伝のお幸さんじゃねえか」蔵番の六兵衛が云った。「いまの声はお幸さんじゃねえか」
「なにか声がしたか」
「お幸さんは寮だろう」と勇吉が云った。「このあいだ、お梅どんに会ったら、ずっと寮のほうにいるって云ってたぜ」
 与平が註文の品を盆にのせて飯台のほうへいった。鍋前にいる旅装の客は、ぎょっとしたように首をもたげ、じっと外のようすに聞き耳をたてた。与平は空いた盆を持って戻り、手酌で一杯ぐっとあおった。それから鍋の下の火を見、炭をついで、洗い物にかかった。
「そこで野郎の云いぐさがいいんだ」と竹造は話を続けた。「死にかたに立派も立派でねえもあるか。死ぬこたあ死ぬこった。男らしく死のうとめめしく死のうと、誰の損にも得にもなりゃあしねえ」
「野郎はいつもその伝だ」
「男らしく死ぬなんてのはみえ坊のするこった。にんげん死ぬときにまでみえをはるこたあねえやってよ」と竹造は云った。「そう云っちまえばそれも理屈だからな。すっかりお座が白けて話はおしめえよ」
「野郎はいつもその伝だ」と勇吉が濁酒どぶろくの茶碗に口をつけた。「云うことに嘘はねえが、どうにも毒があっていけねえ。なかくるわへいってまでその伝なんだから、おんなにだって好かれる道理がねえや」
 旅装の客は与平を見た。
「いま向うで」とその客が上方訛りのある調子で訊いた。「向うにいる人が、お幸さんがどうとかしたっていったようだが」
「へえ」与平が顔をあげた。「――なんで」
「いや、いま向うの人が」
 旅装の客はそう云いかけて、ふと口をつぐんだ。この葭簀張りの中へ、女が一人ふらふらと入って来た。
「高次はどこ?」とその女が云った。「うちの高次が来ているでしょ。どこにいるの」
 そこにいる者はみんな顔をあげた。だが、旅装の客は反対に眼をそむけ、頬杖ほおづえをついて顔を隠すようにした。
 女は縞小紋のあわせに博多の帯をしめ、素足に男物の雪駄をはいていた。年は二十五、六から三十一、二のあいだであろう、老けているようでもあり若くみえるようでもある。おも長のふっくりした顔だちで、品もいいし、かなり美しい。際立って美しいといってもいいだろう。しかし、その美しさはどことなく非人間的で、能面か仏像のような印象を与える。眉をしかめたり眼まぜをしたり、びたなまめかしい微笑をみせたりするが、それでもなお人間ばなれのした感じは消えなかった。
「ねえ、隠さないで教えてちょうだい」と女は云った。「あたし、あの人に坊やを見せるのよ。あの人はまだ坊やが生れたことを知らないんだもの。ねえ、高次はどこにいるの」
「こっちへいらっしゃい。高次は此処ここにいますぜ」竹造が云った。「それ見えるでしょう、こっちへ来てごらんなさい」
「からかっちゃあいけねえ」
 主人の与平が出ていって、竹造を叱り、女をなだめた。
「家へお帰んなさい。家でみなさんが心配しているから」こう云って、外へ送り出そうとした。女は与平の手をふり放した。
「そんなことを云ったってきくもんじゃねえ」と六兵衛が云った。「その病気の出ているときにはっとくよりしようがねえんだ。いまにお梅どんが来るだろうから、うっちゃっとくがいい」
「あんまり親切にすると抱きつかれるぜ」勇吉がそう云って笑った。
「だいじょうぶよ、おじさん」女は与平に笑いかけた。「あたし、なんにもしやあしないわ。ただ、この坊やをあの人に見せるだけよ。あたし自分のすることぐらい、わかってるわ。ねえ、ちょっとでいいからあの人に逢わせて」
 女は両手を(まるで赤児でも抱いているように)胸のところで輪にし、それをやさしく揺りながら飯台のほうへいった。
「しようがねえなあ」与平は鍋の前へ戻りながら云った。「おめえたち悪くからかっちゃあいけねえぜ。わけがわからなくなってるんだから、そんな病人をからかうのは罪だぜ」


「近所の娘さんか」と旅装の客が声をひそめて訊いた。彼は女のほうは見なかった。
「この表の京伝という麻問屋の娘ですよ」と与平が云った。「いつもは温和おとなしいんだが、月の障りの前後になるとおかしくなりましてね。それにはいろいろ事情もあるんだが」
 女は腰掛に掛け、そこにいる三人に自分の赤児を見ろとせがんでいた。蔵番の六兵衛がのぞきこんで、可愛い丈夫そうな子だと褒めた。竹造と勇吉も褒めた。女は得意そうに眼を輝やかしたが、勇吉が「ちょっと抱かせてくれ」と云って手を出すと、この子は人見知りをするからだめだと云い、さも、その子が泣きだしでもしたかのように、腰掛から立って、からだを左右に揺りながらあやし始めた。
「おうよしよし、泣くんじゃないの」と女は云った。「いまにお父ちゃんに逢わせてあげるからね、泣かないのよ。坊やが泣くと母ちゃんまで泣きたくなるからね、おうよしよし」
「うるせえ、がきを泣かせるな」
 飯台の端でどなる声がした。酔いつぶれたまま眠っていた老人である。腕を枕に飯台へのめって、死んだようになっていた老人がどなったのであった。――外にある提灯とはべつに、車屋台の横に仮名で「かいや」と書いた軒行燈が懸けてあり、それが囲いの中を照しているのだが、その行燈にとまっていた大きな蝶が、老人の声に驚きでもしたようにはたはたと飛びたち、囲いの中を狂ったように飛びまわってから、また元の行燈へ戻ってとまった。
がきを外へれてゆけ」と老人がまたどなった。「うるさくってしようがねえ、うるせえぞ」
「ほらみなさい坊や、よそのおじさんに怒られるじゃないの」女はおろおろと云った。「どうしてそんなに泣くの、泣かないでって云ったら、ねえ、どうしたの」女は腕の中を覗きこんだ。「どうしたのよ坊や。おっぱいが欲しいの。おなかがすいたのね。そうなの、おなかがすいてたのね。おうよしよし、可哀そうに、そうだったの」
「うるせえぞ」と老人がどなった。「どっかへ伴れてけ、そのがき、泣かせるな」
 六兵衛が笑いだし、竹造と勇吉も笑った。
 女は腰掛に掛け、えりをぐっとひろげて、左の乳房を出した。三人は笑いやめて、さりげなくまぶしそうにそれを眺めた。ほのかな行燈の光りの中で、彼女の胸のなめらかな白さと、乳暈にゅううん鴇色ときいろをした豊かな張りきった乳房とが、どきっとするほどなまめかしく色めいてみえた。
「さあ、おっぱいよ。坊や、まないでね」女は右の手で重そうに乳房を支え、飲みよくしてやるように胸を反らせた。「あらあら、そんなに飲みたかったの、悪い母ちゃんね。いいから好きなだけおあがり。よしよし、よしよし」
 旅装の客は、それを眼の隅で見ていた。それから与平に向ってささやくように訊いた。
「子供があるんだね」
「とんでもねえ、まだ生娘ですよ」と与平が云った。「あっしは又聞きで詳しいことは知らねえが、十五年ばかりまえ、京伝の店にお幸さん――というのは、あの娘さんの名前ですが、お幸さんの婿になる筈の手代がいましてね。それがその祝言をあげようてえときになって、店の金を千両とか二千両とか持ってずらかっちまったんで」
「それあ違うよ与平さん」六兵衛が云った。云いながら自分の燗徳利とさかずきを持って、こっちへ来て、旅装の客の脇へ腰をおろし、「それあ、おめえの聞き違えだ」と与平に向って云った。「その手代――高次てえ名前だったが、その手代のずらかったのは、祝言のめえじゃあねえ、旦那の亡くなったときのこった」
「六兵衛さんは詳しいんだな」
「詳しいってわけじゃあねえんだ。おれも、そのちょっとめえから佐渡屋の飯を食うようになったばかりで、古くからのいきさつは知らねえんだが、その騒ぎのときのことはまだ覚えてる。あれあ京伝の旦那の亡くなったすぐあとのこったよ」
 飯台のほうでは、女が静かに子守り唄をうたいだした。旅装の客は口のところまで盃を持ってゆき、そのまま飲みもせずに(口の前で盃を支えたまま)、ふと眼をつむった。
「その男は子飼いからの人間だったそうじゃねえか」と与平が云った。
「子飼いも子飼いだが」六兵衛は手酌で酒を注ぎ、その空になった燗徳利を与平に振ってみせ、「もう一本」と云って続けた。「おれの聞くところじゃあ、なんでも旦那の遠い身内で、孤児みなしごになったのを引取られたらしい。そのとき十になるか、ならねえかだったということだ」
「ほんとのことを云おうか」
 突然そうどなる声がした。飯台の端に酔いつぶれているあの老人であった。やっぱり酔いつぶれたままで、どなったのである。
「ほんとのことを云うぜ」と老人はしゃがれた声でどなった。「云っていいか」
 話の腰を折られて、六兵衛がちょっと口をつぐんだ。すると、女のうたう子守り唄が、その僅かな沈黙のなかで、ひそやかに聞えた。
「そんなわけだから」と六兵衛が続けた。「旦那だって、おかみさんだって、表面はともかく心の中では、ほかの奉公人とはべつに考えていたろう。当人も珍しく気だての良い、温和しい性分だったそうだ」
「こっちを一つやって下さい」旅装の客が六兵衛に酒を差出した。「燗のつくまでのつなぎにあげましょう」
「さようですか、これあどうも」六兵衛は、きように受けた。「では遠慮なしに――」
「それじゃあ、なんだな」と与平が云った。「旦那は初めから、その男とお幸さんをいっしょにするつもりだったんだな」
「どうだかな」と六兵衛が云った。「そうだったかもしれねえが、その頃はお幸さんの上に男の子が一人いたそうだ。高次と同じ年で、これは十五の年に亡くなったそうだが、それからだって、高次の扱いに変ったところはなかった。二人を夫婦にするってえ話は、旦那が亡くなるちょっとめえに、親類を集めて披露したことだっていうぜ」
「それなのに、当人はずらかったんだな」
「店は左前になってたらしい。京伝といえば御府内でも知られた麻問屋だが、旦那が人が好いもんだからな」と六兵衛が云った。「なんでも悪い手形にひっかかったのがもとで、当時は相当に苦しい遣繰りだったということだ」
「それなのに野郎はずらかったのか」
「ちょうど仕切り前で、旦那が苦しい遣繰りをして金を集めた。無理な遣繰りだったんだろう。そいつがたたって卒中で倒れ、二日めにお亡くんなりなすった。すると高次のやつめ、その旦那の集めた金をさらって消えやがった」
「ひでえ野郎だ」
 与平は、燗のついた徳利を六兵衛のまえへ置き、自分も(自分の酒を)一杯、すばやくあおった。
「ひでえことをする野郎だ。首くくりの足を引張るような野郎だ」
「掠った金が八百幾十両、――子飼いから一人前にしてもらった恩を忘れ、あれほど想い焦れているお幸さんを棄てて」と六兵衛は深い溜息ためいきをついた。「まったくひでえ野郎だ。世の中にゃあ、ひでえ野郎がいるもんだ」
 女は低い声で子守り唄をうたっていた。


「今晩は、――」
 こう云って、中年の女が顔をみせた。四十ばかりになる、肥えた、髪のあかい女だった。
「ああ、お梅どんか」与平が云った。
「お幸さんなら、そこにいるぜ」
「どうも済みません。さっきから捜してたんですけどね」女はこう云いながら入って来た。「此処で子守り唄が聞えたもんですから」
「寮のほうじゃなかったのかい」
「明日が亡くなった旦那の祥月命日なもんですからね、それで帰って来たんですけど」お梅という女はお幸のほうへゆき、竹造と勇吉に挨拶をした。「いつも御迷惑をかけて済みません。さあ、お幸さん帰りましょう。お店に高どんが来ていますよ。高どんが来て待ってますから帰りましょう」
「大きな声をしないでよ」お幸は云った。「いま、やっと坊やが寝たばかりなんだから、ほらね、よく眠ってるでしょ」
「ええ、よくおねんねしてますね。だから早く帰って寝かしてあげましょう。こんな処にいては坊やが風邪をひきますわ」
 お梅という女はお幸の胸を隠し、衿をよく合わせてやって、援け起した。お幸は温和しくされるままになっていた。お梅は誰にともなく、おじぎをし、礼を述べて、お幸を抱えるようにしながら出ていった。――お幸のうたう子守り唄が、ものがなしく、訴えるように、ゆっくりと遠のいてゆき、やがて聞えなくなった。すっかり聞えなくなるまで、みんな黙って、しんと耳を澄ませていた。
「それで、どうなりました」と旅装の客が六兵衛に訊いた。「京伝というお店はつぶれてしまったんですか」
「失礼ですが一つ」と六兵衛は自分の徳利を旅装の客に差した。「お返しってわけじゃあねえ、お近づきにどうか――さようです、潰れかかりました」と六兵衛は云った。「けれどもそんなわけで災難がひど過ぎる。他人だって見殺しにはできませんや。債権者のほうでも気の毒がるし、親類も放ってはおけねえ。皆で力を貸して守立てようってことになり、おかみさんのおいに当るとかいう今の旦那を養子に入れて、店を続けることになったんです」
「ほんとのことを云っていいか」
 また酔いつぶれた老人がどなった。
「云ってやろうか、おい」と老人は嗄れ声でどなった。「おれがほんとのことを云ってやろうか、いいか云っても」
 その声に驚いたように、行燈にとまっていた蝶がぱっと舞いたち、囲いの中をくるくると飛んで、葭簀の上にとまった。
「その養子という人は……」と旅装の客が六兵衛に訊いた。「つまりお幸さんといっしょになったんですね」
「祝言もしたんですが、お幸さんは振って振って振りぬいたそうです」と六兵衛は云った。「側へもよせつけねえんだそうで、結局その養子には、よそから嫁を貰った。――持参金の付いた嫁さんだっていいましたが、ともかく、それからはふしぎに商売が順調で、いまでは先代より繁昌しているってことですよ」
「大凶は吉に返るっていうが」と与平が云った。「先代がいい人だったし、貰った養子が切れる旦那だし、あれだけの災難を乗り切ったのは、やっぱり運がよかったんだな」
「そして悪い運はお幸さんが背負っちまった」と、六兵衛が云った。「お幸さんが一人で災難を背負っちまったようなもんだ」
「おやじ」と向うで竹造が云った。「おれにも白馬を一杯くれ、そのあとでぶっかけだ」
「まだ飲むのか」と与平が云った。
「こっちにも一杯」と勇吉が云った。「おらあ飯は食わねえ、しぐれ煮を貰おうかな」
 旅装の客は徳利を振った。もう酒はなかった。与平は心得ていたらしい。銅壺の中から徳利を出し、燗のぐあいをみて「ちょっと熱くなりました」と云いながら客の前へ置いた。旅装の客はそれを取って六兵衛に差しながら訊いた。
「あの娘は、そのじぶんから、あんなふうになったんですか」
「養子を取ってからでしたよ」と六兵衛は酒を受けながら云った。「よっぽど高次にれてたんでしょうな。初めは養子を振るための狂言だろうっていわれたもんです。気のふれるほど好きだったなんて、おふくろさんも知らなかったようですからね」そして盃の酒をひと口飲んで首を振った。「まったく可哀そうなもんです」
「それにつけても憎らしいのは野郎だ」与平はこう云って、注文の品をのせた盆を持ち、飯台のほうへゆきながら続けた。
「どこでどうしてやがるか、あんな罰当りなことをする野郎は、どうせ、まともな暮しはできゃあしねえ、悪銭身に付かず、遣いはたしたあとは泥棒かぺてん師にでもなって、臭い飯の二、三度も食ったあげく、ことによると、もうお仕置にでもなってるかしれねえ」
「云うぞ、ほんとのことを云うぞ」酔いつぶれている老人が、また(同じことを)どなり、こんどはふらふらと顔をあげた。
「云っていいか、ほんとのことを云おうか」と老人はどなった。「おい、おやじ、おれが本当のことを聞かせてやろうか」
「わかってるよ、たくさんだ。それよりおめえ、もう帰らねえと迎えに来られるぜ」与平はこう云いながら、空いた盆を持って鍋の前へ戻った。老人は不安定に半身を起し、片方の手をふらふらと振って、みじめな、泣くような声をあげた。


「どういう人だ」と旅装の客が訊いた。
「もと京伝の店にいたんだそうです」と六兵衛が答えた。「古くから荷方をしていたそうですが、酒癖が悪いため追出されて、いまは娘の嫁入り先の世話になってるんですが」
「あれが」と旅装の客が云った。「あれが荷方の源さん」
「知っておいでですか」
「いや」旅装の客はどきっとし、苦笑しながら盃を取った。「いや、とんでもない。いまこの親方が向うで、源さんとか云ってたもんだから」
「おらあ云ってやる、ほんとのことを云ってやる」と老人が向うでどなった。「高次てえ人はなんにもりゃあしねえ。みんな知らねえんだ。高次てえ人は金なんか盗りゃあしなかった。あのときお店には、盗るような金なんてなかったんだ」
「あれが口癖でしてね」と与平が云った。「酔っぱらうと、いつもあれを云うんですよ」
 旅装の客は老人のほうを見た。
「金なんかありゃあしなかった」と老人は続けた。「旦那は相場に手を出してた。お定りの苦しまぎれ、すってんてんにがれて、仕切りが眼の前だというのに、金箱には十両とまとまった金もなかった。これがほんとのこった。そのとき金箱には十両の金もなかったんだ。それを知ってるのは、おれがそいつを知ってるのは、旦那がおれに、――これこれだから荷をはたきたいがどうだ、てめえだけに話すんだがと相談して来た。くらの荷をはたいて急場をしのごう、さもなければ暖簾のれんをおろすよりしようがねえ、こう、うちあけてお云いなすった。恥ずかしくって誰にも云えねえが源太、店にはいま十両と纒まった金もねえんだ……これがほんとのこった、おめえたちは知らねえが、本当のところはそうだったんだ」
 老人は泣きだした。
 葭簀にとまっていた蝶がはたはたと飛びたち、老人の頭の上をまわってこっちへ来た。そうして旅装の客の肩のあたりで迷っていたが、やがて行燈へいってとまった。老人はふらふらする手で、涙とよだれで濡れた口のまわりを拭き、だらしなくむせびあげた。
「その相談のすぐあとで旦那は倒れた。さあどうする。二日めには亡くなった、十五年めえの、――明日がその祥月命日だ」と老人は咽びあげながら云った。「仕切りは迫ってる、旦那は亡くなった、金はねえ、さあ、どうする……おらあ知ってるからはらはらしていた。すると、高次てえ人が姿を消した。旦那の亡くなった晩のこった。子飼いから育てられて、お幸さんの婿になると定ってた人が、――お幸さんと祝言して京伝の旦那になるのを眼の前に、ふいっと姿を消しちまった」
「八百何十両という金を掠ってだ」と六兵衛が云った。「やつには金のほうが欲しかったんだ」
「八百何十両掠って逃げた、そう聞いたときに、おらあすっかりわけがわかった」と老人は云った。「高次てえ人は旦那に死恥をかかせたくなかった。自分が盗んで逃げたことにすれば、旦那は恥をかかずに済む。旦那の不始末は明るみに出ねえで済む、こう思ってやったことだ」
「わかった、わかった」と六兵衛が云った。「おめえの云うことはよくわかってるよ、源さん」
「おめえたちにはわからねえ」と老人は云った。「おめえたちにわかる道理がねえ。現に育ての親も同様なおかみさんでさえ、わからねえんだ。旦那は仏さまになったから知ってるだろう。おれにもわかる。仏さまになった旦那とおれにはわかるが、ほかの者にゃあ、わかりゃあしねえ。わかりゃしねえとも、わかってたまるもんか」
 旅装の客は両肱りょうひじをついて頬を支え、老人の言葉を聞きながら眼をつむった。
「人間なんて悲しくって、ばかで、わけの知れねえもんだ」老人はこう云って泣きだした。「人間なんてものは、みんなつんぼ盲目めくらで、おっちょこちょいなもんだ。ざまあみやがれ」それから泣き声をふり絞るようにどなった。「おめえたちにゃあ、ほんとのこたあ、わからねえ。おめえたちにも誰にも、わかりゃしねえ。高次ってえ人がなにをしたか、どんな気持で京伝から消えていったか、誰にもわかりゃしねえんだ。わかりっこはねえんだ。ざまあみろ」
 老人の手放しで泣く声が、やや暫く囲いの中へ波紋のように揺れひろがっていた。旅装の客は顔をあげ「勘定」と云って、ふところから財布を出した。竹造と勇吉の二人は何か笑いながら話し興じている。六兵衛はみれんな眼つきで、「もうお帰りですかい」と旅装の客を見た。
「取った宿が遠いもんですから」その客はこう云って、勘定を済ませて立ちあがった。それまで躯の蔭に隠れて見えなかった両掛(昔の旅行用の行李こうりを取り、飯台の端の老人のそばへいった。老人はまた飯台に俯伏していた。俯伏したままうっうっと、だらしなく泣いていた。
「爺さん」と旅装の客が云った。「いい話を聞かせてもらって嬉しかった。いい話しだった。礼を云うよ」
 老人は泣くばかりだった。
「だが、もうその話はしなさんな」とその客は云った。「その話が本当だったとすれば、高次という人は主人の恥を背負ったんだろう。自分が盗みの汚名をてまで主人の恥を背負ったんだ――そうだとすれば黙っててやるのが本当じゃないか、そうじゃないだろうか爺さん」
「おめえなんぞに、なにがわかる」老人は俯伏したまま云った。「おらあ口惜しいんだ。ほんとのことも知らねえで、世間のやつらは、いまでも高次の悪口を云いやあがる。なんにも知らねえくせ、しやがって、おらあ、がまんがならねえんだ」
「それでいいんだ、それでいいんだと思う」と旅装の客は云った。「高次という人は、そんなことは承知のうえだったろう。いつか本当のことがわかるとか、わかって褒められたいなどとは、これっぽっちも考えてはいなかった筈だ。そう思わないか爺さん」
「それがどうしたってんだ」
「黙っててやることだ」と旅装の客はいった。「爺さんが本当のことを知ってると聞いたら、高次という人はよろこぶだろう。一人でも知っていてくれると聞けば、その人はきっと本望だと思うに違いない。それでいいんだ、それでいいんだよ爺さん。もうその話はしなさんな」
「いってえ、おめえは誰だ」と老人は顔をあげた。「おめえは、いってえ、なに者だ」
 老人は相手を見た。涙で濡れ、やにの溜った眼でじっと見あげた。旅装の客も、その眼を見返した。それからやさしくうなずいた。
「――旅の者だよ」そして静かに出ていった。
 行燈にとまっていた蝶が飛びたち、はたはたと舞って、まるでなにかを追うように、出入り口から外へ飛び去った。
「おやじ」と六兵衛が云った。「済まねえがもう一本」
 向うの老人は気のぬけたように、茫然と宙を眺めていた。





底本:「山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま」新潮社
   1983(昭和58)年1月25日発行
初出:「家の光」
   1954(昭和29)年6月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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