新八の顔は血のけを失って
「打ちこめ、来い」と六郎兵衛が云った。
新八は夢中で打ちこんだ。相手の姿はそこになかった。新八は踏み
道場の一隅で、野中、石川、藤沢の三人が見ていた。
「ひどいな」と石川兵庫介が呟いた。
「いつものことだ」と藤沢
「このごろずっとあんなふうだ、あれは稽古じゃあない、
「なにかわけがあるな」
「もちろんだね」と内蔵助が囁いた、「われわれにはわからない、なにもかも秘密だ、あの少年は野中といっしょに住んでいるんだろう、野中は監視役らしい、どうやら逃げださないように監視を命じられているらしいが、だがどんな事情で、なんのために
「わからないことはほかにもずいぶんある」と兵庫介が囁いた、「われわれの毎日の生活も、これからどうなるのか、あすの日どんなことが起こるか、なにもかもわからない、おれたちはまるで、柿崎に飼われている労馬のようなものだ」
「みんなで相談をし直そう」
「おれは幾たびもそう云った」と兵庫介は唇を曲げた、「この道場と、牝犬のように淫奔なあの三人の女と、柿崎の
「みんなで相談をしよう、今夜にでもみんな集まるとしよう」
「だが、問題は食うことだ」
「むろん眼目はそのことだ」
「みんな食いつめたあげくのなかまだ、食えないことの辛さは、みんな骨身にこたえているからな」
「おれはあの人に会った」と藤沢内蔵助が囁いた。
兵庫介は訝しそうに彼を見た。
内蔵助は一種のめくばせをし、すばやく囁いた、「いつか西福寺へ来た人だ、しかしそれはあとで話そう」
新八は自分の袴の裾を踏みつけて、前のめりに転倒した。躯じゅうの力がなくなっていたから、
「立て、新八、まだ稽古は終らないぞ」
六郎兵衛は冷やかに云った。彼は稽古着ではなく、
「起きろ」と云って六郎兵衛は、革足袋をはいた足で、新八の肩を押しやった。
「それはひどい」と石川兵庫介が云った、「いくらなんでも足にかけるのはひどい、それはあんまりだ」
「では代ってやるか」と六郎兵衛がそっちへ振返った、「石川自慢の
兵庫介は顔色を変えた。六郎兵衛の唇に冷笑がうかんだ。彼はあざけるように云った。
「蔭でこそこそ耳こすりをするほうが、木剣を使うより身についたらしいな」
「なんですって」
「もういちど云おうか」
兵庫介は立った。野中が「待て」と云ったが、彼は木剣架けへとんでゆき、自分のを取って、道場のまん中に立った。
「いさましいな」と六郎兵衛が云った。
そして「野中」と木刀を振りながら、「新八を伴れていってくれ」といった。
野中又五郎はなにか云おうとした、六郎兵衛の前までいったが、なにも云わずに、新八を抱き起こし、肩に担いで出ていった。
「柿崎さん」と藤沢内蔵助が云った、「石川の躯は酒で弱っています、どうか加減してやって下さい」
「いいか」と六郎兵衛が云った。
兵庫介は木剣を構えた。顔色も悪いし、足もきまっていない。ただ眼だけが憎悪の光を放っていた。
「いいのか」と六郎兵衛がまた云った。
兵庫介は怒号して打ちこんだ。六郎兵衛は右へひきながら、木剣を振った。烈しい音がして兵庫介の木剣が飛び、彼は三間ばかりのめったが、危うく
「拾え」と六郎兵衛が云った。
兵庫介は木剣を拾った。藤沢が「石川」と叫んだ。
「とめるな」と六郎兵衛がどなった。
内蔵助は立って、二人のあいだへ割って入ろうとした。しかしそれより早く、兵庫介が打ちこんだ。打ちこんで来た兵庫介を、体当りになるほどひきつけておいて、六郎兵衛はさっと左にひらきながら木剣を振った。
青竹の節を抜くような、ぶきみな音がし、兵庫介は苦痛の叫びをあげて転倒した。木剣を持った手が
「柿崎、やったな」
兵庫介はそう叫んで、起きようとして、また苦痛のためにするどい
藤沢内蔵助は木剣架けへ走ってゆき、自分の木剣をつかみ取った。そのとき野中又五郎が戻って来た。彼は倒れている石川を見るなり、藤沢がなにをしようとしているかを察した。又五郎はとびかかって藤沢を抱き止めた。
「放せ、放してくれ」と内蔵助は叫んだ、「石川は腕を折られた、彼が酒で弱っているのを知っていながらやったのだ、あまりにむごすぎる、放してくれ」
「放してやれ、野中」と六郎兵衛が云った、「そいつも片輪になりたいんだろう、どうせなかまを裏切るやつだ、片輪にしてやるから放してやれ」
「私がなかまを裏切るって」
「おれは眼も耳もある、知っているぞ」と六郎兵衛は云った、「おれが奔走してここまでこぎつけ、みんなの生活の基礎ができかかっているのを、その二人はぶち壊そうと企んでいるのだ」
「これがなかまの生活か」と藤沢が叫んだ、「われわれには
「よせ、藤沢、やめてくれ」
又五郎は彼を制止し、羽交いじめにしたまま、控え所のほうへ強引に伴れ去った。そのあいだ内蔵助は「恥を知れ」とか、「いまに思い知らせてやるぞ」などと喚いた。
藤沢をなだめておいて、兵庫介を伴れに戻ると、六郎兵衛は吐き捨てるように、二人ともすぐに放逐しろと云い、自分の木剣を片づけて奥へ去った。
兵庫介は泣いていた、「ばかなことをした、おれはばか者だ、ゆるしてくれ野中」
「歩けるか」
又五郎は彼を支えながら立たせた。すると、まだ木剣を持ったままの腕がぐらっと垂れ、兵庫介は「あっ」と悲鳴をあげた。又五郎はその腕をそろそろと持ちあげ、木剣を放させてから、ゆっくりと控え所へ伴れていった。
「いま医者を呼んで来る」
「いや、おれは此処を出る」と兵庫介は云った。
藤沢もそうすると云い、すぐに支度を始めた。
「待ってくれ、それはいけない、そうしてはいけない」と又五郎は二人に云った、「せっかくここまでやって来た、ようやくひと息ついて、これからというところへ来ているのに、こんなことでなかま割れをしてどうするんだ」
「野中はおれの云ったことを事実とは思わないか」
「それを云うな」と又五郎は
「いやおれは云う」
「まあ聞いてくれ」と又五郎は片手をあげた、「藤沢の云うことはわかる、それが事実だということも認める、しかし、お互いが自分のいいぶんを固執するとしたら、柿崎さんには柿崎さんの云いぶんがあるだろう」
「柿崎に云いぶんがあるって」
「そうだ、しかしいまは石川の腕の手当をしなければならない」
「石川はおれが伴れてゆく」と内蔵助は云った。
「そう云わずに頼む」
「止めるな」と内蔵助は声をひそめ、じっと又五郎をみつめながら云った、「野中は誠実な人間だから云うが、おれはいつか西福寺へ来た人にまた会った、そしてすべてを聞いた」
「西福寺へ来た人――」
「おれたちに柿崎とはなれて扶持を取らぬかと、さそいに来た人があったろう」と内蔵助が云った、「おれはあの人に会った、あの人は
「すべてとはどんな事だ」と兵庫介が
「あとで話そう」と内蔵助は云った、「おれは島田にも、砂山、尾田にも話す、おれたちは今夜、西福寺に集まって相談する、野中もよかったら来てくれ」
「わからない」と又五郎は苦しそうに答えた、「私はこんなふうに別れ別れになることは反対だ、だが、みんなが集まるなら、はっきり約束はできないが、ゆくかもしれない」
「待っている」と内蔵助は又五郎の眼をみつめ、「おれは野中を信じるぞ」と云った。
又五郎は頷いた。
藤沢内蔵助は部屋へゆき、自分と兵庫介の荷物をまとめて戻ると、兵庫介をたすけながら出ていった。又五郎は「待て」と呼び止め、二人の木剣を持っていって渡した。
「では今夜、西福寺で――」と内蔵助が云った。
二人を送りだしてから、又五郎は新八の部屋を
六郎兵衛は酒を飲んでいた。六郎兵衛の左右に二人の女がい、他の一人が行燈に火をいれていた。
又五郎がはいってゆくと、六郎兵衛は「出ていったか」と訊いた。又五郎は頷いて、そこへ坐りながら、話したいことがある、といった。六郎兵衛は彼に盃をさし出した。
「私は飲みません」
「今日はつきあってくれ」
「私が飲まないことは知っておいででしょう」と又五郎はいった、「それより二人だけで話したいのですが」
「話す必要があるのか」
又五郎は黙った。
六郎兵衛は彼を見て、女たちに手を振った。女たちが出てゆくと、六郎兵衛は簡単にたのむといった。又五郎は藤沢内蔵助らのことを話した。今夜かれらが西福寺に集まること、その結果は、おそらく五人とも道場から去るだろうこと、などを話した。
野中はさそわれなかったのか、と六郎兵衛が訊いた。さそわれました、と又五郎はいった。藤沢は私を信ずるといって、みんなで集まろうとさそったのです。それをおれに密告したわけか。私はかれらを去らせたくないのです、と又五郎はいった。おれは去る者は追わないぞ。しかし、五人に去られては道場はやってゆけなくなります。なに、かれらぐらいの人間なら五人や七人すぐに集まる。そうかもしれません、しかし苦労をともに
「それはおれの云いたいことだぞ、野中」と六郎兵衛がいった、「なるほどおれは贅沢をしているかもしれない、しかしこれはおれ自身どうにもならないことだし、おれにはこのくらいの贅沢はゆるされてもいい筈だ」
「それはみんな承知しています」
「いやわかってはいない」六郎兵衛は椀の蓋へ酒をついで
「柿崎さん」
「本当だ、おれは妹を
六郎兵衛はまた酒を呷った、それが伊達兵部をつかむ機縁になった、妹のみやから、伊達家に内紛のあるのを聞き、その主人の渡辺九郎左衛門が暗殺されて、妹が逃げ帰ったとき、彼は「ここに運がある」と思った。たしかに運があった。
伊達家の内紛には、兵部宗勝の野心が強く作用している。それらの事情は渡辺九郎左衛門の口から、妹が聞きだしていたし、九郎左衛門が暗殺されたことで、兵部の野心がいかに大きく、根強いものであるかが推察された。そこへ宮本新八という者が、手にはいった。新八の云うことは、彼の推察がまちがいでないことを証明した。
そして彼は兵部をつかんだ。六郎兵衛は兵部に月づきの扶持を約束させ、その金でここに道場をひらいた。当時は江戸市中にも町道場などは極めて少なかったが、彼は高額の謝礼を取り、初心者を入門させず、主として諸侯の家へ出稽古をする、という方法をとった。
これが相当うまくいった。町道場というものが
「かれらは現在のおれを非難する、ここへもって来るまでにどんなことがあったかも知らず、おれがどんなおもいをしたかも知らない、ただこの道場がうまくいっていることだけみて、おれ一人が贅沢をしていると非難し、おれを裏切ろうとするんだ」
「私もそこまでは知りませんでした」又五郎は頭を垂れた、「みやどのにそんな事情があるとも知らず、御厚意にあまえていたのは相済まぬと思います」
「それを云わないでくれ」と六郎兵衛は眼をそむけた。
「野中だけは信じているからうちあけたのだ、それも、正直にいえば誇張がある、妹を妾に出したのは、おれ自身、うまいものを喰べ、酒を飲みたかったからだ」
六郎兵衛はそこで居直るように云った、「みんなにも分けたが、腹を割って云えば自分が飲み自分が楽に暮したいためだった、おれは、そのために苦しいおもいをした、このおもいは口では云えない、おれは寝ても起きても、いやよそう、おれは代価を払った、まだ野中にも話さないことがいろいろある、ずいぶんある」
六郎兵衛は顔を
六郎兵衛は明らかに混乱していた。しかし又五郎は感動した。六郎兵衛がそんなようすをみせたことは、これまでに一度としてなかった。
彼はいつも冷やかに、きりっととりすましていた。自分のまわりに眼にみえない垣をめぐらして、そこから中へは誰も近よせないし、自分もそこから出ようとはしなかった。その彼がいま自分をさらけだしてみせた。全部ではないし、まだどこかにごまかしがあるようだ、けれども彼は、初めて自分の弱さを告白した。
――妹をかこいものにしても、楽な生活や充分な酒食を欠かすことができない。
そのために苦しいおもいをし、自分で自分を責めながら、しかも、やはり妹に身を売らせていたという。おれは代価を払った。という六郎兵衛の気持は、又五郎にはおよそ理解できるように思えた。
「二人でやろう、野中」と六郎兵衛は云った、「おれは必ず世に出てみせる、野中にもむろん、槍を立てて歩ける身分を約束しよう、おれが無根拠にこんな約束をする人間でないことは、野中はわかってくれるだろう」
「私はまずこの道場を守ってゆきたい」と又五郎が云った、「これをつくるまでに払われた努力や犠牲を考えると、ここで投げるなどということは絶対にできない、なにを措いても道場の持続を計るべきだと思います」
「しかしかれらは戻っては来ないぞ」
「私が話します」
「おれの恥をさらしてか」
「みやどののことは口外しません、但し、貴方はどうか譲歩して下さい」
「謝罪しろというんだな」
「貴方の暮しぶりを改めてもらいたいのです」
「たとえば」
「あの女たちを道場から出して下さい、よそへ囲って置かれることは自由ですが、この道場からは出して下さい」
「おれは石川の腕を打ち折っているぞ」
「そのことは私が話します」
「その問題がさきだ」と六郎兵衛は云った、「かれらと話して、かれらが
「とにかく話してみます」
「おれの条件を忘れないでくれ」
又五郎は頷いた。
新八もどうやら元気を
年があけて、万治四年(この年四月に「寛文」と改元)の正月二十日に、浅草材木町の家へ、おみやが帰って来た。五日まえ、――新八は元服していたが、おみやは、初めて見る彼の男になった姿に、まあと眼をほそめて、しばらくうっとりと見まもっていた。
又五郎は道場へでかけたあとであった。
新八は妻女のさわと娘のお市をひきあわせた。さわは寝ていたが、自分たち一家が世話になっている人の妹だと聞いて、いそいで起きて接待しようとした。娘のお市はそれをとめ、「もう自分も十歳になったのだから」などと云いながら、手まめに茶を
「早く外へ出ましょう」
茶をひとくち
「外出は禁止なんです」
「あたしが断わってよ」
「野中さんに気の毒なんです、柿崎さんは怒るにきまっていますから」
「ではあんた、ずっと家にいるっきりなの」
「一日おきに道場へゆきます」
新八は暗い顔をした。おみやはそれを見て、およそ事情がわかったようであった。
「ちょっと出ましょう」とおみやは云った、「あたしがあとで兄に云うからいいわ、いま断わって来るから支度をしてらっしゃい」
新八はためらったが、おみやは立って隣りの部屋へゆき、寝ているさわに断わりを云った。
さわはしぶった。
「あら、支度をしないの」おみやは坐ったままの新八を見て云った、「お屋敷では
おみやは自分で新八の着替えを出し、せきたてて支度をさせた。彼女がなんのために伴れ出そうとしているか、いっしょに出るとどんなことになるか、新八にはよくわかっていた。
――きさまは自分に誓った筈ではないか。
彼は自分に嫌悪を感じた。新八は自分に誓った。もうおみやの誘惑には負けまい、どんなに誘惑されても必ず拒絶しよう。それは、良源院から宇乃を伴れ出そうとして、宇乃の前に立ったとき、宇乃の清らかな眼で、まっすぐにみつめられたときのことであった。おれは汚れている、と新八はそのとき思った。彼は柿崎六郎兵衛の云うことを信じ、宇乃と虎之助を保護するために、伴れ出しにいったのであるが、宇乃の美しく澄んだ眼で、まっすぐにみつめられたとき、すぐには舌が動かなかった。
そのとき彼は、自分が汚れていること、姉弟を伴れ出すのも
おれは立直ろう、と新八は自分に誓った。立直る第一はおみやの誘惑を拒絶することだ。幸いおみやは屋敷奉公に出ていたし、野中の家族と暮し始めて、日常もかなり変化した。一日おきに駿河台下の道場へかよい、六郎兵衛に稽古もつけられる。その激しい稽古ぶりは容赦のないもので、たぶん、畑姉弟の誘拐に失敗したことを責める意味もあったろうが、しかし彼は、すすんでその「責め」を受けいれた。それはむしろ、自分を鍛え直すのによい機会だと思った。
そうしていま、おみやが宿下りで帰って来、彼をさそい出そうとするいま、新八には拒絶できないことがわかった。彼は自分を
――まだそうきまったわけではない。
新八は心のなかで云った。どこかで食事でもするつもりかもしれないし、いざとなったときはっきり態度をきめればいい。そう自分に云い含めながら、彼は野中の家族の顔を見ることができなかった。
「いってらっしゃいませ」お市は送りだしながら云った、「なるべく早くお帰り下さいましね」
新八は黙って頷いた。
二人が路地へ出ると、隣家のお久米が格子越しに声をかけた。おみやはそっけなく挨拶をし、新八をせきたてて通りへ出た。
「逢いたかったわ」おみやはすばやく囁き、
「
「どこへゆくんですか」
「向島よ」とおみやが云った、「このあいだ、お屋敷のお
おみやはうきうきしたようすで、ながしめに新八を見た。新八は赤くなって、眼をそらした。おみやは
そのとき両国橋は、それまでの位置より少し川下へよったところに、新らしく架け直す工事をしていた。おみやと新八は真崎まで駕籠でゆき、そこから舟で向島へ渡った。
おみやが案内したのは、牛の御前の社から長命寺へゆく途中で、
釜戸の前から立って来た老婆は、二人を見ると心得たようすで、あいそを云いながら「どうぞこちらへ」と土間を裏へぬけていった。
おみやは新八を座敷へあげてから、紙に包んだものを老婆に渡し、なにか囁いた。老婆は承知して去った。
「あら、来てごらんなさい」おみやは濡縁に立ったままで云った。
「ちょっと来てごらんなさい、梅が咲いていることよ」
新八は坐ったままそっちを覗いた。梅の木はみな古く、
「この辺は暖かいのね」
おみやはそう云いながら、こちらへはいって障子をしめ、とびつくように、坐っている新八に抱きついた。新八はぶきように拒んだ。
「逢いたかったわ」おみやは躯を放して云った、「あなたはなんでもなかったのね、新さん、そうでしょ、あたしがいないからせいせいしてたんでしょ、ねえそうでしょ」
新八は赤くなり、なにか云おうとしたが、言葉が出なかった。そのとき、濡縁のところへ人の来る足音がし、「ここへ火を置きます」と云う娘の声がした。おみやが立ってゆくと、濡縁に
おみやは茶を淹れながら、はっきり仰しゃいな、と云った。本当はあたしのことなんか忘れてたんでしょ、ことによると隣りのお久米さんとでもできたんじゃなくって、そうでしょ新さん。ばかなことを云わないで下さい、と新八が云った。あら、あんた赤くなったわね、ちょっとあたしの眼を見てごらんなさい。あたしの眼をまっすぐに見るのよ。よして下さい、そんな冗談はたくさんです、と新八は顔をそむけた。
「私はそれどころじゃあなかったんです」と彼は云った、「一日おきに道場へかよって、柿崎さんに稽古をつけられているんです」
「まあ、兄から、じかに」とおみやは眼をみはり、新八に茶をすすめながら、「それでわかったわ」と眉をひそめて云った。
「なんだか
新八は眼を伏せた。おみやは敏感に彼の表情を読んだ、「なにかあったのね、新さん」
それは、と新八は口ごもった。おみやはいきごんで問いつめた。話してちょうだい、いったいなにがあったの、聞かないうちはおちつかないじゃないの、としんけんに云った。
新八はためらった、「このあいだ、柿崎さんが」と彼は
「石川さんの腕を折ったんです」
「石川さんて誰なの」
「道場にいた石川兵庫介という人です」
おみやは頷いて、「ああ、兄の厄介者ね」と云った。そのとき庭で小鳥の声がした。
二人は気がつかなかった。
おみやが兄の「厄介者」と云うのを聞いて、新八は、びっくりしたように彼女を見た。その、むぞうさな調子にこもっている、
――なにもしないのは柿崎さん一人だ。
と新八は思った。へんな女を三人も置いて、なにもしないで贅沢ばかりしているじゃないか、それが
おみやが、「なにをそんなにじろじろ見るの」と云った。その人の腕をどうして兄が折ったのか、なにが原因でそんなことになったのかと、おみやは訊いた。
「私に稽古をつけるのが乱暴すぎる、と石川さんが云ったんです、それで柿崎さんが怒って、二人で試合をしたんですが、石川さんはずっと酒を飲みつづけて、躯が弱っていたそうですし」
「兄は強いのよ」とおみやが遮って云った、「いつか話したでしょ、五人か六人の侍が刀を抜いてかかったのに、兄は素手に扇子を持っただけでみんなをやっつけてしまったわ、その人が躯が弱っていなくっても、兄には勝てやしないことよ」
「たぶん、そうでしょう」と新八が云った、「しかしそれなら、なにも腕を打ち折らなくともいいでしょう、それほど強いのなら、あたりまえに勝つだけでいいと思います、侍の右の腕ですからね、もう石川さんは一生刀が使えませんよ」
「でも侍同士の勝負なら、打ちどころが悪くて死んだっても文句はない筈でしょ」
「けれどもなかまですからね」と新八は云った、「私はくたくたになって、野中さんに部屋へ
「いいじゃないの、出てゆかれて困るような人たちでもないんでしょ」
「私はよく知りません」と新八は云った。
しかし二人だけではなく、他の三人も出てゆくようすで、みんなが西福寺へ集まった、と新八は云った。五人ともですって。そうです。それでどうなったの、とおみやが訊いた。野中さんがなだめにゆきました。と新八が云った。帰ったのはずいぶんおそかったから、なだめるのに骨がおれたのでしょう、でもみんなは「柿崎さんが謝罪するなら」という条件で、思い止ったということです。
そのとき庭さきで、老婆の声がした。
「ちょっと待って」とおみやは新八に云って立っていった。
老婆が娘と二人で、そこへ膳の支度をして来ていた。おみやはそれらをはこびこんだ。三品ばかりの皿と鉢に、酒が付いていた。もちろん料理茶屋などはないじぶんのことで、その
おみやは
「私は詳しいことは知りませんが、とにかくみんな道場へ戻ることになりました」
「それはその筈よ」とおみやが云った、「あの人たち兄からはなれたら、その日から食うにも困るんだわ、これまでずっと兄の世話になってたんだし、出てゆけるわけがないことよ」
「それが、そうではないらしいんです」と新八が云った、「これも詳しいことは知りませんが、道場を出れば扶持を呉れる人がある、というんです」
「あらそうかしら」
「まえにもいちど話しがあって、月に幾らとか、相当な扶持を
「それで、こんどはこっちから泣きついたってわけね」
「いいえ、藤沢内蔵助さんが偶然その人に会って、また話しをもちかけられたのだそうで、しかもそれは、柿崎さんの世話をしているのと同じ人だということです」
「兄の世話をしているんですって」
新八は「そうです」と眼を伏せながら云った、「それは一ノ関さまの御用人だということでした」
おみやは眼をみはった、「一ノ関といえば、伊達兵部さまのことじゃないの」
「そうです」
「だって兄が兵部さまの世話になるわけはないでしょ、兄はあたしの主人やあなたたちの親の
「そう云われました」
「それで一ノ関の世話になってるなんておかしいじゃないの」
「でもそれが事実らしいんです」と云って新八は言葉を切った。
おみやは燗鍋の酒を
「わけがあるのよ」とおみやは盃に口を当てながら、なにか考えるような眼つきで云った、「そうよ、なにかわけがあるんだわ、兄はびっくりするほど知恵のまわるところがあるんだから」
新八は黙って酒を啜り、
「それで、その人たちみんな道場へ帰ったのね」
「石川さんは帰りません」
「腕を折られた人ね」
「そうです、いつかこの恨みは必ずはらしてみせると云って、一人だけ西福寺からどこかへいってしまったそうです」
「よせばいいのに、ばかな人だわね」
「なにがばかですか」と新八が訊いた。
その調子が強かったので、おみやは
「だって恨みをはらすなんて」とおみやが云った、「
「そうですね」
「へたなことをすれば、こんどは命までなくしてしまうわ、みんな兄の強いことを知らないのよ」
「そうですね」と新八は云った。
そう云いながら、彼はふと、石川さんはきっとやるぞ、と思った。片腕になったからこそ、石川さんはきっとやるに相違ない、と新八は思った。
「もうそんな話しはやめ」おみやは
「これで充分です」
「じゃああたしのほうからいくことよ」
「私は帰ります」新八は盃を置いた。
「なんですって」
「私は帰ると云ったんです」
「なぜそんな意地悪なことを云うの」
「私は」と新八は唇をふるわせた、「私は、自分が厄介者だ、ということに、今日はじめて気がつきました」
「なにを云うの新さん」
「私はなにもせずに、柿崎さんや
「よして、よしてちょうだい」
おみやは立って、新八にとびつき、避けようとする彼を両手で抱いた。
「なにを急にへんなことを云いだすの、なにが気に障ったの、あなたが厄介者だなんて誰が云って」
「放して下さい」彼は身をもがいた。
「いや、新さんたら」
新八は女の手をふり放した。おみやは「新さん」と叫び、立って逃げようとする新八に、うしろからしがみついた。いまだ、と新八は心のなかで叫んだ。この女と別れるのはいまだ、いまこそきっぱり片をつけられる、逃げろ、たったいまここから逃げだしてしまえ。
新八は女の腕を放そうとした。おみやはひっしにしがみつき、意味のないことを叫びながら、彼をひき戻そうとした。新八はよろめいた。その手を思いきってひと振りすればいいのだ、しかしその力は出て来ず、
新八は自分が崩れおちるのを感じた。おみやの両腕が頸に絡みつき、袖が
「放して下さい」
新八は顔をそむけ、彼女の腕をつかんで力まかせにもぎ放した。おみやが「痛い」といった。新八は女を突きとばし、障子をあけて濡縁へ出た。おみやは膳の上へ転んだらしい、皿や鉢の割れる音とともに「新さん」という叫び声が聞えた。
「待ってちょうだい」
新八は草履をはいた。するとおみやが濡縁へ出て来て、哀願するように云った。
「あたしを置いてゆかないで、新さん、お願いよ、戻って来てちょうだい」
新八は梅林のところで立停った。
「戻って来て」とおみやが云った。
「そのままゆけやしないわ、あなた刀を忘れていてよ」
新八は反射的に腰へ左手をやった。両刀とも座敷へ置いたままである。彼は唇を
新八は走りだした。
「新さん、待って、新さん」
おみやの泣くような声が追って来た。
新八は梅林をぬけていった。花の咲いている枝があり、花の香がつよく匂った。梅林の端に竹の四目垣がまわしてある、新八はそれを
風のない、晴れた日であったが、刈田の
「やったぞ、おれは逃げたぞ」新八は
彼は土堤へあがった。
いっそこのまま出奔しようか、新八は歩きながら考えた。刀を差していないので、腰がなんとなく不安定に軽い。そうだ、おれはもう元服もしたことだ、土方人足になっても、自分ひとりぐらい食ってゆけるだろう。そうだ、このまま出奔しよう、と彼は考えた。
材木町の家へ帰れば、またおみやにつきまとわれるだろう。そして、柿崎六郎兵衛もたのみにはならない、と彼は思った。たのみになるどころか、彼は逆に、おれを利用してさえいるようだ。――新八は歩きつづけた。
そうだ、柿崎はおれをなにかに利用している。妹に妾奉公をさせていた彼が、いまでは道場のあるじになり、女を三人も使って贅沢な生活をしている。いったいどこからそんな金が出たのか、そうだ、いったいどこからそんな金が出たのか。寺へかよいだいこくにいっていた妹も、いまではどこかの武家屋敷へ奉公にいっている。もう妹に
「一ノ関」新八は唇を噛んだ。
藤沢内蔵助らの話しが、いまべつの意味で思いだされた。一ノ関の用人が扶持しようという、同じ人の手から柿崎にも扶持が来ている。とすれば、そのたねはおれだ、と新八は思った。
「柿崎は畑姉弟をも、そうだ、畑姉弟をも手に入れようとした、姉弟を保護するためではない、おれと同じように自分の手に入れて、一ノ関から金をひきだすたねにしようとしたのだ」
おれはめくらでばかだった、と新八は思った。藤沢たちの話しを聞いたとき、すぐ気がつかなければならない筈だった。
「そうだ、おれはばかだ」彼は立停った。
「逃げだそう、このまま逃げてしまおう」
彼はそう
そこは両国橋の上であった。少し川下によったところで、架橋工事をしていた。それは、両国橋を新らしく架け変えているのであるが、水に浸り泥まみれになって、
彼は顔を歪め身ぶるいをした。あれがやれるか。自分にあの仕事ができるだろうか、と新八は考えた。そのとき、彼の背にそっと手が当り、「新さん」と囁く声がした。
新八はゆっくり振返った。おみやが立っていて、にっと彼に頬笑みかけた。新八はまた顔を歪めた。
「ひどい人、どうしたの」
おみやは
――拝謁の式が終りました。
「もようを聞こう」
――召されましたのは十九人、城中千帖敷の廊下の間にて、老中がた列座のうえ謁をたまい、次のような拝領物がございました。
総奉行 茂庭周防 白銀百枚、時服 十。
奉 行 片倉小十郎 同百枚、同十。
同 後藤孫兵衛 同三十枚、同五。
同 真山刑部 同三十枚、同五。
その他目付役以下十五人。
里見十左衛門。但木 三郎右衛門。秋保刑部 。大山三太左衛門。郡山 七左衛門。荒井九兵衛。里見庄兵衛。境野弥五右衛門。志茂十右衛門。大条次郎兵衛。北見彦右衛門。横田善兵衛。剣持八太夫。上野三郎左衛門。小島加右衛門。
右の者たちには、それぞれ白銀二十枚、時服四ずつを賜わりました。奉 行 片倉小十郎 同百枚、同十。
同 後藤孫兵衛 同三十枚、同五。
同 真山
その他目付役以下十五人。
里見十左衛門。
「お声はなかったのか」
――松山(茂庭)どの白石(片倉)どのに、ながながの普請ほねおりであった、と上さまよりお言葉がございました。
「これで小石川普請も終ったわけだな」
――総工費の積りが出ました。
「わかっている」
――一分判にて十六万三千八百十六切、小判で四万九千五百両ということですが。
「それはわかっている」
――次に、松山どのが厩橋(酒井忠清)さまに辞任の意をもらされました。
「辞任の意だと」
――御用疲れもあり、近来とかく病気がちなので、国老の役を辞したいと思う、と申しておられました。
「松山が辞職、あの周防がか」
――いずれ両後見より改めて願い出ると、松山どのは申され、厩橋さまは聞きおくと答えられました。
「それは意外だ、おれには信じられない」
――はあ。
「松山は奥山大学の密訴の件を知っている筈だ、たしかに彼の耳にはいっている筈だし、なにか対抗手段を
――しかし辞意は固いようでございます。
「信じられない、ここで辞任することは、大学に対して旗を巻くことになる、松山の気性でそんなことができるとは思えない」
――なにか仔細があるのかもしれません。
「辞意がたしかなら仔細がある、そうだ、松山の辞任にはなにか理由があるぞ」
――申上げます。
「内膳か、なんだ」
――ただいま一ノ関から書状が届きました。
「使者は誰だ」
――相原助左衛門でございます。
「
――
「なんと書いてある」
――船岡(原田甲斐)どのには、やはりなにも変った行動はみえない、とあります。
「涌谷との往来はどうだ」
――まったくないといいます。
「仙台でもか」
――原田どのは船岡にこもったきりらしゅうございます。
「仙台へは出ないのか」
――国目付衆が下向すれば、仙台へ出なければならぬでしょうが、まだ帰国して以来ずっと船岡にこもったままのようです。
「今年の国目付は」
――使番の荒木十左衛門どの、桑山伊兵衛どので、五月一日に出発されます。
「そのとき注意するようによく申してやれ」
――承知いたしました。
「国目付が到着すれば、涌谷も仙台へ出ずばなるまい、そのとき眼を
――申し遣わします。
「甲斐は船岡でなにをしておる」
――例によって山小屋にひきこもり、樹を
「変った男だ」
――昔からでございます。
「そうだ、昔からあんなふうだ、
――原田どのの人徳でございますな。
「たしかに一種の人徳だ、それが山小屋にこもると、まるで人間が変ってしまう、おれは出府する途中たち寄って、この眼で二度そのようすを見た」
――いちどは私がお供をいたしました。
「そうだ、隼人もそれをいちど見ている」
――あれは十一月でございましたな。
「
――二十貫もある大きな猪でございました、原田どのは
「隼人は吐きそうな顔をしておったぞ」
――私は半分も見てはいられませんでした。
「おれはよく覚えておる、粉雪まじりの風のなかで、双肌ぬぎになった彼の、筋肉のこりこりした
――私はあの肉は喰べませんでした。
「あれは正真正銘の山男だ、裸馬に乗って駆けまわり、けものを狩り、けものの肉を食い、
――私にはわかりません。
「なにがわからぬ」
――ふだんの原田どのと、山小屋にこもっている原田どのと、どちらが本当の原田どのか、ということがです。
「どちらも本当の甲斐だ、彼のなかには二人の甲斐がいる、人間には誰しもあることだが、彼のばあいは極端なだけだ」
――書状にはもう一つございます。
「なんだ」
――原田どのの内室が松山へゆき、そのまま六十日あまり滞在しているとのことです。
「なにかあったのか」
――松山で佐月(茂庭周防の父)どのが病気をされ、その看護にゆくというので、わかりしだい申上げるとございます。
「わかった」
――書状はそれだけです。
「柿崎のほうはどうだ」
――なにも変ったことはございません。
「出奔した男はどうした」
――石川兵庫介という者ですが、まだゆくえが知れぬもようでございます。
「あれは十二月のことだな」
――ただいまが四月ですから、もうあしかけ五つ月になります。
「柿崎の扶持は」
――減らしました、六人の組が欠けたのを理由に、正月から五十金にいたしましたが、これは申上げたと存じます。
「彼は不服を云わぬか」
――私はもっと減らすつもりでいます。
「いそぐな、彼は使いみちがあるのだ」
――それはたびたびうかがいました。
「では彼を怒らせるな」
――そういたします。
「忘れていた、まもなく改元になるぞ」
――はあ。
「年号が変るのだ、数日うちか、少なくともこの四月ちゅうには変るだろう」
――なんと変りますか。
「寛文というそうだ、たぶん寛文ときまるだろうと聞いた」
――すると万治は三年で終るわけですな。
「そうだ」
――ふしぎな気がいたします。
「なにが」
――綱宗さまは万治元年に御相続あそばされ、去年の秋には
「うん、そして、寛文という年代こそ、隼人、この年代こそだぞ」
五月十七日に、甲斐は、山の小屋から船岡の
彼は正月十一日に江戸から帰ると、すぐに山へあがって以来、ずっと小屋にこもったままで、七日に一度、家老の片倉隼人が用務のために訪ねるほか、一人の家従も近づくことを許さず、山番の与五兵衛と二人だけで暮していた。
二月に江戸で、本邸の移転があったことも、甲斐は山の小屋で聞いた。桜田の上屋敷が、甲府綱重の本邸になるため、新たに麻布白金台に替地が与えられ、伊達家では
三月二十九日に、将軍家綱が、小石川の堀普請を上覧されたことも、四月二日に、普請奉行以下十五人が江戸城へ召され、将軍から慰労のことばと拝領物があったことも、やはり甲斐は山の小屋で聞いた。
また、江戸で茂庭周防が、首席国老を辞任したことを、五月二日に聞いたが、そのとき甲斐は、いちど館へ帰った。それは長男の
妻の
宗誠は元服して
このとき、年号が「寛文」と改元されたことや、幕府の国目付が、五月二十五日ころ仙台に着く予定だということを聞いたので、そのまえに仙台へ出るため、十七日に山をおりたのであった。
館へ着くと、甲斐は風呂にはいり、髪を洗い、髭を
甲斐は好きな
津多女は甲斐を育てるのに厳格であった。学問や武芸のことは云うまでもないが、七歳の年から、毎年、厳寒の季節になると、山番の与五兵衛に預け、甚次郎の山中にある彼の小屋で生活させた。十一月から二月半ばまで。正月の三日だけ館に帰ることを許されるが、約百日ほどは山小屋に寝起きをし、与五兵衛と同じものを喰べ、山まわりや猟もいっしょにした。
山番の小屋は他に二つあり、そこには三人ずつの番人とその家族たちもいっしょに住んでいるが、甚次郎の小屋は与五兵衛ただ一人であった。与五兵衛はそのとき三十歳を越していたが、妻を
雪にうもれた山の小屋で、そういう与五兵衛とただ二人、
「宗輔でございます――」隠居所の玄関で、甲斐はそう声をかけた。
津多女はいま一人でそこに住んでいた。甲斐の声に答えて、彼女は玄関まで出て来、彼を奥へ導いた。
甲斐は半刻ちかいあいだ母と話した。話しは低い声で、静かに続いていたが、ときどきその声が途絶えたり、また、津多女の嘆息が聞えたりした。そうしてやがて、話しを終って出て来た甲斐は、玄関で母のほうは見ずに云った。
「明日、仙台へまいります」
津多女は
「国目付が着くまでには、
「それがいいでしょう」
津多女はまた頷いた。表情に変りはないが、泣いたあとのように、その眼がうるんでいた。津多女は云った。
「佐沼(津田
「私が自分でまいります」と甲斐は答えた。
五月十八日、甲斐は船岡を立って仙台へいった。
彼の屋敷は大町にあり、隣りは北が奥山大学、南に飯坂出雲がいた。そこは広瀬川が大きく曲りこんで来る
彼はまず登城し、それから奥山大学へ挨拶にゆき、在国ちゅうの一門、一家、重臣諸家などへ使いを出し、「所労」と断わってそのままひきこもった。
三日目に奥山大学から会いたいといって来た。甲斐が挨拶にいったとき、大学は城中にいたし、甲斐は玄関だけで帰った。そのときも「所労であるから」と断わっておいたので、招きの使いにも同じことを述べて、会いにはゆかなかった。
二十三日になって、国目付衆は二十七日に到着する、という知らせがあった。同じ日の夕方、なんの前触れもなしに妻の律が来た。甲斐が風呂をつかっているうちに来たもので、風呂から出ると、律がそこに着替えを持って待っていた。甲斐は眉をひそめたが、黙って着物を着、居間へはいっていった。
仙台では、矢崎忠三郎と松原十内とが、甲斐の身のまわりの世話をする。忠三郎は
「どうぞお怒りなさらないで」と律が
甲斐は居間の端に坐って、
「怒っていらっしゃいますの」
「許しを得て来たのか」と甲斐が訊いた。律は黙ってうなだれた。
「佐月さまにも無断か」
「願っても許して下さらないのですもの、黙って出て来るよりしかたがございませんでしたわ」
「なぜ許しが出ないか、わかるか」と甲斐が訊いた。
律はゆっくりと頭を横に振った、「それをうかがいたくて、出てまいったのですわ」
「私からは話せない」と甲斐が云った。
「なぜでございます」
「話せないのだ」
「わたくしうかがわずにはいませんわ」と律は眼をあげた。
甲斐は顔をそむけた。妻の眼を避けたのでもなく、嫌悪でも怒りでもない。まったく無関心で、なんの感情もなく、漫然と顔をそむけたのであった。それが律を絶望させた。
「あなたはわたくしを離別なさるおつもりですのね」
甲斐は答えなかった。
「お返辞がないのはそうなのでしょう、そうなのでしょう、あなた、わたくしを離別なさるおつもりなのでしょう」
「声が高すぎるぞ」
「
「その話しはできない」
「わたくしにはおよそ察しがつきます」と律は声をふるわせた、「あなたは嫉妬していらっしゃるんです」
「そうか」
「わたくしのからだのことはたびたび申上げました、十年もまえからよく申上げて、だから淋しがらせないで下さい、とおたのみしてあります」
「それは聞き飽きた」
「聞き飽きるほどよく御存じでしょう、そしてあなたはわたくしの良人です」と律は云った、「わたくしのからだは自分でもどうにもならない、むりにがまんしていると気が狂いそうになります、ですから江戸番でお留守のときには、なにかでそれをまぎらわすよりほかにしかたがなかった、決してみだらな意味でなく、なんとか自分をまぎらわすよりしかたがなかったのです」
「私はそれを禁じはしなかった筈だ」
「そうです、お禁じにはなりません、でもお禁じになるよりずっと残酷でしたわ」
甲斐は黙った。
「あなたは律を避け、律から遠ざかろうとばかりなさいました、それはわたくしとあの方が」
「それを云うな」と甲斐は
「いいえ申します」
「私は聞かぬぞ」
「なぜですの、聞くことができないほど、嫉妬していらっしゃるからですか」
「なんでもいい、その話しだけはよせ」
「あなたは誤解していらっしゃるんです」と律が云った、「中黒達弥が誤解して申上げ、あなたがそれを信じていらっしゃるのでしょう、達弥はむきなだけの人間で、眼に見たものをそのままで判断したんです」
「もういちど云うが、その話しはよせ、私は聞きたくもないし聞いてもいないぞ」
「ではほかに離別するわけがあるんですか」
「私は周防に話す」と甲斐は云った。
「どうしてわたくしには話して下さいませんの、これは律の一生にかかわることでございますわ」
「私は周防に話すよ」
廊下に足音をさせて、矢崎忠三郎と松原十内の二人が、
「酒を持って来てくれ」と甲斐が云った。
「わたくしが致します」律が立とうとした。
甲斐は頭を振った。律は立ちかけた膝を元に直した。二つの燭台に灯を入れ、蚊遣のぐあいをみて、二人は廊下を去っていった。
「わたくしを信じては下さらないのですか」と律が云った、「達弥は本当のことを知ってはいないんです、あなたがわたくしにあれを許して下すったということも、わたくしがみだらなことをしていたのではないということも」
「達弥は私にはなにも云わなかった」
「でもわたくしを憎んでいますわ、わたくしが不義をしたと思いこみ、不義をするだろうと疑って、絶えずわたくしを監視していますわ」
「それももう終るだろう」と甲斐が云った。
律は泣きだした。両手で顔を
「どうしてもだめなのでしょうか」と律が云った。
「泣かないでくれ、二人は別れるほうがいいのだ、別れるほうがいいということは、おまえにもよくわかっているはずだ」
「わたくし自分が良い妻だったとは思いませんわ」
「そんなことはべつだ」
「わがままでむら気で、求めることが強くて、あなたの負担にばかりなっていましたわ、でもそれはどうにもしようのないことだったのです」
「わかっている」
「わたくしいつもあなたが欲しかったんです、あなたのぜんぶを、残らず、いつも自分のものにしておきたかったんです」と律が云った、「それなのにあなたは、いつもわたくしから遠いところにいらっしゃる、
「二人が夫婦になったことは間違っていたようだ」と甲斐が静かに云った、「おまえが良い妻でなかったと云う以上に、私が良い良人でなかったことはたしかだし、おまえが不仕合せだということも知っていた、だが、これもおまえの云うように、知っていながら私にはどうしようもなかったのだ」
律はまた
「もうきまったことだ」
「わたくし松山へは帰れませんわ」
「仙台にいるがいい」
「大町の家にですの」と律はすすりあげた。
「ここから呼べば答えられるような、あんな近いところにいろと仰しゃるんですの、ここにあなたがいらっしゃると知って、おめにかかることもできないのに、――あなたはむごいことを仰しゃるわ」
「なにがむごいかということは、やがてわかるだろう」と甲斐が云った、「たのむから泣かないでくれ、人が来る」
忠三郎と十内が膳をはこんで来た。律は立って
「十右衛門に相手をしろと云ってくれ」と甲斐が云った。
忠三郎が給仕に坐り、十内がその父を呼びに立った。松原十右衛門が来るとまもなく、化粧を直した律が戻って来、そこへ坐るなり「十右衛門」といって泣きだした。
十右衛門は頭を垂れた。
「泣くなら奥で泣いてくれ」と甲斐が云った。
律は指で眼をぬぐいながら、十右衛門と呼びかけた。
「わたくしは船岡へ帰れなくなりました」
「律、ならんぞ」
「母上さまにも
甲斐が「律」ときびしく云った。
「もうひと言だけ」と律が云った、「十右衛門、船岡へ帰ったら、宗誠に伝えておくれ、母はあなたがすこやかに成人なさるのを祈っています、母がどこかで、いつもあなたのために祈っているということを、忘れないでおくれ」
このとおり伝えてくれと云い、声をあげて泣きながら、律は乱れた足どりで、奥へ去っていった。
甲斐はなにごともなかったような、平静な顔つきで、去ってゆく妻の足音を聞いていた。十右衛門に盃を持たせ、自分も飲みはじめながら、甲斐は律のとりみだしたようすを、船岡の母や宗誠には告げぬようにと十右衛門に云った。十右衛門は「はい」と答えたが、顔をあげなかった。
律はその夜のうちに茂庭家へ去った。それは同じ大町にあり、甲斐の屋敷から北へ、奥山、古内、茂庭と続く、ほんのひと
二十五日に、伊達安芸が涌谷の館から出て来た、という知らせがあり、国目付接待のため、重臣の会合が行われた。
甲斐は欠席した。
二十六日に先触れの使者があり、二十七日に到着ということがわかった。そしてその当日には在国の一門、家老以下、町奉行までが、麻上下で城下の南、河原町まで迎えに出た。――出迎えには甲斐もいったが、時刻を計って、国目付の着く直前に、他の人たちといっしょになるようにした。
到着は午後二時であった。今年の国目付は、幕府使番の荒木十左衛門と桑山伊兵衛で、まず伊達安芸、伊達式部らの一門、一家が挨拶をし、次に国老の奥山大学、大条兵庫、古内主膳。続いて宿老の原田甲斐、遠藤又七郎。それから接待役、奉行らの挨拶が済むと、国目付は接待役の案内で、そこからすぐに宿所へ向かった。
甲斐は他の人々より先にその場を去った。挨拶をするあいだ、奥山大学が話しかけようとしているのに気づいたし、いま大学と話すことは迷惑だったので、伊達安芸にひと言だけ
二十九日、城中で両目付の
甲斐が奥山大学を避けるには理由があった。それは、兵部宗勝が後見になって、二万石加増されたとき、その領地の中へ衣川を残らず取入れた。それでは水利を独占することになるので、「片瀬片川とすべし」という論が出ていた。大学はその問題をとりあげ、評定役としての甲斐の同意を求めるに相違ない。甲斐はそれを嫌って、大学を避けたのであった。
数日して、江戸の茂庭周防から手紙が届いた。――六月中旬に、亀千代さまの髪置きの儀があるので、それを済ませてから帰国することになった。というのである、そして品川の下屋敷に綱宗を訪ねたこと、それについては会ったときに話すが、まことにいたわしい限りで、涙なしにはいられなかった、などということが書いてあった。
それまでは周防を待ってはいられないので、甲斐は船岡の館へと帰った。
茂庭周防が帰国したのは、その年十二月のことであった。周防は船岡に宿をとり、原田甲斐の館へ使いをやった。館からは家老の片倉隼人が来て、甲斐が十一月から山にこもっていること、すぐ知らせにやるから、館へ来て泊ってくれるように、と云った。
周防は従者を二人だけ伴れ、あとの者は宿に残して館へいった。山の小屋へやった使いは、
昨日の朝でかけたまま、山のどこかで鹿を追っているらしい、ときによると三日くらい小屋へ帰らないこともあるし、どの山にいるのかわからないので、捜すこともできない、ということであった。
周防はちょっと思案し「では小屋へいって待とう」と云った。しかしもう日が昏れるので、その夜は館に泊り、明くる朝早く、隼人の案内で山へ登った。
館から馬で約三十町ゆくと、甚次郎の山ふところに、日観寺という寺がある、そこへ馬を預けて、はだら雪のがちがちに凍った、急な坂道を登っていった。山といってもさして高くはない、古い杉や
台地へおりるまえに、周防は坂のおり口に立停って、しばらく展望をたのしんだ。
起伏する丘陵のかなたに、白石川の流れが見え、はるかに遠く、雪をかぶった
周防はややしばらく、眼をほそめて、遠い蔵王を眺めやった。
「そうだ、青根の湯へ寄ってゆこう」
蔵王へ登る途中に、青根の
さきに小屋へいった隼人が、引返して来て、まだ甲斐が戻っていないと告げた。周防は台地へおりていった。
小屋は樅と杉材で造った十坪ばかりのもので、土間がひろく、炉のある八帖に、
はいって来た周防を見ると、与五兵衛は黙って会釈をし、円座を直した炉端へ、手を振ってみせた。周防は上へあがった。
隼人は「館を留守にできない」旨を述べ、与五兵衛に接待を命じて、帰っていった。周防は炉端へ坐りながら、「久しぶりだな、与五」と云った。
与五兵衛はなにか噛みでもするように、口をもぐもぐさせてから「七年になるかな」とゆっくり答えた。
彼は逞しい躯をしていた。綿入れ
与五兵衛はひどく無口で、必要なこと以外には、なにを訊かれても返辞をしないし、また、甲斐のほかには、誰に対しても礼をしなかった。
かつて兵部宗勝が、二度この小屋を訪ねて来た。小屋へは人を近よせないことになっているのだが、兵部は分家の威光でむりに山へ登った。そのとき与五兵衛は礼をしなかったばかりでなく、兵部の眼の前で、さもいまいましそうに唾を吐いたりした。
「そうか、もう七年になるか」と周防が云った、「与五はいつ見ても年をとらない、七年まえと少しも変ったところがないな」
与五兵衛は黙っていた。
彼はなにも聞えなかったように、獣肉を刺して炉の灰に立ててある
「なんの肉だ、
与五兵衛は「んだ」と頷き、喰べるかと訊き返した。
「
与五兵衛はまた口をもぐもぐさせ、おらの殿さまは鹿のほかに手を出さない、と不満そうに云った。
「おらは
だが、と彼は口を動かし、頭をゆらゆらと横に振り、そして土地の
「おらは好かない」とまた与五兵衛は頭を振った、「おらの殿さまは、鹿となるとまるで人が変ったようになる、どうしたもんだか」
そして彼は黙った。
猪の肉はやがて焙りあがった。それはみな半分くらいに縮まり、たれと脂肪とが表面を包んで、焦茶色に光を帯びていた。与五兵衛はそれらを金串から抜き、戸棚から大きな木の鉢をとり出して来て、その中へ肉と、なにかの乾した葉とを、交互に詰めた。
「それはなんの葉だ」と周防が訊いた。
与五兵衛は「
そのとき二人の男がはいって来た。砦山と、
「はいるな、お客だ」と与五兵衛が云った。
二人は小屋の戸口で棒立ちになり、頭巾をぬぎながら、互いに眼を見交わした。
「おれなら構わない、入れてやれ」と周防が云った。
与五兵衛は二人に顎をしゃくってみせた。
かれらはまた眼を見交わし、ぐずぐずと
「なんだ」と与五兵衛がひどい山訛りで訊いた。
「ふじこが来ていないですか」と文造が訊き返した。
かれらの問答は、そのひどい山訛りよりも、緩慢なところに特徴があった。問いかけるにも答えるにも、おのおの五拍子ぐらい時間がかかる。相手の問いかけがわからないか、それとも云うべき言葉を忘れたのかと思われるころ、ようやく、それを極めてゆっくりと、口を切るのであった。
「ふじこがどうした」
「殿さまについていったままです」
「殿さまにだって、またか」
「おとつい出たままです」
「なにか心配になることでもあるのか」
「嫁にやるですよ」
「ふじこは、おらが家の久兵衛の嫁にもらうです」と平助が云った。
与五兵衛は平助を見、それから文造を見、そして口をもぐもぐさせた。すると、顔半分を掩っている髭が生き物のように動いた。
「殿さまは
「ふじこは、おらが久兵衛の嫁にもらうですよ」
「心配するな」
「殿さまのことは心配はしねえです」と文造が云った、「けれども久兵衛が血まなことなってるで、久兵衛はあんな人間だし、よそへ出ていたで殿さまのことをよく知らねえだし、それでもし、まちげえでもしでかすでねえかと思ったもんですから」
「あのかぼねやみが」と与五兵衛が呟いた、それから平助に向かって云った、「久兵衛は小屋か」
平助はゆっくりと首を振った。
「心配するな」と与五兵衛が云った、「殿さまは大丈夫だ、うっちゃっとけ」
「久兵衛は鉄砲を持って出たですよ」と文造が云った。
与五兵衛は平助をにらんだ、平助は小さい躯をもっと小さくちぢめ、口の中でなにかぶつぶつと云った。与五兵衛は立ちあがって、「すぐ捜しにゆけ」と云った、「待て、いま鉄砲を出してやる、あのかぼねやみめが、射ち殺してくれるぞ」
そして、彼は納戸へはいっていった。平助と文造はもそもそと蓑を着、頭巾をかぶりながら、低い声でなにか囁きあった。まもなく、与五兵衛が納戸から出て来た。彼は銃を二梃持っており、炉の火を火繩につけると、それを銃に仕掛けて、一梃を文造に渡してやった。
「
「久兵衛にですか」と平助が訊いた。
与五兵衛が「知れたことだ」と云った。
「でも久兵衛はおらの一人っ子ですがな」
「心配するな、あいつは親のおめえの首さえ絞めかねない人間だ、おめえの世話くらい小屋の者がみてくれるぞ」と与五兵衛が云った、「おまえらは北郷のほうを捜せ、おらは小坂のほうを捜す、みつかってもみつからねえでも、日が昏れたらこの小屋へ戻って来い、わかったな」
二人はゆっくりと頷いた。
与五兵衛は周防に断わりを云い、身支度をして、かれらと共に出ていった。三人が出ていって半
「仙台から使者がありまして」と喜兵衛が云った、「古内主膳さまが亡くなられたということでございます」
「古内が、――それはいつのことだ」
「昨日ということです」
「船岡はまだ戻らない」
「与五兵衛も留守でございましたか」
「いや、与五はいた」
周防は首を振って、いまの出来事を話した。喜兵衛は苦笑し、「それでは館からも人を出しましょう」と云った。久兵衛というのは怠け者で、骨惜しみをする者のことをかぼねやみというのだが、――十五歳のときに小屋を出奔し、去年の秋に帰って来た。年は二十八か九になるだろう。相変らず怠け者のうえに、酒を飲むことと、酔って乱暴する癖を身につけて来た、と喜兵衛は語った。
ふじこというのは文造の娘で十八歳になる。母親が亡くなって、いま三人の弟妹と、父親の世話をしているが、
「しかし、その娘が船岡についていったというが」と周防は訊いた、「おとつい出ていったまま帰らないと云っていたが、それはどういうことだ」
「なんと申したらよろしいか」と喜兵衛は苦笑した、「御前はああいう御性分ですから誰にも好かれます、特に女たちがそうで、やまがの娘などもよく御前につきまとっているようです、決して珍らしいことではございません」
「それで、まちがいはないのか」
「まちがい、――ああ、それはいかがですかな」と喜兵衛はまた苦笑した、「山へこもるとまるで野人のように変ってしまわれますし、私どもはお側にいませんのでよくわかりません、昔からふしぎなくらい女には潔癖な方ですが、まちがいがないかどうかということは、いかがでございますか」
「わからない男だ」と周防は嘆息して云った、「船岡にはわからないところがある、どこということはないが、ふとすると心がつかみにくくなる、あの年でそんな女どもにつきまとわれて、それを
「私は館へ帰りたいのですが」と喜兵衛が云った。
「おれは船岡に会わなければならない、古内のことはおれから話しておこう」
喜兵衛は「お願い申します」と云って去った。
甲斐が戻って来たのは、午後三時すぎたころであった。――そのまえに、周防は小屋を出てゆき、山の尾根を歩いていた。風のない、暖かな一日で、陽に蒸された枯草が、溶けて土に浸みこむ
傾いた陽が斜めからさして、透明な
若い女のたか笑いが、こんどはずっと近いところで聞えた。周防はそっちへ眼をやった。日観寺から登って来る谷のあたりで、けものの
やがて、枯れた雑木林をぬけて甲斐の登って来るのが見えた。彼は鹿の革で作った
――一人がふじこだな。
周防はそう思った。
女の一人は弓を、一人は
いまけもののように咆えたのは、甲斐だったのか。周防はそう思いながら、近づいて来る甲斐に会釈を送った。
甲斐は大股に、ゆっくりと歩いて来た。周防のいるのを認めると、女たちは口をつくんだ。甲斐は振返って、女たちから弓と壺胡を受取り、もう帰れ、と云った。
「いや、ちょっと待て」と周防が云った。
甲斐は
「まあ、鉄砲持ってだと」と女の一人が云った。
それがふじこであろう、若い
「わたし帰ります」とその女は云った、「あのいくじなしになにができるものか、わたし平気だから帰ります」
「きよきも帰れ」と甲斐が云った、「また会おう」
二人の女は去っていった。甲斐はもう見ようともせず、先に立って小屋のほうへおりていった。
周防が炉端に坐っていると、裏で水の音がした。そしてまもなく素足に草履をはいた甲斐が、
「古内主膳が死んだそうだ」と周防が云った。
甲斐は横座に坐り、炉へ
「館からさっき喜兵衛が知らせに来た」
甲斐は唇をむすんだ。
「昨日のことだそうだ」
甲斐は焚木をくべ、煙をよけるために顔をそむけた。そしてぽつんと云った。
「彼は五十三だったな」
「帰国してから会ったか」
「五月に会った、国目付を出迎えたとき、河原町でいっしょだった、目礼を交わしただけで、話しはしなかったが」
「感仙殿(故忠宗)さまの法要で高野山へいったとき、躯をこわしたのが長びいていると聞いた、もともと病弱ではあったようだ」
甲斐は箱膳をひきよせ、蓋を盆にして、茶碗を二つ出すと、
「桑茶だ、口に合わないかもしれない」
「桑茶だって」
「桑の若葉と乾した
「薬用だな」と周防が云った。
「長命をするそうだ」
周防は口をつけて、ひと口だけで、茶碗を置いた。二人ともしばらく黙った。
「律のことは、父からの手紙で知った」とやがて周防が云った、「去年、
甲斐は黙っていた。
「律を離別したのはそのためだと、父は思っているようだが、事実そうなのかどうか聞いておきたい」
「その話しは断わる」と甲斐はにべもなく云った。
「断わるって、なぜ」
「済んだことだ」と甲斐は云った。
周防は口をつぐみ、さぐるような眼で、ややしばらく甲斐をみつめた。甲斐は長い
「松山の留守の者からの知らせによると、世間では律が不義をして戻された、と云っているそうだ、その相手は中黒達弥ともう一人だと、相手の名まで出ているそうだが」
「私は世間の
「中黒達弥は船岡にいるか」
「出奔した」と甲斐が云った。
周防の顔がひき緊り、甲斐を見る眼がするどく光った、周防は「いつのことだ」と訊いた。七月、正式に律と離別した直後だ、と甲斐が答えた。
「では麹屋の友次郎は」と周防が訊いた。
「仙台にいるということだ」と甲斐が答えた。
もういちど云うが、この話しはやめにしよう。それよりも重要なことがある筈だ、と甲斐は云った。しかし不義があったかなかったかだけは聞いておきたい、と周防はねばった。家風に合わぬという理由のほかに、なにも云うことはない、この話しはもう断わる、と甲斐ははねつけた。
周防はまだ不満そうに、甲斐の横顔をにらんでいた。甲斐は立って納戸へゆき、また土間へおりて、水を入れた
「松山と会って話すのも、たぶんこれが最後になるだろう」と甲斐は云った、「律の離別で、一ノ関の思案も変ったようだ、はっきり変ったとは云えないが、国老になれとすすめて来る手紙の内容が、まえとはかなり違っている」
「断わっているようだな」
「国老はまだ早い」
「そうだろうか」と周防が反問した。
自分が辞任したあと、首席国老になった奥山大学は、しきりに一ノ関と張合っている、と周防が云った。衣川の境界の件、
「衣川の件はまだ解決しないのか」
「一ノ関は承知しないのだ」と周防はつづけた、「しかもつい最近、私が江戸を立つときに、大学は
「それは初耳だな」と甲斐が云った。
砥石の上で、彼が静かに剃刀を返すと、なめらかな石の肌で、剃刀の刃が冷たい音をたてた。
周防は語った。――伊達兵部と田村右京は、亀千代の後見になったとき、両者とも幕府
「私は
「六カ条とは」甲斐が眼をあげた。
「ここに書いて来たが」
周防は紙入の中から一通の封書と、一枚の覚書をとり出し、覚書のほうを
一、相定め候制札の事、(切支丹制札は格別の事)
一、夫伝馬並に宿送りの事
一、大鷹の事
一、初鳥、初肴、公方 様へさしあげ候事
一、他国へ人返しの事
一、境目通判の事
右のようなものであった。一、夫伝馬並に宿送りの事
一、大鷹の事
一、初鳥、初肴、
一、他国へ人返しの事
一、境目通判の事
「一ノ関が帰国のときというと、まだ申しいれてはいないのか」
「一度は申しいれたようだ」と周防が云った、「しかし一ノ関は、自分は幕府直参であるから、本藩の掟にしたがう必要は認めない、と答えたということだ」
「それは膝詰めでやっても同じことだろう」
「そのときは江戸へ出て、幕府老中に訴えるつもりでいるらしい」
甲斐は剃刀の刃へ、
「それも
「どういう手がある」
「まず船岡が国老に就任することだ」
「それはまだ早い」と甲斐が云った、「まだ私が国老になる時期ではない」
「どうしてだ」
「まだ時期ではない、と云うよりほかに理由はない」
「では吉岡(奥山大学)には好きにさせるつもりか」
「いや、なんのつもりもない」と甲斐は云った、「吉岡が一ノ関にくみさず、対抗者になってくれたのは有難いことだ、ここは吉岡を抑えるよりも、やるところまでやらせてはっきり一ノ関と対立するようにはこぶべきだ」
「しかし老中がとりあげて、家中内紛の責を問われたらどうする」
「この問題はべつだ」
「どうして」
「この問題では幕府は内紛の責を問うわけにはいかない、訴えをとりあげるとすれば、一ノ関と岩沼(田村右京)に、六カ条を承知させるよりしかたがないだろう」
「理由はなんだ」
「直参大名の名目さ」と甲斐が云った、「幕府直参となれば、知行は幕府から出るのが当然だ、それを名目だけ与えて、知行は伊達本藩から分けている、六カ条の問題はそこから起こっているので、表て沙汰にすれば、両家の知行は改めて幕府から出さなければならないことになる、そうではないか」
周防は「うん」と頷き、考えてみて、たしかに、とまた頷いた。
そのとき銃声が聞えた。谷に反響するので、たしかな方角はわからないが、あまり遠くではないらしい。一発だけするどい射撃音が起こり、それが
「鉄砲だな」と周防が甲斐を見た。
甲斐はそれには答えないで「品川のことをうかがおう」と云った。周防は、さっき紙入から出して置いた封書をとりあげ、「殿からだ」と云って、甲斐に渡した。
甲斐は披いて見た。それは下屋敷の綱宗から、周防に宛てたもので、左のような意味のことが書いてあった。
先日はここもとへまいり候て対面つかまつり満足のことに候。然れば内ない兵部どの右京どのへ申し入れたき儀ござ候。これによって書状などにては片ことのように候えば、其方と相談いたし尤もに存じ候えば其方をもって申し入れべく存じ候、……
甲斐は眼をあげて戸口を見た。与五兵衛が、片手に鉄砲をさげて、はいって来た。彼は主人を見ると、ゆっくりと頷き、そのまま裏へゆこうとした。それで甲斐が云った。「いま鉄砲の音がしたぞ」
与五兵衛は立停った。おまえ鉄砲の音を聞かなかったのか、と甲斐が
「みにいかないのか」
「飯を炊きます」と与五兵衛は云った。
銃声は一発きりだし、久兵衛が射ったにしても、一人は自分の父だし、他の一人は嫁にもらう娘の親である。間違いを起こすようなことはないだろう、と口をもぐもぐさせながら云い、鉄砲を八帖の隅へ置いて、裏手へ出ていった。甲斐は手紙へ眼を戻した。
……右の段候あいだ、其許ひましだい二三日ちゅう機嫌伺いのようにここもとへまいるべく候。
そのおりふしつぶさに申すべく候。この書状わきへもれ候えばあしく候条、亀千代乳母がところまで遣わし、いかようにも其方しゅびしだい届け候えと申し遣わし候。返事をも右の段につかまつり候て給わるべく候。謹言。
尚、必ず必ず他へもれ申さざるように相心得申すべく候。尤も二三日ちゅうにここもとへまかり出で候とも、かようわれら書状を遣わし候によってまかり出で候などと備前(品川屋敷家老、大町定頼)へ申されまじく候。以上。
甲斐は尚なお書きのところを、ややしばらく見まもっていた。周防は声をひそめ、「その文字をよく読んでくれ」と云って、眼をつむり、囁くようにそのおりふしつぶさに申すべく候。この書状わきへもれ候えばあしく候条、亀千代乳母がところまで遣わし、いかようにも其方しゅびしだい届け候えと申し遣わし候。返事をも右の段につかまつり候て給わるべく候。謹言。
尚、必ず必ず他へもれ申さざるように相心得申すべく候。尤も二三日ちゅうにここもとへまかり出で候とも、かようわれら書状を遣わし候によってまかり出で候などと備前(品川屋敷家老、大町定頼)へ申されまじく候。以上。
綱宗(書判)
周防どの「――二三日ちゅうに、ここもとへまかり出で候とも、かよう、われら書状を遣わし候により、まかり出で候など、備前へ申されまじく候、……大町などにさえ、こんな気兼をしていらっしゃる、伊達陸奥守六十万石の大守たる御身で」
甲斐は手紙を巻きおさめ、周防のほうへ押しやりながら、「両後見へ申しいれたいと仰しゃるのは、どういうことなんだ」と云った。
「第一は、御自分が無実であることを、幕府へ訴えたいと仰しゃる」
甲斐は眼を伏せた。
第二は、自分は現在でも「逼塞」というかたちで、亀千代に会うことはもとより、家臣たちと思うままに会うこともできず、保養のため外出する自由もない。これは不当である。亀千代が家督すると同時に、自分は「隠居」になった筈であるから、それだけの自由を与えてもらいたい。第三は、三沢初を正室として披露したい、右の三カ条だった、と周防は云った。
「乱暴はなさらなかったか」と甲斐が訊いた。
「乱暴はなさらなかったが」と周防は声をひそめた、「気が弱っていらっしゃるのだろう、しきりに接待の貧しいことを弁解されたり、涙をこぼされたりした、また、いつぞや船岡が来てくれたとき」
「わかった」と甲斐は顔をそむけた、「その話しはよしてくれ」
「いや、伝言なのだ、せっかく来てくれたのに乱暴をしてしまった、酔って自分がわからなくなったのだが、済まなかったと、甲斐に伝えてくれとの仰せだった」
甲斐はあるかなきかに頷いた。
二人はそのまま沈黙した。互いになにか思い
「松山は知っている筈だ」と彼は云った、「私は人の弔問や法要にはゆかない、人と人のつきあいは生きているあいだのことだ、死んでしまってからいったところで、――」
こう云って、甲斐は焚木の一本を折った。周防は不満そうに、「では葬儀にも出ないのか」と訊いた。
「お迎えにまいりました」と喜兵衛は云った。
彼のはいって来た戸口の、外は明るく、小屋の内部はひどく暗くみえた。
「寺に馬が預けてある」と周防が云った。
「そこで待っていてくれ」
「隼人に云え」と甲斐が喜兵衛に云った。
「古内へは隼人がゆくように、葬儀の済むまで仙台にいるように、と云ってくれ」
「御帰館ではないのですか」
「うん、まだ
喜兵衛は礼をし、「では日観寺でお待ちしております」と周防に云って、たち去った。
周防は支度をして、土間へおりると、そこへまた、戸口から二人の男がはいって来た。文造と平助である。平助のほうが先にはいって来たが、そこに甲斐がいるのを見ると、さも
「ござったよ」
甲斐が二人に訊いた、「久兵衛はいたか」
すると、文造は平助を見た。平助はぬいだ頭巾を指でまさぐり、
「
「鉄砲を射ったのは誰だ」
「おらが射ったです」
「なぜ射ったのだ」
平助は文造を見た。べつに意味はない、言葉が口へ出るまでに暇がかかるので、漫然とあちらを見たりこちらを見たりするだけで、かれらがしばしばお互いを見るのは、ほかを見るより気が楽だからであった。
「小屋へ帰らねえと云うだで」と平助は答えた。
裏口から与五兵衛がはいって来た。彼は濡れた
「小屋へ帰らないでどうするというだ」
平助は肩をちぢめた。殿さまをつけ
「よし、飯を喰べてゆけ」
甲斐はそう云いながら、周防を送るために土間へおりた。
「おらたちは帰るです」
「飯を喰べてから帰れ」と甲斐は云った。
周防と甲斐は小屋を出た。山の尾根へ登ると、空は鼠色の厚い層雲に
周防が立停り、甲斐もその脇に立停った。二人は蔵王を眺めやった。蔵王は西側が金色に輝き、その半面が黒ずんだ紫色に
「律のことを聞かせてもらえないか」と周防が云った。
それは、蔵王の峰からでも呼びかけるように遠く、静かに低い声であった。
「済んだことだ」と甲斐も同じように答えた。
周防は山を見たまま云った、「ではもう、しばらく会えないな」
甲斐は額に皺をよせただけであった。
周防は口の中で「どうか一日も早く」と祈るように云った。
「此処から二人で、また蔵王を見ることができるように」
年が明けて(寛文二年)正月中旬になった或る日、――甚次郎(山)の東側の谷あいにある猟小屋で、甲斐は弓のつくろいをしていた。外は粉雪が舞い、もう昏れかかっていた。
猟小屋は山の小屋よりも狭い。それは杉の丸太で組み、戸口のほかに、東に面して小窓が一つある。中は二坪ばかりの、炉のある土間を囲んで、三方に腰掛が造りつけてある。北側だけは六尺幅、他の二方は三尺幅で、どちらにも
甲斐は弓の千段を巻いていた。
小屋の中は暗くなり、炉で燃えている火が、彼の顔を赤く、
綿にでも包まれたような、はっきりしない足音、というよりもそのけはいが、山道をおりて来て、戸口の外に停った。甲斐は弓を逆に構えた。足音は停ったが、そのまましんとなった。
「誰だ」と甲斐が云った。
戸口の外で人の動くけはいがし、くすくすと忍び笑いをするのが聞えた。若い娘の声である、甲斐は弓を持ち替え、また千段を巻き始めた。――殿さまはいらっしゃるだ。はいれ、おめえがさきだ。ふじこがさきだ。はいれっていうによ。おらいやだ。そんな問答が聞え、やがて、「はいってもいいか」とふじこの云うのが聞えた。
「だめだ、与五に怒られるぞ」と甲斐が云った。
するとまた忍び笑いが聞え、戸口をあけて、粉雪といっしょに三人の娘がはいって来た。ふじこ、きよき、そしてもう一人は初めて見る顔だった。
「与五が怒るぞ」と甲斐が云った。
三人はまだくすくすと笑いながら、戸口を閉め、雪帽子や
「殿さまにこれ持って来ただ」とふじこが云い、三人はそれぞれ、手籠や
「もうすぐ与五が来るぞ」と甲斐が云った。
「きたっていいですよ」ときよきが云った、「怒りだすまえにかじりついてやるだ」
「かじりつくって」
「あの爺さまは女に
「声も出せなくなるだ」とふじこが云った、「女に捉まると手足をわんざらくっさらさして、ばかがおこったみたようになるだ」
「そしていきすじひっぱって逃げだすだ」
娘たちは声をあげて笑った。
甲斐はつくろい終った弓を取って、きっきっと三度ばかり
「ふじこは虚空蔵から来たのか」と甲斐が訊いた。
「おら小坂にいるです」とふじこが答えた、「小坂の源十のとこに、五日まえから泊っているです、殿さまはまだ御存じないでしょう、これが源十の娘のなをこです」
なをこと呼ばれた娘は、赤くなって頭をさげた。甲斐はふじこに云った。
「ふじこはなぜ小坂などへ来ているんだ」
「久兵衛が暴れてしようがねえです」
「おれをつけまわしているんではないのか」
「ときどき小屋へ来るです」とふじこが云った。
「殿さまを覘っても
「なぜ館へ云って来ないのだ」
「おらあなんでもねえです、あんなかぼねやみの一人や二人、なんとも思やしねえし、父さまも館へ申上げるほどのことはねえ、ちっとのま小屋をあけて、久兵衛の気をぬけばいいって、それで小坂へ来ているです」
「おまえ嫁にゆくのだろう」
「おらがですか」
「久兵衛の嫁になる筈ではないのか」
ふじこは赤くなり「んでがす」と云った。
「それなら早く祝言をしたらどうだ、そうすれば久兵衛も暴れるようなことはなくなるだろう」
「それがそうでねえのです」
ふじこはそう云って、もっと赤くなり、首の折れるほど
甲斐は盃を取りながらふじこを見た。
「なぜそういかないんだ」と甲斐が訊いた。
ふじこは答えなかった。きよきが側から袖を引き「云っちめえな」と
甲斐は酒を飲みながらふじこを見た。ふじこは伴れの二人と眼を見交わし、いたずらそうに肩を
「久兵衛となぜ祝言しないんだ」と甲斐が訊いた。
「そんな話しはもうやめて下さい、おら、ごちゃくちゃしたことは嫌いです」とふじこは云った。
そして隅にあった
「世の中に男と女があるってことはふしぎなもんだ、そうじゃねえか」ときよきが云った。
男と女があって、男と女でない者がないというのはふしぎではないか。だって鳥だってけものだって同じことだ、男と女のほかになにかあったらふしぎではないのか、となをこが反問した。よせ、そんなことはふしぎでもなんでもない、ふしぎなのはどうして男が男に生れ、女が女に生れて来るかということだ、とふじこが云った。それは男の血気が強いと女が生れ、反対のばあいに男が生れるのだそうだ、ときよきが云った。嘘っぱちだ、とふじこがきめつけた。なにが嘘っぱちだ。平四を見な、平四はあんな
「ほかのなにを話すのだ」とふじこが云った、「なをこはなにを話してえだ」
なにを話したくもないが、そんな話しは恥ずかしいからいやだ、となをこが云った。なにが恥ずかしいものか、これは人間の
そんなことは誰でも云うことだ、ときよきが云った。昔から云い古されて耳にたこがいってるくらいだ、そのくせ一生独り身でいる者はない、いやだのおうだの苦のたねだのと云いながら、やっぱり年ごろになれば男が欲しくなり嫁にゆきたくなる。それはそれだけいいことがあるからだ、どんな苦しい辛いおもいもいとわないほど、いいことがあるからだ、ときよきは云った。そんないいことってなんだ、きよきは知っているのか。ふじこは知らないのか。またさっきと同じとこへ返ったな、知らないから教えてくれっていうだ。へ、いいふりこきが、ときよきは云った。いいことってのはな、
「よう、もうやめにすべえよ」となをこが云った、「たのむからほかの話しにすべえ、本当に殿さまに笑われるし、恥ずかしいだからよ」
「なをこもいいかげん白ばっくれるだな」ときよきが云った。
「おめえ恥ずかしいなんて、もう去年の春に太平から手ほどきされてるでねえか」
なをこは「やめておくれ」と云い、さっと耳まで赤くなった。おうれ、もうか、とふじこが云った。なをこは十五になったばかりではないか。早くもおそくもないさ、ときよきが云った。はちざえもんが始まれば誰でもそうなるもんだ。なをこは十四の春だったから、ちょうどくらいのところだろう、ときよきが云った。なをこは身もだえをし、やめておくれ、と泣き声をあげた。するときよきが彼女を指さし、露骨な調子で云った。
「おめえ渡し場の舟小屋を思いだしただな」
「舟小屋だって」とふじこが訊いた。
「東の滝沢へ渡る渡し場さ」ときよきが答えた。
嘘だ、となをこがむきになって云った。なにも知らねえくせに、きよきはでたらめばかり云うだ。おう怒ったか、へえ、そんな顔で太平と舟小屋でなにしただか、ときよきが云った。なをこは両手で耳を
甲斐は盃を持ったまま
彼女たちはまだ情欲というものを知ってはいない。やまがに育ったから、あるいはまったくの
「舟小屋には渡し守がいるべえにさ」
「夜の八時限りだ」ときよきがふじこに云った。
夜の八時限りで渡しは止まる。渡し守も家へ帰ってしまう、あとは戸口へ草の穂をさしておけば誰もはいってはこない、ときよきが云った。草の穂をさすだって。んだ、中でいいことしてる者がいるって印さ。はあそうか、それでわかった、とふじこが
甲斐が顔をあげた。「くびじろだって」と彼は娘たちを見た、「誰かくびじろを見たのか」
「おめえは」ときよきが、ふじこに手をあげた。
あとで云うだって、約束しただにね。おらもそのつもりだっけ、舟小屋なんて云うからつい口がすべっただ、とふじこが云った。
「くびじろを見たのか」と甲斐が訊いた。
「おらじゃねえです」
「おら見たです」ときよきが云った。
そのとき、この小屋の表てで人の声がし、外から引戸があけられた。
引戸があくと、粉雪が吹きこんで、炉から煙が巻きたち燭台の灯がはためいた。はいって来たのは片倉
甲斐はそれに眼で応じたまま、「くびじろをどこで見たか」と訊いていた。
娘たちは、はいって来た二人を見てしりごみをし、脇のほうへ躯をずらせた。甲斐はたたみかけて訊いた。きよきは隼人たちに気をかねるように、もじもじしながら「曲り瀬のところです」と答えた。
「滝沢の瀬か」
きよきは「そうです」とこっくりをした。
「若い牝鹿がさきに渡り、あとからくびじろが、それを追って渡ったです」
「西からか東からか」
「東からこっちへです」
「いつだ」
「今日の八つさがりです」
甲斐は「よし」と頷いた。
この問答を聞いていた与五兵衛は、眼をきらっとさせながら、くびじろだとな、ときよきを見、それから甲斐に向かって、静かに、しかしきびしく首を振った。
「殿さま、なりませんぞ」
「用はなんだ」と甲斐は隼人を見た。
与五兵衛はなお「殿さま、くびじろはなりませんぞ」と云った。
「おれに構うな」と甲斐は云った。
くびじろはだめです、と与五兵衛は繰り返した。あれは十五歳にもなる豪のもので、これまでに
「だが、おれとくびじろの関係も与五はよく知っている筈だ、もうなにも云うな、――隼人、なんの用だ」
「一ノ関からお使者がございました」
「帰国されたのか」
「この月下旬まで仙台に滞在されるそうで、相談したいことがあるから仙台へ来られたい、との口上でございます」
「所労だと云ったろうな」
「申しました」
「なるべくまいるつもりでいるが、所労がぬけないようだったら、一ノ関の
「一ノ関へでございますか」
「そう云ってくれ」
甲斐は立ちあがって、おまえたちも帰れと娘たちに云った。馳走をありがたかった、また来てくれ、そう云って、支度を直しながら、甲斐はまたきよきに呼びかけた。
「くびじろは
「谷地を川上のほうへいったようです」
「川上へいった」と甲斐は訊き返した。
きよきは「はい」といった、「雪の中でよく見えなかったですが、谷地から山の裾へつき、それをまわって川上のほうへゆくのを見たです」
「よし、気をつけて帰れ」
娘たちは、ひろげた器物を片づけて、帰り支度をした。甲斐もこのあいだに毛皮の胴着を重ね、鹿革の股引に革足袋をはいた。そして棚の上から、かもしかの毛皮を縫い合わせて作った寝袋を取りおろして、猪の
「もう一つ申上げることがございます」と隼人が云った。
「急用でなければあとにしてもらおう」
「江戸から
「江戸から、――」と甲斐は振返った。
娘たちは支度を終り、蓑や雪帽子を着けて、挨拶もそこそこに出ていった。甲斐はそろえた矢を
「宇乃が来たというのか」
「昨日の夕刻、惣左衛門の書面をもって、辻村と塩沢の二人が伴れてまいりました」
甲斐は「宇乃が」と口のなかで云った。そうか。虎之助が八歳になったのか。
そう気がつくと、わけもなく心がふさがれ、鬱陶しいような気分になった。
「わかった」と甲斐は隼人に云った、「母上に申上げて、隠居所の世話をさせるように、願っておけ」
「いつ御帰館なされますか」
「なるべく早く帰る」
隼人は与五兵衛を見た。与五兵衛の顔は赤く充血し、その眼は怒りのためにするどく光っていた。甲斐は革足袋の足に雪沓をはき、
「片倉を送ってゆけ」と甲斐は与五兵衛に云った、「炉の火を消すぞ」
与五兵衛は答えなかった。
隼人は蓑や雪帽子を着けながら「私は一人で戻れます」と云った。いや、与五に案内させるがいい、と甲斐が云った。この雪では倉沢の道が危ない、隼人は猟小屋へは初めての筈だ。しかし与五はお供をさせて下さい、と隼人が云った。私はまわり道をしてゆきます。ではいいようにしろ、と甲斐は云った。おれはでかけるぞ。ほかにお申しつけはございませんか。炉の火を消してくれ、おれはでかける、と甲斐は云った。そして、与五兵衛の眼から逃げるように、引戸をあけて、出ていった。
夜の明けるまえ、――甲斐は細谷という部落の山の中で、横になっていた。
そこは西北にひらけた山の中腹で、うしろは枯木林の山につづき、前は段さがりに低くなって、田畑の向うに
うしろの斜面で、木の枝から雪の落ちる音がした。甲斐は頭をあげ、寝袋から顔だけ出して、あたりのようすに注意をくばった。
すぐ眼の前に藪がかぶさっていて、雪で
「聞きちがいだったな」と彼は呟いた。
猟小屋をおり、谷地をぬけて来るとき、三度ばかり火繩の匂いを
甲斐はうしろに注意しながら歩いた。ときに林の中へはいって、跟けて来るのをたしかめようとしたが、火繩の匂いが三度しただけで、久兵衛の姿を認めることはできなかった、「おれの勘ちがいか、それともはぐれてしまったのか」
甲斐はそう呟き、頭をめぐらせて、あたりを眺めまわした。雪はまだ降っていた。まばらな小雪であるが、やみそうにも思われない、濃い鼠色にいくらか明るみのさしてきた空には、雪雲が厚く低く、向うに迫っている丘陵の、すぐ上にまで垂れさがっているようにみえた。
甲斐は寝袋から出て、大きく伸びをした。
――もう動きだすころだ。
くびじろが移動を始める時刻であった。
甲斐は雪を両手に取って、ごしごしと顔から衿首をこすった。それを二度繰り返すと、指は
溶けた雪を吐きだすと、甲斐は足袋の上からよく足を
薄焼(小麦粉を練って延ばし、醤油で焼いたもの)をひと口、それから焙った猪の肉を歯で
――おれは間違って生れた。
と甲斐は心のなかで呟いた。けものを狩り、樹を
――それがいちばんおれに似あっている。
そのほかのものはすべておれに似あわしくない。甲斐は口の中の物を噛むのも忘れ、ややしばらく、どこを見るともなく、ぼんやりと前方を見まもっていた。
彼はやがて首を振り、「ああ」と意味のない声をあげ、そしてまた喰べつづけた。二枚目の薄焼を取りあげたとき、うしろのほうで、鹿のなき声が聞えた。
甲斐は
――だがたしかに鹿の声だ。
甲斐はまず弓を取って、弦を張り、壺胡を括り付けた。それから、音のしないように、手早く食糧を片づけて寝袋に入れ、それをかたく背負いながら、いまなき声のしたほうをうかがった。やはりなにも見えず、なにも聞えなかった。
「しかし紛れはない」
甲斐はそう呟いて、雪帽子をかぶり、藪の蔭から、そっと伸びあがって、「くびじろ」の通路に当る、山つきの低地を見やった。
くびじろは阿武隈川を渡ると、すぐ正覚寺(山)から甚次郎(山)へぬけるか、谷地をまわって山にはいり北郷村の丘陵へ向かうか、どちらかの通路をとるのが、いつもの例であった。こんどは谷地を川上のほうへいったというので、いま甲斐の見張っている場所なら、決して見うしなう心配はないのであった。
空が明るくなるにつれて、雪の降りかたがまた強くなった。――ぐあいが悪いな、と甲斐は空を見あげた。
眼をそばめ、唇をむすんだまま上へあげ、どこかに雲の切れ目はないかと、ぐるっと眺めまわした。すると深く皺のよった額に、雪帽子をすべって粉雪が降りかかった。
甲斐は手をあげて、
二段ばかり先の、枯木林の中から、すっと一頭の鹿が出て来た。粉雪のとばりのかなたに、それはなんの物音もさせず、幻のようにあらわれ、そこでじっと立停っていた。
――くびじろだ。
とうとう
――久しぶりだな、くびじろ。
と甲斐は心のなかで云った。
――おれは此処にいるぞ。
ふしぎななつかしさと、こんどは逃がさないぞ、という闘志とで、胸が熱くなった。こんどは逃がさない。しかしわかるだろうと、甲斐は心のなかで呼びかけた。おれとおまえとは久しいなじみだ、おれたちはいつも堂々とたたかって来た。「そうだな」とくびじろが云うように、甲斐には思われた。そうだな、しかし勝負はいつもわたしのものだった。いつもだって、おれはおまえに一と矢くれているぞ。たしかにね、あれは甲午(承応三年)の冬だったが、一と矢といっても
――対等だって。
とくびじろが云った。甲斐には「くびじろ」がそう云ったように思え、はっと息をひそめた。鹿がこっちへ動きだしたのである。甲斐は弓を持ち直し、矢をつがえた。背負った寝袋が邪魔になる、しかし解いているひまはなかった。
風は北から吹いていた。くびじろは風上からこっちへ来る。用心ぶかく、ときどき鼻を上へあげ、周囲をうかがいながら、静かにこっちへ近づいて来る。ふしぎだ、と甲斐は
くびじろは他のどんな鹿にも似ていない。
――ああ、と甲斐は思った。おまえ老いぼれたな。
鹿はいちど立停った。甲斐は「おちつけ」と自分に云った。鹿はまた歩きだした。粉雪のなかに、いまはその姿をはっきり見ることができる。みごとな
甲斐は充分にひきよせた。弓を握った手指と、矢をつがえている指を、静かに握りこころみ、呼吸をととのえ、それから立ちあがった。
距離は約三十尺。甲斐が立ちあがったとき、くびじろもぴたりと足を止めた。甲斐は弦をひきしぼった。ほこ(弓の幹)がききと爽やかにきしみ、弦はいっぱいにしぼられた。その瞬間に、甲斐はまた火繩の焦げる匂いを感じ、くびじろが頭を右に振り、甲斐は矢を射放した。
矢はくひじろの肩に当った。たしかではない。くひじろはするどく叫び、頭を振り、躍りあがった。そして、ぱっと雪けむりが立ったと見ると、枯木林の中へ疾走していった。走り去るときに、くひじろの右の肩で、矢が垂れさがったまま、ゆらゆらと揺れているのを、甲斐は認めた。この矢ごろで、と甲斐は舌打ちをし、二の矢をつがえながら、すばやく身を
――どこにいる。
いまたしかに火繩の焦げる匂いがした。それが手元を狂わせたのだ。どこに隠れているのか。甲斐は弓のとりうちで、
甲斐は弓を構えたまま静かに立ちあがった。立ったまましばらく待ったが、やはり人のけはいもせず、狙撃するようすもなかった、臆病者、彼はまた舌打ちをした。それから、矢をつがえたままの弓を持って、藪の蔭から斜面へ出て、北に向かって歩きだした。
――さあ射て、射ってこい。
一歩、一歩、雪沓を踏みしめながら、さすがに全身が緊張し、
突然、足もとから一羽の鳥が飛び立った。
甲斐は危うく叫びかかった。飛び立ったのは
くびじろは正覚寺(山)と、甚次郎(山)とのあいだに戻ったようである。そっちへ戻ったとすれば、甚次郎から釜ノ川へ出るに違いない。そこから虚空蔵(山)の
雪は
――この雪では途中はだめだ。
甲斐はそうみこして、虚空蔵(山)の南麓へ向かい、山つきを
目的の場所へ着くまでに、二度ばかり、うしろに遠く人の
狭間道へ着いた彼は、山裾の一段高くなった杉林の中へはいり、寝袋をおろして、食糧の包みをひらいた。――そこは虚空蔵の山裾が切れて、砦山の登りにかかるところで、風は二つの山のあいだを、北から吹いていた。したがって、くびじろが南からあがって来ても、そこに人間のいることを嗅ぎわけることはできない筈であった。
甲斐は薄焼と焙り肉を出して喰べた。だが、一枚めの薄焼をまだ喰べ終らないうちに、くびじろがあらわれた。
これまでの経験によれば、そんなに早くそこへ来ることはなかったので、濃密な雪の中からその大鹿があらわれたとき、甲斐はそれがくびじろだとは信じられなかった。
甲斐がくびじろをみつけると同時に、くびじろも彼のいることをみつけた。間隔はおよそ七間、くびじろだ、とはっきり認めた甲斐は、呼吸五つばかりのあいだ、身動きもできなかった。くびじろも立停り、右の
吹きつける粉雪が、くびじろの姿を淡くしたり濃くしたりする、老いてやや色の
甲斐は息を詰めた。眼はまっすぐに、その大鹿をにらんだままで、左の手をそろそろと、弓のほうへさし伸ばした。くびじろは、あげていた右の前肢を静かにおろし、強い鼻息の音をさせた。
――逃げないのか。
甲斐は心臓の烈しい鼓動を感じた。手は弓を掴んだ。次は矢だ。甲斐はできるだけ姿勢を崩さないように、くびじろをにらんだまま、脇へまわっている壺胡へ手を伸ばした。
突然、くびじろの肢もとから、雪けむりが立った。くびじろは頭をさげ、跳躍したとみると、うしろに雪しぶきをはねあげながら、こちらへ跳びかかって来た。
甲斐は左へ、雪をかぶった笹の上へ、さっと身を投げだした。雪けむりに包まれる甲斐の、躯とすれすれに、くびじろの
甲斐はすぐにはね起き、弓を拾い、矢を壺胡から抜いて、弓につがえながら、向うを見た。
くびじろは逃げなかった。その大鹿は五六間さきで、こちらへ向き直っていた。肩にあった一の矢はもうなくなっており、大鹿は烈しい鼻息をならしながら、前肢で地面を
――やる気か。
おまえもそのつもりか、と甲斐は思い、つよい感動におそわれながら、身構えをした。
風はいま、右前方から吹いていた。雪帽子をすべって、粉雪がしきりに顔へかかる。だがそれを払っている隙はなかった。甲斐は吹きつける雪に正面して構え、弓をやわらかく、ゆっくりとしぼった。
くびじろは首を振りやめ、頭部を低くして鼻息をならした。するとその白く凍る鼻息が、くびじろの怒りと敵意を表白するかのようにみえた。
――いまだ、くびじろ、さあ。
ぱっと大鹿が雪けむりをあげ、つぶてのように走りだした。
――おちつけ、おちつけ、甲斐は充分にひきしぼった。
距離が約四間にちぢまった。呼吸が合った。しかし、まさに矢を射放そうとしたとき、
弦の切れる「びーん」という音を耳にした次の瞬間、襲いかかって来るくびじろの巨大なからだと、そのみごとな大角を、甲斐ははっきりと見た。
くびじろは甲斐に突きかかり、その角で、甲斐の躯をはねとばした。甲斐の躯は大きくはねあがり、雪をかぶった笹の斜面へ投げだされた。甲斐は自分の
くびじろは斜面を駆けおりて来た。甲斐は立とうとしたが、激痛のために
右の肋骨の五枚めあたりから、血がなま温かく肌を濡らすのが感じられた。くびじろは雪しぶきをあげながら、甲斐の脇を駆けおり、斜面の下へいって、向き直った。脇を駆けおりるとき、その
甲斐も向き直った。ゆるい斜面の下で、くびじろは激しく鼻息をならし、二度、三度、その大角を振りたてた。甲斐は山刀の切尖をさげた。
下から襲われては、勝ちみはない、殆んど勝ちみはない。こんどは
甲斐は右足を曲げた。くびじろの肢の下で雪けむりがあがった。甲斐は呼吸を詰めた。耳ががんと鳴り、視界が一瞬ぼうとかすんだ。くびじろは大角をさげ、後肢で雪を蹴たてながらとびかかって来た。しかし突然、その前肢を折り、なにかで殴られでもしたように、首を振りたて、するどくなき声をあげながら、右へだっと横倒しになった。そして、甲斐は銃声を聞いた。
雪のために反響がなく、どこかへ吸いこまれてゆくような、短くて鈍い、その銃声を聞きながら、甲斐は茫然とくびじろを眺めていた。
くびじろは悲しげになき、首を振りあげ、立とうとして四肢でもがいた。雪しぶきが飛び散って、ずるずると斜面を滑り、大角がなにかにひっかかって、頭部を上にして停ると、もういちど高く、なき声をあげ、そして動かなくなった。そのとき甲斐は「対等だって」という声を聞いた。くびじろの最後のなき声が、そう云ったかのように、感じられたのであった。
笹を踏みわける足音がし、与五兵衛と、一人の若者がこちらへ近づいて来た。二人とも鉄砲を持ってい、そばへ来ると、若者は雪帽子をぬいだ。
「誰が射った」と甲斐が云った。
与五兵衛は鉄砲を置いて、甲斐の脇へ
「これが久兵衛という者です」
甲斐は若者を見た。若者はそこへ
「おまえが射ったのか」と甲斐が云った。
久兵衛は「へえ」と云った。
「このばか者」と甲斐は云った、「きさまはおれを
「殿さま」と与五兵衛が云った。
「なぜおれを射たなかった」と甲斐は叫んだ、「なぜおれを射たずにくびじろを射った、云え、なぜだ」
久兵衛は頭を垂れた。
甲斐は山刀を持ち直して「寄れ」と叫んだ、久兵衛は顔をあげた。甲斐はもっと寄れと叫び、山刀をふりあげた。しかし傷にひびいて激痛が起こり、彼は呻きながら前へのめった。与五兵衛が殿さまといって、彼を危うく支えた。
「そいつを追い払え」と甲斐は云った、「二度とこの土地を踏ませるな、顔を見たら成敗するぞ」
与五兵衛は若者に眼くばせをし、「お館へ知らせろ」と囁いた。久兵衛は雪帽子を持って立ち、道のほうへとおりていった。
与五兵衛は甲斐の傷をしらべ、右の肋骨が二本折れていること、そこに外傷ができて、かなり出血していることをたしかめた。彼は出血を止める手当だけしながら、「なぜ久兵衛を叱ったのか」と訊いた。久兵衛は殿さまを跟けていた、自分はその久兵衛を跟けていた。
久兵衛は自分がうしろから跟けているので、殿さまを狙撃することができなかった。しかし狙撃するつもりでいたことはたしかであるし、あれは絶好の機会だった。万に一つも仕損ずることのない、絶好の機会だったが、久兵衛は殿さまではなく「くびじろ」を射った。それは主従という関係の強さである。あの瞬間に、自分の恨みを忘れたのは、褒めてやらなければならない、と与五兵衛は云った。
甲斐は聞いてはいなかった。
「おれをくびじろのそばへやってくれ」と甲斐は云った。
どうなさるのです。どうしてもいい、おれを
与五兵衛は甲斐を見、それから
「もっとそばへやれ」
甲斐はそこへと、手で場所を示した。与五兵衛は云われるとおりにした。大鹿の
「おれの手でやりたかった」と甲斐は云った。
与五兵衛の
「おまえはもう年をとった」と甲斐は云った。
大鹿の頭や頸から、雪をはらいおとし、その頬や頸を、手でやさしく
「おまえはとしよりになった、まもなく若い鹿に追いやられるか、どこかのつまらない猟師に殺されるかするだろう、おれはそうさせたくなかった」
そんなみじめなことにはさせたくなかった、と甲斐は云った。
「おれとおまえはながいなじみだ、おれはおまえをりっぱに、くびじろらしく、死なせてやりたかった、おれは自分で、自分のこの手で、おまえを死なせてやりたかったのだ」
甲斐は大鹿の頬を撫でた。与五兵衛は雪帽子をぬぎ、髪の灰色になった頭を垂れて、静かにそこを離れてゆき、六七間さきへいって
その大鹿は胸を射たれていた。肩にある一の矢の
「そうだ、対等ではなかった」と甲斐は口の中で云った。「追う者と追われるものに、対等の条件ということはない、今日の勝負はおまえが勝っていた、おまえはみごとにやった、あのばか者がいなければ、おまえはおれを仕止めたかもしれない、くびじろ、さぞ無念だったろう、勘弁しろ、くびじろ」
甲斐は眼を拭きながら、躯をずらせて、大鹿の上へうち伏した。そうして、強いけものの躰臭に顔を包まれたまま、やがて、甲斐は気を失った。
どのくらい失神していたかわからない。躯を揺り動かされた激痛と、自分を呼ぶ叫び声とで、われに返ってみると、すぐ眼の前に見覚えのある顔がのしかかっていた。誰だろう。
甲斐は眼をそばめた。
「おじさま」
と云う声が聞えた。
遠くから聞えて来るような、しゃがれた含み声であった。眼の前にある顔が歪み、大きくみひらかれた、きれいな両眼から、涙のこぼれ落ちるのを、甲斐は認めた。
「おじさま、死んではいや」
とその顔が云った。死んではいや、おじさま死んではいや、と叫び、甲斐の手を取って頬ずりをした。
「――宇乃」と甲斐は呟いた。
そうか、宇乃だったのか、甲斐はそう思って、初めて眼がはっきりとした。
村山喜兵衛が宇乃を抱き起こし、塩沢丹三郎が彼女を引取った。ほかにも五六人来ているようである。甲斐は手を伸ばして、くびじろの顎を撫で、それから眼をつむって、かれらが自分を運びだすままにさせた。
――御家老にございます。
「
――
「早かった。済んだか」
――申上げることができましたので、佐々木権右衛門を残し、私だけさきに戻りました。
「佐月はなんで死んだ」
――胃をながく病んでいたと申します。
「おかしなものだ」
――はあ。
「茂庭佐月は酒も飲まず、粗衣粗食でつねに養生を怠らなかった、そのくせにいつも胃をこわし、胃のために命をとられた」
――佐月どのは徳仁でございました。
「いっそ酒を飲み美食をし、好き勝手にふるまっていたら、もっとなが生きをしたかもしれぬ」
――お口ぐせでございますな。
「船岡(原田甲斐)はいたか」
――みえませんでした。
「甲斐が来なかったと」
――まだ傷養生をしているそうで、松山(茂庭家)の葬儀には、家老の片倉
「傷養生は口実だな」
――私もさように存じました。
「傷養生は口実だ、彼がけがをしたのは正月のことではないか」
――正月中旬と聞きました。
「いまは八月だ、まる七カ月もかかる傷のようには申さなかった、これは茂庭と絶縁したというのが真実かもしれぬぞ」
――さようでしょうか。
「
――離縁の理由は根のないことです。中黒達弥と申す者と密通したという風評は、まったく事実無根で、これは船岡で知らぬ者はございません。
「甲斐も密通のことなど申してはおるまい、家風に合わぬという理由の筈だ」
――しかし中黒達弥を
「ではなぜ佐月の葬儀に来ないのだ」
――はあ、それは。
「甲斐は誰とでも不即不離のつきあいしかしないが、佐月とだけは深く心を許しあっていた、その佐月の葬儀に来ないという理由が考えられるか」
――それは、松山の人びとも不審し、立腹しているようでございました。
「怒っていたと」
――船岡どのの、負傷した
「
――いや、事実は鹿の角にかけられたとのことです。
「鹿の角にかけられた」
――追っていた鹿を射損じ、逆に角にかけられたのが事実だと申します。
「それは面白い、あの山男らしくて面白い、そうか、鹿の角にかけられて、それでけがをしたのか」
――それがわかったものですから、松山ではいっそう穏やかならぬようすでした。
「話しというのはそれか」
――これから申上げます。
「聞こう」
――船岡どのが津田家へ、縁談を申しいれたということです。
「なんと」
――津田
「誰から聞いた」
――玄蕃どの自身からです。
「松山でも知っているか」
――まだどこへも内聞とのことでした。
「津田では承知なのだな」
――承知のむね返事をしたと申します。
「よかろう、うん、いいだろう」
――船岡どのは秋に上府されるそうで、それまでに式を挙げたいという、急な話しのようでございました。
「わかった、覚えておこう」
――次に寺池(式部
「寺池に会ったのか」
――御帰国の途中、佐月どのの葬儀にまいられたのですが、私を旅館に召されて、内密の御相談がございました。
「またねだりごとか」
――
「涌谷と、ほう」
――御承知のように、
「そのようだな」
――それがこの夏のはじめに、遠田郡小里村と、登米郡
「どちらがもめているのだ」
――申上げるまでもないと存じますが。
「寺池は欲の深い男だ」
――まだお年若でいて珍らしゅうございますが、しきりに涌谷さまの非分を挙げ、どうでもこのあらそいには勝たなければならぬ。そのため一ノ関さまへ御助力を願いにまいるつもりだ、と申しておられました。
「ここへ来ると云ったか」
――お館へ伺うと申されましたので、私さきに戻ったのでございます。
「うん、それはどうあろうか」
――相手は涌谷さまでございます。
「寺池は
――涌谷さまも理不理を
「ものになるかもしれぬな、うん、ひとつ考えてみよう」
――寺池さまがみえましたらお会いなされますか。
「来るとすればいつだ」
――おそくとも明日じゅうにはお着きなされましょう。
「ひとつけしかけてくれるか」
――はあ。
「会ってけしかけてくれよう」
――承知つかまつりました。
「大学(奥山)から面会を求めて来た」
――はあ。
「いよいよ江戸へ出て、老中に訴えるつもりらしい、そのまえに会って、おれの存意をしかと聞きたい、ということだ」
――六カ条でございますな。
「会うには及ばぬと答えた、おそらく湯気を出して怒っておるだろう、江戸で岩沼(田村右京)がふんばってくれれば面白くなる」
――厩橋(酒井忠清)さまの
「それが気にかかるか」
――六カ条は奥山どのに利分があると存じます。
「だからどうした」
――万一、老中でおとりあげになると致せば、六カ条は奥山どのの勝になると存じますが。
「それが悪いか」
――はあ。
「こんな
――わかりました。
「大学は予期したとおりやってくれる、彼を首席国老にし、仕置を彼一人に任せたのは成功だった」
――船岡どのはたしかでございましょうな。
「茂庭と断絶したことは間違いない、涌谷もどうやら甲斐とは不和なようだ、甲斐に対してしきりに悪声を放っている、というではないか」
――私はそこになにかあると存じますが。
「斎宮はなかなか安心せぬ男だな」
――田舎者は疑い深うございます。
「六カ条が落着したら、うむをいわさず船岡を国老に据えよう、たしかかたしかでないかは、それからの問題だ」
――では寺池さま御接待の支度を致します。
「船岡の話しは面白かった」
――はあ。
「あの男が鹿の角にかけられたというのは面白い、いつもとりすました、煮えたか焼けたかわからないあの男が、ははは、ばかなやつだ」
――いかにも。
「ばかな男だ、こんど会ったら顔を見てくれよう、こともあろうに鹿の角にかけられるとは、ははは」
宇乃はしきりに話していた。
甲斐はぼんやりと、眼下のひろい展望をたのしんでいた。そこは青根の不老閣の楼上であった。「御殿」と呼ばれるその三層の建物は、
各層とも
甲斐は七日まえに
「今日も松島が見えない」と甲斐が云った。
宇乃は殆んどあるかなきかに頷いた。甲斐には宇乃が「そうでございますね」と云うのが聞えるようであった。
宇乃はさっきから、黙って坐っていた。しかし甲斐には、宇乃がしきりに話しかけているように思われるのである。この青根へ来るまえ、――彼がくびじろの角にかけられて、重傷を負って倒れていたとき、喜兵衛たちといっしょに雪の中を駆けつけて来、気もそぞろに抱きついて泣いた。あの瞬間から、――そばにいるときはもちろん、離れているときでも、絶えず自分に向かって、なにか話しかけているように思われるのであった。
甲斐は宇乃のほうを見た。美しくなった、と彼は思った。宇乃は美しくなった。今年はもう十五歳であるが、二年まえとは見違えるほど娘らしくなっている。まえから背丈も並よりは高く、気性もおっとりとおちついて、かなりおとなびていたのであるが、いまはそのうえに娘らしい匂やかな
宇乃がゆっくりと甲斐を見、そうして、唇と眼で微笑した。
「退屈したか」と甲斐が訊いた。
宇乃はかぶりを振った。その眼はいいえというよりも、たのしゅうございますわ、と云っているようであった。甲斐はまた前方へ眼を向けた。
「金華山も見えない」と甲斐は云った、「九月だというのに、こんなに
宇乃はゆっくりと頷いた。
甲斐はまた宇乃が話しだすのを感じた。宇乃はあの猟の出来事について話しかけている。わたくしおじさまが鹿の角にかけられたとき、お館にいてそれを感じました。ちょうどそのときでしたわ、わたくし胸のここがずきんと痛みましたの。
甲斐はそっと胸の傷あとへ手をやった。そうだ、おまえはあのときそう云った。はい、本当だったのです、と宇乃が云うように思えた。わたくし御隠居所でお茶の給仕をしておりました。それはまえに聞いたよ、と甲斐は心のなかで答えた。わたくし
宇乃が静かに甲斐を見た。
「日陰が杉の木に届きました」と彼女は云った、「もう、ゆあみの時刻でございますわ」
「冷えてきたな」と甲斐は云った。
彼はふしぎだなと思った。いま頭の中で話していた宇乃の言葉は、宇乃自身のものではない。それは母から聞いたことが、彼の空想のなかでまとめあげられたものである。彼がくびじろの角にかけられたとき、少なくともそれと極めて近い時刻に、宇乃は母の前で菓子鉢をとり落し、失神したような顔つきで、どこかをみつめていたという。そしてまもなく、彼が猟に出たさきで負傷した、という知らせがあると、宇乃はするどい叫び声をあげ、とめるのもきかずに、喜兵衛らといっしょに駆けつけた、ということであった。
それから九月の今日まで、宇乃は付ききりで甲斐の看護をした。逆上したようにとり乱して「おじさま死んではいや」と抱きついて泣いたが、それはあのときだけのことで、そのあとは口かずも少なく、立ち居もしっとりと静かであった。
二百四十日ちかく、いつも宇乃はそばに付いていた。こちらが話しかけなければ、一日じゅうでもものを云わなかった。しかし、甲斐には宇乃がいつも自分に話しかけているのを感じた。夜半に眼がさめるようなときでも、宇乃が隣りの部屋から、そっと自分に話しかけるのを、聞くことができるように思えた。
――宇乃はいまなにを考えていた。
あるときそう
――そうだ、訊くまでもない。
宇乃は心のなかで話しかけ、心のなかで彼と問い答えしていたのである。顔を赤らめながら、眼をそらせた宇乃の表情に、そのことを明らかに認めたと、甲斐は思った。
宇乃が音もなく立った。甲斐が振向くと、宇乃は「お湯殿をみてまいります」と云い、静かに階段のほうへ去っていった。
その建物に付属する湯殿は二つある。一つは藩侯の専用で、そこから一段さがったところに、家臣たちのものがあった。――甲斐は負傷して以来、ゆあみは独りでするようになった。それは
甲斐が湯殿へはいり、宇乃が次の間に浴衣を
「ここは冷えるから、私が代りましょう」と丹三郎が云った。
宇乃は「いいえ大丈夫です」と答えた。膝の上に手を重ね、ゆったりと坐って、彼を見る眼は冷やかにおちついていた。丹三郎は少しはなれて片膝をつき、じっと彼女の眼をみつめた。唇がふるえ、額のあたりが白くなった。
「手紙を読んでくれましたか」と彼は云った。
緊張のため、
宇乃は「はい」と答えた。
「それで」と丹三郎が訊いた。
宇乃は少しも動揺しない眼で、まっすぐに彼を見ながら「わたくし弟がいますから」と答えた。弟の成人をみとどけなければならないし、お
「それはわかっています」と丹三郎が云った、「私もまだ十七だし、すぐにというのではない、そのときが来るまで待ちます」
「ではそのときになってからのことに致しましょう」
「どうしてです」
「わけはいま申上げました」
「虎之助さんのことですか」
「それもあり、まだお預けの身の上ですから、お咎めがいつ解けるかわかりませんし、年つきが経つうちには、あなた御自身がどうお変りになるかもしれませんわ」
「私がそんな人間だと思うんですか」と丹三郎が云った。
宇乃はそっと湯殿のほうを見やった。湯殿では
「
宇乃は「いいえ」とかぶりを振った、「わたくし父や母のことがあってから、この世ではいつなにがあるかわからない、現に眼の前にあることしか信じられない、と思うようになりましたの」
「つまり私も信じられないというのですね」
「あなたがどういうお方か、わたくしよく知っているつもりです、そのうえずいぶんお世話になっていますわ」と宇乃は云った、「おばさまにも御迷惑をおかけしましたし、あなたには特に、良源院からかどわかされようとしたときなども、危うく助けて頂いたりしました、そのほかにもいろいろ御厄介になって、お礼の申上げようもないくらいですけれど、でも、わたくしのこの気持を変えることはできませんの」
丹三郎は唇を
「ひとことだけ聞かせて下さい。貴女は私を嫌っているのではないんですか」
「なぜそんなことを仰しゃいますの」
「私の云うことに返辞をして下さい、貴女は丹三郎が嫌いなのではありませんか」
宇乃は彼を見た。その眼は依然としておちついていたし、その表情には、彼がなぜそんなふうに云うのか理解できない、とでもいいたそうな、訝しげな色があらわれていた。
丹三郎はするどく顔を
「無礼をゆるして下さい」
丹三郎はそう云って、顔を垂れ、それから立って出ていった。宇乃はそっと眼をつむった。独りになった瞬間、彼女には大きな変化が起こった。無表情な顔が哀しげにくもり、姿勢が崩れて、強い緊張から解放されたかのように、大きく、ふるえる
丹三郎から
――でも、これでもう済んでしまった。宇乃は眼をつむったまま、自分をなだめるように頷いた。どうぞあの方が、必要以上に恥じたり、苦しんだりなさらないように。
杉戸の向うで甲斐の声がした。宇乃は「はい」と答えて浴衣を取り、立っていって杉戸をあけた。湯気に包まれて、甲斐がうしろ向きに立っていた。宇乃はその逞しい肩へ浴衣を着せかけ、甲斐がこちらへ出て来ると、杉戸を閉めてから、着せかけた浴衣で甲斐の躯の汗を拭いた。甲斐は胸のほうは自分で拭いた。浴衣を替えて拭くときにも、宇乃には傷痕を見せなかった。
部屋へ戻ると、もう灯がいれてあり、館から片倉隼人が来ていた。
「小野の伊東さまを御案内いたしました」
「新左衛門どのか」
「はあ、この青根へ保養に来られる途中、船岡へおたちよりなされましたそうで」
甲斐は「
伊東新左衛門は
――なにかあるな。
と甲斐は思った。病弱だから保養に出るということはあろうが、湯治ならもっと近くに
「晩の食事に招こう」と甲斐は云った、「よければ来てもらいたいと伝えておいてくれ」
隼人は承知して、こういう書状が届いた、と云い、一通の封書を置いて、さがった。宇乃は持って来た薬湯をすすめると、燭台のぐあいを見、火桶の火をみて、次の間へさがった。
甲斐は書状を
甲斐はその文字をみつめた。達弥。玄は「黒」に通ずる、それは放逐した中黒達弥の手紙であった。船岡から放逐するとき、甲斐は彼に一つの使命を与えた。かつて江戸の屋敷で彼が自刃しようとしたとき、ひそかに予告しておいたものであるが、その手紙は、与えられた使命の第一をものにした、ということを意味していた。
甲斐の額に皺がよった。彼はその手紙を火桶で焼き、
伊東新左衛門は、高野兵衛という少年を供に
新左衛門は肥えてみえるが、それは健康な肥えかたではなく、誰の眼にもむくんでいるのだということがわかった。眉が細く、きれながの眼はうるみを帯び、唇は乾いてささくれていたし、皮膚の色も白けて
宿のあるじと娘が去り、茶菓がはこばれると、新左衛門は兵衛にさがっておれと云い、甲斐に向かって人ばらいを求めた。給仕に坐っていたのは塩沢丹三郎で、甲斐が振向くと、礼をして出ていった。
「じつは、国老就任の交渉を受けたので」と新左衛門が云った。
これは甲斐にも思いがけない言葉だった。伊東は着座には相違ないが、病弱のため、これまで役らしい役を勤めたことがない。それをいきなり国老に推すというのは、殆んど考えられないことであった。しかし甲斐は、黙って次の言葉を待った。
「それが交渉というよりも、うむをいわさぬといった、強硬なものですから、御意見をうかがいたいと思ってまいったのです」
「それは、それは」と甲斐は云った、「お躯が弱いのに、国老という激務はたいへんだが、私の意見を聞きたいというのは、どういうことですか」
「まず第一に」と新左衛門は甲斐を見た、「貴方はまえから国老就任を
「それは簡単です」と甲斐は微笑した、「やはり
「理由はそれだけですか」
「もちろんです」
「私は貴方の御本心をうかがいたいのです」と新左衛門は云った、「船岡どのの立場が、いま非常に困難であり微妙だということは、七十郎から聞いていました、なぜ困難であり微妙であるかという仔細は、松山どのからもあらましうかがっているのです」
「それは困った」と甲斐は
「いや待って下さい」と新左衛門は強く
「話しが脇へそれたようだ」と甲斐が云った、「私はこの月の下旬に結婚をし、十月末に出府する、出府したら国老就任をお受けするつもりです」
「お受けなさる」
新左衛門はきれながな眼で、ひたと甲斐の眼をみつめ、ややしばらく口をつぐんだ。それからひと言ずつ区切って、だめを押すように訊いた。
「一ノ関と岩沼に対する六カ条の件、一ノ関領における
甲斐は左の手をあげて、その指の爪を、一本ずつ丹念に眺めだした。
「国老に就任されるとすると、早速これらの問題に当面されるわけで、どう解決するかというみとおしをつけられたことと思うが、どうでしょうか」
「それはいまなんとも云えません」
「私はぜひうかがいたいのです、それによって私も、国老就任を受けるかどうかを、きめるつもりです」
「それはおかしい」と甲斐はあげていた手を膝へおろした、「どんな理由があるかわからないが、私の意見によって国老になるかならぬかをきめる、というのは少しおかしくはないだろうか」
「貴方はわざとわからないふうをしていらっしゃる」
「なにをです」
「私がなぜ貴方の御意見をうかがいに来たかということをです」
「伊東どのはなにかお考え違いをしておられるようだ」と甲斐は云った、「私にどんな意見があったとしても、古参の国老が多くいるのに、新任の私などにどれだけ発言権があるか、おわかりだと思うが」
「一ノ関といううしろ
自分は松山で茂庭
甲斐は眼をそむけ、新左衛門はなお云った。
貴方がそういう困難で微妙な立場に立たれるとすれば、自分が国老になったばあい、しぜん対立関係になることもあろう。だから、貴方が当面の問題をどう処理するつもりか、その方寸を聞いておきたいのだ。というふうに新左衛門は云った。
「どうも困ったことだ」と甲斐は溜息をついた、「
「ない火の煙ですって、原田さん、貴方はまさか本気でそんなことを云うのではないでしょうね」
甲斐は答えなかった。
「私はずっと田舎で
「私は頭が悪いものだから、自分でそれとたしかめたこと以外は信じません」
「
その瞬間、甲斐の表情が動かなくなった。しかしすぐに額へ
「毒を盛って謀殺しようとしているときでも、現に毒死するのを見るまでは信じない、と云われるのですか」
「そういう問いには返辞ができませんね」
「どうしてです」
「理由はない、返辞ができないから、できない、というだけです」
「置毒の計画が現にあってもですか」と新左衛門が云った、「こんど若君の侍医にあがった医者が」
「伊東どの」と甲斐が遮った。
だが新左衛門は「いや申します」と肩をあげて云った、「その医師は河野道円といい、長崎まで人をやって毒薬を手にいれた事実があります、これは単なる風聞ではなく、道円のむすめ婿になる三沢
「毒薬も薬の内でしょう、ある種の病気には毒薬を調合するということを聞いていますがね」
「それならなぜ秘密に買い求めたりするのですか、正当な調剤のために必要なら、その係りにいって御用商から買上げるのが順序ではありませんか」
「――しかし、いったい」と甲斐が訊いた、「誰を毒害するというのですか」
「それがわからないとでもいうんですか」
甲斐は黙って相手の眼をみつめた。
「もちろん若君ですよ」
「なんのために」
「
「あとを聞きましょう」
「私は涌谷さまの御思案も聞いているのです」と新左衛門は云った、「一ノ関の野望のうしろには酒井老中の力がある、尋常のことでは対抗できないから、船岡どのに一ノ関の帷幄となってもらい、その内部から大事を未然にふせぐ手を打つ、われわれは外部からそれを助ける、そうでしょう、そこで私が国老をお受けするに当って、貴方がどういう方針に出られるか、その根本をうかがっておきたい、という意味もわかって下さると思います」
「困ったことだ、なんとも困ったことだ」甲斐はゆっくり頭を振った、「私はそれについて有無の
「なぜできないのです」
「綱宗さまには岩沼の田村右京さま、寺池の式部
新左衛門は口をつぐんだ。
「また、これはついさきごろ、江戸屋敷からの手紙で知ったのだが、品川下屋敷ではお部屋さま(三沢初)が御懐妊だということだ、まこと一ノ関さまにさような御野望があるとすれば、亀千代ぎみばかりでなく、岩沼さま、寺池さま、つづいてはやがて御出産となろう
「では、では船岡どのは」
「私のことは措いて下さい、私は臆測でものを考えるのは嫌いです」と甲斐は云った、「万が一にも、さような大事が企まれており、それについて対策を立てなければならぬとするなら、このように人から人へ話しつたえてはならない、もちろん私は無い火の煙と信じている、そんな野望があり得ないということはいま申したとおりだ、しかし、その事実の有無よりも、このように口から口へ云いひろめることのほうが、
「――わかりました」
新左衛門は
「私は私なりにお役に立つつもりでいたのですが、貴方には不必要だということですね」
「そんなふうに聞えたとすると、私の云いかたが誤っていたのでしょう」と甲斐はにが笑いをした、「伊東どのが国老に就任されるとすれば、私とは同役になるわけだし、私はごらんのとおり頭の鈍い人間だから、いろいろお力ぞえを願わなくてはならない、ただどうか、いまのようなむずかしい、こみいった話しにまきこまないで下さい」
「もう結構です、よくわかりました」
「怒ったのではないでしょうね」
「ひと言だけ、聞いていただきたいことがあります」と新左衛門が云った、「私の養子は
甲斐は無関心に新左衛門を見た。
「もちろん、これは船岡どのもお聞きになられたでしょう」
「さよう」と甲斐はあいまいに云った、「聞いたようにも思うが、はっきりした記憶はありませんね」
「私は覚えています、私にとっては忘れることのできない言葉ですから」と新左衛門は云った、「私は国老をお受けするに当って両後見に三カ条の誓紙を求めるつもりです」
「ほう」と甲斐が云った。
「念のために聞いていただきましょう」
新左衛門はこう云って、ふところから紙に書いたものを出し、それを披いて読んだ。
一、忠言あらば卑賤の者たりとも採用すべきこと。
一、親疎によって賞罰を軽重せず、阿諛 の者を大敵とすること。
一、両後見、互いに隔心なきこと。
そういう意味のものであった。「なるほど」と甲斐は
「三カ条の文言は、解釈によって重い意味をもたせることができる、これを取ることができれは、事のあったばあい一ノ関をしめあげる役に立つでしょう」
「私にはそうは思われないが」と甲斐は
そして甲斐は鈴を振った。
鈴を聞いて塩沢丹三郎が来た。彼の顔がひどく
それから二人は、ほんのしばらく話して別れた。甲斐が「七十郎はどうしているか」と訊いたら、新左衛門は、さきごろ
――そうか、と甲斐は心で頷いた。
では河野道円のことは、彼がさぐりだしたのだな。亀千代の新しい侍医が、手をまわして、ひそかに長崎で毒薬を買ったという。新左衛門はどこから出た話か云わなかったが、七十郎が長崎にいたとすれば、彼がさぐりだしたに相違ない。また彼は、新左衛門の云ったとおり、乱暴者ではあるが軽率ではないから、その話に誤りはないだろう、と甲斐は思った。
新左衛門が去ってからは、甲斐は手紙を書いた。江戸の堀内惣左衛門に宛てた、かなり長い手紙だったが、書き終って封をすると、片倉隼人と塩沢丹三郎を呼んだ。
甲斐は丹三郎に手紙を渡し、「明日これを持って、辻村といっしょに江戸へ戻れ」と云った。
辻村平六も、丹三郎とともに、宇乃を送って来たまま、船岡に
甲斐は「なんだ」と云った。
「江戸へ戻りましたら、私を
甲斐は
「そんなことは聞きたくない」と甲斐は云った。
丹三郎は思いつめたようすで「お願いでございます」と平伏し、どうか鬼役にあがれるよう計らっていただきたい、と云った。
「ならん、もうさがれ」と甲斐は顔をそむけた。
丹三郎は唇をかみ、眼に涙をためながら出ていった。
なにごとですか、と隼人が不審そうに甲斐を見た。甲斐はそれには答えず、明日は新左衛門には会わない、帰ると云ったら送ってゆくように、自分はあと三日したら帰館する、と云った。隼人は承知してさがった。
その夜、甲斐は午前二時ごろまで、独りでじっとものおもいに
明くる朝、伊東新左衛門は青根を去った。片倉隼人はそれを送って去り、塩沢丹三郎は江戸へ戻るために山をくだった。
おそい
「もみじを見せよう」
少し道が辛いかもしれないが、と云って、甲斐は登り坂のほうへ向かった。
少し風はあるが、よく晴れていて、空気は陽に温められた枯草の香ばしい匂いがした。
林の中から飛び立った
「
宇乃は口の中で復唱して、いい名ですこと、と云った。甲斐は「かしてごらん」とその花を取り、宇乃の髪毛をそっと押えて、その左側の耳の上のところへ
艶つやとした黒髪に、その花の
「私が祝言することを知っているか」と甲斐が云った。
宇乃は「はい」と頷いた。甲斐を見あげている眼にも、かげろうのゆれるようなその微笑にも、なんの変化もなく
「花がよくうつる」と甲斐は云った、「きれいだ」
宇乃はまた微笑した。
「まもなく江戸へのぼる」と甲斐が云った、「なにか云いたいことがあったら、遠慮なく云ってごらん」
「いいえ、なにもございません」と宇乃はかぶりを振った、「ただ、御番があきましたら、早く帰って来ていただきとうございます」
「私はいつも宇乃のそばにいるよ」
「はい」
「此処にいても、江戸へいってもだ、わかるか」
「はい」と宇乃は頷いた。
甲斐もそっと頷き、もう少し登ろうと云って、手をさしだした。宇乃はすなおに、その手に
二人はゆっくりと坂道を登っていった。
その朝、材木町河岸の家を、野中又五郎といっしょに出た新八は、隣りのお久米からむすび
お久米は格子口の壁際に隠れてい、又五郎がとおり過ぎるのを待って、あとから来る新八に、格子の桟のあいだから、すばやくそれを渡したのである。新八はそれを
駿河台下の道場へ着くのは七時まえで、新八はすぐに稽古を始める。それから十時に道場をあがると、あとは六郎兵衛の用事をし、たいてい五時には、又五郎といっしょに、浅草の家へ帰るのであった。
柿崎道場は出稽古が主で、道場へ来る門人はあまり多くない。したがって、石川兵庫介が去ったあとの、五人の代師範は、交代で一人ずつ道場に残り、あとの四人は出稽古にゆく。そうして五時まえに帰って、六郎兵衛に挨拶をし、それから藤沢内蔵助と島田市蔵とは与えられた部屋へさがるが、家族のある野中又五郎、尾田内記、砂山忠之進の三人は帰るのであった。
その日は島田市蔵が残って、稽古をつけてくれた。島田は野中又五郎に次ぐ腕達者で、稽古はかなりきびしい。口にも遠慮がなく、気にいらないことがあればずけずけ小言を云った。
「どうもまずい、だめだ」彼はその日も
新八は云われるようにしようとした。
島田は木剣をおろして、「いったい年は幾つになるのか」と訊いた。新八はむっとして、
「今年が寛文三年なら私は十九です」と答えた。
「年だけは忘れないか、もうよそう」と島田は云った、「今日はもうよそう、これではおれのほうがまいってしまう」
そして他の門人のほうへいってしまった。
新八はほっとして道場からあがった。島田市蔵の
「おれはおれだ、おれにはおれの生きかたがあるんだ」新八はそう呟いた、「人間は生れついたようにしか生きることはできやしない、おれはおれで好きなように生きるだけだ、ふん、どうせ百年とは生きやしないんだから」
彼は井戸で汗をながした。島田に嘲笑された痛みはもう薄らいで、早くお久米の手紙を読むために気がせいた。
井戸は内井戸で、
新八はぎょっとした。
「いま来たのよ、早くあがっていらっしゃいな」
おみやは濃い化粧をした顔で、なにかを暗示するように、
「いま着物を持って来てあげるわ」
「よして下さい」と新八は思わず叫んだ。
着物の袂にはあの手紙が入っている。もしお久米のむすび文をみつけられたら、そう思ってつい高い声になった。
「びっくりするわね、どうしていけないの」
「下着が」と新八は
「いいじゃないの、汗臭いくらいなによ」
おみやはそこで声をひそめ、殆んどみだらな眼つきで新八をみつめながら「新さんのならどんな匂いだってふるいつきたいほど好きだわ」と
新八は手早く躯を拭いた。みつかったらどうしよう、彼は気もそぞろだった。しかし、着物を持って来たおみやには、変ったようすはなかった。彼女は新八のうしろへまわって、着せかけてやりながら、「今日もあの茶屋よ」と囁いた。
「柿崎さんがいるから出られませんよ」と新八は云った。おみやは「大丈夫」と云った。
「兄はもう承知よ」
新八はおみやに振返った、「それは、どういうことですか」
「どういうことって」
「柿崎さんが承知だという意味ですよ、どういう理由でそうなったんです」
「いいじゃないの」とおみやは眼をそらしながら、うしろから
「出られたら出ますけれど」
「大丈夫だって云ってるじゃないの」おみやはそっと、彼の肩を抱いて云った、「あとで知らせるわね、そうしたら先に出て、あの茶屋へいっていてちょうだい、わかったわね」新八はあいまいに頷いた。
おみやは「きっとよ」と、もういちど抱きしめて、新八に頬ずりをした。濃い化粧の香料がむせるほどつよく匂い、弾力のある、柔らかい、熱い躯が新八を包んだ。
「おお可愛い」とおみやは囁いた。
新八と廊下で別れたおみやは、そのまま兄の部屋へいった。
六郎兵衛は酒を飲んでいた。あのごたごたがあってから、女たちは和泉町のほうに家を買って、三人いっしょに住まわせてある。彼はその家で寝泊りをし、道場に泊ることは
「今日はなんだ」
おみやが坐るのを、眼尻で見ながら六郎兵衛が訊いた。お部屋さまが森田座の見物で、自分は老女のゆるしを得てぬけて来たのだ、とおみやは答えた。厩橋侯ともある人の愛妾が芝居見物だって。ええ、お部屋さまは京橋のなんとやらいう、大きな商家そだちだそうで、よく隠れて見物にゆくんです、とおみやが云った。
六郎兵衛は振向いた、「それで、またなにか聞きだしたのか」
「そう思うんですけれど」
「そう思うとは」
「あたしが殿さま付きの腰元にあがったことは、もう話しましたわね」とおみやが坐り直した。
「同じことを幾たび云うんだ」
「あたしこういうことは忘れっぽいから」
「簡単に云え」
「三日まえに
「一ノ関は出て来たのか」
「ええ、それでそのときの話しに、また原田さまのことと、伊東新左衛門という人のことと、ほかに変なことを聞きました」
「原田というのは」
「船岡の
六郎兵衛は頭を振って云った、「それで、またというと、いつもその男のことが話しに出るのか」
「ええ、いつも話しというと、きっと原田さまのことがでるんです、うちの殿さまは、兵部さまよりも原田さまのほうを、ずっと気にかけていらっしゃるようですわ」
「それは初めて聞くぞ」
「あら、そうだったかしら」
「あとをつづけろ」
「兵部さまは、原田はもうこっちのものだ、と仰しゃっていました」
六郎兵衛が訊き返した、「原田甲斐がこっちのものとはどういうことだ」
「うちの殿さまや兵部さまの味方だということでしょう、
「松山というのは茂庭
ええそうです、とおみやが頷いた。そしてまた、兵部さまのすすめを
「原田のことはそれだけか」
「殿さまは、近いうちにいちど会おう、伴れて来てくれと仰しゃってましたわ」
「よし、次を聞こう」
「次はなんだったかしら」
「伊東なにがしのことだ」
「ああそうだわ」とおみやは云った、「伊東新左衛門という人も、こんど御家老になるんだけれど、それについて、兵部さま右京さまの両後見から、三カ条の御誓紙をお取りなすったのですって」
「それがどうした」
「その三カ条がたいそう困るもので、さきに田村右京さまが承諾なすったものだから、兵部さまもやむなく誓紙を書いたけれど、あとでなにかあったばあいにはひじょうに困る、と仰しゃってましたわ」
「その三カ条はどんなものだ」
「あたし聞いたんだけれど、とても覚えてなんかいられやしませんよ」
六郎兵衛は舌打ちをした、「伊東のことはそれだけか」
「ええ、いま病気だから、五月か六月に江戸へ出て来て、御家老になるということですわ」
「それから」
「それからって」
「変な話しというやつだ」と六郎兵衛は盃を取り、妹に酌をさせながら云った、「いま自分の口で云ったことくらい覚えていろ、きさまは頭が悪いうえに、男のことがあると
「あらいやだ」おみやは赤くなった、「あたし男のことなんて考えてやしませんわ」
「新八は逃げやしない、おちついて話しをしろ」と六郎兵衛は酒を
「よくわからないんだけれど」
おみやは右手の指で、右のこめかみを押し、ぐりぐりとそこを
六郎兵衛はきっと眼をほそめ、それがどうかしたか、と訊いた。
「ええ、その鬼役のことで、お二人がながいこと話していました」
「どんな話しだ」
「それがよく聞えなかったんです」
「人払いか」
「ええお人払いでした」とおみやは頷いた、「でもあたしはお次で
「それを云ってみろ」
おみやはまたこめかみを揉み、ちょっと、と云って立ちあがった。六郎兵衛は舌打ちをした。
おみやは廊下へ出ると、いそぎ足に新八の部屋へいった。彼は火のはいっていない
「もうよくってよ」とおみやが云った、「兄のほうは大丈夫だからでかけてちょうだい」
「だってまだ」と新八は云い渋った。
「いいの、ほんとよ」
おみやはそう云い、すばやくあたりを見ると、部屋の中へはいって、立ったまま新八の肩を抱き、「可愛いこと」と囁きながら乱暴に頬ずりをした。
「心配は要らないからでかけてちょうだい、あたしもあとからすぐにゆくわ、わかったわね」
新八は弱よわしく頷いた。
「きっとよ」
おみやは紙に包んだ物をそっと彼のふところへ入れ、それから廊下へ出て、
おみやが戻ってゆくと、六郎兵衛はふきげんに、眼尻でじろっと見、しかし待ちかねたように「思いだしたか」と訊いた。
おみやはゆっくり坐った、「新さんを使いに借りてもいいでしょう」
六郎兵衛はあとを促した。
たいしたことじゃないんです、とおみやが云った。鬼役のなかで誰と誰がいいか、
「兵部さまが、亀千代ぎみの
「袴着というのはいつだ」
「あたし知りませんわ」
「おちつけ」と六郎兵衛は妹を
「あたしおちついてますよ、でもこれでもう話すことは残らず話しましたわ」
「もういちどはじめから云ってみろ」
「はじめからですって」
「訊き返すな、もういちどはじめから話せばいいんだ」と六郎兵衛はきめつけた。
おみやは繰り返した。六郎兵衛は盃を持ったまま、眼をつむって、殆んど無関心な態度でじっと妹の言葉を聞いていた。そうして、おみやの話しが終っても、そのまましばらくじっとしていたが、やがて「原田甲斐」と口の中で呟き、静かに眼をあけて、盃をさしだした。
「原田、――甲斐、……」と彼は、なにか固い物でも噛むように、一語ずつ、口の中で強く呟いた。おみやは兄の盃に酌をした。
「よし、もう帰れ」と六郎兵衛が云った、「念には及ばないだろうが、よく注意して気づかれないようにしろ、火急と思われることがあったら手紙で知らせるんだ」
「ええ、そうします」
「それから新八のことだが」と六郎兵衛は酒を呷った。
立とうとしたおみやは「新八のこと」と聞いて、どきっとしたようにまた坐った。
「これはまだはっきりしたことではないが、おれの聞いたところによると、隣りにいる女となにかあるようだぞ」
「お久米さんとですか」
「はっきりしたことじゃない」と六郎兵衛が云った、「このまえ、新八をしばらく外出止めにした、五十日ばかりだったろうが、そのあいだにこそこそ始めたらしい、それからあともときどき逢っているようだ」
「だって、一人で外へは出さないんでしょ」
「そう命じてはある」と六郎兵衛は自分で盃に酒を注いだ、「しかしあいつも人間だから、一歩も外へ出さないというわけにはいかない、それに野中の妻女が病身で、買い物なども不自由だというから、一人ででかける機会はあるんだ」
「そのときお久米さんと逢ってるっていうのね」
「たしかではない、ときどきでかけて、帰りのおそいことがあるというんだ」
「たしかだわ」おみやの声はうわずった、「あの人はまえから新さんにへんな眼つきをしていたもの、それに色好みで、旦那という人がごくたまにしか来ないから、きっと新さんをむりやりくどいたのよ」
「そうのぼせるな」と六郎兵衛が云った、「とにかく新八はまだ放せない、まだ当分は
「材木河岸へ置くからいけないんだわ」とおみやが云った、「もうあの人たちは和泉町へ移ったんだもの、この道場へ置いて下さればいいのよ」
「それはだめだ、なにか頼めるのは野中ひとりだ、野中なら安心して預けられるが、ここに置いたらいつ逃げられるかわかったものではない」
「だって新さんにはゆくとこがないじゃありませんか」
「ばかなやつだ」と六郎兵衛は手酌で飲んだ、「ちょっと油断をしてみろ、一ノ関がすぐに
「あたしもう帰ります」
おみやはいそいで立ちあがった。
道場を出て、空いている
おみやが道場を出たときから、一人の浪人者があとを
新八は横になり、
「一生を面白おかしく、か」新八はふんといった。
その手紙はお久米から渡されたもので、いちど道場でざっと眼をとおし、この茶屋へ来てからも、もう三度も読み返した。それは、二人で出奔しよう、というさそいの
「侍はもうはやらないか」
新八はごろっと仰向きになり、手紙を持ったまま、両手を頭の下で組んだ。
お久米とはもう七八回も逢っていた。浅草の茶屋町の横丁に、加賀節という小唄を教える女師匠の家がある。女の師匠は当時は
新八にとっては、おみやよりもお久米のほうが好ましかった。おみやはそのことだけに熱中し、殆んど飽きることを知らない、というふうであるが、お久米は酒もほどよく、唄もうたい、やんわりくどきかけるし、あとにしんみりとした余情が残った。
「浄瑠璃太夫か」と彼は天床を見ながら、そっと呟いた、「そのほうがいっそましかもしれない」
「なにがましなの」と縁先で声がした。
新八はとび起きた。おみやが縁側からあがって来て、いきなり彼に抱きついたと思うと、うしろへまわした彼の手から、すばやく手紙を奪い取った。新八はかっとなった。ゆだんしていた自分にも
「なにをするんです」彼はおみやの腕を
おみやは手紙を左の手に持ち替えた。新八はその手を逆に取り、
「痛いわよ、手が折れるじゃないの」
新八は彼女の腕を放し、手紙をずたずたにひき裂いた。
「そんなことしたってだめよ」とおみやが云った、「やぶいて捨てたって、誰からなにを云って来た手紙か、ちゃんとわかってるんだから」
「そんなら文句はないでしょう」
「よくもそんな口が」おみやは
顔はすっかり
「新さん、あんたよくもそんな口がきけるわね、まさか三年まえのことを忘れたんじゃないでしょうね」
「それはこっちの云うことだ」
「なんですって」
「それはこっちで云いたいことだというんだ」と新八は云った、「あんたも柿崎さんも、口をあけば世話をしてやったとか食わせてやったとか云う、自分たちからはなれればその日から食うにも困るなどと云う、笑わせてはいけない、いったいあんたたちはなに者なんだ」
おみやは口をあけた。
「えらそうに構えているが、柿崎六郎兵衛は妹に躯を売らせて生きて来た男じゃないか」
おみやは「新さん」と云った。
今日は云うだけのことを云う、と新八はひらき直った。妹のあんたはあんたで、その必要がなくなってからも、好きで寺のかよいだいこくをするような女だ。それはひどいわ、新さん。だめだ、みんな知ってるんだ、と新八は云った。
「あの道場をひらいた金の出どこも、この新八をひきつけて置く理由も、私にはもうわかっている、世話をするどころか、あんたたちは私を利用して来たんだ」
「待って、ね、待って新さん」
「そばへ寄るな」と新八は叫んだ、「三年まえ、あんたは私をむりやり自分のものにした、あのときから私の性根は腐ってしまった、いまではもう、まともな生きかたなんかできやしない、われながらあさましいほどだめな人間になってしまった、三年まえのことを忘れたかとは、私のほうで云うことだ」
おみやは泣きだした。袂で顔を
「あたしが悪かったわ」と泣きながらおみやが云った、「堪忍して、新さん、堪忍してちょうだい」
「いくらでも泣くがいい」と新八は云った、「もう泣かれるぐらいのことでごまかされはしないんだ」
「あたしあやまるだけよ」とおみやが云った、「あたし自分のことしか考えなかった、新さんとお久米さんのことを聞いて、気が狂いそうになっていたのよ、それだから夢中であんなことを云ったんだけれど、新さんに云われるまでもなく、自分が悪いということはよく知っているわ」
「いつもそれで
「あたしあんたを騙して」とおみやは声をふるわせた、「いちどでもあんたを騙したことがあって、新さん、それはあんまりよ」
「いいよ、口ではかなやしないんだ」
新八はあぐらをかき、庭のほうに向かって、片方の
「たしかに、私はお久米とそういう仲になってるよ」と彼は云った、「いやなことだ、私だってお久米とそういう仲になろうとは思わなかった、自分で自分がいやになる、じっさい自分でいやらしいやつだと思う、しかし、私をこんないやな人間にしたのは、私だけの罪ではないぜ」
おみやは泣きつづけていた。
「おまえは」と新八は云った。初めて口にするおまえという呼びかたが、彼自身の耳に、いかにもこころよく響くようであった。
「おまえは、あのことを私に教えこんだ、私はいやがった、私は恥ずかしさと怖ろしさとで、身も心もちぢみあがった」
「やめて、お願いだからやめて、新さん」
「いや私はやめない」と彼は
おみやはまるでうたうように
「私はすっかりあのことに騙され、あのことなしには済ませなくなった」と新八は云った、「すると、急におまえがいなくなった、とつぜん屋敷奉公にあがって、ごくたまにしか帰ってこない、それでも、そのままならまだよかったかもしれないが、宿さがりのたびにあのことをしいる、忘れかかるころになると、おまえは帰って来て、私を飽きるまで自由にする、そしてまた屋敷へ戻っていってしまうんだ、私はどうすればいい、すっかり馴れてしまって、あのことが欲しくなって、自分で自分をどうしようもなくなることがある、だが、おまえはいない、おまえは手の届かない遠いところへいってしまってるんだ、――おまえがまだ材木河岸にいるじぶんから、お久米は私にさそいかけた、私はみむきもしなかった、だがお久米は
「ええそう、そのとおりよ」おみやは泣きながら頷いた、「みんな新さんの云うとおり、悪いのはあたしよ」
「泣くのはよしてくれ」
「ええ泣かないわ」おみやは涙を拭いた、「新さんに云われて、初めてわかった、あたしはただ新さんが好きで、可愛くって、どうしてもそうならずにはいられなかったの」
「本当にこのおれが好きなら、女はもっと違ったことをする筈だ、私はまだ十六にしかなっていなかったんだぜ」
「でもあたしは、そうするよりほかにどうしようもなかったの、あなたの年のことも、そんなふうにしていいか悪いかということも、なんにも考えられないほど夢中だったわ」
「おまえはただそのことだけが好きなんだ、相手はおれでなくったって、誰だってよかったんだ」
「いいえ違う、それだけは違う、あたしがそんな夢中になったのは新さんだからよ」
「そう云えば私がよろこぶとでも思うのか」
「いいえ、あやまるだけよ」とおみやはまた泣きだした、「あたしはなにもかもわからなくなるほど新さんが好きだったのに、そのために却って新さんを悪くしてしまった、そう思うとあたしどうしていいかわからない」
「泣くのはよせというんだ」
「云ってちょうだい、あたしどうしたらいいの、新さん」
おみやは泣きながら云った、「どうしたら罪が償えるか云ってちょうだい、あたしあなたの云うとおりにするわ」
「わけはないさ」と新八が云った、「別れるだけだ」
「別れるって」おみやはぎょっとしたように彼を見た。
新八はおちついたようすで、彼女に背を向けたまま、ゆさゆさと片膝をゆすった。おみやは「新さん」と、かすれた声で叫びながら、立っていって新八の膝にとりつき、濡れた眼をきらきらさせながら、つよく彼の顔を見あげた。
「新さん、あんた本気でそう云うの」
「もちろん本気だ」
「お久米さんのために」
「おまえの知ったことじゃないさ」
「お久米さんのためね」
「おまえの知ったことじゃないというんだ」と新八は冷やかに云った、「お久米やおまえのほかに、世の中に女がいないわけじゃないんだからな」
おみやは息を詰めた。あんたはそんなにも悪くなったの、とでも問いかけるように、息を詰めて彼の顔を見まもった。新八は
「もうそのくらいいじめればたくさんよ、もう堪忍してくれるわね、新さん」
「どうするんだ」と新八が振向いた。
「わかってるくせに」
おみやは
「おれは別れるって云った筈だぜ」
「いつだって別れるじゃないの」とおみやは彼の手に頬ずりをした、「逢えるのはほんの僅かな時間よ、そして、短いはかない時間が経つと、いつでも別れなければならないじゃないの、辛いのは新さんばかりじゃあないことよ」
「子供を騙すようなことはよしてくれ」
「あなたはもう子供でもないし、あたしなんかが逆立ちをしたって騙せやあしないわ、新さんはもういちにんまえの男よ、あたしの負けだわ」
「それがわかればいいさ」と新八は立ちあがった、「じゃあ私は帰るよ」
おみやは立って彼に抱きついた。両手を彼の首に絡みつけ、彼の唇や、頬や、
「お願いよ、もう堪忍して」
「いつもの手だ」
おみやは「新さん」と
その熱い喘ぎが、彼の耳を包んだ、新八は自分が勝者であることを感じ、そして、それがたしかであるかどうかを、思い直してみる気持もなく、おみやにひかれるままに、隣りの暗くしてある小部屋へ、
そして約一刻のち、――新八とおみやはその茶屋を出た。新八は羽折をぬいで、袖だたみにしたのを、左の腕にかけ、もの憂いような、ぼんやりした顔をしていた。おみやは歩きながら、ときどき眼の隅で彼を見、そしてひそかに、微笑していた。
「渡し舟で真崎へいきましょうね」とおみやは云った、「初めて来たときのことを思いだすわね」新八は黙っていた。おみやの顔は、濃い化粧をしているにもかかわらず、活き活きと艶だっているし、その眼はきらきらとして、獲物を飽食したあとの若い
「あのころは新さんもうぶだったわ」
新八は「ふん」といった。
「それがすっかり変ったわ」とおみやはつづけた、「今日はあんなにいじめられて、別れるって云われたときなんかあたし息が止まるかと思ったわ、ひどいひと」
二人は堤へ出た。
「でも嬉しいわ」おみやはすばやく、その手で新八の腕に触った、「いじめられたときは悲しかったけれど、でもあんたがそんなふうに、ずけずけ云えるほどおとなになったのだと思うと、あたし嬉しくってぞくぞくしたくらいよ」
「それは結構だ」と新八は腕にかけていた羽折を、まるで持ち
「その名を云わないで」とおみやが
「云わなければいいのか」
「お願いだからあの人のことだけは云わないでちょうだい」
「口に出しさえしなければいいんだな」と新八は皮肉に云った、「わかったよ」
おみやは振向いて「まあ」と云い、つくづくと新八の顔を見まもった、「あんたってほんとに悪くなったのね」
「おまえのおかげさ」
「そんなに」と云いかけておみやは黙った。そんなにいじめなくっても、と云おうとしたとき、うしろから来て追いぬいた浪人者が、おみやの前に
新八は「あ」と声をあげた。
「なにか御用ですか」とおみやが云った。
編笠をぬいだ浪人者は「いっしょに来てくれ」と云って、
「そこに
「あなたはどなたですか」
「訊いてみろ」と浪人者は云った、「そこにいる宮本は知っている筈だ」
おみやは振返った。新八はごくっと
「石川兵庫介さんです」
「石川さんて」おみやは彼を知らなかった。
だが新八の
「そうだ、おれだ」と石川は云った、「柿崎にこの右腕を取られた石川兵庫介だ」
「あたし、それはあたしの知らないことです」
「もちろんさ」と石川は唇で笑った、「あんたの知ったことでもなし、あんたの罪でもない、おれはただ柿崎をおびき出せばいいんだ、柿崎をおびきだすために、あんたをしばらく借りるんだよ」
「新さん」おみやは新八を見た。
石川は編笠を持った左手で、ぐっとおみやの手首をつかみ、新八に向かって、「やあ」と呼びかけた。
「久しぶりで会うのに気の毒だが、へたな手出しはよせよ、おれは柿崎に仕返しをするつもりで、やわらという新らしい武術をならった、この左手の一撃で骨を断つことができる、片輪だと思ったらまちがいだぞ」
「しかし、石川さん」
「なにも云うな、それよりもこれからすぐに道場へいって、柿崎にこう伝えろ」
おみやがそのとき、とつぜん石川の手に
新八は茫然と立っていた。転げ落ちてゆくおみやの、華やかにひるがえる下着の色と、やわらかく
足軽とみえる若い侍が一人、やはり堤をおりて石川より先に、おみやのそばへ走り寄っていた。その侍は牛の御前のほうから出て来て、おみやの
おみやは
「助けて下さい」とおみやは叫んだ。
あらわになった膝を隠し、根のくずれた髪へ手をやりながら「どうぞ助けて下さい」と声かぎり叫んだ。若い侍はそばへ来た。
「どうしたのです」と訊きながら、彼は堤の上を見た。
石川は堤の上からこっちを見ていた。どうしたものか迷っているらしい。若い侍はおみやを見て、いったいどうしたのか、と訊いた。おみやは立ちあがって、肩で息をしながら、ふと眼をみはって「まあ」といった。
「あなたは黒田さんじゃありませんか」
「ええ、黒田ですが」
「お勘定部屋の黒田玄四郎さんでしょ」
若い侍はけげんそうに「
「ああよかった」
おみやは彼の問いには答えずに、堤の上の石川を見やった。そして、観念したらしい兵庫介が、編笠をかぶりながら去ってゆくのを認め、いまの男に掠われるところでしたの、と
「掠われるとは」
「いきなりとびかかって、駕籠で掠ってゆこうとしたんです、でもよかったわ、あなたが来て下すったので、あぶないところを助かりました」
「貴女は私をどこで知っていたんです」
「そうね、御存じないのがあたりまえですわね」とおみやは
「酒井家にですか」
「お
「しかしどうして」と黒田玄四郎は女を見た。
なにやらさぐるような、用心ぶかい眼つきであった。
「どうしてって、奥ではあなたはたいそうな評判ですもの、あなたは御存じないようですけれど、あたしたちのほうでは、あなたのお姿を見るのにたいへんな騒ぎですのよ」
「ばかなことを」と黒田は顔をしかめた。
「あらほんとですわよ」
「乗物まで送りましょう、渡しでゆきますか」と黒田は堤を登った。
「ちょっとそこで休みたいんですけれど」とおみやがうしろから云った、「あたし着物を直さなければ帰れませんわ」
堤の上には、いまになって、往き来の人がちらほらみえはじめ、新八は少しはなれた道の上で、あがって来る二人を眺めていた。――おみやは新八のほうは見ずに「呼びかけるな」という手まねをし、渋っている黒田玄四郎をせきたてながら、いましがた出て来たばかりの茶屋へと、戻っていった。
おみやは歩きながら、休みなしに話しつづけた。
黒田の美男で、
「もうそんな文を付けられたことがあるでしょ」とおみやは横眼で彼を見た。
「ばかなことを」と黒田は云った、「私は酒井家に召出されてようやく二百日ぐらいにしかならないし、身分はまだ足軽です」
「でも御勘定部屋へ出ていらっしゃるわ」
「それは組頭の御好意で、身分はまだ足軽なんです」と黒田はきまじめに云った、「無事に勤めができれば
「このうちよ」おみやは彼に振向いてから、先に立って茶屋の中へはいった。
茶屋の土間をぬけ、
離れのその一
「いまのことを頼みます」と黒田は老婆が去るのを待ちかねて云った、「本当に扶持に放れでもすると困るのですから」
「おあがりなさいましな」さきにあがったおみやが、座敷の中から彼に笑いかけた、「そんなところにいらしっては話しもできやしませんわ」
「私は半日の暇をもらって出て来たので、そうゆっくりしてはいられないんです」
「でもお口をしめすくらいはいいでしょ」とおみやは云った、「わたくしお上づきの腰元だって、申上げた筈ですわ」
「では茶を一杯だけ」
黒田玄四郎は刀を脱し、それを右手に持って、濡縁へあがった。
――申上げます。里見十左衛門がおめどおりを願っております。
「十左が、おれにか」
――
「
――隼人にございます。
「待ちかねた、十左に会ったか」
――はあ、ただいままで。
「半
――すっかりくいさがられました。
「用件はなんだ」
――吉岡(奥山大学)どのの件でございます。
「問責だな」
――箇条書を持参しました。
「読んでみろ」
――長文ですから摘要して申上げます。
まず吉岡どの自身の
次に不義の条では、藩家の庫に入るべき米を、自分の米として江戸へ送り、悪米をもってこれに代えたうえ、足軽、小者らの扶持方に回したこと。
また従来、領内の米大豆は、諸侍、商人らによって自由に江戸へ送らせていたのを、布令を発して他領に出すことを停止し、しぜん相場の下るのを待って、自分が買占めて江戸へ送ったこと、これなどは
「事実なら要だな」
――十左はいつでも証拠を呈出すると申しておりました。
「大学はかつておれを非難した、おれが藩の御用船で米を
――このほかに、依怙の沙汰、違法の行跡を列挙し、吉岡どののために、領内の士民たちが困窮していること。これはむろん吉岡どのの責任であるが、吉岡どの一人に国の仕置をまかせた、両後見の責任でもある、と申しました。
「それで会いに来たのか」
――おめどおりで申上げ、御返答しだいでは覚悟があってまいったなどと、たいそうけしきばんでおりました。
「十左らしいな、しかし彼はどうして船岡(原田甲斐)へゆかなかったのか、なにか事があれば、まず船岡へゆく筈ではないか」
――お忘れでございますか、彼は原田どのへはもはや足踏みを致しません。
「それは知らぬぞ」
――私は御存じかと思っておりました。
「なにか
――お上の御推挙で国老になるという
「そのことは聞いた」
――当時はそれでも半信半疑だったようですが、以来、船岡どのの行状をつぶさに看ており、しだいに不信を強めていたところ、国老に就任すると同時に、例の
「うん、あのときの船岡はみごとだった」
――さようにうかがいました。
「その所領にあるものは領主に帰属するのが当然である、金山に限って特に規定があれば格別、さもなければ、問題にするほうが不審といわなければならぬ、と彼は申した」
――その所領より産するものは領主に帰属する、当然のことですが、云い切るのは
「大学の歯噛みをする面が見せたかった」
――およそ見る如くでございます。
「では、十左は船岡へは出入りをせぬというのか」
――まったく近よらぬとのことです。
「この件については、直接ここへまいったようすか」
――いや、まず箇条書を持って吉岡どのに面会し、じかに問責したということでございます。
「面目躍如だな」
――ついで幕府の国目付、今年は天野弥五左衛門どの、神尾五郎太夫どのお二人ですが、その国目付へまいって訴え、なお、そのうえ、出府したと申しておりました。
「まるで計ったようだな」
――はあ。
「まるでおれが十左を踊らせているようではないか」
――潮どきでございますな。
「潮どきだ、もう六カ条をのんでもいい、大学は衣川の境界と六カ条でおれを絞めあげるつもりだった、たぶん勝算に酔っていただろうが、おのれ自身の足もとを見なかった、うん、まさに潮どきだ、六カ条をのんで、彼を罷免してくれよう」
――仙台へ通じましょうか。
「そうしよう、だが待て、領内のものなりの移送を禁じ、相場の下るのを待って買占めたうえ、江戸へ送って不当の利を得た、という件はもっとも大事な点だ、これは確実な証拠が要るぞ」
――承知つかまつりました。
「その証拠を挙げるまで待つとしよう、十左がそこまでやったとすれば、仙台でも騒ぎだすに違いない、そのもようをみてからでもおそくはないかもしれない、なんだ」
――申上げます、伊東新左衛門どのがおめどおりを願っております。
「新左衛門が出てまいったか」
――一昨日、上府されたとのことでございます。
「待たせておけ」
――はあ。
「隼人、どう致そう」
――また誓紙の件でございましょう。
「岩沼(田村右京)は出すと申しておる。おれも出してもいいと思う、さしてこだわるほどの条目ではない、隼人もみた筈だ」
――はあ、第一は忠言あらば卑賤の者たりとも採用すべきこと、第二は親疎によって賞罰を軽重せず、
「それだけだ、なんの変哲もないものだが、誓紙にしてくれということと、
――拒めば国老にならぬと申すのですな。
「それだけではあるまい、拒めばその変哲もない条目が生きてくる、すなわち、それを承認できないような事実がある、ということになるだろう」
――それはおぼしめし過しかと存じますが。
「いや、彼のようすをみるとわかる、条目そのものよりも、誓紙にして取ることができるか、取ったらこう、取らなければこうと、
――それでは、いかがなされますか。
「出さなければなるまい、しかし今日は会わぬ、多用だといって帰してくれ」
――日取を問われましたら。
「また来いと申せ」
――承知つかまつりました。
「待て、船岡と酒井邸へゆくのは明日であったな、よし、新左衛門にはまた来いとだけ申せ」
――承知つかまつりました、ああ、柿崎六郎兵衛を待たせてありますが、いかが致しましょうか。
「おれは知らなかったぞ」
――里見十左衛門の来る半
「金のことか」
――さように存じます。
「いま手当はどれほど遣わしているのだ」
――それは任せていただいた筈です。
「では会うことはないだろう」
――私はむろんさように存じます。
「おれは彼は使えると思った、だがどうやらそんな必要はなくなってきたらしい、まだそうときまったわけではないが、宮本の
――それは私がよく
「しかしいそぐな、これまでに遣わした手当だけは働かせなければならぬ、手を切るまえには必ず知らせるように」
――承知つかまつりました。
甲斐は手紙を読んでいた。
――初めての非番で、向島へ歩きにでかけた、とその手紙には書いてあった。その帰途、思いがけないことで、一人の婦人を助けたところ、その婦人は同じ酒井家の本邸で
――いちどは断わろうと思ったのであるが、「雅楽頭つきの腰元」と聞き、今後なにかの
――勘定部屋の支配は特にめをかけてくれるし、同僚との
甲斐は滝尾となのる女のくだりを読み返し、柿崎みやという本名を、口の中で三度ばかり
そのとき、内庭へ伊東七十郎がはいって来た。丸腰で、着物の衿ははだかり、袴も裾がひきずるほど着崩れている。片手をはだけた衿からふところに入れ、片方の手に満開の八重桜の枝を持って、――酔っているのだろう、ふらふらと縁側のほうへ歩みより、「邪魔をしていいですか」と声をかけた。
甲斐は手紙を巻きながら振向いた。七十郎は縁側へあがり、それから部屋へはいって来て、どかっと、あぐらをかいた膝へ、桜の花枝を横たえた。
「久しぶりだ、いつ出て来た」と甲斐が云った。
「酒をもらえませんか」
「私はでかけなければならないんだ」
「雅楽頭へ伺候ですか」七十郎はにっと笑った、「いいですとも、おでかけのあとは独りで飲みますよ」
「
成瀬久馬が来た。彼も十八歳になり、むろん元服しているし、同年の塩沢丹三郎より背丈も高く、躰格もがっちりしていた。甲斐が酒の支度を命ずると、七十郎は桜の枝を渡しながら、大きくなったな、と云った。
「大きくなった、いい侍になるぞ、うん、こいつをなにかに
甲斐は机の上に
七十郎はその横顔をみつめた。するどく、刺すような視線で、じっと甲斐の横顔をみつめ、なにか云おうとしたがまた思い返したというふうに、鼻声でうたいだした。
「――の茶屋へ
ひと口なすびを置いて来た
ひと口なすびに
ねいねい ねっから
おんじゃり申さない よさ
とかく浮世は……」
そこまでうたってきて、彼は「うるさいですか」と甲斐に呼びかけた。甲斐はあいまいに「う」といっただけで、あとは黙って書きつづけた。
久馬が桜をした壺をはこんで来た。七十郎はそれを自分の左の脇に置かせ、酒の来るまで、花を眺めたり、甲斐の横顔を見たり、いつもの彼に似ず、ひどくおちつかないようすだった。――酒をはこんで来たのは、辻村又之助と堀内大助の二少年であった。又之助は辻村平六の弟で十四歳、大助は堀内惣左衛門の二男で、年は同じ十四歳だった。
給仕はいらないから、もっと酒を持って来てくれ、と七十郎が云った。少年たちは甲斐のほうを見たが、七十郎にせきたてられて去り、家紋を
「原田さん、膳が来ていますよ」と七十郎が云った。
甲斐は「もう少しだ」と云って書きつづけている。七十郎は自分の膳をひきよせ、
「そうか」と七十郎は手酌で飲みながら
「謙遜だな」と甲斐が云った。
「なにをそんなに
「
甲斐は「うん」と頷き、筆を
成瀬久馬が来た。甲斐はいま書いたものを渡し、「惣左衛門に」と云った。久馬はすぐにさがっていった。
「さて不平を聞こう」と甲斐は向き直り、「客にゆくのだから酒の相手はだめだ」と断わった。
七十郎は甲斐の眼をみつめて云った。
「正直に答えてくれますか」
甲斐は微笑した、「七十郎にも似あわない、愚問だな」
「なにがです」
「まあいい、答えられることは答えよう」
「答えられないこともあるんですか」
「そう思うね」
「だがそうはいきませんよ、今日こそ私は納得のゆくお答えを聞くまでは、断じて動かないつもりですからね」
甲斐は眉も動かさなかった。
「第一にうかがいますが、貴方が一ノ関の与党になられた、という
「知らないね」
「そういう評がもっぱらです、ではそういう評が生れる理由はおわかりになるでしょう」
「どうだかな」
「わからないこともないわけですか」
「次を聞こう」
「私が例をあげます」と七十郎は云った、「貴方は松山ともはなれ、
七十郎はそこで言葉を切った。甲斐は黙っていたが、七十郎があとを続けないので、訝しそうに振向いた。
「聞いておいでですか」と七十郎が云った。
甲斐は、聞いている、と答えた。
「貴方は佐月どのの葬儀にも松山へゆかれなかったし、青根の宿では私の
「話しはしたと思う」
「したのは義兄です、貴方ではない、義兄はまじめに、しんけんな気持で貴方を訪ね、貴方の意見を聞こうとした、ところが貴方はまるで相手にもならず、義兄の問いに対して満足な答えもされなかった、義兄は帰って来て、あなたのひとがらがまったく変った、と云っていましたよ」
「では七十郎と意見が合ったわけだな」
「そういうところです」
七十郎は汁椀の蓋を取り、それに酒を注いで飲んだ。そして、これを要するに、と微笑しながら云った。
「つまり、これらの条件を総合すれば、貴方が一ノ関の与党になったという評は、生ぜざらんと欲するも得べからざるものだということができるでしょう」
「世評はたいてい好ましいように作られる」と甲斐は云った。
「そういう場合もある、というのでしょう」と七十郎が訂正した、「世評は世人の好ましいように作られる場合もある、けれどもしばしば、ふしぎなくらい真相をうがっていることがあるものです」
「それで」
「私がうかがいたいのはその点です」
甲斐は右の手をあげ、
「私ばかりではない、松山もそう信じていた、私の確信が崩れかけたとき、松山は貴方と盟約のあることをうちあけ、どこまでも信じているべきだと云われた、信じているべきだ、とですよ」と七十郎は云った、「原田さん、貴方の本心を聞かせて下さい、貴方は
甲斐はこすっている手指を見ながら、そのどちらでもない、と答えた。
「どっちでもないんですって」
「そう、私は私であるだけだ」
「不偏不党ということですか」
「私は私だというのだ」
「松山との盟約はどうなるんです」
「盟約とはどんなことだ」
「貴方はまじめでしょうね」七十郎は汁椀の蓋を置いた、「では云います、酒井雅楽頭と一ノ関とで、伊達家六十二万石を寸断しようとする陰謀がある、そのため
「松山がそれを云ったのか」
「茂庭さんからじかに聞きました」
甲斐は手を膝へおろした。
おろしかたが荒かったので、その動作は膝を打つようにみえ、はたと音がした。しかし甲斐は平明な、少しも変化のない表情で「ふしぎな人だな」と云った。
「誰がです」
「松山がだ、もしその盟約が事実だとしたら、ほかへはもれないようにする筈だ」
「ほかへもれたんですか」
「現に七十郎が知っている」
「私がですって、――貴方はこの七十郎を、そんなふうにみているんですか」
「私はどんなふうにもみない」と甲斐は穏やかに云った、「私は臆測や疑惑や勝手な想像で、人をみたり商量したりすることはしない、誰に限らず、なにごとによらず、私は現にあるとおりをみ、現にある事実によってその是非を判断する、もしそんな盟約があるとすれば、盟約者以外には秘してもらさぬ筈だ、たとえそれが七十郎であろうともだ」
七十郎はちょっと口をつぐみ、それから、さぐるように云った、「貴方は松山を非難するんですか」
「私は人を非難したことなどはない」
「ではいまの言葉はどういう意味です」
「わからない男だ」と甲斐は頭を振った、「七十郎は長崎までいって、ねぼけて来たようだな」
「云って下さい、では盟約はどういうことになるんです」
「つまりなかったということだろうね」
「なかった、ですって」
「当然、秘すべきことを、そうたやすく人に話すとすれば、それは秘すべき必要のないことであり、つづめていえば、そんな盟約はなかったということになるだろう」
「それはまじめですね」
「酔っているのは、七十郎だ」
「原田甲斐――か」と七十郎は鼻を鳴らした。
彼は手を伸ばして、八重桜の花を摘み取り、それを口へ入れて噛みながら、汁椀の蓋でつづけさまに飲んだ。
「貴方は
「質問は終りらしいな」
「まだ二つあります」
「私はもうでかける時刻だ」
「なに、雅楽頭なんぞ待たせておきなさい」
七十郎はまた二杯飲んだ。
「率直にうかがいます」と彼は云った、「一つは離婚の件、一つは加増の件です」
「手短かにたのむ」
「まず離婚についてうかがいましょう、どうして御内室を離別されたのですか」
「それはむずかしいな」
「だめですか」
「だめということはないが、夫婦のあいだのことを他人に話すのはむずかしい、むずかしいばかりでなく、他人には理解のつかないことがある」
「たとえば」
「そう、たとえば
「もう少しはっきりうかがえませんか」
「はっきり云う必要があるのか」
「茂庭さんの依頼です」
「律の恥になってもか」
「私は伊東七十郎です」
「では云おう」甲斐は膝の上で両手の指を組み、眼を伏せながら、嘆くような調子で云った、「律は情愛の深い女だった、私はいい妻を
「要するに、それは、そのほうの病気ということですか」
「病気なら治療することができる、律は風邪ひとつひいたことがないほど健康だ」
甲斐は膝の上の手を、組んだままあげて、力なくまた膝の上へおろした。
そして自分が評定役になり、江戸番を勤めるようになった、と甲斐はつづけた。一年の留守、律は国にとどまらなければならない。覚悟はしたが、しぜんと起こって来る欲求を抑えることはできない。律はあらゆる方法をこころみた、東陽寺は原田家の
「もしも律のそれが病気の一種であったら、鎮める手段がないという筈はない」と甲斐は云った。
だが律は健康であり、その欲求も良人のほかに対象はない。ただ良人を求める欲望の激しさと江戸にいる良人への疑惑と嫉妬とで、日も夜もなく悩み苦しんだ。――このままでは狂人になってしまう、と律は思った。――良人を忘れるくふうをしてみよう、苦しさに耐えかねて律はそう思った。
「そして、それをやったのだ」と甲斐は云った。
七十郎は甲斐を見、甲斐がそのまま沈黙しているので「それをとは」と
「どういうことです」と七十郎がかさねて訊いた。
「それは云えない、それは律自身の問題だ」と甲斐が云った。
「では私がうかがいましょう、言葉を飾らずに云いますが」
いや、と甲斐はまた静かに首を振り、その必要はない、と遮った。
「七十郎の想像は違う」と甲斐は云った、「律は良人の私以外には、誰にも興味がもてない、どんな男にも愛情を感ずることができないんだ」
「では、それをやったというのは、どういうことですか」
甲斐はまた沈黙した。
「私にはこれだけしか云えない、律にとっては、それは狂気になるのを防ぐ、ただ一つの手段であったし、そのことは決して密通ではない、世間の道徳からいえばどう解釈されるかわからないが、密通でないことは私にはよく理解することができる、ただ、それが私に不快であり、
「そうまわり
「云えるのはこれだけだ」
「茂庭さんは具体的なことが知りたいといっていたんですがね」
「私に云うことのできる限りは云った、これ以上に具体的なことは、律だけにしか云えない、律に聞けといってくれ」
七十郎はまた、桜の花を摘み取り、それを
「達弥は律の秘事を見たのだ」
「お相手ではなくですか」
「律の秘事を見て、自分なりに解釈し、それが繰り返されないように、ひそかに看視していたのだ」
「はあ、すると離別した方への義理で達弥を放逐した、というわけですね」
「次の質問を聞こう」
七十郎は唇をへの字なりに曲げて、無遠慮に甲斐を見た、「近く二千石ばかり加増されるということですが、事実ですか」
「事実なら有難いな」
「ほう、有難いですか」
「有難いね」甲斐は鈴を取って鳴らした、「七十郎などと違って、やしなわなければならない家従が多いから、加増はなにより有難いよ」
そして甲斐は立ちあがった。
「原田甲斐、原田甲斐か」と七十郎は冷笑した、「貴方にはこれまでかなわないところがあった、しかしいまは
「では、また会おう」
「貴方とですか」こう云って七十郎は唇を
「それは残念だ」
「しかし忘れないで下さい、私には眼もあるし耳もある、七十郎はどこにいても、眼と耳が健在だということを忘れないで下さい」
そして汁椀に注いだ酒を
「もう一つ云うことを忘れていました」
甲斐は襖のところで振返った。
「まだ貴方は知らないと思うのだが、塩沢丹三郎が鬼役(毒見)を願い出ましたよ」
甲斐は黙っていた。
「義兄のところへ嘆願に来て、貴方は許さないがぜひ鬼役にあがりたい、どうか奔走をたのむと、血書を出して懇願したそうです」七十郎は
「それで終りか」
「終りです、しかし、これで彼が召出されるとすると、御身辺からだいぶ人が去ってゆくわけですね」
「私からも一言いっておこう」と甲斐が云った、「青根の宿で、伊東どのはこう云われた、七十郎は乱暴者かもしれないが、大事と小事をみあやまるほど、早合点な人間ではないと」
「それがどうしました」
「私はそれが事実であってくれるように願う、それだけだ」
そして甲斐は出ていった。
着替えをしていると、湯島から使いの者が来た。出府してから、まだいちども湯島へいっていない、「いつ来てくれるか」というおくみの催促であった。甲斐は、数日うちに、と答えさせた。――支度が終るとすぐ、矢崎
国老就任の挨拶なので、酒井家では老臣の関
「
案内されたのは、小書院であった。
久世大和守は平服に袴、雅楽頭忠清は白の
雅楽頭は四十歳になり、三年まえ湯島の家であったときよりは、さらに肥えてみえた。風邪ぎみだというけれども、顔色は
兵部が甲斐の国老就任を披露したが、雅楽頭は冷やかに聞きながし、大和守ととり交わしていた話題のなかへ、兵部をひきいれた。
大和守は甲斐を見た。雅楽頭の態度は、明らかに、甲斐に対するいやがらせである。妙なことをする、と大和守は思った。酒井忠清ほどの人物が、なんのためにそんなみえすいたことをするのか、と思った。また、甲斐はそれをどう感じているか、と思って見やったのであるが、甲斐も無表情に、おっとり坐っているだけで、どう感じているとも、うかがい知ることはできなかった。
話しは「やわら」という新らしい武術に関するもので、数日まえに、雅楽頭がその技法を見たらしい。演じたのは磯貝次郎左衛門、三浦与次右衛門という浪人者で、従来あった柔術小具足に新たな技法をとりいれた、
大和守は五十五歳であった。その座ではいちばん年長であるし、ながいこと将軍の側用人を勤め、まえの年に若年寄となって、「当代十善人の一人」と評されているくらいだから、甲斐に対する雅楽頭の態度を、そのままみのがしていることができなくなった。彼は雅楽頭の話しがひと区切りついたとき、ふと甲斐に向かって呼びかけた。
「いつぞや
「さようでございます」と甲斐は答えた、「国もとの農家などで致しますのを、いかがかと存じてお笑い草にさしあげました」
「いつでもありますか」
「さあそれが」と甲斐は苦笑した。
元来が農家の炉端のもので、多く冬に作られるが、自分は大量に製して産物にしようと試みた。さしあげたのはそれで、評判がよければ江戸で売り広めようと思ったのであるが、混ぜものをした味噌は貯蔵がきかず、味が変るので商品にはなりにくい、結局は失敗してしまった、ということをかいつまんで話した。
大和守は笑って、こなたにそういう道楽があるとは思いがけないことだ、と云った。いや、道楽どころではない、家政が苦しいので、そんなへたな才覚もしなければならないのだ、と甲斐は答えた。
そのとき、じっと甲斐のようすを眺めていた雅楽頭が、よくとおる
「その顔は見たことがあるな」
甲斐はしずかに低頭し、二度おめにかかっている、と云った。
「いちどは、さきの
「いやそうではない」と雅楽頭は頭を振った、「殿中のことは覚えている、殿中ではなく、そのほかのどこかで見たように思う」
「面目でございます」と甲斐は穏やかに云った、「私のはどこにでもざらにある顔で、おそらくお眼ちがいでございましょうが、厩橋侯からさようなお言葉をいただくのは、身に過ぎた面目でございます」
「いや、たしかに見た顔だ」と雅楽頭は云った、「それも見たばかりでなく、話したことさえあると思う」
甲斐は微笑しただけであった。
「その額による皺、その眼、口つき、その声までがそっくりだ」
兵部が甲斐を見た。甲斐はまったく平静に、それはますます面目に思うと云い、いささかも動じない眼で、雅楽頭を見ていた。
「では訊くが」雅楽頭はさらに云った、「そのほう
「八十島、はて、――」
「知らぬ筈はないぞ」雅楽頭は屹と眼を光らせた。
甲斐は知らないと云った、「なにかおぼしめし違いでございましょう。八十島主計などという者は知りもせず、名を聞いたこともございません」
すると雅楽頭の顔が赤くなった。彼はその大きな眼で、甲斐をにらみ、だが皮肉な、
「おれはその男に、湯島あたりで会った、湯島あたりのしゃれた隠宅で、その男はそこに女をかこい、家政が苦しいにしては、なかなか風流にくらしているようだ、おれは酒の馳走になったが、いとまがあったらまた訪ねようと思う」
甲斐はまったく無表情に聞いていた。
「こんど訪ねたとき」と雅楽頭はつづけた、「その男はおれに会うだろうか、それとも
「御難題でございますな」と甲斐は答えた、「その人間を知らず、したがって勇怯の質も存じませんが、仮に私と致しましたら」
「どうする」
「おそらく、鼬のように逃げることでございましょう」
「おれに会わぬか」
「
雅楽頭は「また、とはなんだ」と云った、甲斐は微笑して、いや申しますまい、と答えた。雅楽頭は性急に「申せ、申せ」とたたみかけた。甲斐は穏やかに、ではどうかお怒りにならぬようにと、断わってから云った。
「おそれ多くもあり、また、退屈でございます」
「おれが退屈か」
「お怒りなきようにと、お願い申しました」そして甲斐は座をすべった、「どうやら御機嫌を損じたもようです、もう御挨拶も済みましたし、私はこれでおいとまをいただきます」
「そうはならんぞ」と雅楽頭が云った、「その男はかつておれの盃を拒んだ、今日はその男に代ってその方に盃をくれる、それを受けるまで立つことはならんぞ」
「これはどうも」と甲斐は坐り直した、「お眼障りかと存じておいとまを願ったのですが、お盃が頂戴できるとは果報、おゆるしのあるまで
雅楽頭は片手で
もちろん命じてあったのだろう。移った数寄屋には小酒宴の席ができており、四人が座につくと、すぐに膳部がはこばれた。そして、数寄屋へ移ると、雅楽頭はまた甲斐を無視しはじめた。
――八十島主計の代りに盃をくれよう。
そう云ったことさえ忘れたかのように、盃もくれず、大和守と兵部を相手にして、さも興ありげに話したり笑ったりしていた。
給仕には侍でなく、七人の腰元が坐った。甲斐はそのなかに、どこかで見おぼえのある女が、一人いるのに気づいた。七人のなかではいちばん
――たしかに、見たことのある女だ。
甲斐はさりげなくその女を眺めながら、どこで見たかを思いだそうとした。女のほうでもそれに気がついたのだろう、どうやら甲斐を避けるようすで、近くへは来ないし、絶えず顔をそむけるようにしていた。
そのうちに雅楽頭がその女を呼んだ。
「滝尾はここへ来い」
その女は立っていった。
――あれが滝尾か。
中黒達弥の手紙に書いてあった女の名を思いだして、甲斐の興味はさらに強くなった。なにか
雅楽頭は滝尾をそばにひきつけ、給仕をさせながら、女のやわらかくくびれた
「一ノ関では六カ条をどうされるのだ」と雅楽頭が云った、「先日また殿中で柳川(立花忠茂)に督促されたが、もういいかげんに承知してはどうだ」
「そのつもりでおります」
「大学へ土産にくれてやれ」と雅楽頭は云った、「六十二万石の仕置を任されながら、結局、彼のしたことは六カ条の問題だけだ、罷免する土産にくれてやるがいい」
「私もそうするつもりでいたところです」と兵部が答えた。
「どうも仙台はうるさい」と雅楽頭は云った、「仙台びとの
雅楽頭は滝尾の胸のふくらみを撫でながらつづけた。
「口をあけば藩家のおためといい、大義名分を押し立てながら、おのれの権勢や利欲にも
「さよう心得るように致しましょう、しかし」と甲斐は静かに云った、「しかし、家中に起こった事を御老中に訴え出ることが、藩の外聞を思わぬ、不面目なしかたと仰しゃるのは、少しおぼしめし違いかと存じます」
雅楽頭の眼が光った、「申してみろ、なにが思い違いだ」
「御承知のとおり、陸奥守綱宗は御勘気をうけて、三年まえ逼塞に仰せつけられました、当時、私は評定役で、仔細のことは存じませんでしたが、綱宗の不行跡が
「それがどうした」
「しかし公儀におかれましては、隠居の願いをおききいれがなく、ついに逼塞という重い御処分を、仰せつけられました、また次に亀千代に家督の願いを申上げましたおりにも、御老中より弱年であるという御異議があったとおぼえております」
「それがどうしたというのだ」
「綱宗逼塞のときも、亀千代家督のときも、六十二万石壊滅かと、全家中は恐れ惑い、なかには仙台の城にたてこもって、斬り死にをしようなどと申す者さえございました」甲斐はそこで雅楽頭を見た、「両度に及ぶ公儀への恐れは、いまなお重役どもの胸に深く刻みつけられております」
「諄い諄い」と雅楽頭が
「公儀への恐れがそれでございます」と甲斐は静かに云った、「公儀への恐れと、なおまっすぐに申せば、
「おれを恐れていると」雅楽頭は滝尾から手を放し、まるで嘲弄するかのように繰り返した、「伊達家の重臣どもが、このおれを恐れているというのか」
「さればこそ、
「おれを恐れるあまりにか」
「いついかなる事で、重きお
「そのほうはまるで」と雅楽頭は笑った、「まるでこの雅楽頭が、伊達六十余万石を手に握っているように申すぞ」
「それは侯御自身が御存じの筈です」
「原田甲斐はどうだ」と雅楽頭が云った。
甲斐は微笑して、申上げるまでもない、と答えた。
「四十五歳まで、辛うじて評定役を勤めたほど、鈍才無能の私です。国老におとり立て願っても、ただ先任同役のしりに隠れ、肩身をちぢめているばかり、まことになんのお役にも立たぬ人間でございます」
「手のうちはみえている」と雅楽頭は云った、「いかにうまく
「これは、これは」と甲斐は
「そのくらいでよろしかろう」と久世大和守が、雅楽頭に向かってとりなすように云った、「今日はだいぶおきつかった、どうやら原田も窮したようすです、このへんで勘弁してやるがいいでしょう」
「久世侯のおとりなしだ」と雅楽頭が云った、「約束の盃をくれるぞ」
そして、持っている盃を、いきなり甲斐に向かって投げた。甲斐は上半身を捻った。盃は顔のあたりへとんで来たが、躯を
「おのれ、余のくれた盃をどうする」と雅楽頭が叫んだ。
甲斐は「手がすべりました」と低頭し、懐紙を出しながら座をさがって、落ちている盃を拾い、有難く頂戴つかまつります、と静かに云った。
「眼障りだ、さがれ」と雅楽頭は叫んだ。
甲斐は盃を懐紙に包んで平伏し、それから静かにその席を出ていった――。兵部と大和守は、気をのまれたような眼で、甲斐のうしろ姿を見送っていた。
――四月十三日(寛文三年)。
六カ条の件は、一ノ関の承服によって、本家国老と両後見、
甲斐はそこで筆を止めた。
「申上げます」という声が
「はいれ」と甲斐は云った。
塩沢丹三郎がはいって来て、襖際に、平伏した。甲斐は「しばらく待て」と云い、また手紙を書きつづけた。
――
――近いうちに増し
――吉岡(奥山大学)の罷免は確定したようだ。しかしその時期は少し延びる、おそらく秋になるだろうと思う。里見十左衛門が吉岡問責のため、一ノ関を訪ねたというのは事実だ、あれほど一ノ関を嫌っていた十左が、私のところへは来ず、みずから一ノ関を訪ねたのは吉岡排撃の一徹からであろう。いかにも十左らしいけれども、こういう一徹が、やがて彼自身を誤りはしないかと気がかりである。
――笑い話しを一つしよう。先日、私は一ノ関といっしょに酒井邸を訪ね、雅楽頭と面会した。国老就任の挨拶にいったのであるが、たいそうなもてなしを受けた。酒井侯とは、まえにいちど湯島の家で会ったことがある。これは帰国したときに話したから、たぶん
――酒井侯が盃を投げたとき、私が心のなかでなんと思ったか隼人にわかるか。久世侯、一ノ関、腰元などの見る前だ。私は、投げられた盃を拾いながら、心のなかで「これでよし」と思った。これでよし。笑い話しと書いたが、隼人には笑えないかもしれない。まだ知らせることがあるのだが、こんどはこれだけにしよう。
「これを
待っていた丹三郎は、すべり寄って、それを受取った。丹三郎はそのままさがろうとしたが、甲斐は待てと呼びとめ、静かな眼でじっと彼を見まもった。
「おまえは鬼役を願って出たそうだな」
丹三郎は「はい」と答えて頭を垂れた。
「なぜだ」と甲斐が訊いた。
丹三郎は答えなかった。甲斐はしばらく待ってから、青根であの密談を聞いたからか、と云った。丹三郎はまた「はい」と頷いた。
「本当にそのためか」と甲斐が云った、「そうではあるまい、密談を聞いたことのほかに、理由があるだろう」
「いいえ違います」と丹三郎は顔をあげた、「そのほかに理由などはございません、決して」
「宇乃のこともか」
丹三郎は躯を固くした。
「宇乃のことが動機になっているのではないのか、そうではないのか」
丹三郎はまた頭を垂れた。
甲斐は感情のこもった調子で、ばかなやつだ、と呟いた。おまえが宇乃に
「宇乃はおまえを信じ、頼っていた、親が非業に死んだあと、おまえの家に預けられていたし、良源院へ移ってからも、姉弟の世話はおまえが受持っていた、そして、
甲斐はそこで口をつぐみ、やがてまたつづけた。
「愛宕下のときは、もう一と足ちがえばかどわかされてしまう、危ういところを助けられたし、船岡までのながい道次も、知っているのは丹三郎だけだった、これだけ条件がそろっていたのだ、宇乃がおまえを信じ、おまえを頼みに思っていたことは、このおれの眼にさえわかっていた、だが宇乃はまだ子供だった、恋などという感情はまだわからなかった、おまえは待つべきだった、少なくとも二年待てば、宇乃にもそういう気持がわかるようになったであろう、まだ熟さない青い
丹三郎は顔をあげてはっきりと云った。
「はい、そうは思いません」
甲斐は不審げに彼を見た。
丹三郎の顔は、血のけを失って白く、仮面のように硬ばっていた。彼はまともに甲斐を見あげながら、私はそうは思いません、とはっきり云った。
「どうしてだ、そう思わないという、理由があるのか」
「ございます」
「どういうことだ」
「宇乃どのには、もう心に想う人がいたのです」
甲斐はじっと丹三郎をみつめた。
「私にはわかったのです」と丹三郎は云った、「それがわかったので、黙っていることができなくなったものですから」
「待て、それは誰だ」と甲斐が遮った。
丹三郎は甲斐の眼をみつめた。その中でなにか燃えてでもいるような、激しい眼つきであった。それからその眼をそらして、申上げられません、と云った。
「丹三郎」と甲斐が云った。
「いいえ、申上げることはできません」
そして彼はそこへ両手をついた。
甲斐は黙って、思いがけない衝動を受けたもののように、やや茫然と、丹三郎の姿を見まもっていた。頭を垂れた丹三郎の眼から、涙のこぼれ落ちるのが見えた。甲斐はややしばらくして、静かな、力のぬけたような声で、云った。
「おまえは、その者を、憎むか」
丹三郎は「いいえ」と答えた、「憎むことができたら、と思いますが、私にはできません」
「鬼役にあがれば、おれとは主従の縁が切れる、おまえの願いはかなえられるようだし、それもごく近いうちと思われる、そうなっても憎むことはできないか」
丹三郎は「はい」と云った。
「鬼役は死ぬぞ」と甲斐は声をころして云った、「
甲斐はさらに声をひそめた。
「鬼役はこれまでとは違う、これからは死ぬことを必至と覚悟しなければならない、思いとまれ、丹三郎、おまえはまだ原田の家従だ、願いをとりさげれば」
「いいえ」と丹三郎は首を振り、両手で眼を押えながら、低いけれども力のある声で云った、「私は鬼役になります、死ぬことも
「宇乃のためにか」
「私は親の代から原田家の家従でした」と丹三郎は云った、「不敏ですから詳しいことはわかりませんが、さきごろからの
甲斐は「ああ」と太息をついた。それは重荷に耐えかねた人の、苦痛の嘆息のようであった。
それからしばらくして、甲斐が云った。
「どうしても思いとまる気はないのか」
「はい」と、丹三郎が答えた。
「ばかなやつだ」と甲斐は呟いた。
もちろんそれはべつの言葉と置き替えるべきものであった。そしてまさしく、丹三郎はそれをべつの言葉に置き替えて受取った。たとえば甲斐が黙っていたとしても、丹三郎にはよくその心がわかったであろうし、甲斐もまた、丹三郎が理解するだろうことを知っていた。
甲斐は「よし」と云った、「それを惣左に渡してまいれ、今日はおまえが供をするのだ」
「お出ましでございますか」
「いとまが三日できた、湯島へまいろう」
丹三郎は「はい」といって立ちあがった。
湯島の家も三年ぶりである。供は村山喜兵衛、矢崎
「風呂へはいるぞ」
着替えをするときに、甲斐がそう云った。
「奥さまをおもらいなすったんですって」とおくみが云った。
「あなたは
「悪性者か」
「あたしなら殺されても離別なんかされやしないのに」
「こんな悪性者でもか」
おくみは甲斐にしがみついた。うしろから着物を着せかけようとして、そのまましがみつき、甲斐の躯を力いっぱい緊めつけて、そして泣きだした。うしろから押しつけているおくみの、弾力のある胸や腹部のゆたかなまるみが、甲斐の
「おまえ泣き
おくみは甲斐の背中でかぶりを振り、いいえと
「あたし三十一になっただけですわ」
「わかった、風呂へはいろう」
おくみは伸びあがって、甲斐のうしろ
「今日は丹三郎の別宴だ」と甲斐は云った、「彼は原田を出て御家臣にあげられる、今日は主従わかれの
「あたしこうして死にたい」
「おれの云うことを聞いているのか」
「こうして死ねたら本望よ」と抱きついたままおくみが云った。
「わかった、もうよせ」
おくみは首を振り、両手を(すばやく)甲斐の
「そこは傷があるんだ」
おくみは
甲斐は肌着をひろげ、「くびじろ」の角にかけられた
「知りませんでしたわ、堪忍して下さい」
「着せてくれ」と甲斐が云った。
おくみは着物を持って、もういちどうしろへまわった。
甲斐が着替えを終ったとき、丹三郎が来客を告げに来た。だめだ、いないといえ、と甲斐は云った。そう申したのですが、と丹三郎は当惑げに云った。ここへおはいりになるのを見届けたと申しております。なに者だ、と甲斐が訊いた。
「浪人ふうの者で、姓名は御前で申上げるといっております」
「会わぬと申せ」と甲斐は手を振った、「用があるなら屋敷へまいれ、誰に限らずここで会うことはできぬ、そういって断われ」
丹三郎は去り、甲斐はおくみと居間へはいった。
やがて、男女の芸者が七人ほどやって来、賑やかな酒宴が始まった。甲斐は丹三郎を隣りに坐らせ、三度、自分で酌をしてやった。丹三郎は固く坐って、酌をされただけは飲んだが、そのあと、おくみがすすめても、盃を持とうとはしなかった。
「今日はおまえの酒宴だ」と甲斐が云った、「かしこまっていないで、自分の好きなようにするがいい」
丹三郎は「はい」と答えた。
甲斐は彼が涙ぐんでいるのを認めた。この別宴を設けてもらったよろこびのためか、原田家を去る感慨か、それともこれからの、絶えず死と当面する役目を、思いやってか。おそらくその三つと、そして宇乃への思慕がいっしょになっているのであろう。――哀れなやつだ。と甲斐は心のなかで思った。
丹三郎は「自分の死は御役に立つであろう」と云った。主人のために身命を惜しまないのは、侍の本分ではあるが、誰にでもそう容易に実践できることではない。甲斐は丹三郎を知っているし、彼の性質としてそういうことを口に出して云う以上、そのときが来れば死を怖れないだろう、ということもわかっていた。
――だがおれは好まない。
国のために、藩のため主人のため、また愛する者のために、自からすすんで死ぬ、ということは、侍の道徳としてだけつくられたものではなく、人間感情のもっとも純粋な燃焼の一つとして存在して来たし、今後も存在することだろう。――だがおれは好まない、甲斐はそっと頭を振った。
たとえそれに意味があったとしても、できることなら「死」は避けるほうがいい。そういう死には犠牲の壮烈と美しさがあるかもしれないが、それでもなお、生きぬいてゆくことには、はるかに及ばないだろう。
甲斐がそこまで考えたとき、とつぜん、隣りに坐っていた丹三郎が「無礼者」と叫んで立ちあがり、殆んど座を蹴るようにして、縁側のほうへ出ていった。
庭さきに一人の男が立っていた。
鳴物や唄声がいちじにやみ、みんなが縁側のほうを見た。その男は覆面をしていた。たぶん裏から忍びこんだものであろう、縁さきの
「原田さん、会って下さい」
丹三郎は走ってゆき、脇差に手をかけて、もういちど烈しく叫んだ。
「騒ぐな丹三郎」と甲斐が制止した、それから男に云った、「こちらの名をご存じなら、そちらの御姓名も聞こう、御用はなんですか」
「それはお人払いのうえで申上げましょう」
甲斐は、じっとその男を見た。男は腰から刀と脇差を
――どこかで会ったことがあるぞ。
と丹三郎は思った。
「頭巾をぬいで下さい」と丹三郎が云った。
男は首を振った。甲斐は、そのままでよしと云い、おくみに「裏座敷へ」と
「私あの男を知っております」と丹三郎が云った。
「うたえ」と甲斐は芸者たちに云った。
鳴物と唄が始まると、甲斐が丹三郎を見た。丹三郎はすり寄って、低い声で云った。
「いつぞや良源院から、宮本新八が畑姉弟を誘拐しようと致しました」
甲斐は頷いた。
「私は愛宕下で追いついて奪い返したのですが、そのとき姉弟の
甲斐は暫く黙っていて、やがて「たしかにか」と念を押すように云った。
「間違いありません」と丹三郎が答えた、「刀を抜き合わせた相手ですから、そのときの記憶ははっきり残っています。声にも覚えがありますし、躯つき、肩を張った身構え、たしかにあの男に相違ございません」
「宮本の弟が、手先をしたといったな」
「そうです、あの男は新八なら宇乃どのが信用すると思ったのでしょう、新八に対する口のききようも、たしかに手先に使っているという調子でした」
おくみが戻って来た、「酒を持っていってやれ」と甲斐が云った。
おくみは若い小間使の二人に、膳を運んでゆくように命じた。甲斐はおくみに「おまえしばらく相手をしていてくれ」と云った。あたしいやですわ、きみの悪い、とおくみが眉をひそめた。甲斐は「三十一になってもか」と微笑し、彼女の耳になにか囁いた。おくみは頷いて、顔をそむけながら、立って出ていった。
「二人を呼びます」と丹三郎が云った。
別間に控えている、矢崎舎人と村山喜兵衛を呼ぼうというのである。甲斐は呼ばなくともよいと云った。ただ裏を見張っていろと申せ、声が高くなっても、命ずるまでは手だしをするな、と念を押すように云った。
丹三郎は控の間へ立っていった。
甲斐はゆっくりと飲んでおり、丹三郎が戻って来ると、「
殆んど一刻ちかく経ってから、甲斐はやおら裏座敷へいった。それはかつて
男は盃を置き、覆面をぬごうとした。
「よければそのまま」と甲斐が云った。
男は手を止めて甲斐を見た。どうしようかと迷ったらしい。甲斐はまったく無関心に、用件を聞きましょう、と云った。男は不決断に覆面をぬいだ。柿崎六郎兵衛であった。彼はふところから細長くひらたい、
「これをごらん願いたい」と六郎兵衛は云った。
袱紗の中には書状のようなものがあった。甲斐はちらと眼をくれただけで、興もなげな表情で、どういうものかと訊いた。とにかく御披見を願います、と六郎兵衛が云った。いや、と甲斐は静かにかぶりを振った。
「素姓のわからぬものは見ますまい」
「きっとですか」と六郎兵衛が云った、「では申上げるが、私は駿河台下に刀法道場をもつ、柿崎六郎兵衛という者で、一ノ関侯とはかねてから
甲斐は黙っていた。柿崎、どこかで聞いた覚えのある姓だな、そう思いながら、しかし黙って次を待った。
私は侯と往来するうちに、侯が伊達本家に対して、なにか穏やかならぬ野心をいだいているのに気づいた、と六郎兵衛は続けた。それで二年余日、それとなく注意していると、一ノ関のうしろには、老中の酒井雅楽頭がおり、そのしり押しによって一ノ関が動いている、ということがわかった。
そのとき甲斐は、手で口を押えながら欠伸をした。
「御退屈ですか」と六郎兵衛は甲斐を見た。
彼の眼には怒りと、いまにみろとでもいいたげな、刺すような皮肉な色がうかんだ。甲斐はふところ紙を出して、眼を拭き、それから、なるべく簡単に、と云った。
「酒井侯の名がお気に障るとみえますな」と六郎兵衛が云った。「酒宴の席で侯から恥辱をうけられた、私はその仔細を知っていますよ」
甲斐は男の顔をみて、――そうか、と思った。――柿崎とは中黒達弥の手紙にあった名だ。達弥の知りあった奥女中、雅楽頭づきの腰元で、滝尾という者の本姓だと書いてあった。
――あの席に滝尾がいた。
それは甲斐がその眼で見た。するとこの男は滝尾の兄か、まさか夫婦ではあるまい、兄妹であろうが、そうだとして、まえにあの女を見た記憶のあるのは、どこでだろう、こう思いながら、甲斐は六郎兵衛の顔を眺めていた。
「私がなぜ、酒宴の席の出来事を知っているか、原田さんには興味がありませんか」
「ないね」と甲斐はゆっくり云った、「滝尾にはまえに会って、顔を覚えているからね」
六郎兵衛は「あ」という眼をした。危うく声をだしそうであった。甲斐が妹のことを知っていようとは、それこそ夢にもおもわなかったので、とつぜん平手打ちでもくったような感じを受けた。
「なるほど」と六郎兵衛は頷いた、「さすがに、酒井侯のおそれるだけあって、原田さんは底の知れないお人ですな」
「どうぞ」と甲斐は盃へ手を振った。
まあ飲めという手ぶりである。六郎兵衛はすっかり圧倒されたようすで、顔をひきしめながら甲斐に云った。
「では単直に申しましょう、私が妹を酒井家へ入れたのは、一ノ関と雅楽頭との通謀をさぐりだすのが目的です」
「なんのために」
「いまは、原田さんの、ためにです」
甲斐は首を振った、「私には用もないことだ」
「本当にですか」
「用件はそれだけか」
「原田さん」と六郎兵衛は膝をすすめた、「一ノ関はべつだが、酒井侯は貴方の本心をみぬいていますぞ、貴方が一ノ関の与党になったのは、謀計を内部からあばくためだ、原田甲斐は看視しなければならぬと、飽くまで主張しているそうですぞ」
甲斐は微笑した。すると頬に深い
「謀計、野心、通謀」と甲斐は穏やかに云った、「厩橋侯と一ノ関とが、なにをどう通謀しているか、私は知らないが、ことのついでにそこもとの謀計も聞こうではないか」
「私の謀計ですって」
甲斐は「さよう」と云った。
「それは、どういう意味です」
「宮本新八、畑姉弟、これらを使ってなにを企んでいるか、ということだ」
六郎兵衛は笑った。貝殻でも触れあうような、しらじらしく乾いた笑いである。甲斐は静かな眼で、黙って襖のほうを見ていた。
六郎兵衛は「失礼」といって笑いやんだ、「どうぞ立腹なさらないで下さい、私は自分のことを笑ったのです」
甲斐はなにも云わなかった。
六郎兵衛は唇を
「すっかり云いましょう」
六郎兵衛は盃を口へもってゆきながら云った。それにはひと滴の酒しか入っていなかったが、彼はそれを、たっぷり入っているかのように
けれども甲斐は冷やかに、しかもそっぽを見たまま云った、「それは聞くには及ばない、私には関係のないことだし、興味もない」
「しかしいま貴方は、云われたでしょう」と六郎兵衛は云った、「宮本や畑姉弟を使って、なにを企んでいるか、云ってみろと云われた筈です」
「それは聞きたくないという意味だ」と甲斐が云った、「厩橋侯と一ノ関さまが、なにか謀計をめぐらせているということはあり得ない、そういう
「その書状を見て下さい」と六郎兵衛は指さした、「そうすれば、いまかれらのあいだに、どんな謀計が進められているかがわかります」
「いや、たくさんだ」
「幼君毒害の計画でも興味がありませんか」
「ないようだな」
「これには毒の加減をする医者や、その一味の奥女中の名も書いてありますよ」
甲斐はまったく無関心に、手をあげて自分の指を眺めた。
「では伊達六十二万石を分割するという、酒井侯と一ノ関との密約はどうですか、その約定について証文の取交わしさえあったということも、やはり聞きたくありませんか」
「だいぶ商品をお持ちのようだが」と甲斐が云った、「そこもとは売込み先を間違えられたようだ、もういちどいうが、私はそういうことには興味もないし、またそれに支払う
「私は代償などは求めません」と六郎兵衛はくいさがった、「そして、貴方がお望みなら、その証文を手にいれることもできます」
甲斐は立ちあがった。
「原田さん」と六郎兵衛が云った、「私は代償など求めてはいない、初めはそのつもりもあったが、いまは違う、貴方に会ってから私は考えが変った、私は貴方の役に立ちたい」
「丹三郎」と甲斐が云った。
「お願いです、原田さん」
「丹三郎」と甲斐がまた云った、「客が帰られるぞ」
外から襖があいた。丹三郎がそこにいた。六郎兵衛は甲斐を見あげ、なおなにか云いそうにした。しかし甲斐の静かな、あまりに穏やかな眼にであうと、云うちからを失ったように、
「ひと言だけ聞かせて下さい」と六郎兵衛が云った、「またおめにかかることができるでしょうか」
甲斐は
甲斐は広間へはゆかず、そのまま居間へはいった。丹三郎がすぐに来て、客の帰ったことを告げた。甲斐はおくみを呼んでくれと命じ、丹三郎が去ると、机に向かって、
「約定の証文、うん」甲斐は墨を磨りながら口の中で呟いた、「六十二万石分割について、一ノ関が雅楽頭に約定を求める、その証文を取交わす、そんなことがあるだろうか、一ノ関の性格から推せば、そのくらいの要求はするだろう、しかし雅楽頭がそんなばかなことをするとは思われない、もしそれをするなら、雅楽頭にもなにか利分がある筈だ」
甲斐は料紙をひろげた。
おくみが来た。甲斐は時刻を訊いてから、喜兵衛や舎人に広間で飲むように、それから寝間の支度をするように、と云った。おくみは躯を硬ばらせた、「お寝間はさっき仰しゃったように致しますの」
甲斐は頷いて筆を取り、おくみは黙ってたち去った。
甲斐は書きはじめた。広間のほうでは鳴物や唄の声がやみ、家の中は静かになった。
――雅楽頭の利分。
と書きながら、彼は思った。それがわかれば、証文の取交わしということも認められる。なにかあるだろうか。初め、雅楽頭と一ノ関のあいだに、六十二万石を寸断するという密契のあることは、久世大和守から茂庭周防に知らされたものであった。当時はまだ松平信綱が、老中に重きをなしていた、――松平信綱。甲斐は筆を止めて、眼をあげた。「伊豆守信綱」と彼は呟いた。
非常な衝動を受けたもののように、甲斐の顔はするどくひき緊り、
「――信綱の遺志だな、発頭人は信綱だ、雅楽頭ではない」甲斐はそう呟いた。
彼は筆を置き、両手を机に突いて、じっと眼をつむった。そうだ、と彼は思った。問題は自分たちの考えていたようなものではないかもしれない。涌谷も松山も、雅楽頭と一ノ関との
「――信綱の遺志だ、雅楽頭はその遺志を継いでいるにすぎないし、おそらく老中の人びとも承知していることだろう」
甲斐は眼をみひらいた。机に突いていた手を膝に戻し、坐り直して、自分の思案を吟味するかのように、彼はかなりながいこと、息をひそめていた。
襖の向うで声がし、おくみが静かにはいって来た。
「お支度ができました」
甲斐は頷いて、机の上から書いたものを取りあげ、行燈の火を移して、巧みに紙を動かしながら、
「さがっておりましょうか」とおくみが訊いた。
「いや、もういい、寝ることにしよう」と甲斐が云った。
おくみは甲斐の立つのを待った。甲斐は手焙りの灰をみつめ、うんと頷いて、「寝よう」と云いながら、立ちあがった。
おくみのようすはいつもとまるで変っていた。それは広間で甲斐になにごとか囁かれてからのことだが、顔つきも
「どうかしたのか」と甲斐が
おくみは「こわい」と云って、がたがたとおののきながら、甲斐にしがみついた。
「ばかだな」と甲斐は微笑し、おくみの背を撫でてやりながら、「そこにある水を飲んでごらん、そうすればおちつくよ」と云った。
おくみはしがみついたまま「はい」と頷いた。それから、自分をためすように、おそるおそる手を放した。手を放しても立っていられるかどうかためしてみる、といったような動作であった。
「向うで着替えてまいります」とおくみは云った。
その声はかすれていたし、躯もまだがくがくするようにみえた。甲斐はやさしくいっておいで、と云った。
甲斐が夜具の中へ横になると、おくみは
おくみはまもなく戻って来た。白の寝衣に
「十一年めに、初めて――」
そして甲斐に抱きつこうとしたが、突然、顔をあげて枕もとを見、「きゃっ」と叫びながらはね起きた。あまりに突然であり、その叫び声も高かったので、甲斐もわれ知らず起き直った。
「そこに、いまそこに」とおくみは寝間の隅の暗がりを指さした。
「そこにどうしたんだ」
「娘がいたんです。十六か七くらいになる、娘が」
「ばかなことを云うな」
「いいえ、そこに坐って、あたしのほうを見ていたんです」
甲斐はふと息をころした。
――おじさま。
という声が、聞えるようであった。遠いこだまのように、お、じ、さ、ま、と呼びかける声が。甲斐はおくみを見た。「おまえはまだこわいんだ」と彼は云った、「それでそんなものが見えたりするんだ、今夜は向うで寝るほうがいい」
おくみは泣きだした。白い寝衣の袖で顔を押え、声を忍んで泣きながら立ち、そして力なく、よろめくように寝間を出ていった。
甲斐は夜具の上に坐ったまま、もういちど遠いこだまを聞こうとでもするように、ながいことじっと頭を垂れていた。