七月中旬の午後、――ひどく暑い日で、風もなく、白く乾いた奥州街道を、西にかたむいた陽が、じりじりと照らしていた。
「そうだ、あいつだ」と伊東七十郎は歩きながらつぶやいた、「どこかで見た顔だと思ったが、たしかに彼に相違ない」
七十郎は、片方の手で額をぬぐった。手の甲に、べっとりと汗が付き、髪の生え際には、汗が乾いて塩になっていた。着ている
そこは陸前のくに柴田
七十郎は立ちどまって、ほれぼれと牛を見おくった。みごとだな、と彼は思った。みごとに堂々としている、あれは飼われるべき動物ではない。あのくらいの牛になると、人間が飼うのは不自然だ、と思った。
牛はゆっくりと遠のいてゆき、その向うから、二人の供をつれた、旅装の侍が、こちらへ近づいて来た。
七十郎は松並木の影にはいり、そこにあった石に腰をかけた。旅嚢を脇におろし、刀を両足の間に置き、萱笠をもっとあみだにして、額の汗を手でぬぐい、
「やあ、しばらくだな」七十郎は無遠慮に呼びかけた、「しばらくだな、渡辺七兵衛、休んでゆかないか」
侍は立ちどまってこっちを見た。それは渡辺七兵衛であった。彼は七十郎と同年配だが、四つ五つも年長にみえる。供の一人は万右衛門といって、これも七十郎には見覚えがあった。
「失礼だが、先をいそぐので」と七兵衛が云った。
「いそぐんならいっしょにゆこう」と七十郎はすぐに立ちあがり、ふたたび旅嚢を刀にひっかけて、肩にかついだ。
万右衛門がむっとした顔で七十郎をにらんだ。渡辺七兵衛は歩きだし、七十郎は彼と並んで歩きだした。刀にひっかけてある旅嚢が、七十郎の背中で揺れ、七兵衛の供の万右衛門が、うしろから眉をしかめながら、それをにらんでいた。
「どうせ
「船迫で泊るとはきめていない」
「それなら泊ることにきめるさ、柏屋ではうまい酒を出す、おれが案内するよ」
「失礼だが」と七兵衛が七十郎を見た、「そこもとは、たしか」
「伊東七十郎だ、まさか、知らなかったんじゃないだろうな」
「たしか小野どのの」
「さよう、
「私はよく覚えていないのだが」と七兵衛は冷淡に云った、「これまでにどこかで、正式に紹介されたことがあるだろうか」
「そんなことを気にするな」
七兵衛はまた振向いて、七十郎を見た。七十郎はあけっ放しな微笑で、彼に頷いた。
「気にするな、七兵衛」と七十郎は云った、「おれのほうではよく知ってるし、そっちだってまんざら知らないわけではないだろう」
「
「噂だけか」
「伊達家の家臣でもないのに、よく藩邸へやって来て、誰の家へも平気で出入りするし、身分の高下を問わず友達あつかいをする、いったいどうして、誰があんな特権を与えたのか、――みんながそう不審しているようだ」
七十郎はくすくす笑った。
「誰の家へでも、ということはないね」と彼は云った、「誰でも構わずということはない、おれはどっちかというと不拘束な人間だが、それでもわりかた性分は潔癖なんだ、友達あつかいをする値うちのある者は友達あつかいをするが、そうでないやつまで友達あつかいをするほど堕落してはいないよ」
「そうだとすると」と七兵衛が云った、「正式に紹介されたこともないのに、路上でいきなり話しかけたり、名を呼びすてにしたりするのは、どちらの意味だ」
「そんなことを気にするな」
「どちらの意味だ、友達あつかいか、それとも軽侮か」
「もうひとつべつの意味だ」
七十郎はそう云って、振返って、うしろにいる万右衛門を見た。万右衛門はにらみ返し、七十郎は七兵衛に云った。
「だが、その話しはあとのことにしよう」
渡辺七兵衛が、同行を好まないことは、七十郎にもよくわかっていた。七兵衛の態度やその言葉つきで判断すると、いまにも「これで別れよう」と云いだしそうであった。だがそうはさせないぞ。七十郎はその隙を与えなかった。彼は巧みに話を変え、いま三頭のみごとな黒牛がいったが、見なかったかと云い、その返事を待たずに、ああそうだと、高い声をあげた。
「こんど目付役にあげられたそうだな」と彼は七兵衛を見た、「目付役にあげられて、
七兵衛は冷淡に会釈を返した。
――あまい野郎だな。
と七十郎は心のなかで思った。会釈の返しかたは冷淡だが、少なからず得意に感じたことは、その表情に隠しようもなく、あらわれていた。こういう単純さがもっとも危険なんだ。七十郎は続けて
万治三年七月十九日夜、伊達家の本邸と浜屋敷とで、四人の者が暗殺された。坂本八郎左衛門、畑与右衛門、渡辺九郎左衛門、宮本又市などで、名目は「上意討」であり、
――こいつらはまじめだったんた。
それが危険なんだ、と七十郎は思った。
坂本、渡辺、畑、宮本の四人が、
四人を
――みんな兵部
と七十郎は心のなかでつぶやいた。暗殺事件について、評定がおこなわれたとき、七兵衛らを「忠誠の士」である、と主張したのは、兵部宗勝であった。それだけでも、事の真相は歴然たるものだが、こいつらは真相を知らず、自分ではまじめに忠誠の士だと信じている。こういうばか者には、一本みまってやらなければならない。
――面上へ一本、骨にこたえるやつをみまってやろう。
と七十郎は思った。かれらは歩いてゆき、七十郎は活溌にしゃべり続け、七兵衛はその饒舌にひきつけられていた。渡辺七兵衛を軟化させるくらい、七十郎にとってはぞうさのないことで、船迫に着いたときは、もうなんの異議もなく、柏屋という宿へいっしょに
風呂で汗をながし、着替えをしてから、中庭に面した座敷で、二人は酒を飲んだ。七兵衛はたいそう機嫌をよくし、酒が進むと、自分はそこもとを誤解していた、と釈明した。
「人間はよく話しあってみなければわからないものだ」と七兵衛はきまじめに云った、「私は人の
「おたがいさまだ、気にするな」と七十郎は云った、「それから他人行儀などの付けはよそう、おれも呼びすてにするから、そっちも呼びすてにしてくれ、今日はゆっくり飲んで話そう」
「私は酒には強くないのだ」
「刀法では強いだろう、酒なんか弱くったって卑下するには及ばないさ、一ついこう」七十郎は酌をしてやった、「ときに、――供の一人は万右衛門という男じゃあないか」
「知っておられたのか」
「小人の万右衛門といえば、あの事件で剛勇の名が高かった、ひとつここへ呼んでいっしょに飲むとしよう」
七兵衛は手を振った、「せっかくではあるが、あれは少し酒癖が悪いし、供の者を同座させることは」
「作法のやかましい人だな」と七十郎は笑った、「では河原へゆこう、やがて月も昇るだろうし、まだ
「そういう酒はまだ飲んだことがないのだが」
「ではきまった、支度をさせよう」七十郎は宿の者を呼んだ。
酒とさかなを宿の者三人に持たせ、万右衛門を
白石川は夏涸れで、水が少なく、乾いた大きな石の、いちめんにころがっている広い河原を、水は幾条かに割れたり、大きく
「河鹿の声がしないようだな」と七十郎が宿の者にきいた。
宿の者は、月はじめまでは鳴いていたが、と答えた。去年の秋、上流の濁川が荒れて、このあたりの
「万右衛門、遠慮なくかさねろ」と七十郎は宿の者の話すのを聞きながして、
「おまえの手柄は聞いているぞ」と七十郎は云った、「三年まえの七月十九日の夜だ」
「その話しはやめてもらいたい」と七兵衛が云った。
「
「どうして、三人はみごとにやったし、忠誠の士だという金看板も付いた、なにも謙遜には及ばないじゃないか」
そして片手で
「じゃあ、一ノ関の話しでもするか」と七十郎は云った、「そうだ一ノ関がいい、その話ならあの晩の出来事とも無関係ではないからな、ではまず一杯、――」
渡辺七兵衛の顔に、かすかながら警戒の色があらわれた。七月十九日夜の出来事をもちだし、兵部宗勝に話しを転じ、その二つが無関係ではない、という口ぶりに、
「また避けるね」と七十郎が云った、「どうしてあの事になると話しを避けるんだ、なにか心に
「つまらないことを云う」と七兵衛は苦笑した。
「おれはつまらなくないんだ」と七十郎は云った、「つまらないどころか、おれはひじょうに興味をもっているし、あの件についてはまだ知りたいことがたくさんあるんだ」
すると七兵衛は肩を固くし、顔を硬ばらせ、しかしまだ怒りは抑えながら、七十郎の言葉を
「そういう話しは聞きたくない、もしもやめないのなら、私は宿へ戻る」
「事実を知るのが怖ろしいのか」
「風説は事実ではない、そこもとの知っているのは単なる風説だ」
「証明することができるか」
「そちらはどうだ」
「おれか、おれはできるさ、口で証明するだけではない、ちゃんと証人までいるよ」と七十郎は微笑し、「そこにね」と云って七兵衛と万右衛門を指さした。手をあげて、真正面から、七兵衛を指さし、万右衛門を指さした。
「私がなんの証人だ」と七兵衛がどなり、七十郎は、怒るな、怒ると損をするぞ、と冷笑した。
「私がなんの証人だというのか」と七兵衛は叫んだ。
「絵解きをするかね」と七十郎が応じた。彼の唇にはまだ冷笑が刻まれており、その眼はするどく、七兵衛の面上に射込まれていた。
「おまえはさっき、――私は人の
「屠殺者だと」七兵衛は口をあき、そして
「なかんずくおまえは、だ」と七十郎は声をおとして、忘れたのかと云った、「いつかの夜、一ノ関の屋敷の外でも、おまえは人を斬ろうとした、兵部を訪ねたなにがしとかいう浪人を、命ぜられて斬ろうとし、闇討ちを仕掛けた、そうだろう」
七兵衛は口をあいたままで、とび出すほど大きく眼をみはり、右手では反射的に、脇に置いてある刀をつかんだ。
「そうだろう七兵衛」と七十郎は続けた、「きさまは兵部に命ぜられて、罪の有無もわからない浪人者を斬ろうとした、きさまは罪の有無を知らなかった、ただ兵部の言葉を信じ、兵部の命にしたがって斬ろうとした、坂本、畑ら四人もそうだ、きさまは相手の罪科を知らず、自分には斬る理由もなく、他の
七兵衛は無礼者と叫び、刀を、左手に持ち変えながら立った。蚊いぶしをしていた宿の者は、二人とも、仰天して脇へとびのき、七十郎は静かに立ちあがった。東の遠い山の上に月が出ていて、川波が光り、せせらぎの音の中に、河鹿の声が一つだけ聞えた。七十郎は眼の隅で、万右衛門が刀の柄に手をかけるのを見ながら、自分は左手に刀をさげたまま、七兵衛に向かって、抜くまえに考えろ、と云った。
「兵部邸の外であったことを忘れるな、あのときおれが声をかけなかったら、きさまはあの浪人に斬られていたぞ」
七兵衛は立っていて、万右衛門が抜いた。万右衛門の手に、きらっと刀が光り、七十郎がそっちを見た。万右衛門は月に正面してい、肉の厚い大きな顔の、太い眉と、白い歯とが見えた。
「刀は抜いたときが勝負だぞ」と七十郎が云った。
万右衛門は動かず、七十郎はじっと彼をにらんで、それから微笑しながら、宿の者の一人に、「おい佐平、この二人を宿へ送ってゆけ」と云った。万右衛門が動いた。七十郎は彼を見た。五拍子ばかり万右衛門をみつめていて、それから、棒立ちになっている七兵衛に眼をやり、静かに元の場所へ坐りながら、「伊助はここへ来て酌をしろ」と云った。
宿の者の一人が、近よって来た。
「こうなると
「万右衛門、刀をおさめろ」と渡辺七兵衛が云った。彼は、こっちへ背中を向けている七十郎をにらみ、それからぎごちない口調で
「別れるまえに、もう一つ聞いておこう」
「伊助、酒を注げ」
「私が証人だという意味を聞かせてくれ」
「自分でわかる筈だ」
「そこもとの口から聞きたい」
「頭の悪いやつだ」と七十郎は振返って云った、「おまえは自分でしたことがなんであったか、もうとっくに感づいているだろう、坂本たち四人を斬ったことも、兵部邸の外で浪人者を斬ろうとしたことも、――それが忠誠のためではなく、兵部宗勝その人のためであり、自分は単に煽動され利用されたにすぎない、ということを、おまえ自身とっくに感づいている筈だ、そうではないか」
「なぜ私が感づいていると思うのか」
「そこまで自分をばかにするな」と七十郎が云った、「感づいていなければおれを斬る筈だ、もちろん、おれは斬られはしないがね、しかしおまえが刀を抜けなかったのは、おれの云ったことに思い当るふしがあったからだ、もっと詳しく聞きたいか」
「もう充分だ、また会おう」
「たくさんだ、会う必要はない」
「いや会おう」と七兵衛は云った、「そこもとの思案は聞いた、私には私の思案がある、こんど会ったときには、私の思案を聞いてもらおう」
「たくさんだ、おれにはそんな暇はない」
そして七十郎は手を振った。宿の者の佐平と共に二人は去り、七十郎は伊助という若者と、そこに残った。
――
という声が聞えた。
――颯爽たるものだ、七十郎、いい気持らしいな。
それは七十郎の頭のなかで、冷笑するように聞え、その声の
「原田ごときがなんだ」と七十郎は思わず云った、「あのくわせ者が、――」
伊助という若者はびくっとし、脇から、おそるおそる彼の顔を見ていた。川の瀬音が高く、河鹿の声が一つだけ、まをおいて、ときに低く、ときに
「くわせ者め」
甲斐も背丈は高いが、帯刀も高い。いまでも五尺五寸ちかくあるが、もっと伸びるだろう。顔は母親に似たようだが、
宇乃は館のほうを見ていた。彼女は十六歳になり、胸や腰のあたりには、すでに、おとなびたまるみがみえるが、顔つきはまだ少女のままで、張のある大きな眼にも、鮮やかに赤い、しめった唇にも、
松林の影で、宇乃の顔は青く染っているようにみえた。影に区切られた地面の向うには、初秋の午後の強い日光をあびて、伸びた雑草がいちように葉先を
「どうなさいましたの」
「宇乃こそどうした」と帯刀が微笑しながら云った。宇乃は眼を大きくまたたいた、すると、その眼はもっと大きく、はっきりと澄んだ光を帯びた。
「わたくし、どうか致しまして」
「話しを聞いていなかった」と帯刀が云った、「私の話しを聞かずに、なにか考えごとをしていた、なにを考えていたんだ」
「いいえ、なんにも」と宇乃はかぶりを振った、「わたくしお話しをうかがっておりましたわ、ちゃんとうかがっていて、あら、――」
彼女は赤くなり、帯刀を見あげて、にっと、恥ずかしそうに頬笑んだ。帯刀は、それごらん、というふうに、宇乃を見た。宇乃はその眼に頷いた。
「いいよ、云わなくともわかっている」と帯刀が云った。また父のことだと、彼は思った。宇乃がそんなふうにしているときは、必ず、甲斐のことを想っているのである。これまでたびたび経験しているので、帯刀にはすぐに見ぬくことができた。
「こんどは大丈夫ですわ」と宇乃は膝を直した、「こんどはちゃんとうかがいますから、どうぞあとを話して下さいましな」
帯刀は話しを続けた。
彼は原田家の歴史を語っているのであった。それはほぼ伊達氏の歴史と相伴ったもので、すなわち、
原田は古くから
「先祖の逸話はあまり伝わっていない」と帯刀は静かに云った、「十六代の
「それだけですの」
「私が聞いたのはそれだけだ」と帯刀は頷いた、「原田家では、昔から自分の家のことは云わない習慣らしい、特に勲功や美談については、書き遺したり云い伝えたりすることが決してない、まるで、そういうことを恥じてでもいるようなぐあいなんだ」
「ああ、わかりました、わかりましたわ」と宇乃が云った、「あなたのお話しぶりが、おじさまによく似ていらっしゃるからですわ」
「似ているからどうした」
「ですから、あなたのお話しをうかがっていると、すぐにおじさまのことを思いだしてしまうんです、お声は少し細いようだけれど、お話しぶりはそっくりですわ」
「父はこんなに
「そんなことがあるものですか」と宇乃はかぶりを振った、「あなたを疎むなんて、そんなことがある筈はありませんわ、おじさまはいつもお口数が少ないし、思っていることもお口には出さないで、心でかよわせる、という御性分ではないでしょうか」
「宇乃は、わかっているように云うな」
「ええわかっていると思います、わたくしにはよくわかるように思いますわ」
帯刀は宇乃を見た。宇乃は続けて云った。
「黙っていらしっても、おじさまのお眼を見ると、なにを考えていらっしゃるか、いまなにを欲しがっていらっしゃるか、宇乃にはすぐにわかりますわ」
「父がなにか欲しがることがあるか」と帯刀は笑った。
宇乃は「まあ」といって
「私にはわからない」帯刀は空の向うへ眼をやり、ふと嘆息するような調子で云った、「父はなにか隠している」
宇乃は彼を見た。帯刀は、父はなにか心の内に隠している、と続けた。
「母を離別した理由もわからないし、あんなに親しかった松山の
なにかあったのだ、なにか重大なことが起こっているに違いない、と帯刀は云った。
「父は非常な重荷を負っているようだ、理由はわからないが、非常に
それはいい、祖母に心配をかけないのはいいのだ。けれども私は違う、と云って、帯刀は立ちあがった。彼は立ちあがって、館のある丘のほうをみつめながら、低い、訴えるような声で云った。
「私は男だ、年も十七になる、父は私にうちあけてくれなければならない、うちあけてくれないのは、私がたのみにならないからだろうか」
「いけませんわ帯刀さま」と宇乃が立ちあがった。宇乃は立っていって、帯刀の顔を見あげながら云った、「そんなふうにお考えになってはいけませんわ、もしもおじさまになにかあって、その必要があるときが来れば、おじさまはきっとあなたにお話しなさいますわ」
「いや、いやそうじゃあない」と。帯刀は頭を振った、「私は知っている、父は私を嫌っているのだ」
宇乃は眼をみはって彼を見た。父は私を嫌っている、という終りのその言葉は、なにげない調子であるのに切実で、絶望的な響きさえもっていた。宇乃は唾をのみ、帯刀から眼をそらした。そうかもしれない、と宇乃は思った。
甲斐は船岡へ来ても、殆んど館にいることはなかった。山の小屋にこもって、与五兵衛を相手に、狩をしたり、木を
――本当にそうかもしれない。
帯刀の云うとおり、本当に甲斐は帯刀を嫌っているのかもしれない。だが、なぜ甲斐は帯刀を嫌うのだろうか。甲斐には男子が四人あるが、二男の仲次郎は飯坂家へ、三男の喜平次は平渡家へ、四男の五郎兵衛は剣持家へと、それぞれ養子にはいり、残っているのは帯刀ひとりである。他の三人の誰かを、特に愛していたようには見えないし、一人だけ残った長男を、どうして嫌うのだろうか。どうしてだろうか、と宇乃は思った。
「どうやら
帯刀は
「お話しはそれだけでしたの」
宇乃は、彼と共に、歩きだしながら、こう云って彼を見あげた。帯刀はあいまいに頷いた。
「もう一つあったのだが」と彼は坂道へかかったとき、低い声で云った、「本当はその話しをしたかったのだが」
「わたくしうかがいますわ」
「それが話せなくなった」
「どうしてですの」
「話してもむだだということがわかった、原田家のことを話しているうちに、もう一つのことは話さないほうがいい、ということがわかったのだ」
宇乃は眼を伏せた。同じようなことがあった、と宇乃は思った。たしかに、いつかどこかで、これと似たようなことがあった。そう思いながら、ふと眼をあげると、坂道の左に、熟れた実をびっしり付けた、
「欲しければ折って来ようか」
「ええどうぞ」と宇乃が云った、「おばさまへ、お土産に致しますわ」
帯刀は宇乃の顔を見、すぐにその眼をそらしながら、いやと、首を振った。
「お祖母さまにだ、あの人にではない、土産にするならお祖母さまにだ」
宇乃は「はい」といった。
帯刀の眼はきつく、その声は激しかった。彼が新らしい母になじまないことは、宇乃もよく知っていた。甲斐の二度めの妻は、津田
帯刀は「あの人」と云った。彼が伊久
彼は
「ちょっと縛りましょう」宇乃はふところ紙を出した。
「いいよ、なんでもない」
「だってとがめるといけませんもの、ちょっと縛るだけ縛っておきましょう」
紙を細長く折り、宇乃は帯刀の手を取って、傷ついた指へ口を当て、血を吸い取った。宇乃の唇が指に触れたとき、帯刀の手がぴくっとなり、彼は息を詰めた。宇乃は吸い取った血を脇へ吐き、それを三度くり返してから、折った紙で傷のところを縛った。
「やっぱり話してしまおう」帯刀は顔をそむけて云った、「私に縁談が起こっている、相手は松山の娘だ」
宇乃はまあと帯刀を見あげ、それはおめでとうございます、と云った。
「私は気がすすまないのだ」と帯刀は云った、「しかしお祖母さまには逆らえない、お祖母さまも松山から来た人だし、その娘と私とは
彼は宇乃の顔を見、やはりそこに予期したような反応のあらわれていないことを認めると、するどく眉をしかめて歩きだした。
宇乃は少し彼におくれて歩きながら、青根の宿であったことを思いだしていた。そうだ、あのときだった。さっき帯刀が「話してもむだだ」と云うのを聞いて、その表情や口ぶりが、まえにいちど経験したことのように思えた。同じようなことがまえにもあった、という気がしたのであるが、帯刀が縁談の話しを始めたとき、ああそうだと思い当った。
甲斐の湯治に付いていった青根の宿で、塩沢丹三郎から
宇乃はそのままにしておいた。すると或る日、湯殿の控えで、丹三郎からじかに返辞を求められ、宇乃ははっきりと断わりを云った。自分はまだ年も若いし、父の罪でお預けの身だから、と云ったのであるが、本当は丹三郎に対してなんの感情も動かず、むしろ、文などを付けられたことで、かすかながらうとましくさえ思った。
いま帯刀に対しては、うとましいなどという気持は少しも感じない。また、彼は丹三郎のように、云い寄ったりしたわけではない。にもかかわらず、あのときと同じような、一種の感じで躯が固くなった。どうしてだろう。帯刀のうしろから歩いてゆきながら、宇乃はぼんやりと自問自答した。
彼はいちど、話してもむだだと云い、また思い返したように、縁談が起こっていることをうちあけた。これはどういう意味だろうか、自分が青根の宿のときのような、一種の警戒を感じたのは、なぜだろうか。
そんなふうに考えあぐねていると、前をゆく帯刀が、誰かに呼びとめられた。
「ああ、伊東さんですか」と帯刀が立停った。
そこは東陽寺の門前で、呼びとめたのは伊東七十郎であった。彼は
「久しぶりですね」
「すっかり大人になったな」と七十郎が云った、「館へ小野(伊東新左衛門)が来ているというので、これからゆくところだ、暑いのに山遊びかね」
七十郎は帯刀の持っている茱萸の枝を見、それから、うしろにいる宇乃を見た。かくべつ注意して見たわけではない、
「小野さまは国老になられるのだそうですね」
「よせばいいのに、ばかな人だ」
七十郎はそう云って、ふと振返って、また宇乃を見た。宇乃は
原田家の隠居屋は、別棟になっている。
上段の間は、おさ
隠居の慶月院(甲斐の母)は六十五歳になる。
慶月院と相対して、伊東新左衛門が坐っていた。彼はまえの日にこの
「痩せたのがいいのです」と新左衛門は軽い
「それが本当ならよいが」と慶月院は危ぶむように彼を眺めた、「見たところ膚のお色も悪い、その咳もこころもとない、もう少し丈夫になるまで、養生されるがよくはありませんか」
「そうできればよいが」新左衛門はこみあげてくる咳を抑え、懐紙で額の汗を拭いて、それから云った、「お聞き及びかと思いますが、吉岡の奥山大学どのが国老を免ぜられますので、どうしてもそのあとを、引受けなければならないことになったのです」
「吉岡どのは御罷免ですか」
「正式にはまだ仰せ出されませんが、江戸ではそう決定しているとのことです」
慶月院は
「そういうことだとすると、御新任のあなたにはいっそう重荷のかかることでしょう、わたくしは御政治むきのことはかいもく知りません、けれど、松山が国老の任を解かれたのも、吉岡どのが罷免されるのも、なにか裏に糸がひかれているようで、――これはわたくしの独り合点でしょうが、そのあとにあなたが直られるということは」
新左衛門が手をあげて、「わかっております」と遮った、「それは承知のうえのことで、それについてうかがいたいことがあってまいったのです」
慶月院の表情が固くなった。
「――わたくしになにをお訊きなさる」
「船岡どのの御心底です」と新左衛門が云った。
慶月院は眉も動かさなかった、「あれになにか御不審でもあるのですか」
「そこが知りたいのです」と新左衛門は低い声で云った。
彼は伊達
「私は
「松山がですか」と慶月院は云った、「涌谷さまはともかく、松山がそんなふうに云うとは合点がゆきませんね、いったい甲斐のどこがどのように危ぶまれるのですか」
「私は去年、青根の宿で話しあいました」
「それは知っています」
「そのとき船岡どのは、私の問いに答えてくれませんでした、私はすでに国老就任の交渉を受けており、それをお受けするについて、船岡どのの意向を知りたかったのです、御承知のように
慶月院は内庭のほうを見た。
「――それで」と慶月院は内庭のほうを見たままで反問した、「わたくしにあれの心底を訊きたいと仰しゃるのですか」
「船岡どのはいま、一ノ関の与党になった、という
「わたくしが思うのに」と慶月院はゆっくり云った、「三者の盟約が事実だとすれば、あれが一ノ関さまのふところへはいるのは、初めからの予定だったのではありませんか」
「そのとおりです」
「そうとすれば、一ノ関さまの与党になったと、評の立つことに不審はないでしょう」
「それはそのとおりなのです」と新左衛門は咳を抑えながら云った、「そのとおりですが、初めの約束と、船岡どのの仕方とがしだいにくいちがって来た、一ノ関との関係は密接になるが、涌谷さまや松山どのとは遠ざかるばかりなのです、初め、御内室を離別されたときは、一ノ関を
「誰がそう云うのですか」
「涌谷さま、松山どの、その他の者も殆んどそうみております」
「あなたはどうなのですか」
「私は青根で話しあいました」
「それでやはり、あなたも甲斐が不審に思われるのですね」
「事実があるのです」と新左衛門は苦しげに云った。
彼はその事実を述べた。
一ノ関の領内にある
「これに類する、小さな事はほかにもあるのです」と彼は続けた、「私は船岡どのを信じたい、涌谷さまも松山どのもそうでしょうが、私は誰よりも船岡どのを信頼して来たし、いまでも、今後も、信じてゆきたいのです」
新左衛門は眼をあげて、慶月院をみつめながら云った、「御母堂のお考えを聞かせて下さい、船岡どのは盟約を守っておられるのか、それとも、しんじつ一ノ関の与党になってしまわれたのか」
「わたくしにはわかりません」
「
「わたくしにはわかりません」と慶月院は静かに云った。
「
「しかし、御母堂にはなにか、うちあけておられるのではありませんか」
慶月院はゆっくりと、首を振った。
「そうとおぼしきことも、ありませんでしたか」
「ございません、宗輔からそういう話しを聞いた覚えはありません、もし仮に、あれがそのようなことをうちあけたとしたら、わたくしは耳を
「二心はない、と仰しゃるのですね」
「いいえ、わたくしはあれが、原田甲斐宗輔であることを信じているばかりです」
慶月院はそこで新左衛門を見、穏やかな口ぶりで云った。
「ただ一つだけ申しましょう。こんど孫の
「――松山どのの……」
新左衛門は
「それは、まことでございますか」
「茶が冷えたようですね」
こう云って、慶月院は、
「山で採ってまいりました」と宇乃がその枝を見せながら云った、「帯刀さまに砦山へ伴れていって頂きましたの、その帰りにみつけたものですから、お慰みにと存じまして、採ってまいりました」
「そう、みごとだこと」と慶月院は云った、「茱萸の実は赤くなれば、喰べてみなくとも熟れたことがわかる、――人の心の奥というものは、……」
新左衛門は隠居所を辞した。
茱萸の実は、喰べてみなくとも、その色で熟不熟がわかる、人の心底というものは……。慶月院の言葉はそこで切れたが、あとにどういう言葉が続くかは、およそ推察することができる。
館の客間へ戻ると、七十郎が酒を飲んでいた。
「躯のぐあいはどうです」
新左衛門は酒肴の
「柏屋に泊ったのを見た者があるというので、来てもらった」と新左衛門は扇子を動かしながら云った。咳が出て、彼は額の汗を拭いた。
「
「躯のぐあいはいいんですか」
新左衛門は聞きながして、
家扶の
新左衛門は額から胸までの汗を拭き、靱負の持って来た手箱をあけて、奉書に書いたものを取り出した。これを読んでくれ、と渡されて、七十郎は盃を下に置き、坐り直して、読んだ。
一、忠言あらば卑賤の者たりとも採用すべきこと。
一、親疎によって賞罰を軽重せず、阿諛 の者を大敵とすること。
一、両後見、互いに隔心なきこと。
そして後見の伊達兵部と田村右京の名が書いてあった。「これはまえに見ましたよ」
七十郎はそう云って、紙を巻いた。それは、青根の宿で原田甲斐にも見せたことがある。新左衛門は、それを預かっておいてくれ、と云った。
「出府したら、その三カ条を、誓紙として、両後見から取るつもりだ」
「出すと思いますか」
「拒絶すれば、私は国老にはならない」
七十郎は盃を取った。そして、低い声で、この三カ条をどう役立てるのです、と無関心に訊いた。
「その時が来ればわかる」と新左衛門が云った、「誓紙を取ったら采女に送るが、その写しとして、これはそこもとが持っていてもらいたい、私は必ず取ってみせる」
七十郎は心で頷いた。これなら大丈夫だ、と彼は思った。躯はひどく衰弱してみえるが、それは
「よろしい、預かりましょう」と七十郎は云った、「もし必要なら、松山へも写しを作って渡しましょう」
「松山へ寄るのか」
「そのつもりです」
「いや、松山へはいい」
新左衛門は首を振り、済まないが休息する、と云って立とうとした。七十郎はどうぞと会釈したが、ふと義兄を見あげた。
「ここへは、なにか用でもあったんですか」
新左衛門は、うん、といった。
「刀自に会いに来たんだ」彼はちょっと
「彼は人が変りましたよ」
「いつか私もそう云った」
「青根の話しのあとです」
「私もそう云ったが、しかし船岡はあれだけの人物だ、そうたやすく心変りをする筈はないと思う」
「で、どうだったんです」
「わからない」と新左衛門は
「彼のことは
「それは自分で
「赤い花を見れば、誰の眼にも赤く見えるものです」
新左衛門はどきっとしたような眼で、七十郎を見た。赤い花、という言葉が、慶月院の云ったことを、思いださせたのである。そしていま七十郎は、誰の眼にも赤い花は赤く見えると云った。もちろん
新左衛門は「うん」と頷き、軽く咳こみながら立ちあがった。
「そうかもしれない、そこもとの云うとおりかもしれない」と立ったまま彼は云った、「だが私は自分で慥かめてみる、もういちど、腹を割って話してみるつもりだ、それが最後の御奉公だと思う」
「最後のですって、――」
「私はもう、いくらも生きられないのだ」
「ばかなことを」
「いや、もう長いいのちではない、それは自分でよく知っている、医者は病気が山を越したと云うし、自分でもときにそうかと思うこともある、だがそうではない、気力の衰えや、躯の
「貴方らしいな」七十郎は酒を呷って云った、「おれは治ると云いだす病人は死ぬが、もう死ぬと云う病人は治るものです」
「そこもとには似あわない」と新左衛門が微笑した、「そういう慰めはそこもとには似あわないな、だがもう疲れた、失礼して休息することにしよう」
「いつ江戸へ立たれますか」
「明日の朝、――」そう云って新左衛門は去った。
七十郎は
「もう鮎もこんなに大きくなったのか」と七十郎が云った。
又之助は黙ってひきさがった。どこかの座敷で、新左衛門の激しく咳こむ声がした。七十郎は手酌で飲みながら、その苦しげな咳を聞くまいとするように、首を振り、そして続けさまに盃をかさねた。
咳はまだ聞えていた。
――御家老まで申上げます、お国許より相原助左衛門が使者にのぼりました。
「
――次は渡辺七兵衛からの書状でございます。
「七兵衛だと」
――目付役にあげられ、七月に仙台へまいった、渡辺七兵衛にございます。
「わかった、彼には申付けたことがある」
――すばやく致しました。
「なにかみつけたか」
――鉛奉行に不正があると申します。
「聞こう」
――
「ふむ、十五年以前か」
――記録には、当時の
「両人とはなに者だ」
――小染川市左衛門、
「うん、よし、考えておこう」
――どうあそばしますか。
「まず考えてみよう」
――すぐに人を
「隼人はそう思うか」
――小染川、只木の両名を糾問すべきでございます、早く致しませぬと、かれらが気づいて、
「うん、では誰か遣わそう、誰がよいか」
――今村善太夫と存じますが。
「役目はなんだ」
――目付役でございます、七兵衛と共にさきごろ目付役にあげられました。
「隼人がよければよかろう」
――善太夫は使えます。
「では彼にしよう、次はなんだ」
――増し
「来ると思っていた」
――あらましを申上げます。
「要点だけ聞こう」
――先年の御合力は、小石川堀普請という、公用のためでやむを得なかったが、このたびは公儀から課役があったわけではないし、他に不当の加増なども多いようだから、また家中に不満の声があがると思う、もし必要なら、自分の知行二万二千石をぜんぶ献納してもよい、自分の妻子や家来どもは、一両年ならなんとでも
「知行献納か、ふん、そういう手で来たか、あのじじい、そういう手があったのか」
――涌谷でこう云いだされますと、知行を献納すると云う向きが、ほかにも出て来ると存じますが。
「あのじじいめ」
――おそらく、御一門ほか重職へも、この旨を通じてあることでございましょう、いかがあそばしますか。
「岩沼(田村右京)と相談してみよう、今年は亀千代どのの
――次に、伊東新左衛門が出府いたしました。
「病気だと聞いたが」
――昨日到着して、すぐ医者の診察を受け、数日は休養のためにひきこもるとのことでございます。
「三カ条は
――いや、奥山左内(伊東家の老臣)よりの書面によりますと、三カ条の誓紙がもらえなければ、国老就任は辞退する
「三カ条は
――御思案がございますか。
「三カ条は呉れてやる、呉れなければ国老にはならぬ、という
――と、仰せられますと。
「これは強談強請だ、後見職たるわれらを
――わかりました。
「その誓紙は高くつくぞ、三カ条の誓紙がどんなに高くつくか、いつか彼は知るときが来るぞ」
――次を申上げます。
「重要なことか」
――柿崎六郎兵衛が、しきりに船岡にとり付こうとしております。
「柿崎とは、あの浪人者か」
――お手当を遣わしている浪人者です。
「船岡にどうしようというのだ」
――理由はわかりませんが、すでに両度まで面会しておるということです。
「彼はここへ、宮本新八を売りに来た」
――お役に立つとも誓ってまいりました。
「船岡へもなにか売るつもりであろう」
――呼びつけましょうか。
「見張っておれ、船岡になにを売るか、それを突止めさせろ、それによっては船岡の性根もわかるだろう」
――ではさように申付けます。
「船岡の動静に変ったことはないか」
――ございません。
「里見十左や伊東七十郎らが、甲斐から離れたように聞いたが、それもそのままか」
――まったく離反したようでございます。
「国から使者の用を聞こう」
――只野内膳にございます。
「国からの使者はなにごとだ」
――
「隼人、読んでみろ」
――涌谷さまのものとほぼ同じようでございます。
「非難とは、なにを非難しているのだ」
――吉岡(奥山大学)どのの
「いま彼の役目はなんだ」
――小姓頭かと存じます。
「諸方へ配ったというのは家中だけか、それとも幕府国目付へも差出したのか」
――大槻の書状には国目付とはございません。文面から判断いたしますと、国老だけではないかと思われます。
「十左という男は役に立つ」
――はあ。
「彼は、義を見てせずということなし、と
――申上げます、河野道円がおめどおりを願っております。
「待たせておけ」
――私が会いましょう。
「ここへ来てはならぬと、申した筈だぞ」
――さように申したのですが。
「待たせておけ、おれから
「隼人、岩沼へ使いにいってくれ、明朝十時、御本家で会いたい、吉岡の処置を決定したいからというのだ」
――いよいよ御罷免でございますか。
「涌谷の書状と、十左の非難がよい材料になる、小野の伊東も出府したことではあるし、ちょうどいい時期だと思う」
――岩沼さまからまた反対が出ることでございましょう。
「岩沼は気の毒な人だ」
――はあ。
「いつも家中のおもわくを気に病み、さりとて正面からおれに
――では岩沼へ、お使者に立ちます。
「待て、柿崎と申す浪人者が、船岡へなにを売り込むか、ぬかりなく見張るように固く申付けておけ」
――承知つかまつりました。
「ぬかるなと申せ」
――固く申付けます。
――八方から
と甲斐は思った。
――あの天床も、柱も、壁も
その寝間の灯は暗くしてあり、家の中はしんと寝しずまっていて、おくみの寝息だけが、断続して、かすかに耳についた。三日まえから、甲斐は、この湯島の家へ来ていた、「くびじろ」の
おくみはよく眠っていた。初めて、甲斐と寝屋を共にしたので、すっかり満足し、安心しているらしい。暗くしてある
おくみは仰向けに寝て、薄い掛け夜具を
――どういうことだろう。
甲斐はおくみの寝顔を見まもりながら、心の中で思い返した。彼は四十五歳になる今日まで、幾人かの女を知っている。妻の
おくみともすでに十一年になるが、寝屋を共にしたのはゆうべが初めてであるし、そうなったいまでも、やはり「自分の女」という感じが少しも
彼女たちは、どんなときにも、彼の女であり妻であると同時に、まったく見知らぬ人であった。どういうことだろう、と甲斐は自分に問いかけた。自分には男としての情熱がないのだろうか、性格が冷酷なのだろうか、いやそうは思えない、と彼は自分に云った。そうは思えない。自分は人よりも激しい情熱をもっている、人よりもはるかに激しく、強い情熱をもっていることを知っている。
――また、決して自分は冷酷ではない。
自分が誰よりも感じやすく、情に
甲斐はじっと息をひそめた。ながいこと、じっと息をひそめていて、やがて「そうだ」と心の中で頷いた。
――自分はいつも、誰かに、どこかから見つめられていた。
幼ないときからそうであった。彼は五歳で父に死なれてから、船岡四千余石の
――いまはさらに悪い。
いまの彼は、昔とはまるで違った眼と耳で、監視されている。その眼は、いま彼がこうして寝ているときにも、ひそかに彼をうかがい、その耳は彼の動静を聞きすましているのである。自分は誰にも、心をゆるせない。どんなばあいにも、こうして寝ていてさえも、心をゆるめるわけにはいかない。
「そうだ」と甲斐は
可哀そうに、と甲斐はおくみの顔を眺めながら、呟いた。するとおくみが眼をあいた。それまで眠っていなかったかのように、眼をあいて、静かに、こちらへ振向き、にっと、甲斐に頬笑みかけた。
「なにか
「いや、なにも云わない」
おくみはまた微笑し、なん
「あらうれしい、やっぱり夢ではなかったんですね」とおくみは云った、「あたし夢のなかで夢だと思ってましたの」
「夢をみていたのか」
おくみはするすると夜具からぬけだし、甲斐のほうへ来て、彼の夜具の中へはいった。甲斐が場所をあけてやろうとすると、その
「ゆうべのこと、みんな夢だったんだって、夢のなかで思っていたんです」とおくみが
「よく眠っていたようだよ」
「起きていらっしゃいましたの」
「寝顔を見ていた」
「あらひどい、悪いかた」
悪いかた、と云いながら、おくみは片手を、甲斐のふところへ、すべりこませた。甲斐はするままにさせた。いつもなら身をよけるか、手を押し返すかする。そんなふうに
「女の寝顔を見るのは、罪ですってよ」
「そうか、――」
「どんな顔をしていまして」
「きれいだったよ」
「悪いかた、少しもお眠りにならなかったんですの」
「そうらしいな」
おくみは甲斐の寝衣の
「でも、へんだわ」暫くして、おくみが顔をあげ、甲斐を見あげながら云った、「いつかの晩は、そこの隅にきれいな娘がみえたでしょ」
「知らないね」
「いいえ、ちゃんとみえたんですよ、ですからあたし怖くなって、逃げだしたじゃありませんか」
甲斐は手を伸ばして、
「そんな気がしただけさ」
「いいえ慥かに見えたんです」
「眼の迷いだ」と甲斐は云った。それは自分の聞いたのが幻聴にすぎなかった、ということを、自分に慥かめるような調子であった。
「そしてまた今夜も」とおくみは続けた、「夢のなかへきれいな女が出てきて、邪魔をするようなことを云うなんて、同じようなことが二度もあるなんてへんだわ」
「少しはなれないか」
「きっと誰か
「暑い、少しはなれてくれ」
「誰かいるのね、そうでしょ」
おくみは甲斐の躯へ手をまわした。片手で甲斐の持っている団扇を取って投げ、きっと誰かいるのよ、と云いながらのしかかろうとした。甲斐は顔を急にそむけながら、はっきりした声で「起きているぞ」と云った。
おくみはとびのいた。すると襖の向うで村山喜兵衛の声が聞えた。
「松山さまがみえました」
「――松山だと」
甲斐はいぶかしそうに聞き返し、そして、すぐにゆくからいつもの座敷へとおすようにと云って、「いまなん刻であるか」と
「つまらない」とおくみは云った、「十一年めでようやくおもいがかなったのに、ゆっくりお話しをすることもできないんですもの、つまらないわ」
「着替えをたのむ」と甲斐は起きあがった。
おくみは甲斐に抱きつき、そっと抱きしめたが、すぐにはなれて、自分の
茂庭周防は裏の小座敷にいた。――外はもう明るんでいるであろう、雨戸が閉っているので、その小座敷は暗く、
甲斐は
「急の出府だな」
「昨日の暮れまえに着いた」と周防が云った、「
「聞かせてもらおう」
「そのまえにきくが」と周防は甲斐を見た、「手紙に書いて来たことには、根拠があるのか」
「根拠はない」
「そこもとの想像か」
甲斐はそうだとうなずいた、「酒井侯のようすで判断したのだ、侯の私に対する態度が、あまりに
そして、これらをひっくるめて、伊達六十万石を分割し、兵部に三十万石を与えるとか、片倉小十郎にしかじか、立花大助にこれこれなどと、密約したというのはなぜか。
「私は繰り返し考えてみた」と甲斐は静かに云った、「そして、ふと、川越侍従(松平信綱)の死去ということが頭にうかんだ」
おくみがはいって来たので、甲斐は口をつぐんだ。おくみは周防に挨拶をし、茶をすすめて、甲斐の顔をもの問いたげに見た。甲斐は頷いて、「支度しておいで」と云った。おくみは会釈をして出ていった。
「伊豆守信綱が、去年三月に死んだことを思いだしたときに、こんどの事がすべて計画されたものだ、ということに気がついたのだ」
「もらった手紙には、
「伊豆守が計画し、雅楽頭がひき継いだものだ」
「もう少し聞こう」
「まず、伊達六十万石を寸断する密約がある、ということを聞かされたのは松山だ」
「いかにも、私が聞いた」
「知らせたのは誰だ」
「
「侯は将軍家
甲斐の声は低く、水のように静かであった。周防は訝しそうな顔で、じっと彼の眼を見まもっていた。
「そのとき侯は、早く陸奥守さまの隠居願いを出すこと、亀千代ぎみ相続の願いを出すことをすすめ、なお、白石(片倉小十郎)は六十万石分割の密約で、直参大名になることを承知しているかもしれないから、彼にはすべて内密にするように、と注意されたと聞いたように思う」
「そのとおりだ」
「さて、そこで考えてみよう、将軍家側衆である侯が、どこで、どうして、雅楽頭と一ノ関との密約を知ったか」
「話しの途中だが」と周防が
「誰によってだ」と甲斐は周防を見、すぐに、まあいいと云った、「徳川幕府という機構のなかで、十善人の一に数えられていることは認めよう、だが、侯はどこまでも徳川氏の
「では久世侯も雅楽頭と同腹だというのか」
「いや、そうは云わない、私はただ事実を検討してみたまでだ」と甲斐が続けた、「雅楽頭と一ノ関の密約を、どうして侯が知ったか、ということ、どうしてそれを伊達家に伝える気になったか、ということ、――なぜなら、侯と伊達家とは、侯が雅楽頭の裏を掻くほど、深い関係ではないからだ」
「また」と甲斐は続けた、「密約によって利分を受ける人々のなかに、白石の名を加え、白石には内密にするように、と忠告したことは、重職のあいだに疑心を生じさせ、互いに離反させる原因となった」
「私には信じられない、私は久世侯をかなりよく知っている、侯の人と
「私も侯が企んだと云ってはいない、侯はただ石を投じただけだ、仮に、それが好意から出たにもせよ、石が投げられたこと、それがどんな波紋を起こし、どのようにひろがりつつあるかは、松山も現に見ているだろう、繰り返して云うが、侯は石を投じた、侯は将軍家側衆であった、これが事実だ、この事実は動かすことができない」
「すると、久世侯は
「侯は十善人の一人だという」
「背後に豆州侯がいたというのだな」
「否というより、然りと云うほうが自然だろう、元和このかた、大名
「しかし伊達家には、東照公から
「安芸の福島(正則)はそうではなかったろうか、芸州も同じように永代不易の安堵状が渡されていた、しかし、幕府の権威と実力を確立するためには、一枚の紙きれなど
周防は自分の膝へ眼をおとし、両手の指を組み合わせた。
「伊達家はいま三大雄藩の一だ」と甲斐は続けて云った。
「もしうまく伊達家を潰すことができれば、加賀の前田や
「そこまで考えるのは、ゆきすぎではないか」
「かもしれない、というのだ」と甲斐は云った、「従来の例では、幕府が外から揉み潰した、しかしこんどは内部から崩壊させる、という手を打っている、六十万石寸断の密約という一石から始まった動揺は、明らかにそれを示しているし、今後もその方向に動いてゆくだろう、そう思えないか」
周防は茶をすすった。それはすでに冷えていたが、周防は殆んど無意識にすすり、それから太息をついた。
「内部から崩壊させる、というこの手が、もし成功するとすれば、幕府は加賀、薩摩にも手をつけるだろう、そんなことは不可能だという証明はどこにもない、むしろ、ありうると考えるほうが自然だ」
「それで」と周防は眼をあげた、「前田家と連絡をとるというのだな」
甲斐は頷いて云った、「加費藩の留守役で奥村藤兵衛という人に、おくみの兄の
「涌谷さまはそれを待てといっておられた」
「なんのために」
「船岡のことだからぬかりはあるまいが、いまはなにごとも大事のうえに大事をとらなければならぬ、帰国のおりじかに会って、よく話しも聞き自分の意見も述べたい、加賀へ呼びかけることはそれまで待つように、と念を押しておられた」
「私の帰国は春になる」
「それなら僅か半年だ」
「僅か半年」と甲斐は云った。僅か半年と口の中で呟き、周防を見てゆっくりと頭を振った、「いや、この件については、任せてもらうことになる」
「涌谷さまになんと伝えよう」
「ありのままでいい」と甲斐は云った、「私からも手紙を出す、御趣意はたしかにうけたまわりましたと申そう、松山からは、御意見をたしかに申し伝えた、とだけいってもらいたいが、不承知だったといってもいい、私が軽率なことをするかどうか、松山は知っている筈だ」
「それは慥からしいな」と周防は苦笑した、「里見十左はともかく、伊東七十郎まで怒らせたには驚いた」
「彼に会ったのか」
「小野の留守を預かるのだそうで、仙台の屋敷へ訪ねて来た」
「彼を怒らせるのは辛かった」
「しかし効果は一倍だ」
「彼だけは怒らせたくなかった」
「だがほかの誰よりも効果はあった、七十郎は家臣でもないのに、家中の者に深く信頼され、好かれている、そのうえ、彼が船岡に心からうちこんでいたことを、知らない者はなかったからな」
甲斐は雪洞のほうを見た。額に深い
「小野と会ったか」と周防は訊いた。
「いや、面会の申しこみはあるが、まだ会わない」
「三カ条は取ったそうだな」
「そういうことだ、吉岡の罷免も近いし、小野は国老になるだろう」
そう云って甲斐は小窓のほうへ振向き、「明けたようだな」と呟いた。
「ときに、
と周防が話しを変えた。だが、甲斐は立ちあがって、その話しはまたのことにしよう、と云い、「いるか」と襖の向うへ呼びかけた。
そのとき裏庭で、けたたましい物音と、人の喚く声が聞えた。裏の喚き声は、「くせ者」とか「逃がすな」と云っているように聞えた。
甲斐は周防を見た。周防は首を振って、「大丈夫、決して
彼は小座敷から出て、廊下を曲ってゆき、杉戸をあけて、裏庭を見やった。すっかり夜は明けたが、外は濃い霧で、
「おめにかかればわかる」とその声は云っていた、「まえにもいちどこの家でおめにかかった、私は柿崎六郎兵衛という者だ」
甲斐は黙って聞いていて、それから、「喜兵衛」とそちらへ呼びかけ、ここへお
喜兵衛と平六に左右を
「
「用件を聞きましょう」と甲斐が云った。
「他聞を
「その話しなら無用です」と甲斐は穏やかに云った、「私には縁もなし、聞く興味もない、どうか引取って下さい」
「原田どの」
六郎兵衛の声には哀願のひびきがあった。しかし、甲斐は向き直ってそこを去った。うしろで、原田どの、と六郎兵衛の呼びかける声が聞えた、「貴方は後悔しますぞ」
だが甲斐はまっすぐに前を見たまま、静かな足どりで去っていった。
洗面をしたあと、鏡の前に坐った甲斐は、鏡面に写っている自分の顔を、じっと見つめた。両の耳のところに、
「ひどい荷を、背負ったものだ」と甲斐は呟いた。
ひどい荷を、と口の中で繰り返したとき、おくみがはいって来た。甲斐は着替えをしようと云って、立ちあがった。
おみやが駿河台下の家へ帰ったとき、兄の六郎兵衛は酒を飲んでいた。時刻は午後五時すぎ、――道場ではまだ稽古の音がして、門人を教える野中又五郎の、よくとおる、
おみやはさきに新八の部屋へいった。もううす暗くなった部屋の中で、宮本新八は仰向きに寝ころがり、手足を投げだして、だらしなく眠っていた。それまで読書でもしていたものか、
「新さん」おみやは彼をゆり起こした、「起きてちょうだい、新さん、あたしよ」
新八は眼をさました。ぼんやりと眼をさまし、そこにいるのがおみやだとわかると、寝たまま手を伸ばして、おみやを抱こうとした。
「だめよ、起きてちょうだい」おみやは彼の手を押し返した。
新八は
「よして」とおみやは激しく拒んだ、「人を呼ぶわよ」
「どうしたんだ」
「放してちょうだい」
「どうしたんだ」
「痛いから放してよ」
冷たく固い声であった。新八は手を放し、さらに訝しそうな眼つきで、おみやを眺めやった。どうしたのだ、おみやが拒む筈はない。いつもおみやのほうから求めるし、どんなに求めても飽きるということがなかった。
「兄のところへ来たの」とおみやは云った、「兄に話しがあるのよ、あなたにも話すことがあるの、あとで来るわね」
「どっちでもいいさ」新八はまた欠伸をしたが、こんどはそら欠伸のようであった、「おれのほうには、べつに用はないぜ」
「怒らないで」とおみやは低い声で云った、「いろいろ話して、わかってもらいたいことがあるのよ、怒らないで待っていてね」
「どうせ
「すぐに来るわね」とおみやは云った。
新八はまたごろっと横になった。
柿崎六郎兵衛は酔っていた。
湯島の家へ、原田甲斐を訪ねたのは、二、三日まえのことであるが、帰って来ると飲みはじめたまま、寝るときのほか、ずっと飲み続けであった。
そばには女が二人いた。おきの、志保、といって、おきのが二十歳、志保が十九になる。まえにいた三人は出てゆき、この二人は三月に雇いいれたものである。まえの三人は、六郎兵衛の酒癖と乱暴に耐えかね、いとまも取らずに、逃げだしたのであった。いまいる二人も、六郎兵衛の癖には馴れようとはしない。もう五カ月にもなるが、彼の異常な性向には、どうしても応じなかったし、むりに命じでもすれば、すぐにでも出てゆくようすを示した。
――こいつらも長くはないな。
六郎兵衛はそう思いながら、ぎらぎらした眼でおきのを見、志保を見た。上品ぶった
彼はまじめで上品ぶった女を見ると、そのかぶっている皮を
縁側も窓も雨戸を閉め、
「お月見の宴が終ったので、二日おいとまが出ました」とおみやは云った。
六郎兵衛はふきげんに妹を見た。その眼は酔のために、どろんと充血していた。
「それで帰ったのか」
「お話しもございます」
「あの件でか――」
六郎兵衛の眼が細くなった。おみやは頷いて、はいといった。
「よし聞こう、おまえたちは座を外せ」と六郎兵衛が云った。
女たち二人が去り、おみやは話した。少しも風がはいらないので、暑さもひどいし息苦しく、おみやは
「それだけか」
聞き終った六郎兵衛は、たしかめるように妹を見た。彼は殆んど泥酔していたが、聞いているあいだに酔がさめたようすで、表情もはっきりしてきたし、充血した眼にも、するどい光があらわれた。
「十一月十日といったな」
「若ぎみのお袴祝いがあるのだそうです」
「十一月十日、間違いないな」
「わたくしはそう聞きました」
六郎兵衛は口の中で、もういちど、十一月十日、と呟き、独りで頷いてから、また妹の顔を見た。
「ほかにはないか」
「はい、ほかにはなにも」
「証文の件はどうだ、一ノ関と証文を取交わしたようだと云ったが、本当に取交わしたようすか」
「それはまだはっきりわかりません」
「ばか者、なんのためにあの邸へはいったか忘れたのか」
「その後あの話しは出ないのです、もしかすると聞きはぐったかもしれませんけれど」とおみやは兄を見て云った。
「わたくしはまだ新参のほうですし、勤めには順がありますから、いくら殿さまの御
「そんな云い訳は三文の役にも立たん、おれが眼と耳をはなすなと云ったら、云われたとおりにすればいいんだ」
「これまでは、そうして来たつもりです」
「褒めろとでも云うのか」
「いいえ、もうこれ
六郎兵衛は黙っていた。
「この話を聞いて頂くためにまいったのです、わたくし、もうこういう役は勤めません、これからはどうぞ、わたくしを当てになさらないで下さい」
六郎兵衛は黙って、疑わしげな眼で、じっと妹をみつめた。こいつ変ったぞ。彼は初めて気がついた。
はいって来たときから、おみやのようすは変っていた。顔つきも緊ったし、動作も、口のききようも、以前にはない
「酌をしろ、きさま、男ができたな、そうだろう、男ができたんだろう」
おみやは兄の盃に酌をし、まともに兄の顔を見まもりながら、静かに云った。
「そんなこと、兄さんに関係はありません」
「隠してもだめだ、眼を見ればわかる」と六郎兵衛は冷笑した、「きさまという女は、一日でも男なしではいられないやつだ、白状しろ、いったいどんな男に
「兄さんには関係のないことよ」
「関係がないって」六郎兵衛は唇を歪めた、「きさま兄に向かって、そんな大きな口をきいていいのか」
「わたくしするだけのことはして来ました」とおみやは云った、「決していばるわけではありませんけれど、これまでいちどだって、あなたにさからったこともなし、ずいぶん辛いときだってがまんして、云われるだけのことはやって来たつもりです」
「嘘をつくな、知ってるぞ」と六郎兵衛が遮った、「きさまは囲い者になったり、寺のかよい大黒になったことを云うんだろう、嘘をつけ、いまになって辛いなどと云ってもごまかされはしない、辛いどころか、きさまはそれが好きだった、きさまにはそれがぴったり合っていたんだ」
「あなたがそう思うのはあなたの勝手です」
「自分に訊いてみろ、おれよりきさま自身がよく知っている筈だ、きさまに限らず、女などというやつはみんな同じだ、おれは知ってるんだ」
「ようございます、それはあなたの仰しゃるとおりだと致しましょう、もうわたくしにとってはどちらでもいいのですから」とおみやは云った、「ただ、――これからさきは、わたくしはわたくしでやってまいります、どうかもう、これまでのようにわたくしを当てになさらないで下さいまし」
「それは本気で云うのか」
「眼をごらんになって下さい」
おみやはまともに兄の顔を見ていた。六郎兵衛は
――いや待て、それはまずい。
六郎兵衛は危うく、自分を制止した。ここで怒ってはぶち
「その話しはまた明日のことにしよう」
「その必要はございません」
「まあいい、明日また話すとしよう」
彼は急に酔でも発したように、頭をぐらぐらさせ、風呂へでもはいって、今夜はゆっくり寝るがいいと云い、女を呼んだ。女の一人が来ると、六郎兵衛は、風呂をみてやれ、と命じた。
おみやはその女といっしょに出てゆき、そのまま新八の部屋へはいった、そこはもうすっかり暗く、新八はまだ寝ころがっており、蚊の
「新さん、起きてちょうだい」
おみやはそう云いながら、行燈に火をいれた。
稽古が終ったのだろう、道場のほうは静かになり、廊下の向うで、野中や島田市蔵や、尾田内記の声が聞えた。行燈がつくと、新八は
「眼をさましてちょうだい」
「眼はさめてるよ」
「お顔を洗っていらっしゃい、まじめに聞いて頂きたいことがあるんです」
「これまではふざけていたっていうわけか」
「そのことも話しましょう、待っていますから、お顔を洗って来て下さい」
「ごめんだ」そんな必要はないと云って、新八は
それからおみやの顔を見て云った。
「聞いてるよ」
「あたしいま、兄にも断わって来たの、あたしもう兄とも縁を切るし、この家へも帰らないつもりよ」
「そうらしいな」と新八が皮肉に云った、「おれもそんなこったろうと思ったよ、こんどはどんな男なんだい」
「あなたにははっきり云います」とおみやは眼を伏せた。
おみやは黒田玄四郎のことを話した。同じ酒井邸の者で、新参ではあるし、身分はまだ足軽にすぎないが、算筆が達者なのを認められて、勘定部屋へ勤めている。年は二十五歳くらいだろう、ごく
新八はなにか考えながら聞いていた。おみやの話しは、半ばうわのそらで聞きながら、なにか思いだそうとしているようだったが、ふと、足軽、と呟くなり、おみやの話しを遮った。
「わかった、あのときの男だ」と新八は云った、「いつか向島の
「ええ、そうです」
おみやはわるびれずにはっきり
「わかったよ、よくわかった、もうできちゃったんだな」
「新さん」とおみやが眼をあげた。
「ごまかすな、おれは見ていた」と新八は唇を歪めた、「おれははなれて見ていたんだ。おまえはその男を伴れて、あの茶店へ戻った、気がつかなかったろうが、おれはあのときあとを
「ええ、そのとおりよ、新さんの見ていたとおりだったわ」
「あのときできたんだな」
「違うわ、それだけは違うわ」
「あのときできたんだ」と新八は自分で頷いた、「おまえはそういう女だ、おれはよく知ってるが、男と二人で、半刻ちかくも茶店の奥にいて、なにもしないなんてことができる性分じゃあない、おまえはあのとき、もう男をものにしていたんだ」
「いいわ、そう思うなら思ってちょうだい、あたしがそんな女だったということは、自分でも知っているし、そうじゃないなんて云いはしません、けれども、黒田さんはあたしなんかとは人間が違うんです」
「味をみてわかったわけか」
「新さん、あたしはまじめに聞いてちょうだいって云った筈よ」
「どう聞こうとおれの勝手だ」と新八は冷笑した、「てめえの
「――ごめんなさい」とおみやはまた眼を伏せた、「新さんをそんなふうにしたのはあたしよ、みんなあたしが悪かったんだわ」
「話しを片づけてくれ」新八はそっぽを向いた、「そういう男ができたから、つまりおれに切れろというんだろう」
「あたしのためではなく、あなたのためにそうしたいの、いいえ聞いてちょうだい、あたしまじめに云ってるのよ」とおみやは新八を遮り、指で眼を抑えながら云った、「黒田さんのことものろけなんかじゃないわ、向島のときだって、黒田さんはあたしを近よせもしなかったし、それからあとも同じよ、あの人は女中やお
おみやは話し続けた。
邸内の女たちと同様に、おみやも彼にのぼせあがった。武家屋敷のことで、表てと奥とはきびしく区別されているが、邸内は広いことだし、そうしようと思えば、男と女の会う機会がないわけではない。足軽長屋から、勘定部屋へ、黒田玄四郎は毎日かよっている。その途中で、女たちは巧みに、そして大胆に彼に近づこうとした。彼女は向島で黒田玄四郎に助けられたことがある。そうして、彼と二人だけでいっとき話しをした。したがって、他の女たちよりは親しく呼びかけられるし、玄四郎のほうでもさして避けるようすはなかった。
もちろん会って話す機会はごく
おみやは初めて、自分がなにをして来たか、ということを思い返し、その罪と汚れの深さに、ぞっとした。心の底からぞっとなり、そこからぬけ出ようと、決心した。
「あたし生れ変ってみる気になったの」とおみやは云った、「できるかできないかわからないけれど、やってみるつもりよ」
新八は顔をそむけた。
彼の顔から、皮肉や
「あたしあなたには悪いことをしたわ」とおみやは続けた、「いまさらお
「よしてくれ、それだけはまっぴらだ」
「お願いよ、新さん」
「云うことはわかってるんだ」
「ひと言だけ聞いてちょうだい」
「いやだ、それだけはよしてくれ」と新八は首を振った、「あんたは自分の好きなようにできる、この家と縁を切り、柿崎さんと縁を切り私と縁を切って、新らしくやり直すこともできる、だが私は捕われたけものだ」
「だからそのことを」
「いや、たくさんだ」と新八は乱暴に遮った、「私は脱走者だ、外へ出ればいつどこで伊達家の者に
「そんな声を出さないで」とおみやが制止した、「もし聞かれでもしたらどうするの」
だが新八は首を振り、おみやの言葉を遮って云った、「もうおれも子供じゃあない、いつまでもごまかすことはできない、おれは知ってるし、おまえだって知ってる筈だ」
「新さん、お願いよ」
「柿崎さんはおれを売るつもりだ、いや、もう売ってるんだ」と新八は云った、「この道場を造った金は、一ノ関から出たものだし、毎月、多額な手当を一ノ関から引出している、隠してもだめだ、このおれを質にしてそういう金を取っているし、いざとなれば、おれの躯を一ノ関の手へ渡すつもりなんだ」
そうだろう、と新八は声をふるわせた。
いつかは自分を使って、畑姉弟を掠おうとした。それは、自分や畑姉弟を保護し、親のかたきの兵部少輔を討たせてやる、という口実だった。その誘拐が失敗してから、自分は疑いをもち始めた。そしてこの耳と眼で柿崎さんの動静をさぐり、なにを企んでいたか、ということを知るようになった。
「柿崎さんは、一ノ関から金の引出せるあいだおれを放すまい、金が引出せなくなったら、おれの躯を一ノ関に売るだろう」と新八は続けた、「おまえだってそうだ、なにも知らないおれを
おみやは泣きだした。新八は強く、泣くのはよしてくれと云って、眼をそむけた。
「おれはそれをとやかく云うんじゃあない、おまえのような女が生れ変ろうという、まじめにそうしようとすることは立派だ、しかし、おまえがだめにしてしまったこのおれは、どうもがいてもこの檻からぬけだすことができないんだぞ」
「ですから、あたしはその相談をしようと思って来たんです」
「まっぴらだ」と新八ははねつけた、「柿崎さんとおまえは兄妹だ、おまえも柿崎さんに似ている、二人とも、自分のためにはどんなにでも人を利用するが、利用できなくなれば捨てるか売るかするんだ」
そのとき「
「おまえは風呂へはいれ」
「待って下さい、兄さん」
「風呂へゆけ、口を出すな」と六郎兵衛は叫んだ。
おみやと新八が、新八の部屋で話していたとき、――こちらの島田市蔵の部屋では、市蔵と砂山忠之進、そして稽古からあがった野中又五郎と、尾田内記とが、集まって話していた。尾田内記は出稽古にいった日で、まだ着替えもしないまま、緊張した顔で坐っていた。他の三人は稽古のあとで、ざっと汗を洗い、
「今日、藤沢に会った」と内記は云った、「松平雲州家の稽古を済ませて、出たところで会ったのだ」
「それは珍らしい」と砂山が云った、「江戸にいたのだな」
「石川はどうした」と島田が
内記は扇子を使いながら、藤沢といっしょに、いま道場をやっている、と答えた。石川兵庫介が六郎兵衛に腕を折られたとき、藤沢
藤沢は伊達
――そのうえ、伊達兵部のために、いつかわれわれを使ってなにかするつもりだ。
どんな事をさせられるか、それは新妻隼人も云わなかったが、これだけの道場を開く資金を出し、なお、月づき多額な金を渡している、ということから考えると、その役目がいかがわしいものであることは間違いないであろう、と藤沢は云った。そして、新妻隼人は、「そこもとたちが望むなら、べつに道場を開く資金を出してもよい」と明言したそうで、藤沢はそうすることを主張した。
――
ということは、当時、野中又五郎が反対した。柿崎を中心にしたかれら七人は、お互いが窮迫した浪人生活のなかで知りあい、六郎兵衛の才覚でここまでこぎつけたのである。六郎兵衛のやりかたには不審もあるが、「ここまでこぎつけた」という事実を忘れたくない。自分が六郎兵衛に意見をするから、とにかく少しようすをみることにしよう、と又五郎は云った。
それで、藤沢が石川と共に去ってからも、野中と島田、砂山と尾田の四人は残ったのであるが、いま、――尾田内記が藤沢に会い、かれらが道場を開いていると聞いて、砂山と島田は、野中又五郎の顔を見た。
「藤沢はおれを待っていたのだそうで、松平雲州邸の前から、その道場へいってみた」と内記は続けた、「場所は神田明神の下の同朋町というところで、古い長屋を改造したそまつな道場だが、門人はもう三十人ほどあるし、結構うまくいっているようだ」
「それは、――やはりいつかの話しの、伊達家の用人の世話か」と島田市蔵が訊いた。
内記はいやと首を振った、「そうではなく、日本橋の丸屋伝右衛門という、海産物問屋の補助だそうだ」
「それはまたどうして」
「石川が丸屋の主人と知りあったらしい、そのいきさつはいずれ石川が話すだろうが、肝心なことはその道場の稽古だ」と内記は云った、「藤沢はむろん刀法を教えているが、石川のほうはやわらというのを教える」
「やわらだって」と砂山が訊いた。
内記はそうだと頷いた、「
「ああ、それなら聞いたことがあった」
「こちらの小具足を、もっと精妙にした武術、といってもいいだろう、徒手空拳で敵を倒すのだが、その稽古を見ただけでも、おれは無類だと思った」
「しかし」と砂山がまた訊いた、「石川は片腕ではないのか」
「片腕だ、あのとき打ち折られた右手は、治療ができないので、肩の下から切ってしまったということだ」
「その片腕でそんな武術がやれるのか」
「やれるんだ」と内記は頷いた、「片腕だから完全に教授はできないだろう、いま門人を二人、三浦与次右衛門という師範の道場へかよわせていて、やがてはそれに代稽古をさせるのだというが、石川自身はべつに目的があって、自分だけのくふうをしているようだ」
「べつに目的がある」と島田が訝しそうに訊いた。
「わかった、わかったよ」と砂山忠之進が云った、「柿崎に
「そうだ、石川は復讐するつもりなんだ」と尾田内記が云った、「そして、おれは石川のくふうを見た、勝負のことはわからないが、彼の
「力ではないな」
「力ではない術だ、そのうえやわらは
野中又五郎が初めて、話しというのはそのことか、と訊いた。
「いや、これからだ」と内記は野中を見た。
藤沢と石川が、そこもとたちも柿崎道場を出て、こっちへいっしょにならないかとすすめた。かれらの道場はやわらが好評で、門人も殖えるばかりだし、将来のみとおしも確実である。みんなが来てくれれば、丸屋伝右衛門から資金を出させて、新らしく道場を建てるつもりだ、と云ったそうで、いま藤沢と石川が表てまで来ている、と内記は
「われわれ四人と会って、じかに話したいといって、おれといっしょに来たんだ」
「二人が来ているって」
「夕食をしながら話そうというので、いっしょに来て表てで待っているんだ」
島田と砂山は野中を見た。
――どうするか。
という眼つきである。かれらは野中を信頼していた。腕も一段すぐれているが、野中の誠実さに心から信頼し、これまでもずっと、野中の意見にしたがって行動して来た。それで、いまもまず野中の意向を聞きたがったのであろう。又五郎は手で蚊を追いながら、行燈の火のはためくのを見ていた。
「私は柿崎さんのようすを見て来た」と又五郎は静かに云った、「だが、どうやら見込みちがいだったようだ、柿崎さんは、私の申入れたことを一つも実行してくれない、相変らず女を側に置き、道場のことは見向きもせず、酒浸りになるか、そうでなければ出歩くばかりだ」
「すると、野中の意見は」
「二人に会ってみよう」と又五郎が云ったとき、廊下のかなたで高い叫び声がし、暴あらしい足音と、「誰か来て下さい」という、おみやの声が聞えた。
四人は立って、廊下へ出た。
廊下では、柿崎六郎兵衛と宮本新八と、そしておみやの三人が
「また例の
「いつもとようすが違うぞ」
野中又五郎がそう云って、かれらのほうへ近よっていった。――六郎兵衛は新八の右腕を背中へねじ曲げ、片手でその左の腕を
「どうしたのです」と又五郎が呼びかけた、「なにごとです、宮本がなにかしたのですか」
「来るな、来るな」と六郎兵衛がどなった、「こいつの性根を叩き直してくれるのだ、口出しをするな」
おみやが、野中さま、と云った。どうか止めて下さいまし、どうか兄を止めて下さいましと云いながら、けんめいに六郎兵衛の腕にしがみついていた。
六郎兵衛は、女めと叫び、足をあげておみやを
「灯をつけろ」と六郎兵衛が叫んだ、「おきの、志保、来て道場へ灯をいれろ」
彼は新八を押えたまま、床板を足で踏み鳴らした。又五郎は見ていた。おみやが野中さまと呼びかけ、又五郎は首を振った。そして、いま止めてもむだです、危なくなったら私が出ますから、と云った。二人の女が来て、道場の四方へ灯をつけてまわった。
「きさまは
「手を放して下さい」と静かに新八が云った、「貴方がいくらどなったところで、もう私はごまかされはしないし、事実が隠せるものでもない、どなるのはやめて、どうしたらいいのか云って下さい」
「いって木剣を取れ」と六郎兵衛は彼を突き放した。新八は前へよろめき、いやですと云いながら、そこへ坐ってしまった。
「貴方に向かって木剣を持ったところでどうなるものではない、好きなようにしたらいいでしょう」
六郎兵衛が「こいつ」と喚いた。
これより少しまえ、道場の杉戸口を細めにあけて、中のようすを
杉戸のあく音で野中が振返り、すぐにあっと眼をみはった。それは石川兵庫介であった。六郎兵衛も野中の声で振返ったが、訝しそうに眼をしかめただけで、すぐには誰だかわからないようであった。
石川は紺染めの帷子、
「おれが相手をしよう、柿崎」と石川は云った、「おれが相手だ、柿崎六郎兵衛、この腕の礼をするぞ」
「きさま、石川だな」六郎兵衛はどなり、そして冷笑した、「見れば片輪になったようだが、それでもまだ懲りないのか」
「そうらしいな」と石川が云った、「まだ乱酔してそんな少年に当りちらすようでは、柿崎六郎兵衛は懲りていないらしい、だがこんどはたぶん懲りるだろう」
「帰れ」と六郎兵衛が顎をしゃくった、「おれは片輪の相手はしない、物乞いなら勝手口から来い」
「いさましいな」
そう云いながら、石川兵庫介は歩いてゆき、木剣の二、三を振りこころみてから、その一本を左手に持って、戻った。
「待て石川、それはいけない」と又五郎が出て来た。
彼は二人のあいだへ割ってはいろうとしたが、それより早く、六郎兵衛が脇へとびのき、兵庫介が「止めるな」と云った。止めるな、今日は懲らしてやるだけだ、宮本はどいていろと云い、又五郎はなお、相手は酔っている、勝負のできないほど酔っているんだ、今日はいけない、よしてくれと云った。
新八はとびあがって、脇のほうへとびのき、六郎兵衛は「さしで口をきくな」と又五郎に云って、木剣を高青眼につけた。こんどは残りの腕をもらった、その腕をもらったぞ、石川。よかろう、やってみろ、と石川が木剣をあげ、面上で
廊下の口へ、島田市蔵が来、尾田内記、砂山忠之進が来た。野中又五郎は走っていって、自分の木剣を取り、万一のときには二人を分けるつもりだろう、両者のほぼ中間に、少しさがってようすをうかがった。
六郎兵衛はすぐ踏込もうとするようすだったが、とつぜん眼をしかめて首を振り、改めて石川を見た。石川兵庫介の、眉庇にとった木剣が、
石川の、面上に横たえた木剣が
たが、結果は逆であった。六郎兵衛の躯はくるっと一回転し、板敷の上へ仰けになって落ちた。どういう技を使ったのか、見ている者にはまったくわからなかったが、石川は六郎兵衛を投げると、起きあがる隙も与えずに押えこみ、片手を衿にかけて緊めた。
「もういい、それまでだ」と野中が叫び、止めようとして駆けよった。すると、石川はすっと立ちあがり、六郎兵衛はぐったりとのびたまま、絶息していた。
「心配するな、生きている」と石川は静かに云った、「ちょっと息を止めただけだ、放っておいてもすぐに気がつく、それよりも、尾田に話した相談のことはどうだ」
「まあ向うへゆこう」と島田市蔵が云った、「向うの部屋へいって話そう」
「いや、よければここを出てからにしよう、藤沢が表てで待ってる、おれは尾田の返辞がおそいから、ようすをみに来たんだ」
島田や砂山や尾田たちが、野中の顔を見た。又五郎はかれらに頷いて、それがいいだろうと云った。石川はなお、そこに茫然と立っている宮本新八に振返って、おまえもいっしょに来いと云い、又五郎も新八に、そうしろと云った。自分は残る、「柿崎にひとこと話して」あとからすぐにゆく、と又五郎は云った。
おみやは兄の脇に坐ったまま、なにも云わずにうなだれており、新八は不決断に、「荷物を持って来ます」と云いながら、石川たち四人と出ていった。
「野中さまもいらしって下さい」とおみやが云った、「兄のことはわたくしが致します、ここはようございますから、どうぞみなさんといっしょにいらしって下さいまし」
「私は柿崎さんに話したいことがあるんです」
「いいえ、どうぞ」とおみやはかぶりを振った、「こんなことになったあとでは、兄も面目ないでしょうし、それに、いまなにを仰しゃっても、おとなしく聞く兄ではございませんわ」
又五郎は黙って頷いた。そこへ、石川兵庫介が戻って来た。戻って来た石川は、杉戸口で立停り、野中又五郎はそれには気づかずに、おみやに云った。
「私は柿崎さんが立ち直ってくれるものと思っていました、私たちは貧困のなかで知りあい、苦労して来たのです、この道場を開く資金や、経営が成り立つまでの金は、柿崎さんがまかなわれた、
おみやは頷いた。又五郎は続けた。
「だが、柿崎さんはそれを認めなくなった、道場へも出ないし、出稽古もやめてしまい、自分はいかがわしい女たちをひきつけて、酒色におぼれるか、絶えず出歩いてばかりいる、そして六人に対しては、まるで主人のようにふるまい、気にいらぬことがあると、石川の腕を打ち折るという無法なことをする、これではとうてい将来の望みはありません」
おみやは頷いた。
「また、これは藤沢の聞いたことですが、柿崎さんは伊達兵部という人と、なにかひそかに事を謀っているらしい、私もいちど柿崎さん自身から、そんなふうな話しを聞きました。詳しい内容はわからないが、その事で、いざという場合には、われわれ六人を役に立たせるつもりだという、それは伊達兵部の用人から、藤沢が聞いたのです、こういう事情では、とうていこれ以上いっしょにやってゆくわけにはいきません」
「よくわかりました」とおみやが云った、「兄がどういう性分か、わたくしも知っております、みなさんは出ていらっしゃるのが本当だと思います」
「貴女もそう思うのですね」
「はい、さもなければみなさんに、もっと御迷惑のかかるときが来る、とさえ思います」
六郎兵衛が低く
「野中、ゆこう」杉戸口から石川兵庫介が呼びかけた。おみやもどうぞと云った。気がつくと
「みやどの、柿崎に伝言を頼みます」と向うから石川が云った、「こんど出会ったら眼を
おみやは黙って頷いた。
又五郎が別れを告げて去り、石川が杉戸口から出ていった。六郎兵衛がまた呻き、深い息をして、激しく
――七月二十六日。
奥山大学が国老を免ぜられた。理由は「上下の弾劾による」ということであった。
甲斐はそう書いていた。
――一ノ関(兵部宗勝)は、彼を利用するだけ利用したうえ放りだした。大学はそれに気がつかず、首席国老の位地が、自分の力量によるものと誤信し、権力に酔って、みずから墓穴を掘ったようなものである。
――万治の大変のとき、彼は
――こうして、茂庭周防が病気を理由に辞任したとき、大学はそれが自分の力によるものであると信じ、以来、しだいに我意をふるって、
――増し合力について、
――加役の件は、沙汰やみになるであろうが、十左衛門の意見書は禍根をのこすにちがいない。大学が国老罷免になったあとだから、両後見(兵部、右京)はいまのところ不問に付しているが、やがてはかの意見書が、十左衛門にとって大きな禍となるように思われる。
――大学罷免によって、松山が国老に再任されることは確実になった。松山は病弱だから、自分としては辞退してもらいたいが、彼は再任を承諾すると云っている。
――伊東新左衛門の病状はよくない。どうやらこの冬は越せそうもない、というはなしだ。せっかく国老に就任しながら、両後見から三カ条の「誓紙」を取っただけ、というのでは死にきれまいと思う。帰国して養生すれば、
甲斐がそこまで書いたとき、支度ができましたと、堀内惣左衛門が知らせに来た。甲斐は「少し待て」と云って、そのまま書き続けた。
――亀千代ぎみ
――今日は九月十三日。自分は綱宗さまから、月見の宴に召されて、これから品川の下屋敷へゆくところである。三年まえおめどおりをしたきり、久方ぶりの伺候だから、お叱りを受けることだろうし、たぶんおむずかりのお相手をしなければなるまい。召されるのは自分ひとり、「泊るつもりで来い」との仰せで、どういう月見になるか、いまからおよそ察しがつく。
――筆じりになったが、
そして結びの言葉を書き、読み返さずに巻いて封をすると、甲斐は「いいぞ」と云って立ちあがった。――堀内惣左衛門がすすみ寄って来て、七十郎が出てまいったそうです、と云った。甲斐はけげんそうに惣左衛門を見た。
「――七十郎」
「伊東七十郎でございます」と惣左衛門は云った、「小野(伊東新左衛門)どのの病状が悪いという知らせがいったのでしょう、今朝早く、御門のあくと同時に、伊東家へ到着したということです」
甲斐は頷いて、今日は継ぎ
甲斐は
備前の態度は、三年まえとは違って、極めで
「さよう、このごろはずっとおちついておられます」と備前は答えた。
綱宗はおちついている。ひところからみると、性格が変ったようである。酒はいまでもかなり飲むが、まえのように乱れることは殆んどないし、半年ばかりまえから、
「さよう、十日に一度ずつ、良源院の
「玄察老ですか」
「――老というと」
「いや、これは」と甲斐は微笑した、「住持は私とさほど年は違わないのだが、いかにも老師の風格があるので、たわむれにそう呼ぶ癖がついていたのです」
「よほど御
「私も講義を聴いたほうです」
「やはり華厳ですか」
甲斐はあいまいに、なにをというほどのこともないと答え、備前は、今宵は住持も召されている、と云った。ほどなく取次の者が来て、甲斐は立ちあがった。
中ノ口から外へ出て、木戸を二つ通り、奥庭へはいっていった。取次の者が先に立ち、次に甲斐、うしろに成瀬久馬が続いた。
奥庭の小高くなったところに、望岳亭という別殿がある。その建物には二層の
綱宗は楼上にいた。そこは十
席には綱宗のほかに、三沢
綱宗は三年まえよりもいくらか肉が緊って、膚も健康らしく日にやけ、眼光や、ひきむすんだ口もとなどには、意志と力がこもっているようにみえた。
「辞儀はいらない、久方ぶりだ、これへすすめ」と綱宗は甲斐に云った。
「おさきに、船岡どの」と玄察が会釈した。
甲斐は設けられた席に坐り、遅参したのでしょうか、と玄察に訊いた。いや、そうではない、と玄察が答えた。
「私はここが初めてなので、昏れるまえに景色を拝見したいと、お願い申したのです」
綱宗は笑って、
予想とはちがった静かな酒宴で、話題もごく尋常なものばかりしか出なかった。酒のなかばで綱宗が、原田はまだ鶴千代を見ていないな、と云い、抱いて来て見せてやれと命じた。かような席では、と甲斐は辞退したが、夫人の初女が老女藤井に頷き、藤井はすぐにさがっていった。
「甲斐は
と綱宗が云った。玄察は盃を持ったまま、面白そうに甲斐を見やった。
「猪ではなく鹿でございます」
「おれは猪だと聞いたぞ」
「くびじろと申す大鹿でございました」
「鹿のほうが姿はよい」
綱宗がそう云うと、夫人と玄察が笑った。
その話しを聞こう、と綱宗が云った。甲斐は盃を置いて話した。玄察にはまえに話したことがある。綱宗がもし玄察から聞いたとすると、省略するわけにはいかないので、「くびじろ」が自分の宿敵であった、ということから話しだした。――殆んど十年ちかいあいだ、追いつめては逃げられたこと、そしてついに、吹雪の中で正面し、勝敗を決する瞬間に、自分の
甲斐は話しをやめて、座をさがった。
「甲斐に抱かせてやれ」と綱宗が云った。
夫人の三沢初女が鶴千代を抱き取り、自分で立って来て、甲斐に渡した。
綱宗のその第二子は、数えて三歳になる。よく肥えた丈夫そうな子で、甲斐に抱かれると、片言でなにか云い、笑いながらばたばたあばれた。甲斐のぶきような抱きかたを見て、綱宗が、原田は子を抱いたことがないようだな、と笑った。鶴千代は甲斐にかじりつき、両手で耳をつかもうとした。小さな手で甲斐の左右の耳をつかみそうにして、甲斐の眼を見て、つかむのをやめ、こんどは片手で甲斐の頬を打った。
ひた、という柔らかな音が、みんなの耳に聞えた。甲斐は微笑しながら、「もういちど」と云った。鶴千代はまた彼の頬を打ち、打つと同時に泣きだしながら、両手で甲斐の
「おお、お強いお強い」
甲斐は幼児を抱きしめ、静かにその背を
「お強いからもう泣きません、はい、もうごきげんが直りました」
「とってやれ」と綱宗が云った。
乳母が寄って来て、抱き取ろうとしたが、鶴千代ははなれなかった。綱宗は「乳母に抱かれ」と云ったが、鶴千代は両手で甲斐の頸にしがみついたまま、泣きじゃくっていた。
甲斐の胸は、ふしぎな感動で、いっぱいになった。しがみついている、幼ない、小さな腕の力と、
「もういい、とってやれ」と綱宗が云った、「おれが悪かった、抱かれたら叩けと、おれが知恵をつけたのだ、耳でも鼻でも引っぱれ、顔を叩いてやれ、と云っておいたのだ」
甲斐は鶴千代を乳母に渡し、綱宗は鶴千代に云った。
「よし、もう泣くな、
乳母たちは去ってゆき、甲斐はふところ紙を出して、濡れた頬を静かに拭いた。玄察は
夫人や侍女たちは、熱心に聞いていたが、綱宗はほかのことを考えているようであった。そのころから飲みかたが早くなり、くっと呷っては酌をさせ、そして、どこかをじっとみつめながら、またくっと呷る、というふうであった。
話しが終って、夫人が甲斐に質問した。甲斐がまさに大鹿の
「原田に話しがある」
綱宗が急に云った。かなり酔ってきたらしい、顔がやや
「お
藤井と侍女たちはすぐにさがってゆき、玄察は甲斐を見た。甲斐は眼で頷いた。玄察は礼をして座をさがり、廊下のところへいって外を見た。
「月はいけませぬな」と玄察が云った、「すっかり曇ってしまいました」
そして彼もそこを去った。
綱宗は夫人に眼くばせをした。夫人は立って、
「重ねろ」と綱宗が云った、「このまえ、上府したらすぐに来ると申したのに、今日まで来なかった罰だ、今宵は酔わせるぞ」
甲斐は黙って会釈をし、云われるままに、夫人の酌でゆっくりと、盃を重ねた。
「今日までどうして来なかった」と綱宗は云った。
多用とは云わせない、本郷あたりの隠宅へ、しばしば、数日も保養にゆくということを聞いている。どうしてここへは来なかったのか、と綱宗は云った。
甲斐は静かに答えた、「御承知でないかと存じますが、さきごろから家中に事が多く、江戸番の老職はみな多忙で、ことに私は新任でございますから、なかなか伺候するいとまもございませんでした」
「隠宅へはまいってもか」
「身の保養も御奉公の一つでございます」
「よし、もっと飲め」と綱宗は自分を抑えるように云った、「隠宅のことについては
「いろいろと、いやな
「お部屋さまに申上げます」
「おれに云え」と綱宗が云った。
甲斐は聞きながして、「お部屋さまに申上げます」と云った、「私がここへ伺候いたさなければ、伺候せぬことについて噂が飛び、伺候いたせば、伺候いたしたことであらぬ噂が飛びましょう。私は力も才もない人間でございますが、もし殿が
「そうはいかぬ、そうはいかぬのだ」と綱宗が云った、「ただ甲斐のことだけなら、どんな噂も気にかけずに済むだろう、だがおれの耳にはいるのは甲斐のことだけではない、伊達六十万石の存亡にかかわるような問題が、甲斐の動静とともに伝わって来る」
「それについては、このまえおめどおりのときに、申上げてある筈です」
「いや違う、このまえはすべて事実無根だと申しただけだ」
「ただいまでも、さように申上げるほかはございません」
綱宗の眼がするどく光った。酔いの出た顔がいっそう硬ばり、いまにもどなりそうにみえたが、こんどもまた怒りを抑えて、もっと飲めと云った。お方、酌をしてやれ、今夜こそ酔わせて本心を訊くのだ、「酔え、原田」と云い、自らも盃を取った。
「甲斐はまえに、すべて事実無根だと云い、いまも同様にしか云えぬという、だが、あのときから今日まで、家中にはいろいろと穏やかならぬ事が起こっている、おれに対する幕府の
「私は酔ったようでございます」と甲斐は盃を置き、両手で顔を押えて、その手を
「その意見もまえに聞いたぞ」
「六十万石の家中となれば人も多く、ことに、強情と我意の強いのはお国ぶりですから、他の藩中とは違って、
「それは言葉だ、甲斐が当座に云う言葉にすぎない」
「私の申上げることをお聞き下さい」
「たくさんだ、そんな空疎な、言葉だけのものは聞きたくない」と綱宗は云いきった。
甲斐は綱宗の顔をみまもり、「ではお部屋さまに申上げます」と云った。いま云ったように、侍の本心にまぎれはないが、偏屈や我執の強い者が多いから、その摩擦でいろいろと事が起こる。あらぬ噂やかげ口が飛ぶのもそのためで、それをいちいちとりあげたり
「それにまちがいはないか」と綱宗が云った、「どんな風聞にも耳を貸さず、老臣どもを信じて黙って見ていていいのか」
「そのほかにお願い申すことはございません」
「亀千代のことはどうだ」と綱宗はたたみかけた、「亀千代を毒害するということを聞いた、袴着の祝いのときに、毒を盛る計画がある、ということをこの耳で聞いたぞ」
甲斐は黙った。綱宗は刺すような眼で甲斐をにらみ、これも無根の噂として聞きながせというのか、と詰めよった。甲斐は黙っていて、それから、いかにもと頷いた。
「さようなことがあるわけはございません」
「
「慥かに、事実無根でございます」
「証拠をみせろ、事実無根だという証拠があるか」
甲斐は静かな眼で綱宗を見まもり、見まもったまま、そのまえにうかがいます、と反問した、「その噂が仮に事実だとして、なんのために、若君のお命をおちぢめ申すのですか」
「伊達家横領のためだ」と綱宗が云った、「おれを
「しかし、亀千代さまが御相続あそばされました」
「だからいま、その亀千代を除こうとする、ということは考えられぬか」
「考えられません」と甲斐が答えた、「若君毒害の風聞は、以前にもございました、私は或る者からその実か否かを訊かれましたので、岩沼(田村右京)さま、寺池(伊達式部)さまという、直系の兄君がお二人も御健在である以上、亀千代ぎみのお命をちぢめても、脇から御家を相続することはできない、それは根もないことだ、と申しました」
「ましてただいまは」と甲斐は続けた、「ましてただいまは、鶴千代さまという
綱宗は口をつぐんだ。
夫人はほっとしたように、まことにほっとしたように、甲斐の顔を見、そうして綱宗の顔を見た。綱宗はやや暫く黙っていて、やがて甲斐に云った。
「では、――毒害などという説は、どこから、なんのために起こるのだ」
「そのお答えはできません」と甲斐は穏やかに云った、「ただひとつ、誰びとかが、家中に疑心と臆測をひろめ、あわよくば騒動へもってゆこうとしている、家中を騒動に巻きこもうとして、ひそかに策をめぐらせている、ということはあるように思います」
「一ノ関だな」
いやといって、甲斐は綱宗をみつめながら、静かに首を振った。
「そのように人の詮索をなさることがなにより悪いのです」と甲斐は云った、「殿までがさようなことを仰せられては、家中の疑惑や臆説をいっそう強めるばかりです、どうぞ、申上げたことをよくお考えのうえ、今後はいかなる風聞にもお心を迷わされませぬよう、繰り返して、固くお願い申しておきます」
綱宗の表情もおちついてきた。甲斐の言葉をほぼ納得したらしい、眉をひらいて、ではこの話しはよそうと云った。
「周防も原田を頼みにしているようだ、詳しいことは云わなかったが、涌谷と原田と自分が生きてある限り、六十万石は安泰であると思ってもらいたい、と申していた」
「それもお忘れ下さい」と甲斐が
そうして、綱宗がその意味をも了解したと認め、よろしければこれでさがらせてもらいたい、と云った。
綱宗は良源院を呼んでもう少し飲もう、と云いかけたが、甲斐のようすを見て、いや、と首を振り、ではさがって良源院と二人で飲むがよかろう、おれはもう酔ったようだ、と云い、
「このごろ少し詩文の勉強をしている」と綱宗は云った、「その詩は李長吉の作で、故郷の
甲斐は読んだ。
――竹香 静寂 満てり
粉飾 生翠に塗る
草髪 恨鬢に垂れ
光露 幽涙に泣く。(漆山又四郎氏の訳による)
というのであった。粉飾 生翠に塗る
草髪 恨鬢に垂れ
光露 幽涙に泣く。(漆山又四郎氏の訳による)
伊達家の紋は「竹に
「これは頂戴してまいって、よろしゅうございましょうか」
「手を笑うな」
「頂戴つかまつります」
甲斐はその紙を持って座をさがった。綱宗は「明朝また会おう」と云った。
綱宗の前をさがるとき、夫人が次ノ間まで送って来て、「お
夫人は「いま包ませる」と云ったが、甲斐はそのまま受取って、立とうとした。
「御多用でしょうけれども、いとまがあったらどうか、おみまいに来てさしあげて下さい」と夫人は云った、「誰よりも原田どのを頼みにあそばしているのです、あなたはそういう差別はお嫌いのようですけれど、あなたがみえたあとの、御機嫌のよいことは、わたくしなどの眼にもおいたわしいくらいです」
甲斐は黙って低頭した。
「あなたがみえるたびに、わがままを仰せられたり、荒れたことをなすったりします、どんなに迷惑であるかよくわかりますが、原田さまのほかには、決してあんなふうにはなさいません、原田さまお一人だけなのですから」
甲斐は眼を伏せたまま、お部屋さまこそ、と
待っていた玄察と共に、望岳亭を出ると、外はまっ暗な闇で、少し風立っていた。案内の侍が、
「樅ノ木へ小鳥が巣をかけましてね」と歩きながら玄察が云った、「なんという鳥かわからなかったが、枝が枯れてはいけないと思って、三日ほどまえに巣を
良源院の庭にある樅ノ木のすがたが、ふと眼にうかび、久しく見ずにいたな、と甲斐は思った。
「樅ノ木にも巣をかける鳥があるのですかな」と玄察が云った。
甲斐は急に立停った。そこは、ゆるやかな
みんな立停り、先頭にいた案内の侍が、こちらへ提灯をさし向けた。
「原田甲斐どのだな」とその男が云った。
その男は足袋はだしで、
案内の侍が、高く提灯をさしあげ、甲斐が、「そうだ」と答えた。
男は「
「待て、ばかなまねをするな」と玄察がどなった。
男は竹藪の中へ、甲斐を追いつめた。甲斐は望岳亭の地理をまったく知らない、案内の侍は狼藉者と叫びながら、却って、甲斐の所在を知らせるように、提灯をかかげて、竹藪の中へ走りこんで来た。
「成瀬、人を呼んで来い」と玄察が云った。
甲斐は竹藪の中で、男と相対した。どう逃げたらいいかわからないし、ほかにも助勢者がいるかと思った。だが抜合わせてはならない。彼は竹の幹を盾に、相手の刃を避けることだけ考えていた。
――
と甲斐は思った。
走りこんで来た案内の侍の、さしだす提灯が、横から光を投げ、男の顔が浮きあがって見えた。男は刀を構えたまま、右へまわって、
玄察の叫び声が聞え、甲斐は左へ逃げた。追いつめる男の刀が、二度、甲斐の袴と、袖とを刺し、男の荒い呼吸が、はっきりと甲斐に聞きとれた。甲斐はまた道へとびだし、男は追って来た。道へ出たとたん、男はちょっと
玄察がすばやく、男の背へ馬乗りになって押えつけ、久馬が刀を奪い取った。案内の侍が提灯をかかげて走って来ると、甲斐は「寄るな」と手を振り、玄察に向かって、放してやって下さい、と云った。
「誰か呼んで来い」と玄察がどなった。
だが甲斐は、それには及ばないと制止し、近よっていって、男を頭から包んでいる下襲を、取ろうとした。しかし、思い返したように、その手を止めて、「よく聞け」と男に呼びかけた。
「私はおまえを知らない」と甲斐は云った、「顔も知らないし、姓名も知らない。だが、おまえがなぜ私に闇討ちをしかけたか、という理由はほぼ察しがつく」
「斬れ、おれを斬れ」
「おちついて聞け、私は今夜のことは忘れる、いいか、今夜はなにもなかったことにして、おまえに考える時間をやる」
男はまた「斬れ」と喚いた。
「おちついてよく考えるんだ」と甲斐はなだめるように続けた、「私の首を覘ったのは御家を思う一心からだろう、とすれば、私の首を取らぬうちは死ねない筈だ、御家を思う一念に紛れがなければ、生き延びる限り生き延びて、私を覘う筈だ、そうではないか」
男は黙った。そして荒い、苦しそうな呼吸だけが聞えた。
「ただ、ひとこと云っておくが、他人の
それから和尚もういいから放してやりましょう、と云い、玄察が立ちあがると、男の躯から下襲を取り、久馬に渡して、歩きだした。
――竹香 静寂 満てり。
綱宗はそう抜き書きした。しかし、竹林は静かではないな、と甲斐は思った。御殿のほうに、小酒宴の支度ができていて、老女の藤井が、若い侍女たち二人のさしずをして、給仕に坐った。玄察はよく飲み、よく
「おまえはいい案内者だ」と玄察は云った。
玄察は彼に盃をやろうとし、川口が手を出すと、その、いまやろうとした盃で自分が飲み、彼が手を引込めると、また盃をやろうとして、また自分で飲んだ。
「おまえは、なかなか、いい案内者だ」
同じ動作を繰り返しながら、玄察はゆっくりと云った。
「あのとき、提灯を持って、駆けまわって、よく見えるように、みちしるべをしたな」
川口幾之助は
「みごとだったが、案内はおまえの役目だからな、殿に申上げるまでもあるまい、私は申上げようとは思わない、船岡どのはもちろん他言する人ではない、せっかくいい案内をしてくれたのに、結果は思わしくなかったようだな、おまえはさぞ残念だろうが、まあ
そして、もうよし、と手を振った。
老女はけげんそうに聞いていたし、甲斐はまったく知らぬ顔をしていた。川口が去ってからも、玄察はいかにも腹がいえぬという眼つきで、「今夜は酔いつぶれてくれよう」などと云い、大盃を求めて乱暴に飲んだ。
一刻ほど飲んで、甲斐はさきに寝所へはいった。次ノ間は、村山、矢崎、辻村たちの
「拝領のお垢付きで助かった」と甲斐は低い声で云った、「みごとな機転だった」
久馬は黙って平伏した。
――御首尾いかがでしたか。
「酒の支度をさせろ」
――めでたく御談合がついたのですな。
「
――それはおめでとうございました。
「まず酒を飲もう」
――給仕はいかが致しますか。
「話しが済んでからでよい、まず祝いに
「遣わそう、祝って飲め」
――頂戴つかまつります。
「
――では、……
「婚儀は来春ときまった」
――それはそれは。
「婚儀には京から
――いよいよ御万代でございますな。
「おれはこの日を待っていた、待ちかねていたくらいだ、じつをいうと、姫と東市正との婚約は、ながれてしまうのではないかとさえ、思っていたのだ」
――それはまた、いかが致して。
「婚約の期間があまりに長すぎたし、厩橋侯の意中がだんだん計りかねるようになった、
――さようにうかがいました。
「そのご岩沼(田村右京)と共に亀千代の後見になったとき加増があって、知行は三万石あまりになったが、もちろんそれで侯が満足される筈はない、六十万石を分割して、三十万石の大名にならぬ限り、婚約はそのまま、というふうな態度を示されていた」
――しかしそれについては。
「まあ聞け。おれもそのためにいろいろ手を尽して来たし、家中の内紛はいよいよ深く、確実になりつつある、だが、この内紛がどこまでいったら老中の手がはいるか、また、いざというときに、はたして三十万石がおれのものになるかどうか、という点に疑いがあった、雅楽頭という人物には信じきれないところがある、
――私には思いもよらぬ仰せです、さようなことがあろうとは、夢にも思いませんでしたが。
「むろんけぶりにも出しはしなかった、しかし心では絶えず警戒をしていたのだ、それで今日は二カ条について談合を申しいれたところ、まったく意外にも、婚儀は来春ときまったし、他の一カ条も、まあ、これを見ろ」
――拝見つかまつります。
「どうだ、隼人はどう思う」
――これは、三十万石分与の証文でございますな。
「おどろいたか」
――六十万石、分割のとき到らば、三十万石を一ノ関に分与すべし。
「侯の自筆自署だぞ」
――これは、これは。
「同文の誓紙二通、侯とおれと連署して、一通はおれ、一通は侯の手許におかれた」
――いよいよ分割は慥かでございますな。
「これは首の根だ」
――はあ。
「この証文は厩橋侯の首の根だ、東市正の婚儀が済めば侯とは親族となり、この証文が侯の首の根を押える、祝うねうちがあるとは思わないか」
――もはや御万代、これ以上の
「飲め、隼人、祝って飲め」
――給仕を召しましょうか。
「待て、下屋敷からなにか知らせは来なかったか」
――まいりました。
「それを聞こう」
――船岡どのに闇討ちをしかけた者がございました。
「甲斐に闇討ちだと」
――望岳亭で御酒宴のあと、さがってまいりますところを襲いましたそうで。
「やったか」
――討ち損じました、あわやというとき、成瀬久馬の機転で、
「成瀬久馬とは、かの者ではないか」
――これまではさようでしたが、さきごろからようすが変ってまいり、どうやら、もはやお役には立たぬもようでございます。
「では変心したというのだな」
――そう認めるほかはないような事実が、一、二ならずございます。
「すると、そのままではおけぬだろう」
――なおようすをみたうえ、然るべく処置を致します。
「甲斐を襲ったのはなに者だ」
――まだ判明いたしません。
「捕えなかったのか」
――船岡どのは、その場で放してやり、顔も名も知らぬ、暗殺のことも忘れてやる、よく思案するがよい、と云われたそうでございます。
「なに者ともわからぬのか」
――今年くにもとより江戸番にあがり、つい三十日ほどまえから、お下屋敷へ詰めていた、ということだけはわかっております。
――申上げます。
「なにごとだ」
――ただいま、伊東新左衛門どの危篤という、使者がまいりました。
――殿。
「聞いた、新左が危篤とは思いがけない、新左が危篤とは、待て、隼人、そのほうすぐにゆけ、すぐにだ」
――なにごとかございますか。
「誓紙だ、三カ条の誓紙を取り戻すのだ」
――誓紙を、取り戻す。
「あれは新左衛門がたって求めるので与えたものだ」
――頂けなければ国老はお受けできぬと申しました。
「彼の強要によって与えたものだし、彼が死ぬとすれば与えておく理由はない」
――しかし、いつぞやの仰せでは、誓紙強要ということで、いつかは役に立てるということでしたが。
「それは新左が生きていてのはなしだ、生きていれば役に立つおりもあるが、死んでしまえばそのおりもなくなるし、誓紙だけ残るとすると却って不利になる」
――不利と仰せられますと。
「両後見が伊東新左衛門ひとりに誓紙を与えた、という事実だけが残る、強要したという責を負う新左が死に、与えたという事実だけが残ることは、逆に、後見職になにか
――いかにも。
「すぐにゆけ、いや待て、まず内膳を遣わそう」
――しかし、伊東どのがおとなしく返すでしょうか、おそらく承知はすまいと存じますが。
「だからまず内膳をやるのだ、先に只野内膳をやり、あとから隼人がゆけ、隼人がいったら人払いを求めて話すのだ」
――承知つかまつりました。
「内膳には、そのほうがまいるまで動くなと、よく申しておけ、新左め、新左め」
――内膳を差向けました。
「よし、隼人は半刻ほど待つがいい、もう一つ遣わそう」
――伊東どのへまいらなければなりません、もはや充分でございます。
「では念にいれておけ、成瀬久馬から眼を放すな、疑わしいとみたら、手おくれにならぬよう始末をしろ」
――心得ております。
「次に甲斐を襲った曲者だ、なに者が
――さよう備前(大町定頼・下屋敷家老)に申し遣わします。
「
――船岡どのが、その曲者をですか。
「甲斐はやりかねない、その者が甲斐のやりかたに感動し、脱走して甲斐のふところへとびこめば、甲斐は必ず保護するだろう、彼はそういう人間だ、うん、ことによるとそういう目算で逃がしたとも思える、備前へすぐに急使をやれ」
――さっそく申しつけます。
「おれは席を変える、伊東から戻ったらまいれ、誓紙を待っているぞ」
伊東新左衛門が危篤だと聞いたとき、甲斐は
式部は綱宗と同じ二十四歳であるが、綱宗とはちがって、
「涌谷の知行はいま二万二千六百石でしょう、じっさいは確実にもっと多い、おそらく二万五千石ちかくはあがるようだ」と式部は云っていた、「表て高と
甲斐は的をにらんで、矢をつがえた弓を、静かにあげた。式部は続けた。涌谷では、万治二年に加増されるまえから、しきりに新田を起こしていた。自分の領地は
甲斐は弓を射た。弦が鳴り、矢は的に正中した。
「涌谷は表て高でも二万二千六百石、私はその半分の一万二千石です」と式部は云った、「私は年も若いし、領地を貰ったのも新らしい、涌谷は年功もあり、その領地も古いから、昔のことをもちだされると云い負かされてしまう、しかし涌谷のやりかたが無法だということは、現に土着の百姓が知っているので、私としても黙っているわけにはいかないんです」
「地境のことはむずかしゅうございますね」と甲斐が云った、「いつか一ノ関さまと吉岡の奥山大学とで、衣川の片瀬片側の論がありましたが、なにしろ図面が明確でないのですから、お互いにゆずりあってゆくより致しかたがないでしょう」
「船岡は知らないからそう云うが、人間には意地というものもありますよ」
「たしかに」と甲斐はゆっくり
「私には意地もあるし、伊達宗家一門としての名聞もあります」式部が云った。
甲斐はまた頷いて、弓に矢をつがえた。片肌ぬぎの、ひき緊った、
「涌谷は老巧だから、理屈では私はかなわない、しかし地境の是非は事実が証明しているので、理屈がどうあろうとも、私は決してあとへはひかないつもりです」
甲斐の手で弓弦が鳴った。
こころよい弦音とともに、矢は、糸を引くように的へ飛び、まえの矢と殆んど同じ一点に突立った。甲斐は射放したままの姿勢で、静かに右手をおろし、堀内大助が、的から矢を外すのを見やりながら、「それで」と式部に云った、「なにか私で、お役に立つことがあるのでしょうか」
「実地を検分してもらいたいのです」
「私にですか」
「船岡は帰国されるのでしょう」
「来春は番あけになる筈です」
「番があければ帰国されるでしょう」
甲斐は「さて」といってはじめて、構えていた弓をおろし、

「しかしそう延びることはないでしょう、少なくとも夏までには、帰国されるのではありませんか」
「そうあれば、いいのですが」
「そのときぜひ実地を見てもらいたいのです、ほかの者では涌谷に云い負かされてしまう、ほかの者ではだめです、ぜひ船岡にいって検分してもらいたいんです」
甲斐の額に深い
「私も、涌谷さまは苦手です」
甲斐がそう云ったとき、矢崎
甲斐は眼をそむけた。
「云い遺したいことがあるとのことで、すぐおいでが願いたい、という使者の口上でございました」
甲斐はためらうようすだった。新左衛門がなにを遺言したいかは、聞かなくともわかっているし、そこには国から駆けつけた七十郎もいるだろう。ゆけばうるさいことになる。そう思うようすだったが、やがて眼をあげて、まいろうと頷いた。
「ただいま寺池さまのお相手をしているが、やがてまいると伝えておけ」
舎人はすぐに去った。
甲斐が住居へ帰って、着替えをしていると、銀座の鳩古堂から、筆を届けて来た。
甲斐はいつものように、自分で手代の助二郎に会い、箱を取って居間へはいった。机に向かって箱をあけると、これも例の如く、筆が五本、
そこには極めて小さい字で、左のような意味のことが、書いてあった。
――涌谷さまから手紙があった。そこもとの意見をよく思案されたところ、思い当るふしがあるので、いちおう前田家と連絡をとる件は承知する。だが、どこまで話しあうべきかは、いちど会って相談しよう。ついては、来春の番あけを早くして、帰国のうえ会ってもらいたい。いま寺池と地境のことで掛け合っているから、その検分をするという名目で、涌谷へ来るがよかろう。おそくも三月までには会えるように、早いに越したことはないが、三月よりおくれては困る、こう書いて来られたから知らせる。という文面であった。
甲斐は読み終ると、机の上の
筆を元の箱におさめてから、堀内惣左衛門を呼んでその箱を渡し、屑籠へ手を振って、焼いておくように、と命じた。惣左衛門はただいま、と答えてさがった。
伊東新左衛門の住居は浜屋敷の中にある。甲斐は矢崎舎人と小者だけを供に、歩いて浜屋敷へいった。――伊東家に着いて、控えの間で衣服を直していると、七十郎がつかつかとはいって来た。九月中旬だというのに、紺染めの
「ほう、来られましたか」と七十郎は云った、「たぶんおいではあるまいと思っていたんです、使いをやってもむだだって義兄に云ってたんですがね」
甲斐は袴の前を叩きながら、それは気の毒なことをした、と云った。七十郎は甲斐をにらみ、低い声に力をこめて、断わっておきますがね、と云った。
「断わっておきますが、義兄は自分が危篤だということを知っています、原田さんに云うことは、死ぬ人間の最後の言葉です、わかりますか」
甲斐は黙って、舎人のさしだす扇子を取った。七十郎は云った。
「死に臨んだ人間の言葉だということを忘れないで下さい」
甲斐は七十郎を見た。初めて、静かに七十郎を見、そして、七十郎にも似あわない、と微笑した。すると頬に深く皺がより、唇のあいだから、白いきれいな歯が見えた。
「七十郎にも似あわない、なにをそんなにいきごむんだ」と甲斐が云った、「小野は危篤かもしれないが、まだ死んだわけではないだろう」
「私がいきごんでいますか」
「小野は病状が危篤だというだけで、まだ死んではいないし、ことによるともち直して
「
「私は一般の例を云ったまでだ」
「貴方自身はどうです」と七十郎はたたみかけた、「他人の生死は痛くも
「では一つだけ云おう」と甲斐は微笑しながら云った、「私はおとついの晩、品川の下屋敷で、刺客に襲われた」
七十郎は眼をそばめた。なにを云うかといったふうに、眼をそばめて甲斐を見、甲斐は微笑したまま続けた。
「月見の宴に召されて、お盃を頂いたあとのことだ」
「貴方に、刺客ですって」
「望岳亭からさがる途中、暗闇からいきなり、抜き討ちをしかけられた」
七十郎は唾をのんだ。
「幸い命は助かったが、ほんの一歩ちがえば死ぬところだった、嘘も隠しもない、あとでみると袖と袴が切れていた」
「なに者です、それはなに者ですか」
「知らない」と甲斐は首を振った、「私は顔もよく見なかったし、名も訊かずに放してやった、なぜだかわかるか、わからなければ云おうか」
七十郎は聞きましょうと、しゃがれたような声で云った。甲斐は無関心な、あっさりした口ぶりで続けた。
「なぜかといえば、私の首を
七十郎は笑った。乾いた笑い声であった。甲斐はやさしい眼で、笑う七十郎の顔を眺めていた。
「私が貴方を斬るんですって」
「もっと笑ってもいいよ」
「私が原田さんを斬るっていうんですか」
甲斐はやさしい眼で七十郎を見まもり、七十郎は怒りのために
「いくらうろたえたって、暗殺者になるほど私は自分を
甲斐はまた微笑し、では一人減ったわけだな、と云った、「七十郎が私の首を覘わないとすれば有難い、七十郎が覘えば、決して討ち損じはしないだろうからな、しかし、それでも一人減っただけで、ほかに刺客はいくらでもいる、そういう者がほかにいることは、七十郎も知っている筈だ」
「どうしてです」
「知ってはいないか」と甲斐は穏やかに云った、「知らなければ知らぬでいい、刺客というものには、多くのばあい煽動者がある、なにが真実であるかをみきわめる能力がなくて、血気にはやる人間は少なくない、そういう者はたやすく人に動かされ、すぐ壮烈な気分になって、どんなことでもやってのけるものだ」
「私がその、煽動者だというのですか」
「どちらかというと、私はあまりうぬ惚れるほうではない」と甲斐が云った、「首を覘われていることも、煽動者の多いことも、私にはたいして関心がない、そんなことよりまえに、侍の奉公というものはつねに命を賭けたものだ、と教えられたときから、私はいつも死と当面して来たし、死のおそろしさを知って来た、あんまり死を考え、死をおそろしいと思い続けたために、いまでは生よりも死のほうに親しさを感じているくらいだ、こんなことを口にするのは初めてだが、おそらく七十郎にはわかるまい、――小野が危篤だと聞いても、やすらかな往生を願うほかに、私にはなんの感慨もなし、また遺言などをことさら重大だとも考えない、それだけだ」
そして甲斐は廊下へ出た。
七十郎は棒立ちになっていて、甲斐が出てゆくのに気づき、なにか云いかけようと、あとを追って出たが、そのとき玄関のほうから、若い家士が出て、「一ノ関さまからまたお使者です」と告げた。
「追い返してしまえ」と七十郎はどなった。けれども、若い家士の困惑したようすを見ると、思い直したように頷いた。
「よし、おれが会おう、客間へとおしておけ」
若い家士はいそぎ足に、玄関へ戻っていった。
甲斐が案内されたとき、病間では医者が、新左衛門の脈をみていた。下座のほうに、
その座敷は書院造りの十帖で、床ノ間には書の軸が掛けてあり、香炉から煙があがっていた。窓も

「いや、正直に云ってもらいたい、あとどのくらいです、今夜が越せますか」
「まだお脈は、しっかりしております」と医者が云った、「御病状がゆだんのならぬ点は事実ですが、お訊ねのようなことにお答えはできません」
「それほどさし迫っているというわけか」
「私は正直に申しております」と医者は云った、「私は昨日、御病状が重大であると申しました、いまでも好転したとは申上げませんが、昨日の御容態より危険が多くなったとは思われません、このお脈のしっかりしていることから判断いたしますと、今夜か明朝か、というほど早急とは考えられません」
新左衛門は「ああ」と喘ぎ、もういいというふうに頷いて、甲斐のほうを見た。
医者は座をさがり、甲斐に会釈をして立ちあがった。次ノ間にいた若い家士が、医者を送ってゆき、甲斐は立って、新左衛門の
「よく来てくれた、御用の暇を欠かして済まない」
「寺池さまの、弓のお相手をしていたところだ」
「靱負」と云って、新左衛門は家扶を見、「起こしてくれ」と命じた。
家扶は迷って、助言を
二人は彼を元のように寝かし、新左衛門はやや暫く、眼をかたくつむって、喘いでいた。
「靱負、遠慮をしろ」とやがて新左衛門が云った。
靱負は次ノ間へさがり、新左衛門は眼をあげて、甲斐を見て、このざまだ、わかるだろう、と力のない声で云った。
「やっぱりだめだった、痩せたのは病気がおさまったからだと思ったが、そうではなく、衰弱し始めていたんだ」
こんどはだめだ、もう時間の問題だ、と新左衛門が云った。甲斐は黙って、静かな表情と、温かい、
「死ぬことはなんでもない、なん年もまえから、こんどこそ死ぬだろう、という峠を幾たびも越して来た、死ぬ覚悟はできているが、やりたいと思ったことを、やらずに死ぬのがこころ残りだ、どんなにこころ残りか、わかってくれるだろう」
「誰にしても、やりたいことを全部やって、こころ残りなしに死ぬ、というわけにはいくまいと思う」と甲斐が穏やかに、ゆっくりと云った、「もしも小野がし残して、どうしてもやらなければならぬことがあるなら、誰かが小野に代ってやるにちがいない」
「誰かではない、船岡に頼みたいのだ」と新左衛門は云った、「苦しいから単直に云う、一ノ関を除いてくれ、知っているとおり、故人の古内主膳どのは、義山公(故忠宗)に殉死するとき、一ノ関の
甲斐は黙って、当惑したように、しかし穏やかなまなざしで、新左衛門を見ていた。
「涌谷さまや松山は、船岡と力を合わせて一ノ関に当る、三人協力して、一ノ関の陰謀を
新左衛門は言葉を切って、激しく喘いだ。残った命が、その一と呼吸ごとに消えてゆくような、激しい喘ぎであった。
「船岡はまだ、自分を
そして新左衛門は、焦点の狂った眼をあげ、そこに甲斐がいることを
「もうなにも訊く必要はない、ただ、最後にひと言、一ノ関を除くと云ってもらいたい、一ノ関のことは引受けた、それだけを、ひと言、聞かせてくれ」
「少しおちつくがいい」と甲斐が云った、「それでは苦痛が増すばかりだ、少し休んで、気をしずめなければいけない」
「云ってくれないのか」
「人間の力には、限度があるようだ」と甲斐はもの柔らかに云った、「小野は自分にできるだけのことをした、もうあとのことに心を労する必要はない、この世のつとめをはたしたら、あとは平安に死ぬことを考えるがいいだろう」
「云ってはくれないのだな」
「言葉が役に立つか」と甲斐は云った、「小野が求めるとおりのことを、私がここで誓言したとして、それで小野が満足するか、満足できると思うか」
新左衛門の眼が、甲斐をみつめたまま動かなくなり、甲斐はその眼に頷いた。心をかよわせるように、頷いて、それから、ゆっくりと首を振った。
「耳や眼は
新左衛門の眼は、まだ動かなかった。
「死んで、たましいになれば、なにもかも見とおすことができる、小野もやがて、すべてを見とおすだろう、――ゆくところは同じだ、死ねばみな同じところへゆく、私もあとから追いつくだろう」
そして甲斐は
新左衛門はかすかに頷いた。すると、その眼から涙があふれ出て、枕へこぼれた。甲斐はふところ紙を出し、静かにその涙を拭いてやった。
そのとき七十郎が顔を出し、「用談は済みましたか」と訊いた。甲斐はふところ紙を、
「また一ノ関から使いです」と七十郎は新左衛門に云った、「同じことを云い張っていてききませんが、どうしますか」
「断われ」と新左衛門が云った、「なんと云おうとも返さぬ、返す理由がない、ならぬと云え」
「そう云うがきかないのです、誓紙は伊東新左衛門その人に求められたもので、しかも国老就任が条件であった、当人が重病で倒れ、国老の任に耐えなくなった以上、その誓紙は返すのが当然である、というのです」
「私はまだ生きている、国老の任も解かれてはいない」と新左衛門は激しく喘いだ、「また、あの誓紙は、私ひとりが受取ったのではなく、伊達家臣ぜんたいに対する、誓約だ、両後見から、全家中が受取った、誓約なのだ」
そこで新左衛門は絶句した。
絶句したとみえた新左衛門は、激しい
甲斐はじっと坐っていた。
「一ノ関が、あの三カ条の誓紙を、返せと云って来ている」と新左衛門はとぎれとぎれに云った、「昨日、二人で来て、断わったが承知しない、いまもまた、来ているそうだ、これで、あの誓紙がどんな意味をもつか、船岡にもわかるだろう」
「もう話しはよせ、また苦しむだけだ」
「これだけは聞いてもらう」と新左衛門は続けた、「三力条の誓紙は、必ず、ものをいうときが来る、だからこそ、一ノ関は執拗に、取返そうとするのだ、あれはいつか、必ずものをいうだろう、私は誓紙を
そのことを覚えていてくれ、と新左衛門は云った。甲斐は静かに、覚えていよう、と頷いた。
「これでいい」と新左衛門は甲斐を見た、「船岡の云うとおり、安らかに死ぬことを考えよう、来てくれてうれしかった、どうかもうひきとってくれ」
「よければもう少しいよう」
「いや、もう充分だ」と新左衛門は云った、「死にざまを見られるのは辛い、どうかひきとってくれ」
甲斐はゆっくりと頷き、暫く新左衛門の顔を見まもっていたが、「ではこれで」と云って、静かに立ちあがった。
その夜、――新左衛門は死んだ。
甲斐が聞いたのは、翌十六日の早朝で、知らせに来たのは七十郎であった。彼は旅装をしていて、庭先からはいり、甲斐は縁先で彼に会った。七十郎は新左衛門の死を告げたのち、自分はこれから「誓紙」を持って国許へ帰る、義兄との約束は忘れないでいてもらいたい、と云い、返辞は聞くまでもない、といいたげに、すぐ去っていった。
「あんた、年を隠してるね」と女が云った。
新八は「うう」とあいまいな声をだしながら、もぞもぞと寝返りをうった。女はうしろから抱き緊め、素肌をぴったり寄せながら、「だめよ、ねかさないよ」と云って、新八の耳たぶを吸い、乱暴に肩をゆすった。
「よせ、眠いんだ」と新八が云い、女の腕を押し放そうとした。女はもっと身をすりつけ、「ほんとの年は幾つよ」と云った。
「少しはなれてくれ」と新八は躯をもがいた、「あつくってしようがない、よせといったらよせ、うるさいぞ」
「ほんとのこと云いなさいよ、そうしたらねかしてあげるよ、云わなきゃこうするから」
「よせ、殴るぞ」
「じゃあ云いなさいよ、でなきゃあたしが当ててみようか、ねえ、あんたはまだ二十まえでしょ」
「ばかを云え」
「二十まえよ、わかるわ」と女が云った、「あんた二十三だって云ったでしょ、あたしもそうかと思ったよ、今夜で五たびめだから、初めは九月だったね、九月の末だったかな、初めてのときいろんなこと知ってるんで、びっくらしてさ、あたしなんかこんなしょうばいしてるのに、聞いたこともないような、いろんなこと知っててさ、それがうまいんだもの、うん、憎らしいよこのひと」
「痛え、ふざけるな」
新八は
「二どめのときなんか、あたしあんまり恥ずかしくって、あかりをつけてもおけなかった、悪いったってきりがあるよ、年を
女はうきうきしていた。まださめない
なんというやつだ、おれはなんという腐ったやつだ、と新八は思っていた。
「でも今夜でわかった」と女は続けていた、「あんたのは教えられたもので、教えられたことをぶきように真似ているだけだってことがさ、このまえのときと今夜で、それがわかったよ、あんた誰かに教えられたんでしょ、そうだよ、きっとこれがよっぽど好きなひとなんだ、あんなにいろんな勘どころがあるなんて、しょうばいしているあたしなんかだって知らなかったもの、よっぽどだよ」
新八は部屋の中を眺めていた。女の無恥で露骨な
風呂屋に遊女を置くことは、十五年ほどまえに禁じられたが、実際は隠し
石川兵庫介たちといっしょに、明神下の道場へ移ったのは八月で、彼は道場の雑用をするかたわら、兵庫介から柔術、野中又五郎から刀法を教えられた。どちらも稽古はそれほど激しくはなかったし、他の人たち、砂山忠之進、尾田内記、藤沢内蔵助、みな彼にはしんせつだった。島田市蔵だけは、うさん臭そうな眼で見る。口ではなにも云わないし、かくべつ辛く当るわけでもないが、どことなく疑わしそうな、さぐるような眼で彼を見るし、あまり口もきこうとはしなかった。
――そうだ、あの眼だ。
と新八は心のなかで呟いた。
――おれはあの眼が怖い、あれはおれの性根を見ぬいている眼だ、おれがどんなに腐っているか、どんなに堕落した人間かということを、底まで見やぶっている眼だ。
新八は
「どうしたのさ、聞いてるの」と女が新八をゆすった、「ごまかしてもだめだよ、あんたのやりかたは
「少し黙れ、少し黙ってくれ」
「あたしが当ててやる、十九かな、十八かな、きっと十八だよ」
女は手と足で絡みつき、のしかかろうとした。新八は女を押しのけて、乱暴に起き直った。
「うるさくすると帰るぞ」
「帰すもんかさ」
新八は立ちあがった。
女もはね起きて、彼を羽交い絞めにした。帯をしめていないので、寝衣がはだけ、肥えた、肉の厚い、女の躯があらわになった。よせ、本当に殴るぞ、と新八が云い、「殴ってよ、殴んなさい、殴らないのかさ」と女は彼をゆりたてた。女の躯はずっしりと重く、力も強かった。新八はよろめき、女は彼を押倒した。
それから
新八は眠れなかった。あんまり恥ずかしくって、灯を消さずにはいられなかった。そう云った女の言葉が、
材木町にいたじぶんは、隣りのお久米に負かされた。かこい者のお久米は、おみやと新八との仲を知っていて、おみやが屋敷奉公にあがったあと、すぐに新八を手なずけてしまった。
「――あのころからだ」と新八は呟いた。
すると女が、鼻声で軽く呻き、彼を抱いている腕が、
「うるさいね」と女が眠ったまま云った、「しつっこい人だね、触らないでよ、うるさい」
そして、掛け夜具をもっと剥ぎ、ばたっと手足を投げだした。あらわにはだかった胸で、線のゆるんだ、大きな双の
「ふしぎだ」と彼はやがて呟いた。
こんなにも抑えがたい衝動を感じさせるのに、そのあとではいつも、激しい屈辱と嫌悪におそわれる。おみやのときもお久米のときにもそうであった。どちらのばあいも、そのあとで、ふと、殺してやろうか、と思ったことが幾たびかあった。
「これはどういうことだ」と彼は口の中で呟いた、「女のほうでも、こんなことを考えるのだろうか」
そうではないようだ。女にはそんな感情はないらしい、女は陶酔し、満たされ、しかも飽きるようすがない。満たされたことによろこびを感じ、そのよろこびに浸っていようとする。男と女との、この相違はなんだ。
「男と女との、この違いはどういうことだ」と新八は呟いた。
どこかで雨戸を叩く音と、なにか云う人の声が聞え、新八は
女は手足をちぢめ、胸をかけ合わせながら、頭をもたげて、どこかの物音に耳をかたむけた。いやだよ、と女はだらけた声で、独り言のように云った。
「なにかあったんだね、見廻りだよ」
「見廻りってなんだ」
「
新八はどきっとした、「役人がこんなところへ、調べに来るのか」
女は息をひそめた。階下に物音と、人の話し声が聞え、女は低い声で、やっぱりうちだよ、と呟いた。
「なか(新吉原)だとこんなことはないんだけれどね、なかには吉原掛りというのがあって、むやみに町方なんぞの手入れはできないんだけれど、こういうところは隠れたしょうばいだから」と女は新八を見た、「兇状持ちがまぎれこんだなんていう口実で、ときには本当にそんなこともあるけれど、たいていは小遣いをせびるために押込んで来るんだよ、あんたなにかあるんじゃなくって」
「なにか、とは」新八は云いかけて首を振った、「おれは浪人だが、侍だから」
「こんなところへ来る役人は下っ端だから、そんなこと遠慮しやしないよ、たぶん下でつかませるだろうけどさ」
新八は起き直った。
――おれは脱走者だ。
ということが頭にうかんだのである。しかしそのとき、
新八が着替えて、帯をしめていると、障子があき、「御用」と書いた
新八と女は、膳を前にして、さし向いに坐った。男はするどい眼つきで、新八をにらみ、新八はふるえた。おちつけ、おちつくんだ、と新八は思った。だが、下腹に力をいれても、躯のふるえは止まらないし、女が「盃を持って」と囁き、そうしようと思うのだが、手を伸ばすこともできなかった。
提灯をかざして、こちらをにらんでいた男は、うしろへ頷いてから、部屋の中へはいって来、そのあとから二人、同心らしい若者と、目明しらしい、中年の男とがはいって来た。
「このお客さんの酒のお相手をしていたんですよ」と女が云った。
女は派手な色の、着古した寝衣に、
「なにか不審でもあるのですか」と新八が反問した。
「どこの御藩中か、うかがっているのです」
「――浪人しています」と新八は
同心らしい男はふんと頷き、振返って目明し
「本所のどこです」
「本所の、向島の牛御前の近くです」
「あの辺も本所といいますか」
「そう聞いたようですが」
「御姓名は」男は板壁のほうへ眼をやった。
それまで新八を見ていた眼をそらし、言葉つきもしだいに
男は板壁のほうを見ていて、そのままで、「でたらめだな」と低く呟き、それからひょいと、女に訊いた。
「この客は馴染か」
女はいいえと首を振った、「いいえ、ほんの、二度ばかりです」
新八は女を見た。同心らしい男は、やはり立ったままで、ふところから静かに十手を取出した。
新八はかっと逆上した。男が十手を取出すのを見ると、いっぺんに頭へ血がのぼったようになり、われ知らず、なにをすると叫んだ。
「私がなにをした、私になんの不審があるんだ」
「おまえ震えているな」と同心らしい男が云った、「おれがはいって来たときから震えていた、住所もでたらめだし、偽名をなのった、いや、階下で聞いて来たんだ、おまえ
新八はそれはと吃った、「それは、こんなところでは、誰だって本名は云わないでしょう」
「役人に向かってもか」と男が云った。
「いや、そんなことはない、いま答えたのが本名だ」
「
「年は、年は十九歳」
「姓名は、――」
「野中、野中、忠之進」
「忠之進だって」
男はそこで新八の脇に
「よし、わかった」と男は立ちあがった、「済まないがちょっと番所まで来てくれ」
「どういう理由です」
「住所を偽わり、名をかたり、年不相応な金を遣っている」
「不相応な金だって」
「そうさ、おまえは此処でだいぶ遊んでいるようだ、女は二度ばかりといったが、階下で訊いたらもう五たびも来ている、そんな金をどうして手に入れた」
新八はふるえた。道場の金をごまかしたという事実が、非常な重さで彼を押えつけ、その重さで、骨が鳴るように思えた。新八はふるえながら、しかしそのくらいのことで、侍一人を
「
「それなら刀を見て下さい」と新八が云った、「人を斬ったかどうか、刀を見ればわかる筈です、階下に預けてある刀を見て下さい」
男は冷笑した。
「それがどうした」と男は冷笑しながら云った、「刀を見るぐらいのことは、云われなくとも知っている、だが、刀は取替えることができるんだぜ、辻斬りをした刀を、そのまま差しているようなばかは、それほどたくさんはいないんだ」
新八は頭を垂れた。
女がそばから、おとなしくいきなさいよ、と云った。いけばわかるじゃないのさ、おとなしくいくほうがいいわよ、と女が云い、目明しふうの男が、手数をかけるな、立たねえかと云った。
――罰だ、罰だ。
いいざまだ、と新八は思った。
同心ふうの男が、繩は掛けないから神妙にしろと云った。三人は新八を前後からはさんで、二階をおりた。刀は二本とも、目明しふうの男が持ち、新八はまる腰のままで、外へ出ると、提灯を持った男が先に立った。
「もう白むころだな」と同心らしい男が云った、「霜がおりてる、今年は少し早いようだな」
新八は足ががくがくした。
調べられたら、どうしたって本当のことを云わなくてはならない。道場の金をごまかし、あんな場所で遊んだことが知れたら、みんなはなんと云うだろう。どう思うだろう。新八は息が詰まりそうになった。
石川や野中たち、特に、島田市蔵のするどい
かれらは西へ向かっていた。
――町木戸を
走りながら彼は思った。足が重く、耳の中が血で
石段を登りきったところで、新八は草むらの中へ身を隠した。内側から
崖の下で呼子笛がするどく鳴り、人の叫び声が聞えた。
「上は人の家です」と云うのが聞えた、「日本橋の
新八は手で地面をつかんだ。
枯草の根の地面は、霜で浮いていて、冷たくべっとりと、指にねばり付いた。空は明るみはじめ、どこかで小鳥の声がした。新八は口をあいて喘いだ、追手は石段を登って来るらしい。崖下にも人声がして、池之端のほうへ遠のいてゆき、石段を登って来る人のけはいと、草履の音が聞えた。それはすばやく近づいて来、やがて提灯の光が見えた。
「そっちが木戸です」
「この
「天神のほうへ出られます」
そんな問答に続いて、すぐに、木戸があいていますと云うのと、叩いてみろと云うのが同時に聞えた。
新八は口をあいて喘いでい、からからに干あがった喉が、紙でも擦り合わせるような音をたてた。木戸をあけて、人を呼ぶ声がし、答える声がした。その問答のあいだに、一人がこっちへ来た。提灯の光が近づき、棒のような物で草むらを叩くのが聞え、それがさらに、こっちへ近づいて来た。新八は息を止めた。
「おい、提灯をみせろ」と云う声が、殆んど耳のそばで云われたように、新八に聞えた。新八は眼をつむった。棒で叩かれて、枯草が鳴り、灌木の枝の折れる音がした。だめだ、と新八は思った。
棒は彼のすぐうしろに届き、倒れた草が彼の着物に触れた。彼はちぢみあがった。だめだ、みつかった、と思い、そのとき木戸のほうから、「そっちはどうだ」と呼びかける声がして、いないようです、と答えながら、草の中へはいって来るけはいがした。
新八はとびあがった。
提灯の光と、草を踏みわけて来る、人のけはいとで、新八は逆上し、いきなりとびあがって、その男に躰当りをくれた。あっという声と、「いたぞ」という叫びが起こり、新八は草むらの中を走った。木戸口にいた二人がこちらへ走って来、新八は逆に木戸のほうへ走った。
「そこだ、そっちへゆくぞ」という叫び声や、「待て、逃げてもむだだぞ」という声が新八の耳を打った。
――あさましい、あさましい。
新八はそう思いながら、狂ったように草むらからとびだし、そして、木戸口に立っている男を見ると、前後のふんべつもなく、「助けて下さい」と云いながら、その男のうしろへ走りこんだ。
「助けて下さい、無実の罪で追われているのです、頼みます」頼みますと云って、喘ぎながら、男の袖につかまった。
男は二人いて、一人が提灯を持ち、新八のようすを見た。そこへ追手の者が四人、走りよって来た。新八は提灯を持っている男を見て声をあげた。
「貴方は、矢崎さんですね」
男は新八を見た。
追手の四人がそこへ来て、その男ですと指さし、「おい、神妙にしろ」と云った。新八は哀願するように、貴方は原田さまの矢崎さんでしょう、と云った。
「私は矢崎
「宮本新八です、お忘れかもしれませんが」と新八はけんめいに云った、「万治三年の大変のときに殺された、いや、上意討になった、宮本又市の弟です」
相手はそばにいるもう一人の男を見た。彼は矢崎舎人で、もう一人は岡本次郎兵衛であった。二人は新八に見覚えがないらしい、だが、新八の言葉で、それが事実だということはわかった。原田家の矢崎ということも、万治の騒ぎや、宮本又市の刺殺されたことなど、知らない人間ならたやすく口には出せない筈である。舎人は頷いて、これは自分の知っている者だが、と町方の者に向き直って云った。
「いったい、どういう罪で、追っているのですか」
「辻斬りの疑いです」と同心らしい男が答えた。
「証拠があるのですか」と舎人が反問し、新八が「証拠なんかありません、ただ年ごろが似ているらしい、というだけなんです」と云った。舎人は相手に、どうですか、と訊き、相手は口ごもって、新八がその若さで風呂屋の売女にかよっていること、辻斬りをしたのが浪人であり、年ごろも似ていることなど、あまり確信のない口ぶりで答えた。
「わかった」と舎人は振返って、岡本次郎兵衛に、眼くばせをしながら、「宮本を
新八が風呂屋の二階で、女とたわむれていた同じ夜――、湯島のおくみの家では、
おくみは
酒宴がはじまって、半
「泊る許しが出たか」と甲斐が訊いた。
丹三郎はきちんと坐ったまま、はいと答えた。甲斐は楽にしろと云った。
酒宴は続けられ、男女の芸者たちの、鳴り物や、唄や、踊りなどが、賑やかに、代る代る演じられていった。甲斐はそれらの芸をたのしむというふうでもなく、酒もあまり
けれども、丹三郎は聞いていた。口には出さないが、心のなかで、甲斐が自分に話しかけているのを、殆んどその一語一語を、聞くように感じられた。
十時ころに酒宴が終ると、甲斐はおくみに「寝間へ伴れていってやろう」と云って立ちあがった。おくみは甲斐といっしょに、座敷を出てゆきながら、自分の寝間はよごれているから、あなたのお部屋のほうへ支度をさせよう、と云った。
「三日ばかり風呂を使いませんから、おいやかもしれないけれど、おそばに寝かして頂くだけですから、いいでしょ」
「今夜はだめだ」
「どうしてですの、ただおそばで寝かして頂くだけよ」
「今夜はいけない」と甲斐が云った、「丹三郎と話したいことがある、二人だけで、一と晩、いてやりたいんだ」
「つまらないこと、せっかく久しぶりでお会いしたのに」
「からだが悪いんだろう」
「病気じゃあないんです」
「顔色もよくないし、痩せたようだぞ」
おくみはそうかしらと云い、寝間へはいると、
「ふるえるわ」とおくみが囁いた。
「寒いからだ」
「こんなに、ふるえるわ、恥ずかしい」
「寝るほうがいい」
「あたし、臭いかしら」
甲斐は首を振った。おくみは甲斐の衿をくつろげて、そこへ顔を押し当てながら、うっとりすると囁いた。
「このお肌の匂いを
「寝たほうがいい、さあ、寝かせてやろう」
「もう少し」とおくみはかぶりを振った。
「火がないから寒い、さあ、横におなり」
「少しここにいらしって」
甲斐は「うん」といった。
おくみは夜具の中へはいり、甲斐は掛け夜具のぐあいを直してやった。おくみは、お顔がよく見えないから、灯をもう少し明るくして下さい、と云った。
「そして、こちらの此処へ、お坐りになって」
甲斐は云うままになった。
「こんなお使いだてなんかして、
横に寝て、枕の上から、じっと甲斐をみつめ、でも初めてのわがままだから、罰は当らないわねと云い、片方の手をさし出した。甲斐はその手を握ったが、「寒いよ」と云って、すぐに夜具の中へ押し戻した。おくみは指を絡んで放さず、夜具の中で、甲斐の手を握っていた。
「いったいどこが悪いんだ」と甲斐が訊いた。おくみは病気じゃないんです、と云いさして、夜具の中へ顔を隠し、甲斐の手をぎゅっと握り緊めた。甲斐は
「十日ばかりまえに、診てもらって、わかったんです」と夜具の中からおくみが云った、「ちっとも食がすすまないし、喰べると吐いてしまうし、いつまでもそんなことが続くでしょ、きっとなにかの病気なんだと思って、医者に来てもらったんです、恥ずかしかったわ」
「そうだと云われたときは恥ずかしくって」とおくみは続けた、「本当に恥ずかしくって、足の裏まで赤くなるような気がしましたわ」
甲斐は眼をつむった。
「あたし、赤ちゃんができるなんて、考えたこともなかったんです、年も三十一になっているし、初めからそんなこと頭になかったでしょ、ですから医者にそうだと云われたときは、消えてしまいたいほど恥ずかしかったんですよ」
けれどもうれしかった、とおくみは云って、また甲斐の手を強く握り緊めた。あなたのお子が産めるなんて夢のようだ。まだ夢ではないかと思うくらい、うれしい。十一年も待ったかいがあるし、無事に産むことができれば、あなたに捨てられるときが来ても、その子があなたの代りになってくれる。自分にはもう、無事に産むことのほかに、なにも望むものはない、とおくみは云った。
甲斐は黙っていた。おくみはそっと夜具から顔を出して、「どうかなさいましたの」とさぐるように問いかけた。
甲斐は微笑した。その顔はもう、いつもの柔和さに返っていた。烈しい悔いと自責のために、醜いほども歪んだ表情は、きれいに消え去って、いまは温かく微笑し、額には穏やかな
「ちょっと戸惑いをしているところだ」と甲斐は云った、「これから生れるとすると、孫のようなものだからね」
「あんなこと仰しゃって」とおくみはにらんだ、「お国の奥さまはどうなさいますの、新らしい奥さまをお迎えなすったじゃあございませんか、それでよく孫のようだなんて仰しゃれたものね」
「ちょっと戸惑いをしただけだ」
「おうれしくはないんですか」
「もうおやすみ」と甲斐は静かに手を放し、掛け夜具の衿を直してやった。おくみは甲斐の眼をみつめながら、おうれしくはないんですか、と訊いた。甲斐は微笑して、わからないねと答えた。
「こういうことには、男はいつも戸惑いをするものだ、うれしいかどうか、すぐにはわからないものだよ」
おくみの眼が
「女の子なら、おくみに似るだろうね」と甲斐は云った、「おやすみ、私は向うへゆくよ」
「あとでいらしって」
「今夜は丹三郎といてやると云ったろう」
「では朝になってから」
甲斐は頷き、もういちどおやすみと云って、立ちあがった。
灯を暗くし、
居間に使っている八帖に、夜具を並べて、甲斐と丹三郎は横になった。同じ座敷で、甲斐と夜具を並べて寝る、ということは、丹三郎には思いがけなくもあり、不安を感じたようでさえあった。

「禅の俗書にこんな話しがある」
横になって暫くしてから、甲斐が、穏やかな口ぶりで云った。
「弘安四年に、
これはおかしい、と甲斐は云った。時宗はそのまえに、元の国使を鎌倉で斬っている。他国の王の使者を斬るということは、そのときすでに決戦の覚悟をきめていたのだろう。にもかかわらず、元軍が来寇したと聞いて、大変なことになった、どうしたらいいかなどと、問いかけにゆくとは思われない。
「
これも信じられない、と甲斐は云った。正成は兵庫へゆくまえに、桜井ノ駅で
「また、武田
かれらは楼門の上で焚殺されたのだ、と甲斐は云った。一人も生き残らなかったのに、その禅僧の言葉を誰が聞き、誰が云い伝えたのか。いや、誰も聞きはしない、禅門が巧みに作った俗話にすぎない。こういう作られた逸話は、ほかにも数えきれないほどある。と甲斐は云った。
そして、そのまま暫く沈黙した。
丹三郎は息をひそめて聞いており、なんのために甲斐が、そんな話しをするのか、と思っていた。家の中はすっかり静かになって、なんの物音も聞えなかった。
「私は、こういう話を、信じなかった」とやがて甲斐が続けた、「相模太郎も、
甲斐はそこで、また暫く黙った。感情を抑えているようでもあり、自分の云っていることに退屈した、というふうでもあった。けれどもまもなく、もっと穏やかな声で、殆んど独り言のように、甲斐は続けた。
「これらの逸話は、禅の精神を伝えるものではなく、人間のかなしさ、弱さをあらわしているのではないか」と甲斐は云った、「私はちかごろそう思うようになった、時宗や正成が、禅僧に覚悟を問わず、泰然と事にたち向かったとすればいさましい、だが、平生
「人間とは弱いものだ」と甲斐は言葉を継いだ、「人間はかなしく、弱いものだ、恵林寺の僧がもし大悟徹底していたら、火中であんなことは云わず、黙って静かに死んだことだろう、おそらく
丹三郎は黙って聞いてい、そのまま長い沈黙が続いた。
「つまらぬ話をしたようだ」とやがて甲斐が云った、「この十日には、若ぎみの
「知っております」
「できるなら」と甲斐は口ごもった、「もしできるなら、その日は故障を申上げて、休むがいい」
丹三郎は黙っていた。甲斐は天床を眺めたまま、もしそれが不承なら、と云った。
「いま話した俗書の俗話を、土産に持ってゆくがいい、人は壮烈であろうとするよりも、弱さを恥じないときのほうが強いものだ」
丹三郎は「はい」と答え、甲斐は、眠るとしよう、と云って寝返った。
――おくみがみごもった。
甲斐はそのことを考えた。丹三郎は休みはしない、必ず出仕するだろう。その式日に「
――こんどは危ない。
と甲斐は思った。「置毒」が現実に行われるという、証拠はなにもないが、ふしぎにこんどは危ないということが感じられた。丹三郎はまだ十八だ。彼を死なしたくはない、と甲斐は思った。
だが彼はいちずな性格である。鬼役にあがるときの、思い詰めた気持は、いまでも変ってはいないであろう。危険を避けろなどと云っても、承知する人間ではない。危ないと云われれば、むしろすすんでやるほうの人間だ。やむを得まい、彼にはそうさせるよりしかたがないだろう、と甲斐は思った。いちど思いきめて、少しも迷わずに、それをやりとげることのできる人間は、仕合せだ。
甲斐は眼をつむって、おくみが懐妊したということを考えた。おくみ自身「思いもよらなかった」と云ったが、甲斐もそんなことがあろうとは、まったく考えなかった。そうなることは、いわば当然であるのに、ながいあいだ子を持たなかったためか、もう子は欲しくないと思っていたためか、そんな懸念はまったくなかったし、そうと聞かされたときは、突然おとし穴へでも落ちたような気持になった。自分には子は不要だ。いまいる
いつ眠ったものか、遠く人のざわめきを聞いて、甲斐は眼をさました。丹三郎はまだ眠っており、裏の木戸のあたりで、人の声がしていた。――もう夜の明けるころだろう、甲斐は起きあがって、静かにその座敷を出た。丹三郎は気づいたとみえ、軽い寝息が止まったが、眼はつむったままで、身動きもしなかった。
廊下をおくみの寝間へゆこうとすると、寝間からおくみが出て来て、裏でなにかあるようです、と云った。甲斐は、なにかあれば
それから約半
「さっきの騒ぎはそのことでしたの」
「そうです、役人に追われて逃げこんで来たのですが、事情のある者なので、こちらへ引取ったのです」
「そう申上げましょう」とおくみは云った。
甲斐が洗面を終り、着替えをしてから、おくみはそのことを話した。甲斐はちょっと考えてから「ああ」と頷き、舎人を呼んでくれと云って、居間へはいった。
矢崎舎人の話しを聞きながら、ちょうど丹三郎の来あわせていた偶然さに、甲斐は、皮肉なめぐりあわせを感じた。
やがて、舎人がいって、新八を伴れて来、甲斐は舎人をさがらせた。――新八を見るのは初めてである。邸内で見かけたことはあるのだろうが、甲斐には記憶がなかった。年は丹三郎と同年配だというのに、三つも四つも老けてみえるし、
――これが、良源院から、畑姉弟を誘拐しようとした男か。
甲斐はそう思った。そして、新八のうしろには、柿崎なにがしとかいう、あの浪人者がいたという。柿崎なにがしが、この湯島の家へあらわれたとき、丹三郎が見て、畑姉弟が誘拐されようとしたとき、新八に指図をしていた浪人者だ、と云った。
――運の悪い男だ。
彼は仙台へ護送される途中で、脱走した。仙台へゆけばよかったのである、数年のあいだ預けられていれば、やがて宮本の家名を
新八は固くなって坐り、両手を
「この家を知っていたのか」と甲斐が訊いた。
新八は
「どうして脱走したのだ」と甲斐が訊いた。
「兄のように、殺されると思ったのです、仙台へゆき着くまえに、途中で殺されるかもしれないと思ったのです」
甲斐は頷いた。
「いま考えると、ばかなことをしたと思います、逃げてから今日までのことを考えると、いっそあのとき、殺されるなら殺されたほうがよかったと思います」
「柿崎とは、どうして知りあったのだ」
「あの人の妹に会ったのです」と新八は答えた、「脱走して江戸へ戻って来たとき、道で偶然に会って呼びかけられ、その妹の家へ伴れてゆかれたのです」
「妹とは知りあいだったのか」
「いいえ、はい」と新八は云いよどみ、それから、渡辺九郎左衛門の側女だったと云った。
「渡辺九郎左衛門」
「はい、兄と同じときに上意討になった人です」
「九郎左衛門の側女、それが柿崎の妹だったというのか」
甲斐は口をつぐみ、そうだったのか、と心のなかで呟いた。いつか酒井邸で、見おぼえのある待女が一人いた。のちに、中黒達弥からの手紙で、その侍女が柿崎の妹らしい、ということを知ったのであるが、渡辺九郎左衛門の側女だったとすると、見おぼえがあると思ったのは誤りではなかった。
――たしか、滝尾という名であった。
甲斐はそう思いながら、新八に向かって、「それからどうした」とあとを促した。
新八は話した。彼はすべてを語った。六郎兵衛との関係はもちろん、おみやのこと、お久米のこと、
新八はいま、
「考えておこう」と甲斐が静かに云った、「その年にしては、手痛い経験をしたようだ、おまえのまいっている気持も、およそ察しがつくし、いさぎよく罰を受けようという気持もわかる、だが、いそぐことはない、藩でどういう処罰をするかわからないが、おまえの経験したことと、藩の処罰とはべつだ」
「それはどういう意味ですか」
「いつか改めて話そう」と甲斐はなだめるように云った、「暫くこの家で休むがいい、罪に服するいさぎよさよりも、ほかになにか
「しかし、――私がここへ来たことは、役人たちが知っています、役人から目付役へ問い合せがあると思いますが」
「それは私に任せておけ」と甲斐が云った。
藩のほうは自分が引受ける、おまえは暫く躯を休めて、しんじつ罪に服するのがいいかどうか、よく考えてみろ、と云い、それからふと、新八の顔を見まもって、塩沢丹三郎を覚えているか、と訊いた。新八は覚えていますと答えた。
「いまこの家にいるが、会うか」と甲斐は訊いた。新八はたじろいだ。ほんの一瞬ではあったが、明らかにたじろぎをみせ、しかしすぐに「はい」といって甲斐を見た。
「むりにとは云わぬぞ」
「会います、会って
「ではいっしょに食事をしよう」
甲斐はそう云って振返った。
おくみが来ると、甲斐は「三人で食事をするから」と支度を命じ、新八に向かって、丹三郎がこの春から原田家を出て、若ぎみの鬼役にあがった、ということを告げた。新八は「はあ」と甲斐を見あげ、鬼役という意味に気づいたのだろう、急に顔を硬ばらせながら、低くうなだれた。
「だが、こだわることはない」と甲斐は云った、「彼は自分からすすんで鬼役にあがったのだし、おまえとは関係のないことだ、また、おまえは彼にあやまると云ったが、そんな必要もない」
「それは御存じないからですが」
「いや、それは済んだことだ」と甲斐が云った、「もう済んだことでもあるし、いまあやまって取返しのつくことでもない、云ってみればそのことで傷ついたのはおまえ自身なのだ、そうではないか」
新八はまた頭を垂れた。
「気を楽にして会え」と甲斐が云った、「ことによると、二人はもう二度と会えないかもしれない、おそらく、もう会うことはないだろう、しかしこれもよけいなことだ」と甲斐は首を振った。そうだよけいなことだ、と静かに首を振り、ただ気を楽にして会うがいい、と云った。
だが、丹三郎と新八を会わせたことを、甲斐はひどく後悔した。支度ができて、広間へ移り、互いに目礼を交わしたとき、丹三郎の眼に、烈しい怒りと侮蔑の色があらわれ、それを敏感に感じとった新八は、屈辱のために
丹三郎は冷やかに「しばらく」と云ったきり、二度と新八を見ようとはしなかったし、その表情からは、ついに侮蔑の色が消えなかった。
――舎人から事情を聞いたな。
甲斐はそう思った。新八がここへ逃げこんだ事情を、舎人から聞いたのであろう。畑姉弟を誘拐し損じたことと、ここへ逃げこんだわけを聞けば、丹三郎の気性としては
食事はきまずい気分のうちに終った。甲斐は二人をとりなさなかった。かれらはまったく無縁である。流れの中で偶然によりあった木の葉が、すぐに相はなれて、互いの方向へ流れ去るようなものだ。このままでいい、と甲斐は思った。女中たちが食膳をさげ、茶と菓子をはこんで来た。丹三郎は毅然と坐ってい、新八はうなだれたままであった。
――申上げます、河野道円が伺候つかまつりました。
「待ちかねた、これへ」
――道円にございます。
「待っていた、寄れ、これへ進め、道円」
――おそれながら。
「寄れと申すのだ、
「道円、あれから五日になるぞ」
――はあ。
「袴着の祝いは十日にあった、今日はすでに十五日だ」
――おそれながら。
「理由を云え、祝いの当日あの件を行うように命じおいた、そうではなかったか」
――うけたまわりました。
「袴着の祝いの当日、あの件をやれと命じておいた、にもかかわらずなにごとも起こらない、当日なにごとも起こらなかったし、今日に至ってもなにごとも起こらない、どういうわけだ、道円、これはどういうわけなのだ」
――おそれながら、私にも合点がまいりません。
「申せ、理由を申してみろ」
――私は手配を致しました。
「云いぬけは許さんぞ」
――私は手配を致しました。
「では、薬が無効だった、と申すのか」
――そうではございません、事前にこころみまして、その効果を
「どのように慥かめた」
――犬、猫、鼠に与えましたところ、いずれも同じ症状を発して吐血し、殆んど即死でございました。
「犬猫には効いたが、人間には無効だというのか」
――さような筈はございません。
「隼人、毒見のしだいを述べろ」
――申上げます。第一に
「当日は誰と誰がした」
――与頭は米山兵左衛門、膳番は熊田市兵衛、小姓頭は千田平蔵、刀番は塩沢丹三郎でございました。
「塩沢丹三郎とは」
――もと船岡どのの家従でございました。
「よし、聞いたとおりだ道円、当日は四人が毒見をし、四人とも今日まで無事にいる、そのほう薬の効果に間違いなしと云うが、それではこれをどう解釈したらいいのだ」
――私にも合点がまいりません。
「膳部係りの手落ちか」
――膳部係りは指図どおりに致したと申します。
「証拠があるか」
――両名が立会いのうえ致しましたそうで、分量も指図どおり、両名が念に念をいれてやったと申しますし、それに偽わりはないと存じます。
「ではどういうことになる」
――はあ、それがとんと。
「合点がまいらぬだけでは申し訳にならん、どこに疎漏があったか考えてみろ」
――私には思い当るふしがございません。薬も改めて吟味してみましたし、効果に変りのないことも慥かめたのです。当日のものがいかなるわけで無効だったか、私にはまったく見当もつきかねます。
「ばかなことだ、ばかげているぞ道円」
――念のためにおうかがい申します。
「云え、なんだ」
――ただいま、刀番の者が船岡どのからあがった、というようなお話しでしたが。
「それがどうした」
――もしかして、その者がなにか作為をしたのではないかと、思いついたのですが。
「刀番になにができる」
――わかりません。いまここではわかりませんが、その塩沢という者が、もと原田さまの家従だとうかがいまして、もしなにか作為されたとすれば、そのあたりで行われたのではないかと思ったのです。
「船岡に不審があるのか」
――原田さまは底の知れないお方です。
「しかし刀番にどうすることができる」
――しらべてみます。その点を早速しらべることに致します。
「下手に
――心得ました。
「できるだけ早くしろ、待っているぞ」
――おいとまを頂きます。
「よし、さがれ」
――申上げます、只野内膳、おめどおりを願います。
「なにごとだ」
――ただいま、かの者より知らせがまいりまして、船岡どのが前田家の老職と密会するもようだと申しております。
「またか、また船岡か」
――相手は加賀藩の留守役、奥村藤兵衛という人物で、数日うちに密会する手筈だということでございます。
「なんのためだ、前田家の留守役と、なんのために船岡が密会するのだ」
――理由はわかりません。
「船岡、船岡、なんぞというと船岡の名が出る、いざ当ってみるとなにごともない、これだけ充分に手配りをし、起居動作を絶えず監視していて、少しでも疑わしいことがあれば、すぐ
――しかし、この知らせは捨ておけまいと存じますが。
「
――日本橋の
「知っている、湯島の隠宅におるのがその妹であろう」
――雁屋は海産物の問屋と、回船を兼ねている関係で、まえからその留守役と
「なにか商法かもしれぬな」
――はあ。
「原田は勝手が苦しいといって、いつか
――それならば、密会などをする必要はないと存じますが。
「密会ということは、かの者が申したのであろう、これまでにも同様のことがしばしばあり、事実をつきとめるたびに空の袋を
――はあ。
「念のために、できたら密会の始終をさぐれと申せ、おそらく袋はまた空であろう、おれはそうだと思う、おれはそう思うのだ、原田という男はあれだけの人間で、人の裏を
――いま一つ、申上げたいことがございます。
「また原田か」
――この二日、袴着の祝儀の八日まえに、船岡どのが湯島の家で、塩沢丹三郎と一夜を過したもようだと申します。
「原田が、……塩沢丹三郎とか」
――その日は、かの成瀬久馬が湯島へ供を致しました。久馬からはなんの知らせもございません。彼が役に立たなくなったことは、すでに御承知のことと存じますが、今日かの者の申すには、二日の夜、丹三郎が湯島で一泊したことは間違いないことでございます。
「それをどこで知った」
――賜暇の願いからと申します。
「邸外に出たのか」
――さように届け出たということです。
「道円め、にらんだな」
――はあ。
「隼人、道円にいまの話しを伝えてやれ」
――申し遣わします。
「しかし、なんのためだ、湯島の一夜になにがあったのだ、呼んだのは原田か、丹三郎か、よし、考えてみよう、内膳はかの者によく申しつけて、手ぬかりなきようにと申せ、よし、原田か、原田か……」
彼はその茶屋の前を、二度、ゆき戻りした。六、七軒並んでいる茶屋は、みな新らしい。
その茶屋の店さきにも、若い女が二人いて、かん高い声で往来の者に呼びかけるので、彼はすぐにはいってゆく勇気が出ないようであった。
「お寄りなさいましな、そこのお武家さん」
三度めに、若い女の一人が、店から出て来て呼んだ。
「なんど
「私は人と会う約束があるんだ」と彼は編笠を傾けながら云った、「みやという婦人なんだが」
「あらそうですか」と若い女は振返った。
すると店さきにいるもう一人の女が、ええいらしってるわ、と
「どうぞ、御案内いたします」
彼は店へはいってから、編笠をぬいだ。
その座敷は六帖ばかりで、不忍の池に面したほうが、
「わがままを申しまして」とおみやは頭を垂れた。
「殿が厩橋へ帰国されたので、いとまがもらえました」
玄四郎は刀をとって左に置きながら坐った。おみやはもういちど
「話しを聞きましょう」
二人きりになるのを待って、玄四郎がおみやを見た。おみやはうなだれていて、「はい」といったが、膝の上で両手をかたく握りしめたまま、やや暫く黙っていた。
――変ったものだ。
と玄四郎は思った。向島の茶屋で逢ったときからみると、まるで人が違うようだ。あのときの、みだらなほどむきだしな、情欲のかたまりのような姿はどこにも見られない。年はもう二十四か五歳になるだろう。あのときのようすでは、男の数も二、三ではなかったらしい。それがいまは、まったくうぶな、生娘のようにしか思えない。
――こんなに変った理由はなんだろう。
と彼は心のなかで思った。
「そんなに話しにくいのですか」と玄四郎が訊いた。
おみやはうなだれたままで、そっとかぶりを振り、お聞き苦しいかもしれませんけれど、聞いて頂きます、と云った。
おみやの話しだしたことが、なにを意味するのか、玄四郎には見当がつかなかった。おみやは自分の過去をすっかり語った。それはちょうど湯島の家で、宮本新八が甲斐に向かってした告白に似ていたが、内容はそれよりもはるかにいまわしく、汚辱に満ちたものであった。
彼女は兄の六郎兵衛のことを語り、自分が兄のために身を売ったことを語った。自分では兄のためだと思ったし、兄に強要されたのも事実であるが、その後の自分をかえりみると、自分でもそれを嫌ってはいなかったようだ。貧乏な生活よりも、衣食住に不足のない暮しがしたい。どうせ望ましいような結婚はできないのだから、いっそ気楽な生涯を送るほうがいい。そう思って兄の云うままに
玄四郎はそのとき、えっという眼つきをした。
「渡辺九郎左衛門」と彼は反問した、「それは、どこの御家中でしたか」
「仙台さまの御家来でした、御存じの方でしょうか」
「いや、――いや知りません」
玄四郎は不明瞭に口を濁し、「あとを続けて下さい」と云った。
おみやは語り続けた。
玄四郎はさりげなく聞いていたが、心のおどろきは大きかった。そこにも、万治の大変が尾を
――だが待て、慌てるな。
と彼は危うく自分を制止した。
――なんのためにこんなことまで話すのか、その理由を聞いてからにしよう。
こう思って、彼はその続きを待った。
そのときおみやは、話しをやめて、そっと玄四郎を見あげ、すぐにまた俯向いて、これで自分の過去は残らず話した、と云った。
「この春、向島でおめにかかったときのことを思いますと、自分で自分をずたずたにしたいほど、恥ずかしゅうございます」おみやは手で顔を
「しかし、兄という人がいるのでしょう」
「兄にもそのことを話しました、もうわたくしを当てにしてくれるなと、はっきり断わりを云いましたの」
「それで、――」と玄四郎はおみやを見た、「柿崎どのは承知されましたか」
おみやはかぶりを振った、「承知いたしませんし、いやなら邸からさげてしまう、また元のように身を売らせる、と申して
「逃げるみちがありますか」
おみやは、ありませんと云って、またかぶりを振り、眼をあげて玄四郎を見た。
「あるかもしれませんけれど、わたくし逃げようとは思いません、兄の云うことが威しではなく、本当にそうするとしても、わたくしは逃げ隠れはしないつもりです」
「しかし、邸をさげられたらどうします」
「さげられたにしても、もう兄の自由にはなりません」
「それで済みますか」と玄四郎が訊いた、「柿崎どののやりかたから考えると、とうていそれでは済まないと思う、それよりも」
こう云いかけて、彼はちょっと口をつぐんだ。いま自分の云おうとする言葉が、彼自身の良心を刺し、僅かではあるが胸が痛んだ。しかし、それはほんの一瞬間のことで、彼は自分の課された任務の重さを思い、眼の前に置かれた機会の誘惑を避けることができなかった。
「それよりも、もう暫く柿崎さんの云うとおりにしていたらどうでしょう、いったい、柿崎さんはどういうことをさぐれと云うのですか」
「殿さまと伊達兵部さまとで、なにか事を企んでいらっしゃるらしいのです」
「伊達家に関係のあることですね」
「よくはわからないのですが、仙台の六十万石を分割して、兵部さまに三十万石を与える、という約束ができ、その証書をお二人とり交わしたもようなのですが、兄はその証書を盗んで来いと云うんです」
「そんな、――」と玄四郎は口ごもった、「しかしそんな、三十万石を与えるなどということを、実際にお二人がしたのだろうか」
「証書がとり交わされたことは、わたくしが現に見ていました」
「
「一枚は殿さま、一枚は兵部さまが、お互いの手から手へ渡すのを拝見しました」
「人払いもせずにですか」
「殿さまはああいう御気性ですし、わたくしたちはお次におりますから、たいていのことは見えもし聞えもしますの」
玄四郎は茶碗を取った。
「その証書は」と彼は軽い口ぶりで云った、「その証書があれば、柿崎さんは満足されるんですね」
「わたくしにはできません、以前のわたくしなら、盗み出したかもしれませんけれど、もう二度とそんなことは致さないつもりです」
「ちょっと障子をあけましょう」と玄四郎は立ちあがった。
玄四郎は窓の障子をあけ、そこに立って、やや暫く外を眺めやった。ひろい池の水面が、冬の暖かい午後の陽にきらめいていて、蓮の、枯れてしおれた葉を付けたものや、二つに折れたものが、そのきらめく水面に、
「もしも貴女が、柿崎どのの手から

おみやが彼のほうへ振向いた。玄四郎はこちらへ背を向けて立ち、池を眺めたままで、柿崎の望みをかなえてやるほかはあるまい、と云った。
「ではわたくしに、これからも続けろと仰しゃるのですか」
「いや、その証書だけでいいと思う」と玄四郎は云った、「どんな役に立てるのかは知らないが、そういう証書なら、これを最後にと云って渡せば、柿崎どのも貴女を放すと思う」
「わたくしに盗めと仰しゃいますの」
「それが柿崎どのの手を

「わたくし兄を知っています」とおみやは云った、「兄はこれでいいと云うことを知らない人間です、証書を取って渡すことは、わたくしがまだ役に立つという証拠をみせるようなもので、兄はさらにあとを続けろと申すに違いありません、それはわかりすぎるくらいわかっていることなんです」
「しかし、ためしてみてもいいでしょう」
「あなたは兄を御存じないからですわ」
「ためしてみませんか」と玄四郎は振返って、まだ窓際に立ったままで云った、「これを最後にといって、もしまだ続けろと強要するようなら、そのとき改めて手段を考えてもいいでしょう」
おみやは玄四郎の顔を見た。
玄四郎は
「黒田さま、――」とおみやは呼びかけた、「こちらへいらしって下さい」
玄四郎は不決断にこっちへ来、それから元の場所へ坐って、必要もないのに、そこにある刀を置き直した。おみやはそれを見まもりながら、ふるえる声で云った。
「どうぞ本当のことを仰しゃって下さい、どうしてあなたは、その証書を盗めと仰しゃるのですか」
玄四郎は、貴女のために、と云いかけたが、おみやはかぶりを振って
「お願いです、どうぞ本当のことを仰しゃって下さい」とおみやは強い視線で玄四郎をみつめ、そして、ひそめた声で「どうぞ」と云った。
「あなたは嘘の云える方ではありません、お顔を見ればわかります、どうぞ本当のことを聞かせて下さい、それによってわたくし決心を致します」
玄四郎は頭を垂れた。
おみやは「云ってくれ」と繰り返し、彼はじっと頭を垂れていた。おみやはたしかに人が変った。初めに会ったときの、多情多弁な女ではなくなっている。自分で自分を素裸にするような、告白のしかたでもわかるし、顔つきまでが違ってみえるようだ。
――信じても大丈夫だろうか。
玄四郎は迷った。おみやの変化が動かないものかどうか、誰にも証明することはできないだろう。黙っていれば間違いはない、けれどもその「証書」の誘惑はあまりに強く、それを手に入れたばあいの、大きな価値を考えると、みすみすこの好機を失う気にはなれなかった。
――よし、やってみよう。
もしも間違ったら、自分がその責任をとればいい、思いきってやってみよう、と玄四郎は心をきめ、では、と頭をあげた。
「では話しましょう。私も隠さずに話しますから、聞いて下さい」
おみやは眼で頷いた。
玄四郎は自分がもと原田甲斐の家従で、本当の名は中黒達弥というのだ、ということから話しだした。おみやは身動きもせずに聞いていた。玄四郎は気がつかなかったが、おみやの受けたおどろきは、よほど深く、痛烈なものだったとみえ、蒼ざめた顔は硬ばったまま仮面のようになり、眼は焦点を失って、二つの暗い穴のようになった。玄四郎は話し終って、
「これがすべてです」と彼は云った、「自分のためではなく、伊達家六十万石と、全家中の安泰を護るために、私はその証書が欲しい、どんな手段をもちいてもそれを手に入れたいのです」
おみやはぼんやりと玄四郎を見あげた。生気のない、放心したような眼つきであった。
「わかってくれましたか」と彼は云った、「こう話してしまった以上、私の口からはもう盗みだしてくれとは云えません、どうするかは貴女の気持しだいです、いやなら決してしいは致しません、どうか貴女の思うようにして下さい」
「わかりました」とおみやは乾いた声で云った、「黒田さまには、それがお役に立つのですわね」
「仙台藩と全家中のためにです」
「ええ、わかりました」とおみやは眼を伏せた、「わたくし、やってみます」
「やって下さる、――」
「うまくゆくかどうかはわかりません、たぶんうまくゆくと思いますけれど、よほどの隙がなければ仕損じますから」
「いそぐ必要はありません」と玄四郎は云った、「時日に期限はないのです、大丈夫だというときを待って、あせらずにやって下さい」
「わかりました」
「しかし、断わっておきますが」と玄四郎はまたおみやを見た、「もしも気乗りがしないのなら、いやだと云って下すっていいのですよ、もともと無理な頼みだし、非常な危険がともなうのですから、いやになったら、あとからでもいやだと云って下さい、わかりましたね」
おみやは、ええ、と頷いた。
彼女の顔には、虚脱とすてばちの色が、混りあってあらわれ、それまでの単純な表情とはまるでべつな、一種の
「これでお別れ致しましょう」とおみやが云った、「証書のことは心配なさらないで、きっとうまくゆくと思います。なにかお知らせすることがあったら、いつもの木戸のところでお呼び申します」
「待っています」
待っているがあせらないように、と玄四郎が念を押し、おみやは承知した。おみやはけんめいに自分を抑えていた。玄四郎が立ちあがり、刀を差して、編笠を手に出てゆくまで、笑顔こそ作れなかったが、玄四郎にはなにも気づかせずに、廊下まで送りだした。
「――さりとては、また」
座敷へ戻ったおみやは、鼻唄をうたいながら、窓のところへいって、池のほうを眺めやった。いつのまにか、十五六羽の
「あの人は、なんにも、訊かなかった」と彼女は
おみやの顔がみじめに
「こういう生れつきなのね」と彼女はまた呟いた、「こういう生れつきなのよ、じたばたしたってどうなるもんじゃない、そうよ、はじめっからわかってたことよ」
しかし、おみやは崩れるように坐り、肱掛け窓に
「あたし生れ変りたかった、本当に生れ変りたかったのよ」とおみやは云った。
窓
「これまでの泥だらけな、汚れた躯や気持を洗いおとして、きれいな、つつましい女になりたかったのよ、こんな気持にしたのはあなたなのよ、黒田さん、あなたがあたしをこんな気持にしたのよ」
生れ変って、誰にもうしろ指をさされないような女になることができたら、そうして、あなたがもしおいやでなかったら、あたしはあなたの妻にしてもらうつもりだった。
「むりになりたいんじゃなく、もしかおいやなら、一生ひとりで暮してもいい、ただ、この気持を知ってもらえさえすれば、生涯、尼のように暮しても本望だと思っていたのよ」
けれどもあなたにはわからなかった、勘づきもしなかったわ。ひどい、あなたは男でしょ、女がこんなところへ男を呼びだして、あんな恥ずかしい身の上話をなぜするのか、男ならすぐにそのわけがわかる筈よ。もしも、ほんの少しでもおみやが好きだったら。
「それをあなたは」ああ、とおみやは激しくかぶりを振った、「あたしのことなんか思いやってもくれなかった、あたしの気持なんか察しもしないで、自分のことばかり考えていた、ひどい、あんまりひどいことよ、それなら兄と同じじゃないの、たとえなんのためにしろ、証書を盗みださせるのは、同じことだわ、ちっとも兄と違いはしなくってよ」
それはあんまりだ、黒田さんがそんなことを頼むなんてひどすぎる、あんまりひどい。ほかの人ならともかく、あなたがそんなことを頼むなんて。――おみやはそうかきくどいて、いかにも苦しそうに
襖の向うで
「お酒が頂けないかしら」とおみやが云った。
「めしあがるならお支度を致します、お口に合うような物はございませんけれど」
「なんでもいいの、酔いさえすればいいんだから」とおみやは笑った、「それと、もしも呼べるなら、男芸者を呼んで下さいな」
「呼べないこともございませんけれど」
「呼んでちょうだい」とおみやは嬌めかしく笑いかけた、「あたし浮気がしたいのよ」
伊東七十郎は、着ながしで歩いていた。――黒の重ね小袖に羽折を着て、足袋こそはいているが、から
彼は小野の
「相変らずだな」と七十郎は聞えないふりをしながら、こう呟いて微笑した、「相変らず、こらえ性のない、老人だ」
「おい、聞えないのか」とうしろで、走りながら、どなった、「おれだ、少し待て」
七十郎は足を停めて、ゆっくりと振返った。里見十左衛門が、そこへ追いついて来た。旅装のままで、右手に笠を持っていた。
「なにをそう慌てる」と七十郎が云った、「道はこのとおり一筋、おれの姿は見とおしだ、そう駆けなくとも追いつくではないか」
「いま、館へいったのだ」と十左は
「慌てなくとも追いつけたさ」
「石巻へなんの用だ」
「里見老はなに用だ」
「なんの用があって石巻などへゆくんだ」
「そら、もう
「なにをばかな」
「ばかなことはないさ、
「ばかなことを云う」と十左は
「御免を
「大事な相談があるんだ」
「相談なら妓楼でもできるさ」
「七十郎、――」
「戻るのは御免だ、石巻ならいっしょにゆくよ、そうするがいい、里見老」
「その老をやめろ」と十左が云った、「その老を聞くとむかむかする、おれはまだ老と呼ばれる年ではないぞ」
「たしかに、肝の臓だな」と七十郎が云った、「肝の臓にやまいがあると怒りやすくなるそうだ、いやでたらめじゃない、なんとかいう医書にちゃんと書いてある、なんという医書だったか、日本のじゃない、唐か清のものだったと思うが」
「肝の臓はわかった」と十左が云った、「それよりおれの話しを聞け」
「石巻へいってからだ」
「よし、それではまず一言だけ云おう」と十左は声をひそめた、「七十郎、きさま御家臣に召し出されるぞ」
「突拍子なことを云うな」
「七十郎は御家臣に召し出される、
「遊びではない保養だ」しかしと云って、七十郎はふいに立停り、振返って、十左の顔を見た、「いまの話しは事実か」
「おれが嘘を云う人間か」
「この七十郎が、――御家臣に召し出される」
「もういちど云うが、家禄は五百石だ」
七十郎は相手の顔をじっと見まもった。そうして、そのままで低く、
「おれを縛るつもりだな」と彼は呟いた、「野放しでは手が付けられない、領内に住んではいるが、一粒の
「或いは懐柔するこんたんかもしれぬぞ」
「いや、いや違う」と七十郎は頭を振った、「一ノ関は単純な男だ、単純で性急だ、おまけにこのおれを、懐柔するほどの人間とみてはいない、彼の目的は邪魔者を除く手段ということだけだ」
「いずれにしても、拒絶はむずかしい、拒絶すればこうと、二段の策が用意してあるとみなければなるまい」
「待て待て、少しいそぐか」と七十郎が遮った。
向うから百姓が二人、
初めはこっちが呼ばれているとは気がつかず、百姓たちが鞍の荷をおろすのを眺めながら、「石巻までくらべ馬をしよう」などと云っていた。そこへ旅装の侍たちが三人、いそぎ足に追いついて来た。
「その馬を借りるぞ」と先頭の侍がどなった。
十左が振返り、七十郎が振返った。三人はいずれも若く、先頭の一人は
「百姓、その馬はわれわれが借りるぞ」と髭の若侍がまたどなった。
十左がなにか云おうとし、七十郎がそれを制した。黙っていろ、というふうに手を振り、そして、馬の側へ近よって、百姓から手綱を受け取った。
「待て、その馬に触れるな」と髭の若侍が喚き、七十郎の脇へ歩みよった、「われわれが借りたと云っているのが、聞えないのか」
「ゆこうかな、里見老」と七十郎が十左に云った。
十左もそっちの馬の手綱を手にし、二人の百姓は、さっと
「やい田舎者、その馬からはなれろ」と若侍が喚いた。
七十郎は振返って、自分の馬の手綱を十左に渡し、ちょっと頼むと云いながら、三人の顔を順に見やった。一人ひとり、ゆっくりと顔を眺め、それから、髭の若侍に向かって、
「喧嘩を売りたいんだな」
「馬をよこせと云うんだ」
「三人で二頭の馬をどうする」
「どうしようとこっちの勝手だ、文句を云わずにそこをどけ」
「ばかなやつだ」
「なんだと」
「ばかなやつだというのだ」七十郎は唾を吐いて云った、「喧嘩を売るということは初めからわかっている、きさまたち三人の
「いいとも」若侍はうしろへさがった、「それが望みなら相手になろう、だがえらそうな口をきいて後悔するなよ」
「名をなのれ」
「大藤五郎太、そっちの名も聞こう」
「大藤五郎太か、よし」と七十郎は次の男を見た、「そのでかいのもなのれ」
「きさまこそなのれ」と大藤五郎太が叫んだ、「ひとになのらせておいて、自分がなのらないという法があるか」
「田舎者だからな」と七十郎は云い、それから、もういちど躯の大きな若侍に、「名前を聞こう」と云った。
その若侍は髭のほうを見、そして、担いでいた大槍を地面に立てながら、横田
「そっちの男のも聞こう」と七十郎が云い、大藤五郎太が「ふざけるな」と絶叫した。
「ふざけるな、人を
そして大刀の柄を握った。
里見十左衛門が笑い、七十郎は三人めの男を見ていた。おい、名をなのっておけ、と七十郎が云った。どうせおまえも勝負するんだろう、まかり違えば死ぬかもしれない、名がわからなくては墓をたてるのに困るからな、七十郎がそう云い終らないうちに、五郎太が刀を抜いた。
七十郎は三人めの若侍を見たままで、その若侍と横田凉軒とは、じりじりと左右へひらいてゆき、凉軒は槍を持ち直した。
「やめろ、七十郎」と十左衛門が呼びかけた、「そんな若輩を相手にどうする、捨てておけ捨てておけ」
「そうはいかぬ、おれがやめるつもりでもこいつらは承知しない、こいつらは初めから喧嘩をする気でいたんだ」と七十郎が云った、「おおかた腕自慢で、人に喧嘩をふっかけてはいい気持になっていたんだろう、いちど懲りるまではその鼻が折れない、世間や人が迷惑するばかりだ、大藤五郎太、横田凉軒、それからそっちの名なしの
彼は三人を見やり、凉軒の槍をみて、ばかげた槍だ、と笑い、そして身構えをして、さあかかれ、と云った。
「いやちょっと待て」と七十郎は急に手をあげた、「きさまたちに間違いがあっては悪いから、いまなにか捜して来る、ちょっと待て」
「逃げる気か」と五郎太が喚いた。七十郎はそうせくなと云い、畦道へおりていった。二人の百姓はずっとはなれた

「刀を抜け」と五郎太が赤くなって叫んだ、「武士の作法を守れ、刀と刀だ、抜け」
「侍というものは、三つの場合しか刀を抜かぬものだ」と七十郎が云った、「主君の
「舌の達者なやつだ、怒らせる気だな」と五郎太が遮った、「その手はくわぬ、抜きたくなければ抜くな、ゆくぞ」
「力いっぱいやれ、来い」七十郎は他の二人を見た、「そっちの凉軒と名なしの兵六もゆだんするな、いつこの棒がとんでゆくかわからないぞ、いいか、ゆだんするなよ」
七十郎は棒をゆらゆらさせた。五郎太が刀を上段にあげ、凉軒が槍を構えた。もう一人は刀の柄を握ったまま、陰気なような眼つきで、七十郎の足の動きを見ていた。――そのときにわかに風立って来、ちらちらとこまかい雪が舞いだした。ひろい刈田の上には、明るく日が照っていて、その明るい日光にきらめきながら、粉雪はかなり激しく、かれらの上に舞い落ちて来た。
七十郎の手で棒がゆらりと動いた。つんざくような叫び声が起こり、大藤五郎太が斬りこんだ。五郎太の刀は空を打ち、七十郎の棒は凉軒の額を打って、次に三人めの侍に躰当りをくれ、三転して五郎太の右腕を打った。七十郎の躰はかれらのあいだをすっすっとぬけるように見え、その棒は直角に三度ばかりひらめいただけであった。
凉軒は額を押えて棒立ちになり、五郎太は刀をとり落し、右腕を抱えて苦痛の
「だからゆだんするなと云ったじゃないか、どうだ、もういちどやり直すか」と七十郎が云った。
五郎太は苦しそうに呻いているし、凉軒の額からは血が
「もういい、ゆこう」と十左が云った。
「五郎太と凉軒」と七十郎が云った、「二人ともえものを選び直せ、五郎太の刀は長すぎるし、凉軒の槍は重すぎる、凉軒の槍はばかげているし、五郎太の朱鞘の大刀は滑稽だ、そんなこけおどしな道具はよして、自分の身に相応したものを使え、――それから、後学のために名を聞かせてやる、おれは北村の伊東七十郎という者だ」
そう云ってから、彼はふといやな顔をし、棒をそこへ投げだして馬のほうへいった。いやな顔をしたのは、「
――原田甲斐。
七十郎は舌打ちをし、十左から手綱を受取って、その百姓馬に
「ゆこう、里見老」と七十郎は怒ったような声で云った。
それから一
雪はやんだが、風はまだ吹いていた。
その席には遊女が二人、
「ばかなはなしだが、勘ちがいしたんだ」七十郎が苦笑しながら云った、「おれはあの三人が、里見老を追って来たと思った」
「おれを追って来たって」
「首を
「この首をか」
「その首をさ」と七十郎は笑った、「おれを家臣に取立てようとするのと同じ意味で、里見十左衛門を片づけたがっている者がある、思い当らないか」
「うん、ないこともない」
「十左は負けない人間だ、不正不義とみれば相手を選ばず
「小野へも届けた筈だ」
「おれは見なかったが、
七十郎は盃をさしだし、新造の一人が酌をした。
「単なる非難ではない、根拠があって弾劾したんだ」と十左が云った。
「もちろんそうだろう、おれはそれを聞いていたから、あの三人をてっきり刺客だと思ったんだ」と七十郎が云った、「ところがよく見るとそうではないらしい、三人で修業のために遍歴していて、いくらか強いのでのぼせあがっているだけらしい、
「おれは一ノ関を弾劾した」と十左は十左の言葉を続けた、「その意見書を御一家御一門と、重職に配った、もしおれの意見が間違っていたら指摘してもらいたいし、同意なら一ノ関の進退を議してもらいたい、という添書を付けてだ」
「誰かなにか云って来たか」
「水へ石を投じたほどの反響もなかった」と十左は云った、「誰一人、意見書に答える者はない、会えば言を左右に
「一ノ関に会う」と七十郎が訊いた。
「会う、この年末に帰国するそうだから、仙台でぜひとも会うつもりだ」
「むずかしいな、一ノ関は会いはしないぞ」
「会わなければ捉まえるさ」と十左が云った、「城中でも路上でも構わない、必ず捉まえて談判するつもりだ」
「そうだな、――」と七十郎は自分に頷き、うんそうだ、と十左に云った、「おれもひとつ会ってやろう」
「一ノ関にか」
「おれを家臣に召し出そうというんだろう、それが事実なら、きっと呼びだしがあるだろうし、訪ねてゆけば会う筈だ」
「会ってどうする」
「十左に会えとでも、すすめようか」と云って七十郎は笑った。
十左は渋い顔をし、七十郎は
それは九カ条にわたる「兵部弾劾」の書で、亀千代ぎみの側近が、忠不忠を吟味した人選でなく、兵部の親疎によってなされたこととか、両後見(兵部と右京)のあいだが不和で、事ごとに意見が対立するのは、幕府老中に出した誓紙にもとるとか、奥山大学一人に仕置を任せたため、幾多の禍根を残したが、これも大学を挙用した兵部の責任であるとか、また大学の弟の遠山
――兵部が京都方面から金を借りて、伊達本領の内で大量に米を買い占め、ひそかにあきないをした。
という事実があげてあった。
「だいぶきびしいな」と七十郎は書状を巻いた、「このまえ諸家へ配ったものより、字句がずっと
「それでもまだ遠慮してあるくらいだ」
「米の買い占めというやつは事実なのか」
「必要なら証人を呼びだすこともできる」
七十郎は手酌で飲み、うんと頷いて、十左を見た。
「それで、これをどうする」
「持っていてくれ」と十左が云った、「場合によれば、おれは一ノ関と刺違えて死ぬつもりだ」
七十郎は眼をそばめた。十左は硬ばった微笑をうかべて、それだけだ、と云った。
「これだけ頼んでおけばいい、おれは帰るから、ゆっくり保養するがいい」
七十郎は石巻に三日いて、それから遠田郡北村の、自分の生家にまわり、七日ばかり滞在したのち、小野の
北村には彼の父母と、兄の家族たちがいて、久方ぶりの彼の帰郷をよろこび、ひきとめて、なかなかはなそうとしなかった。父の伊東利蔵重村は、隠居して宗休となのり、年もすでに八十歳に近かった。兄の善右衛門には、正太夫、友謙、三郎兵衛という男子がおり、長男の正太夫は結婚して、もう子供が一人あった。
「――父上は気が弱っておられるから注意しろ」
兄の善右衛門にそう云われたが、七十郎には、父が気が弱っているようにはみえなかった。このまえ小野で、新左衛門の葬儀があったときも、親族ちゅうの長者として、充分の重みと風格を示した。
「あのときおまえがへんなことを云った」と兄は七十郎に云った、「父上はいつまでも御壮健すぎる、とうてい八十に近い
「事実そうだからな」
「それだけならよかったんだ」
「それだけだったと思うがな」
「おまえは酔っていたようだが、人間というものはその年齢があらわれるのが自然だ、あまり壮健すぎ、年よりも若くみえるような者は、突然ぽっくりとまいるものだ、父上もお気をつけなさい」
「冗談じゃない」
「そのとおり云ったんだ」
「冗談じゃない、おれがそんなことを」
そう云いかけて、七十郎は頭を
それだけが原因ではないだろうが、どうもちかごろ気が弱っておられる、と善右衛門は云った。酒はもちろん、食事の量も減じ、持薬なども用いるようになった。まえにはしばしば畑打ち、薪割りなどもし、好んで狩に出たが、いまでは殆んどそういうことがないし、睡眠も浅いようである。医者には再三みせたが、躯に病気はない、ということであった。
「父上は誰よりもおまえがお好きだし、おまえの云うことは
宗休は骨太の、がっちりした躯つきで、白髪になってはいるが、髪の毛も眉も量が多く、眉毛は眼にかぶさるくらい房ふさしていた。七十郎は隠居所まで挨拶をしにいったが、彼を見たとたんに、宗休は涙をこぼした。
七十郎はどきっとした。
「どうも眼が疲れて困る」と宗休はふところ紙を出しながら、ぶきように云い紛らそうとした、「視力に変りはないのだが、すぐに疲れて涙が出てくる、こんどは長くいるのか」
「そうしたいと思うのですが」
「たまにはゆっくりしてゆけ」と宗休は云った。
七十郎は「じつは」と口ごもり、じつはまた京へいって来たいと思うのだが、と云った。宗休は、なにをしにゆく、といいたげな眼で七十郎を見た。
「熊沢了海どののことはいつか申上げたと思います」
「
「いま京におられるのですが、ぜひ会って、御意見を聞きたいことがあるのです、手紙でも再三うかがったのですが、どうしてもいちどじかに会って、直接、御意見を聞きたいのです」
宗休は白く厚い眉毛の下から、じっと七十郎の眼をみつめた。
「それは、仙台の紛争、についてか」
「――そうです」
「やめることはできないのか」と宗休は云った、「おまえが、仙台家中の紛争に、かかわっているということは、うすうす知っていた、これまでは小野との関係があるから、やむを得なかったかもしれない、しかし、新左衛門が死に、おつうには子がなかった、
「それはそうかもしれませんが」
「おまえには学才もあり兵法にも精しい、親の口からこんなことを云うのは愚かしいかもしれないが、文武の道でりっぱに一家を成すことができる筈だ」
「私は、――こういう性分で」と七十郎は頭を垂れて云った、「どうもひとところにおちつくということができませんし、まことに不孝者で、申訳がないと思いますが、お側にはお兄上がいることですし、どうかいま暫く、私のことはお捨ておき下さるようにお願いします」
「それほど、仙台のことが大事なのか」
七十郎は、はい、と頷いた。
「仰しゃるとおり、わが家は伊達家から一粒の扶持にも、あずかっておりません、なんの恩顧もないと、云えば云えるかもしれませんが、領内に住み、代々安穏にすごして来たという事実は動かせません、たとえ主従の関係はなくとも、領内に安住している以上、その家中に不祥の騒動が起こっているのを、よそ眼に見すごすわけにはいかないと思います」
「はっきりした名分だな」と宗休は苦い顔をした、「そんな名分を付会することはない、好きだからやる、と云うだけでいいのだ」
「しかし父上」
「もうよし、わかった」と宗休は手を振った、「ただひとこと云っておくが、無謀なことをして、親兄弟に災禍を及ぼしてはならぬ、それだけはよく心得ておけ」
七十郎は北村に滞在するあいだ、父の言葉が胸につかえていた。
――親や兄弟に災禍の及ばぬようにしろ。
父も年をとったな、と彼は思った。兄は父が気が衰えたと云ったが、
――いっそ義絶してもらうか。
彼はそう思い、幾たびも兄にそう云いかけたが、それもあてつけがましいので、迷い迷いやめてしまった。
「こんどはいつ帰る」
北村を立つときに、兄が道まで送って来て訊いた。七十郎は、わからない、と答えた。
「こんど帰ったら、この土地でおちついてくれ、じつは嫁のはなしもあるのだ」
七十郎は黙っていた。
「おまえも三十代になる、もう身をかためておちつく年だ、父上にはそれだけがお気懸りらしい、おまえには仰しゃらなかったかもしれないが、おりにふれてぐちのようにそのことをお云いなさる」
「私はそういう気持はないな」と七十郎は云った、「まだそんな気持はない、そんな気持になるときが来るとも思われない、そんなことは
「そんなことがおれの口から云えるか」と善右衛門が云った、「父上は誰よりもおまえをお好きだし、おまえによって伊東の家名を世に出したいと思っておられる、御自分の夢をおまえに託しておられるのだ」
「そういうことは迷惑だし、滑稽だな」
「迷惑、滑稽、――」
「父上の夢を実現するために、私がなにかするなどということが考えられるかね、私は私だ、私は自分が是なりと信ずるように生きる、他人の希望に順応したり、
「つまり好き勝手なことがしたい、というわけか」
「つめて云えば、そうだ」
善右衛門は弟の顔を見た。
七十郎はかくべつ気負ったようすもなく、平然と兄を見返して、ではこれでと会釈した。善右衛門は辛抱づよく、まあ、よく考えてみてくれと云い、紙に包んだ物を渡して、戻っていった。
――金だな。
そう思って、歩きながら彼は、包みをひらいてみた。おそらく父が呉れたのであろう、小判と小粒とで二十両とちょっとあった。
「有難い、京へゆけるな」
七十郎はそう呟き、またちらちらし始めた粉雪の中を、小野の館に向かって歩み去った。
年が明けて、正月二日に、――仙台城の二ノ丸で、幕府からの国目付の
饗応の席には在国の一門家老が出席し、今年は伊達
兵部が宿所へ年賀にいったのは、彼の立場の微妙さを証明していた。すなわち、身分としては三万石の幕臣でありながら、その知行は伊達本家から出ており、知行所はもちろん伊達領内にあるため、伊達の家臣と共に礼をとる必要はなくても、一ノ関の
けれども、そのとき年賀にいったのは、ほかにもう一つ理由があった。
それは兵部が、江戸から仙台に着いて以来、里見十左衛門がしきりに面会を求め、兵部が拒絶すると、なにやら書状めかしいものを、国目付に呈出した。内容はほぼわかっている、まえにもあったことで、政治の
――老職の手を通じたものなら受取ろう。
と云ったそうで、もちろん老職がそんなものを国目付に取次ぐわけがないから、十左衛門の奔走は徒労に終ったのであるが、兵部が年賀にいったのは、その礼も兼ねていたのであった。
兵部が一ノ関へ去ってから、数日して、原田甲斐が江戸から到着した。甲斐は船岡の館へは寄らず、まっすぐに仙台へ来た。仙台の屋敷は大町一丁目西ノ南側で、広瀬川を前にした
仙台へ着いた甲斐は、
船岡からは、家老の片倉
門前の道を横切ると、断崖の岩を削って、川へおりる踏段があった。踏段の右には、樹齢二百年ほどの
甲斐は断崖の途中で立停り、その古い樫や、
崖にはところどころ、岩の割れ目に水が
広瀬川はそこで
対岸の丘陵は松林が繁っていて、御霊屋は見えない、丘の下には
甲斐は釣ることを忘れたように、流木に腰をかけ、手に
対岸の丘の松林に明るく陽がさしはじめたとき、少年の辻村又之助が、茶と菓子を運んで来た。甲斐は茶を喫しただけで、すぐに又之助を戻らせた。
又之助が去ってほどなく、三寸ばかりの
「どうして、逃がしてしまいますの」
甲斐はゆっくり振向いた。
そこに宇乃が立っていた。いつそこへ来たものか、六尺ほどはなれた処に立って、甲斐のほうを、静かに微笑しながら、見まもっていた。
甲斐も微笑しながら
「ここへおかけ、――」
甲斐はそう云って、腰かけている流木の場所をあけた。
宇乃はゆったりと近よって来て、甲斐のあけたところへ腰をおろした。そのとき、香料と、そだちざかりの乙女の、肌の香が、かなりつよく、あまやかに匂った。
「こんな時刻にどうして来た」と甲斐が訊いた。
「ゆうべの夜なかに立ってまいりました」
「一人でか」
宇乃は、いいえ、とかぶりを振った。
「与五が
「与五とは、与五兵衛か」
「おめにかかりたくって」と宇乃は云った、なにか口に含んででもいるように、声がこもって聞えた、「お帰りになるまで、待っていられませんでしたの」
「与五と仲よしになったのか」
「与五は鹿の肉をお届けにまいりましたの、ですから宇乃は、おばさまにむりにお願いして、伴れて来てもらいましたのよ」
甲斐は、うん、と頷いた。
宇乃が手をあげて、自分の髪に触ると、香料と肌の香が、またつよく匂った。肌の香はあまやかで、そしてほのかに
甲斐の眉が僅かに歪んだ。はっきりした理由はないが、そのほのかに刺戟的な肌の香は、宇乃のからだの成長をあかしている。少女から乙女に、そうしてやがて、女にと成熟してゆくかなしさ。よろこびであると共に、女性であることの宿命的なかなしさといったものが、漠然と、けれどもおもくるしく、感じられたのであった。
「おじさま」と宇乃が訊いた、「お釣りになった魚を、どうして逃がしてしまいますの」
「あれは鮠だからだ」
「鮠ではいけませんの」
「宇乃は寒くないか」と甲斐が振向いた。宇乃は微笑しながら、いいえとかぶりを振った。
「私は鯉を釣りたいんだ」と甲斐が云った。
「鯉でなくてはいけませんの」
「釣るならばね」と甲斐が云った。
それから暫く沈黙が続き、甲斐は竿をあげて、
「ここはなつかしい場所だ」と糸を投げてから甲斐が云った、「子供のじぶん、仙台へ来ると、この河原でずいぶん遊んだものだ、そのじぶんは、まだあの崖に段々がなくて、御裁許役所の向うからおりなければならなかった」
「泳ぎもなさいまして」
「泳ぎもした、向うの、あの瀬のあたりでね」
宇乃は太息をつき、眼をほそめて、川の左右を眺めやり、それから低く、くすっと忍び笑いをもらした。おそらく、幼ない甲斐が、裸になって、その川瀬で遊んでいる姿でも想像したものであろう。低く忍び笑いをして、すると、頬のあたりが赤くなった。
「いちどこの川で、
「お友達と」
「いや独りだった」
宇乃は甲斐を見た。
「おじさまはいつもお独り」
甲斐はあいまいに首を振り、それから、ゆっくりと続けた。
二十年ほどまえの出水で流れが変り、その淀みがなくなって、
「まあ、主を釣ろうとなさいましたの」
「いや、そうではない、釣りをすれば、主が怒って姿をあらわすだろう、と思ったのだ」
「まあこわいことを」
甲斐は唇で笑った。
三度めにいったとき、大きな魚が釣れた。
「それはこのくらいあった」と甲斐は釣竿を持っている手と、右手とで、三尺ほどの長さを宇乃に示した。
大きな
幼ない甲斐は、その糸では釣りあげることができない、ということに気づき、糸の一端を流木の枝に巻きつけておいて、脇のほうから静かに川の中へはいっていった。
「手で捕るつもりでしたの」
「抱えあげるつもりだった」と甲斐は微笑した、「私は一と足、一と足と、近よっていった、鯉は水際にじっとしていた、そこは浅いので、水の上に背鰭が少し出て、それがゆらゆらと動いていた、からだはじっとしていて、背鰭だけが、ゆらゆらと動いている、私は大丈夫だと思った、それでも用心して近より、両手で鯉に抱きついた」
宇乃は息を詰めた。
「鯉はやはりじっとしていた」と甲斐は続けた。
抱きついた腕の中で、鯉はじっと動かなかった。彼はぬめぬめと滑る
「私は鯉をつかんだ、たしかにこの手で、鯉のどこかを
こう云って甲斐は口をつぐみ、
日は高くなり、丘の上の松林は、灰色の幹と、黒みを帯びた濃緑の葉を、くっきりと明るく際立たせていた。宇乃は待ちくたびれたように、それからどうしたのか、と訊いた。すると、水面の浮子がくくっと、斜めに水の中へ引込まれ、釣竿の
「まあ大きい」と宇乃も立ちあがって叫んだ。
魚は水際へ来て、右に左に身を振り、尾鰭でしきりに水を打った。さして大きくはないが、尺ちかい鯉で、金色の鱗が、美しく鮮やかに見えた。甲斐は竿を振り、巧みに水際へひきよせ、それから
「おじさま早く、逃げてしまいます」
「およし、宇乃」と甲斐が云った、「触ってはいけない、手が臭くなる」
「でもおじさま、逃げてしまいますわ」
「逃げてもいいんだ」
「どうしてですの」
「坐っておいで」と甲斐は云った。
彼はまだ活溌にはねている鯉を押え、その口から鉤を外すと、鯉はそのままにして、流れで手を洗い、洗った手を拭きながら、元の流木へ腰をかけた。
「深みに落ちたまま、私は溺れて、流されていった」と甲斐は続けた。
宇乃は鯉のほうを見ながら、彼の話すのを聞いていた。鯉は石ころの上でふと動かなくなり、ついで大きく跳ね、少しなぞえになっている河原を、水際のほうへと転げた。
「ずっと流れて、殆んど十町ばかり
「まあ、こわい」と宇乃が云った。
石ころの上の鯉は、ぐったりと伸び、口を大きく二度、三度、
宇乃がまあこわいと云ったとき、水の音がしたので振返ると、石を洗って流れる、水際の浅瀬に、半ば身を浸して、その鯉の大きな眼が、宇乃のほうを見て、ぐるっ、ぐるっと動いた。宇乃は「あ」といって、甲斐に、両手でしがみつき、その胸へ顔を押しつけた。
甲斐はどうしたと云い、片手で宇乃の背を抱いた。宇乃はふるえていて、しがみついた両手に、けんめいな力のこもっているのが、感じられた。
あの鯉が自分のことをにらんだ、という意味のことを、宇乃がふるえながら云った。甲斐は笑って、宇乃の背を
「見てごらん、もう川の中へ逃げてしまったよ」
宇乃はそろそろと眼を向けた。水際にはもう鯉の姿はなく、水に研がれたまるい石ころが、流れの波紋にゆらゆらと揺れて見えた。宇乃は甲斐から静かにはなれ、ぼうと頬を染めながら、両手で顔を隠した。
石を踏む音がして、少年の辻村又之助が来た。
「伊東七十郎どのがおみえになりました」と又之助が云った。
甲斐は不審そうに又之助を見、七十郎だって、と訊き返した。又之助は、はいといい、いま酒をあがっていると答えた。
「よし、飲ませておけ」と甲斐は云った。
又之助が去ると、甲斐は鉤に餌を付け、淵の中へ投げてから、話しを続けた。――溺れた甲斐を救ったのは、
その女房は、はだしでとびだしてゆき、人を呼びながら救いあげた。すると、幼ない甲斐の手が釣糸をつかんでおり、その先に大きな鯉がかかっていた。その鯉があまりに大きく、しかもじっと動かずにいるので、女房は恐怖におそわれ、「川の主だ」と叫んだということであった。
甲斐はそこで暫く黙っていたが、やがて低く、
「本当に主でしたの」
「どうだかな」甲斐は喉で笑った。
「それから、ここへ鯉を釣りにいらっしゃいますの」と宇乃が訊いた。
甲斐はそっと頷いた、「生きていたら、もういちど会いたいと思ってね」
「もう何十年も経つのでしょう」
「私が九つのときだからね」
「まだ生きているでしょうか」
「その子でもいいんだ」と甲斐が云った。
宇乃はじっと流れを見まもり、心のなかで、くびじろのようだ、と思った。あのくびじろも、ながいこと追っていらしった。おじさまは人間よりも、鹿や魚のほうを愛していらっしゃる。樅ノ木や、鹿や、古い鯉などのほうが、人間よりもお好きなのだ、と宇乃は思った。
――どうしてだろう。
どうしてかしら、と思い、そういう甲斐がいかにも孤独で、寂しい人のように感じられ、われ知らず太息をつきながら、そっと甲斐の横顔を見あげた。するとその、宇乃の視線を感じたのだろう、甲斐が静かに振向いた。
「退屈になったな」と甲斐が云った。
宇乃はいいえとかぶりを振った、「おじさまと二人だけなら、いつまででも」
宇乃は囁くように云った。あまりに低い声だったので、その囁きは流れの音に消され、甲斐には聞きとれないようであった。甲斐は眼をそらしながら頷き、帰ろうかねと云って、竿をあげた。宇乃は、もう少しと云いたげな眼で、甲斐の顔を見まもったが、甲斐は気がないようすで糸を巻き、餌箱を持った。
「わたくしが持ちましょう」と宇乃が餌箱へ手を出した。
甲斐はうしろを見て、その茶道具を持っておくれ、と云った。宇乃は茶道具の入っている竹籠を持ち、淵のほうへ振返った。
「いまの鯉は、そのときの主の子供でしょうか」
「どうだかな」
「そうだとようございますわね」
「どうして」
「どうしてでも」
甲斐は笑って歩きだした。
屋敷へ帰ると、甲斐はゆっくり朝食をとった。伊東七十郎のほかに、訪問者が三人待っており、あとからまた二人来て、それらとの用談が済むと、宮崎
「七十郎はまだいるか」
「ずっと飲み続けで、だいぶ酔っているようでございます」
「与五が鹿の肉を持って来たそうだが、油焼きにして、少し七十郎に出してやれ」
そう云って甲斐は立ちあがった。
甲斐がはいってゆくと、七十郎は、あぐらをかいている片方の裾を
給仕は誰もいない。すぐ脇に、ぬぎすてた
「貴方は
「きげんがいいらしいな」と甲斐が云った、「なにかいいことでもあったのか」
「きげんがいいですって」
「江戸でいさましく宣告した筈ではないか、もう原田を訪ねる必要はないって」
七十郎はにっと笑い、覚えはいいんですね、と云った。そして、
「記憶もいいし、度量もある」と七十郎は云った、「じつを云うと、門前ばらいをくうかと思っていましたよ」
「用を聞こうか」
「まあせかせないで下さい」と七十郎は盃を取った、「私のような
「まあやるがいい」
「七十郎の盃はいやですか」
「私は飲みたいときに飲む」
「いまは飲みたくないんですか」
「用を聞こうか」
「貴方はかなしい人だな」
七十郎は手酌で飲み、頭を振りながら、独り言のように呟いた。
「貴方は常識円満で、用心ぶかくて、つまらない失策や、へまなことは決してしない、貴方はいつも無傷だ、つまらない、たまには人間らしく、後悔したり悲しんだり、怒ってどなったりしてみたらどうです、原田さん、そんなふうにとりすましてばかりいて、肩が凝りゃあしませんか」
甲斐は黙っていた。額に深く皺がよっているが、表情は静かで、むしろ退屈そうにみえた。
「返答に及ばず、ですかね」七十郎は「ふん」といった、「いちど原田甲斐を怒らせてみたいんだが、貴方はもの覚えがよくて、度量があって、おまけにひどく
「よほど云いにくい用らしいな」と甲斐が云った。
「なに、たいしたことじゃない」と七十郎はまた飲んだ、「用というほどのことじゃない、ただ、これからまた
「私は聞いているよ」
「そうせかせないでもらいましょう、せっかくの酒が
七十郎は飲もうとして、
「私が一ノ関に呼ばれたことは御存じでしょう」
「いや、知らないね」
「御存じがない、本当ですか」
「知らないようだな」
「私は一ノ関に呼ばれました」と七十郎が云った、「私を五百石で家臣に召し出してやろうというんです、これも知りませんか」
甲斐は首を振った。七十郎は皮肉に、そいつはふしぎですな、と云った。
「家臣に取立てようということを、後見の一ノ関が知っていて、国老が知らないというのはふしぎだ」
甲斐は微笑して、ふしぎなことはないと思うがと云い、なにか
「断わりました」
「ほう、五百石では不足か」
「五百石は私には有難い、北村の実家や小野(伊東
甲斐が喉で笑った。
「可笑しいですか」と七十郎が訊いた。
甲斐は「いや」と首を振った、「一ノ関のことを連想したのだ」と甲斐が云った、「一ノ関は直参大名で三万石の領主だが、その所領は伊達本家から分けられたものだ、いまの話しはそれに似ている、あまりよく似ているので可笑しくなったのだ」
「ふん、なるほど」と云って、七十郎も笑いだした。
彼は酔いも手伝っているので、遠慮もなく大声をあげて笑い、「いかにもあのじじいらしい」と、裸の膝を叩いた。辻村又之助が、酒と肴の鉢を運んで来、七十郎は手酌で飲んだ。又之助は去り、七十郎は飲みながら続けた。
「私は云ってやりました、わが伊東家は御領内に住んで、代々の御恩がある、もし伊達家から
甲斐の眼が微笑し、頬に皺がよった。穏やかな、包むような微笑で、相変らずだな、と云いたげであったが、そうは云わずに、いま又之助の運んで来た、肴の鉢を見やった。
「
七十郎は箸を取った。
「一ノ関の渋い顔が想像できるでしょう」と七十郎は食べながら云った、「あのくらい渋い顔はちょっと見られないでしょう、おまけに彼はまずいことを云いました、おそらく半分は探りを入れたつもりだろうが、いま伊達家中には、穏やかならぬ動揺が起こっているようだ、それについてなにか意見があったら聞きたい、などとね、まじめな顔で云いましたよ」
「その味はどうだ」
「話しの腰を折りますね、結構ですよ」と七十郎が云った。
自分は一ノ関の顔を見た。じっと、穴のあくほどみつめていて、それから、「意見のないこともない」と云った。御家中に紛争が絶えないのは、或る少数の、好ましからざる人物が、藩政に不当の干渉をしているためだと思う。自分は処士で、自由にものを云うことができるから、必要のある場合には、その好ましからざる人の名を挙げ、その非行を
甲斐は沈んだ声で云った。
「益もないことを云う」
「益もない、ですって」
「
「なに、危ないのは一ノ関のほうですよ」と七十郎が笑った、「貴方にだけ云っておきますがね、里見老が一ノ関を
「十左衛門か」
「里見十左衛門です」と七十郎は云った、「彼は問罪の書状を持って、一ノ関を追いまわしていました、面会はむろん拒絶されましたし、途上で捉まえようとしたが失敗しました、それで十左はますます怒り、一ノ関まででかけてゆくと云っています」
甲斐はそっと眼を伏せた。
「どうしても直接に会って、責任をとるように談判し、きかないときには刺し違えて死ぬ、と云っています、十左はまじめですからね、彼は決して
「さて、――用談は終ったらしいな」と甲斐は静かに立ちあがった、「ゆっくり飲んでいるがいい、私は宮崎筑後に招かれている、――もういちど云うが、旅へ出るなら、早いほうがいいぞ」
――一大事だ、御家老を早く。
「触るな、足に触るな」
――
――散るな、まわりを固めろ、
「その足に触るな、放せ」
――おそれながら暫く御辛抱のほどを。
「放せ、その手を放せ」
――ここは危のうございます。黒沢の
――散るな、みな集まれ。
――みな集まれ、お
――黒沢の谷地だ、いそげ。
「
――ただいま、ただいま。
「曲者はまだいるぞ、谷地までは遠すぎる、ここで医者を待とう、
――お館へはもう多田がまいりました。
「医者と人数を呼べ」
――御家老です。
――斎宮にございます、いかがあそばしました。
「曲者だ、曲者に矢を射かけられたぞ」
――そのおけがは。
「矢を射かけられた、鹿込の山をおりる途中で、
――権右衛門。
――はっ、お館へは人をやりました。
「はなれるな、まわりに集まれ、斎宮、まわりを固めてはなれるなと申せ、ええくそ、その足に触るなと申すに」
――おけがは足でございますか。
――それは御落馬のときに。
「このばか者、落馬ではない、二ノ矢を避けるために
――矢ではございませんか。
「矢ではない、矢はかすった、矢は危うく笠をかすった、二の矢が来ると思って、すぐに下馬したが、そのとき
――権右衛門、お
「おれはここで医者を待つ」
――お鴨場の小屋がようございます。
「曲者はまだいるぞ」
――これだけお側におります。権右衛門、
「
――お館からでございましょう。
――使者が戻りました。
――よし、
「人数はまわりに置け」
――お側はこれだけで充分です。私の肩におかかり下さい、蔵人、ぬかるなと申せ。
――曲者なんかいるものか。
――しっ、聞えるぞ。
――曲者なんかいるものか、ただ落馬しただけさ、臆病な殿だ。
「医者はなんと申した」
――
「挫いただけか」
――幸い軽い捻挫だと申すことで、もはやお館へ御帰還になられても、さしつかえないと申しました。
「休んでゆこう、まだ痛む」
――お
「このほうが楽だ」
――いまお
「斎宮、曲者がわかったぞ」
――と仰せられますと。
「曲者はわかった、ほかにおれを覘う者はない、十左だ」
――十左と申しますと。
「里見十左衛門だ」
――はあ。
「正月に船岡の原田から告げて来た、十左が面会を強要している、とりのぼせておるようだから、面会するときは注意するように、そう告げて来た筈だ」
――いかにも。
「おれが仙台にいるときから、十左はおれを
――しかし、この一ノ関までまいるでしょうか。
「あいつは逆上しておる、仙台のときにそう思った、船岡からもそう告げて来ている、あいつは一徹者だから、逆上すると狂人のようになる、おれを射たのは十左だ」
――手配は致しました。
「あの
――道は
「足が痛む、薬湯はまだか」
――ただいま。
「横になる、手を貸せ、――このほうが楽だ、斎宮、もういちど手配をぬかるなと申してやれ、十左め、ひっ捕えたらこんどこそ糾明してくれる、あの
――御家老、殿が召されます。
――薬湯をさしあげておけ、やがてまいるあいだ、暫くお側におれ、……権右衛門、たしかにそうか。
――間違いございません。
――曲者ではないのだな。
――栂の林の中には、供の者が十名ほどおりました、その中の誰かの射た矢が
――よし、それを他言するな。
――当人の
――わかったら他言するなと云え、万一にも漏れたら軽くは済まぬ、少なくとも殿のお耳に聞えたら、重科はまぬがれぬぞ。
――承知つかまつりました。
――手配りは解いてよし、おれは御前へ戻る、館から
「まだみつからぬと、すでに五日にもなるのに、あの矢がまだみつからぬというのか」
――手は尽すだけ尽しました。
「捜せ、もっと捜せ、地域は限られておるし、矢は他国の物だ、矢羽根を見れば判別はつく、だが百姓どもにはゆだんするな」
――承知つかまつりました。
「百姓どもの中には、十左に加担している者があるかもしれぬ、ゆだんすると矢を隠されるぞ」
――承知つかまつりました。
「おれは栂の林の中にいる曲者をたしかに見たし、矢は笠をかすめて飛んだ、この耳で、矢羽根のうなりをたしかに聞いたのだ、その矢がみつからぬ道理はない、証拠はその矢だ、みつけるまで捜索しろ」
――申上げます。
――なんだ。
――仙台より、佐々木権右衛門が戻りました。
「待ちかねた、これへと申せ」
――権右衛門、ただいま、戻りました。
――首尾はどうであった。
「即答をゆるす、
――里見十左衛門は居宅におりました。
「十左が、仙台にか」
――はあ、十余日まえより風邪ぎみにて、居宅に
「実否を
――相違ございません。
「痴れ者め、あの痴れ者め、さてはなに者か使ったな、おのれは仙台にいて、この一ノ関へはなに者かをよこしたのだ」
――御家老に申上げます、相原助左衛門どのよりこれを。
――よし、さがっておれ。
「助左からなんだ」
――書状にございます。
「なんとある」
――ただいま、……船岡どのが
「原田が涌谷へ」
――寺池(式部
「寺池へ使者をやれ、検分のもようを知らせるように、それから、原田にも書面で、検分が済んだら一ノ関へたち寄るようにと、申してやれ」
――かしこまりました。
「書状はそれだけか」
――小野の館から奥山出雲(伊東采女の家老)がまいったそうです。
「誓紙はどうした」
――ずっと捜しているが、いまだに発見できぬ、いま暫くの御猶予をと、願ってまいったとございます。
「
――さがって寺池へ使者を遣わします。
伊達
甲斐の供は村山喜兵衛と、少年の辻村又之助の二人で、かれらは
それは仙台を立つときからの予定であったが、松島の少してまえにある、長老坂という処で、甲斐が「自分は湯ノ原で泊る」と云いだした。四五日まえに、ひどく
――二、三日も休めば治るから、湯ノ原の
みんなは先にいって、自分には構わず、内検に掛ってもらいたい。さほどおくれずに追いつけると思う、と甲斐が云った。坂を下る途中で、今村善太夫らは松島へ向かい、甲斐と二人の供は、道をそれ、湯ノ原へとはいっていった。
そこは浅い谷間の湯治場で、宿は三軒あるが、二軒は自炊客だけの、掛け小屋同様のものであり、一軒だけは二階造りで、部屋数も三十ちかくあった。これは、伊達家の
宿へ着いたのはまだ明るいじぶんで、甲斐はおくみの家にいるときの、「
湯を浴びて、軽く食事をし、それから酒を命じた。甲斐は独りで飲んだ。喜兵衛と又之助は次の間にいて、酒や肴は又之助がはこんで来るが、用が済むとすぐにさがった。――甲斐は久方ぶりで、孤独と、もの
夜の八時ころであろう、酒をはこんで来た又之助に、もう寝てよいと甲斐が云った。すると少年は、宿の主人がお慰みに「盲人の芸者を呼んでもらえまいか」といっている、と告げた。
――
甲斐が承知すると、やがて、宿の主人がその芸者を伴れて来た。黒い無地の
吉岡一玄という者である、と披露して、宿の主人はさがった。一玄はかなり横柄な口ぶりで、「どういうものを好まれるか」と訊いた。甲斐は好きなものをやれと答えた。
甲斐の答えを聞くと、一玄はじっと耳をすまし、甲斐の声を吟味でもするように、
「どちらでもよい」と甲斐はまた答えた、「自分でやりたいと思うものをやるがいい」
一玄の顔がひき緊った。
甲斐の声からなにかを感じとったらしい。横柄な態度を改め、坐り直して、二絃琴に向かった。
甲斐はその琴を見た。
一玄は琴を弾じながら、うたい始めた。それは太平記の
琴も唄も、曲は自分で作ったものとみえ、あまり変化もないし、ここが聞かせどころかと思うような、派手な節調もなかった。まるで
――傾く月の道見えて、明けぬ暮れぬとゆく道の、末はいつくと
と唄はすすんでいたが、甲斐はそこで、われに返ったように顔をあげ、誰か哀れと夕暮の、いりあい鳴れば今はとて、池田の宿に着きたもう、というところで、静かに、「もうよい」と声をかけた。
「お気に召しませぬか」と一玄は手を停めて訊いた。
甲斐は「結構だった」と云った、「結構だが、そのくらいにしよう、酒は飲まぬか」
「頂戴いたします」
酒は頂くが、自分は中年からの盲人で、ひどく勘が悪いから、そそうがあっては困る、と一玄が云った。
「ではもっと寄るがいい、大きいもので遣わそう」と甲斐が云った。
一玄は辞儀して、膝ですり寄った。甲斐は汁椀の蓋を持たせて、酌をし、少しずつ注いで、三杯まで飲ませた。
「二絃琴というのは珍らしい、初めて見るようだが、なにか伝来があるのか」と甲斐が訊いた。
一玄は恐縮したように、思いついたままの手作りである、と答えた。自分の本業は絵を描くことであったが、三十七歳のときに失明し、それからこのようなものを作った。正式の琴は知らないし、就いてまなぶ師もみあたらない。かつて模写したことのある
「もう一つまいれ」
甲斐は酌をしてやった。一玄は
「言葉のようすでは江戸のように思うが」と甲斐が云った。
「江戸でございます」と一玄は椀の蓋を持ったまま、静かに手を膝に置いて、「旅の座興に身の上話しをしたいが、聞いてもらえるだろうか」と
甲斐は手酌で、舐めるように飲み、「聞かせてもらおう」と答えた。
「つまらない話しでございます、もし御退屈のようでしたら、遠慮なくやめろと仰しゃって下さいまし」と一玄は断わりを云った。
彼は残りの酒を一と口飲み、また静かに、その手を膝の上へおろして、やや暫く黙っていた。それから、唇で微笑し、さて、なにから申上げてよいやら、と口の中で呟き、やがて、
生いたちのことは略す、必要もないし興もない。聞いてもらいたいのは、三十歳になってからのことである、と一玄は云った。
「そのころはいちおう名も知られ、生活もできるようになっていました」
自分は
「しかし大事なのは、絵が描けなくなったことではございません、絵はまもなく描けるようになりました」と一玄は続けた。
自分では苦心経営のうえ、一段と深い絵の精神をつかんだと思い、新らしい意気ごみで描きはじめた。ところが、世間はその絵を認めてくれなかった。
「私は
芸術は真に入るほど、世俗からはみすてられる。それはよく知っていたが、自分はおのれが芸術の真に入っている、とは信じられなかったし、世間から超然と生きる自信もなかった。自分の絵のどこかに欠点がある。なにか思い違いをしているのかもしれない、どこが悪いのか。自分はすなおに反省し、念に念をいれて描いた。だが、どう苦心をし、どう描いても、誰も認めてくれようとはしない。云うまでもないことだが、生活は窮迫するばかりであった。
「妻帯していなかったのが、せめてもの仕合せでした」
しばしば食事もぬくようになり、火のない部屋で独り、雪の音を聞きながら、夜を明かしたこともある。骨にしみとおるほど寒い、
「だが、私にとっては、寒さやひもじさよりも、自分の絵が認められないこと、どうしたらこのまっ暗な状態からぬけ出ることができるか、ということで頭がいっぱいだったのです」
そこまで来て、一玄は耳を傾けながら、御退屈ではないでしょうか、と訊いた。
甲斐は「いや」と云った。
「そのとき私は、とつぜん盲目になってしまいました」と一玄は続けた。
銭湯で湯が眼にはいった。その湯に毒があって、ひと夜のうちに眼が
「いまでは自在に描けます」と一玄は微笑した、「空想だからたやすいとお思いかも知れませんが、そうではございません、頭のなかで描いても、やはり絵はむずかしく、ときには一つ絵に三、四十日かかることもございます」
空想で描きはじめてから、自分の頭のなかには、大小十五、六幅の絵が
「本当に、一枚、一枚、はっきりと見ることができるのです、もちろん、人に見せることはできませんが」
そう云って彼は、くすくすと、忍び笑いをした。それは
甲斐は、一つまいれ、と云って、彼に酌をしてやり、彼は
「人に見せることはできませんけれども、そんなことはどちらでもよい」と一玄は続けた、「私が現に筆をとり、心血をそそいで描いた絵も、人には認められませんでした、とすれば、同じことです」
甲斐の額に皺がより、一玄はさらに、静かな口ぶりで云った。
「空想の絵はもちろん、現実にも、しょせん私は、人に理解されない絵を、描きつづけて来たわけです、――お座興に聞いて頂きたかったのは、この話しでございます」
そして彼は、酒を飲んだ。
「人は同じようなものだ」と甲斐が穏やかに云った、「私は少年のころ、古い歌物語で、こういう歌を読んだ、――おもうこといわでぞただにやみぬべき我とひとしき人しなければ」
一玄は口の中でそっと、その歌を繰り返してから、
「この世には、おのれと同じ人間はいない、おまえの場合とは違うが、人はみな、誰にも理解されない絵を、心のなかに持っているのではないか」
「貴方さまもですか」と一玄が訊き返した、「船岡の
甲斐は口をつぐみ、暫くその老盲人の顔を見まもった。もっとなにか云いたげにみえた甲斐の顔が、いつものなごやかな冷静さをとり戻した。たしかに、甲斐はなにか語りたそうであった、旅の宿であることと、老人のうちあけ話しにさそわれて、これまで他人には話したことのないもの、心の奥に秘めて来たものを語りたいようすだった。しかし、船岡の館主と聞いたとたんに、その衝動は冷え、心はうしろへさがった。
「私を知っているのか」と甲斐が訊いた。
「御領内で暫くお世話になり、途上でお声を聞いたことがございます」と一玄は答えた。
「途上で声を聞いただけで、これまで覚えているというのは、盲人の得だな」
「それはお人にもよります」と一玄は微笑した、「たいていの人の声は、朝聞いて夕方には忘れてしまいますが、なかには五年七年経ってからでも、その声を聞けば思いだせる人がございます」
「船岡へはいつごろ来た」
「さようでございます、もはや十年ちかくになりましょうか」
「こんどまいったら館へ寄るがいい、御苦労であった」
そう云って、甲斐は又之助を呼んだ。
一玄はなごり惜しそうで、もう少し話していたいというふうに、もじもじとなにか云いかけたが、又之助がはいって来、甲斐が、また会おう、と云ったので、さも落胆したように、少年に手を引かれて去っていった。
甲斐は
――おれを知っているなどと云わなければよかった。
船岡の殿などと云われたので、すっかり興が冷めてしまった。あんなことさえ云わなければ、旅の一夜にめぐりあった、見知らぬ者同士で、気楽に話しもできたろうし、心にも残ったことだろう、と甲斐は思った。
「だが
おのれが曲を作り、気ままに二絃琴をかなで、旅から旅へわたり歩く。恩愛もなく、身辺のわずらわしさもない。そうして、頭のなかでは、好ましい絵を描いている。すでに十幾
――それが事実なのだ。
人は誰でも、他人に理解されないものを持っている。もっとはっきり云えば、人間は決して他の人間に理解されることはないのだ。親と子、
甲斐は胸ぐるしくなり、深い息をついた。静かな屋内の遠いどこかで、二絃琴の音がとぎれとぎれに聞えた。
「また客があったのだな」
甲斐はそう呟き、寝返りをうって、眼をつむった。
明くる朝の三時すぎ。甲斐と喜兵衛と又之助は、馬に乗って宿を出た。宿を出るときはまだ暗かったが、

大柳は遠田郡であるが、志田郡松山へは二里ばかりしかない。午の弁当を済ましたとき、村山喜兵衛が甲斐を見て、松山へはおいでにならないのか、と訊いた。
「
大柳から涌谷までは一望の平野で、刈田や、
甲斐は町はずれから、江合川の堤に出て、大橋を渡った。町人町は川の手前にあり、大橋を渡ると侍屋敷になっていた。侍屋敷は土壁に
村山喜兵衛が先触れにゆき、すると、
涌谷城は大手門からすぐ石段になり、鉤の手に登り詰めたところが中門、それをはいると左に、二層の
「ここへ来ると、この眺めを見るのが楽しみだ」と甲斐は云った、「私には構わず、先にいっていて下さい」
「私がおりましょう」
兵庫はそう云って、二人の家老に眼くばせをした。高野と大平は去り、甲斐は台地のはずれへいって立った。
台地の外側は白壁の塀で囲ってあり、そこからは高さ七十尺ほどの切立ったような崖で、崖の斜面には杉がびっしりと枝をさし交わしていた。その杉林を越して、向うに、ひろびろとした眺望がひらけ、平野のかなたには黒川郡の山やまや、
「幾たび聞いても忘れてしまうのだが」と甲斐は手をあげて指さした、「あの黒川郡の山の、ひとところ高い」
兵庫が「ああ」と低く笑いながら
「七ツ森でございますか」
甲斐も「どうも」と笑った。
「黄金
「迫をばさまと読むのがむりでございますから」
甲斐は頷き、眼をほそめて、ひろい展望を楽しげに眺めまわした。
「この眺めを見るのはなん年ぶりだろうか」
そして「ああ」と深く息をついた。
ずいぶん長いあいだ、甲斐は黙って眺めを楽しみ、それから台地を左へと歩いていった。そちらは城の南方で、仙北平野がひらけており、江合川の大きな流れと、川の対岸の町人町を、殆んど眼下に見おろすことができた。
兵庫も黙って、甲斐について歩いた。
「なん年ぶりだろう」
忘れたじぶんに、甲斐はまた独り言のように呟いた。兵庫はそのとき、初めて、静かに云った。
「私がお眼にかかったのは七年まえです、こんどはそれ以来だと思いますが」
「七年、まだ七年ですか」と甲斐が云った、「私にはもっと以前のように思えるが」
「あれからいろいろな事が起こって、身辺が御多忙だったからでしょう、詳しいことは存じませんが、父からあらまし聞いております」
「お父上の御心労こそたいへんです」と甲斐が穏やかに云った、「私などは
「父は常づね、頼みにするのは船岡どのお一人だ、と申しております」
甲斐は口の中で、いや、と呟きながら、謙遜に
「あれから七年とすると、貴方はもう」
「二十二歳になります」
「御結婚のことはうかがったようですね」
「去年、長男が生れました」
甲斐は祝いを述べ、兵庫は続けて、長男が生れるとすぐ、寺池(伊達式部)との地境の争いが起こった、と云った。
「まるで地境の争いを持って生れて来たようだ、などと云って、父は笑っておりましたが」
「境論の起こっているのは、ここから見えますか」
「いや、
「今日、そこへ内検分の者が来るのです」
「知らせを受けましたので、涌谷からも人を出してあります、船岡どのもおいでになるのではございませんか」
「私は涌谷さまに申上げたいことがあるのです、検分のほうは名目のようなものです」
「では、――御案内いたしましょう、それとも、もう少しここにいらっしゃいますか」
「いや、どうぞ」と甲斐は目礼した。
兵庫が先に立って、館へゆき、大玄関からはいった。そこには家老以下、重臣が並んでおり、小姓の者二人が先導して、表ての間へとおった。書院造りではあるが、調度類は極めて質素であり、
安芸は五十歳になっていた。小柄な躯は痩せてみえるが、筋肉がひき緊っているし、陽にやけた膚には、壮年の人のように
はいって来た安芸は、そこにいる兵庫に、去れ、という眼くばせをし、わが子が去ると、斜めに坐って、甲斐に呼びかけた。
「その
甲斐はじっとしていて、それから静かに、御先代の御着用でございますな、と答えた。安芸は、そうだ、と頷いた。
「父定宗が白石を攻めたときに着たもので、それまで
「たしか、大貫村の御隠居所(故定宗がいた)で拝見し、そのとき御先代から、お話しをうかがいました」
「白石の苦戦ばなしは父の自慢であった」と安芸は微笑した。
小姓の者が茶菓をはこんで来て去り、安芸は坐り直した。甲斐は扇子を膝の上におろし、加賀藩の奥村藤兵衛と会った話しをした。安芸は黙って聞いていたが、聞き終ってからも、暫くものを云わなかった。
「もちろん、事実に関しては云わなかったであろうな」とやがて安芸が甲斐を見た。
甲斐は静かに頷いた、「私の口からは申しませんが、万治の事は諸藩に知れておりますから、およそ察してはいるというようすでした」
「つづめたところ、頼みにはならぬというのか」
「奥村という人物は留守役ですから、彼の意見だけで、加賀藩の意向をきめることは誤りでございましょう、けれども、同じ
「人間はみな自分が可愛い」と安芸が云った、「大藩は大藩なりに、わが身が大事と思うのであろう、結束すれば大きな力となるものを、対岸の火事に水を貸さず、やがておのれも孤立することに気づかぬのだ」
「私はまだ、
「わたしはむだだと思うが」と安芸は首を振った、「しかしそれは船岡に任せるとしよう、――ときに、里見十左衛門には会ったか」
「いや、彼にはみすてられましたから」
「十左にみすてられたと」
安芸はいぶかしそうな眼つきで甲斐を見、それからすぐに、おう、と微笑しながら、うなずいた。
甲斐は茶をすすった。
十左を
甲斐を「一ノ関の与党」であると、安芸が云いだしてから、甲斐を敬慕していた多くの者が、甲斐からはなれたし、中には悪意をいだくようになった者さえある。仙台では血気の若者たちの一部に、原田を除け、という空気さえ出て来たということで、それは期していたことではあるが、さすがに安芸も気がかりになっていた。
「十左には会いませんが」と甲斐が云った、「仙台の屋敷へ七十郎が訪ねて来まして、あらまし話しは聞いております」
「七十郎というと」
「小野の一族で、故新左衛門の義弟に当る者です」
「うん、知っている」
「十左が一ノ関と刺違えるとか申しておりましたが」
「ここへまいったときも、十左はそのように申していた、さようなことをすれば、酒井
「一ノ関は用心ぶかい人ですから、刺違えるなどということは、不可能でしょうが、それよりも、十左が諸方へまわしている書状、一ノ関を弾劾した書状のほうが、十左のために案じられるのです」
「一徹な気性で、やむにやまれぬらしい、おれの申すことなども、なかなか承知せぬようだ」
甲斐はまた茶をすすり、それを置いてから、一つお願いがある、と話しを変えた。
「寺池さまとの地境の争いですが、これを譲歩して頂きたいのです」
「このまえにも譲歩したぞ」
「もういちど、お願い申したいのです」と甲斐は云った、「去年のことですが、江戸で寺池さまが私に訴え、一門の面目からもあとへはひけぬ、と申しておられました」
「一門の面目をいえばおれも同じことだ」と安芸が云った、「このまえのときにも明らかに不当な申し分で、感仙殿(故忠宗)さまの御威光をかさに着たやりかただった」
このまえの境論の
桃生郡西南の地を、一帯に「深谷」といって、そこに式部
そこでようやく、涌谷領遠田郡の者が、違法である、と云いだし、安芸も人を
「そのとき、こと面倒で片づけたのがいかなかった」と安芸は続けて云った、「こちらがへこんだとみたのであろう、こんどは小里村、赤生津の二カ所で地境を侵しはじめ、また、深谷でも大窪村の西にある田地十町あまりを、
そうではないか、と安芸は甲斐を見た。
「よくわかりました」と甲斐は穏やかに頷いた、「お怒りのほどもお察し申しますが、しかし、御承知のとおり一ノ関がうしろにおります、式部さまがさような不法なことをするのは、うしろから一ノ関がたきつけているのだと思います」
「そう思うか」
「相違ないと思います」と甲斐が云った、「ここで正式に訴訟すれば、おそらく、一ノ関は公儀へもちこむことでしょう、かれらは、家中に騒動を起こそうとして、つねに機会を
安芸は口をむすんで沈黙した。甲斐も長いこと黙っていて、安芸の顔におちついた色があらわれるのを認めると、静かに、扇子で膝をはらいながら云った。
「では私は、検分の立会いにまいります」
新八はうっかり歩いていた。
頭の中では、三味線の新らしい手を、つけてみたり消してみたりしながら。――彼は浅草三軒町から、湯島へ帰る途中だったが、ついうっかりしていて、人に呼びとめられ、気がついてみると、上野の広小路へ来ていた。
「新さんじゃないの、どうしたっていうの」
呼びとめたのはおみやであった。
姿は御殿ふうだが、新八を見るまなざしや、その言葉つきは、三年まえに別れたときと違って、それ以前の、
「あんなに呼んだのが聞えなかったの」とおみやは寄って来た、「なにを考えてたの、どこへゆくの、あれからどうしてたの」
新八はおみやを見て、もう会わない筈だぜ、と云った。おみやは苦笑して、恥ずかしい、それを云わないで、と眼をそらした。
「そのことでもあんたに話しがあるの、ちょっとそこまでつきあってちょうだい、いいでしょ」
「うん、――いいよ」
「うれしい、ついそこの
新八は、よしてくれ、と顔をそむけた。
「さきへいってくれ、並んで歩くと人が見ていけねえ」
「逃げやしないわね」
新八は、うん、といった。
六月の、曇った午後の三時ころで、陽気が狂いでもしたように、肌がひんやりするほど、涼しかった。寛永寺へ
そこから池之端へ出、
――そろそろ二十四、五だろう。
と新八は歩きながら思った。
――年を隠して云っていたが、もうそろそろ二十四、五になるじぶんだ、ずいぶんいろいろなことがあったし、苦労もしたからな、老けるのが当然だ、と新八は思った。
見られているのがわかるのだろう、おみやは歩きながら、ときどき振返って、新八をにらんだが、わるびれたようすはなく、むしろ見られることを楽しんでさえいる、というふうなところがみえた。
茶屋の数は一昨年のあのときよりもふえていた。弁天社へ渡る橋口の左右へ、十四、五軒も並び、構えも造りもみな大きくなったが、まえのように、客を呼ぶ女たちはみあたらなかった。おみやは、その一軒の店先で立停り、新八に頷いてから、中へはいっていった。
おみやのあとから、その茶屋へはいり、池の見える小座敷へとおるまでに、新八はそこが、彼女の馴染の店だということに気づいていた。
――あれからまた、なにかあったんだな。
三年まえの八月、柿崎道場の新八の部屋で、おみやは彼に意見をした。自分もまともな女になるから、新八もまじめな人間になってくれと云った。
いまこんな茶屋と馴染になっているところをみると、その後またなにかあったのだろう。あのときのきまじめな、折り目を正した感じはなくなっている。元のままの、嬌めかしく崩れた、投げやりな態度に返っているようだ。可哀そうに、と新八は思った。
おみやはいちど出ていった。なにか注文をしにいったのであろう。戻って来ると、お酒をもらっていいでしょ、とあまえた調子で云った。新八は頷いた。
「久しぶりだもの、いいわね」とおみやは云い、少し離れて坐ると、ながし眼に新八を見て、ふっと頬を染めた。
「そばへゆきたいけれど、しらふではだめだわ、そばへ寄るとあんた怒るでしょ」
「好きなようにしていいよ」と新八は微笑した。
おみやはびっくりしたような眼つきで、新八をじっと眺め、それから、新さんすっかりおとなになったわ、と云った。
「まえには邪険で、いちどだってそんなやさしいことを云ってくれたためしはなかったわ、いつもあたしをいじめてばかりいたわ」
「おれはもう二十一だよ」と新八が云った。
おみやは眼を伏せた。二十一という年のなかに、これまであった事の、かずかずを思いだしたらしい。いちど伏せた眼をあげて、新八を見て、ごめんなさい、と口の中で
「邪険だったなんて、云えた義理じゃないわね、あんたには悪いことばかりして、三年まえにはあんな勝手なまねをして」
「もう済んだことだ」
「勝手なまねだわ、自分で新さんを悪くしておいて、こんどはまじめになれだなんて、自分の都合だけで勝手なことをしていたのよ、ごめんなさい」
「まさか泣くんじゃあないだろうな」と新八が云った。おみやは頭を振り、弱よわしく微笑しながら、まさかね、と云った。それから急に眼をあげて新八を見、気を変えるように、明るい調子で訊いた。
「あれからどうしてたの、あたしずいぶん捜したのよ」
「おれを捜したって」
「あんたをよ、石川さんたちの道場へ三度も五度も訪ねていったわ」
「あそこはあの冬に出てしまったんだ」
「みなさんそう云ってたわ、突然どこかへいってしまったって、それからどうしたの」
中年の女が
「はい、新さんから」
おみやは新八に盃をさし、酌をして、自分も盃を持った。こうして、二人で飲むのも久しぶりね、うれしい、ずいぶん逢いたかったのよ、とおみやは云った。
「それで、石川さんたちの道場をどうして出たの、今日までどこでなにをしてたの」
「まあ一つ注ごう」新八はおみやに酌をした。
彼はすっかり話した。おみやにはなにも隠す必要はない、風呂屋の女にかよったこと、町方役人に追われたこと、助けられた湯島の家が、原田甲斐の隠宅だったことなど。そして、女にいれあげた金は、道場から盗んだものだということまで、残らず語った。――おみやは
「泣くことはないよ、このほうがよかったんだ」と新八が云った、「みんなおまえのせいだって、いつか云ったことがあった、そのときおまえは、それを認めて、おれを好きだったからだって云った、本当だったんだ、あのころのおれにはわからなかったが、おまえの云ったことは本当だった、いまのおれにはそれがわかるし、たとえおまえがそうしなくとも、おれという人間はやっぱり、同じようになったろうと思う」
持って生れた性分というものは変らない。自分と同じ年ごろの塩沢丹三郎は、自分からすすんで毒見役になった。まさか毒死するようなこともないだろうが、いつ毒死してもいい、という覚悟をきめている。湯島の家で会ったとき、彼がそう覚悟している、ということを自分は感じた。――どういうきっかけで、彼が毒見役を望んだかわからないが、どういうきっかけにしろ、彼にはそうなる気質がもともと備わっていたのだと思う、と新八は云った。
「おれが風呂屋の女などにかよって、町方に追われて逃げまわり、湯島で危なく助けられた、などということは、塩沢からみればさぞかし不潔で、みさげはてたざまだったろう、彼はそういう眼でおれを見た」
おみやは眼を拭いて、新八を見あげた。
「おれはそのときの、彼の眼つきを覚えている、一生忘れないだろうと思う」と新八は続けた、「おれは恥ずかしさで躯がちぢんだ、恥と口惜しさで、
おみやは頷いた。
「そしておれは考えた、このままでへたるものか、おれはおれなりに生きてみせる、石にかじりついてもやってみせるぞって」
湯島で助けられたことはよかった。原田甲斐は事情を聞いて、重職の評定にかけ、「
「もう逃げ隠れする必要はなくなった」と新八は云った、「誰に
「よかったわね、ほんとによかったわ」
「おまえならわかってくれるだろう」と新八は云った、「世間の眼から隠れて生きるというくらい、みじめな、辛いことはないからな」
「わかるわ、よくわかってよ新さん」おみやはまた眼を拭いた。
新八の言葉が、おみやには深くするどくひびいたようだ。おみや自身が、世間の眼を憚りながら、生きて来たのである。新八が脱走者として、生活する力もなく、伊達家の人たちの眼を恐れ、
「それでこれから、どうしようというの」
「おれは芸人になる」と新八が云った。
おみやは眼をみはった。新八は、まえからの望みだ、と云った、「いつか道場のおれの部屋で、おまえは机の上に本があるのを見た、勉強しているのだと思ったらしいが、あれは
「わかったわ」とおみやは弱よわしく彼をにらんだ、「きっとお久米さんがすすめたんでしょ」
「お久米か」と新八は唇で笑った、「そうだ、あの女にもそんなことを云われた、しかしそれだけじゃあない、ずいぶん考えてみて、結局それがいちばんおれにふさわしいと思ったんだ」
「あんたの声は唄に向いててよ」
「声なんかどっちでもいい、おれはいま新らしい唄をくふうしているんだ」
「新らしい唄ですって」
「これまでとは違う唄だ」と新八は云った、「義太夫浄瑠璃でもなく長唄でもない、もっと人間の心にしみるような、もっとじかに悲しさや嘆きや美しさを――いや」
新八は首を振り、まだ云えない、口では云えない、と昂奮した調子で云った。おみやは新八の望んでいることが、おぼろげにわかるような気がした。人の心に、もっとじかにしみいるもの。この世の悲しさや、嘆きや、人の情の美しさを、もっと直接にうたい伝えるもの、――義太夫浄瑠璃でもなく長唄でもない、新らしい曲と唄。それはおそらく、彼自身の経験から生みだされるものであろうし、彼なら生みだせるにちがいない。おみやはそう思って、改めて新八の顔を見まもった。
「たやすいことじゃないわね」とおみやが云った。
「たやすいことじゃない」と新八は頷いた。
自分は追放ということにきまってから、
彼はそこまで云って、おみやがじっとこっちをみつめているのに気づき、てれたように笑いながら盃を取った、「いい気になって、自分のことばかり
そして、彼がおみやに酌をしたとき、障子を細めにあけて、茶屋の主婦が
おみやは「そう」と頷き、「さっき頼んだようにしてちょうだい」と云った。
「どうするんだ」と新八はおみやを見た、「まさかきざなことをするんじゃあないだろうな」
「人に逢うの、この隣りへ、あたしに逢う人が来るのよ」
「この隣りだって」
「あたしその人に逢って云うことがあるの、それをあんたに聞いてもらいたいのよ」
新八は、冗談じゃない、と眉をしかめ、おみやはしんけんな眼で、彼の眼をみつめながら、新さん、と云った。
「あたしその人に逢ったら、もうお屋敷へは帰らないつもりなのよ」
新八は口をつぐんだ。
「あたし三年まえ、あんたに立派なようなことを云ったわね、でもやっぱりだめ、自分では本気で、生れ変るつもりだったけれど、あたしに運がないんでしょ、やっぱり元の
「――柿崎さんか」と新八が訊いた。
おみやはかぶりを振り、そのとき、隣り座敷へ人のはいる音が聞えた。主婦がなにかあいそを云い、池に面したほうの、窓の障子をあけながら、すぐおみえになるでしょうと云って出ていった。
新八は声をひそめて、いつか話した人か、とおみやに囁いた。おみやは頷いた。
「向島の、あの侍だな」
「ええそう、黒田玄四郎っていう人よ」
とおみやは囁き、銚子を取って新八に酌をしてから、では済まないけれど独りで飲んでいて下さい、と云った。あたしの云うことを聞いていてね、戻って来たら話すことがあるの、聞いていてくれるわね。うん、聞いてるよ、と新八が答えた。おみやは盃で三杯、手酌で、
そのとき隣り座敷では、酒肴の膳をはこぶらしい物音がしていて、おみやの出てゆく音は聞えなかったであろう。新八は膳を窓際へ持ってゆき、
「あれがかいつぶりという鳥なんだな」と新八は呟いた。
まもなく、隣り座敷でおみやの声がし始め、新八は盃を持ったまま、じっとその声を聞きすました。男の声は低く、はじめは殆んど言葉が聞きわけられなかった。おみやは酔っていた。
おみやの口ぶりはやわらかく、誘惑的で、嬌めいていた。挨拶をするとすぐに、なにか取り出して男の前に置いたらしい、男が、えっ、と驚きの声をあげた。
「ええそうよ」とおみやが、念を押すように云った、「それがお頼みの証書、酒井さまと兵部さまの取り交わした証書です、あけて、よく見てごらんなさいな」
男はなにかあけてみているようだったが、新八はおみやの言葉を聞いて、さっと顔をひき緊め、窓に凭れれていた躯を、起こした。
――雅楽頭と一ノ関の取り交わした証書。
内容はむろんわからないが、雅楽頭と兵部の名は、すぐに万治の騒動を思いださせ、兄の暗殺されたことを思いださせた。伊達家六十万石をめぐって、雅楽頭と兵部がなにごとか企んでいる、ということは、柿崎道場にいるあいだに、六郎兵衛の云うことやすることでほぼわかったし、そのために兄も暗殺されたらしい、ということも、おぼろげながら推察することができた。
現に、いちどは兵部を兄の
新八はもう、兄の仇を討とう、などとは思っていない。初めからそんな気持はなかったようだ。ただ六郎兵衛に
「たしかに」と云う、男の低い声が聞え、おみやが「たしかにそれでしょうね」と念を押した。
「筆跡を知らないから、文言で判断するほかはないが、この文言はたしかだと思えるし、一ノ関の
「待って下さい、そんなことはなさらないで、どうかお手をあげて下さい」とおみやが云った、「もういちどうかがいますが、これであなたのお望みはかなったわけですわね」
男がなにか答え、おみやが遮った。
「失礼ですけれど、わたくしにいちどお酌をして下さいまし、いちどだけでようございます、それから聞いて頂くことがあるんです、憚りさま、有難う」
おみやは男に酌をさせて飲んだらしい。ちょっと黙っていて、それから続けた。
「いつか
男は、覚えている、と答えた。
「それなら、こういうことも思いだして下さい、あたしがなぜ此処で逢って下さいってお願いしたか、どうしてあんなふうに、人には云えないようなことまで、恥を忍んでお話ししたかっていうこと、――どうかそれを思いだして下さい、思いだして下さるまで、あたし頂きながら待っています、いいえ、自分でやりますから結構よ」
おみやは手酌で飲み、男がそれを止めたようだ。おみやは構わず飲み続け、男はちょっと高い声で、およしなさい、と止めた。
「おせっかいはたくさん、それよりいま云ったことを思いだして下さい、思いだせないんですか、忘れてしまったんですか」
男がなにか云った。そのことについては、なにも聞かなかった、と云ったようである。おみやは、そうよ、と云った。そのとおり、あたしはその話しはしなかった、話すつもりでいたが、あなたは証書のことが出るとそれで夢中になって、あたしのことなどは考えてみようともしなかった、そうでしょ、とおみやが云った。
「でも、あのとき、あなたはそれを訊いて下さらなければいけなかったのよ、一と言でも、たった一と言でも訊いて下さらなければね」
おみやの口ぶりには、ますます酔いがあらわれ、言葉もつけつけと無遠慮になった。
「黒田さん、あたし、あのとき云わなかったことを、いまここで云います」
男が、いや、と遮った、「その必要はない、聞かなくともわかっているし、私は責任をはたすつもりだ」
「責任をはたす、ですって、――へえ、どういうふうに責任をはたして下さるの」
「もし
おみやは
「笑ったりしてごめんなさい、どうして笑ったりしたのかしら、笑うような気持はこれぱかりもなかったのに、そうよ、もちろんあなたを笑ったんじゃありません、自分を笑ったのよ、黒田さん」とおみやは云った、「おととしのあのときだったら、いまのお言葉であたしは泣いたかもしれません、きっと嬉し泣きに泣いたわ、だって、あのときはそのお言葉をうかがいたかったんですもの、いまのお言葉をうかがいたいために、あなたに此処へ来て頂き、恥ずかしい身の上ばなしをしたんですもの、あたしあのとき、なにもかもうちあけて、きれいな気持になって、まじめな女に生れ変るつもりでいたんです、向島で初めて、あなたにお会いしてから、あたしはずっとそういう気持でいましたわ、兄とも縁を切り、そのほかのこともすっかり始末して、まじめな女になるつもりだったんです、本気でそう思いつめていたんです、――ところがあなたは、あたしの気持なんか察しようともなさらず、証書の話しになるとすぐさま、それを盗めと仰しゃった、あなたまでが、――兄のためにさんざん利用され、恥ずかしいおもいをして来て、そういうことからきっぱり手を切ろうと、現に話しているとき、そして、生れ変るためには、あなた一人が頼りだと思っていたときによ、黒田さん」
「私はむりにとは云わなかった筈だ、危険も伴うしむずかしいことだから、気がすすまなかったらよしてもいいと云った筈だ」
「ええそう、そのとおりよ」とおみやが云った、「あなたはそう仰しゃったし、証書を盗みだすかどうかは関係のないことよ、あたしが云いたいのは、あなたまでがあたしを利用しようとなすったことよ、あなたが証書を盗めと仰しゃるのを聞いたとき、あたしがどんな気持だったかわかりますか、わかるわね、いまならおわかりになるわ、わかるからこそ、あたしを妻にしてもいいなんて、仰しゃったんでしょ、そうでしょう、黒田さん」
「私は心にもないことは云わない、貴女さえよければすぐにでも結婚します」
「よして下さい」とおみやがいった、「そんなことを聞くとまた笑いたくなりますから、もうそれだけは二度と口にしないで下さい」
「貴女は酔っているんだ」
「酔うどころか、あたしはもう死んじゃってますよ」おみやは
「しかし私は云ったと思う、証書のことを頼んだのは、私自身のためではなく、旧主人と伊達家ぜんたいのためだということを」
「そんなもの
「しかし私にとっては一身を
「よして下さい、よして、それだけはもう云わないようにって、断わったでしょ」おみやは
「どうするんです」
「人が待ってますの」
おみやは立ちあがった。よろめいたので男が支えようとしたらしい、おみやの、触らないで下さい、と云うのが聞えた。
「あたしのことは心配なさらないでね、あたしはこれっきりお屋敷へは戻りません、あなたにも、もう一生お会いすることはないでしょう、ではお達者で」
男が、滝尾どの、と云った。
「ここの勘定はあたしが払います、どうか心配しないでお帰りなさいまし、ではもういちど、どうぞお達者で」
そう云うと、おみやは廊下へは出ずに、こちらへ来て襖をあけ、新さんお待ち遠さま、と云いながら、じかにこちらの座敷へはいって来た。新八は「あ」といった。そんなことをしようとは思いもかけなかったし、向うには黒田という男がいるので、われ知らず声をあげたのであるが、その声に応ずるように、向うから黒田玄四郎が立って来た。
なにもかも聞かれた、ということに気がついたのだろう、左手に刀を持って、つかつかとこっちへ来て、新八を
「なに者だ」と玄四郎が云った。
彼の顔は
「そのほう、なに者だ」と玄四郎は云い、左手の刀を脇へひきつけた。
新八はぞっとした。相手は刀を抜きそうである、返辞によっては斬ってしまうという感じが、相手の眼にも身構えにも、はっきりあらわれていた。
「いや、おれが云う」
おみやがなにかやり返そうとしたとき、新八は彼女を抑えて坐り直し、まっすぐに相手を見あげて云った。
「私は湯島の家で御厄介になっている者です」
「――湯島の家」
「原田さんの御隠宅です」
黒田玄四郎は
「それ以上は云えません」と新八は云った、「もとは伊達家に仕えていました、いまは追放の身の上で、原田さんの御厄介になっています、もちろん伊達家にはなんの関係もありませんし、やがて芸人になるつもりです、どうかなにも心配しないで下さい」
「湯島の家にいるというのは
「いって訊いてみて下さい、名前は新八という者です」
黒田は左手をおろし、なお暫く新八を見まもってから、いま聞いた話しは他言するな、と云った。新八は頷いた。
「私には縁のないことです」と新八は云った、「恥になるから詳しいことは云いませんが、そういういざこざのために、十六歳の年からいやというほど苦しいめにあいました、もうたくさんです、どんな意味でも、私はもうそういうことには関係しませんから、どうか安心してお帰りになって下さい」
黒田は納得したらしい。おみやに向かって目礼し、ではこれで、と云うと、元の座敷へ戻って、あいだの襖を閉めた。
「飲みましょう、新さん」とおみやは手を叩いた、「はっきり云ったわね、たのもしくなったことよ、新さん、二人で飲み直しましょう」
「なにか話しがあるんだろう」
「飲んでから、あたし今日は酔いつぶれるのよ」
「おれは湯島へ帰らなければならないぜ」
「酔ってからのはなしよ」
茶屋の女が、銚子と
「酒なんかでごまかすより、思いっきり泣くほうが気が晴れるぜ」
「あたしが泣くんですって」
「おまえは黒田という男が好きだった、いまでも好きなんだ、隠してもおれにはわかる、おまえにはあの男を忘れることはできやしないよ」
おみやは笑った。
「ばかね、新さん」とおみやは云った、「そんなところはまだ子供よ、あたし黒田さんが好きだったわ、慥かに好きだったけれど、あの証書のことを云われたとたんに嫌いになっちゃったの、おととしの冬、ちょうどこの茶屋でのことよ」おみやはまた飲んだ、「あたしは盗んであげるって約束をし、あの人を先に帰らせてから、独りでお酒を飲んだの、ちょうど
「もう少しゆっくり飲んだらどうだ、苦しくなるぜ」
「あんたにはまだ、女の本当の気持はわからないのよ」とおみやは続けた、「あたしが証書を盗みだしたのは、
「わかった、もうそのくらいでよしにしろ」
「よすもんか、お酒がないじゃないの、新さん」
「それ以上飲むと、苦しくなるぜ」
新八はとめたが、おみやは手を叩いた。横坐りに膝は崩しているが、まだ
あの証書を盗みだすのに二年かかった。みつかれば命はない、いっそやめようかと思ったこともある。だがもう意地であった。女の意地からも、盗みだして、あの人に叩きつけてやりたかった。
「本当はあたし、さっきあの人を犬のように
おみやは声をあげて笑った。それはかさかさと乾いた声で、新八はわれ知らず眼をそむけた。おみやは手酌で呷った。
「わかったでしょ、これであたしの気持がわかったでしょ、新さん」とおみやが云った、「なにが好きなもんか、あんな男、あたしはきれいさっぱりよ、あんな男なんか、初めっから惚れてなんかいやあしなかったわ、惚れてたんなら、あんなもの盗みだしたりするもんですか、ねえ、云ってあげようか」
おみやは新八をながし眼に見、露悪的に微笑しながら云った、「女ってものはね、新さん、好きでない相手だからこそ、からだを売ることができるのよ、もしか相手に、しんそこ惚れていたら、からだを売る代りに死んでしまうわ」
「――だろうね、わかるよ」
「わかるでしょ、新さんならわかるわね、あんたはあたしに似ているんだもの、あたしが似さしちゃったんだわね、あんたには悪いと思ってるの、あたし新さんには悪い女だったわ、でも好きだったんだもの、堪忍してね、あたし新さんが好きだったんですもの、ほんとよ、金も物もなしに、しんから好きになったのはあんただけよ、新さん一人っきりよ、わかるわね」
「少し休むほうがいい、少し酒を休んで横になれよ」
「あたしが酔ってると思うの」
「いいから横になれ、横になって話すほうが楽だよ」
「いいわ、云うことをきくわ、その代り膝を貸してね」
おみやは崩れるように横になり、新八の膝を枕にした。髪が歪んで、蒼くなった顔におくれ毛が垂れた。
――いけるぞ。
と新八は思った。こいつでいける、おみやのかきくどく調子、こいつだ。こいつで新らしい曲をくふうしよう、はでな手は要らない、女の嘆きをそのまま糸に移すんだ。
「おい、ちょっと立つぜ」
「どうするの」
「借りて来る物があるんだ、ちょっと頭をどけてくれ」
新八は立ちあがり、おみやは手枕をした。おみやは手枕をしたまま、頭をぐらぐらさせながら、帰っちゃだめよ、と云った。舌がよくまわらず、唇の端から
新八はすぐに戻って来、借りてきた三味線を持って坐ると、
「お
新八は三味線を弾きはじめた。三絃の中から、なにかを捜し出そうとでもするように、一音ずつ、まをおいて、ゆっくりと低く音階をたどり、ごく短い一小節がまとまると、それを繰り返した。
手枕をして横になったまま、頭をぐらぐらさせていたおみやは、いつか眠りだしたようすで、頭は動かなくなり、その口から軽い寝息のもれるのが聞えた。
新八はやがて、だめだ、と
――可哀そうに。
と新八は心のなかで呟いた。かつておみやにいだいていた、恨みや、怒りは、もう少しも残ってはいなかった。おみやに罪はない、おれの性分がおれ自身をこうしたんだ。彼はそう思うようになっていた。湯島の家で暮しているあいだに、自分の経験したことは自分の性分から出たもので、これからさきも、その経験を生かしてゆけばいい、おみやには責任はなかったし、或る意味では感謝してもいいくらいだ、そういうふうに考えていた。
「おれは必ず新らしい唄をあみ出してみせる、おれ自身の経験した、人間の悲しみや絶望感や嘆きを、おみやをとおして、女の哀れさや、愛情のせつなさや、よろこびを、そういうものをうたいあげてやろう」と新八は呟いた。
侍の世界はちがうんだよ、と彼はおみやの寝姿に呼びかけた。おまえは黒田という人を
「おまえは黒田という人が好きだ、いまでも好きなんだ」と新八は口の中で云った、「あの人を忘れることは、なかなかむずかしいだろう、だができるだけ早く忘れるんだ、おれといっしょにいこう」
おみやの頭がぐらっとした。支えている手から、頭が落ちそうになり、しかしすぐ元のように静かになった。
「いつまで続くかわからないが、別れるときが来るまで、いっしょにやっていってみよう、おまえの云ったとおり、おれとおまえは似ているらしいからな」
彼は三味線を下に置いた。
甲斐は自分の手記に眼をとおしていた。
いま
昨日、亀千代ぎみが、初めて将軍(四代家綱)におめみえのため登城した。おめみえは黒書院でおこなわれ、先導役は、老中阿部
服は
「そうだ、松山(茂庭周防)はこのとき発病していたのだ」と甲斐は口の中で呟いた。
登城してから、いかにもたいぎそうなので、どうかしたかと訊くと、「馴れない長袴が重くて、――」と答えたが、それから数日のうちに、腹痛だといって寝こんだ。拝謁の日に、あの病気が出たのだ、と甲斐は思った。
手記の次の項は五月。
立花
立花飛騨守の室は、綱宗の姉のなべ姫で、伊達家とは近い親族に当っており、綱宗の
――今後は伊達家の問題にはいっさい関係しない。
という表明には、いかにわずらわしかったか、ということがあらわれていて、甲斐はいまその項を読みながら、思わず微笑した。
六月三日には、――亀千代ぎみ登城、両後見これに従い、白書院にて将軍より、「六十二万石領知」の墨付を賜わる、と書いてあった。
「このときの家中のよろこびは大きかった」と甲斐は呟いた。
家中のよろこびは非常なものであった。亀千代が幕府から「
「綱宗さま御逼塞このかた、初めて伊達家に夜が明けたようなありさまだった」と甲斐は呟いた。
「だがむろん、一ノ関の手はゆるみはしない、藩ぜんたいがよろこび祝っているうちにも、一ノ関は隙へ隙へと
亀千代登城のあと、まだ十日と経たないうちに、銀座の鳩古堂を介して、茂庭周防から手紙が来た。それによると、周防は一ノ関に呼ばれて、次のような忠告をされた。
――そこもとが国老として再任されたのは微力ながら自分の推挙によるものである。
奥山大学が国老を免ぜられたのは、家中ぜんたいの要望であったが、大学は自分の陰謀であると曲解し、諸方へその旨を云いふらしている。
そこもとが、寛文元年に、病気と称して辞任したのは、奥山大学の非難が原因であった。それがいまは逆転して、大学は罷免され、そこもとは再任された。これは大学にとって非常な屈辱であろう、おそらく、彼はそこもとに対して
柴田外記は悪人の一味に紛れなし、ということを聞いている。「悪人」という意味はよくわからないが、先年来、家中に紛争を起こして、おのれが権力を握ろうとする者が絶えない。たとえば、奥山大学などもそうであろうし、いまは柴田外記までが、同じような野望をいだくようになった、ということだと思われる。これもまた充分に注意していてもらわなければならない。
古内治太夫はそこもとに近づこうとして、いろいろ策を
一ノ関の忠告は右のようなものであった。おそらく、同じ意味のことを、大学、外記、古内らにも伝えているだろう。「六十二万石安堵」で、みんな気がゆるんでいるときだから、一ノ関の言動にはよほど気をつけなければならないと思う。
「あのとき周防は寝ていた」と甲斐は自分に云った、「一ノ関に呼ばれて、帰るとすぐに、あの病気が出て寝つき、病床からあの手紙をよこしたのだ」
そして、甲斐は手記を繰り、同じ年の七月二十八日、一ノ関の
婚姻の相手は、まえから約束のあった人で、酒井雅楽頭の養女ということになっているが、じつは
「それから
――自分は終生お側に仕えたい、お側をはなれて出世するつもりはない。
舎人は頑強にそう云った。
甲斐は塩沢丹三郎の例をあげて説得した。原田家から物頭を一人召し出す、ということは、その人間が伊達の直臣に出世すると同時に、一ノ関の与党の「人質」にされる意味をもっている。したがって、かれらに必要があれば、いつどのような
――丹三郎は十七歳で死ぬ気になってくれた。
丹三郎にはそう決心するだけの理由があったけれども、それがお役に立つ
――おまえにも罠をかけられる危険がある、だが、やはり承知してもらわなければならない。
甲斐はこのように説き、そして舎人は承諾した。
矢崎舎人は原田家を出て、いま浜屋敷にお小屋をもらい、物頭として勤めている。原田の家従であるよりは、伊達の直臣になったほうが出世にはちがいない。だが、一ノ関になにかこんたんがある、という直感は動かなかった。
――兵部はおれが与党になったと信じている、信じてはいるが、そのままで安心はしていない、必ず「事実」でたしかめようとするだろう。
方法はわからないが、なにかの手段で自分をためそうとするだろう。甲斐はつねにそう思っていたし、いまでも、その推察が誤っているとは思わない。ああ、と甲斐は眼をつむり、自分の家従を二人まで敵の手に渡した、という、するどい自責のために、低い
甲斐は手記を巻きながら、「おはいり」と答えた。襖をあけて、おくみと乳母がはいって来た。おくみはいちじくを盛った鉢を持ってい、乳母はかよを抱いていた。
「いまこれが日本橋から届きましたの」とおくみが云った、「あまりみごとですから、おめにかけるだけでもと思って」
「うん、みごとだ」と甲斐は云って、乳母のほうを見、かよに向かって微笑した、「また抱っこか、かよはいつも抱っこだな」
かよは誕生を過ぎたばかりであるが、もう達者に歩くことができるし、舌たらずながら、おしゃまな口をきいた。
「おりる、おりるのよ、ばあ」
かよは乳母の手からおりて、甲斐の
甲斐が子供を好かないのを、おくみは知っていた、かよが生れたときにもよろこんでくれたし、この家へ来れば抱いたり、あやしたりしてくれる。けれども、かよを見る甲斐の眼の奥に、その柔和な微笑の裏に、かなしいほど冷たい、嫌悪の色があるのを、おくみはたびたび認めたのであった。
「たあたま、抱っこね」とかよはとりついてあまえた。
「よしよし、抱っこしよう」
「かよさん」とおくみが云った。
甲斐はかよを膝の上に抱いた。
かよは母に似ていた。しもぶくれに、ふっくりとおもながで、摘んだように口が小さく、両の頬に深くえくぼがよれる。眉毛は尻あがりであるのに、眼尻は少しさがっていて、その眼はいつも笑っているように見える。甲斐に似ているのはえくぼのよれるところで、そこはちょうど、甲斐の両頬にできる深い
かよは父親の手を持ち、その指をもてあそびながら、かた言でしきりにお
「かよたんはね、こんどたあたまのお国へゆくのよ、かあかんといっしょによ、そうですよ、お国へゆくのよ」
「そうか、それはえらいな」
「たあたまのお国は、ええと、ええとね、ええと、かまばっかりなのよ」
「かまばっかりか」
「お山でしょ」
とおくみがいった。
かよは
「おかまばっかりで、かまにはちかがいるのよ、ほんとよ、こーんな大きなちかがいて、ちかもお乳をのむのよ」
「そんなに大きくてもか」
「大きいのはのまないのよ、かあかんが怒るのよ、いけませんって、それでものみたいって云うと、お乳が
「鹿が父さんをいじめるのか」
「ちかは悪いのよ、たあたまをいじめて、悪いちかなのよ」
おくみがいちじくを小皿にのせて、甲斐の前へさし出した。皮を剥いたいちじくは、白い肌を出して、果頭の部分が、薄紫色のぼかしになって、えみ割れていた。
「かよも
甲斐はその一つを取ってかよに与えた。おくみが、かよさんはあとで、と云ったが、かよはすばやく歯を当てていた。
甲斐もいちじくを一つ喰べた。かよは喰べるあいだもお饒舌りをやめず、一つ喰べ終ると、すぐに次のに手を出したが、おくみは、いけません、とやさしく
「そう、おなかが痛くなるね」と甲斐が云った、「あとで煮てもらってお喰べ、煮て喰べれば大丈夫だよ」
「にいにで喰べる」とかよが母親に云った、「にいにでよ、かあかん」
「ええにいにしてあげましょうね、ばあやに煮てもらって喰べましょ、ばあや」
おくみが呼び、乳母がはいって来ると、かよは父親にしがみついて、ここにいるとかぶりを振った。ばあやが煮て来ればいい、かよは父さまに抱かっているのだ、と強い口ぶりで云い張った。久しぶりに抱かれるので、よほど側をはなれたくないらしい。おちょぼ口を
甲斐の額に皺がよった。可哀そうに、と甲斐は思った。こんな父を持って、年に幾たびと数えるほどしか会えないし、ゆくさきの幸不幸もわからない。母親には兄があるから、生活に困るようなことはないだろうが、父母といっしょに、安穏な暮しができるという望みはない。父である自分は、いつ最悪な立場に立たなければならないかもしれないし、そのおそれは充分にある。おまえは生れて来ないほうがよかったのだ、と甲斐は、またしても、思うのであった。
「よしよし、抱っこで待っていよう」と甲斐は云った、「煮えて来るまで、父さまのお国の話しをしよう」
「ちかのお話よ」
「こんどは川の話しだ」
甲斐は白石川や、濁川のことを話した。
白石川にのぼって来る、

かよは甲斐の膝の上で、躯を固くし、しんけんな顔つきで、
そのとき襖の向うで成瀬久馬の声がした。中黒達弥が来た、というのである。甲斐は訊き返してから、奥の部屋へとおしておけと云った。
「お客たまなのよ」とかよは父を不満そうな眼で見あげた。甲斐は頭を
「すぐに済むのよ」とかよはべそをかき、自分が甲斐に云い聞かせるように、半分泣き声で云った、「お客たますぐに済むのよ」
「ああすぐだ、母さまとこれを喰べながら待っておいで」そう云って甲斐は立った。
裏の小座敷へゆくと、中黒達弥(黒田玄四郎)が汗を拭いていた、いそいで来たのであろう、顔が赤く、額には拭くあとから汗が
「楽にしろ」と甲斐は手を振って、坐った。
達弥は手拭でもういちど汗を拭き、それから、脇に置いてある
「酒井侯の奥から出たものです、出所に紛れはありません」と達弥が云った、「但し、偽物を作ってあったとすると、それが真偽いずれであるかは、私にはわかりませんが」
「偽物を作るなどということはあるまい」
甲斐は証書を巻いた。ちょっと途方にくれたという表情で、やがて達弥を見やり、
「どうして手にいれた、いつぞや話したあの女か」
「滝尾と申す侍女です」と達弥が答えた。
甲斐は達弥から眼をそらしながら、代償はなんだ、と訊いた。達弥は
「なにもございません」
甲斐はなお黙っていた。
「滝尾は屋敷をさがりました」
「――どういうことだ」
「これを私に渡した日に、そのまま屋敷へは戻らず、ゆくえも知れなくなりました」
「それだけではわからぬ」と甲斐が云った、「もっと詳しく聞こう、いつのことだ」
「十日ほどまえのことです」と達弥は甲斐を見た、「こちらに新八という者が御厄介になっておりましょうか」
「いまはいない、四、五日まえまでいたが、それがどうした」
「四、五日まえ」と達弥は呟き、それから、ではその男といっしょではないかと思う、と云った。
達弥は池の茶屋での始終を話した。
滝尾と自分との関係には触れなかったし、甲斐もしいて聞こうとしなかったが、およそ推察しているようすで、それなら新八といっしょかもしれぬ、と頷いた。
「新八は侍をやめて芸人になるつもりだ」と甲斐は云った、「事情があって、この家から
「もし二人がいっしょだとしますと、浅草などでは危険ではないでしょうか」と達弥が云った、「この証書の紛失したことがわかれば、嫌疑は必ず滝尾にかかりましょう、すれば捜索の手が伸びると思わなければなりませんし、浅草などは人の眼につきやすい場所ですから、みつかる危険も多いと思いますが」
「それは女自身が考えているであろう」と甲斐が云った、「私が案ずるのはおまえのことだが、このことで疑われるような
「そういうおそれはないと思います、もし疑われて、事実がわかったとしましても、これがお役に立つとすれば、なに、この命をひとつ投げだせば済むことです」
「女と逢っていたことは、誰かに知られていたか」
「わかりません、侍女たちの中には、知っていた者があったかもしれませんが、私はそういう者がいるとは、聞いたことはございません」
甲斐は暫く考えていて、それから、屋敷を出るがいいな、と云った。
「気づかれてからではおそい、いまのうちに出るほうがいいぞ」
「私はこのままおります」と達弥が云った、「幸い支配に認められて、勘定部屋の常勤めになりましたし、いまでは士分の扱いを受けております、近く
「うん、そうかもしれない」と甲斐はあいまいに呟いた、「この役目を頼んだのはおれだった、おれがおまえにこのいやな役目を頼んだのだ、もちろん、こういうことをしてもらおうと思ったのではないが」
「私は自分の役目を知っております」
「わかってる、おれはこんどの事で、おまえに万一のことがありはしないか、もしもそうだとすれば、無用の危険は避けるほうがよい、と考えただけだ」
「その点では私よりむしろ滝尾のほうが危険です、滝尾のしてくれたことに対しても、ここで私だけが、身の安全を計るというわけにはまいりません、私は屋敷へ戻ります」
達弥が去り、甲斐は元の座敷へ戻った。そこにはかよはいず、おくみが縁先の
午後の陽が傾いて、中庭はすっかり蔭になり、女中の一人が植込へ水を打っていた。甲斐は持って来た証書をそこへ置き、さてどこへしまったものか、と思った。それは重要な価値があった。万治三年、
――むろん使いかたによっては、三文の価値もないだろう。
よほどの機会でもない限り、そんなものを出したところで、偽作である、事実無根だ、と云われればそれまでだ。雅楽頭は老中のなかでも筆頭の威勢をもっているし、一ノ関も名目だけではあるが、直参大名に列している。陪臣にすぎない甲斐などの主張、特にそのような非常な意味をもつ証書などで、どんなに主張してみたところで勝敗は明らかだろう。
――但し機会がないわけではない。
よき機会があり、それを

「問題は機会だ」と甲斐は呟いた。
「なにか仰しゃいまして」
おくみがそう云いながらこっちへ来た。甲斐は、風呂をもらおうと云い、すぐに、
おくみの兄、日本橋の雁屋信助を思いだしたのである。自分の屋敷には内通者がいる、この湯島の家も安全ではない。証書の盗まれたことがわかれば、雅楽頭らのあたまにはすぐ「原田甲斐」の名がうかぶに相違ない。したがって、屋敷やこの湯島の家は、いつかれらの手で捜索されるかもしれない。だが雁屋なら比較的そういう心配はないだろう。甲斐はそう考えたのであった。
「では今夜も泊っていって下さいますの」とおくみが訊いた。
甲斐はそれには答えずに、新八は女のことを話さなかったか、と訊いた。おくみは、いいえとかぶりを振り、女となにかあったのか、と反問した。
「いや、話さなければいいのだ」と甲斐は、盆の上のいちじくに手を伸ばしながら云った、「風呂と、雁屋へ使いを頼む」
おくみは立っていった。
甲斐はいちじくを喰べながら、庭のほうを眺めやって、ふと唇に微笑をうかべた。証書の紛失したことがわかったとき、雅楽頭がどう思うかを想像したのである。胆の太い人物だから、さしてとり乱しはしないだろうが、しかし相当に痛いことであろう。とにかく、当分そう露骨な行動はとれなくなるにちがいない、そう思って甲斐は眼をほそめた。
その夜、雁屋信助が来て、帰ったあと、ほぼ一
鳥羽は亀千代の
――御膳の物に毒があり、鬼役(毒見)の者三名が死んだ。
ということから、その手紙は書きだしてあった。
――米山兵左衛門、吐血。千田平助、即死。塩沢丹三郎、吐血。
――一ノ関の命令で、医師の河野道円とその子二人は、召捕り押しこめ、料理人二人も押しこめとなり、一ノ関の主張にて、ただちに評定がひらかれたうえ、河野父子三人は
――評定は一ノ関の思うままに操縦された。松山(茂庭周防)は病中で欠席したし、原田どのは賜暇で不在。席に列した国老は、富塚
――
――この部屋子も、無事に湯島までゆき着くかどうかわからないが、幸いにしてこの手紙が届いたら、できるだけ早く帰って、必要な処置をしてもらいたい。
そして、自分も居室謹慎を命ぜられた、という文言で、むすんであった。
「丹三郎、――丹三郎、……」と甲斐は低くつぶやいた。彼はその手紙に行燈の火を移し、立っていって、
鳥羽はどうしているか、罪人たちは仕置きされたかどうか、という甲斐の問いに、少女はただ、知らない、と答えるだけであった。
「わたくしなにも存じません、どうぞすぐおいとまを頂かせて下さい、親元へ帰らなければなりませんから」
「そのお茶をお飲み」と甲斐がやさしく云った。
茶を飲めばおちつくだろうと思ったが、少女はほとんど逆上ぎみで、飲もうとした茶は、手がふるえるため、半分くらいもこぼれて、ひざをぬらしてしまった。
「どうしてぬけ出たのか」と甲斐は質問を変えた。
少女は、不浄門のわきから、と答えた。不浄門のわきに、
「親元へ帰ってどうする」と甲斐はまたきいた。
少女は、親元にいるのではなく、帰ったらすぐ親類へ身を隠すつもりである。それは鳥羽から注意されたことで、金も貰って来た、という意味のことを、おろおろと答えた。
「それならいい」と甲斐はうなずいた、「鳥羽どのにも云われたであろうが、どこへ隠れるにせよ、屋敷で見たり聞いたりしたことは口外しないように、もし人に話したりすると、おまえがみつけだされるもとになる、わかっているな」
「はい、よくわかっています」
「それでも危険な事が起こるようだったら、この家へ来るがよい、それを覚えておいで」と甲斐は云った。
少女を帰らせてから、甲斐はおくみを呼んで時刻をきき、十時少し過ぎだということがわかると、すぐに着替えにかかった。おくみは事情を知らないので、こんな時刻に帰るということが不審でもあり、だいいち御門があかないであろう、と不安そうに云った。
「丹三郎が死にかかっている」と甲斐が答えた、「もうまにあわないかもしれないが、生きていたら一と眼会ってやりたいのだ」
おくみは顔色を変えた、「ではあの」
「云うな、なにも云うな」と甲斐は首を振って
帰邸しても門がとおれるかどうかわからない。門に入るためには、非常の場合、であることと、自分の国老としての責任を盾に取らなければならないが、どうして「非常の場合」であることを知ったか、ということが問題になるであろう。原田の家従も、もちろん禁足の命令で動けない。動ければ知らせに来たはずである。では誰から聞いたかということが、必ず問題になるに違いない。そのときどう答えるか。
――わからない。
わからないが、ともかく「置毒」ということはもみ消さなければならない。いかなる手段を用いても、それだけは発表させてはならない、と甲斐は思った。
甲斐は成瀬久馬を呼んだ。
たぶん、おくみとの問答を聞いて、丹三郎のことを知ったのであろう、久馬は眼を赤くしていた。甲斐はそれには気づかぬ顔で、これから屋敷へ帰ること、みんな馬でゆくから、すぐに馬の手配をすること、などを命じ、久馬が去ると、おくみに「茶を一服」と云って居間へはいった。
おくみは行燈を明るくし、
甲斐の表情はもう平静になっていた。双眼にあらわれた
おくみは女中に手伝わせて、茶の道具をはこんで来、土
甲斐は暗い庭を見やりながら、今年はまだ
茶は不出来だった。おくみはまだ気持がおちつかないのだろう。湯がこなれていず、おまけにまだ熱かった。甲斐は黙って喫し、茶碗を置いておくみを見た。
「今年はまだ芙蓉が咲かないようだな」
おくみは訝しそうに見かえり、それから、ああと頷いて、虫が付いたので、ついこのあいだ切ってしまった、と云った。神経が
久馬が知らせに来るまで、二人は黙って坐っていた。
「こんどはいつ来て頂けましょうか」
おくみは甲斐が立ちあがったとき、こらえきれないような口ぶりで訊き、じっと、甲斐の眼を見あげた。甲斐は微笑を湛えた眼で、なだめるようにおくみを見、脇差を差しながら答えた。
「月が替ったら来る」
「きっとでございますね」とおくみが云った。
それは来ることを
馬は三頭、伊達家の紋を印した
――丹三郎、生きていろよ。
馬を駆りながら、甲斐はそう念じた。
即死と、吐血と、分けて書いてあったから、ことによるとまだ命はあるかもしれない。生きているなら会ってやりたかったが、「置毒」をもみ消すことのほうが大事だ。甲斐は歯をくいしばるおもいで、馬をいそがせた。
本邸の門はさしたる故障もなくとおれた。
甲斐はまっすぐに大条兵庫を訪ね、次に富塚内蔵允を訪ねた。どちらも寝所へはいっていたが、起きるのを待って会談し、それからまた門をあけさせて、宇田川橋の一ノ関邸へいった。
大条も富塚も、老女鳥羽の手紙にあったこと以外は知らなかった。三人の鬼役が毒害された、という事実だけですっかりあがってしまい、料理人や河野道円らの処置については、一ノ関の意向がまだわからないというだけであった。
兵部邸では、門を通るのにてまどった。
時刻はもう十二時に近く、兵部は一
門の番士が、二度まで玄関へゆき、さらに、出て来た取次の侍と話し、殆んど四半刻もして、ようやく門を通ることができた。
玄関には只野内膳がいて、甲斐を接待に案内し、そこで少し待ってから、家老の新妻
兵部は
甲斐は深夜の訪問を
「どうしたのだ」と兵部が云った、「帰るというのか」
「お屋形さまのごようすを拝見しておちつきました」と甲斐が云った、「賜暇で保養にまいっていたのですが、なにやら胸さわぎが致しますので、門限はずれですが帰ってみますと、鬼役が三人、毒死したとか申すことで、事実さような事があったとすれば、世間に漏れぬよう、すぐに手配を致さなければならぬと思い、深夜ではありますがお騒がせ申しましたしだいです。しかし、お屋形さまのごようすで、私などがうろたえるまでもなく、然るべく処置されたものと、ようやく
「待て、毒死をどうする、というのだ」
「毒死ではございません」と甲斐は穏やかに云った、「毒死などということがある筈はございませんし、また、決してあってはなりません」
「待て原田、――」と兵部が遮った、「亀千代どのにすすめる膳部に毒が入れてあり、鬼役が三人、その毒で死んだということは事実だ、ほかの場合ではない、亀千代どのの膳部だ、これは
「いや、毒死などの事実はございません」
「事実だ、明らかな事実だ、これは断じて
甲斐は兵部の眼をみつめ、眉をひそめながら、静かに首を振った。兵部を
「やむを得ません、ではひと言、申上げておきます」と甲斐は少し声を低めた、「東市正さまに不測の事が起こる危険がございます、どうぞくれぐれも御身辺にごゆだんなきよう、お願い申しておきます」
「東市正になにがあると」
「ただ、ごゆだんなきように、と申上げるほかはございません」
そして甲斐は、いとまを乞うように座をすべった。兵部は、待て、と呼びかけた。
「待て原田、待て」と兵部は疑わしそうに甲斐の眼をにらんだ、「毒死の事実が、どうして東市正にとって危険なのだ、これと東市正とどういうかかわりあいがある」
「申上げなければなりますまい」と甲斐が云った。
甲斐は暗い表情になり、膝の上の扇子を、やや暫く見まもっていて、それから静かに兵部を見た。
「いつぞや、私が刺客に襲われたことを、御存じでございますか」
「うん」と兵部はあいまいな口ぶりで、「聞いたことがあるようだな」と云った。
「聞いたように思う、たしか、品川の屋敷であったとか」
「お下屋敷へ伺候したときのことです、幸い供の者と、良源院どのの機転で、危ういところを

「わからぬ、おれにはわからぬが」と兵部は
「御推察どおりと存じます、国許では、江戸にもむろんございますが、国許では特に、早くから或る風説が根づよく弘まっていて、若者どもの中には、命がけで事を起こそうとしている者がございます」
「或る風説とは、なんだ」と兵部が訊いた。
甲斐は眼をみはった。その質問がまったく意外だったかのように、眼をみはって兵部を見、それから、御存じではなかったのか、と訊き返した。兵部が首を振り、重ねて、「なんだ」というと、甲斐はもっと意外そうな表情をし、口ごもりながら云った。
「六十万石分割の
兵部は平手で顔を叩かれでもしたように、ふっと脇へそむき、そうして、すぐに用心ぶかくその眼を甲斐に戻した。
「六十万石を、分割だと」
「もちろん根もない
「誰が」と兵部は
甲斐は静かに、もちろん、と首を振りながら遮った、「多少なりとも思慮のある者なら、根もない妄説だということはすぐわかります、しかし、血気にはやる者、事を好む者、年が若く分別の足らぬ者などには、虚妄の説ほど信じやすく、いったん信ずればそれを固執して動きません、私を襲った刺客は、私がお屋形さまにくみして、六十万石分割を謀っていると信じたからで、もしこのたびの事が置毒であるとわかれば、かれらはきっと、東市正さまにその
「なぜ東市正を
「厩橋侯との契約は、東市正さまとの御縁にある、とかれらは信じております、されば、事の根元が東市正さまにあると思うのはしぜんでございましょう」
「ばかなことだ、ばかげたことだ」と兵部が云った、「それは狂気の沙汰だ、そんな
「私が現に、刺客に襲われたことは、御存じの筈です」
「それで、次は東市正だ、というわけか」
「いや、――よくお考え下されば、お屋形さまにも御推察のつくことです、名はあげませぬが、誰それこそ藩家に害をなす人であると、口に、文書に、触れまわっている者があります」
「里見十左衛門だな」
「名はあげません、しかしそれが一人や二人ではないこと、また無思慮な若者どもが、その
兵部は、暑い、と云った。
兵部は懐紙で額をぬぐった。彼は甲斐の言葉に強く動かされ、
――東市正。
兵部はその子を
「では、置毒の事実は伏せるほうがよいというのだな」
「さような事実は、なかったのです」と甲斐が答えた、「鬼役三人は単純な食あたりで、医師道円は関係なく、料理人だけ軽い
「わかった、わかったが」
兵部はおちつきなく、両の手を組み、指を
「ことによるとまにあわぬかもしれぬ、すぐ手配をしてもらいたいが、ことによるともう仕置をしてしまったかもしれぬ」
「と仰せられますと」
「いやわからぬ、まにあうかもしれぬ」と兵部が云った、「とにかく処置はいまのようにして、すぐその手配をしてもらおう、明朝はなるべく早く、再評定をひらくことにする」
「承知つかまつりました」
「もしまにあわなかったら」と云いかけ、兵部は「よし」と手を振り、大儀であったと云って、座を立った。
甲斐は本邸へ戻った。
――まにあわぬとはなんだ。
兵部のうろたえた言葉が気にかかった。ことによると仕置をしてしまったかもしれぬと云ったが、河野道円のことであろうか、河野父子三人は、料理人も共に、捕えられて
「万治のときの事があるぞ」と甲斐は呟いた。
万治三年の大変のとき、坂本、渡辺、畑、宮本の四人が暗殺された。無警告で、「上意討」という名目で、――甲斐は低く
本邸へ戻った甲斐は、住居へはいるとすぐに、目付役と塩沢丹三郎の家へ使いをやった。時刻は午前一時をまわっていたが、目付役からは今村善太夫が来た。
甲斐は書院で善太夫に会い、河野父子と料理人の安否を訊いた。善太夫は「どちらも仕置が済んだ」と答えた。甲斐がそれを知らなかったことを、むしろ意外そうな口ぶりだったし、顔にも、なにをいまごろ、というような、訝しげな色があった。
「仕置とは死罪か」と甲斐が訊き返した。
「河野父子は切腹、料理人は
「それが済んだというのか」
「仕置は済みました」
「いつだ」
「今日、いや、もはや昨日になりますか、昨日の夕刻に相済みました」
甲斐は眼をつむった。
「仕置は誰の命令でやった」
「それは、もちろん、御老職からだと思います」
「名を聞こう、誰だ」
「御老職の連署でしたが、なにか御不審があるのですか」
「罪名はなんだ」
善太夫はがまんを切らしたように、お
「おまえを責めているのではない」と甲斐が云った、「私は保養のため留守であった、それで事の始末を聞きたかったのだ、また、念のために云っておくが、罪名は置毒ではないぞ」
「――なんと仰しゃいます」
「毒を盛ったのではない、罪はまったくべつの事だ」
「私にはわかりません」
「明朝、再評定がある」と甲斐が云った、「その評定によって、罪名がはっきりするだろう、置毒の罪というのは誤りだ、そんな事実はなかった、決してなかった、ということを、同役の者に伝えておいてくれ」
善太夫は肩を怒らせた。
肩を怒らせて、善太夫がなにか云い返そうとしたとき、廊下へ堀内惣左衛門が来た。甲斐はそれを認めるとすぐに、「存命か」と訊いた。惣左衛門は廊下に膝をついて、危篤である、というような意味のことを答えた。はっきり聞えなかったので、甲斐はもういちど存命か、と訊いた。
「存命ではございますが」と惣左衛門が答えた、「もはや、夜明けまではおぼつかなかろう、とのことでございます」
甲斐は、よし、と頷いた。
惣左衛門はなにか訊きたげであったが、甲斐はそのまま向き直ったので、静かに去ってゆき、善太夫が甲斐に云った。
「いまのお申付けはお受けができません」と彼は云った、「現に鬼役三人が毒死しており、国老がたの評定でも、はっきり置毒の罪ときまったのですから」
「評定はやり直す」と甲斐が遮った、「置毒の事実はない、私は国老の責任で云うのだ、戻って同役の者にそう伝えるがいい、
面を打つような烈しい調子であり、善太夫ははっとしたように頭を垂れた。甲斐は調子をやわらげ、こんな時刻に御苦労であったと云って、立ちあがった。
辞去する善太夫には構わず、甲斐は居間へはいって惣左衛門を呼び、丹三郎をみまうと云った。なにかみまいに持っていってやりたいが、恰好な物はないかと訊き、惣左衛門は、あとから持参する、と答えた。
「容態は危篤のもようですから、そのままおいで下さるほうがようございましょう」
甲斐は頷いて居間を出た。
塩沢のお小屋は同じ邸内であるが、甲斐の住居からは少し遠かった。空には星も見えず、暗い足元を拾うように歩きながら、甲斐はしきりに口の中で、しまった、とか、どうするか、などと呟き続けた。
――藩主毒殺の陰謀があった、などということが公表されれば、雅楽頭は老中を駆って伊達家に手を付けるだろう。
いかなる手段によっても「置毒」のことは隠蔽しなければならない。それは絶対の条件であるが、河野父子と料理人は、すでに処刑されてしまったという。処刑をいそいだのは、むろん一ノ関であろう。一ノ関はこれを「もの」にしたかった。幼君毒殺の陰謀、
提灯を持って待っていた男は、「組士の菱本市之丞というものである」と名のった。組士は下士で、
狭い玄関には、たつ女が出迎えていて、
「危篤と聞いたが」と甲斐が云った、「容態はどうか」
「はい、いましがた」とたつ女は俯向き、ついいましがた息をひきとったがと、低いけれどもしっかりした声で云った、「お使者を頂きましたとき、そう申しますと、おそれ多いからおみまいは御無用に願ってくれと、繰り返して申しておりました」
「――ひどく苦しんだか」
「がまん強い子でございましたから、口には少しも出しませんでしたけれども」
甲斐は眼をそむけながら、会ってやろう、と云った。
たつ女は
貧しい夜具の上に、丹三郎の死躰は、胸の上で両手の指を組み合わせて、仰向きに寝かされてあった。
「臨終にこう申しました」とたつ女が脇から云った、「死んでも、香や燈明をあげてはいけない、僧も呼ぶな、読経も供養も無用、自分は成仏するつもりはない」
そこまで云うと、たつ女の喉へ
「そのときこそ、供養もしてもらい、成仏もしよう、それまでは魂となってとどまり、お
甲斐は丹三郎の顔をみつめたまま、たつ女の言葉に頷いた。そのとき、菱本市之丞が、いちじくを盛った盆を持ってはいって来、ただいまお屋敷からこれを、と云って、そこへ差出した。甲斐は盆をひき寄せて、丹三郎の枕許へすすめた。
――主家が安泰となるまでは成仏しない、魂となってふみとどまり、甲斐や主家を護り続けるつもりだ。
その言葉はいかにも丹三郎らしい。自分で毒見役を志願したときから、彼は死ぬ覚悟をきめていた。その「覚悟」はひと筋で紛れもなく、動かすことのできないものであった。しかも、彼は死ぬだけでは満足せず、魂となってなお主家を護ろうという。
――たくさんだ、丹三郎。
と甲斐は心のなかで彼に呼びかけた。
――おまえは侍の本分をはたした、もういい、それ以上は執念だ、もう休むがいい、生きているうちにそのつとめをはたしたら、あとはゆっくり休むほうがいい。
するとたつ女が「あ」と声をあげた。
死躰の唇の端から、どす黒くなった血がひと
――それでよし、いまの血で執念は出てしまった、これでゆっくり休めるだろう、丹三郎、ながいこと大儀であった。
たつ女が嗚咽し始めた。
やがて甲斐は向き直って、丹三郎が「犬死」になることを告げた。鬼役が毒死したのだから、本来なら忠死であって、もちろん褒賞もされ、その名も
「丹三郎もそう申しておりましたし、そう致さなければならない、ということもわかっております」とたつ女は云った、「世間にはどう伝えられましょうとも、自分の死ぬことに少しでも意義があり、多少でもお役に立ったと、知って下さる方があれば満足です、丹三郎はそう申しておりました」
甲斐は無表情に頷いた。
ではそのことを忘れないように、と云って、甲斐もまもなく立ちあがった。たつ女に送られて出ると、玄関には村山喜兵衛が待っており、喜兵衛はすぐに提灯へ火を入れた。別れを告げて外へ出ると、空はかすかに明るみはじめてい、なまぬるい南風が吹いていた。
その日、早朝の老臣評定で、「置毒」の事実は否定された。河野父子三人は、奥女中らとしばしば宴遊し、風紀を
――御評定はいかがでございました。
「酒の支度をさせろ、疲れた」
――お数寄屋に支度を致させました。
「女どもはさがれ」
――なにか御機嫌を損じましたでしょうか。
「原田の心底がわからぬ」
――はあ。
「矢崎
――反対する筈だという御意でしたが。
「しない筈がない、原田は必ず反対し、抗議を出す筈だった」
――罪は密通ということでございました。
「もちろん
――はあ。
「彼は上田
――
「古内の
――事はその途中でございますな。
「宿で舎人が、上田の妻にみだらなことをしかけた、それを見たという者が訴え出たのだが、事実は違う、事実は上田の妻が旅疲れで、失心して倒れ、付いていた舎人が助け起こしたのだ」
――証人がいたのですか。
「現に見ていた者があり、原田にしかじかと告げたのだ」
――事実をですか。
「失心して倒れ、舎人は助け起こしたにすぎないということをだ、そして、自分は証人になってもよい、と云ったそうだ」
――しかも、原田どのは黙っていたのですか。
「家禄召し上げ、領内より追放という処置に対して、ひと言も抗議をせず、顔色さえ変えずに、黙って連署をした、どうも不審だ、毒害の事のときには、おれはうまうまはめられたと思った、厩橋侯にそう云われて気がついたのだが、むろんはっきりしたことではない、厩橋侯は、うまくもみ消されたのだ、と云われた、せっかく、幼君毒害の陰謀、という事実ができたのに、うまくもみ消されて、大事の機会を失った。甲斐めにいっぱいくわされたのだ、と云われた、だが、家中に血気の者どもが多く、おれを悪人だと
――仰せのとおりに存じます。
「厩橋侯はまえから、原田は信じかねる、と云っておられた、おれは手の内の人間だとみていたが、毒害の事のときから、彼の挙措に改めて注意し始めた、彼の周囲にも、身辺にも、人を配り、網を張った、以前にやったよりも厳重にだ、しかしなにも
――半年ちかく病んだあとでございました。
「松山は原田のもっとも親しい友だ」
――そればかりでなく、重縁の親族でございます。原田どのの御生母が松山の出であり、原田どのの長男帯刀宗誠どのにも、一昨年の冬、松山から
「おれは知っている、原田と周防とはもっとも親しく、心の底から信じあっている友だった、それが、万治の大変を境に、ぴたりと疎遠になった、ぴたりと、枯枝を折って捨てるように、きれいに往来を絶った」
――そのあいだに、妻女離縁という事情がございます。
「知っておる」
――原田どのの、離縁された妻女は、松山どのの家から出ました。養女ですから松山と血のつながりはございませんが、
「では原田の
――また聞きですが、原田どのの母堂が、両家の仲を元に直すため、原田どのの意見を押し切って、まとめた縁組だということですが。
「それもそうとしよう、それなら去年、周防の病死したときのことはどう解釈する、妻の離別で、いちじ不和になったとしても、伜の縁組で元に返った筈だ、しかも二人は
――はあ。
「そうだ、原田は周防の父、佐月の死んだときも同様だった、茂庭佐月の死んだときも、船岡におりながら、葬儀に出なかった、おれが佐月と不仲だったので、おれに遠慮したかと思っていた、わからない、まるで水をつかむようだ」
――私には明瞭だと思われるのですが。
「どう明瞭だ」
――仮に平素が不和であろうとも、古い友が危篤という場合、みまいにゆかぬということは、人情としても不可能なことです、それを臨終と聞いてもみまわなかったとすれば、まったく心がはなれていた証拠でございましょう。
「隼人はそう信ずるか」
――こんどの場合にも、同じことが云えると思います、矢崎舎人は原田どのの家従でございました、物頭という直臣にあげられてから、三年とは経っておりますまい、その舎人が無実の罪に問われ、無実であるという証人がいるにも拘らず、黙って見ているということは、とりも直さず殿への遠慮、なにより殿の御意を重んずる、という証拠であると存じます。
「わからぬ、おそらく隼人の申すとおりであろう、おれもそう思うのだが、どうにも心底の読めぬところがある」
――
「そうだ、あのときも原田は涌谷に付くと思われていた」
――ごく一部の人を除いては、みなそう信じておりました。
「だが彼は寺池の利分になるように証言し、そのとおりに決着した、涌谷と原田とも昔から
――それではなお御不審があるのですか。
「毒害の事が頭からはなれないためかもしれない、おれは東市正の危険を恐れた、いまでも恐れている、東市正だけは安全でなければならない、原田はそれを指摘した、東市正の危険を警告して、置毒の事実を隠蔽した、そこになにかある、なにかあるように思える、原因ということができればその点だけだ、そして、なんだ」
――仙台より急使が到着いたしました。
「会おう、とおせ」
――大槻どのよりの書状にございます。
「よし、隼人読んでみろ」
――はっ。
「この酒は熱いぞ、替えろ」
――事が起こりました。
「なんだ」
――席次の争いが大きくなったもようです。