はたはたと舞いよって来たちいさな
ここは
仙千代も隼人も、乳母たちに添ってよく眠っていた。有明の
――留守の心得をおきかせ下さいまし。
出陣のまえにそうたずねたら、信之はいつもの穏かなこわねで、――
「どうしました、お眼がさめましたの」
「いまおじいさまが来たでしょう」
はっきりした口調でそう云った。
「おじいさまとは、どのおじいさまです」
「おじいさまですよ、お髪の白い、お背の小さいおじいさまですよ、仙千代を抱きに来たと仰しゃったのに、おたあさまは……」
そう云いかけて、言葉が切れたと思うと、仙千代の眼はそのまま閉じ、すぐにやすらかな寝息をたてはじめた。松子はどういうわけかぞっと背すじが寒くなった、今しがた自分が紙にくるんで捨てた蛾のことを思いだしたのである、けれどそれはほんの一瞬のことで、すぐにかの女はきつく頭を振った。――
――仙千代はねぼけたのだ。
そしてしずかにそこをたち去った。
居間へもどった松子は、次ぎの間にひかえている侍女たちにもう寝るようにと云い、ふたたび机に向って
こんどの出陣には信濃のくに上田城から真田昌幸とその子幸村が加わることになっていた。安房守昌幸は信之にとって父、幸村は弟にあたる、父子兄弟は
信之はついになにも云わずに出ていった、そして松子はそのあとで自分の言葉を悔いた。たとえ父昌幸がどうあろうと良人の徳川家に対する志操に変りのある筈はない、それは妻である自分が誰よりもよく理解している。理解していながら念を押したのはあさはかな疑いになるし、疑いと云わなければさかしらだてである、松子はそう気づくとともにあのとき黙ってなにも云わなかった良人の心が、いかにもたのもしくゆかしく思いかえされ、すぐに
思うことをまさしく伝えようとするには文字ほどたのみにならぬものはない、書いては消し、綴ってはやぶりして、ようやく文をむすんだのは短い夏の夜がもうしらじらと明けそめる頃だった。――ああもう夜が明けるのか。ほんのりとあかるみだした障子の色に気づいて、そう
城下の街はまだ暗く、刀根川の流れも濃い朝もやの下に眠っていたが、赤城山の
松子はそう思い、すぐに屋形へもどった。水をつかい髪を
「安房守さまおたち寄りとの前触れにござります」
「安房さまが……」
松子は聞きちがいではないかと思った。
「たしかに相違ございません、
「使者の者はいかがしました」
「口上を申しのべますとすぐ引返して去りましたが……」
刑部をさがらせ、屋形へもどった松子の胸は疑惑のためにふさがれていた。安房守昌幸は良人と箕輪で会い、ともに江戸へはせ参じた筈である。それがいまごろ沼田へ来るというのはどうしたわけか、なにがあったのか、良人もごいっしょなのか。使者の口上だけではなにもわからない、一夜ねむらずに明かしたあとだったが、もう寝所へはいる気持もおこらず、松子はつぎの知らせを待ちかねていた。
二番めの使者が来たのは二時すぎだった、これは一行の先駆で、海野十郎兵衛という真田家では名のあるさむらいだった、松子は城の大玄関まで出てかれに会った。安房守が
「安房さまには江戸へおくだりのことと存じていましたに、いま沼田へおいであそばすとはいかなる仔細か、それを承わりたいと思います」
口上を聞いたあとで松子はそう反問した。十郎兵衛はすぐには返答ができなかった。かさねて問われると、そのことについては別になにも承わっていないと云った。松子は使者の顔をじっと見まもっていたが、「伊豆守(信之)も御同列ですか」とたずねた。
「いえ伊豆守さまには江戸へおくだりにございました」
「では沼田へおたちよりなさるのは安房さま左衛門佐さまおふた方ですか」
「さようにございます」
そう聞いたとき松子の心はきまった。
「それでは安房さまへはかようにお答え申すほかはありません、沼田へのおたちよりは御無用にねがいます、城への御接待はあいなりませんと」
「おそれながらそれは、いかなる思召にござりますか」
「仔細は申すに及ばぬことです、すぐたち戻って安房さまへさようお伝え申すよう」
云い終るとすぐ、まだなにやら問いたげな十郎兵衛にかまわず、松子はさっさと奥へはいってしまった。
昌幸父子が沼田へ来る理由はまだわからない、しかし良人が江戸へいったのに二人だけこちらへ来るというのは不審である、なにか起ったに違いない、よしまた、なにごとがなくとも今は戦時である。良人の留守に客を迎えるのはたしなみではない、ことわるのが留守のやくめとして当然だと信じた。午後四時まえ、ふたたび海野十郎兵衛が馬をとばして来た。かれは汗まみれになっていた。
「かさねて申上げます、安房守さまには上田へ御帰城ときまり、途中わざわざ道をまわって留守をお問い申すとの口上にございます。べっして御接待には及び申さず、ただ一夜の泊りをおたのみ申すとのことにござります」
「さいぜんお答え申したとおり」松子は冷やかに云った、「当城へのおたちよりは御無用です、かたくおことわり申します、それにしても安房さま御父子にはなにゆえ江戸へおくだりあそばしませんのか、どうして信濃へおかえりあそばしますのか」
云いながらかの女はするどく使者の眼をみつめた、十郎兵衛の汗まみれの顔がちょっと
「いま大戦がおこっているおりから、なにびとに限らず留守城へおいれ申すことはあいなりません、たってお望みなれば銃火をもってお迎え申すばかり、かようにお伝えなさい」
そう云うとともに松子は斎藤刑部を呼び、兵に武装をさせて
奥へはいった松子は、城兵のまもりをきびしく申し付け、自分も
「おそれながら安房さまお使者への御挨拶、また城兵に戦備をお申付けあそばす思召のほど、いかなる御思案にござりましょうや、お申聞けねがいとう存じます」
「こうするのが留守をあずかる者のやくめです、わたくしの申付けるとおりにして貰います」
どうたずねてもそれ以上は云わなかった、そしてすっかり城がため(といっても百騎たらずの兵だった)ができた頃、昌幸父子が沼田の城下そとへ到着し、べつの使者が昌幸の手紙を持って城へ来た。
――そこもと留守の
松子の心はよろよろとなった、手紙の文字に偽りはないであろう、ただ嫁に逢い、孫を抱きたいという言葉のなかには、少しの装いもない切実な老人の心がこもっている。ひとの嫁として、子たちの母として、この言葉をしも拒むちからがあるであろうか。――お逢わせ申したい。松子は胸いっぱい
「おたあさま、上田のおじいさまがおいでなさるのですか」
「しずかになさい」
松子はうろたえて叱った。
「此所はあなた達のおいでになるところではありません、乳母はどうしました」
「乳母はおんなだから御殿へは来られないんです、ねえおたあさま、本当に上田のおじいさまはおいでなさるのですか」
「どうしてそんなことを
「誰も……誰も云いはしませんけれど」
刑部がはなした、松子にはすぐ察しがついた、そして仙千代の眼が疑わしげに自分の顔を見まもっているさまに気づくと、ふと夜半の寝所であったことを思いだした。「おじいさまがいらしった、仙千代を抱きに来たと仰しゃって……」幼いかれはそう云った、そのときかの女は自分がとり捨てた蛾を
「仙千代、あなたはゆうべなにか夢をごらんになりましたか」
「夢ですか、……夢」
仙千代はちょっと首をかしげたが、夢などはみないと答えた。みたとしても、そしてその夢が昌幸であったとしても、二歳のときいちど会ったきりのかれには、それが上田城の祖父だとわかる筈はない。
――ああお会わせ申したい。
けれど本当に会わせてもよいだろうか、仙千代を去らせてから、松子はもういちど自分の立場をよく考えなおしてみた。「信濃へかえってはふたたび逢うこともおぼつかない」手紙にはそう書いてある、昌幸はまだ五十五歳で老い朽ちたという年ではない、また信濃のくには遠いけれど再会をおぼつかながるほどではない筈だ、それにもかかわらず昌幸が押して逢おうとするのは、なにかそうせずにいられない理由があるのではないか。信濃へかえると、もう二度と逢えなくなるような理由が……松子の心はその一点へきて止まった、くずれかかっていた気持がにわかに立ちなおった。――忍緒を切った心でいよ。そう云った良人の言葉がはっきりあたまに
まさしく忍緒を切った気持で、かの女は昌幸へ返書をしたためた。そして刑部にそれを持たせてやると、しずかに眼をつむり、心で合掌しながら
城へはお迎え申しかねる、城下へ宿所を設けるから、そこで一夜だけ過し、明朝はやくたち去って貰いたい、あやまちの起らぬよう接待はわざと女どもに命じた。そういう意味の手紙を、読み終った昌幸はわが子の手へわたした。
「さすがに本多忠勝のむすめでございますな」幸村は手紙を巻きながら苦笑をもらした、「西に事のおこったのを知っているのでございましょうか」
「そうかも知れぬ、しかしそうでないかも知れぬ」昌幸はおのれの手をみつめながら、
そう云いながら、昌幸は二日まえのことを思いかえした。
箕輪で会った父子兄弟がいざ出発という前夜になって、治部少輔三成からの密使が到着した。すなわち秀頼公を擁立して挙兵するから味方をたのむというのである、昌幸はその密書を二人の子に示して意見を求めた、信之はいつもの穏かな態度で、自分は徳川家に質となってこのかた家康から特に愛顧をうけ、沼田の本領も安堵されたし、本多忠勝のむすめを内大臣の養女としてめあわされている、さむらいとしてこの義理を忘れることはできない、自分はどこまでも徳川氏と運をともにする、そういう意味をはっきりと述べた。そのしずかな淡々とした口ぶりのなかに、昌幸はかれの動かしがたい決意をみた。……では幸村とおれは上田へ帰る、
刑部の案内で城下町に宿所がきまった、かれらを迎えたのはすべて城中の女性たちだった。かの女たちはをつけ棒を持って
昌幸父子はその明くる朝はやく宿所をしゅったつした。霧のふかい朝だった、沼田の町は台地になっている、急な坂にかかっていよいよ城下をはなれようとしたとき、昌幸は馬をとめてふりかえった。――もうこれが見おさめかも知れぬ。そう思った、城の矢倉のひとつが霧のなかに幻のように浮かんでいた。
ちょうどそのとき、城の矢倉の上では松子がふたりの子といっしょにこちらを見ていた、昌幸たちがしゅったつしたと聞いて、仙千代と隼人をつれてここへ登って来たのである。かの女は
「ごらんなさい仙千代、隼人もよくごらんなさい」と云った、「いまあの霧のなかを、あなた方のおじいさまがおくにへお帰りになっていらっしゃるところですよ」
「おじいさまって、上田のおじいさまですか」
仙千代はさかしげな眼をあげてびっくりしたように母を見た、松子はそのまなざしを受けきれなかった。
「そうです、上田城のおじいさまです」
「ではやっぱりいらしったのですね、おじいさまがいらしったのは本当だったのですね」いかにも不服そうな調子だったが、それはむしろ祖父に対するもののようだった、
「でもそれならどうして、どうして仙千代に会いにいらっしゃらなかったのですか、おじいさまはもう仙千代がお嫌いになってしまったんでしょうか」
「……またすぐに」松子は切なさに堪りかね、そっとふたりの肩を抱きしめながら云った、「すぐにまたいらっしゃるのです、こんどはお急ぎの御用がおありだったのですから、このつぎにおいであそばすときは、おふたりにきっとよいお土産を持って来て下さいますよ」
そうあってほしい、どうぞこのつぎに、すべてが無事におさまって、もういちど孫たちをお会わせ申したい。松子はつきあげてくる
「さあ、おじぎをなさい、おじいさまが御無事で上田へお帰りあそばすように」
だがこれでつとめが終ったのではない、良人が帰るまでにはもっと苦しい悲しいことがあるであろう、これはその初めの僅かな
付記 数日して石田三成挙兵の報があった時、夫人はすぐさま城下の婦女子を城中へ呼びいれ、「いかなる変があろうとも騒いではならぬ、自分も伊豆守の妻としてこの城をまもりぬくから、皆も心をひとつにして、あくまで武士の妻子たる道をあやまらぬよう」とさとした。これはひとつには家臣たちの騒動と離反に備えるためだったのである、かくして婦女子はそのまま城中にとめ置いて、留守城安全の由を良人のもとへ云い送った。……信之はこれを宇都宮で受け取った、そして旬日ののちには秀忠の軍に従って、弟幸村らの守る伊勢崎(上田城の砦 の一)を攻めてこれを降しているのである、これを思うと信之夫人のとった態度は、まさしく禍を未然にふせいだものといえよう。