「病人たちの不平は知っている」
「べつになんとも思いません」そう云ってから、登はいそいで付け加えた、「
「追従を云うな、おれは追従は嫌いだ」
登は黙った。
「われわれの中で、もっとも悪いのは畳だ、昔はあんな物は使わなかった、水戸の
「敷き畳という物はあったのですね」
「それは貴人の調度であり、儀礼とか寝るときに使うだけで、板敷という基本に変りはなかったのだ」と去定は云った、「板敷がもし合理的でなかったとしたら、すでに敷き畳があったのだから、もっと早く畳というものが一般化されていたに相違ない」
道は坂にかかっていた。七月中旬の午後三時、暦の上では秋にはいったのだが、暑さは真夏よりもきびしかった。その日は微風もなく、空は悪意を示すかのように晴れていて、うしろから照りつける日光は、まるで手に触れることのできる固体のように、立体的な重さが感じられるようであった。登はもちろん、薬籠を背負った竹造も、着物の背中や二の腕あたりは汗ですっかり濡れているし、額から顔、衿首などにながれ出る汗を拭くのにいそがしかったが、去定はまったく汗をかいていない。――登はこのことを夏にかかるころから気づいていた。脂肪質ではないが、去定は固太りに肥えている。両腕や広い肩には筋肉が
――先生は暑くないのですか。
或るとき登はそう訊いてみた。去定は言下に、暑いさ、と答えた。それがどうしたといわんばかりの返辞なので、登は汗のことまで訊く気にはならなかったのである。
「この国の季候は湿気が強い、畳はその湿気と
これを養生所のように板敷にすれば、床下からの湿気も防げるし、
――先生のような人こそ、養生所という特殊な施設にはうってつけの人なんだな。
こう思いながら、登は手拭で汗を拭いた。そのときひょっと、向うから来る一人の若者が眼についた。洗いざらしの
「やい老いぼれ、どういうつもりだ」
去定は相手を見、すぐに目礼して云った、「これはどうも、失礼した」
「失礼したあ」と若者は裾を捲っていた手で、こんどは
登はわれ知らず前へ出ようとした。しかし去定はそれを制止し、こんどは丁寧に頭をさげて云った、「見るとおりの年寄りで、考えごとをしていたために失礼をした、まことに申訳ないが勘弁してもらいたい」
「ちえッ」若者は眼を三角にして、去定を見あげ見おろし、だが、それ以上云いがかりをつける隙がないとみたのだろう、脇のほうへ唾を吐いて云った、「ちえッ、縁起くそでもねえ、感情悪くしちゃうじゃねえか、気をつけやがれ」
半丁あまり歩いてから、登がいまいましそうに云った。
「ならず者ですね、ひどいやつだ、私はわざと突き当るのを見ていましたよ」
「そうしたかったんだろう」と去定はあっさり云った、「人間はときどきあんなことをやってみたいような気持になるものだ、若いうちにはな、――おれにも覚えがあるよ」
私は殴りつけてやろうかと思いました、登はそう云おうとしたが、口には出さず、
日光
去定は十日に一度くらいの割で、その娼家街へ外診にいき、強制的に女たちを診察し治療してやっていた。それは二年まえからのことだそうで、森半太夫の話によると、一昨年の秋に、三人の娼婦が養生所へ救いを求めて来た。三人とも病毒に冒されているし、極度の栄養不足のため、殆んど餓鬼のようになっていた。去定は応急の手当をしておいて、彼女たちの雇い主を呼びだしたが、そんな女は知らないといって出て来なかった。そこで町方の役人に同行を頼み、みくみ町へでかけていってみた。
――この世に悪人はない、この世界に悪人という者はいない。
養生所へ帰って来た去定は、独りでしきりにそう呟いていたそうである。それは「悪人がいない」ことを認めたのではなく、悪人などいる筈がない、ということを自分に云い聞かせているような調子だった、と森半太夫は語った。救いを求めて来た三人のうち、一人は死に二人は半年ばかり療養したうえ、ほぼ健康をとり戻し、一人は水戸在の実家へ帰ったが、残った一人は逃亡してしまった。
――親きょうだいの身寄りもないというので、新出先生がここの賄所で手伝いでもしていろと云われた。
けれども女は逃亡し、どこへいったかいまだに不明だということであった。
これらのことは半太夫から聞いたし、養生所の病室にはいまでも二人、去定が引取って来て療養している女がいた。登はその二人の治療には助手を勤めているが、外診でみくみ町へいったことはなかった。――そしてその日、本郷の通りを湯島天神のほうへ曲ったとき、彼はようやく去定のいく先に見当がついた。
「保本は、――」門跡下屋敷の見えるところまで来たとき、去定は足を緩めながら登に問いかけた、「
登はちょっと口ごもった、「はあ、長崎にいたとき、三度ばかり」
「医者としてか、客としてか」
登は汗を拭いた、「学友にさそわれましたので、遊びにいったのですが、むろん」と彼は力をこめていった、「女には触れませんでした」
「ほう」と去定が云った。
「私には江戸に約束した娘がいたのです」登はむきになって云った、「その娘は私の留守ちゅうに他の男と、――いや、その娘は約束をやぶりましたが、私は待っていてくれるものと信じていたものですから、さそわれて遊里へはいっても、女に触れる気にはならなかったのです」
去定は暫く歩いてから云った、「悪いことを訊いたようだな、いまの質問は取消しにしよう、忘れてくれ」
登はまた汗を拭いた。
みくみ町のその一画には、低い
「こんな季節に」と登が訊いた、「ここでは火の番が昼から詰めているのですか」
「あれは表向きだ」と去定が答えた、「ここでも火の番の役は犬がする、あの男たちはここの用心棒だ」
登にはその意味がわからなかった。
「ここの客は武家の小者や折助などが多い」と去定が説明した、「中には武家の威をかりて、たちの悪いことをする者もあるが、そんなときにはあの男たちが出て片をつけるし、また、女たちが逃げるのを防ぐ役目もする、つまりこの一画の娼家に雇われているのだが、――その関係はなかなか複雑だから一と口には云えない、まあ、そのうちにわかるだろうが、――かれらがなにを云っても、決して相手になってはいけない、ということを覚えておくがいい」
「なにか云うようなことがあるのですか」
「ここではまだない」と去定は云った、「たぶんそんなことはないだろうが、用心のために云っておくのだ」
「わかりました」と登は答えた。
去定は十七軒の娼家を訪ね、八人の女たちを診察した。その中には手伝いだという、十三歳の少女も一人いた。女主人は「親類から預かっている手伝いだ」と云い、少女自身は年を十五歳だと云っていたが、胸や腰のまだ平べったく細い
「こんな子供に客を取らせるやつがあるか、おれが届け出たら、おまえは臭いめしを食わなければならないぞ」
「なにを
「これは
「あたしは知りません」と云って、女主人は少女のほうを見た、「それとも、――とよちゃん、おまえあたしに隠れて悪いことをしたんじゃあないかい」
少女は無表情に黙っていた。
「とよちゃん、返辞をしないの」
「よせ」と去定は女主人に云った、「こんな猿芝居はたくさんだ、それよりこの子を
「それがよくわからないんですよ」
去定は黙っていた。
「おと年の暮までは本所の
去定はおとよに訊いた、「正直に云ってごらん、おまえのうちはどこだ」
「知りません」と少女はかぶりを振った、「かあさんの」と云いかけてすぐに云い直した、「おばさんの云うとおりもとは業平にあったんですけれど」
「嘘を云ってはだめだ」と去定は遮った、「私が力になってやるから本当のことを云ってごらん」
決して心配はない、誰に遠慮することもない、私が付いていてやるから、と去定は云ったが、おとよは女主人と同じことしか云わなかったし、年も十五だと云い張った。そこで去定は、そういう事情なら養生所へ引取ると云いだした。女主人はどうぞと答えた。厄介者がいなくなるのは有難いくらいです、どうか
「あたいここのうちがいい」とおとよは子供がだだをこねるように叫んだ、「あたいどこへもいかない、ここのうちにいるんだ、伴れてっちゃいやだ」
それは本心のようであった。女主人を恐れるためではなく、本当にこの家にいたいという感じが、その声にも、涙のこぼれ落ちる眼つきにも、よくあらわれていた。
「よく聞け」と去定はなだめるように云った、「おまえは悪い病気にかかっている、このままこんなところにいたら、その病気のために片輪か気違いになってしまうぞ」
「いやだ、いやだ」とおとよは泣きながら叫んだ、「あたいこのうちにいる、あたいを伴れてっちゃいやだ、いやだ」
女主人は平然と、きせるで
「なんだ
二人はどちらも若い、おそらく二十一か二くらいであろう、はけ先を曲げた流行の
「なんでもないのよ、騒がないでちょうだい」と女主人はきせるを置きながら云った、「養生所の先生がこの子が病気だからって、伴れてって治してやろうと仰しゃるのに、この子がいやがって泣いてるだけなんですよ」
「泣くほどいやがる者を伴れていこうというのかい」と若者の一人が云った、「病気を治すんなら、なにも養生所でなくったっていいじゃねえか、この土地にはこの土地の医者もいることだしよ、なあ鉄」
「おうよ」と伴れの若者がしゃがれた声で云った、「なにも養生所の医者ばかりが医者じゃあねえ、養生所の医者だからどんな業病でも治せるってわけのもんじゃねえだろう、そんならなにも世の中に死ぬ人間なんかありゃしねえ、病気は病気、医者は医者、死ぬ人間は死ぬ人間、なにもよけえな者がでしゃばるこたあねえんだ」
「あたいはいやだ、いやだ」とおとよは身もだえをしながら泣き叫んだ、「どこへいくのもいやだ、あたいこのうちにいるんだ」
「竹造」と去定が云った、「
竹造は上り
「安心しなおとよちゃん」と初めの若者が云っていた、「おれたちが付いているからな、誰にだって指一本差させやしねえ、こっちは命を投げだしてるんだから」
「おうよ」とその伴れも云った、「このしまのためにゃあこちとらあ命と五躰を張ってるんだ、なにもだてにこのしまに住んでるんじゃねえんだから」
去定は女主人に薬を渡していた。貝入りの
「はっきり云っておくが」と去定は女主人に云った、「今後は決して客を取らすな、もし客を取らせるようなことがあると届け出るぞ、わかったな」
「わたしは大丈夫ですがね」女主人はきせるを取りあげながら云った、「一日十二
「そんな理屈がとおると思うのか」
「こんな子でも人間ですよ、まさか
若者たちは出ていった。腰抜け医者だとか、ふるえてたぜ、などと云うのが聞え、二三間いくとばか笑いするのが聞えた。同時に竹造の顔が赤ぐろくなるのを、登は見た。去定はまったく無関心に、十日ばかりしたらまた来ると云い、まもなくその家を出た。
みくみ町から
「人間ほど尊く美しく、清らかでたのもしいものはない」と去定は云った、「だがまた人間ほど卑しく汚らわしく、愚鈍で邪悪で
あの娼家の主人たちは、女に稼がせて食っている。その善悪はともかく、現に女で食っているのだから、せめてそれだけの償いをしなければならない。だが事実は多く反対で、稼がせるだけは稼がせるが、病気になってもろくろく養生もさせず、特約している町医と結託して、倒れるまで客を取らせ、いよいよ寝込んでしまうと、薬はおろか食事も満足には与えない、いわば早く片のつくのを待つというような、
「おれは売色を否定しはしない、人間に欲望がある限り、欲望を満たす条件が生れるのはしぜんだ」と去定は云った、「売色が悪徳だとすれば料理茶屋も不必要だ、いや、料理
もちろん料理茶屋はますます繁昌するだろうし、売色という存在もふえてゆくに違いない。そのほか、人間の欲望を満たすための、好ましからぬ条件は多くなるばかりだろう。したがって、たとえそれがいま悪徳であるとしても、非難し
「こんなことを云うのは、おれ自身が経験しているからだ」と去定は云った、「どんなふうにと説明することはないだろう、おれは盗みも知っている、
そして急に舌打ちをした。
「ばかな」と去定は足踏みをした、「なにをいきまくんだ、今日はどうかしているぞ」
登は殆んどあっけにとられていた。
――盗み、裏切り、友を売った。
いったいどういうことだろう。現実にそんな経験をしたのか、それとも観念的な話だろうか。いずれにしても、なぜ突然こんなことを云いだしたのだろう、登はそう思いながら、黙って去定に付いて歩いた。
その夜、――例によっておそい晩飯が済んでから、登は去定に呼ばれてその部屋へいった。去定は机の脇にある包みを取って、登のほうへ差出し、長いあいだ済まなかったと云った。
「なんでしょうか」と登は
「いつか借りた筆記と図録だ」
登は
「必要なところを筆写させてもらった」と去定は云った、「これは自身のためではなく、病人たちのために役立てるのだ、不服かもしれないが了解してくれ」
登は
「おれは今日、盗みもやったと云ったが」と去定は苦笑しながら云った、「これも盗みの一つだろうな」
「どうぞおゆるし下さい」登は低頭した、「あのときは分別がなかったのです、いま考えると恥ずかしくってたまりません、お願いですからもう仰しゃらないで下さい」
「おれも今日の自分が恥ずかしい」去定は
「先生は怒っていらしったのです」と登が云った、「あのおとよという娘の家で二人のならず者が暴言を吐いた、そのときがまんなすった怒りが、下谷へゆく途中から出はじめたのだと思います」
「それは少し違う、おれはあの二人には同情こそしたが、決して怒りは感じなかった」
「――同情ですって」
「数年まえから、ああいう若いやくざがふえるばかりだ」と云って、去定は太息をついた、「その原因の一つは幕府の倹約令にある、無用の
おれは今日の二人に限らず、街をうろついている若者たちを見ると、可哀そうでたまらない気持になる、と去定は云った。
「娼家の主人たちも同様だ、女たちを扱う無情で冷酷なやりかたを見ると、
この世から背徳や罪悪を無くすることはできないかもしれない。しかし、それらの大部分が貧困と無知からきているとすれば、少なくとも貧困と無知を克服するような努力がはらわれなければならない筈だ。
「そんなことは徒労だというだろう、おれ自身、これまでやって来たことを思い返してみると、殆んど徒労に終っているものが多い」と去定は云った、「世の中は絶えず動いている、農、工、商、学問、すべてが休みなく、前へ前へと進んでいる、それについてゆけない者のことなど構ってはいられない、――だが、ついてゆけない者はいるのだし、かれらも人間なのだ、いま富み栄えている者よりも、貧困と無知のために苦しんでいる者たちのほうにこそ、おれは
人間のすることにはいろいろな面がある。暇に見えて効果のある仕事もあり、徒労のようにみえながら、それを持続し積み重ねることによって効果のあらわれる仕事もある。おれの考えること、して来たことは徒労かもしれないが、おれは自分の一生を徒労にうちこんでもいいと信じている。そこまで云ってきて、急に去定は乱暴に首を振った。
「おれはなにを云おうとしているんだ、ばかばかしい」そしてまた髯をごしごし擦った、「今日はよっぽどどうかしている、保本を呼んだのはこんな話をするためじゃない、ほかに云いたいことがあったからだ」
登は去定を見た。
「天野の娘のことだ」と去定は眼を脇へそらしながら云った、「わかっているだろう」
「はい」と登は答えた。
「おれは詳しい事情は知らない、源伯は話そうとしたが、おれは事情は聞かなかった、むろんおよその察しはつくが」去定は言葉を続けるまえにちょっと休んだ、「要点を云えば、天野は妹娘を保本に貰ってくれというのだ、年は十八で、名は、なんとかいったな」
「まさをといった筈です」
「当人を知っているのだな」
「顔かたちを覚えているくらいです」
「姉娘のほうは義絶になったままだという、保本が妹娘を貰ってくれれば諸事まるくおさまる、これはおまえの両親も望んでいるそうだ、もしそうする気があるのなら、いちど
「まだ修業ちゅうですから」と登は答えた、「結婚のことなど考えたくありません」
去定は登を見た、「まだ姉娘のことにこだわっているのか」
「いや、と申せば嘘になるでしょうが」と登は云った、「いまの私には修業のほうが大事であり、また張合いがありますから、当分のうちはそういうことを考えたくないのです」
「では約束だけでもしておいたらどうだ」
登の顔がするどく
「せっかくですが」と彼は顔をそむけながら云った、「私にはそういう約束はできません」
去定はじっと登の顔をみつめていたが、やがて机のほうへ向き直り、低い
「話はそれだけだ」
登は辞儀をし、記録の包みを持って立ちあがった。
自分の部屋に帰って、記録の包みを
「いま終るところだ」と半太夫が云った、「そこに
登は脇にある円座を取って坐った。
半太夫を訪ねたのは、去定のことを知りたかったからである。盗みをした、ということはともかく、師を裏切ったとか、友を売った、などという言葉には意味がありそうだし、大名諸侯や富豪から、礼をつくして迎えられるほどの腕を持っていて、いまだに妻も
「先生は決して自分のことは話さない方だから」と半太夫は云った、「私の聞いたところでは、馬場
「馬場というと、洋学の、――」と登は意外そうに反問した、「そして宇田川榕庵と同門の先輩に当るって」
「先生からじかに聞いたのではないから、どこまで真実かはわからないが、馬場氏がもっとも信愛していたのは新出先生だったそうだ」と半太夫は云った、「それで馬場氏は先生を自分の後継者にするつもりでいたところが、先生はそれを嫌って門下をはなれ、長崎へいって
登はどきんとした。いつか
――では筆記や図録を写したのはなぜだろう。
おそらく、と登は思った。おそらくそれは、どんなものからもまなぶ、という
「どうしてそんなことを訊くんだ」と半太夫が云った、「先生になにかあったのか」
登は今日あったことを話した。
「わからないな」と半太夫は云った、「師を裏切ったというのは、馬場氏の門下を去ったことかもしれない、たぶん、語学の後継者にという師の望みにそむいたことをさすのだろうが、盗みとか友を売ったなどということは、現実的な意味ではないのじゃあないか」
「そうも思ったのだが」と登は頷いて云った、「ひどくしんけんに、告白するというような口ぶりだったのでね、しかし、たぶん言葉どおりではないだろうな」
「自分には特にきびしい人だからね」
登はまもなく立ちあがった。
次にみくみ町へいったのは、まえの日から七日めに当る、雨もよいの午後のことであった。梅雨でもかえったように、湿っぽくむしむしする日で、六カ所回診するうち、三度めにいやなことがあった。それは日本橋
「つかぬことをうかがいますが、医は生死のことにあずからず、ということがあるそうでございますな」
「あるようだな」と去定は答えた。
「するとなんですかな」と徳兵衛はそらとぼけた声で云った、「治る病人は治る、死ぬ病人は死ぬ、医者の知ったことではない、というわけでございますかな」
「そういう意味もあるだろうね」
「するとその、
「私をべつにすることはない」と去定は答えた、「おまえさんの云うとおり、医者にも薬にもたいした差別はないというのが事実だ、名医などという評判を聞いて高い薬礼を払ったり、効能も知れぬ薬を買いあさったりするのは、泥棒に追い銭をやるよりばかげたことだ――なにかそのほかに訊きたいことがありますか」
「これはどうも、御機嫌を損じたようでございますな」
「いやなかなか」と去定は立ちあがりながら笑った、「このくらいのことで
外へ出るとすぐに、去定は「
――ひどいやつがあったものだ。
徳兵衛の皮肉な、そらとぼけた口調や、
六軒めの回診が終って出たとき、去定は空を見あげて、「さて」と
「まだ帰るには早いな」と去定はわれに返ったように云った、「よし、みくみ町へ廻ってやろう」
そして元気よく歩きだした。
まるで躯の中から不機嫌を叩き出そうとでもするように、力のこもった
「あのけちんぼの
登は黙って振向いた。竹造はぐしゃぐしゃになった手拭で額を拭き、それを両手で絞ってみせた。手拭はいま水からあげでもしたように、信じ難いほどの量の汗が絞り出された。登は苦笑して、「よせ」と云いかけながら、ふと、すれちがってゆく男のほうを見た。それは娼家街のほうから来たのだが、すれちがうときに変な眼でこちらを見た。一種のするどさを帯びたいやな眼つきだったので、登が振返ると、その男もこちらを振返って見てい、だがすぐに顔をそむけると、小走りに横丁へ曲っていった。
「いつかのやつですぜ」と竹造が
「いつかのやつって」
「このまえ本郷の通りで、わざと先生にぶっつかって文句をつけたやつです」
「そうかな、私は気がつかなかったが」
「あっしはあの面で覚えてましたよ」と竹造は云った、「野郎こそこそ逃げていったじゃあありませんか」
「そうらしいな」と登が云った。
去定はその日、十七軒ある娼家をぜんぶ診てまわった。中には拒む家もあったが、去定は相手の云うことなど聞きもせず、強引にあがって女たちを呼びだし、ちょっとでも疑わしい者は遠慮なく診察をし、病気に冒されていれば投薬したうえ、症状に応じてその雇い主たちに注意を与えた。
「この女は十日休ませろ」とか、「この次おれが診に来るまで客を取らせるな」とか、ごくひどい者は「生家へ帰らせろ」と命じたりした。たいていはうわべだけにしろ、はいはいとすなおに聞いた。診察も治療も只でしてくれるのだから、むしろ感謝するのが当然であろう。けれども中には反抗する者もあった。
「うちではこの女一人が稼ぐんですよ」とやり返す女主人がいた、「こっちの女はお茶ばかりひいて、三日に一人の客も取れやしない、肝心の稼ぎ手に十五日も休まれたら、それこそ口が干あがっちゃいますからね、それとも十五日間の食い
「十五日休ませろ」と去定は云った、「さもなければ、口が干あがるぐらいでは済まないことになるぞ」
その女主人は顔をひきつらせ、睨み殺そうとでもいうような眼つきで、去定をねめつけた。
おとよという少女のいた家では、「もうあの子はいない」と云った。養生所へ伴れてゆかれるかもしれないということばかり心配していたが、三日まえの朝早く、誰も気がつかないうちに逃げだしてしまった。ゆく先のあてもないのだから捜しようもない、ということであった。真偽はわからない、事実はよそへ売ったのではないか、と登は思った。このまえのときおとよは、女主人のことを「かあさん」と呼びかけて、慌てて「おばさん」と呼び直した。親類の子を預かっているというのも嘘だったらしいから、いま話していることも真実ではないだろう、そう思って去定を見たが、去定はべつに
十七軒めを済まして出たとき、去定が口の中で「医者にかかってくれればいいが」と呟くのが聞えた。外は
去定は若者をじっとみつめていて、それからごく穏やかに訊いた、「どうして、おれが来てはいけないのだ」
「土地がさびれるんだそうですよ」と若者は答えた、「おまえさんは初めに町方を伴れておいでなすった、それは一度っきりだったそうだが、なにしろ養生所はお
去定は
「このしまぜんたいですよ」
「正直に云え」と去定はたたみかけて云った、「おれは二年あまりここへかよっている、しょうばいの邪魔になるなら、もうとっくに文句が出ている筈だ、誰に頼まれたか正直に云え、誰だ」
「威勢のいいじじいだな、ええ」若者は伴れのほうへ振向いた、「せっかくためを思って云ってやるのに、これじゃあ穏やかにゃあ済まねえらしいぜ」
「あまくみてえるんだ」肌ぬぎの男は手をあげて叫んだ、「おい、みんな来てくれ」
登は振返った。するとうしろのほうに三人若い者がいて、こっちへ走って来た。二人はこのまえ、おとよのことでやりあった相手であり、他の一人は来るときにすれちがった、竹造に云わせれば「本郷一丁目で突き当った」男だということを登は認めた。
「保本、――」と去定が云った、「竹造といっしょにさがっていろ、手出しはならんぞ」
「それはいけません、先生」
「いや構うな」と去定は登を遮った、「おれは大丈夫だからさがっていろ、ええ、さがっていろというんだ」
登と竹造は脇へさがった。登は足ががくがくし、唾がのみこめなくなった。竹造を見ると、怒りのためだろう、顔が赤くふくれていたが、不安そうなようすはみえなかった。
「やいじじい」と裸の男が云っていた、「年を考げえて引込んだらどうだ、いまのうちなら見逃がしてやるが、へたに意地を張ると一生片輪者になるぜ」
「きさまこういう地口を知っているか」と去定は云った、「医者と
裸の男、たぶんこの中のあにき分だろうか、ふんとせせら笑いをしながら、みくびったようすで去定のほうへ近よった。
「じじい」と彼は問いかけた、「てめえ本当にやる気なのか」
「よしたほうがいい」と去定が云った、「断わっておくがよしたほうがいいぞ」
男は突然、去定にとびかかった。
登はあっけにとられ、口をあいたまま茫然と立っていた。裸の男がとびかかるのははっきり見たが、あとは六人の躯が
「さあ云え」と去定は組伏せた男――それはあにき分とみえる裸の若者だったが、その男の首を片手で責めながら云った、「誰に頼まれてした、誰だ、云え、云わぬとこのまま絞めおとすぞ」
男はぜいぜいと
「誰だと、はっきり云え」
「
井田
「それに相違ないだろうな」
「ほかにもいます」男は起き直って、苦しそうに
「それも医者か」
男は頷いて
「わかった、もうよせ」と去定が遮った、「きさま立って、その辺から板切れを二三枚捜して来い」
幅と長さはこのくらい、と去定は手で寸法を示し、男はよろよろ立ちあがった。
去定はのびている四人を診てまわった。二人は腕が折れてい、一人は気絶、一人は
「少しやりすぎたようだな、うん」手当をしながら、去定はしきりに
登は竹造を見た。
「初めてじゃありませんよ」と竹造は吃りながら囁いた、「こいつらの知らないほうがふしぎなくらいです、まえに幾度もありましたよ」
登は嘆息しながら首を振った。
「よし、伴れてゆけ」去定は立ちあがって、裸の男に云った、「これは仮の手当だ、井田のところへ伴れていってやり直してもらえ」
「しかし」とその男は渋った、「こういうことになった以上、まさか井田先生のところへは、どうも」
「いやなら養生所へ来い」と去定は云った、「傷の手当だけではなく、仕事が欲しければ仕事の相談もしよう、いつまでやくざでいられるものじゃあないぞ」
「へえ」と男は頭を
「少し度が過ぎたようだ」と去定がまた云った、「勘弁してくれ」
そして登に振向いて、歩きだした。
「かなしいものだ」
「なにがですか」と登は挑みかかるように反問した、「井田親子は養生所の医員ではありませんか、養生所医員という看板で町医を稼ぎながら、あんなやくざ者を使ってまで」
去定は手をあげて制止した、「井田のことはべつだ、井田親子のことはやがて始末をつける、おれはほかの二人、荒巻とか石庵とかいう者のことを考えたのだ」
「その二人にしろ、非道な点に変りはないでしょう」
「だが、かれらもまた、人間だ」くたびれはてたような口ぶりで、去定は云った、「かなしい
「しかしそれは理屈に合っていません」
「おれにはわからない、まるでわからない」と去定は首を振った、「おれには理屈などはどうでもいい、かれも人間、これも人間、かれも生きなければならないしこれも生きる権利がある、ただ、どこかでなにかが間違っている、どこでなにが間違っているのか、――ふん、おれの頭はすっかり
登は喉でくすっといった。すっかり老耄れたという言葉が、(意味は違うにせよ)さっき六人のならず者を投げとばした、豪快な姿を思いださせて、ふと
「いや、なんでもありません」と登は首を振りながら云った、「なんでもありません」