赤ひげ診療譚

狂女の話

山本周五郎





 その門の前に来たとき、保本登やすもとのぼるはしばらく立停って、番小屋のほうをぼんやりと眺めていた。宿酔ふつかよいで胸がむかむかし、頭がひどく重かった。
「ここだな」と彼は口の中でつぶやいた、「小石川養生所ようじょうしょか」
 だが頭の中ではちぐさのことを考えていた。彼の眼は門番小屋を眺めながら、同時にちぐさのおもかげを追っていたのだ。背丈の高い、ゆったりしたからだつきや、全身のやわらかいながれるような線や、眼鼻だちのぱちっとした、おもながで色の白い顔、――ちょっとどこかに手が触れても、すぐに頬が赤らみ、眼のうるんでくる顔などが、まるで彼を招きよせでもするように、ありありと眼にうかぶのであった。
「たった三年じゃないか」と彼はまたつぶやいた、「どうして待てなかったんだ、ちぐさ、どうしてだ」
 一人の青年が来て、門のほうへゆきながら、振向いて彼を見た。服装と髪のかたちで、医師だということはすぐにわかる。登はわれに返り、その青年のあとから門番小屋へ近づいていった。彼が門番に名を告げていると、青年が戻って来て、保本さんですかと問いかけた。彼はうなずいた。
「わかってる」と青年は門番に云った、「おれが案内するからいい」
 そして登に会釈して、どうぞと気取った一揖いちゆうをし、並んで歩きだした。
「私は津川玄三げんぞうという者です」と青年があいそよく云った、「あなたの来るのを待っていたんですよ」
 登は黙って相手を見た。
「ええ」と津川は微笑した、「あなたが来れば私はここから出られるんです、つまりあなたと交代するわけなんですよ」
 登はいぶかしそうに云った、「私はただ呼ばれて来ただけなんだが」
「長崎へ遊学されていたそうですね」と津川は話をそらした、「どのくらいいっておられたんですか」
「三年とちょっとです」
 登はそう答えながら、三年、という言葉にまたちぐさのことを連想し、するどく眉をしかめた。
「ここはひどいですよ」と津川が云っていた、「どんなにひどいかということは、いてみなければわかりませんがね、なにしろ患者はのみしらみのたかった、腫物はれものだらけの、臭くて蒙昧もうまいな貧民ばかりだし、給与は最低だし、おまけに昼夜のべつなく赤髯あかひげにこき使われるんですからね、それこそ医者なんかになろうとした自分をのろいたくなりますよ、ひどいもんです、まったくここはひどいですよ」
 登はなにも云わなかった。
 ――おれは呼ばれて来ただけだ。
 まさかこんな「養生所」などという施療せりょう所へ押しこめられる筈はない。長崎で修業して来たから、なにか参考にかれるのだろう。この男は誤解しているのだ、と登は思った。
 門から五十歩ばかり、小砂利を敷いた霜どけ道をいくと、その建物につき当った。すっかり古びていて、玄関のひさしゆがみ、屋根瓦はずれ、両翼の棟はでこぼこに波を打っていた。津川玄三は脇玄関へいき、履物を入れる箱を教え、そこから登といっしょにあがった。
 廊下を曲っていくとたまり場があって、そこに人がいっぱいいた。診察を待つ患者たちであろう、中年以上の男女と子供たちで、みんな貧しいみなりをしているし、あたりはごみ溜か、腐敗した果物でもぶちまけたような、刺戟しげき的な匂いが充満していた。
「かよい療治の連中です」と津川は鼻のさきを手で払いながら云った、「みんな無料で診察し投薬するんです、生きているより死んだほうがましな連中ですがね」そしてひどく渋い顔をし、片万へ手を振った、「こちらです」
 渡り廊下をいって、右へ曲ったとっつきの部屋の前で、津川は立停って自分の名をなのった。部屋の中から、はいれという声が聞えた。よくひびくいんの深い声であった。
「赤髯です」と津川はささやき、登に一種の眼くばせをして、それから障子をあけた。
 そこは六じょうを二つつなげたような、縦に長い部屋で、向うに腰高窓があり、左右は三段の戸納とだなになっていた。古くて飴色あめいろになった樫材かしざいのがっちりしたもので、上の二段は戸納、下段は左右とも抽出ひきだしになっている。もちろん薬がしまってあるのだろう、抽出の一つ一つに、薬品の名を書いた札がってあった。――窓は北向きで、すすけた障子が冷たい光に染まっており、その光が、こちらへ背を向けた老人の、たくましく広い背や、灰色になった蓬髪ほうはつをうつしだしていた。
 津川玄三が坐って挨拶をし、保本登を同道したことを告げた。老人は黙ったまま、小机に向かってなにか書いていた。鼠色の筒袖のあわせに、同じ色の妙なはかまをはいている。袴というよりも「たっつけ」というほうがいいだろう、腰まわりにちょっとひだはあるが、すねのほうは細く、足首のところはきっちりひもでしめてあった。
 その部屋には火桶ひおけがなかった。北に向いているので、のあたることもないのだろう、薬臭い空気はひどく冷えていて、坐ったひざの下から、寒さが全身にのぼってくるように感じられた。やがて、老人は筆をいて、こちらへ向き直った。額の広く禿げあがった、角張った顔つきで、口のまわりからあごへかけてびっしり髯が生えている。俗に「長命眉毛」といわれる、長くて濃い眉毛の下に、ちから強い眼が光っていた。「へ」の字なりにむすんだ唇と、その眼とは、犬儒派のような皮肉さと同時に、小児のようにあからさまな好奇心があらわれていた。
 ――なるほど赤髯だな、と登は思った。
 実際には白茶けた灰色なのだが、その逞しい顔つきが、「赤髯」という感じを与えるらしい。年は四十から六十のあいだで、四十代の精悍せいかんさと、六十代のおちつきとが少しの不自然さもなく一躰いったいになっているようにみえた。
 登は辞儀をし、名をなのった。
新出去定にいできょじょうだ」と赤髯が云った。
 そして登を凝視した。まるできりでもみこむような、するどい無遠慮な眼つきで、じっと彼の顔をみつめ、それから、きめつけるように云った。
「おまえは今日から見習としてここに詰める、荷物はこっちで取りにやるからいい」
「しかし、私は」と登はどもった、「しかし待って下さい、私はただここへ呼ばれただけで」
「用はそれだけだ」と去定はさえぎり、津川に向かって云った、「部屋へれていってやれ」


 保本登は医員見習として、小石川養生所に住みこんだ。
 彼はまったく不服だった。彼は幕府の御番医になるつもりで、長崎へ遊学したのであるし、江戸へ帰れば御目見医おめみえいの席が与えられる筈であった。彼の父は保本良庵りょうあんといって、麹町こうじまち五丁目で町医者をしているが、その父の知人である幕府の表御番医、法印天野源伯ほういんあまのげんぱくが登の才を早くから認めてい、登のために長崎遊学の便宜もはからってくれたし、御目見医に推薦する約束もしてくれたのであった。
 登はそのことを津川玄三に話した。
「そんなうしろだてがあるのにこういうことになったとすると」津川はそう云いかけたが、そこでなにかを暗示するように笑った、「――まああきらめるんですね、あなたの来ることは半月もまえにわかっていたし、どうやらあなたは赤髯に好かれたらしいですからね」
 津川は彼を部屋のほうへ案内した。
 それは新出の部屋の前をいって、左へ曲った廊下の右側にあり、同じような小部屋が三つ並んでいた。津川はまずその端にある部屋へよって、同じ見習の森半太夫を彼にひきあわせた。半太夫は二十七八にみえるせた男で、ひどく疲れたあとのような、陰気な、力のない顔つきをしていた。
「おうわさは聞いていました」と半太夫はなのりあったあとで云った、「ここは相当きついですがね、しかし、そのつもりになれば勉強することも多いし、将来きっと役にたちますよ」
 半太夫の声はやわらかであったが、剃刀かみそりを包んだ綿のような感じがしたし、よく澄んだ穏やかな眼の奥にも、やはり剃刀をひそめているようなものが感じられた。そうして、半太夫がまったく津川を無視していることに、登は気づいた。津川の云うことには返辞もせず、そっちへ眼を向けようともしなかった。
相模さがみのどこかの豪農の二男だそうです」と津川は廊下へ出てからささやいた、「私とは気が合わないんですが、彼はなかなか秀才なんですよ」
 登は聞きながした。
 森の隣りが津川、その次が登の部屋であった。どの部屋も六帖であるが、窓は北に向いていてうす暗く、畳なしの床板に薄縁うすべりを敷いただけという、いかにもさむざむとした感じだった。窓の下に古びた小机があり、がまで編んだ円座えんざが置いてある。片方はひび割れた壁、片方は重たげな板戸の戸納とだなになっていた。
「畳は敷かないんですか」
「どこにも」と津川は両手をひろげた、「医員の部屋もこのとおりです、病棟も床板に薄縁で、その上に寝具を敷くというわけです」
 登は低い声でつぶやいた、「牢屋ろうやのようだな」
「みんなそう云いますよ、ことに病棟の患者たちがね」と津川は皮肉に云った、「かれらは貧民だし、施療院へはいったというひけめがあるから特にそういう感じがするんでしょう、おまけに着物まであれですからね」
 登は赤髯の着ていたものを思いだし、森半太夫も同じ着物を着ていた、ということを思いだした。訊いてみると、医員は夏冬ともぜんぶ同じ色の同じ仕立であるし、病棟の患者は白の筒袖にきまっている。それは男女とも共通で、子供の着物のように付紐が付いており、付紐を解けばすぐ診察ができるように考えられたものだという。だが患者たちはそれを好まない、床板に薄縁という部屋の造りと共に、どうしても牢屋の仕着しきせのような感じがする、という不平が絶えないそうであった。
「昔からの規則ですか」
「赤髯どのの御改革です」津川は肩をゆすった、「彼はここの独裁者でしてね、治療に関しては熱心でもあるしいい腕を持っています、大名諸侯や富豪のあいだにも、ひじょうな信頼者が少なくないんですが、ここではあまりに独断と専横が過ぎるので、だいぶみんなから嫌われているようです」
「火鉢なども使わないとみえますね」
「病棟のほかはね」と津川が云った、「江戸の寒さくらいは、かえって健康のためにいいんだそうです、それに、病棟以外に炭を使うような予算もないそうでしてね、――ちょっとひと廻りしてみましょう」
 二人は部屋を出た。
 番医の詰める部屋からはじめて、かよい療治の者を診察する表部屋、薬の調合をする部屋、入所患者のための配膳所、医員の食堂じきどうなどを見たあと、津川は南の口から、庭下駄をはいて外へ出た。
 南の口というのは、渡り廊下の角にあり、そこを出るとすぐ向うに炊事場が見えた。瓦葺かわらぶきの、三十坪ちかくありそうな平屋の建物で、屋根を掛けた井戸が脇にあり、四五人の女たちが菜を洗っていた。漬け物にでもするのであろう、洗って山と積まれた菜の、白い茎と緑とが、朝の日光をあびて、眼のさめるほどみずみずしく新鮮にみえた。


 津川はその女たちの一人を指さして云った。
「右から二番目に黄色いたすきをかけた娘がいるでしょう、いま菜を積んでいる娘です、お雪というんですがね、森先生の恋人なんですよ」
 登は無関心な眼でその娘を見た。
 そのとき、病棟のほうから、十八九になる女が来て、津川に呼びかけた。品のいい顔だちで、身なりや言葉づかいが、大きな商家の女中という感じであった。いそいで来たのだろう、息をはずませ、顔も赤らんで緊張していた。
「またさしこみが起こったのですけれど」とその女はせきこんで云った、「薬が切れてしまってないんですの、すみませんがすぐに作っていただけないでしょうか」
「新出先生に頼んでごらん」と津川は答えた、「あの薬は先生のほかに手をつけることはできないんだ、先生はお部屋にいるよ」
 その女はちらっと登を見た。登の視線を感じたからだろう、登を斜交はすかいにすばやく見て、さっと頬を染めながら会釈をし、南の口のほうへ小走りに去った。
 津川は登をうながして歩きだした。南の病棟にそっていくと、横に長く二百坪ほどの空地があり、その向うはさくをまわした薬園になっていた。ここは元来が「小石川御薬園」といって、幕府直轄の薬草栽培地であり、一万坪ほどの栽園が二つ、道をはさんで南北にひろがっていた。養生所は南の栽園の一部にあるのだが、このあたりは高台の西端に当るため、薬園の高いところに立つと、西にひらけた広い展望をたのしむことができた。
 栽園は単調だった。冬なので、薬用の木や草本そうほんは殆んど枯れており、わらで霜囲いをした脇のところに、それぞれの品名を書いた小さな札が立ててあった。霜どけでぬかる畦道あぜみちをいくと、係りの園夫たちが幾人かで、土をひろげたりかぶせてある藁を替えたりしてい、津川を見るとみな挨拶をした。津川はかれらに登をひきあわせ、かれらは登に向かって、自分たちの名を鄭重ていちょうになのった。大きなからだの、肥えた老人が五平。枯木のようにひょろ長い、無表情な若者が吉太郎、そのほか次作、久助、富五郎などという名を、登は覚えた。
「五平のぐあいはどうだ」と津川は五平に訊いた、「まだやれないか」
「そろそろというところでしょうな」と老人は肥えた二重顎ふたえあごを指できながら、うっとりしたように眼を細めて、うなずいた、「さよう、まあそろそろというところでしょう」
「おれはこの月いっぱいでやめるんだが、それまでに味がみたいもんだな」
「さてね」と老人は慎重に云った、「たぶんよかろうとは思うが、さて、どんなものかね」
「そのうちに小屋へいってみるよ」
 津川はそう云ってそこをはなれた。
「えびづる草の実で酒をつくっているんです」と歩きながら津川が云った、「色は黒いし舌ざわりもちょっと濃厚すぎるが、うまい酒です、赤髯が薬用につくらせるんですがね、そのうちにいちどためしてみましょう」
 薬園を出ると、津川は北の病棟のほうへ向かった。
 そちらには風よけのためだろうか、大きなしいや、みずならや、椿つばきや、松や杉などの林があり、ふかい竹やぶなどもあったが、その竹やぶに囲まれるように、新らしく建てられたらしい、一と棟の家があった。津川はその家のほうへ近よろうとしたが、気が変ったとみえ、頭を振りながらとおりすぎた。
「さっきのお杉、――南の口のところで会った女ですが」と津川は歩きながら云った、「あれはいまの家にいるんですよ、病気の女主人に付添っているんですがね」
「あの家も病室ですか」
「娘の親が自費で建てたんです、娘というのが特別な病人でしてね」
 津川はかわいたような声で話した。
 身許みもとは厳秘になっているのでわからないが、相当な富豪の娘らしい。年は二十二か三くらいになるだろう。名はゆみといい、縹緻きりょうもめだつほうである。発病したのは十六の年で、初めは狂気とはわからなかった。婚約のきまっていた男があり、それが急に破約してほかの娘と結婚し、そのために一年ほど気鬱症のようになった。それが治ったと思われるころ、店の者を殺したのである。そこでは十七八人も人を使っているのだが、二年ばかりのあいだに三人、一人はあぶないところを助かったが、若い二人はゆみのために殺されてしまった。
「それがただ殺すだけでないんです、いろじかけで、男の自由を奪っておいてからやるんですよ」と津川は唇をめた、「あぶなく助かった男の話なんですがね、初めに娘のほうから恋をしかけて、男に寝間へ忍んで来させる、それから相当ないろもようがあるらしいんだが、すっかり男がのぼせあがって、無抵抗な状態になったとき、かんざしでぐっとやるんだそうです」
 登は眉をひそめ、低い声でそっとつぶやいた、「男に裏切られたことが原因なんだな」
「赤髯のみたては違います」と津川がまた唇を舐めて云った、「一種の先天的な色情狂だというんです、狂気というよりも、むしろ狂的躰質だと赤髯は云っていますよ」
 登の頭に殺人淫楽いんらく、という意味の言葉がうかんだ。長崎で勉強したときに、和蘭オランダの医書でそういう症例をまなんだ。日本にも昔からあったといって、同じような例を幾つか指摘されたし、その筆記もとっておいた。
 親のちからもあったろうが、娘は罪にならなかった。殺された相手は店の使用人であり、主人の娘の寝間へ忍びこんだうえ手ごめにしようとした。表面はそのとおりだし、死人に口なしでそのままにすんだ。しかし三人めの手代が命びろいをして、初めて事情がわかり、新出去定が呼ばれた。去定は座敷牢を造って檻禁かんきんしろと云った。さもなければ、必ず同じようなことがくり返し行われるだろう。ほかの狂気とちがって色情から起こるものであり、その他の点では常人と少しも変らないから、檻禁する以外にふせぎようはないと主張した。しかし、家族や使用人の多い家なので、座敷牢を造ったり、そこへ檻禁したりすることは世間がうるさい。養生所の中へ家を建てるから、そちらで治療してもらえまいか、と親が云った。娘の狂気が治るにしろ、不治のまま死ぬにしろ、その建物は養生所へそのまま寄付するし、入費はいくらでも出す。そういうことで、一昨年の秋に家を建て、お杉という女中を伴れて、娘が移って来たのであった。
「あの建物は全体が牢造りなんです」と津川は云った、「中は二た部屋に勝手があって、炊事も洗濯もぜんぶお杉がやるんです、必要な日用の品は、三日にいちどずつ実家から持って来るんですが、お杉がかぎを持っていて、家の中へは誰もいれないし、娘も一人では決して外へ出しません、あの家へはいるのは赤髯だけですよ」
「治療法があるんですか」
「どうですかね」と津川は首を振った、「治療というよりもときどき起こる発作のほうが問題らしいですよ、そのために赤髯が特に調合をした薬をやるんですが、そうそう、さっきお杉が取りに来たのがその薬なんだが、赤髯は絶対にほかの者には調合させないし、ひじょうに効果のいい薬らしいですよ」
 殺人淫楽、と登は心の中で思った。それが躰質であり先天性のものだとすると、娘の犯したことは娘の罪ではない。不手際に彫られた木像の醜悪さが、木像そのものの罪ではないように。
 ――だがちぐさの場合はちがう。
 ちぐさはまったく正常な娘だった。登はそう思いながら唇をんだ。
「可哀そうなのはお杉です」と津川は続けていった、「それが奉公だからやむを得ないにしても、こんな養生所の中で牢造りの家に住み、気の狂った娘の世話をしてくらすなんて、しかもいつ終るか見当もつかないことですからね」
「奉公人ならやめることもできるでしょう」
「いや、やめないでしょう、あの娘は心の底から主人に同情しています、同情というより愛情というべきかもしれないが」津川は首を振り、太息といきをついた、「ここを出ていくのに少しもみれんはないが、お杉に会えなくなるのがちょっと残り惜しいですよ」
 登はつい先刻、お杉が顔を赤らめたことを思いだした。


 お杉が顔を赤らめたのは津川のためではない。津川はお杉と親しいような口ぶりをみせたが、お杉のほうではなんとも思ってはいなかったのだ。初めて南口の外で会ったとき、お杉が頬を染め、恥らいのまなざしで会釈したのは、登がみつめていることに気づいたからである。――お杉と親しくなったあとで、登はそれらのことをお杉の口から聞いた。
 登はお杉と親しくなり、やがて、人に隠れて逢うようにさえなったが、あとで考えると純粋な気持ではなかった。自分にふりかかったいろいろな事情で、ひどくしらけた、やけなような気持になっていて、不平を訴える相手が欲しかったのと、ゆみという娘の病状に興味をもったため、というほうが当っているかもしれない。それにはお杉はもっともいい相手だった。登は養生所などへ入れられた不満を語り、ちぐさのことまでも話すようになった。彼女にはそんなうちあけ話をさせるような、しんみな温かさとやすらかさが感じられたのである。
「私は決してかれらの思うままにはならない」と彼はお杉に云った、「これは狡猾こうかつに仕組まれたことなんだ、私はかれらに手を焼かせてやる、がまんをきらせたかれらが、どうか出ていってくれと頼むようにさせてやるつもりだ」
「そうでしょうか」とお杉は不得心らしく首をかしげた、「あたしそのお嬢さまのことと、ここへおはいりになったこととはかかわりがないように思いますけれど」
 お杉が自分の意見を述べるなどということは初めてなので、登はいぶかしげに彼女を見た。
「――どうして」と彼は訊き返した。
「お嬢さまがそういうことになったのなら、天野さまはそのお償いをなさる筈ですわ、償いをなさらないにしても、御目見医にするという約束だけは、多少むりでも守らなければならなかったと思います」
 それは二月下旬の夜、登がお杉とはじめてゆっくり話したときのことなのだ。
 ゆみたちの住居から十けんほど離れた、竹藪たけやぶの前に腰掛がある。腰掛は入所患者のために、陽当りのいい場所に七つあるが、その竹藪の前にある腰掛はゆみのために設けたもので、屋根を掛けたあずまやづくりになっており、夜などは人の近づくこともなかった。――その夜、登は新出去定とやりあったあと、園夫の吉太郎に酒を買って来させ、部屋で飲んでいたのだが、どうにもやりきれなくなって出て来た。そしてその腰掛で、ふくべに詰めて来た酒を飲んでいると、お杉があらわれたのだ。彼女はゆみのおかゆを始末したあとで、ふと登がそこにいるような気がしたから、ちょっとようすをみに来たのだという。――ゆみ半刻はんときほどまえに発作を起こしたが、いつもの薬を飲んで熟睡したから、鍵を掛けて出て来た、ともお杉は云った。登はそれを、ゆっくりしていってもいい、という意味にうけとり、酔ってもいたので、そんな話までしはじめたのであった。
「おまえさんは気がいいからそんなふうに思うんだ」と彼は云った、「かれらがそんなに律儀なもんか、おれが世間にいては面倒が起こる、ここへ入れてしまえば手数が省けると思ってやった仕事だ、おれにはちゃんとそのからくりがわかっているんだ」
「でもあなたをここへお呼びした事は、去定先生だと思うんですけれど」
 登は瓠の口からまた飲んだ。
「先生はずっとまえから、ここにはもっといい医者が欲しい、ほかのどんなところよりも、この養生所にこそ腕のある、本気で病人を治す医者が欲しい、っておっしゃっていましたわ」
「それなら私を呼ぶ筈はないさ、いい医者になるには学問だけではだめだ、学問したうえに時間と経験が必要だ、おれなんかまだひよっこも同然なんだぜ」
 そこで彼はふいにうんとうなずいた、「うん、おれを呼んだ理由は一つある、それで私は赤髯どのとやりあった」
「まあ、あなたまでが赤髯だなんて」
「赤髯でたくさんだ」と彼は吐き捨てるように云った。
 その日の夕飯のあとで、新出去定は登を呼び、長崎遊学ちゅうの筆記や図録を提出するように、と云った。登はこばんだ。彼は蘭方らんぽう医学の各科をまなんだが、特に本道(内科)ではずいぶん苦心し、自分なりに診断や治療のくふうをした。それは彼自身のものであり、彼だけの会得した業績なのだ。そしてその筆記類や図録は、彼の将来を約束するものであって、他に公開することは、その価値を失う結果になるだけであった。
 ――内障眼そこひの治療だけで名をあげ、産をなした医者さえあるではないか。
 自分の医術はもっと新らしく、ひろく大きな価値がある。これは自分の費用と、自分の努力とでかち得たものだ。他人にみせるいわれもないし、義務もない筈である、と登は云った。けれども去定はうけつけなかった。
 ――断わっておくが、ここではむだな口をきくな。
 去定はきめつけるようにそう云った。
 ――筆記と図録はぜんぶ出せ、用事はそれだけだ。
 登はそうするよりしかたがなかったことをお杉に話した。
「もし本当に赤髯が私を呼んだのだとすれば、たしかにあれが理由の一つだ」と登は瓠をでながら云った、「だから彼はこれまで私に構わなかった、私があのお仕着を着ず、なにもしないで遊んでいても、まるっきり知らない顔をしていたんだ」
「あなたは酔っていらっしゃるわ」
「酔っているものか、ただ飲んでいるだけのことだ」登はまた飲んだ、「禁じられているから飲むんだ、ここで禁じられていることならなんでもやるつもりだ」
「もうおよしなさいまし」お杉は瓠を取ろうとした、「酔ってそんなことを云う方は嫌いです」
 瓠を取ろうとしたお杉の手を、登のほうで乱暴につかんだ。ひんやりと温かく、なめらかな手だった。お杉は避けようとはせず、つかまれたままじっとしていた。星の明るい夜で、かなり暖かく、薬園のほうから沈丁花がにおって来た。
「おれを嫌いか」と登がささやいた。
 お杉はおちついた声で云った、「酔ってそんなことを仰しゃるあなたは嫌いです」
 登は少し黙っていて、それからお杉の手を放した。
「じゃあ帰れ」
「その瓠をあたしに下さい」とお杉が云った、「明日までお預かりしますわ」
「放っとけ」と登は一と口飲んでから云った、「あの気違い娘の世話だけで充分だろう、おれのことなんかに構うな」
 お杉は彼の手から瓠を取りあげた。力のこもったすばやい動作で、登はよけることができなかった。お杉は腰掛から立ち、これは明日お返しするからと云って、住居のほうへ去っていった。登は黙ったまま、去っていくお杉の草履の音を聞いていた。


 そのことがあってから、登はさらにお杉と親しくするようになった。
 彼は決して見習医にはならないつもりだった。見ているだけでも、ここの生活はうす汚なく、活気がなく、そして退屈だった。俗に施薬院といわれるこの養生所の支配は「肝煎きもいり」といい、小川氏の世襲であって、幕府から与力が付けられていた。小川氏はべつに屋敷があるが、表の建物にその詰所があり、そこで与力と共に会計その他の事務をとっていた。そのころ、番医の定員は五人で、これらの詰所は病棟のほうに属し、表の建物とは渡り廊下でつながっていた。
 番医のうち、新出去定が医長、その下に吉岡意哲いてつ、井田五庵ごあん、井田玄丹げんたん、橋本玄録げんろくらがおり、本道、外科、婦人科を分担していた。井田は父と子で、下谷御徒町したやおかちまちで町医をやっているし、ほかに嘱託で通勤する町医が三人から五人くらいあった。――見習医は二人、これと新出医長だけが定詰じょうづめで、入所している患者の治療は、殆んどこの三人に任されたようなかたちだったし、かよって来る患者に対しても、他の医員たちは熱意がなく、治療のやりかたも形式的な、投げやりなものが多いようであった。
 病棟は北と南の二た棟あり、病室は各棟に十帖が三、八帖が二、重症用の六帖が二た部屋ずつ付いていた。そのとき入所していた患者は三十余人、老人や女が多く、外傷でかつぎこまれたり、行倒れで収容された者などもいた。――津川玄三が云ったとおり、病室もすべて板張りに薄縁で、その上に夜具を敷くのであるが、薄縁は五日め、夜具は七日めごとに取替えて、日光と風に当てるきまりだった。また、患者たちは老若男女のべつなく、白い筒袖の木綿の着物を与えられるが、それは付紐で結ぶようになっていて、女でも帯をしめるとか、色のある物を身につけることは許されなかった。
 ――いくら施薬院だからって、畳の上に寝かせるぐらいのことはしてくれてもよかりそうなもんだ。
 患者たちはそう云いあっていた。
 ――自分が持っているんだから、女にだけでも色のある物を着させてくれればいい、これではまるでお仕置人みたようじゃないの。
 そんな不平も絶えなかった。
 こういう不平や不満は、すべて新出去定に向けられていた。これらは去定の独断できめられたものであるし、また治療に当っても、去定のやりかたは手荒く、言葉も乱暴なため、患者たちはびりびりしていたし、反感をもつ者も少なくないようにみえた。そのうえ去定はよく外出をする。大名諸侯や富豪の家から招かれるほかに、自分の患家を持っていて、その治療にもまわるらしい。そういうときには二人の見習医員が留守を任されるのだが、番医や嘱託医のいるうちはいいけれども、かれらは通勤だから、夜などに急を要する病人があったりすると、見習医では手に負えないようなこともまれではなかった。
 津川玄三が去ってからまもないころ、登は森半太夫に呼ばれて、入所患者の手当をしたことが三度ばかりあった。呼ばれたので病室までは森といっしょにいったが、登は見ているだけでなにもしなかった。半太夫もしいて手伝えとは云わなかったが、三度めのときだったろう、手当をすませて病室を出ると、登を廊下でひきとめて、どういうつもりかと、呼吸を荒くして問いかけた。
「どういうつもりなんです」と半太夫は登をにらみつけた、「いつまでそんなことを続けているつもりなんですか」
「そんなこととはなんです」
「そのつまらない反抗ですよ」と半太夫が云った、「人の気をひくような、そんな愚かしい反抗をいつまで続けるんです、そのために誰かが同情したり、新出先生があやまったりするとでも思うんですか」
 登は怒りのために声が出なかった。
「よく考えてごらんなさい」と半太夫はひそめた声で云った、「損をするのは誰でもない、保本さん自身ですよ」
 登は半太夫を殴りたかった。
 森半太夫が去定に心酔していることは、登にも早くから見当がついていた。彼は相模在の豪農の二男だと、津川から聞いたことがある。おそらく、田舎者にとっては幕府経営の施療所や、その医長である新出去定などが、輝かしく、崇敬すべきものにみえるのであろう。ばかなはなしだ、と登は思って、半太夫とは殆んど口もきかずにいた。それが思いがけないときに、いきなり辛辣しんらつな皮肉をあびせられたので、殴りつけるのをがまんするのが登には精いっぱいであった。
 彼はそのときのことはお杉にも話さなかった。半太夫には田舎者らしい律儀さがあって、所内の者や患者たちにも好かれているようだし、お杉もときどき褒めるようなことを云った。――賄所まかないじょと呼ばれる炊事場に、お雪という娘がいて、あれが半太夫の恋人だと、津川に教えられたことがあったが、お杉の話によると、お雪のほうが片想いで、半太夫はお雪を避けているということであった。
「あんなに夢中になれるものかしら」と或る夜、いつもの腰掛でお杉が云った、「見ていても可哀そうなくらいですわ、森さんのお堅いのは立派だけれど、お雪さんのことを考えると憎らしくなってしまいます」
「半太夫の話なんかよせ」と登はさえぎった、「それよりもおゆみさんのことを聞こう、おまえずっと付いていたんじゃないのか」
 お杉の声に警戒の調子があらわれた、「どうしてそんなことをお訊きになるんですか」
「医者だからさ」と彼は云った、「私は森なんぞと違って蘭方を本式にやって来たんだ、赤髯だって知らない診断や治療法を知っているんだぜ」
「ではどうしてそれを、実際にお使いにならないんですか」
「こんな掃き溜のようなところでか」と彼は片手を振った、「私はこんな施薬院の見習医などにはならない、こんなところの医員になるつもりで修業したわけじゃないんだ」
「あなたはまた酔っていらっしゃるのね」
「話をそらすな」と彼は云った、「見習医なんかまっぴらだし、誰でもまにあう病気なんかに興味はない、けれども珍らしい病人がいれば、医者としてやっぱり手がけてみたくなる、ここではおゆみさんがその一例だ」
「あたし信じませんわ」
「信じないって、――なにを信じないんだ」
「みなさんの気持です」とお杉が云った、「お嬢さんの話になると、きまっていやらしいみだらな眼つきをなさるのよ、津川さんなんかいちばんひどかったけれど、去定先生のほかには一人だってまじめな方はいやあしませんわ」


 登は暗がりの中でお杉を見た。
「そういうことは知らなかった」と彼は云った、「――津川はなにをしたんだ」
「そんなこと云えませんわ」
「いいか、お杉さん」と彼は改まった調子で云った、「私は医者だし、新らしい医術をまなんで来た人間だ、詳しい症状がわかれば、赤髯とはべつな治療法があるかもしれない、話してみるだけでも、むだじゃあないと思わないか」
 お杉も彼を見返した、「まじめにそう仰しゃるのね」
「私のことはよく知っている筈だ」
「酔ってさえいらっしゃらなければね」とお杉は云った、「ようございます、この次のときにすっかりお話し申しますわ」
「どうしていま話さないんだ」
 登はお杉の手をつかもうとした。お杉はその手を避けて立ちあがり、くすっと忍び笑いをしながら云った。
「そういうことをなさるからよ」
「それとこれとはべつだ」
 登はすばやく立ってお杉を抱いた。お杉はじっとしていた。登は片手をお杉の背、片手を肩にまわして抱き緊めた。
「おれが好きなんだろう」
「あなたは」とお杉が訊き返した。
「好きさ」と云いざま、登は自分の唇でつよくお杉の唇をふさいだ、「好きだよ」
 お杉のからだから力がぬけ、柔らかく重たくなるのが感じられた。登は腰掛のほうへ引き戻そうとした。すると、お杉は彼の腕からすりぬけ、忍び笑いをしながらうしろへとびのいた。
「いや、そんなことをなさるあなたは嫌いよ」とお杉が云った、「おやすみなさい」
「勝手にしろ」と彼は云った。
 それから五六日お杉に逢わなかった。
 もう三月中旬になっていただろう、所内にある桜はどれも咲きさかり、栽園のほうでも薬用の木や草木が、おそいのもすっかり芽を伸ばしていたし、早いものは花を咲かせており、風がわたると、それらの花の強い匂いで、空気が重く感じられるようであった。――ひるめしのあとで、登が薬園のほうへ歩いていくと、洗濯の戻りのお杉に会った。少しはなれて歩きながら、どうして晩に来ないのかと訊くと、風邪をひいたのだと、お杉は答えた。もうよくなったから、今夜はゆくつもりだったと云ったが、そう云いながらも軽いせきをするし、すっかり声をらしていた。
「まだ咳が出るじゃないか」と彼が云った、「大事にするほうがいい、今夜でなくったっていいんだよ」
 お杉は微笑しながらなにか云った。
「よく聞えない」と彼は少し近よった、「どうしたって」
「今夜うかがいます」とお杉が答えた。
「むりをするな、薬はのんでいるのか」
「ええ、去定先生からいただいています」
「むりをしないほうがいい」と彼は云った、「私がのどの楽になる薬をつくってやろう」
 お杉は微笑しながらうなずいた。
 その日、食堂で夕めしをべていると、登に客だと玄関から知らせて来た。去定は外出してまだ帰らず、森半太夫は知らん顔をしていた。食事ちゅうに立つことは禁じられているので、登はどんな客だと問い返した。すると、客はまだ若い娘で、名は天野まさをだという返辞だった。
 ――天野、まさを
 登はその名にはっきりした記憶がなかった。けれどもすぐに見当がついた。ちぐさに妹が一人あった、まだほんの少女で、顔も殆んど覚えていないが、姓が天野であり、ここへ自分を訪ねて来たとすると、その妹にちがいないと思った。
 ――たぶんあの少女だろう。
 だがなんのために来たのか、と登は訝った。自分の意志で来たのか、それとも誰かのさしがねか、まるで推察することもできなかったし、うっかり会ってはいけないという気がした。
「部屋にいないと云ってくれ」と登は取次の者に云った、「私は会わないから、伝言があったら聞いておいてくれ」
 食事が終ったとき、取次の者が来た。ぜひ会いたいから待っていると云ったが、いま帰っていった。伝言はなく、また来ると云った、ということであった。この問答を、向うで森半太夫が聞いていた。茶をすすりながら、半太夫がさりげなく聞いていることを登は認め。乱暴に立ちあがって食堂を出た。
 登は園夫の吉太郎に酒を買わせた。痩せてひょろ長い躯の、気の弱い、その吃りの若者は、買いにいくのを渋った。――こうたびたびでは、いまにみつかって叱られる、と云いたかったらしい。だがひどい吃りで、なかなか思うように口がきけないし、登がどなりつけると、閉口して、頭を掻きながら出ていった。
「妹娘などをよこして、こんどはなにを企もうというんだ」と彼は独りでつぶやいた、「やってみろ、こんどはそううまくだまされはしないぞ」
 酒が来ると、登はそれをひやで飲み、かなり酔ってから、残りを徳利とっくりのまま持って出た。
 気温の高い夜で曇っているのだろう、空には月もなく、星も見えなかった。空気は土の匂いと花のかおりとで、かすかにあまく、重たく湿っており、それがときをきって強く匂うように感じられた。暗いのと、酔っていたからだろう、彼は腰掛の前を知らずにとおりすぎて、うしろからお杉に呼びとめられた。
「来ていたのか」と云いながら、彼はそっちへ戻った。
「お嬢さんが寝ましたから」とお杉がようやく聞きとれるほどのしゃがれ声で云った、「――どうなさいました」
「つまずいたんだ」彼はちょっとよろめいて、どしんと腰掛に掛けた、「ここへ来いよ」
 お杉ははなれて腰を掛け、なにか云った。
「聞えない」と彼は首を振った、「その声じゃあ聞えやしない、もっとこっちへ来いよ」
 お杉は少しすり寄った。
「さあこれ」と彼はたもとから薬袋を出してお杉に渡した、「せんじてのむんだ、煎じ方は書いてある、これで喉は楽になる筈だ」
 お杉は礼を述べてから云った、「お酒を持っていらしったんですか」
「ほんの一と口さ、飲み残りだ」
「あたしも持って来ました」
「なんだって」彼はお杉のほうへ耳をよせた。
「あなたのふくべ」とお杉は云って、持っている瓠を見せた、「いつか預かったまま忘れていた瓠よ、お嬢さんのあがるおいしいお酒があるので、少し分けて持って来たんです」
「ああ、えびづる草の実でかもした酒だろう」
「ご存じなんですか」
「赤髯が薬用につくらせてるやつだ、いつか五平の小屋で味をみたことがあるよ」と云って彼は瓠を受取った、「しかしおまえが酒を持って来てくれるなんて、珍らしいじゃないか」


 登は瓠の口からその酒を飲んだ。それはこっくりと濃くて、ほのかに甘く、そして薬の匂いがした。まだ津川がいたときに、五平のところへいって味わったことがある。湯呑に一杯だけであったが、あまりに濃厚な味で、それ以上は飲めなかった。いまは酔っているのと、酒とは変った舌ざわりのためだろう、このまえよりも美味うまく感じられて、お杉の話を聞きながら、知らぬまにかなり飲んだ。
 彼女はおゆみの話をしたのだ。
「本当のことをいうと、去定先生のみたても違うと思うんです、お嬢さんは気違いなんかではありません、それはあたしがよく知っています」とお杉は云った、「あなたはまじめに聞いて下さるんでしょうね」
「正直に、すっかり話すならね」と彼は云った、「だが今夜でなくってもいいぜ」
「酔っていらっしゃるからね」
「その声では辛かろうというんだ」
「あたしは平気です、却ってこのほうが他人の声のようで話しいいくらいよ」と云ってお杉はまた念を押した、「本当にまじめに聞いて下さいましね」
 登は片手を伸ばしてお杉の手を握った。お杉は手を預けたままで話した。
 お杉が奉公にあがったとき、おゆみは二つ年上の十五歳であった。三人の姉妹の長女で、二女が十二、三女が七つ。おゆみだけ母が違っていた。おゆみの母は死んだのではなく、なにかの事情で離別されたか、自分で家出をしたかしたらしい。詳しいことは誰に訊いてもわからなかったが、母が違うということは、おゆみは幼ないときから勘づいていて、けれどもかくべつ気にもとめなかった。
 おゆみは妹たちより際立って美しく、勝ち気でおきゃんなところはあったが、思いやりのふかい性分で、みんなに好かれた。継母にも、二人の妹にも、親類や近所の人たちから、雇人のあいだでも好かれたし、頼りにされた。かれらが頼りにしたのは、おゆみが跡取りの娘だからであろう。彼女は十四の年、つまりお杉が奉公にあがるまえの年に、婿の縁談もきまっていた。
 こうして表面は無事に、平凡ながら仕合せに育ったが、おゆみ自身は早くから、人に云えない災難を経験していた。それはすべて情事に関するものであり、いちばん初めは九つのときのことだったという。
「あなたがお医者さまだから云えるんです」とお杉はしゃがれた声でささやいた、「そうでなければとてもこんなこと話せやあしません、そこをわかって下さいましね」
「わかってる」彼は頭がちょっとふらふらするのを感じた、「それに、子供どうしの悪戯わるさなんて珍らしいことじゃないよ」
 お嬢さんの場合は違うのだとお杉は云った。
 おゆみは九つのとき、三十幾つかになる手代に悪戯をされ、もしこのことを人に云ったら殺してしまう、とおどされた。自分のからだの感じた異様な感覚も、幼ないながら罪なことのように思われたし、人に云うと「殺してしまう」という言葉が、おゆみをかなしばりにした。その手代は半年ばかりして店を出されたが、出されるまで幾たびも同じようなことをし、そのたびに同じ威しの言葉をささやいた。それがおゆみの頭に深い傷のように残ったらしい、――手代が出されてから二年ほどたって、隣りの家の二十四五の若者に、手代とは変った仕方で悪戯をされた。隣りも大きな商家(何商ともお杉は云わなかった)で、土蔵が三戸前もあった。若者はそこの妻女の叔父だといい、事情があってその家の厄介になっていた。その家にはおゆみと同じ年の娘があり、よく遊びにったり来たりしていたのだが、或るとき、その家で隠れんぼをしていて、おゆみが土蔵の中へ隠れた。そこはふだん使わない物をしまっておくところで、古びた箪笥たんすや長持や、葛籠つづらなどが、並べたり積まれたりしてあり、まん中に畳が四帖敷いてあった。――おゆみがそこの、葛籠と長持の隙間に隠れるとまもなく、金網を張った雪洞ぼんぼりを持って、その若者がはいって来た。おゆみは鬼かと思ったが、そうではなかったので安心し、そっと声をかけた。若者はとびあがるほど吃驚びっくりした。
 ――あたしよ、とおゆみはささやいた。いま隠れんぼをしているの、鬼が来ても黙っててね。
 若者は承知した。彼は古い箪笥からなにかを出し、畳の上へ寝ころび、雪洞をひきよせて、なにかの本を読みはじめた。鬼はいちどのぞきに来たが、すぐに去ってしまい、やがて若者がおゆみを呼んだ。
 ――もう鬼は来ない、面白いものを見せてやるからおいで。
 おゆみはそっちへいった。若者はおゆみをそばに坐らせ、ひらいていた本をおゆみに見せた。それは絵のところであったが、どういう意味の絵であるのか、おゆみにはわけがわからなかった。こんなものがわからないのか、と若者が云った。よく見てごらん、もっとこっちへよるんだ。若者がさりげなくおゆみをひきよせた。おゆみはその絵に注意を奪われていて、若者のすることには気がつかなかった。そうしてやがて、いつか手代にされたのと似たようなことをされているのだ、と感じたおゆみは、おどろきよりも恐怖のために息が止まりそうになった。
 ――人に云うと殺してしまうぞ。
 そういう声がはっきり聞えたのである。手代の声のようでもあり、若者の声のようでもあった。土蔵の網の引戸は閉まっており、おゆみはその引戸に張ってある金網を見ていた。引戸のその金網は、おゆみをそこに閉じこめ、おゆみの逃げ道をふさぐようにおもえた。そうして、その金網の目がぼうとかすんで、手足がちぢむように感じたとき、おゆみは殆んど夢中で云った。
 ――あたしを殺すの。
 若者は笑った。それは殺すと云われるよりも、はるかにおそろしく、忘れることのできない酷薄な笑いであった。明日もおいで、と若者は云った。おゆみは云われたとおりにした。さもなければ殺される、と思ったからだ。
 若者がいなくなったあと、婿の縁談があるまでに、三人の男からそういう悪戯をされた。そのたびにおゆみは、金網の目がぼうとかすむのを感じ、殺してしまうという声を聞くように思った。縹緻よしでおきゃんで、思いやりがふかく、誰にも可愛がられ大事にされていながら、その裏側ではそういうおそろしい経験をしていたのである。
「それから婿のことが起こったんです」とお杉は続けた。
内祝言ないしゅうげんさかずきを交わし、来年は婿入りをするときまっていたのに、相手はその約束を反古ほごにして、よそへ婿にいってしまった、初めはわけがわからなかったけれど、まもなく噂が耳にはいりました」
 破談の理由はおゆみの生母にあった。
 母親は際立った美貌と、芸事の達者なのとで評判だったというが、おゆみを産んだ翌年、男が出来て出奔し、箱根で男に殺された。心中するつもりで、男だけ死におくれたともいうし、その男と夫婦になる筈だったのを、おゆみの父と結婚したから、その怨みで殺されたのだという話もあった。――どちらが事実であるかは問題ではない、おゆみの心をとらえたのは、男と女のひめごとが罪であるということ、それには必ず死が伴うということであった。
「殺される、殺される」とお杉は云った、「いつもそのことが頭にありました、女はいつか男とそうならなくてはならない、けれども自分がそうなったときには殺されてしまう、母が殺されたように、自分もきっと殺されるだろう、いつもその考えがつきまとっていました」
 登は一種のぞっとする感じにおそわれた。お杉の声が変っていたのである。少しまえから耳についていて、そのときはっきり気づいたのだが、その声はもうしゃがれていないし、話す調子もいつものお杉のようではなかった。
「これでおわかりでしょう」とお杉ではない声が云った、「男にそういうことをされかかると、ああ自分は殺されると思う、自分が悪いのではない、自分はこんなことは望まないのに、それでもこういうことをされ、そうして、そのあとできっと殺されるのだ」
 登は頭がくらくらとなった。
 ――おゆみだ。
 と思ったのである。彼は握っていた女の手を放そうとしたが、手は動かなかった。女はすりよって来て、片手を彼の首へ巻きつけた。登は叫んだ。しかし声は出なかったし、舌が動かなかった。
 ――お杉ではない、これはおゆみだ。
 彼は髪の逆立つような恐怖におそわれた。女は登を押えつけた。片手で首を抱き、ぴったりと胸を合わせ、口では話を続けながら、しだいに彼を仰向きに寝かせ、その上へやわらかにのしかかった。
「初めて店の者が寝間へ忍んで来たとき」と彼女は続けていた、「あたしは同じことを考えたのです、いよいよ自分は殺されるだろう、こんどこそ殺されるだろうって、――それで、あたしはかんざしを取りました、ごらんなさい、この釵です」
 彼女は片方の手を見せた。その手に平打ひらうちの釵が光るのを登は見た。逆手さかてに持ったその釵は銀であろうか、先のするどくとがった二本の足は、暗がりの中で鈍く光ってみえた。
「あたしは黙って待っていました」と彼女はささやいた。秘めた悦楽に酔ってでもいるような、熱い呼吸とひそめた声が、登の顔の寸前に近よった、「店の者ははいって来て、あたしの脇へ横になり、手を伸ばしてあたしをこう抱いたのです」彼女はその動作をしながら続けた、「こんなふうに、――あたしが釵でどうしたかわかりますか、自分が殺されるくらいなら相手も殺してやろうと思ったんです、悪いのはあたしだけではない、あたしはそんなことは望まなかったのだ、もしもそれが罪なことなら、男だって死ななければならない、――そう思ったんです」
 登は女の顔に痙攣けいれんが起こり、表情がゆがんで、唇のあいだから歯のあらわれるのを見た。彼は女のからだを押しのけようとした、けれども全身が脱力し、しびれたようになっていて、指を動かすことさえできないのを感じた。
 ――夢だ。これは夢だ。
 悪夢にうなされているのだ、と登は思った。女は逆手に持った釵を、静かに、彼の左の耳のうしろへ押し当てた。
「あたしこうしたのよ」と女は云った、「店の者はなにも知らずに、もっと手を伸ばしてきたわ、あたしが自由になるものと思ったのね、うわ言のようなことを云いながら、手に力をいれはじめたわ、こんなふうに」
 彼女は店の者を殺したことを、そのままやってみせようとしているのだ。登は眼がくらんだ。彼女の声が耳いっぱいに聞えた。彼女は勝ち誇ったように叫んだ。
「そのときあたし、この釵をぐっとやったの、ちょうどここのところよ、ここを力まかせにぐっと、力まかせに――」
 登は躯のどこかに激しい衝撃を感じ、女の悲鳴を聞き、そして気を失った。


 登は眼の前に坐っている赤髯を見た。その脇に森半太夫がおり、赤髯が半太夫に話しているのが聞えた。
 ――まだ夢を見ているのか。彼はそう思った。すぐ眼の前にいる二人の姿が、ひどく遠いように思えるし、その話し声も、壁を隔てて聞えるような響きのない、非現実的な感じなのである。たしかに夢だ、そう思って眼をつむり、もういちど、用心ぶかく眼をあいてみると、森半太夫の姿はなく、新出去定が一人で坐っていた。
「眠れ眠れ」と去定が云った、「もう一日も寝ていればよくなる、なにも考えずに眠っていろ」
 登は口をきこうとした。
「なんでもない」と去定は首を振った、「おまえは薬酒をのまされたのだ、あの酒にはおれのくふうした薬が調合してある、あの娘の発作をしずめるための、ごく特殊な薬だ、あの娘はお杉からおまえの話を聞いていて、いつかこうしてやろうと機会をうかがっていたのだ、おまえは酒に酔っていた、ばかなやつだ、酔っていなければ人が違っていることぐらい、すぐにわかった筈だぞ」
 登は首を振った。酔ってはいたが、それだけではない、暗がりでもあったし、あのしゃがれ声にだまされたのだ。そう云おうとしたが、首を振るだけがようやくのことで、声も出ず、舌も動かなかった。
「おれの帰りがもう少しおそかったら、おまえは死んでいたところだぞ」と赤髯は云った、「お杉も家の中で眠りこんでいた、同じ薬酒をのまされたのだ、おれはそれを見てすぐに腰掛へいった、あの娘はいま頭を晒木綿さらしで巻いているが、そうするよりほかになかった、まるでけもののように狂いたっていたからだ、この手を見ろ」
 赤髯は左手をまくって見せた。手首から腕へ、晒木綿が巻いてあった。
「あの娘はここへ五カ所も噛みついたのだ」と去定は云って袖をおろした、「――このことは誰も知らない、半太夫も知ってはいない、だから他人に恥じるには及ばないが、懲りることは懲りろ、わかったか」
 登は自分の眼から涙がこぼれ落ちるのを感じた。
 去定はふところ紙を出した。涙をいてくれるのかと思ったが、そうではなく、口のまわりを拭いてくれた。よだれを出していたのかと思い、登は恥ずかしさのため固く眼をつむった。
「ばかなやつだ」と去定は云った、「いいから眠れ、よくなったら話すことがある」
 去定は立って出ていった。その足音を耳で追いながら、登は心の中でつぶやいた。
 ――赤髯か、わるくはないな。





底本:「山本周五郎全集第十一巻 赤ひげ診療譚・五瓣の椿」新潮社
   1981(昭和56)年10月25日発行
初出:「オール読物」
   1958(昭和33)年3月
※初出時の表題は「狂い咲きの嬌女」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2018年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について


●図書カード