俗に「伊豆さま裏」と呼ばれるその一帯の土地は、松平
保本登が、去定の供でその長屋へいったのは、「鶯ばか」と呼ばれる男を診察したときのことであった。九月中旬の風の強い日で、五カ所を回診したあとだから、もう日は
「そんなところからなんだ、
「屋根が飛んじまうがいいかい」
「屋根がどうしたと」
「この風だよ、うへえ」と屋根の上の男がどなり返した、「怒っちゃいけねえよ、差配さん、いまのうへえってのはおまえさんの名めえじゃあねえ、おそれいったときの合の手だからね、うへえ」
「ふざけるなこの野郎」
「あがって来てみな、わかるから」と屋根の上の男がどなった、「この屋根は
去定が笑って云った、「弥助、するとおまえは、風のやむまでそこにそうやっているつもりか」
「どうもしようがねえ」と屋根の上の男が云った、「店賃が
「
屋根の上の男がなにか云い返したが、「うへえ」という言葉しか聞きとれなかった。卯兵衛は舌打ちをし、まだ狭い路地の中でふざけている子供や、軒下で魚を焼いている女房などに小言を云いながら、去定たちを十兵衛の住居へ導いていった。
十兵衛は四十一歳、おみきという妻に、おとめという七歳の女の子があり、十兵衛は古くから小間物の行商をしていた。
それから約十五年、市中は云うまでもなく、
――それみろ、おまえ転んだりするから、よそのおじさんが心配するじゃないか、気をつけて歩きな。
そのようすがあんまりおかしいので、殴られた男は怒ることも忘れ、あっけにとられて眺めていたという。そして銭湯から帰ると、一尺四方ばかりの板きれを捜しだし、勝手から
――静かにしな、千両の
――鶯ですって。
――とうとう手に入れた、ほら、鳴いてるだろう、あれが千両の
十兵衛は鴨居の隅を見あげ、いかにも嬉しそうに、その「鶯の声」に聞き
――これでやっと貧乏もおさらばだ。
それから今日まで、十兵衛は稼ぎにも出ず、寝るときと食事をする以外は、坐ったままじっと目笊を眺め続けている。ときには夜なかに起きあがって、心配そうに耳を傾け、すぐ安心したように独り頷いて、そのまま朝まで坐っている、などということもあった。おみきが稼ぎにいってくれるように頼むと、彼はけげんそうな顔をし、もうそんな必要はない、この鶯が売れればおれたちは一生安楽にくらせるんだ、と繰り返すばかりであった。
以上のことは差配の卯兵衛から聞いたのであるが、十兵衛の住居へゆき、去定が診察してみると、どこにも疾患と思えるところがみつからなかった。去定に促されて登も
「おまえさん方は私を気違いだと思っているんですね」と十兵衛は
そのとき戸外で「やあい泥棒」という子供たちの声がした。三人か四人で
「またやってやがる」上り框にいた卯兵衛は舌打ちをして云った、「どうしてああ長ばかりいじめるんだか、しょうのねえがきどもだ」
そして路地へと出ていった。
診察を終った登は、去定に向かってそっと頭を振った。去定は鴨居のほうを見あげた。すっかり昏れてしまったらしいし、行燈が
「あそこに」と去定は十兵衛に訊いた、「あの目笊の中にはなにがいるんだ」
「しっ」と十兵衛は制止し、それから声をひそめて云った、「そんなばかな声を出しちゃあ困りますよ、なにがいるかって、おまえさんには見えないんですか」
「おれにはなにも見えない」
「眼が悪いんだな、そうはみえないが」と云って、十兵衛は片手の指を立て、頭をかしげながら去定に囁いた、「そらあれです、眼が悪くっても耳は聞えるでしょう、そら、あれを聞いて下さい、聞えるでしょう」
去定は黙っていた。
「千両の囀りですよ」と十兵衛は去定に囁いた、「もうすぐ買い手がつく筈です」
去定はまもなく立ちあがり、また来て診よう、とおみきに囁いてから、土間へおりた。そこへ卯兵衛が戻って来、いっしょに路地を出たが、外はもう夜の景色で、竹造は提灯に火をいれた。
「いま長次の泥棒と騒いでいたようだが」と通りへ出たところで、去定が訊いた、「いつか診た五郎吉のところの子供か」
「さようです」と卯兵衛が答えた、「どうもこの長屋に悪い女が来やあがって、いろいろよけいな口をきくもんですから、
「五郎吉のかみさんはあれから達者か」
「なにしろあのくらいですから、寝ているわけにもいかねえんだろうが、まあどうやらやっているようです」と卯兵衛は云った、「ときに、――十兵衛のようすはいかがでしょう」
「なんとも云えないな」と云って去定は、吹きつける
そして去定たちは帰途についた。
養生所へ帰る途中、登が十兵衛の眼をしらべたのはなぜだと、去定が訊いた。登は長崎にいたとき、蘭医から教えられたのだ、と答えた。頭の中に腫物ができたりすると、似たような症状を起こす。そのときは眼に光を当ててみると、
「では病気はなんだと思う」
「見当がつきません」と登は答えた、「躯にはまったく異状がありませんし、瘡毒などの
「想像の診断は絶対にいけない」
「いいえ想像ではなく、くらしの条件からそう考えたのです」
十五年あまり稼ぎとおして、いまだに生活が苦しい。二人の子を亡くしていることや、いつになったら楽なくらしができるという当てもない。年も四十一になっていることなどで、「現在の生活からぬけ出よう」という、不断の願いが重なって来て、自分では意識せずに頭の変調を起こした。千両の鶯、などという
それから五六日して、登がその長屋へいくつもりであると云うと、去定は例の金包みを渡して、これを卯兵衛に遣ってくれと云い、また、同じ長屋の井戸の脇に、五郎吉という
五郎吉の家族とも、このあいだに馴染になったのであるが、二男の長次をべつにして、五郎吉も女房のおふみも、他の三人の子供たちも、引込み思案で弱気らしく、なかなか登ともうちとけなかった。五郎吉はおふみより一つ年上の三十一、長男の虎吉が八歳、長女のおみよが六歳、二女のおいちが四歳、おみよまでが年子で、――長次は七歳だった。――長次は初めてのときから登になつき、登の顔を見るととびついて来て、帰るまで
「そんなにどうしたんだ」
「伊豆さまの屋敷だよ」と長次は云った、「伊豆さまの屋敷に大きな銀杏の樹があるだろう、風が吹くと、実が
「ずいぶんたくさんあるな」
「おれが一番さ」と云いながら、長次は勝手口の横の地面を掘って、その青臭い匂いのする実を埋めていった、「みんな拾いにいくけれど、おれにかなうやつはいやあしねえ、明日もまたいくんだ」それからまた力んで云った、「これいい値で売れるんだぜ」
登は戸惑ったような顔をし、ゆっくりと話をそらした。
「土に埋めてどうするんだ」
「こうやって六七日おくとね、上のこの臭い皮が腐って
そのとき一人の女が通りかかって、露骨ないろ眼をつかいながら登に会釈した。年は二十八九だろう、肥えて肩幅が広く、胴がくびれておらず、広い肩幅がそのまま大きな腰へ続いている。頬骨の張り出た平べったい大きな顔には、いやらしいほど、厚化粧がしてあり、赤茶けた少ない髪で結った
「保本先生って仰しゃるんですってね」と女はどきっとするほど太い、しゃがれた声で話しかけた、「あたし向う長屋の端にいるおきぬという者ですが、このごろ頭痛が続いてどうしようもありませんの、おついでのときいちど来て診て下さらないでしょうか」
登は黙って頷き、すぐに五郎吉の家へはいってしまった。その帰りに差配へ寄ると、卯兵衛の女房のおたつが、あの女はいけません、と首を振った。
「まったくとんでもねえあまです」と卯兵衛も側から云った、「こつ(千住の遊廓)で年期いっぱい勤めあげたという古狐で、知らねえもんだから
「名はおきぬというそうだな」
「まったく」と卯兵衛が云った、「うわばみみてえな恰好をしてやがっておきぬもすさまじい、そのうちに刃物沙汰でも起こりゃしねえかと、こっちはびくびくものですぜ」
おきぬの身辺は複雑であった。
彼女は千住で勤めているうち、深い馴染客が三人できた。その一人と夫婦約束をしたのであるが、年期があけても、その男にはまだ世帯を持つ力がない。そこで留吉という客をうまく騙し、彼の囲い者というかたちで、この長屋に家を持った。留吉は池之端七軒町で畳屋をやっており、年も五十二か三になるが、珍らしいほど人の
それだけではない、彼女はこの長屋の男たちにもちょっかいを出した。老若も好き嫌いの差別もなく、隙さえあれば誘いかけるし、使いにゆけば見知らぬ男をくわえて来る。そして、その弱味をごまかすためだろう、長屋じゅうを廻っては人の蔭口をきいた。それもおそろしく毒のある蔭口で、「あそこのおかみさんが誰それと寝ていた」とか、「どこそこの誰かは臭いめしを食ったことがある」などと云う類いで、その相手は長屋内でも特に貧しい家とか、気の弱い家族に限られており、「誰それは泥棒だ」と云う例がいちばん多かった。
「ここのところかかって、五郎吉一家のことを悪く云ってるようです」と卯兵衛が太息をついて云った、「なにしろ男出入りだけでも、いまに一騒動ありゃあしねえかと思って気が気じゃあねえ、まったく弱ったもんです」
そんな女ならどうして追い出さないのか、と登が訊いた。すると女房は向うへ立っていき、卯兵衛はなんと云いようもない一種の身振りをした。
「そんななまやさしいあまじゃありません」と卯兵衛は吐き出すように云った、「それができるくらいならとっくにやってますよ」
おきぬという女の、
――そういう女はいるものだ。
あまりにあくの強い話を聞いて、殆んど憎悪におそわれながら、登は自分をなだめるようにそう思った。どこの長屋にも十兵衛と似たような、頭のおかしい者が一人や二人はいるものだし、またおきぬのように、ふしだらで恥知らずで、近所にもめごとを起こすような女もいるものだ。
――当人の罪じゃない。
去定ならそう云うであろう、年月は知らないが、遊女などで年期を勤めあげるうちには、人の想像も及ばないようなことを経験するだろう。生れつきの性分によっては、豊かな境遇や勝手気ままな生活の中でも、おきぬに劣らずたちの悪い女がいる。おきぬ独りの罪ではない、貧困と無知と不自然な環境とが、ああ云う性分をつくりあげたのだ。そう云うであろう去定の言葉が、現実に聞えるように思い、登は力のない苦笑をうかべた。
十月下旬の或る日、登は去定の許しを得て、麹町三番町の父母を訪ねた。十日ほどまえ、母が足を病んで寝ている、という知らせがあった。母の八重は四十六であるが、三十前後から右足の痛風が持病になっていて、季候の変りめには痛みが起こり、半月、一と月と寝るようなことがよくあった。去年、長崎から帰るとすぐ、養生所へはいってから約一年、登は頑固に家へは帰らなかったので、三番町を訪ねるのはかなり気が重かった。しかし、いつまで頑張っているわけにもいかないし、天野との話もあるため、思いきってでかけたのであった。
家へ着いたのは
登は一刻ちかくいただけで、父の戻るのを待たずに三番町の家から帰った。
母はやはり持病の痛風であったが、まえには右足の
――姉妹でもこんなに違うことがあるんだな。
――あなたのようすでやっと安心しました。
母は別れるときに云った。登の熱心な話しぶりで、彼が養生所へ入れられたのを、いまではもう怒っていないということがわかったらしい。さも
――留守にあんなことがあって、あなたの気性が心配でしたし、ちょうど新出先生からのお話が出たものだから、さぞ怒るだろうとは思ったけれどね。
――それはもう済んだことです。
養生所へ入ったことは、
外へ出て、歩いていきながら、登は幸福な気分に包まれているのを感じた。玄関へ両手を突いてこちらを見あげたとき、まさをはその眼をぱちぱちと大きく二三度またたかせた。すると彼女の顔いちめんが、露をはらったなにかの
「あの眼だな」と歩きながら彼は呟いた、「よく気のまわる、賢さと敏感な気性が、あの眼にそのままあらわれている」
ちぐさはどうだ。そう思って彼はおそろしく決然と首を振った。ちぐさの印象はすっかり色
「これはおれが成長したことだろうか」と登はまた呟いた、「そうだ、養生所で経験したことが、たぶん幾らかでもおれを成長させたのだろう、そうだ、おれにとってはこのほうがよかった」
各種各様な意味で、人間生活の表裏を見て来た。ことに不幸や貧困や病苦の面で、そこにあらわれる人間のはだかな姿を、現実に自分の眼で見て来たのである。その経験から、ちぐさとまさをとの差を見分けるだけの、判断力を持つようになったのだ。
「だがまあ、そういきまくな」暫くして登は、去定の口まねで呟いた、「まさをを認めたいまのいま、にわかにそういきまくことはない、みっともないぞ」
彼は自分の顔が赤くなるように思い、そこで気を立て直すために、残った時間を有効に使おうと決心した。時刻はまだ午後二時ちょっとまえである。登は養生所へは帰らずに、そのまま「伊豆さま裏」へまわった。
登はまず十兵衛のようすをみようと思ったのだが、差配の家の前をとおると、卯兵衛がとびだして来て呼びかけた。
「いま養生所へ使いをやろうとしていたところです」と卯兵衛はうろたえた声で云った、「ひどいことになりました、すぐにいってやって下さい、一家心中をやりましてね、
「なんでやった、刃物か」
「毒です」路地へ駆け込みながら、まだうろたえた声で卯兵衛が云った、「孝庵さんの話では鼠取りの毒だろうということですが、吐いた物も臭いし、家の中じゅうおっそろしく臭ってむせるようです」
五郎吉の家族は
「ごめんね」長次は登を認めるとすぐに、ひどくしゃがれた声で、とぎれとぎれに云った、「ごめんね、先生、かんにんしてくんなね」
「なにをあやまるんだ」登は笑ってみせながら云った、「なにも悪いことなんかしてないじゃないか」
長次は
「よせよ、長」と登は首を振り、できるだけ乱暴に云った、「銀杏なんか好きじゃないし、おれはすっかり忘れていたくらいだ、そんなことを気に病むなんて男らしくないぞ」
「こんど取ったらあげるね」と長次は云った、「今年じゃなければ来年、げんまんだよ」
「よし、げんまんだ」
二人は右手の小指を絡ませて振った。長次の指が火のように熱く、けれども力のないのが登に感じられた。来年だぞ、と心の中で登は呼びかけた。そのためには生きなければならない、頑張るんだぞ長、こんなことで死んじゃあだめだぞ。――登は調剤すべき薬品の名を書き、使いに持たせて養生所へやった。使いの者にはわけを話して、今夜はこっちで泊るかもしれない、という伝言も頼んだ。午後四時ころに六歳のおみよが死に、日が昏れてから長男の虎吉が死んだ。死ぬとすぐに、他の者にはわからないように注意して、
「みんながこんなに心配してくれているのがわからないのか」登はしまいに本気でどなった、「こんな迷惑をかけたうえに、みんなの心配を無にするつもりか」
それでようやく、五郎吉もおふみも与えられた薬をのんだ。
日が昏れてからまもなく、野原孝庵という医者がみまいに来た。四十がらみの肥えた男で、そこにいる登には構わず、夫婦と長次をざっと診察し、渋い顔をしながら帰っていった。まもなく差配の卯兵衛が、「晩めしをあがって下さい」と迎えに来た。登も空腹になっていたので、手伝いに来ている近所の女房たちにあとを頼み、卯兵衛といっしょに彼の家へいった。麦飯に、煮魚と味噌汁、香の物という食事であった。卯兵衛もいっしょに
朝の七時ころ、五郎吉は妻子を伴れて、「浅草寺へ
「浅草へいくと云ったのは嘘で、すぐに戻って来たんですな」と卯兵衛は云った、「戻って来たのも、うちへはいったのも見た者はありません、両隣りの者も知らなかったんですが、そのじぶんは井戸端が
午すぎに、隣りのおけいという女房が、五郎吉の家でへんな呻き声や、子供の暴れるような物音を聞きつけ、それから大騒ぎになったのであった。
「しかしどうして」と登が
「わかりませんな」と卯兵衛はあっさり答えた、「こういうくらしをしている人間は、死にたくなるような理由を山ほど背負ってますからな、まったくひどいもんです、ちょっとしたきっかけさえあれば、すぐにでも死にそうな人間が幾らもいますよ」
登は食事の礼を述べて、立とうとしてふと思いだした。
「あの孝庵という医者はここへ寄らなかったろうか」
「寄りました」と卯兵衛は顔をしかめた、「薬礼は誰が払うかって、たしかめに来たんですが、病人のことはなんにも云わねえ、薬礼はこれこれ、いつ誰が払うかってね、急場でしょうがねえから頼んだんだが、――
「そんなことはない、いい手当だった」と登は云った、「あれだけの処置を手早くやれるのは珍らしい、悪く云うのは間違いだよ」
登は外へ出た。空は曇って、肌寒い風が吹いていた。長屋の多くは戸を閉め、もれてくる灯も
「どうしました」とうしろで声がした。
登は殆んどとびあがりそうになった。それが卯兵衛だということはわかっていながら、とびあがりそうになり、全身が
「ああ、あれですか」卯兵衛は向うの声に気がついて、笑いながら云った、「
卯兵衛が歩きだし、登もついていった。すると井戸端に、提灯を持った女たちが六、七人いて、二人ずつ代る代る、井戸の中へ向かって呼びかけるのであった。
「長坊やーい、長次さんやーい」
ひと言ひと言を長く引いて、ちょうぼうやあーい、というふうに呼ぶのであるが、平常とは違うもの悲しげな、訴えるような哀調を帯びた声で、それが井戸の中にこもった反響を起こすため、眼の前に見えていてさえも、背筋が寒くなるようなぶきみさを感じた。
「長次を呼び返しているんです」と卯兵衛が
空には星一つ見えず、暗い路地に風が吹いている。風は強くはないが、たしかに冬の来たことを示すように、しみるほど冷たかった。登は井戸の中に響く女たちの嘆き訴えるような呼び声を、やや暫く黙って聞いていた。――使いの伝言で、来るかと思った去定は来ず、登は十一時ごろまで五郎吉の家にいたが、ひと眠りするようにと云われ、差配の家へ戻って寝床にはいった。枕が変ると寝にくいたちで、どうせ眠れはしないだろうと思ったが、まさをの姿を想い描き、どういう機会に縁談を承知しようか、などと考えていると、幸福感で躯ぜんたいが温かく包まれるように思われ、いつかしらうとうとと眠りこんでしまった。
午前三時に、登は呼び起こされた。
「面倒でしょうがちょっと起きて下さい」と卯兵衛が云った、「長次のやつが先生に会いたいと云ってきかないそうです」
登は起き直った、「容態でも変ったのか」
「わかりません、そいつは聞きませんが、ただぜひとも先生に会わせてくれと云って、承知しないんだそうです」
「なん
「八ツ半です」と卯兵衛は寝衣の
「うん、着替えよう」登は立ちあがった。
待っていたのは、弥平という縁日あきんどの女房で。名はおけい、年は四十二、三になっていた。彼女は五郎吉一家と隣り同士であり、かれらの心中を発見したのもおけいで、それ以来ずっと付きっきりで世話をしている。男まさりで向っ気が強く、幾人かの女房たちをてきぱきと指図しながら、子供たちの死躰の始末から、残っている五郎吉夫婦と長次の面倒をみ、さらに湯茶のことまでぬかりなくやってのけていた。ただ登の閉口したのは、彼女がおそろしくあけっ放しで、これまでかつて聞いたためしのないほど、乱暴な口をきくことであった。
――なんだいその腰っつきは。
五郎吉の寝床を片よせるとき、向うの端を持った女房の一人に、おけいは男のような声でどなった。
――そんな腰っつきじゃあ××も満足にできやしめえ、もっとそのけつをあげな、けつを。
そのとき登は頬が赤らむのを感じたものである。だが、いま提灯で足もとを照らしながら、登を案内していくおけいは、人が変ったように
「あの子は助かるでしょうかねえ、先生」とおけいは歩きながら訊いた、「長は助かるでしょうか」
「朝が越せれば助かると思う」
「はあ」とおけいは深い
おけいはふと立停って、前掛で顔を押えながら、怨めしそうに登に訴えた。
「あたしとおふみさんは、きょうだい同様につきあって来たんですよ、先生、こっちもその日ぐらしだから、力になるなんて口幅ったいことは云えやしない、けれどもこれまではどんな
登は黙っていた。彼はこういう人たちをよく見て来た。貧しい人たちはお互い同士が頼りである。幕府はもちろん、世間の富者もかれらのためにはなにもしてくれはしない。貧しい者には貧しい者、同じ長屋、隣り近所だけしか頼るものはない。しかしその反面には、やはり強い者と弱い者の差があるし、
――一と匙の塩まで借りあい、きょうだい以上につきあっていながら、死ななければならないという理由は話せない。
貧窮しているための、相手に対する必要を越えた遠慮か、それとも頑迷な、理屈に合わない自尊心のためか、いずれにせよ、五郎吉夫婦には他人に話せない理由があったのだろう。おけいが責めるのは当っていないし、当っていないということはおけい自身も察しているに違いない、と登は心の中で思った。
「ねえ先生」とおけいは歩きだしながら云った、「お願いですから長坊だけは助けて下さい、死んじまった三人はしようがないけれど、せめて長坊だけは助けてやって下さい」
「やってみよう」と登は答えた、「私にできる限りのことはするよ」
五郎吉の家には、おけいのほかに二人、近所の女房が寝ず番をしていた。長次は眼を大きくみひらき、口をあいて、短い急速な呼吸をしていた。仰向きに寝たまま、ときどき頭を左右に振り、そして力なく
「長次――」枕許に坐った登は、行燈を近よせるように頼んで、長次の顔を
「おれ、泥棒したんだよ、先生」と長次はぞっとするほどしゃがれた声で云った、「そのことを先生に云いたかったんだ」
「そんなことはあとでいいよ」
「だめだ、いま云わなくちゃ、いまだよ、だから先生に、来てもらったんだ」まるでおとなの話すような調子であった、「おれ、島屋さんの裏の垣根をね、先生、聞いてるかい」
「聞いてるよ、長次」
「島屋さんの裏の垣根をね、ひっぺがして、持って来ちゃったんだ」と長次は云った、「おれが悪かったんだ、おれ、そのほかにも泥棒したことがあるもの、だから、とうちゃんとかあちゃんが怒って、もうだめだって、おれのような、泥棒をする子が出ちゃって、近所で泥棒だって云われちゃえば、もうおしまいだって、それでみんなで、死ぬことになったんだ。水を飲まして」
登は女房たちを見た。おけいが湯呑を取ろうとし、登は「きれいな
登はその
「吸ってごらん」と登は云った、「舌でそっと吸うんだ、静かに、そう、静かに」
だが、長次は激しく
「おれが悪いんだからね、先生」少しおちついてから、長次はまた云った、「とうちゃんや、かあちゃんのこと、勘弁だよ、ね、勘弁だよ先生、わかったね」
「わかった」登は長次の手を握った、「よくわかったから少し眠るんだ、話をすると苦しくなるばかりだぞ」
「水が飲みたい」と長次は云った、「でもだめだ、あとでだ、ね」
「すぐだ、すぐ飲めるようになるよ」
長次は眼をつむった。しかし
「先生」とおけいがぎょっとしたように囁いた、「この息は死ぬときの息じゃありませんか、あたしこの息を知ってますよ先生、そうでしょ、死ぬときの息でしょ、どうにかして下さい先生、どうにかならないんですか」
「そのまま死なしてやって下さいな」と向うからおふみが云った。
みんなとびあがりそうになって、振向いた。五郎吉もおふみも、これまで一と言も口をきかず、寝床の中で横になったきり、殆んど身動きもしなかった。それがいま急に、人間の声とは思えないような、かさかさにしゃがれた声で呼びかけたのである。振返ってみると、おふみはじっと仰向きに寝ており、眼はつむったままであった。
「その子が泥棒したことは知ってました」とおふみはだるいような口ぶりで、ゆっくりと云った、「おきぬさんに云われなくっても、あたしはちゃんと知ってたんです、しょうがなかったもの、長が悪いんじゃない、どうにもしょうがなかったんだもの」
「おきぬだって」とおけいがすり寄っていった、「あの女がなにか云ったのかい」
「あの子を死なしてやって」とおふみは云った、「そのままそっと死なしてやって下さい、あの子のためにもそれがいちばんなのよ」
「おふみさん」おけいは覗きこみ、いきごんで訊いた、「おまえはっきり云っとくれ、あのすべたあまが長坊のことをなにか云ったのかい、え、あいつがなにか云ったのかい、おふみさん」
おふみは顔をしかめた、「うちの人が島屋さんに呼ばれたの、そうしたらおきぬさんが店にいて、長のすることを見ていたって、証人になるって云ったそうよ」
「あのいろきちがいがかい」
「いいのよ、悪いのはこっちだもの、おきぬさんに罪はないわ」
「ちくしょう」と云っておけいは身を起こし、ぎらぎらするような眼で宙をにらんだ、「さかりのついた淫乱な
「ごしょうだよ、おけいさん」とおふみが哀願するように云った、「迷惑をかけて済まないけれど、もうあたしたちのことはそっとしておいておくれ、長のやつもそのまま、死なしてやっておくれよ」
長次は明けがたに死んだ。
五郎吉もおふみも眠っていたようだ。女房たちは眼顔で語りあい、おけいが長次の死躰を抱いて、差配の家へ運んでいった。死んだきょうだいの四人は、差配の家で
――これできょうだいが
上り
「先生、――」とおふみが云った、「あの子は苦しみましたか」
「いや」登は火鉢から手を引いた、「いや、苦しみはしなかった、らくに息をひきとったよ」
「苦しみませんでしたか」
「死ぬときはもう苦しくはないそうだ」と登は云った、「頭が死ぬ毒でやられるから、見ている者には苦しそうだが、当人はもうなんにも感じてはいないということだ、長次は苦しそうなけぶりもみせなかったよ」
おふみは
「気をつけて、少しずつ
おふみは顔をするどく
「こんなふうに寝ているのは初めてですよ」とおふみはしゃがれた囁き声で云った、「いっしょになってから、そこそこ十年にもなるけれど、この人がこんなに、いい気持そうに寝ているのは初めてですよ」
「どうしてあたしたちを死なしてくれなかったんでしょう」
暫くしておふみがそう云いだした。
「どうしてでしょう先生」とおふみは
「こんなふうに」と云って、登はちょっとまをおいた、「こんなふうに死ぬのはよくない、持って生れた寿命を、自分で捨てるなどということは罪だ、ことにこんな小さな子供まで
おふみは口をつぐんだ。ずいぶん長いあいだ、身動きもせずに黙っていたが、やがて、喉のかげんをして軽く
五郎吉は深川、おふみは板橋で生れた。どちらも家が貧しく、五郎吉は七つ、おふみはもう五つのときから、子守に出された経験があった。二人の親たちも同じような育ちかたで、五郎吉の父はぼて
おふみは浅草並木町のめし屋に奉公していたとき、五郎吉と知りあった。彼は薬種問屋から暇を出され、そのときは蔵前で荷揚げ人足をしていた。五郎吉が二十一、おふみが二十のときのことである。――知りあってからまもなく、二人は江戸を出奔して水戸へいった。おふみが岡場所へ売られることになったので、彼にその事情を話すと「いっしょに逃げよう」ということになったのだ。あたしが
「水戸に三年いて、そのあいだに虎吉と長次が生れたんですけれど」とおふみは続けた、「うちの人は気も弱いし、持病もあるし、知らない土地のことで、どうにもくらしてゆけなくなり、とうとうまた江戸へ帰って来てしまいました」
ああ、とおふみは思いだしたように微笑した、「水戸を立退くまえに、親子で
江戸へ帰ってからもいいことはなかった。この三年ばかりこっち、五郎吉はあの発作こそ起こさないが、だんだん飽きっぽくなって来た。もともと眼はしのきくほうではないし、手に付いた職もないので、なにをやっても永続きがせず、あいだにおみよ、おいちと口がふえたので、彼女がどんなに内職で補っても、着て喰べることさえ満足にはできなかった。虎吉はぼんやりした子で役に立たず、女の子はまだ小さかった。その中で長次だけはよく気のまわる性分で、三つ四つのころから、ない知恵をしぼって母親を
「ほんの三つ四つのころからなんです、とても先生なんかにはおわかりにならないでしょう」とおふみは云った、「晩めしのときに喰べる物がたりない、あたしはいつもみんなが済んでから喰べるようにしているんですけれど、喰べ物がたりないなと思うときに限って、長次も喰べないんです、おなかがすかないとか、腹が痛いから、なんて云いましてね、気をつけてみていると、少しでもあたしの口にはいるように、残しておこうとするんです」
「三つ四つの年でですよ」とおふみは繰り返し、「可愛い子だった」と、うっとりするように
くらしはいつもぎりぎりいっぱいで、五郎吉の稼げない日が三日も続くと、たちまち
そして島屋のことが起こったのだ。島屋というのは表通りにある雑貨商で、五郎吉もときどき手伝い仕事を頼まれ、幾らかの銭を貰っていた。大掃除とか、家の羽目板のあく洗いなどというたぐいの、年に幾たびと数えるほどしかないことだったが、それでさえ心待ちにする稼ぎの内にはいっていた。島屋は店の奥に隠居所があり、小さいけれども庭を囲って、板塀がまわしてある。その塀の下半分、横に桟になっているところの木が古くなり、
「それが五日まえ、もう六日になりますね」とおふみは眼つきで日を数えた、「その日の晩、子供たちが寝ちゃってから、初めてうちの人がその話をしました」
五郎吉は話しながら泣いた。おふみは絶望した。まえにも近所の子供たちは、長次のことをよく「どろぼう」などとはやしたてた。けれどもこんどのことはまったく違う。おきぬという者がみていた「証人」であり、よその塀の板を「剥がして」来たのだ。まえから手癖が悪かったとか、泥棒根性があるなどと、人の前ではっきりと云われたのである。
「その晩と明くる日いっぱい、あたしたちはよく話しあいました、そして相談がきまったので、子供たちに云って聞かせましたが、子供たちもそのほうがいいって、云ってくれたんです」おふみはうつろな、殆んど無感動な口ぶりで云った、「――でもまちがわないで下さい、あたしたちはおきぬさんに云われたことを
あたしたちは親の代から、息をつく暇もないほどの貧乏ぐらしをして来た。二人ともあきめくらで、子供も人並に育てることはできない。育てるどころか、長次にはぬすみを教えて来たようなものだ。親たちからあたしたち夫婦、そしてこのままいけば子供たちまで、同じような苦労を背負わなければならない。もうたくさん、もうこれ以上は本当にたくさんだ、とおふみは弱々しくかぶりを振った。
「子供たちは死んでくれました、うちの人とあたしの二人なら、邪魔をされずにいつどこででも死ねますからね、子供たちが死んでくれて、しんからほっとしました」おふみはそこで、
登は辛うじて答えた、「人間なら誰だって、こうせずにはいられないだろうよ」
おふみは笑った。笑ったように登は感じた。それは聞き違いだったろう、単に
「生きて苦労するのは見ていられても、死ぬことは放っておけないんでしょうか」おふみは枕の上でゆらゆらとかぶりを振った、「――もしあたしたちが助かったとして、そのあとはどうなるんでしょう、これまでのような苦労が、いくらかでも軽くなるんでしょうか、そういう望みが少しでもあったんでしょうか」
登は黙って、頭を垂れた。
この問いに答えられる者があるだろうか、と登は心の中で云った。これは彼女だけの問いかけではない、この家族と同じような、切りぬける当てのない貧困に追われ続けて、疲れはてた人間ぜんたいの叫びであろう。これに対して、ごまかしのない答えがあるだろうか。かれらに少しでも人間らしい生活をさせる方法があるだろうか。登は爪が
「先生、――」暫くしておふみが云った、「あの人たちがなにかしているようですね」
登は頭をあげた。戸外で大きな物音と、女たちの喚きたてる声が、朝の静かな路地いっぱいに騒がしく聞えていた。
「あの人たちですよ」とおふみが云った、「きっとおきぬさんになにかしているんでしょう、いってとめてあげて下さいな」
登は立とうとしなかった。
「お願いですからとめにいって下さい」とおふみが熱心にせがんだ、「おきぬさんの罪じゃありません、あたしたちが悪かったんですから、どうか先生いってやって下さい」
夜はすっかり明けたが、濃い霧がおりていて、二、三
「かかあ連中のお
「そうらしいな」登は立停った。
霧でわからないが、おきぬの家のあたりで、家財でも投げだしているらしい、器物の
「殴りゃがったな、うぬ」というのはおきぬの声である、「人の頭へ手を当てやがったな、こいつら、きっ」
「これが人間の頭か、これが」というのはおけいの声で、「てめえにあるのは腰だけだろう、この腰で男をちょろまかしゃあがって、この口で人を殺しゃあがった、この淫乱の人殺しあま、こうしてくれるぞ」
「なにが人殺しだ、いっ」とおきぬがどなり返す、殴りあう音といっしょだが、張りのあるいさましい声だ、「泥棒だから泥棒だって云ったんだ、それがなんで人殺しだ」
「長が泥棒ならうぬは男ぬすっとの男強盗のはっつけあまだ、こう、こう、こう」殴る音と同時におけいが叫ぶ、「出ていけ、てめえなんぞにいられちゃあ長屋ぜんたいの恥っさらしだ、うせろ、出てうせろ」
「出ていけこのあま」他の女房の声が聞えた、「うちの宿六にまでいろ眼なんぞ使やあがって、こんちくしょう、かっちゃぶいてくれる」
「きっ、やりゃあがったな」
「かっちゃぶいてくれる、このいろきちげえめ、死んじまえ」
登は
半月のち、五郎吉夫婦は長屋を去った。四人の子の遺骨を持って、どこへいくとも云わず、世話になった礼廻りをすると、夫婦でより添うようにしてたち去ったということだ。養生所の印をついた届書と、差配や長屋の人たちの
或る日、「伊豆さま裏」を通りかかって、ふと十兵衛をみまう気になり、差配の家に寄ると、「卯兵衛は内職のことで、十兵衛のところへいった」という。それで路地へはいっていくと、向うから来た女が声をかけた。見るとおきぬなので驚いたが、例のとおり厚化粧をし、小さな赤毛の髷から、安油の匂いをぷんぷんさせながら、彼女は満面に
「あら先生、お久しぶり」とおきぬは
登は聞きながして歩きだしたが、毒のある毛虫にでも触ったように、躯じゅうがちくちくするほどのいやらしさと、嫌悪感におそわれた。十兵衛の家へいくと卯兵衛がいたので、いまおきぬに会ったことを告げ、「まだ
「あいつには手をあげました」卯兵衛はうんざりしたように云った、「長屋を追い出すんなら、五郎吉一家の心中、子供四人の死んだことを町方へ訴えて出るってんでね、――あいつのことだからやりかねませんや、そんなことになれば長屋じゅうの迷惑ですからね、みんなにも因果を含めて、とうとうそのままということになったんです、いやもう、まったくたいした女があったもんでさ」
登は胸がむかついて来た。その胸のむかつきから
おみきは立って茶の支度にかかり、十兵衛はいつものところに坐ったまま、じっと鴨居を見あげていた。初めのころより肥えたらしく、肩などまるまるとしていたし、頬などもずっと肉づいていた。登は側へいって坐り、ぐあいはどうだ、と云いかけたが、すぐ十兵衛に「しっ」と制止された。十兵衛は鴨居のほうへそーっと耳を傾けた。そうして、静かにそっちを指さしながら、登に向かって
「聞いてごらんなさい、いい声でしょう」と十兵衛はたのしそうに云った、「この