「――えイッ」
「えイッ、とうッ」
「わあっ」
「待て、逃げるか、
ただ一人残った追手の武者は、うわずった声で叫びながら猛然と追った。
ここは
「待てッ卑怯者」
追手の武者は再びわめいた。
「敵に後ろを見せて、それでも武士か」
「――――」
追われている若い武士が、その一言で思わず立ち止まる、
「あっ」
「うーッ」
ほとんど同音に
何の手懸りもない
しかし間もなく、若い武士はきっと顔をあげた、がさがさと灌木を踏分けて、こっちへやって来る妙な物音が聞こえたのだ。
――追手か?
と半身を起こしたが、
「あ! 熊、熊――」
と色を変えた。
灌木を踏みしだきながら、身の丈に余る一頭の大熊が、鋭い
――駄目だ!
絶望の呻きをあげて脇差を抜放つ、ほとんど同時に、下の森の中から、
「五郎ッ、五郎ッ、お待ち」
「何をするんです、また弱い仲間をいじめているんでしょう。悪さをするとお弓は承知しませんよ」
そう叫びながら、
「――あら!」
少女は低く驚きの声をあげた。大刀を右手に半身を起こしている男の姿をみつけたのだ、しかし――そのとき若い武士は、熊の危害から免れた気のゆるみと、
「五郎、こっちへおいで、五郎」
少女は急いで熊を呼戻すと、そのまま森の方へ立去ろうとしたが、倒れた手負いの苦しそうな呻き声を聞いて恐る恐る引返し、
「どうかなさったのですか?」
と声をかけた。――しかし相手はもう答える気力もないらしい、見ると半身ぐっしょり血にまみれている。
「まあ……」
少女はさっと顔色を変えたが、すぐ意を決してしっかりと抱起こした。
「五郎、おまえの背中をお貸し、この方をおまえの家まで運んで行くのよ、――そっちを向いて、さ、お
まるで召使いを扱うようだった、熊もまた言われるままになっている。少女は手負いの体を熊の背へ負わせると、自分は側から介添えをしながら森の中へと下りて行った。
人里を遠くはなれた飛騨の山中、摩耶谷の奥には、
伝説によると、
しかしこうした
――生涯こんな山奥に朽ちているより、世間へ乗出して一代の英雄になりたい。
という野心を抱く者が少なくなかった。
現在この一族を指導するのは、北畠十四代の
「改めて申し渡す事がある」
と形を正して言った。「みんなも知っている通り、我が一族の祖先は、
賀茂の言葉は動揺していた若者たちの気持を鎮めるのに十分だった、彼らは再び農を励み、文武の道を学びつつ、昔からの平和な生活を守るようになったのである。
かくて天正四年五月はじめのある日。――賀茂が庭へ下りて生垣の手入れをしていると、娘のお弓が小さな包みを抱えて、横手の木戸からそっと出かけようとするのを見つけた。
「お弓、どこへ行く」
声をかけられて、娘はぎょっと振返ったが、
「はい、あの、薬草を採りに……」
「ひとりで行くのか」
「いえ五郎をつれて参ります」
老人は苦い顔をして、
「そういつまで五郎に附きそっていてはいかんぞ、なれていても獣は獣、殊にああ大きくなっては熊の本性が出る、うっかりすると今に
「大丈夫ですわ、五郎はお弓が拾ってお弓が育てたのですもの。昨日だって……」
いいかけて慌てて口をつぐんだ。
「昨日どうした!」
「いえなんでもありませんの、では行って参ります」
言い捨ててお弓は元気に出て行った。
部落を出て二町あまりすると渓流がある、それを渡ると摩耶谷いちめんを取囲む檜の密林で、他郷の者がうっかり足を踏入れると到底出ることが出来ないという、――お弓はなれた足取りで、森の中の胸を突くような急斜面を登り、右へ右へと
「五郎、――五郎」
と呼びながら近寄った、――ちょうどその入口に、大きな熊がまるで番犬のような
「まあお利口だこと、ちゃんと番をしていたのね、お客さまは御無事かえ」
「ああ、無事でいます」
岩窟の中から声がした。お弓は身を翻えしてその方へ入って行った。――そこには柔らかい枯草を
「まあ、起きていらっしゃいましたの」
「気分がいいのでしばらく起きてみました」
「お待ちになったでしょう?」
お弓はその側へ
「もっと早く来ようと思ったのですけれど、人眼については悪いのでつい遅れてしまいましたわ、――これが巻き木綿、お薬と、それからお
「それは、――どうも」
「先にお傷の手当てを致しましょうね」
お弓はかいがいしく身を起こした。
「
「お弓どのとおっしゃるのですね」
若い武士は苦しそうに微笑して、
「わたしは高山城の者で
「まあそんなにおっしゃっては」
「いえ本当です」
苅谷兵馬は熱心に言った。
「わたしは殿の仰せで、
胸いっぱいの感謝に眼をうるませながら、心から兵馬は頭を下げた。お弓ははずかしそうに頬を染めて、
「わずかな事がそんなにお役にたつのでしたら、わたくしも嬉しゅうございますわ」
「ただ……御存じかも知れぬが、高山城と木曾方とは、今にも合戦に及ぼうという時、探り出した始末をすぐお城へ持って帰れぬのが残念です」
「でもこのお傷ではねえ――」
「治します、一日も早く治します、そしてお城へ」
兵馬は歯を食いしばりながら
尾根下の
ちょうどそれから五日めの事である、例の通り薬を塗り替えたり食事の世話をしたりして、また明日と――岩窟を出たお弓が、
「五郎、お客さまの番をよくするのよ、間違いのないようにね、頼んでよ」
繰返し熊の五郎に言い残して別れた。
岩を
「お弓さま、何をしていなさる」
と声をかけた。
「え――?」
お弓がびっくりして振返ると、
「まあ伝之丞じゃないの、いきなり呼ぶものだから驚いたわ」
「何をしにいらしった」
「何ッて、――お、お薬草を採りにだわ」
「採れましたか」
伝之丞は鉄砲の
「採れても採れなくてもおまえの知った事ではないよ。余計な事は言わぬがよい」
「はははは、お気にさわったら許して下さい、全くそんな事は余計でござした。――時に、早くお帰りなさるがようございますぜ、いま老代様に会うだと言って、木曾の荒武者共が村へ入って行きましたから」
老代とは父北畠賀茂のことである、しかも木曾武士と聞いて急にお弓は心配になった、――もしや苅谷兵馬さまの事をかぎつけて来たのではあるまいか?
「伝めがお送り申しましょう」
そう言ってついて来る伝之丞にはかまわず、お弓は
「摩耶谷の御一族が、他郷の者と交わらぬという事は知っている」
部将と見える
「しかしこの乱世にわずかな一族であくまで独立してゆこうというのは無理な話だ。それより今のうちに木曾殿へお味方すれば、この倍の領地と
「それは有難いお話じゃな」
賀茂は
「もっともそれについては、当家に摩耶谷の抜け道を記した
「差出せというのでござろう――お断りじゃ、お断り申す」
お弓が家へ入って来たのは、賀茂が
「いかにも摩耶谷の抜け道四十八路九百十余の
「しかしその古図さえ差出せば五千貫の侍大将に取立ててやるという……」
「くどい、我が一族は摩耶谷に生き、摩耶谷に死ぬを以って本分とする、建武以来この
にべもない一言に、部将はさっと顔色を変え、いきなり
「それでは改めて
「そんな者は知らん」
「知らんではすまさぬぞ、拙者の預かる鹿追沢砦の備えを探索に来た奴、七人まで追手を斬り自分も傷を負ってこの谷へ入込んだ事、しかと突止めて参った。下手に隠しだてを致すとためにならんぞ」
「――面白いな」
賀茂は静かに冷笑して、
「手負いが逃込んで来たかどうか、聞きもせずまた見もせぬが、ためにならぬの一言は気に入った、摩耶谷にも建武この方鍛えに鍛えた郷士魂がある、鐘ひとつ打てば百余人、いささか骨のある者共が集まって来よう、お望みならばひと合わせ
にやっと笑った老顔のたくましさ、――摩耶谷の人々が勇猛果敢な闘士揃いである事は、この近国に隠れのない事実だった。しかも他国の者には迷宮そのもののような、深い渓谷と密林を擁して出没自在に働かれては、とうてい五千や一万の軍勢で攻めきれるものではない。
さすがに木曾の荒武者もそれは知っていたから、こう真っ向から
「よし、その言葉を忘れるな」
そう強がりを言って、口惜しそうに部下を促しつつ立去って行った。
――お知らせしなければならない。
そう思ったが、もうすでに日も傾いている時刻のことで、再び家を出るわけにはゆかなかった。
あくる朝早くと思ったが、人眼が多いのでつい
「兵馬さま、いけません」
と駆寄った。
「おお! お弓どのですか」
「木曾の侍たちがあなたを捜しに来ています、早く中へお入り下さいませ」
「なに木曾の者が」
兵馬はがばと身を起こしたが、
「や――」
と森の方を見て低く叫んだ。――お弓は助け起こそうとしながら、
「何ですの?」
「いまあの森の入口に人がいたように思ったのです、眼の誤りかも知れないが……」
「見て来ますわ」
お弓は岩を廻って、茨の茂みを伝いながら森の方へ忍び寄って行った。――しかし、油断なくずっと捜したけれど、どこにも人のいる気配はなかった。
「大丈夫ですわ、誰もおりは致しません」
「ではやはりなにか見違えたのでしょう」
お弓は兵馬を
「そうですか、それではここにも永くお世話になってはいられませんな」
「いえ大丈夫ですわ、ここは村の者でも滅多に来ない場所ですから、注意さえしていらっしゃれば決して御心配はありません」
「いやそれではないのです」
兵馬はきっと眼をあげて、
「木曾の者がここまで入込んで来るところを見ると、たしかに敵は先手を打って合戦を仕かける計略です、――戦いの始まらぬ前に、どうにかしてお城へ報告をしなければ、折角の苦心も水の泡だし合戦も不利になる、……お弓どの、無理なお願いだが、
「さあ――」
「一生のお願いです、この通り」
頭を下げて必死の頼みだった。――高山城の姉小路家は、永年のあいだ摩耶谷の一族を保護している人だ。父に話したら許して貰えるかも知れない……お弓は決然と立った。
「
「――
「五郎」
お弓は振返って、
「おまえお側を離れずに番をおし、どんな者が来ても兵馬さまをお護りするのだよ、わかったわね」
熊はいかにも心得たように、首を振りながら身をすり寄せ、妙に哀しげな声をあげて二声三声ほえた。
「頼んでよ!」
と言ってお弓は外へ。
岩窟を出て、
だーん、だーん。
と二発の銃声が聞こえたので、お弓はぎょっとしながら立止まった。風のない静かな
「うお……、うお……」
という悲しげな獣の悲鳴が森に
――五郎!
と思うより先に、お弓は
「あッ、やっぱりおまえ」
と立ちすくみながら、中を
「兵馬さま、兵馬さま、お気をたしかに」
「おお、お弓……どのか、残念――」
「何者がこんな事を」
「岩陰から、鉄砲で」
兵馬は射抜かれた胸を
「拙者はもう、駄目です、これを、大縄の出城へ、届けて下さい、お願いです」
「大縄の出城へ!」
「早く、拙者に構わず早く」
「御安心下さい、必ずこれはお届け致します」
「それから、五郎」
兵馬は苦しげに息をついて、
「五郎は、あなたの言付け通りよく
「兵馬さま!」
あわてて手を差伸ばしたが、兵馬は崩れるようにそこへ倒れてしまった。――お弓は
「よく、よく死んでおくれだったね五郎、有難う、ほめて、ほめてあげますよ」
お弓は
「おまえと兵馬さまの
生きている人にでも聞かせるように、背を
そしてそこには、もっと驚くべき出来事が待っていた。
裏口から屋敷へ入ったお弓、もうとっぷり暮れているのに、家の中は燈も
「ととさま、ととさま」
大声に呼んだ、肩を
「お弓か、む、無念だ――」
「誰がこんな事を」
「村井、伝之丞」
「あッ――」
「摩耶谷の、抜け道の古図を奪って、木曾へ走った、きゃつ、――お弓! きゃつの行く先は、鹿追沢の砦だぞ、父の
「はい、はい、わかりましたととさま」
「行け、早く、――鹿追沢の砦だぞ……」
それだけ言うのが精一杯だった。
今こそわかった。兵馬と五郎を射ったのも伝之丞だ、昨日岩窟を出たところで出会ったが、あの時もう知っていたに相違ない、――鹿追沢の武者たちが来て、抜け道の図さえ差出せば五千貫の侍大将にしてやるというのを聞き、かねてから山を下りたがっていた伝之丞は、父を斬って古図を盗み出し、また高山城の間者たる兵馬を射殺して、二つの手柄を土産に木曾方へ駆込んだのだ。
――

お弓は
「ととさま、伝之丞はきっとお弓が討取って御覧に入れます。摩耶谷の掟は必ず守られます、見ていて――」
お弓は涙をふるって立つと、手早く納戸から伝家の
危急の鐘を聞いた一族の
「摩耶谷の掟が破られたのです、一族の中に裏切者が出て、父賀茂を闇討ちにかけ、抜け道の古図を奪って木曾の出城へ逃げ込みました」
「誰だ、その裏切者は誰だ」
「村井伝之丞」
わっと人々がどよめきたった。
「追え追え、伝めを逃がすな」
「斬って取れ、木曾へやるなッ」
「伝めを討て」
高く武器を打振りながら口々に怒号した。――お弓は手を挙げて続けた。
「まだあります。伝之丞は、
「行け行け、鹿追沢の砦をひと
「裏切者を討取れ」
「摩耶谷一族の名を汚すな」
どーっと喚声が揺れ上がった。お弓はにっこり微笑むと、若者の一人に、さっき兵馬から托された書き物を渡して、大縄の出城へ、
――摩耶谷の一族が鹿追沢の砦へ夜討をかけるから、姉小路の軍勢もすぐ繰出すよう。
と伝言を添えて使者に立て、
「いざ!」
大薙刀を挙げて叫んだ。
「鹿追沢へ、鹿追沢へ」
「わあっ」
城といっても、この辺にあるのはまだ
「夜討だ、夜討だ、出会え――」
番士の叫びに、城兵が慌てて跳び出した時には、すでに館は火を発していたし、柵を押破り壕を渡った摩耶谷勢が、お弓を先頭に雪崩を打って斬込んでいた。
炎々と燃上がる
「言いがいなき木曾勢よ」と馬首を立直した時、
「伝めだ、伝めだ、逃がすな」
「伝之丞がそっちへ!」
と
「うぬ、卑怯者

ぱっと馬腹を
「伝之丞、待て」
と言う声に振向いたが、
「ム、お弓、貴様か」
「父の名代じゃ、摩耶谷の掟を破った罪、父の仇、高山城の忠士を討った卑怯者、その首
「うぬ! 小女郎ッ」
抜打ちに斬りかかる伝之丞、お弓はひらりと馬を下りるや、跳び違えて、
「えイッ」
相手の剣を凄まじくはね上げるや、踏込んで払いあげる薙刀、
「討った、討った、裏切者は仕止めた」
さすがに乙女だった。朽木のように倒れる伝之丞を見ると、張詰めていた気もゆるみ、声を
「お
天をこがす焔、死闘の叫喚を縫って、遠くえいえいと陣押しの声が聞こえる、――恐らく大縄の出城から、姉小路の手勢が押寄せたのであろう。……高く高く、焔に染められた空のかなたに、驚いて舞上がった