峠の手毬唄

山本周五郎




一の一


やぐら峠は七曲り
 谷間七つは底知れず
峰の茶屋まで霧がまく……。
 うっとりするような美しい声がどこからかきこえてくる。
 夜はとうにあけているが、両方から切立った峰のせまっているこの山峡やまかいは、まだかすかに朝の光が動きはじめたばかりで、底知れぬ谷間から湧きあがる乳色の濃い霧は、断崖きりぎしの肌をらし、たかいひのきの葉や落葉松からまつの小枝に珠をつらね、渦巻き、ただよいつつ峠路の上まではいのぼっては流れて行く……。ここは出羽でわの国最上もがみこおりから、牡鹿おがの郡へぬける裏山道のうち、もっともけわしいといわれるやぐら峠である。酢川岳すがわだけの山々が北に走っていくつかにわかれ、その谿谷けいこくが深く切込んだところに雄物川おものがわの上流が白い飛沫しぶきをあげている。峠道はその谿流にそって、断崖の上を曲り曲り南北に走っているのだ。
お馬が七ひき駕籠かご七丁
 あれは姫さまお国入り
七峰のこらず晴れました……。
 霧の中を唄声うたごえが近づいて来たと思うと、やがて院内いんないのほうから、旅人を乗せた馬の口を取って、十四、五になる馬子が登って来た、――五郎吉ごろきち馬子と呼ばれて、この裏山道では名物のようにいわれている少年である。
「これこれ、馬子さん」
 馬上の旅人は唄のくぎりをまって、
「いま唄ったのは新庄しんじょうあたりの武家屋敷で手毬唄てまりうたによく聞いたものだが、この辺では馬子唄に唄うのか」
 と話しかけた。五郎吉ははしこそうな眼をふりむけながら、
「おっしゃるとおりこれは手毬唄ですよお客さん、峰の茶店のおゆきさんがいつも唄っているんで、おいらもいつか覚えてしまったんだよ」
「そうだろう、どうも馬子唄にしてはすこしへんだと思ったよ。――けれど、それにしてもこんな山奥の峠茶屋で、武家屋敷の手毬唄を聞くというのは、何かわけがありそうだな」
「そりゃあわけがあるさ」
 五郎吉はひとつうなずいていった。
「その茶店のおゆきさんの家は、もと新庄の在で古くからある大きな郷士だったんだ。旦那だんな伝堂久右衛門でんどうきゅうえもんといって、新庄のお殿さまからやり頂戴ちょうだいしたくらい威勢のある人だったよ」
「ほう、それがどうしてまた峠茶屋などへ出るようになったのだね」
「久右衛門の旦那にはおゆきさんのほかに、その兄さんで甲太郎こうたろうという跡取がいたんでさ、ところが今から五年まえ、その甲太郎さんが十八の年に酢川岳へ猪射に出たままゆくえ知れずになってしまったんです。谷川へ落ちて死んだともいうし、江戸へ上って浪人隊に加ったともいうし。……ほんとうのことは誰にもわからずじまいでしたが、旦那はそれからすっかり世の中がいやになったといって、屋敷や田地を手離したうえ、おゆきさんと二人でこの峰の峠茶屋をはじめたというわけですよ。――だが、おいらが思うには」
 と五郎吉は話をつづけた。「旦那がこの茶屋をはじめたのは、ゆくえ知れずになった甲太郎さんをさがすためじゃないかと思うんだ。上り下りの旅人のなかにもしや甲太郎さんがいやあしないかってね」
「そうかも知れないな」
 馬上の旅人はいくどもうなずいた。
「いや、ほんとうにそうかも知れない、……なんにしてもお気の毒な話だ、私もそこで茶をよばれて行くとしようか」
「そら、もうあすこへ見えてますよ」
 霧がうすれて、峰のあいだから朝日の光がまぶしいばかりにさしつける峠道の頂上、断崖のほうに五、六本のくぬぎ林があって、その中に一軒の茶店がたっていた。――五郎吉が馬をいて近よりながら、
「おゆきさん、お客さまだよ」
 というと、十五、六になる美しい娘が走り出て来て、
「おつかれでございましょう、どうぞお休みなさいまし、五郎さん御苦労さまねえ」
 と愛想よくまねきいれた。――さかしげな眼をした色白の少女で、いかにも由緒ある郷士の末らしく、貧しげな姿こそしているが身ごなし、かっこうには争えぬ気品がそなわっていた。
「今日はいいお日和ひよりでございます」
「よく晴れたね」
「御道中もこれならお楽でございましょう。ただ今お茶をいれまする、――五郎さん遠くまでお供かえ」
 娘はまめまめしく茶釜の前で働きながら少年のほうへ笑顔を向けた。
「ああ岩崎いわさきまでお送り申すんだよ」
「おやそう、では湯沢ゆざわを通ったら帰りにまた蕗餅ふきもちを買って来ておくれな、父さまの好物が切れて困っていたところなの」
「いいとも、買ってきてあげるよ」
 このとき茶店の裏を、すんだ声で叫びながら一羽の鳥が飛び過ぎた、――旅人がおやという眼つきでふり返ると、娘は茶を運んできながら、
郭公ほととぎすでございます」
 といった。

一の二


 五郎吉の曳いた馬が、峠を下りて見えなくなるまで見送っていたおゆきは、
「――おゆき、おゆき」
 と呼ぶ声に気づいて、
「はい、ただ今」
 あわてて茶盆を手にしながら中へ入った。――奥はふた間の、粗末ながら掃除のいきとどいた居間で、父の久右衛門は床の上に半身を起し、碁盤を脇へ置いてひとり石をならべていたが、娘がくるとあらぬほうを見ながら、
「いまのお客は上りかな」
「いえ岩崎へお下りですって、三十ぐらいのお商人あきんどふうのかたでしたわ」
「……そうか」
「それより、ねえ、父さま」
 さびしげな父の横顔を見て、おゆきはわざと元気な声をあげながら、
「いま五郎さんに頼みましたから、今夜は蕗餅が召上れますわよ」
 そういって店先へ出て行った。
 兄のゆくえが知れなくなって五年、ここへきてからすでに三年、口ではあきらめたといいながら、やっぱり父も兄の帰りを待っているのだ、……そう思うとおゆきの胸はかなしさにしめつけられるようだった。
 久右衛門ははじめから甲太郎は酢川岳の谷へ落ちて死んだものときめていた。そして現にさがしに行った人たちは、谷川の底にしずんでいた甲太郎の鉄砲をみつけて帰ったのである。同時にまた一方では、じつは江戸へ上って浪人隊に加ったのだという妙な噂もあった。――けれどおゆきは両方とも信じなかった。山にれた兄が酢川岳などであやまちをするはずはない、兄は生きている、きっと生きているのだ。それも噂のように江戸で浪人隊に加っているのではなく、ほんとうは京へ上って勤王党きんのうとうの人々と一緒に働いているに違いない、おゆきはかたくそう信じていた。
 兄は日頃から王政復活ということを口にしていた。
 新庄藩は佐幕派さばくはの勢力が強かったから、友達にも父にももらしはしなかったが、おゆきにはよく話した。
 ――おまえにはまだわかるまいが。
 と兄は幼いおゆきにいった。
 ――日本はいま危い瀬戸際にいるのだぞ、いろいろ悪いたくらみを持った外国人が、四方八方から日本を狙っているのだ。しかも徳川幕府にはこれを防ぐ力がない、ただ一つの方法は、天子様をいただいて日本中の人間がひとつになり、力をあわせてこれにあたるほかはないんだ。
 ――日本中がひとつになるんだ、幕府も大名もない。全部の日本人が天子様をいただいてひとつになり、力をあわせて御国おくにをまもるんだ。
 面を正していった兄の、火のような語気が今でもおゆきの耳にありありと残っている。……兄がゆくえ知れずになった時、おゆきはまだ十歳でしかなかったが、お兄さまは死んだのではない、京へいらしったのだとすぐに思った。そして久右衛門も口ではあきらめながら、心ではやっぱり生きていることを信じているのであろう。ことにこの頃では、通りかかる旅人があるたびに弱くなった老の眼を光らせながらそれとなく見送っているのであった。
 ――お気の毒な父さま。
 おゆきはそっとつぶやいた。おゆきにはわかっている、兄はもどりはしないのだ、王政復活のために命を投出した兄だ、新しい日本ができあがるまでは帰るはずはない。けれど、それをいったら父はどんなに落胆するであろう。
 ――おかわいそうな父さま。おゆきがもういちどそうつぶやいた時である。新庄のほうからすさまじいひづめの音が聞えてきたと思うと、馬をあおって二人の武士が店先へ現れた、――馬上の一人が手綱をしぼりながら、
「これ娘、――」
 と呼びかけた、「今朝この道を武士が一人通りはしなかったか」
「あの、お侍さま……」
「いや姿はかえているかも知れぬ。見馴れぬ男が通ったかどうだ」
「今しがた一人」
 とおゆきは軒先へ出て、「五郎吉馬子の馬でお商人ふうのかたが岩崎へお下りなされました、まだ杉坂までは行くまいと存じます」
「――それだ!」
 とつれの者が叫んだ。
「おくれてはならぬ、追おう」
「心得た」
 二人は馬首をめぐらせると、むちをあげてまっしぐらに峠を下って行った。

二の一


 日はすでに高くあがって、深い谷底を流れる谿流けいりゅうの音が、断崖に反響しながらさわやかに聞えてくる、森から森へなきうつる郭公の声は、それでなくてさえさびしい山中の静けさを、いっそうものわびしくするばかりであった。
 ――何があったのかしら。
 駆け去った二騎のあとを見送って、おゆきは妙な胸騒を感じた。
「おゆき、今のはなんだ」
「新庄のお侍さんらしいかたたちよ、たすきがけで汗止をして、はかま股立ももだちを取っていました、誰かを追いかけて……」
 おゆきはぴたりと黙った。――道をへだてた眼の前の雑木林の斜面から、旅支度をした一人の武士がずるずるとすべり降りて来たのだ。
 ――あっ!
 驚いておゆきが奥へ入ろうとすると、その武士は脱兎だっとのようににげこんで来て、
「お願いです、こ、これを」
 と、いきなり持っている物をおゆきの手に押しつけた。
「これをお預かりください、命にかえても守るべきたいせつな品ですが、前後を追手にかこまれて絶体絶命です、決してあやしい物ではありませんからどうかお預かりください」
 かさをかぶっているのでよくわからないが、まだ年若な武士である。
 衣服は無残に引裂け、肩から土を浴びている。――必死の声音に胸をうたれて、おゆきは思わず、その品を受取った。それは螺鈿らでんぢらしの立派な文匣ふばこであった。
「――かたじけない」
 若い武士は笠へ手をかけて、「七生かけて御恩は忘れません。もしまた明朝までに拙者が参らなかったら、湯沢の柏屋と申す宿に、沖田伊兵衛おきたいへえという――あッ」
 若い武士は身をひるがえして、
「追手がまいった、お願い申すぞ!」
 いいざま道へ走り出た。
 いま若い武士がすべり降りて来た斜面から、四、五人の追手の武士が現れたのである。おゆきは見るより早く、茶釜ちゃがまとならんでいる空の甘酒釜の中へ、その文匣を入れてふたをした。
 若い武士は湯沢のほうへ飛礫つぶてのように走って行ったが、追手はすぐに追いついたらしい。
「えいッ」
「やあーッ」
 というはげしい気合がきこえてきた。
 おゆきは裸で水を浴びたように、つまさきからぞっと総毛立った、父がなにかいったらしい、けれどそれも耳に入らず、ただすさまじい斬合いの気配に全身をしばりつけられていたが、――なかば夢中でふらふらと軒先へ出て行った。
 晴れあがった暖かい日差の中で、白虹はっこうのようにやいばひらめいた。人影がさっと入乱れ、鋭い叫声がきこえたと思うと、追手の一人が道の上に倒れ、若い武士は断崖のほうへ身をしりぞいた。四、五人いた追手が今は二人になっている。しかし若い武士のほうも手傷を受けたらしく、正眼にかまえた体がふらふらと揺れていた。――と、その時、湯沢のほうからかっかっとひづめの音がして、さっき五郎吉の馬を追って行った馬上の武士が二人、何か大声にわめきながら乗りつけて来るのが見えた。
 ――ああいけない。
 思わずおゆきが心に叫ぶ、
「えいッ、とう!」
 絶叫が起って、追手の一人が体ごとたたきつけるように斬込んだ。若い武士は危くかわしたが、体をひねった刹那、右足を断崖から踏外したので、あっ! と声をあげながら、まりのように谷底へ――。
 おゆきははっと両のそでで面をおおったが、一時に体中の力がぬけてよろよろとよろめいた、――もしそのとき走り出て来た久右衛門が支えてやらなかったら、おゆきは気絶して倒れたに違いない。
「おゆき! 入れというのがわからぬか」
「……父さま」
「しっかりせい、家へ入るのだ」
 久右衛門がおゆきをかかえるようにして家の中へ入ろうとすると、馬上の武士二人と、追手の者二人が足早に近寄って来て、
「待て待て、その娘待て」
 と呼止めた。――おゆきはふり返って、父の手から静かに身を放しながら、
「……はい」とおくしたふうもなく相手を見た。
「いま谷底へ落ちた若者が、ここへ立寄って何か預けたそうだな、その品を出せ」
「なんでございますか」
 おゆきは色もかえずにいった。
「いまのお侍さまはたしかにお寄りになりましたけれど、湯沢へ行く道をおたずねなさいましたばかりで、べつになにもお預かりしたようなものは」
「ないとはいわさぬぞ」
 馬上の一人がひらりと馬を下り、鞭を片手にづかづかとおゆきの前へ立塞たちふさがった。
「――でもわたくし何も」
「黙れ、今おまえは湯沢へ行く道をきかれたといったな」
「はい」
「たしかに湯沢への道をきいたか」
「……はい、たしかに」
「嘘だッ」相手はぴしッと鞭で地面をうちながら叫んだ。

二の二


「嘘だ、嘘の証拠を聞かせてやろうか、いまの男は新庄藩の家中でこの付近の地理はよく知っているのだ、なにを戸惑って湯沢へ行く道などをきくわけがある!」
「――――」
「何か預かったのであろう、おとなしく出せばよし、かくしだてをすると」
 いいながらぐいとおゆきの腕をつかもうとする、その手をぱっと払いながら、
「待たれい」
 と久右衛門が割って出た。
「貴公らは新庄の御藩士と見受けるが、年少の娘をとらえて乱暴をなさるのはもっての外であろう、今こそ茶店をいたしておるが、わしもかつてはお目見以上のお扱いを受けていた、伝堂久右衛門という名ぐらいはお聞きおよびであろう」
「伝堂……あ! 待て鹿島かしま
 その時まで馬上にいた一人が、あわてて飛下りざま近よって来た。
「お許しください、失礼つかまつった」
 慇懃いんぎんに会釈して、「いずれも存ぜぬことでござる。ひらにおゆるし願いたい、拙者は新庄藩の家中にて渡部金蔵わたべきんぞう、これは鹿島源四郎げんしろうと申します。じつは――お家に不忠を働いて脱走した者を追詰め、その者はただいま谷底へ蹴落けおとしましたが、持って逃げたたいせつな品が見あたらず、追手の者の申すにはこの家へお預けするのを見たとのことで、失礼をも顧みずおたずねいたしたしだいでござる」
「……不忠とは、どのような不忠をいたしたのか、してまたその品とは何でござる」
「それらのことはお答えがなりかねます。もし事実お預かりになったものなら、ぜひともお差出しが願いたい」
「おゆき――」
 久右衛門はふりかえって、
「おまえ何か預かったのか」
「……はい!」
 おゆきは恐れ気もなく眼をあげていった。
「たしかにお預かりいたしました」
「――――」
「父さまのお名が出ましたからは、もう嘘は申せませぬ、たしかにお預かりいたしました……けれど、あなたがたにお渡し申すことはできませぬ」
「それは、どうして――」
「お武家さまがわたくしに頼むと仰せられた品です。伝堂久右衛門の娘として、いちどお約束をした以上はどんなことがあってもそれを反古ほごにすることはできませぬ」
 断乎だんこたる態度であった。――鹿島源四郎はぎらりと眼を光らせ、大股おおまたに一歩進みながら、
「失礼だが、それでは賊臣の同類ともなることを御承知なのだな」
「お言葉が過ぎまする」
 おゆきはきっぱりといった。「わたくしを賊臣の同類とおっしゃるまえに、あなたがたが御忠臣であるという証拠をお見せくださいまし。そのうえで御挨拶ごあいさつをいたしましょう、――もしまたそれが御不服で、力づくでも受取ると仰せられるなら」
「どうするというのだ」
 おゆきは身をひるがえして家の中へとびこんだが、すぐに真槍しんそうさやを払って現れた。
「これは新庄のお殿さまから拝領のお槍、かなわぬながらお相手を致しますゆえ、わたくしを斬伏せてから家さがしをあそばせ」
「うぬ、――無礼なことを」
 源四郎が思わずふみ出すのを、
「待て、待て鹿島」
 と渡部金蔵が押し止めた。「殿よりいただいたお槍だ。無礼があってはならぬ、待て」
「だがあの品を」
「よいから待てというに」
 おさえておいてふり返り、
「いまいわれた賊臣でない証拠を見せろというお言葉、いかにも道理でござる。その証拠を見せたらお渡し願えましょうな!」
「わたくしに合点がまいりましたら、お渡し申します」
「では新庄まで立ちもどり、証拠となるべきものを持参仕る、そのあいだかの品は相違なくお預かり願いますぞ」
「わたくしは伝堂の娘でございます」
「――――」
 じっとおゆきの眼をみつめながら、渡部金蔵は大きくうなずいてきびすをかえした。
 つれの者をうながして四人は去った、久右衛門はさっきから黙って始終を見ていたが。――四人の者が手負を馬に乗せ、新庄のほうへ去って行くのを見すますと、静かに娘の肩へ手をかけていった。
「おゆき、おまえは何歳になる?」
「まあ――何をおっしゃいますの。十五だということは御存じのくせに」
「立派だったぞ」
 久右衛門の眼に光るものがあった。
「何もいわぬ、……立派だったぞ」
「父さま!」
 おゆきは槍をおいてひしと久右衛門の胸へすがりついた。――張りつめていたればこそ、大人も及ばぬつよさを見せたけれど、その張がゆるめばやっぱり十五の少女である。喜びとも悲しみともつかぬ涙でぬれた頬を、おゆきは赤子のように父の胸へすりつけていた。

二の三


 家の中へ入ると、久右衛門は改めて、
「だがおゆき、おまえ御家中の士にあれほどさからったのは、ただ約束を守るというだけなのか、ほかに何か考えがあってしたことなのか」
「――父さま」
 おゆきはまだ涙にぬれている眼をあげて、けれど唇には静かな微笑を見せながらいった。
「わたくし、あの若いお侍さまのようすを見たときに、このかたは悪いことをなすっているのではないとすぐに思いました」
「どうしてそれがわかる?」
「自分で悪いことをするような人は、他人をも疑うのが普通でしょう? あのかたはすこしもおゆきを疑わず、命にかえても守らなければならぬというほどたいせつなお品を、見も知らぬわたくしにお預けなさいました。自分は死んでもこの品は渡せないという御立派な態度は、もし父さまがごらんになったとしても、きっとおゆきと同じようになすったと存じますわ」
 久右衛門は黙ってうなずいた。――由緒ある郷士の娘として、おゆきはつよさだけでなく、ものをみる正しい眼も持っていた。
「それでよく分かった。けれど……預けた本人が谷底へ落ちて死んでしまったとなると、その品をおまえはどうするつもりなのか。やがて新庄藩の者がまたとりもどしに来ると思うが」
「新庄まで行って来るには、馬で走っても明日のひるまではかかりますわ。わたくしそのあいだに湯沢へ行ってまいります」
 おゆきは若い武士の残した言葉を思出しながらいった。
「あのお侍さまは、もし明朝までに来なかったら、湯沢の柏屋にいる沖田伊兵衛という人のところへ、とおっしゃいました。追手が来たのでそのあとはうかがいませんでしたけれど、そこへとどけてくれというおつもりに違いないと思いますの」
「もし途中でみつかったら」
「いえ、裏の断崖の水汲みずくみ道をつたって、杉坂を越えれば佐竹さたけ様の御領分です。大丈夫みつからずに行って来られますわ」
「では早いほうがいいな、――いや待て!」
 久右衛門はきっと道のほうを見やった。
「……なんですの」
「見張の者がいる」
 おゆきが驚いてふり返ると、道をへだてた斜面の雑木林の中で、木陰にさっと身をかくした者があるのをみとめた。あいだが遠いので話はきこえまいが、今までこっちのようすを見張っていたらしい。
 おゆきはそ知らぬ顔で立つと、茶釜ちゃがまの側へ行って焚木たきぎをくべながら、静かな美しい声でうたいだした。
やぐら峠は七曲り
 谷間七つは底知れず
峰の茶屋まで霧がまく……。

三の一


 雲ひとつない空にこうこうと月がかがやいていた。
 谿谷けいこくをはさんだ峰々は墨絵のおぼろに似て、あるいはゆるやかな、あるいはけわしい線を描きつつ酢川岳のほうへ夢のようにかすんでいく。……春とはいえ夜に入ると寒気はきびしく、枯草や道の石塊にむすんだ霜が、月を浴びてきらきらと光っていた。
 おゆき茶屋のほうから猫のように足音を忍ばせて、黒い人影が峠路の折口にある大岩の陰へもどって来た。……そこには覆面の武士が三人かたまっていた。
「どうだ、あやしいようすはないか」
「何もない、――娘は居間で糸車をまわしながら、例の手毬唄てまりうたを唄っている」
「ではほんとうに渡部氏の来るのを待っているのかな」
「そうとすれば」
 と一人が身ぶるいしながらいった、「こうやって霜に打たれて見張をする必要はないぞ」
「いや、万一ということがある」
「そうだとも、渡部氏のもどって来るまでは油断してはならぬ」
 そういって彼等は岩陰へ身を寄せた。
 その時、――彼等のいるところから二、三十歩はなれた枯草の中を、するすると峠路の下のほうへ動いて行く影があった。身の丈に近い笹藪ささやぶと雑草の中を、いたちのようにす早くぬけて行くと、ひと曲り曲った峠路の上へひょいと姿を現した、……それは五郎吉馬子であった。
 五郎吉は道傍みちばたの杉の木につないである馬に近寄って、平首をたたきながらひくく、
「おい兄弟、どうもへんだと思ったら、おゆきさんをねらってるやつがあるんだ、おいらはちょっと知らせに行くから、おめえここで待っててくんな、いいか、さびしくっても声を立てるんじゃねえぞ」
 そういって五郎吉は側を離れた。
 道を越して断崖のほうへ行くと、谷へ降りるあるかなきかの小道がある、五郎吉はまるで猿のように身軽く、その小道を伝っておゆき茶屋の裏手へと急いだ。――茶屋の裏はすぐ断崖で、その水汲道はちょうどそのくりやの前へ出る、五郎吉がようすをうかがうと、ぶうんぶうんという糸車の静かなうなりのなかに、おゆきの手毬唄がきこえていた。
「……おゆきさん、――おゆきさん」
 五郎吉は声をしのばせて呼んだ。
「五郎だよ、おゆきさん」
 声がきこえたのか、唄がやんで厨へ出て来る娘の気配がした。――音もなく明ける雨戸、五郎吉は待ちかねてとびこむと、
「おゆきさん大へんだ、表であやしいやつが」
「静かになさい」
 おゆきは急いでさえぎりながら、
「それよりあたし五郎さんの帰りを待っていたのよ、馬はどうして? 見張の人たちに気づかれやしなかった?」
「大丈夫だ」五郎吉は大きくうなずいて、
「へんなやつがいるもんだから馬をつないどいて先にようすを見たのさ、そうするとこの家をねらっていることがわかったから、裏道を伝って知らせに来たんだ。馬は大曲りの杉につないであるよ」
「ありがとう、よくそうしてくれたわね五郎さん、あたしあなたの馬を借りようと思って待っていたの、これで大切なお約束をはたすことができるわ」
「大切な約束ってなにさ」
「あとで父さまにきいてちょうだい、あたしはすぐに出かけるわ」
 おゆきは若い武士の預けて行った文匣ふばこを取って来ると、わけがわからずにぼんやりしている五郎吉を押しやって、
「それからお願いがあるの、あたしのかわりに糸車を廻して、あの手毬唄を唄っていてちょうだい、見張の者にあたしがいると思わせるのよ」
「いいとも。だけどおいら、とてもおゆきさんみたいな声じゃ唄えねえや」
「大丈夫よ、五郎さんの声はあたし以上だわ、頼んでよ!」
 そういうともう、おゆきは裏手へとすべるように出て行った。
 断崖の岩をえぐって造った桟道である。一歩をあやまっても千仞せんじんの谷底へ落ちてしまう。しかしれているおゆきは身も軽く、五郎吉の通って来たのを逆になんなく峠路へ出た。……明るい月光は昼のようで、うっかりすると折口の岩にいる見張の者に発見される。おゆきは身を伏せながら、五郎吉の馬のつないであるところまで息もつまる思いでたどりついた。

三の二


 おゆきは肩で息をしていた。
 湯沢の町はずれにある宿、柏屋の奥のひと間で、いま沖田伊兵衛と向かい合っているのだ。
 ――伊兵衛は四十あまりの眼の鋭い武士で、言葉なまりから察すると薩摩さつまの人らしかった。うすぐらい行燈あんどんの光でじっとおゆきは相手の面をみつめながら、……今朝からのできごとを手短に話した。
「――御苦労でした」
 話をききおわった伊兵衛は、鋭い眼にありありと感動の色をうかべながら、
「同志の者のために思わぬ御迷惑をかけました。拙者からあつくお礼を申し上げます」
「つきましては」
 おゆきはかたちを正して、
「この文匣の中には何が入っているのか、お聞かせ願いたいと存じます」
「……それを聞いて、どうなさる」
 伊兵衛はぴりっとまゆをあげた。――おゆきはおくせずに相手を見て、
「わたくしはあのかたを正しいおかただと存じました、けれど万一にもそうでないとしたら、失礼ではございますけれど、あなたにお渡し申すことはできませぬ」
「……もし話さぬとしたら?」
「このまま持って帰ります」
 伊兵衛はぴたっと沈黙した。おゆきはまたたきもせずに相手をみつめている、……行燈の油皿でじりじりと油の焼ける音が、寝しずまった家内に生物のつぶやきのごとくきこえている。
「――よろしい、話しましょう」
 伊兵衛はやがていった。「この中には、新庄藩主戸沢上総介とざわかずさのすけ殿の誓書が入っているのです。尊王攘夷じょういを朝廷に誓い奉る誓書です。――新庄藩は佐幕論でかたまっていますが藩主上総介殿は尊王の心にあつく、ひそかに京へこの御誓書を奉り、忠節の誠をお誓い申し上げるのです」
「……まあ」
「おわかりになりましたか」
 伊兵衛は静かに眼をあげて、
「佐幕派の家老たちがそれと知って、八方から邪魔をしていたのですが、ようやく同志新島貞吉にいじまさだきちがこれを受取る手はずをつけたのです」
「ではあのかたが……?」
「お預けした男が新島です、これで彼の役目は立派にはたせました、何もかもあんたのおかげです、――お礼を申します」
 伊兵衛は両手をひざにおじぎをした。
 おゆきはほっと溜息ためいきをついた。やっぱり自分の眼は正しかった、よいことをしたのだ。……兄が生きているとすれば、この人たちと同じようにどこかで天子様のために働いているに違いない、そして自分のしたことがもし耳に入ったなら、兄もきっとほめてくれるであろう。
「ではこれでおいとまを申します」
 おゆきは立ちあがった。
「お待ちなさい、――帰るのはいいが、もし新庄藩の者が受取りに来たらどうなさるか」
「さあ……それは」
「この文匣がなくてはいけないでしょう」
 伊兵衛はそういって座をすべり、うやうやしくひもをとくと、中に入っていた誓書を取出し、そのあとへ手早く偽筆の誓書を書いて入れた。
「これでよい、これを持ってお帰りなさい」
 もとどおり紐をむすんで差出しながら、
「せっかくのお骨折にもお礼をすることができません、しかしこの御恩は終生忘れませんよ。……それから取りまぎれてうかがわなかったが、お名前を聞かせてください」
「はい、伝堂ゆきと申します」
「――伝堂、……おゆきどの、――」
「ただ今では茶店をいたしておりますけれど、以前は郷士で父は久右衛門と申します」
 伊兵衛は急にあっとひくく叫んだ。そしてしばらくはおゆきの面を茫然ぼうぜんと見まもっていたが、やがて驚きをしずめながらいった。
「もしや、あなたに兄さんが……」
「あります、ありますわ」
 おゆきも思わず膝をすり寄せた。「甲太郎と申しますの。五年以前ゆくえ知れずになりましたが、御存じでございますの?」
「――奇縁だ」伊兵衛はうめくようにいった。
「知っています、知っていますとも。伝堂甲太郎は拙者の親友です。京ではいま尊王志士のあいだになくてはならぬ人物として活躍していますよ。――故郷に久右衛門という父とおゆきという妹がいると、いつか聞いたのを覚えていました。あなただったのですね」
「まあ……兄さまが」
 おゆきはうれしさにせきあげながら、
「そんなに、立派になっていますの?」
「倒幕の戦が始れば一方の旗頭です。あなたのことを話したらどんなによろこぶか、……じつに思いがけぬみやげができました」
「わたくしもこれで安心いたしました」
 おゆきはそっと涙をふきながらいった、「どうぞ兄にお会いになりましたら、ゆきは父さまと一緒に元気で暮しているとお伝えくださいまし」
「承知しました、――やがて日本の新しい時代が来るまで、あなたもお父上もどうか御無事で」
 伊兵衛の眼にも温かい涙が光っていた。

「おい、とうとう夜が明けたぞ」
「――ついに何ごともなしか」
 峠路の岩陰から、見張役の三士がふるえながら現れた。
 朝はふたたびやぐら峠に来た。谷間は渦巻く濃霧で、向こうの峰をすっかりつつんでいる。日の光はまだとどかないが、頭上の空はぬぐったように晴れて、今日もまたすばらしい晴だということを示している。
やぐら峠は七曲り
 谷間七つは底知れず……。
 霧の中から唄声うたごえが近づいて来た。馬をいた五郎吉である。彼はちらと侍たちのほうへあざけりの微笑をくれ、つんと鼻を突上げながら、
峰の茶屋まで霧が巻く……。
 と唄って行く。――するとその時、茶店の表が明いて、おゆきが晴々とした笑顔を見せながら、五郎吉のあとにつけて唄った。
お馬が七ひき駕籠かご七丁
 あれは姫さまお国入り……。
 二人の声はまるで凱歌がいかのように、霧をゆすり谷にひびいて高々と空までのぼっていった。
七峰のこらず晴れました……と。





底本:「春いくたび」角川文庫、角川書店
   2008(平成20)年12月25日初版発行
初出:「少女倶楽部増刊号」大日本雄辯會講談社
   1939(昭和14)年2月
※表題は底本では、「峠の手毬唄てまりうた」となっています。
※初出時の表題は「勤王手毬唄」です。
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校正:noriko saito
2022年11月26日作成
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