「大変だあ大変だあ、
表からやみくもに跳込んできた
「ええ騒々しいや、頭アいるかって眼の前にいるおいらが見えねえのか」
「ほ、まったくそうだ」
「
「なにがって落着いてちゃあいけねえ、は組の若い者が全滅だ」
「この野郎、云うにこと欠いては組の若い者が全滅たあなんだ、
「嘘じゃねえ、まったくの話だ」
お天気安は眼を白黒させながら、
「なにしろ頭、
「なにを云いやがる、町内の
「するてえと浪人者がはたして怒った」
「なにがはたしてだ」
「いきなり
「――野郎」
というと佐兵衛も気が早い、いま磨いていた鳶口を持直すなり、ぱっと表へ跳び出した。――横丁を大通りへ出ると
「やあ
人混を
「おう辰、おめえ無事だったか」
「こりゃあ頭いいところへきておくんなすった、
「なんだと?」
「安吉をつれて
「そいつぁあ仰天だ」
と佐兵衛が
「なるほど仁木先生に違えねえ、これじゃあどうにもしようがねえから、とにかく
「それがこのとおり動かねえんで」
「まあいいや、おめえそっちの肩を貸しねえ、二人で担いでいこう、――
店の亭主に会釈をすると、佐兵衛は辰次に手伝わせて、
本所蜆河岸に、梶派一刀流を指南する
無論、五百名の門人の多くは諸侯の家士であったが、図書のもとで子飼から育った者の中に、
――お嬢様の
と下馬評はいつか
――蜆河岸の若先生。
などと呼ぶようになった。
ところが、ちょうど今から三年まえ、どうしたことか仁木兵馬の姿が突然この道場から見えなくなった。図書は言葉少なに、
――武術鍛錬のため諸国修業に出した。
と語っていたが、事実はそうでないらしく、娘の小浪などは悲嘆のあまりそれから半年ほど病床についたくらいであった。――は組の火消し頭佐兵衛は、かねてから図書のもとへ親しく出入りしていたし、仁木兵馬とも懇意だったので、それとなく行衛を捜していたがついにわからず、空しく三年の月日がたってしまったのである。
「仁木先生、あなたはまだ御存じあるめえが、道場は大変なことになりましたぜ」
「そんなことはどちらでもいい、酒をつげ」
「お酒はいくらでもあげますが、まああっしのいうことも聞いておくんねえ」
自家へつれ帰ると、もうすぐ酒を求める兵馬に佐兵衛は骨を
「先月の、そうだちょうどいまごろのことだっけ、風の強い夜更の二時すぎ、道場から急に火が出て、どうする暇もなくお屋敷から道場、すっかり丸焼けになってしまいました」
「そりゃあおおかた
「なんです」
「
「冗談どころじゃありません、駆けつけたあっしたちで、やっとお嬢さまだけゃあお助け申しましたが、旦那あとうとう御焼死なすった……」
兵馬は急に酔で
「仁木先生、――おまえさん、知っておいでなさるのか」
「いや、いやいや、知らんよ」兵馬は大声に遮った。
「今朝江戸へ入ったばかりで、そんな話はいま聞くのが初めてだ、しかし日頃の先生にも、似合わぬ焼死をなさるとは不覚だな、――そして、内
「それがね、その日にかぎって運の悪いことに松林さんが皆をつれて正月の祝いに奥の植半で夜通しの酒宴というわけです。たった一人残っている
「で……後はどうなった」
「へえ、なんでも松林さんを
「うまいことやったな、ははははは」
兵馬は手酌で、前にあった
「ちょいと出てくる」といって立ち上った。
「出てくるったって、急にそんな」
「なに、甲子雄とお嬢さんの顔が見たくなったんだ、二人の仕合せな顔がさ」
「そいつぁあいけねえ」佐兵衛はぐいと乗り出して、
「他の者あとにかく、そんな尾羽うち枯らした姿をお嬢さまに見せちゃならねえ」
「――なぜだ!」
「なぜったって、そう云えば先生にだって分るはずだ。ねえ先生、おまえさんが行衛知れずになってから、お嬢さまは
「ははははは、おい
兵馬は大剣を腰にさしながら、
「水の流れも人の心も、半刻として止まらねえのが世の中だ、お嬢さんにしたって昔は知らず、今は甲子雄と婚礼が定ったといえば、落魄れた兵馬を見るのもいい慰みだろう」
「――先生は人が違いなすったねえ」
「まあそんなところさ、行ってくるぜ」
と兵馬は表へ出ていった。
捜すまでもない。緑町四丁目で――有名な本所七不思議の一つ、『足洗い屋敷』の向う裏になっている角地、立派な構えで梶派一刀流指南、松林甲子雄という看板が出ていた。案内を
「おお仁木、仁木か」
「よく無事で帰ってきた、待兼ねていたぞ、さあ、とにかく奥へあがって」
「まあいい、それより先に十両ばかり金を貸してくれ」
「金を、――?」
「ふふふふ御覧のとおりの恰好で、今夜の宿銭にも困っているんだ、それともこの道場へおいてくれるか」
「いや、入用なら十両くらい用立てるが」
といっているところへさっきの門弟から聞いたのであろう、小浪が気もそぞろのありさまで走ってきた。
「まあ、兵馬さま、よう御無事で」
「これはお嬢さま」兵馬もさすがに手をおろした。
「ただ今江戸へ着きましたが、先生には意外の御最期……などと云ってみたところで、この姿では
「とにかくあがったらどうだ」
甲子雄が側から口を添えた。
朝からの酒びたり、酔うとごろ寝、日が暮れるとお天気安をつれて、外へ出てまた呑みまわる――まるでなっていない仁木兵馬だった。
「あんな人じゃなかったが」
佐兵衛は気抜けがしたように、
「人間なんてまったくどう転ぶか知れたものじゃあねえ、噂に聞くと初めて訪ねていって松林さんから十両借りたそうだが、もうそうなっちゃあ人間もおしめえだ」
以前
「先生大変だ、片付けたり片付けたり」
とお天気安が駆上ってきた。
「てめえの大変も
お天気安は火消の
「そんなこっちゃねえ、緑町からお嬢さんが訪ねておいでなすったんで、いま頭がおつれ申すから先へいって、片付けておけと」
「ええ、汚ねえ手で
兵馬は安吉の手を払って、
「朝酒五合は兵馬様のお勤めだ、将軍家が御成りでも片付けるこたあねえ、いやなら会わねえからとそういいねえ」
「いけないよ先生、おまえさんはそれだから」
「いいえ、どうぞそのまま」
そう声をかけながら小浪が入ってきた。
――お天気安は横っ跳びに出ていく。
「これはこれは」と兵馬も
「どうもかような見苦しいさまを御覧にいれて、なんとも面目がございません、ひらに――」
「兵馬さま」小浪はちらと
「先日、ゆっくりお話し申す
「しかし、そんなことは今さらになって」
「いいえ、あなたはなにも御存じないのです」
小浪は声をひそめていった。
「拙者が、なにを知らぬとおっしゃる?」
「父は不意の出火で焼死いたしました、――あなたもそれは御存じでございましょう?」
「うかがいました」
「嘘です!」小浪は
「――――」
「誰も気付かなかったようですが、あたくしははっきり見ました、肩から胸へかけて、鋭い刀痕がありありと残っていたのです」
兵馬はいきなり
「そんな話は、伺ったところでしようがない、あなたはもうすぐ甲子雄の嫁に……」
「兵馬さま!」小浪は悲しげにさえぎった。
「それはあんまりです、父の不審な
「泣くのは勘弁してください。せっかくいい心持に酔った酒が
「兵馬さま、それは御本心――」
とすりよったが、兵馬はもう眼を閉じて、軽く
「おい安の字、一緒に
「合点だ、先生のお供なら
「意地の汚ねえ声を出すなよ」
と安吉を
「きょうはどちらのほうへのしやすね」
「もう呑むことを考えていやがる、ちょうど金がなくなったからまず緑町の甲子雄を
「そりゃあ悪いよ先生、おまえ様はとかく松林さんを悪くいうが、あの人はどうして、なかなか物のわかる良い人物ですぜ」
「ほう、きさままた妙に肩を持つな、甲子雄から割でもとってるのか」
「冗談じゃあねえ、わっちがまえから鍔道楽なのは先生も御存じでしょう、その点でわっちゃあ松林さんの気性を見抜いているんだ。亡くなった大先生も鍔にゃあ眼が明るかったが、松林さんとくるとわっちに輪をかけたような鍔狂人だからね、鍔道楽するくれえの人間に悪いやつはねえ」
「ああ、その鍔で思い出した」
お天気安は手を
「いま思い出しても惜しくってならねえのは、ねえ先生、わっちがこの道楽にはいって一世一代てえ掘出し物をしたんで」
「と思ったら偽だというやつか」
「ところが、南蛮鉄で龍の透し彫、眼に金の象眼が入っている、耳のところにちょいとした
「そんな詰らねえ話はよしにしな」
「まあ聞いとくんねえ、先生もひと眼ご覧なさるなり、安――こいつは掘り出したぞ。越前の
「ざまあみろ、大欲は無欲だ」
「
「こっちゃあ
無駄話をしながら道場の前まできた。
「おめえここで待っていねえ」と安吉を表へ残しておいて、兵馬はずいとはいっていった。
門人に
「やあ、先日は失礼」
「――拙者こそ」甲子雄は静かに座って、
「なにか用でもあってこられたのか」
「また金さ、二十両ばかり貸してもらいたいのだ」
「貸すのはいいが、――そうたびたびは困るな、多くの門人を抱えて、これだけの道場を経営すると、そういつも遊んでいる金はないものだ」
「いやならいいのさ、そのかわりこの道場へ転げこむばかりだ、昔のよしみでまさかそれもいかんとはいうまいが」
「いや貸さぬとはいわん、貸すことは貸すがたびたびは困るというのだ」
「甲子雄、きさまそんなにおれが嫌いか」
「何をいう、貴公と拙者の仲で、今さらそんな
「そうか」兵馬はにやっと笑って、
「おれはまた、ここへおいてくれというたびに、きさまが慌てて金を貸すからおれが側におるとそんなに迷惑なのかと思ったよ、ははははは、落魄れると人間も
「そんな馬鹿なことがあるものか、では二十両でいいのだな」
「うんけっこうだ、あとはまた――」云いかけて、何をみつけたか、急に兵馬はむっくりと起き直った。――立とうとしていた甲子雄が、
「どうした」
「いや、なに……」と苦笑しながら、
「貴公の差しているその脇差、ばかに凝った
「ああ、どうぞ」甲子雄が
「――以前見たな、これは」
「そう、父から譲られたあの兼光だ、先日拵えを変えさせたのだ」
ぴたっと納めて返す。
「ありがとう、ちょっと失礼する」
そういうと、
「ときに、変なことを訊くようだが」
「――なんだ」
「蜆河岸道場の出火の夜、貴公は門人たちと奥の植半で
「いいや、どうしてだ?」
「なにべつに
「拙者は酒に弱いので早く酔いつぶれて、
「では、誰も道場へは戻らぬのだな」
「無論、みんな植半にいたが……それがどうかしたのか」
「なに、べつにどうもしないさ」
兵馬はふたたびにやりとして、
「ときにどうだ甲子雄、久しく貴公と手合せをせぬが、一本立合おうではないか」
「急に立合いをしろとは妙だな」
「妙なことがあるものか、久しい浪人暮しで、腕が鈍ったかどうか試してみたくなったのだ、それともおれとではいやか」
「いや望むところだが……」
「ではすぐにしたくをしてくれ、思いたつと我慢のならぬのがおれの性分だ」といいながら、早くも立上る。――そのようすを見た甲子雄、おりこそ良し、骨の髄まで懲りるほど打据えてやろうと、ひそかに
「おい、木剣でやろうぜ」
「――大丈夫か?」
「おれなら大丈夫だ、剣術は素面素
「それでは望みどおり」
三年間に相手はかく
その時、道場へ門人に案内されて、お天気安が佐兵衛と一緒にはいってきた。
「仁木先生、頭をお
「おう御苦労――」兵馬は振り返って、
「頼んだ物は持ってきてくれたか」
「へえ、何だか知れませんが、十両持ってすぐこいというお話で」
佐兵衛が近寄ってきて、
「裸のまんま持ってきましたが」
「すまない、借りておくぞ、――これから甲子雄と面白い勝負をするから、隅のほうへさがって見物していけ」
「そいつぁあ豪気ですな、拝見しましょう」
「それから安、――きさま、奥へいってお嬢さまを呼んでこい、早くしろ」
「へえ合点です」安吉は奥へ飛んでいく。――兵馬は受け取った金を甲子雄に差し出して、
「先日の十両、返すぞ」
「どうしたのだ、返してもらうつもりで貸したのではない、きょうもこれから二十両……」
「いや取っておけ、木剣試合はちょいと間違うと命に関わる、借金を残して死ぬのはいやなもんだ、さあこれで貸借なしだぞ」
「そうか、――よし」
頷いて金を受け取る。二、三歩さがって、
「では、願おう」
「――心得た」と兵馬も退る、――ところへ安吉が、小浪を促して立ち現われた。
「先生、お嬢さまが見えました」
「御苦労、――お嬢さま、いま甲子雄と面白い勝負をしますから、そこでゆっくりと御覧ください、それから……安」
「へえ」
「その上段に甲子雄の脇差がある、それをちょっときさま見てくれ」
そう云いざま、兵馬は位取りをして、
「甲子雄、いいかっ」
「おう、――」
さっと両名は
「安、――
「あっ、こ、これは……」
「覚えがあるか」
「仁木さんこりゃあ、こりゃあ」
お天気安、眼を
「龍の透彫、金象眼の眼、耳に
「ま、まさに、まさにこれです」
「甲子雄、
という刹那、さっと色を変えた甲子雄、
「――しまった」
「くそっ!」
死物狂いに打ちこもうとするのを、
「どっこい慌てるな、そう打ちこむと胴へ行くぞ、――お嬢さま聞いていますか、甲子雄の脇差についている鍔は、あの晩安吉がお父上に預けていった品です。こやつめ……植半の離室に酔いつぶれていると見せ、そっと脱出して道場へ戻ったのです、――あなたが御覧になったという、先生の死体の刀疵は、この甲子雄の仕業ですぞ」
「うぬ、うぬ――えいっ」狂気のように打ちこむ甲子雄、
「来い、そらっ」
踏違えた兵馬は、だっとのめる相手の、肩へ一刀、ぴしーり、
「あっ」
がらり木剣を取り落すところを、
「えいっ、や!」
「お嬢さま」兵馬は一歩さがっていった。
「先生の
戸外には初午の太鼓が聞える。その夜、佐兵衛の二階で、祝いの酒宴を前に、兵馬は機嫌よく話していた。
「今だから話すが、三年前に旅へ出たのは、拙者とお嬢さんの間を
「そういわれちゃあ面目ねえ」
「遠慮するな、てめえの道楽がこんな役に立とうたあ思わなかった、さあ
佐兵衛も上機嫌で、
「これで大先生も浮ばれましょう。あっしもなんだか胸の
「まあ、いやな頭」
小浪は体いっぱいに
