梟谷物語

山本周五郎




 慶応けいおう四年二月(この年九月に明治となる)、勅命をほうじて奥羽おうう征伐の軍を仙台せんだいに進めた九条道孝卿くじょうみちたかきょうは、四月のはじめまず庄内しょうない酒井忠寛さかいただひろを討つため、副総督沢為量さわためますに命じて軍勢を進発させた。……この物語はその進軍の途上に起った出来ごとである。


 仙台を出発した鎮撫軍ちんぶぐんが、山形から天童てんどうまで進んだとき、沢副総督は第三番隊の中村半九郎という若い隊長を呼んで命令を与えた。
「中村、おまえは第三隊二百名をひきいて本隊とわかれ、月山がっさんから羽黒山はぐろさんを越えて酒井軍のうしろへふいうちをかけてくれ」
 ――これはおもいつとめだぞ。
 半九郎はそう思って口をひきむすんだ。
「道はいうまでもなくけわしい、けれどそれよりも困難なことがある。それは羽黒山の奥に住んでいる土生はぶ一族だ」
「知っております」
「この一族の守っている梟谷ふくろうだにをつきやぶらなければ庄内へ攻め入ることはできない。きっと非常に苦しい戦をするであろうが、ぜひともうまく行くようにしっかりやってもらいたい」
「かしこまりました」
「すぐ出発してくれ、後援隊はあとから三百名おくる」
 半九郎は全員必死の覚悟をきめた。
 中村第三隊はそこからすぐに本隊とわかれ、寒河江さがえの谷をさかのぼって左沢あてらざわから月山の東がわをつきすすんで行った。息もつかぬ強行軍である、ひた押しに進んで三日めの夕方には、いよいよ梟谷のてまえにある草苅くさかり峠へ着いた。
 半九郎はそこで行軍をとめたうえ、ふた組の斥候をだして敵の様子をさぐらせた。
 梟谷は『袋谷』という意味にも通ずる、左には月山がすそをひき、右手には羽黒山がせまっている、そのふところへ深く、まるで袋のようなかたちになっている谷がそれだ。……そしてそこには数百年このかた土生一族と呼ばれる土着の豪族が住んでいる。命しらずの勇ましい人々で、けわしい土地にとりでをきずき、外からくる敵は一歩も入れまいとしているのだ。
 斥候は夜になってからもどった。
「敵の様子をさぐってまいりました。梟谷にはひとりの人間もおりません」
 思いがけぬ知らせでみんなもおどろいた。
「部落のなかまで見てきましたが、まるで人かげがなく、家々はがらあきで、それこそ犬の子一ぴきもいません」
「砦の方にも誰もいないようです」
 みんなあきれて眼を見合わせた。……銃隊長の石岡吉次郎はいきごんで、
「隊長! やつらは逃げたんです、我々のくるのを知ってかなわぬと思ったのでしょう、すぐつっこんで占領したら――」
「いや待て」
 半九郎は静かにおさえていった。
「土生一族が一戦もせずに逃げるはずはない、これにはなにかはかりごとがあるものと思う。今夜はここに野営しよう、進むのは明日だ」
「――銃を置け、野営の準備……」
 命令が伝えられた。そしてきびしく警戒しながらその夜は峠で露営した。
 明くれば四月十五日である。
 半九郎は全隊士の銃に弾丸たまごめをさせ、なお斥候をまえに進めながら、うずまく朝霧のなかを気をつけながら進軍して行った。――なにごともなかった、霧が晴れるにしたがって初夏の陽がつよくさしつけ、若草や木々の葉におく露はかがやかしく美しい光をはなった。……小鳥は枝から枝へとさえずりかわし、やぶのなかには小さなけもののはしりまわる姿もみえる、まったく平和な山景色であった。けれど、
 ――いつどこから伏勢がおそってくるか?
 半九郎のそういう心配は、あたりが静かであるほどかえって強くなるばかりであった。
 中村第三隊は梟谷部落へついた。
 半九郎はまっさきに立って部落の中心へのりこんでいた。暑いくらい照りつける陽の下に、五、六十戸ほどの家々がひっそりと静まりかえっている、だんだん下りになっている広い道にも、枡形ますがたになっている広場にも、鶏一羽、猫一匹いないのだ。
「全隊休め! 銃をはなすな」
 半九郎はそう叫んでおいて、
「銃隊長、一しょに来てくれ」
 とふりかえった。
「部落のなかを見まわって来よう、どうも何かありそうだ」
「食糧ぐらい残っているかもしれませんな」
 石岡銃隊長は、どうやら半九郎の心配を笑っているようすだった。


 五名の隊士をつれて部落中をみまわった半九郎は、やがてまんなかの一段高くなっている砦へあがって行った。
 大きな自然石でたたみあげた砦は、古い時代の城館のかたちであって、矢倉もあり、防壁もあり、また道は枡形から枡形へつづくしっかりしたものだった。――これだけ立派な砦があるのに、どうして一発の弾丸もうたず逃げ去ったのか、半九郎にはいよいよ土生一族のやりかたがへんに思えてきた。
「隊長! 人がいます、人が!」
 武器倉の方で隊士の叫ぶ声がした。
 半九郎と石岡吉次郎がかけつけてみると、二人の隊士が倉のなかから何かかつぎながら出てくるところだった、――みると、両手両足をしばられ、猿轡さるぐつわをはめられた十四、五になる美しい少女であった。
「倉のなかをしらべようとして戸を明けると、すぐそこのところまでころげてきていたのです」
「縄をといてやれ」
 手足のいましめを切放し、猿轡をといてやると、少女は安心したものか、くたくたとそこへ気を失ってしまった。
「誰かこの娘を運んで行って手当をしてやれ、だいぶおびえているようだから、親切にあつかうんだ」
 半九郎はそう命じてふりかえった。
「銃隊長、みんなここへ呼べ」
「はっ、――」
「敵になにかはかりごとがあっても、この砦なら後援隊のくるまではふせげるだろう」
「もうその心配はないでしょうが」
「いや、まだわからん」
 半九郎は月山の方を見ながら、かくしきれぬ不安の顔つきでそうつぶやいた。
 全隊士は砦の中へ入った。
 それぞれの部署がきめられ、宿舎のわりあてができた、やがて日が暮れかかると、炊事をする火が赤々と谷間の夕闇にかがやきだした。
「――隊長」
「なんだ」
「さっきの少女がどうやら起きられそうです」
「そうか、行ってみよう」
 半九郎は侍長屋と思われる小屋のなかへ入って行った。……少女は夕闇のなかに、しょんぼりとすわっていた。
「どうだ、少しは気分がよくなったか」
「……はい」
「我々は天子様の兵隊だ。おまえを苦しめるような悪者ではないから安心するがいい。――私の名は中村半九郎という。おまえはどうしてこんなところにしばられていたのか」
「あのう、――わたくしは……」
 まだ声がふるえている、しかしそっと半九郎を見上げたひとみは、もうさっきほどおびえた色ではなかった。
「いってごらん、こわいことはないよ」
「はい、わたくしは酒田の御領分の者でございます。父は海産商人で名は市郎兵衛、わたくしはお糸と申します」
「――うん」
「父といっしょに松島見物にまいりました帰り、月山へお参りに寄りますと、ここの人たちにつかまりまして密偵だろうというお疑いをうけ、父はどこかへ連れ去られましたし、わたくしはしばられてあの倉の中へおしこめられてしまったのです、――もう命はないものと思っていましたら、昨日のひる頃でございましたか、……官軍が攻めてくるといって、ここの人たちは逃げて行き、わたくしは……」
「うそをつけ!」
 いきなりわめきながら、石岡吉次郎が入ってきた。……娘はびっくりしてふりあおいだ。
「密偵と疑われてしばられた?」
 吉次郎はにくにくしげに近寄っていった。
「それはこっちでいうことだ、そんな涙まじりのうそにかかる我々と思うか」
「あのう……でもほんとうに」
「だまれ、お前は土生一族の者だろう、そして我々の様子をさぐるために、わざとしばられてここに残っていたのだろう、――隊長」
 吉次郎は大剣のつかへ手をかけた。
「よくある手です。斬ってしまいましょう」
「――待て」半九郎は静かにおさえた。
「貴公がそう思うのはもっともだ、しかしよくしらべないで斬るという法はない」
「でも万一これが密偵だとしたら」
「まあ待て、我々は一人や二人の密偵を恐れる必要はない、それにたかが少女のことだ、この少女のことはおれにまかせてくれ」
 半九郎はやさしく、
「――お糸さん」と少女の方へいった。
「心配しなくともいいんだよ、私はおまえを信じている、父さんのこともしらべてあげようし、また酒田へも帰れるようにしてあげる、安心しておいで」
「はい、……ありがとう存じます」
 少女は涙のあふれた眼で半九郎を見上げながらほほえんだ。――白い美しい歯がちらと唇のあいだからのぞくのを石岡吉次郎は、さもいまいましそうににらみつけていた。


 その夜はなにごともなく明けた。
 朝の全員点呼がすみ、食事が終るとすぐ、半九郎は羽黒山の東をぬける山道へ斥候をだした。それから少女のいる小屋をたずねた。
 少女は隊士のズボンを縫っていた。
「お早う、よく眠れたかね」
「お早うございます。おかげさまで……」
「なにをしているんだ」
「隊士のお方のズボンが破れていましたので、いま針と糸をみつけて来ておつくろいしているところですの」
「それはありがとう」
「でも……下手ですから」
 お糸ははずかしそうに頬をそめた。――その様子を見て半九郎は眼がしらのあつくなるのを感じた。
 半九郎は水戸みとの藩士である。
 水戸には母と妹がいる、妹は十五だ、丁度このお糸も同じくらいであろう。丸顔で、白い頬をすぐ赤くそめるところなどは、そのまま妹を思わせるようだった。
 妹は母のもとでやすらかに暮している。
 それなのにこの少女は、遠く故郷をはなれた山奥で、しかも戦争のまっただ中でつらいめに会っている、――故郷を思い、親たちを思ったらどんなに悲しいか。
「早く酒田へ帰りたいだろうね」
「――はい」
「気を強くもっているんだ、いまにきっと帰らせてあげるから」
 お糸は半九郎の眼を見上げて、うれしそうにうなずいたが、
「でも、みなさまはここで戦をなさるのでしょう? そんなことをしていただくおひまがございますでしょうか」
「いやここにいるのは少しの間だ」
 半九郎は安心させるようにいった。
「あとから後援隊が着きさえすれば、いっしょに庄内の方へ進軍する、そうしたら酒田へ送るたよりはいくらでもあるよ」
「後援隊はたくさんくるんですの?」
「たくさんくるよ、今いるだけではこの梟谷をつきやぶるのはむつかしいからね」
「たくさんってどのくらい……」
 お糸がそういいかけた時。
 たん、たんたん、たーん!
 砦のうしろの谷間の方から、ふいにすさまじい銃声が起った。
 ――土生はぶ一族が攻めてきた!
 と思った半九郎は、そのまま広場の方へとびだして行った。
「――銃をとれッ」
「――部署につけっ」
 号令の声があたりにひびき、霧のなかを隊士たちが右へ行ったり左へ行ったりしていた。
 たんたん! たんたんたん※(感嘆符二つ、1-8-75)
 銃声はさっき斥候を出してやった山道の方から聞えてくる。半九郎は矢倉の上へのぼって見やった、しかしうずまく霧のためになにものも見えない。
「石岡、一小隊だしてやれ」
「はっ」
「敵がいたら深入りせずにもどるんだ、決して深入りしてはいかんぞ」
 一小隊二十名の兵が、霧のなかをつきすすんで行った。
 銃声はやんだ。
 霧に包まれた梟谷は、急にひっそりとしずまりかえって、遠く谷川の水音だけがさわやかに聞えている。――銃をとって部署についている兵たちは、この濃い霧のなかの、どこからおそいかかるかも知れぬ敵を思って、ねらいうちの姿勢をしたままかたずをのんでいた。
 たすけに行った小隊がもどってきた。
 きずついた四名の斥候をたすけながら。……十名だしてやった斥候が、四名になっているのだ。そのうえみんな重傷を負っている。
「――どうした」
 半九郎が走りよってさけぶと、
「隊長、残念です」
 と一人が苦しそうに答えた。
「あの道には敵がいます。両がわの山にいるんです、人数はわかりませんが、相当にいる様子です、――我々が切通しへかかるのを待って、退く道をふさぎ四方から急に射ちかけました、あの道はだめです」
 いいおわると共にその兵は気絶してしまった。
「よし、早く手当をしてやれ」
 半九郎はそういって広場へもどった。
 敵は裏山にいる、そしてこの砦を見下して攻める時期をねらっているのだ、――半九郎はすぐにまたふた組の斥候を出した。
 ひと組は草苅峠へ。
 ひと組は月山道へ。


 ふた組はそれぞれの方向へ出て行った。
 しかし長く待つひまもなく、その両方から一時に銃声が起った。
「あ! またやられる※(感嘆符二つ、1-8-75)
 兵たちは一せいに色をかえた。
「――隊長」石岡が走って来た。
「救援隊を出しましょう!」
「いかん」
「彼らはまたやられます、私を行かせて下さい、隊長!」
「いかん、おちつけ!」
 半九郎はきっぱりといった。
「敵はそれを待っているんだ、救いに行けば行っただけ全滅だ。――これで、ようやくわかったぞ、土生一族のはかりごとはこれだったのか」
「これがはかりごとですって?」
「彼らはわざとこの砦をからにした、そして我々をこの谷間へ入れて袋攻にしようとはかったのだ」
 半九郎はうめくようにいった。
「我々はいま袋の鼠だ」
「――隊長」
 石岡の顔がさっとあおざめた。
 銃声は間もなくやんだ。
 しかし一人も帰って来なかった、十名ずつ、出してやったふた組の斥候は、ふた組とも全滅してしまったのである。
「石岡、……隊を集めてくれ」
 半九郎はそういって広場へ出た。
 わずかのあいだに二十余人の同志を失い、また自分たちがまったく敵にかこまれていることを知って、隊士たちの不安はかくしきれぬものがあった、ここで士気をうしなってはならない、――半九郎は全員が集るのを待って、
「みんな、よく聞くんだ」
 と声をはげましていった。
「我々は敵にかこまれている、しかしこの砦はかたい、兵糧ひょうろうも弾薬もたくさんある、そして一日二日のあいだには三百人の後援隊が来るんだぞ、それよりおくれることは絶対にない、一日か二日だ、そのあいだがんばってくれ、わかったか」
「官軍の名をけがすな」
 石岡吉次郎も大声に叫んだ。
 隊士たちはみんな「全滅しても!」という強い意気をふるいおこしながら部署へもどった。
 半九郎は日の暮れるまで矢倉の上にいた、もし一人でも生残った斥候が帰って来はしまいかと思ったのである、しかしむだだった、谷底からはいのぼる夕霧につれて、たそがれはいつしかあたりをつつみ、月でも出ているらしく明るい空にきらきらと星がまたたきはじめた。
 ふと人のいるような感じがしたので、
「――誰だ」
 といってふりかえると、いつ来たのかお糸がうしろに立っていた。
「お糸さんだね、こんなところへなにしに来た」
「……心配で、たまりませんの――すっかりとりかこまれたのですってね」
「とりかこまれたって大丈夫だ」
「後援隊はほんとうにくるんですの? 三百人もくるってほんとうですの?」
「――聞いていたのか」
「ひるま鉄砲の音を聞いたとき、あたしもうだめなんだと思いました」
 半九郎はそっと少女の肩をいだいてやった。
「大丈夫だ、ほんとうに後援隊は三百人くる、明日のうちには着くだろう、私を信じて心をしっかりともっておいで」
「早く酒田へ帰りたいんですの」
「大丈夫だよ」
 強くいったが、半九郎の胸はくるしかった。草苅峠を越えて来る後援隊が、はたしてよく土生一族のかこみをつきやぶるだろうか? もし失敗したらどうするか?
 ――そのときは全滅だ!
 ここで全滅しないまでも、全滅の覚悟で敵のなかを庄内へぬけなければならぬ、そのときには足手まといの少女などつれて行けるものではない。
「あら、ふくろうが鳴いていますわ」
 お糸がそういった。
 砦の裏山から、ほう、ほうというさびしい梟の鳴声がきこえて来た。――お糸はふと、両手をまるく重ねて唇へあてると、
「ほう、ほう、ほう」
 とうまく梟の鳴声をまねた。
「よく似ているでしょ?」
 そういっていたずらそうに肩をすくめながら笑った。
「こうすると友達だと思って、誘われて鳴くんですの、酒田ではみんなよくこうして遊びますわ」
「私も子供のじぶんして遊んだことがあるよ」
 昔を思いかえすように、半九郎も笑っていった。
「ほう、ほう、ほう、ほう」
 お糸がつづけてすると、裏山の方から同じようにまねて、梟の鳴く声がきこえて来た。……半九郎は子供にかえったような、あまくなつかしい気持でしばらくそのたわむれを楽しんでいたが、間もなく、
「隊長! こちらですか」
 という石岡の声ではっとふり返った。
「おいで下さい、後援隊の使者です」
「――なに、来たか」
「騎馬の兵が一名、いま先につきました」
 半九郎は矢倉をかけ下りた。


 使者はまだ前髪だちの若者だった。
「後援隊三百人、松原金之進殿の指揮にて前進中です、二時間いっときもすればここへつきましょう、――私が使者としてまいりましたのは、副総督の命令がありまして、明日の夕方までに黒川まで進めとのことでございます」
「明日の夕方までに?」
「はい、それで後援隊がつくまでに、出発の用意をしていただきたいと申します。松原隊長の考えでは今夜半ここを出立しなければなるまいとのことでした」
「――わかった、御苦労だった」
 半九郎はむりなことだと思った。
 三百人の後援隊が意外に早くきてくれたことは助かった、またこの若い使者が無事にここへ来られたところから察すると、峠の敵勢は案外手ぬるいかも知れない。――しかし土生一族が、この谷間をとりかこんでいるのはまちがいないことなのだから、その様子もしっかりたしかめないうちに進軍するのはあぶないことである。
 ――だが命令だ、やるだけやろう。
 そう覚悟をきめて、
「進軍の準備にかかれ」
 と命をくだした。
「部署についている者は離れるな、敵は間近にいるんだ、油断するとやられるぞ、――篝火かがりびを消せ」
「篝火を消せ――」
 命令は次から次へ伝えられた。
 防備の位置についている兵を別にして、残りの者は手早く荷造をはじめた。……援軍はもうすぐ到着する、そうすればもうしめたものだ、このいやな梟谷からぬけだして、酒井軍とはなばなしい合戦ができるのだ。――兵たちは元気づいてしたくをいそいだ。
 その騒のあいだに――。
 とりでの裏の防壁を、影のようにすばやくのりこえた者がある。少女お糸であった。
 防壁を外へ出ると、爪さきのぼりになっているやぶのなかを小さな野獣のように走って行った、そして三十米あまりものぼると、――両手をまるめてかさね、そっと唇へあてて、
「ほう、ほう、ほう、ほう」
 と梟の鳴声をたてた。
 ――ほう、ほう。
 右手の方で答える声がする。
 お糸はその声をたよりに走った。わからなくなるとまた梟の鳴声をまねた、――そんなことを三、四回くりかえすうちに、いつかくぬぎ林のなかへ入ったと思うと、
「――お糸か」
 と声をかけながら、一人の男が少女のまえにあらわれた。
「あたしです」
 お糸はあえいでいた。
「見はられていますからすぐかえります、――後援隊は三百人もう二時間いっときもすると着くそうです、そして夜中には黒川へ向けて進軍するそうです」
「よし、ではやはり屏風岩びょうぶいわがやくにたつ」
「火薬はもうつめてあるのですか」
「五十貫ずつ五か所だ、――松火たいまつ一本なげつければどかぁんといく、五百や七百の人数はいっぺんに生埋めさ」
「ではこれで帰ります」
「もう少しだ、あやしまれるな」
 お糸は答えもせずに走りだした。
 はたして! 彼女は土生一族の者であったのだ。――石岡の疑った通り、官軍の動きをさぐるために、わざとしばられて残っていたのである、しかも十五の少女の身で!
 お糸は土生一族の血をうけて生まれた。
 この梟谷は土生一族のものである。何百年ものあいだ一歩も他人におかされることなしに守ってきた先祖からつたわっている土地である。――庄内の殿様以外には、なに者といえども侵入することは許されないのだ。
 これが土生一族のかんがえである。
 世が騒がしくなってきた、そして官軍というものがこの梟谷へも侵入してくるという、――世間からはなれてくらす梟谷の人々には、官軍がどうして庄内の殿様を攻めようとするのか知っていない。知ってはいないが、彼らにとってはすてておけない大事である。
 庄内の殿様を攻める奴!
 土生一族の土地をおかす奴!
 それだけで一族の人々はった。
 一人も生かして通すな!
 そしてこれだけのはかりごとをたてたのだ。そしてお糸はりっぱにそのやくめをはたしたのだ。
「もう大丈夫」
 お糸はほほえみながら砦へもどった。


 役目をはたした心のゆだんであろう。
 藪をすべりおりて、元の場所からすばやく防壁をのりこえ、すっと砦のなかへ飛下りたお糸は、いきなり右手と首をつかんでひきすえられた。
「――小娘! みつけたぞ」
 石岡吉次郎だった。
「あっ」
「うごくな、拙者のにらんだ通り、お前はやっぱり土生一族の密偵だったな、――来い!」
 のがれようと、しきりにもがく少女の体を、石岡はずるずる引きずるようにして屯所とんしょの小屋へ入った。――そして、あきれている半九郎のまえにどうんとつき倒した。
「隊長、やっぱりこいつ密偵です」
「どうしたんだ」
「私ははじめからあやしいやつとにらんだので、たえず様子を見はっていたのです。するとさっき裏の防壁をのりこえて行くのを見ました。梟の鳴声をあいずにして、仲間となにか連絡をとって来たのです」
「梟の鳴声だと?」
 半九郎はさすがに色をかえた。
「おまえ、それはほんとうか?」
「ほんとうです」
 思いがけなくお糸はきっぱりと答えた。
「わたくしは土生一族の娘です、そしてこの梟谷はわたくしたちのものです、酒井の殿様を守るために、土生一族の土地を守るために、わたくしは自分のつとめをはたしたのです」
「こいつ!」
 石岡はお糸の肩をつかんで、
「小娘のくせにふといことをぬかす。隊長! 斬ってしまいましょう」
「お斬り下さいまし」
 お糸は静かにいった。
「わたくしは自分の役目をはたしました。斬られても少しも心残りはございません、お糸は御先祖の土地を守ったのです、お斬り下さい」
「よし、血祭だ!」
 石岡は大剣をぎらりとぬいた、しかしそれより早く半九郎が、
「待て、石岡!」
 と叫んでおしとめた。
「なぜ止めます、こいつは我々を」
「待て、待てというのだ」
 半九郎はしかりつけるようにいった。
「後援隊はもうすぐ到着する、いいか、それまではこの娘が人質の役にたつんだ。……なにをしめし合わせたか知れぬが、後援隊が到着してここを一緒に出発するまで、もし土生一族が攻めて来るようだったらこの娘を人質にして彼らの攻撃を中止させることができる」
「おう、そうでした」
「しばれ! 手も足も、そして猿轡さるぐつわをはめるんだ、はじめてみつけた通りにしろ」
 半九郎はそうきびしく命じた。
 石岡は部下を呼んで、手早くお糸をしばりあげたうえ、かたく猿轡をかませた。お糸はだまって、されるままになっていた、――半九郎はそれがおわると、石岡に命じた。
「もういいから篝火かがりびかせろ。それから後援隊のために握飯をつくらせて置け」
「――はっ」
「出発の準備はいいな?」
「荷造はすみました、弾薬も食糧も馬へつむばかりです」
「夜襲に注意しろ」
 石岡は部下をつれて出て行った。
 半九郎は黙って立っていた、ながいこと夜空を見上げながらだまって立っていたが、やがて静かにお糸のまえに近寄った。
「――お糸さん」
 半九郎の声は悲しそうだった。
「私はいまでもおまえをにくんではいない、おまえは自分の役目をはたした、土生一族にとってはりっぱな手柄をたてたのだ。……けれどひとこといって置きたい」
「…………」
「おまえは日本人だね? 私も日本人だ、おまえは梟谷にそだって知るまいが、私たちを生んだ日本の国は、いま大変なあぶない瀬戸際にいるんだよ。――北からロシヤ、東からはアメリカ、西からはイギリス、フランスというように、世界の強い国がみんな日本をねらって押しかけてきているんだ。日本は三百年という長いあいだ、徳川氏のまちがった鎖国主義のために、この島国のなかでちぢまって暮してきた。そのあいだに世界の国々はどんどん文明が進んで、弱い国を攻めて亡ぼしながら日本へ近づいてきたんだ。……いいかい。いま日本の四方には、日本を攻め取って自分の物にしようという恐しい敵がいっぱい押寄せているんだよ」
 半九郎はかんでふくめるようにいった。


「――土生一族もない、徳川も酒井もない、日本人という日本人は、武士も百姓も町人も、老人も子供もいっしょになってひとかたまりになって、お国のために戦うときが来ているんだ。全国民がひとつの心になって、恐しい外国人の手からお国を守るべきときなんだ。
 そのためにこそ徳川氏は政治を天子様へお返し申し上げたのだ、もう大名も将軍もなくなっているんだ。私もおまえも、百姓も町人もみんながただ天子様お一人をかみにいただいて、お国のために命を投げ出すべきときがきているんだ。――それがわからぬ者は国賊だ、天子様のおおせにそむく不忠者だ、私たちはその不忠者を討つためにたたかっているんだ。
 おまえがもしほんとうに日本人なら、私のいった言葉がわかるはずだ、梟谷は土生一族のものではない、天子様のものだ、おまえは天子様の国の娘なのだ」
 半九郎は言葉を切っていった。
「私はもうすぐここから出発する、もう二度とあうことはないだろう。……よく考えて、私のいったことがわかったら、天子様のために、日本のお国のために、立派な少女になるようにいのっているぞ」
 そういいおわると、半九郎は静かに外へ出て行った。
 お糸は眼を閉じていた。
 いろいろな考えが頭のなかで渦のようにくるくるとまわった。――今日まで知らなかったことが、まるで夜の明けるようにだんだんとはっきりしてきた。……知らなかったのだ、ほんとうに知らなかったのだ。天子様のことも、お国のことも、自分には縁のない遠いところのこととしか思っていなかった。
 けれど今こそいろいろなことがわかった。
 梟谷の奥に住む土生一族の娘にすぎないお糸も、よく考えてみれば天子様の民である。その心さえあればお国のために立派な働きの出来る体なのだ。いな! 天子様とお国のためにこそ、働かなければならぬのだ。
 それでこそはじめて日本人といえるのだ。
 ――ああ、あたしはまちがっていた。
 お糸は大きく眼をみはった。
 外では人々のさわがしいどよめきが聞える、どうやら後援隊が着いていっしょに出発する様子である。武器のふれあう音や馬のいななく声が聞えてくる。
 ――ああいけない、行ってはいけない、屏風岩びょうぶいわには爆薬がしかけてあるんです。
 お糸はくるおしく叫んだ。しかし手足をしばられ、猿轡をはめられている身にはそれを知らせるすべがなかった。――そのうちに出発の命令が聞えた。
「第三隊前へ、――銃隊つづけ」
 そして勇ましい足音がおこった。
 お糸は土間の方へずり出して行った。五百人の命はいまお糸の手ににぎられていると同じである、もしそのまま進軍して行ったら、五十貫ずつ、五か所にうずめてある爆薬のために、屏風岩がくずれて五百名は生埋めになるのだ。
 ――待って下さい、待って※(感嘆符二つ、1-8-75)
 お糸は土間へころげ落ちた。
 そして、入口の引戸へ体をたたきつけた、するとつき出ていたくぎふっと腕へ刺さった、天のたすけである。お糸は手首の縄を、そのとがった釘のさきへごしごしこすりつけた。
 ――神さま、神さま!
 心はただ神を念ずるばかりである。縄はかたかった、釘はなんどもすべって手首の皮をつきさした。……進軍の物音はどんどん遠くなる、お糸は胸いっぱいにさけんだ。
 ――神さま、お糸の命を差上げます、どうか天子様の軍隊をおまもり下さい。お糸の命は差上げます、神さま!
 死力をつくしたかいがみえた。
 縄はふつりと切れた。お糸は夢中で両手をふりほどくと、手早く足の縄もとき放しながら小屋の外へとび出した。
 ――しめた。
 広場に人夫とみえる男が四、五人、馬の背へ残りの荷物をしばりつけているところだ。
 お糸は走った。
 そして篝火の中から、燃えている松を一本ぬきとると、まだ、荷をつけてない一頭の馬へ、いきなり飛び乗った。――積荷で夢中だった人夫たちがそれと気づいて、
「あ、誰だ」
「――曲者くせもの!」とわめきたてたときは、もうひづめの音も高くとりでの外へと、はしりだしていた。
 走った! 走った!
 山道に馬をかけることはなれている、ただ松の火を消さぬように、背へかこいながら、疾風のようにかけて行った。
 ――ああありがたい、神さま!
 まにあった。
 屏風岩へかかる五百米ほどてまえで、遂に進軍中の官軍に追いついたのである。――お糸はもえている松を高くあげて、
「危い! 危い! とまって下さい」と叫んだ。叫びながらも、はやさはゆるめなかった。――兵たちはびっくりした。
「よけろ※(感嘆符二つ、1-8-75) 馬だ!」
「馬だ! あぶない※(感嘆符二つ、1-8-75)
 叫びながら左右へひらく、そのあいだをお糸はとぶたまのようにつきすすんで行った。
 ――自分は密偵としてつかまったのだ、いま屏風岩のことを話しても誰も信じてはくれないだろう、方法はひとつしかない! そう覚悟していたのだ。
 五百人の隊列をつきぬけたとき、
「――天子様、万歳」
 とお糸が叫んだ。――そしてまっすぐに屏風岩の下まで乗りつけると、もえている松を岩の根方ねがたへ力まかせに投げつけた。
 恐しい火焔かえんが闇をつんざいた。轟然ごうぜん! 轟然! 轟然※(感嘆符二つ、1-8-75)
 道をはさんで左右に迫る、三十米あまりの岩石は火柱とともにすさまじく、くずれ出した、まさに地軸がさけたかと思われた。
       *       *       *
 五百名の隊士はこの有様をまえに、まるで気をうしなったようにぼんやり立ちすくんでいた。――その群のなかで、
「――石岡」
 と半九郎は石岡吉次郎をかえりみていった。
「見たろうな、あの娘だぞ」
「……はい」
「天子様万歳といったな――」
 半九郎の眼からはらはらと涙がこぼれた、彼はむせぶように夜の空を仰いでいった。
「お糸、おまえは立派な日本の娘だぞ、立派な天子様の……」
 涙が声をかきけした。半九郎の感動をそのまま語るかのように、おどろおどろとがけ崩れがつづいている、――四月十七日朝二時のことであった。





底本:「春いくたび」角川文庫、角川書店
   2008(平成20)年12月25日初版発行
初出:「少女倶楽部」大日本雄辯會講談社
   1939(昭和14)年5月号
※表題は底本では、「梟谷ふくろうだに物語」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年11月26日作成
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