武道宵節句

山本周五郎





 ――飢えて窮死するとも、金一両はかならず肌に着けおくべし。武士のたしなみなり。
 父は生前よくそういっていた。三樹八郎みきはちろうはいま、金一両と四、五枚の銭を手にして、父の言葉を思出しながら我知らず太息といきをついた。
 ――渇しても盗泉の水はまず、貧にして餓死するはむしろ武士の本懐なり。
 これも父の言葉である、だからこの家では、どんな困ったことがあっても、太息をつくなどということはかつてなかった。――くりやでことことまないたの音をさせていた妹の加代かよは、珍しい兄の太息を聞いて、
「お兄さま、どうか遊ばしまして?」
 と声をかけた。
「うん? いやなんでもない、腹が空いたので御馳走ごちそうを待兼ねているところだ」
「まあいや、……このなますができるとすぐですわ、もうしばらく我慢をあそばせ」
「ではおひな様へあかりでもあげるか」
 三樹八郎は金をしまって立上った。ひどい貧乏の中にたった一組だけ残った内裏雛だいりびなと、たちばな、桜、雪洞ぼんぼりが二つという、さびしい雛壇に燈を入れる、――昔を思うと夢のようだ。七百石御槍奉行やりぶぎょうまで勤めた家柄とて、十五畳の間を半ば占めた豪華な雛壇、近親知友を集めて宵節句を祝った当時に比べると、本当に夢のような変りようである。
 兄妹の父村松将太夫むらまつしょうだゆうが、老職と意見の衝突をして小笠原志摩守おがさわらしまのかみを退身してから十五年、二君じくんまみえずと云って清貧のうちに父は死し、母も五年以前に父を追って逝った――それから今日まで、三樹八郎は兄妹の運命を開拓するために、寝食を忘れて活躍してきたが、梶派かじは一刀流免許皆伝の腕前も、仕官の途がなくては役に立たず、
 ――まあ、どうにかなるだろう。
 いくら急いでも相手のない相撲は取れぬと、父とは反対にしごくのんびりとかまえていたが、ついにどうにもならず今宵に及んだ。――言葉どおり、実際もうどうにもならぬのだ、今夜は雛祭りの宵節句で、少しばかりの馳走を調えたが、それは兄妹の最期の晩餐ばんさんのつもりである。夜半になったら、妹を刺し、自分も屠腹とふくして潔く世を辞そうと覚悟していた。
「はい、お待遠さまでした」
 加代が支度のできた食膳しょくぜんを運んできた。
 今日は二人とも久方ぶりで風呂ふろを浴び、加代は貧しいながら髪化粧をしている。乙女十九、幸い薄く育ったが備わった品位と美しさは、兄の眼にもれするくらいだった。
「今宵の主はおまえ、……さあ酌をしてあげよう」
 三樹八郎は白酒の瓶子びんを取った。
「いやですわそんな、どうぞお兄さまからお先に」
「三樹の祝いは端午、今夜はおまえのお相伴だ、遠慮をすることはない、さあ」
「では――」
 加代ははじらいながら土器かわらけを手にした。
 端午といったが、明けるを待たで死ぬ二人である。貧乏のなかにも、兄に頼りきっている加代が、何も知らずに、軽くせながら白酒をすする姿……可哀そうに、思わず胸へ熱いものがつきあげてきた。
「まあ、お兄さま!」
 加代は、兄の悲しげな顔つきを認めて、どうしたのかと不審そうに、
「今日はどうか遊ばしたのではございませんの? 何だかとてもお悲しそうに見えますけれど」
「そんな馬鹿なことがあるか」
 三樹八郎は慌てて打消したが。――しかし、何も知らせずに死なすより、いっそすべてを話して武士の娘らしく自害させるほうが本当ではあるまいか、とも考えたので、
「じつは加代、おまえに話がある」
「――はい」
「今宵の祝いはな……」
 云いかけた時だった、間近の戸外に当って、突然はげしい人の跫音あしおとと、
「えいッ」
「えいッ」
 引千切るような、切迫した掛声が聞え、かっかっと剣の触合う音さえする。――三樹八郎は手を伸ばして大剣をひっつかむと、
「加代、燈を見せろ」
 そういって立った。
 そこは浅草天王閻魔えんまの裏手に当り、浪宅は空地はずれの竹藪たけやぶの中にある、――雨戸を開けて出た三樹八郎、うしろから加代が差出す燈明に透して見ると、藪の前のところで七、八名の武士が、一人の若侍を中に取詰めている。
「あ、危い、お兄さま!」
 加代の叫びを背に、三樹八郎はすそを翻してその場へ駆けつけた。


「物申す、果合いか、ただしは喧嘩けんかか」
 声をかけると、取囲まれた若侍が、
「や、闇討を、かけられました、御、御助勢を……御加勢を――」
 悲痛に叫んだ。
「心得た、助勢するぞ!」
 答えて出る、右にいた二人が、
「ええ素浪人、邪魔するなッ」
「かまわぬ、そやつも斬捨てろ」
 わめきながら、さりとは無法な、相手の腕をたしかめもせずいきなりだっと斬りつけた、三樹八郎は避けもしなかった。
「――馬鹿者!」
 という絶叫とともに、きらり大剣が空をったと思うと、二人の暴漢は、
「あ!」「うッ」
 諸声に悲鳴をあげながらけし飛んだ。そして三樹八郎は、跳躍しつつ、若侍を取囲む一党の背後へ、
「野良犬ども、一人も逃さんぞ」
 と叱呼しっこして斬込んだ。
 宝の持腐れであった梶派一刀流、しかも今宵は死ぬと覚悟がついているから、その勢いのすさまじさはまったく鬼神ともいうべく峰打みねうちではあるがたちまち四、五人ばたばたと撃倒した。――とても敵する相手ではないと見たのであろう。
「手強いぞ、退け、引上げろ」
 頭分らしい一人が叫ぶと、残った者たちはさっと闇の中へ逃散って行った。――三樹八郎はそれでも油断せず、しばらく四辺のようすをうかがっていたが、もう不意討ちを掛ける者もなしと見届けたので、
「もうようござろう」
 と振返る。と、若侍はそこに倒れて失神していた、――抱起してみると、左の肩口をしたたか斬られている、しかし多少出血がひどいというだけで致命傷ではない。
 ――気の緩みで失神したな。
 三樹八郎は剣を納めると、若侍を抱上げて浪宅のほうへ戻った。――門口に、燈を差つけながら震えていた加代は、
「お兄さま、お怪我は……?」
「おれは大丈夫だが、この人が傷をしている、手当をするから湯を沸かしてくれ」
「はい」
「それから清潔な布と、巻木綿があったはずだな、それから金瘡薬きんそうやくを」
「はい」
 三樹八郎は若侍を座敷へ運んで、加代に手伝わせながら手負いの着物を引裂いて傷をあらため、沸かした温湯でぬぐいはじめた。――その痛みで気付いたのだろう。
「――うっ」
 低くうめいて眼を明いた若侍は、
「おう、は、春枝はるえ……春枝」
 と苦しげに叫んで起上ろうとする。
「動いてはいかん、静かに」
「春枝を、ああ、春枝が斬られる、早く、早く助けて、妹を――妹を……」
「しっかりなされい、それはどういうわけだ」
 三樹八郎が耳許で叫ぶと、若侍はようやくはっきり覚めたらしくいきなり三樹八郎の手を掴んで、
「妹をお助けください、妹も彼らに斬られます、どうぞ早く、かや寺の榧の木……」
 そこまでいうと、若侍はふたたびがくりと気絶してしまった。――妹が殺される、この一言が三樹八郎をたせた。
「加代、この人を頼む、出がけに医者を呼んで行くから、しっかりと預るのだぞ」
「――はい」
「おまえも武士の娘だ、見苦しい振舞はすまい、いってくるぞ」
 云い捨てて三樹八郎は外へ。
 榧寺というのは俗称で、本当は正覚寺といって黒船くろふね町にあり、境内に榧の巨木があるところからそう呼ばれている、――三樹八郎は医者を頼んだその足で、宙を飛ぶように正覚寺へ駆けつけた。
 山門を入るとすぐに鐘楼、そこを方丈のほうへ曲ると右手に有名な榧樹が立っている。――その木蔭に、男女二人の影をみつけたので、間に合ったと、ほっとしながら近寄り、
「失礼ながら御意を得る」
 声をかけて近寄った。――相手は武家の娘とその下僕らしい老人、不意に現われた三樹八郎を見ると、きっと身構えをしながら後へ退った。……こっちは気がいているから、
「思いがけぬ事情にてそこもとのお兄上と会いましたが、ここにいては危いと申される、すぐ拙者の家までお運びなさるよう」
「――」
「さ、早くせぬと曲者くせものが参ります」
 なおも側へ寄って急きたてようとすると、下僕が血相を変えて立塞たちふさがった。
「ええ寄るな、そんなうまいことを云って、きさまは湛左衛門たんざえもんの一味であろう、――お嬢さま、爺がここを引受けますで、あなた様は早くお逃げなされませ」


「馬鹿なことを申せ、拙者は今」
「ええいうな!」
 一徹者と見えて、下僕はいきなり腰の木刀で打ってかかった。――誤解である、しかしどういい解くすべもない。
「これ乱暴するな、きて見れば分る」
「お嬢さま早く、お逃げなされませ」
 必死に打ちかかりながら叫ぶ。娘がその声に励まされて二、三間走りだした時、暗がりから現われた五、六名の武士、いずれも覆面したのがぐるりと娘を取巻いた。
「あれ、爺やッ」
 悲鳴をあげて逃げようとするやつを、一人がぐっとひっ抱える。残り四、五人はこっちへ走ってきて、
「斬ってしまえッ」
 と抜伴ぬきつれて取囲んだ。――三樹八郎はいま娘の悲鳴を聞いたので、しまった! と助けに行こうとするが、下僕の勢いが案外に鋭く、右へ左へあしらっているうちにこの始末だからもうこれまでと大剣を抜いて、
「よしこい、正邪をめるは剣一本、後悔するな」
 叫ぶとともに、
「えいッ、や※(感嘆符二つ、1-8-75)
 猛然と踏込んだ。相手はしばらく支えていたが、そのうちにぱっと四方へ逃去ってしまう、三樹八郎は脱兎だっとのように、娘の悲鳴の聞えたほうへ走って行ったが、そこにはすでに人の影もない。
「ちェッ、しまった」
 気もそぞろに、境内を走廻はしりまわったけれど、早くも曲者たちは娘をさらって逃げたらしい、どこに一人の姿もみつからなかった。
「おのれ! お嬢様をどこへやった」
 下僕の老人が狂気のように詰寄ってくる、三樹八郎はその手をつかんで引寄せ、
「ええ鎮まれ、そのほうが勘違いをしたばかりに、頼まれてきたのが空になった、今こそいうが、そのほうの主人は斬られたのだぞ」
「え※(感嘆符疑問符、1-8-78) わ、若旦那わかだんな様が……」
「命には別状ないが、いま拙者の家で手当をしているところだ、真疑のほどはきて見れば分る」
「それでもお嬢様の身上が」
「いや、掠って行くからはすぐに斬ることもあるまい、仔細しさいを聞いたうえで拙者がどうにもいたそう、とにかく参れ」
 三樹八郎は下僕を促して帰った。
 浪宅では、医者の手当を受けてすっかり元気を取戻した若侍が、加代のこしらえた温粥ぬるがゆすすっているところだった。下僕は狂気して、ほとんど泣きながら、
「若旦那様、あなたはまあ……」
 とすりよった。
「爺か、春枝はどうした」
「それは拙者が申上げよう」
 三樹八郎が側から始終を話して、
「と申すわけで、この老人の誤解とはいいながら、妹御をやみやみ敵手に奪われ、なんとも申訳がござらぬ、――ついては今宵のことの仔細、とくとお話しくださらぬか、拙者身に代えてもかならず妹御をお救い申上げるが」
「かたじけのうござる、お言葉に甘え何もかもお話し申す、お聞きください」
 若侍はひざを正して語りだした。
 彼の名は山県銀之丞やまがたぎんのじょうという。大垣おおがき石川備前守いしかわびぜんのかみ家臣で、父を珂右衛門かえもんといい、五百石で国許勘定役を勤めていた。同じ家中に剣術指南しなん番で金丸かなまる湛左衛門という者がいて、これが銀之丞の妹春枝を嫁に望んできたが、良からぬ人物なので断ったところ、無法な金丸は――他にも不首尾なことがあって大垣藩にいられなくなった時のこと――珂右衛門が主君から預っていた菊一文字の短刀を盗んで逐電した。
 その短刀は石川家の重宝であるため、珂右衛門は役目の落度として閉門を申付けられ、三年以内に取戻せばおとがめなし、もしそれができなかった場合には切腹という厳命が下った。――そこで銀之丞は妹と下僕六平ろくべいを伴れて大垣を立退き、諸国をまわること二年有半、江戸へ出てからもすでに六十余日を費したが、辛苦艱難かんなんの甲斐あって、金丸湛左衛門が、赤星あかぼし湛左衛門と変名、浅草鳥越とりごえに剣術指南の道場を開いていることを突止めた。
「右の次第にて、今日妹と六平を榧寺に待たせおき、拙者一人にて道場へ乗込みましたところ、かえって三十余名の門人たちに取囲まれ、危くここまで逃延びて参ったのです」
「そうであったか、――」
 三樹八郎は低く嘆き声をあげた。自分たち兄妹こそ悲運の者と思っていたのに、ここにもまた悲しい運命の兄妹が命をして生きているのだ。
「赤星湛左衛門、――たしかにおりますな、無念流の達者で、鬼の湛左と評判は聞いている。よし、山県氏御安心なされい、妹御は三樹八郎がたしかにお救い申すぞ」
「しかし相手は多勢の門人もおり……」
「なんの、邪悪の剣が何千あろうと、正しき武道をもって臨むに何のおそるることがあろう、――日月我が上にあり!」
 三樹八郎は決然とった。


 赤星湛左衛門は、離室はなれの広間で門人二十五人を相手に、満悦の酒宴を張っていた。
 彼の傍には、銀之丞の妹春枝が、後手に縛られて、くずれ牡丹ぼたんのようになまめかしく打伏している。さし伸ばされた雪のようなうなじにかかる後毛おくれげ、唇を喰いしばって外向けた横顔の美しさ……いまの湛左衛門にとってこれ以上のさかなは無かった。
「夢にまで見た梨花りか一枝、こう易々と手に入ろうとは思わなかった」
 湛左はにやり娘へ一瞥いちべつくれながら、たばさんだ腰の短刀をぽんとたたいて、
「それもこの菊一文字の御利益よ、さすがに名刀の徳は争われぬ、今宵は宵節句でもあり三年の宿願もかない、吉瑞きちずい一時に到るというものだ、みんな愉快に思う存分やってくれ」
 そう云ってかかと大笑した時である。広縁に面した障子がさっと明いて、――花片を散らしながら一枝の満開の桃が、湛左衛門の前へ風を切って飛んできた。
「その梨花一枝、こっちへもらうぞ――宵節句の祝いには桃をやる、不服はあるまい!」
 叱呼しっこしながら入って来た三樹八郎。――たすき、汗止め、はかま股立ももだちをしっかりと取って、愛剣包光かねみつ二尺八寸を右手に傲然ごうぜんと突立った。
 貧に窮して自殺する命、銀之丞兄妹のために捨てるのは覚悟のうえだ。今日まで世に出る機会もなく、屈しに屈していた英気が、今こそ奔流のごとく切って放されたのだ。
「あ! 天王裏の素浪人だ」
 門人の一人が叫んで、抜討ちに斬ってかかるやつを、ひっ外しておいて、
「えいッ」
 逆胴をしたたか斬放す。がらがらッ、燭台しょくだい膳部ぜんぶを踏砕きながら、悲鳴とともに顛倒てんとうするのを見て、
「やったッ」
狼藉者ろうぜきもの、斬ってしまえ」
「逃がすなッ」
 わっと一座は総立ちになった。――荒道場と名うての面々、酒の勢いもある、二、三本の白刃がだっと一時に殺到する。
「心得た、それッ」
 三樹八郎は右へ、大きく跳躍したが、とたんに足を返して、
「やッ、えいッ」
 一閃いっせん、また一閃。
「む――」
「がっ」
 真向と脾腹ひばらを存分に斬られて、二人のからだまりのように飛ぶ、と見た次の刹那には、三樹八郎の躰は左手の一団のまっただ中へ、
「え――ッ、とう※(感嘆符二つ、1-8-75)
 と斬込んでいた。
 湛左衛門は総身の震う激怒に襲われていた。立向っていく門人が、まるで草をぐようにばたばた斬伏せられる、しかもみな一刀、急所を外さずずばッ、ずばッ、とやられるのだ、その殺気のすさまじさと、太刀さばきの正確さ、――自分もできるだけに、湛左衛門は無上の辱めを受ける気持だった。
「みな退け、みな手を退けッ」
 喚いて立った湛左、三尺一寸無反むぞりという、まるで天秤棒てんびんぼうのような強刀を抜いて、
「そいつはおれが料理ってやる、人を斬るのはこうするのだ、見ておけ」
 といいながら進み出た。――門人たちは、すでに十八人を斬られて闘志を失っていたところだから、湛左の声を聞くまでもなく広縁のほうへ退いた。三樹八郎は、娘のいる床間を背に、呼吸をととのえながら、
「ほう、人の斬りかたを教えてくれるか、鬼の湛左の無念流、どう斬るかしかと拝見しよう、――さッ」
 ぐっと大剣を差出す。
「その頬桁ほおげた、忘れるな、行くぞ※(感嘆符二つ、1-8-75)
「――おう」
 湛左は上段にとった、三樹八郎は青眼、――さすがに門人たちとは段違い、無反の強刀は満々たる殺気を含んで、一撃断鉄の機を狙っている。
 しかし勝負は一瞬にして決した。
 ――斬れる!
 と思った三樹八郎が、青眼の籠手こてをつと右へ外すのと、湛左が大きく踏出しながら、
「いぇいッ」
「やあッ」
 絶叫して斬下すのとほとんど同時。あっと見た刹那! 三樹八郎は右へ躰を開いていたし、湛左は、斬下した躰勢たいせいのまま、だっと床間へのめって行って、掛軸を右手に※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)ひきむしりながら、まるで雑布巾ぞうきんのように崩落ちる。――半ば斬放された頸根くびねからほとばしり出る鮮血が、みしだかれた掛軸の白を鮮かな紅に染めていった。


 菊一文字の短刀と、春枝をたすけて三樹八郎が道場を出る、――足早に四、五間行くと、
「お兄さま……」
 声をかけながら、向うから妹の加代が走ってきた。
「加代ではないか、どうした」
「山県さまも御一緒に」
 というところへ、老僕六平が付添ってかごがきた、中から半身を乗出すようにして、
「村松氏、御無事か」
 と銀之丞、――見るより春枝は走りよって、
「兄上さま」
「おお春枝、そなたも無事でか」
「村松さまのおかげで、菊一文字の御刀も取戻すことができました」
「おお!」
 妹の肩を抱寄せた銀之丞、万感を双眸そうぼうめて、無言のまま三樹八郎の顔を仰見るばかり、――どんなにうれしいか、三樹八郎にはよく分る、父の命をけた三年の辛苦がむくわれたのだ。兄妹揃って、今こそ晴々と故郷へ帰れるのだ。
「短刀をお渡し申す」
 差出すのを、受取った銀之丞はさやを払ってあらためたが、
「たしかに、たしかに菊一文字、……これで父の命も助かり、山県の家名も相立ちます。――村松氏、お礼は申上げぬ、ただ拙者の胸中……お察しくだされい」
「お察し申す、礼などはもとよりいうに及ばぬ、これもみな貴殿御兄妹の孝心を、武道の神がまもられたのであろう、祝着に存ずる」
「ただかくのとおり」
 駕の中で銀之丞が低頭すれば、妹春枝もまた、白い手を地についてすすりあげた。
「かく本望を達したうえは、一時も早く故郷へ立帰り、父をも安堵あんどさせ、殿の御意をも安んぜとうござる、まことに礼を知らぬいたしかたではござるが、ここでお別れ申します」
「しかしこの夜中では……」
「いや、夜中ながら、もはや一刻も惜しく、また湛左衛門の件について、貴殿に御迷惑がかかってはなりません、これより江戸やしきへ参って始末のことを頼み、すぐ国許くにもとへ出立つかまつります」
「なるほど、お心くのも道理、では……途中気をつけて」
「お傷を御大切に」
 側から加代も名残惜しげに云った。――春枝はたまらなくなったのであろう。いきなり加代の胸へすがりついて、
「あなたのお兄さまのお蔭で、兄もわたくしも命拾いをいたしました、たとえ遠く離れても、この御恩は決して忘れませぬ」
「そんなことはお案じなさいますな、それよりどうぞ銀之丞さまをお大事に」
「あなたもお兄さまを、どうぞ御大切に」
 互いにいたわりあう乙女心の、なごやかな優しさが、この殺伐な場面に一脈の色彩を添えるかに見えた。
「さらば、必ずまたお眼にかかりましょうぞ」
 別れ行く駕の中から、銀之丞が意味ありげに言葉をのこした。
 三樹八郎と加代は、それを見送ってから家へ帰った。――夜はすっかり更けて、浪宅を取巻くやぶが、さやさやと静かに風の音をたてている。
「宵節句の馳走ちそうが、思わぬことですっかり邪魔をされた、おまえもおなかが空いたであろう、三樹もぺこぺこだぞ」
「でもうれしそうでしたことねえ」
「うむ」
 三樹八郎は太息といきをついた。――あの兄妹にはふたたび春がめぐってきた。しかし自分たちの運命は依然として動かない、やはり妹を刺して自殺するより他に道はないのだ。
「では御馳走のやり直しをいたしましょう」
 そういって立上った加代は、ふと――足許に紫色の袱紗包ふくさづつみが落ちているのをみつけた。
「あら、こんな物が……」
「なんだ」
「家のではございませんわね」
 拾いあげた袱紗包の下から、一通の手紙が現われた、取ってみると、
村松殿
銀之丞より
 としたためてある。
「まあ、お兄さま、山県様のお手紙が添えてございますわ」
「見せてくれ」取る手遅しとひらいてみると、
 ――今宵のこと、御礼の言葉もありません、別包の金子きんすは旅費の残り、失礼ながら寸志としてお受取りください。申上げてはかえって御受納くださらぬと存じ、はなはだ無躾ぶしつけながらそっと置いて参ります。お心置きなくお使い捨てください。なお――帰国のうえは、藩へ御推挙を仕ります、このたびの御尽力、かならず御出世の途となりましょう、はばかりながら吉報お待ちください。
 取急ぐまま以上、――と読むなり、袱紗包を明けてみると中から出てきたのは金子百両。
「おお!」
 三樹八郎は思わず声をあげた。――加代も手紙を走り読みして、
「お兄さま、いよいよ御出世の時が参りました、永い御苦労の酬われる時が参りましたのね」
「おまえもそう思うか」
「山県様にして差上げたことは別ですわ、でも今夜こそお兄さまの本当の腕前が認められたんです、明日になれば、江戸中に村松三樹八郎の名が知れることでしょう」
 そうだ、鬼の湛左以下十八名を斬った剣士、村松三樹八郎の名は一夜にして江戸市中の評判になるだろう。
「良い宵節句だった、なあ加代。明日はこれで充分に祝おうぞ」
 三樹八郎は晴々と百両を投出した。――窮すれば通ず、村松兄妹の前にも、今こそ輝かしい道がひらけた。





底本:「春いくたび」角川文庫、角川書店
   2008(平成20)年12月25日初版発行
初出:「新少年」博文館
   1938(昭和13)年3月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年11月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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