――飢えて窮死するとも、金一両はかならず肌に着けおくべし。武士の
父は生前よくそういっていた。
――渇しても盗泉の水は
これも父の言葉である、だからこの家では、どんな困ったことがあっても、太息をつくなどということはかつてなかった。――
「お兄さま、どうか遊ばしまして?」
と声をかけた。
「うん? いやなんでもない、腹が空いたので
「まあいや、……この
「ではお
三樹八郎は金を
兄妹の父
――まあ、どうにかなるだろう。
いくら急いでも相手のない相撲は取れぬと、父とは反対にしごくのんびりとかまえていたが、ついにどうにもならず今宵に及んだ。――言葉どおり、実際もうどうにもならぬのだ、今夜は雛祭りの宵節句で、少しばかりの馳走を調えたが、それは兄妹の最期の
「はい、お待遠さまでした」
加代が支度のできた
今日は二人とも久方ぶりで
「今宵の主はおまえ、……さあ酌をしてあげよう」
三樹八郎は白酒の
「いやですわそんな、どうぞお兄さまからお先に」
「三樹の祝いは端午、今夜はおまえのお相伴だ、遠慮をすることはない、さあ」
「では――」
加代は
端午といったが、明けるを待たで死ぬ二人である。貧乏のなかにも、兄に頼りきっている加代が、何も知らずに、軽く
「まあ、お兄さま!」
加代は、兄の悲しげな顔つきを認めて、どうしたのかと不審そうに、
「今日はどうか遊ばしたのではございませんの? 何だかとてもお悲しそうに見えますけれど」
「そんな馬鹿なことがあるか」
三樹八郎は慌てて打消したが。――しかし、何も知らせずに死なすより、いっそすべてを話して武士の娘らしく自害させるほうが本当ではあるまいか、とも考えたので、
「じつは加代、おまえに話がある」
「――はい」
「今宵の祝いはな……」
云いかけた時だった、間近の戸外に当って、突然はげしい人の
「えいッ」
「えいッ」
引千切るような、切迫した掛声が聞え、かっかっと剣の触合う音さえする。――三樹八郎は手を伸ばして大剣をひっ
「加代、燈を見せろ」
そういって立った。
そこは浅草天王
「あ、危い、お兄さま!」
加代の叫びを背に、三樹八郎は
「物申す、果合いか、ただしは
声をかけると、取囲まれた若侍が、
「や、闇討を、かけられました、御、御助勢を……御加勢を――」
悲痛に叫んだ。
「心得た、助勢するぞ!」
答えて出る、右にいた二人が、
「ええ素浪人、邪魔するなッ」
「かまわぬ、そやつも斬捨てろ」
「――馬鹿者!」
という絶叫とともに、きらり大剣が空を
「あ!」「うッ」
諸声に悲鳴をあげながらけし飛んだ。そして三樹八郎は、跳躍しつつ、若侍を取囲む一党の背後へ、
「野良犬ども、一人も逃さんぞ」
と
宝の持腐れであった梶派一刀流、しかも今宵は死ぬと覚悟がついているから、その勢いの
「手強いぞ、退け、引上げろ」
頭分らしい一人が叫ぶと、残った者たちはさっと闇の中へ逃散って行った。――三樹八郎はそれでも油断せず、しばらく四辺のようすを
「もうようござろう」
と振返る。と、若侍はそこに倒れて失神していた、――抱起してみると、左の肩口を
――気の緩みで失神したな。
三樹八郎は剣を納めると、若侍を抱上げて浪宅のほうへ戻った。――門口に、燈を差つけながら震えていた加代は、
「お兄さま、お怪我は……?」
「おれは大丈夫だが、この人が傷をしている、手当をするから湯を沸かしてくれ」
「はい」
「それから清潔な布と、巻木綿があったはずだな、それから
「はい」
三樹八郎は若侍を座敷へ運んで、加代に手伝わせながら手負いの着物を引裂いて傷を
「――うっ」
低く
「おう、は、
と苦しげに叫んで起上ろうとする。
「動いてはいかん、静かに」
「春枝を、ああ、春枝が斬られる、早く、早く助けて、妹を――妹を……」
「しっかりなされい、それはどういうわけだ」
三樹八郎が耳許で叫ぶと、若侍はようやくはっきり覚めたらしくいきなり三樹八郎の手を掴んで、
「妹をお助けください、妹も彼らに斬られます、どうぞ早く、
そこまでいうと、若侍はふたたびがくりと気絶してしまった。――妹が殺される、この一言が三樹八郎を
「加代、この人を頼む、出がけに医者を呼んで行くから、しっかりと預るのだぞ」
「――はい」
「おまえも武士の娘だ、見苦しい振舞はすまい、いってくるぞ」
云い捨てて三樹八郎は外へ。
榧寺というのは俗称で、本当は正覚寺といって
山門を入るとすぐに鐘楼、そこを方丈のほうへ曲ると右手に有名な榧樹が立っている。――その木蔭に、男女二人の影をみつけたので、間に合ったと、ほっとしながら近寄り、
「失礼ながら御意を得る」
声をかけて近寄った。――相手は武家の娘とその下僕らしい老人、不意に現われた三樹八郎を見ると、きっと身構えをしながら後へ退った。……こっちは気が
「思いがけぬ事情にてそこもとのお兄上と会いましたが、ここにいては危いと申される、すぐ拙者の家までお運びなさるよう」
「――」
「さ、早くせぬと
なおも側へ寄って急きたてようとすると、下僕が血相を変えて
「ええ寄るな、そんなうまいことを云って、きさまは
「馬鹿なことを申せ、拙者は今」
「ええいうな!」
一徹者と見えて、下僕はいきなり腰の木刀で打ってかかった。――誤解である、しかしどういい解く
「これ乱暴するな、きて見れば分る」
「お嬢さま早く、お逃げなされませ」
必死に打ちかかりながら叫ぶ。娘がその声に励まされて二、三間走りだした時、暗がりから現われた五、六名の武士、いずれも覆面したのがぐるりと娘を取巻いた。
「あれ、爺やッ」
悲鳴をあげて逃げようとするやつを、一人がぐっとひっ抱える。残り四、五人はこっちへ走ってきて、
「斬ってしまえッ」
と
「よしこい、正邪を
叫ぶとともに、
「えいッ、や

猛然と踏込んだ。相手はしばらく支えていたが、そのうちにぱっと四方へ逃去ってしまう、三樹八郎は
「ちェッ、しまった」
気もそぞろに、境内を
「おのれ! お嬢様をどこへやった」
下僕の老人が狂気のように詰寄ってくる、三樹八郎はその手を
「ええ鎮まれ、そのほうが勘違いをしたばかりに、頼まれてきたのが空になった、今こそいうが、そのほうの主人は斬られたのだぞ」
「え

「命には別状ないが、いま拙者の家で手当をしているところだ、真疑のほどはきて見れば分る」
「それでもお嬢様の身上が」
「いや、掠って行くからはすぐに斬ることもあるまい、
三樹八郎は下僕を促して帰った。
浪宅では、医者の手当を受けてすっかり元気を取戻した若侍が、加代の
「若旦那様、あなたはまあ……」
とすりよった。
「爺か、春枝はどうした」
「それは拙者が申上げよう」
三樹八郎が側から始終を話して、
「と申すわけで、この老人の誤解とはいいながら、妹御をやみやみ敵手に奪われ、なんとも申訳がござらぬ、――ついては今宵のことの仔細、とくとお話しくださらぬか、拙者身に代えてもかならず妹御をお救い申上げるが」
「かたじけのうござる、お言葉に甘え何もかもお話し申す、お聞きください」
若侍は
彼の名は
その短刀は石川家の重宝であるため、珂右衛門は役目の落度として閉門を申付けられ、三年以内に取戻せばお
「右の次第にて、今日妹と六平を榧寺に待たせおき、拙者一人にて道場へ乗込みましたところ、かえって三十余名の門人たちに取囲まれ、危くここまで逃延びて参ったのです」
「そうであったか、――」
三樹八郎は低く嘆き声をあげた。自分たち兄妹こそ悲運の者と思っていたのに、ここにもまた悲しい運命の兄妹が命を
「赤星湛左衛門、――たしかにおりますな、無念流の達者で、鬼の湛左と評判は聞いている。よし、山県氏御安心なされい、妹御は三樹八郎がたしかにお救い申すぞ」
「しかし相手は多勢の門人もおり……」
「なんの、邪悪の剣が何千あろうと、正しき武道をもって臨むに何の
三樹八郎は決然と
赤星湛左衛門は、
彼の傍には、銀之丞の妹春枝が、後手に縛られて、くずれ
「夢にまで見た
湛左はにやり娘へ
「それもこの菊一文字の御利益よ、さすがに名刀の徳は争われぬ、今宵は宵節句でもあり三年の宿願も
そう云ってかかと大笑した時である。広縁に面した障子がさっと明いて、――花片を散らしながら一枝の満開の桃が、湛左衛門の前へ風を切って飛んできた。
「その梨花一枝、こっちへもらうぞ――宵節句の祝いには桃をやる、不服はあるまい!」
貧に窮して自殺する命、銀之丞兄妹のために捨てるのは覚悟のうえだ。今日まで世に出る機会もなく、屈しに屈していた英気が、今こそ奔流のごとく切って放されたのだ。
「あ! 天王裏の素浪人だ」
門人の一人が叫んで、抜討ちに斬ってかかるやつを、ひっ外しておいて、
「えいッ」
逆胴を
「やったッ」
「
「逃がすなッ」
わっと一座は総立ちになった。――荒道場と名うての面々、酒の勢いもある、二、三本の白刃がだっと一時に殺到する。
「心得た、それッ」
三樹八郎は右へ、大きく跳躍したが、とたんに足を返して、
「やッ、えいッ」
「む――」
「がっ」
真向と
「え――ッ、とう

と斬込んでいた。
湛左衛門は総身の震う激怒に襲われていた。立向っていく門人が、まるで草を
「みな退け、みな手を退けッ」
喚いて立った湛左、三尺一寸
「そいつはおれが
といいながら進み出た。――門人たちは、すでに十八人を斬られて闘志を失っていたところだから、湛左の声を聞くまでもなく広縁のほうへ退いた。三樹八郎は、娘のいる床間を背に、呼吸をととのえながら、
「ほう、人の斬りかたを教えてくれるか、鬼の湛左の無念流、どう斬るかしかと拝見しよう、――さッ」
ぐっと大剣を差出す。
「その

「――おう」
湛左は上段にとった、三樹八郎は青眼、――さすがに門人たちとは段違い、無反の強刀は満々たる殺気を含んで、一撃断鉄の機を狙っている。
しかし勝負は一瞬にして決した。
――斬れる!
と思った三樹八郎が、青眼の
「いぇいッ」
「やあッ」
絶叫して斬下すのとほとんど同時。あっと見た刹那! 三樹八郎は右へ躰を開いていたし、湛左は、斬下した

菊一文字の短刀と、春枝を
「お兄さま……」
声をかけながら、向うから妹の加代が走ってきた。
「加代ではないか、どうした」
「山県さまも御一緒に」
というところへ、老僕六平が付添って
「村松氏、御無事か」
と銀之丞、――見るより春枝は走りよって、
「兄上さま」
「おお春枝、そなたも無事でか」
「村松さまのお
「おお!」
妹の肩を抱寄せた銀之丞、万感を
「短刀をお渡し申す」
差出すのを、受取った銀之丞は
「たしかに、たしかに菊一文字、……これで父の命も助かり、山県の家名も相立ちます。――村松氏、お礼は申上げぬ、ただ拙者の胸中……お察しくだされい」
「お察し申す、礼などは
「ただかくのとおり」
駕の中で銀之丞が低頭すれば、妹春枝もまた、白い手を地について
「かく本望を達したうえは、一時も早く故郷へ立帰り、父をも
「しかしこの夜中では……」
「いや、夜中ながら、もはや一刻も惜しく、また湛左衛門の件について、貴殿に御迷惑がかかってはなりません、これより江戸
「なるほど、お心
「お傷を御大切に」
側から加代も名残惜しげに云った。――春枝は
「あなたのお兄さまのお蔭で、兄もわたくしも命拾いをいたしました、たとえ遠く離れても、この御恩は決して忘れませぬ」
「そんなことはお案じなさいますな、それよりどうぞ銀之丞さまをお大事に」
「あなたもお兄さまを、どうぞ御大切に」
互いに
「さらば、必ずまたお眼にかかりましょうぞ」
別れ行く駕の中から、銀之丞が意味ありげに言葉を
三樹八郎と加代は、それを見送ってから家へ帰った。――夜はすっかり更けて、浪宅を取巻く
「宵節句の
「でも
「うむ」
三樹八郎は
「では御馳走のやり直しをいたしましょう」
そういって立上った加代は、ふと――足許に紫色の
「あら、こんな物が……」
「なんだ」
「家のではございませんわね」
拾いあげた袱紗包の下から、一通の手紙が現われた、取ってみると、
村松殿
と銀之丞より
「まあ、お兄さま、山県様のお手紙が添えてございますわ」
「見せてくれ」取る手遅しと
――今宵のこと、御礼の言葉もありません、別包の
取急ぐまま以上、――と読むなり、袱紗包を明けてみると中から出てきたのは金子百両。
「おお!」
三樹八郎は思わず声をあげた。――加代も手紙を走り読みして、
「お兄さま、いよいよ御出世の時が参りました、永い御苦労の酬われる時が参りましたのね」
「おまえもそう思うか」
「山県様にして差上げたことは別ですわ、でも今夜こそお兄さまの本当の腕前が認められたんです、明日になれば、江戸中に村松三樹八郎の名が知れることでしょう」
そうだ、鬼の湛左以下十八名を斬った剣士、村松三樹八郎の名は一夜にして江戸市中の評判になるだろう。
「良い宵節句だった、なあ加代。明日はこれで充分に祝おうぞ」
三樹八郎は晴々と百両を投出した。――窮すれば通ず、村松兄妹の前にも、今こそ輝かしい道が