年の瀬の音

山本周五郎




 十二月になると一日一日に時を刻む音が聞えるようである。ほかの月にはこんなことはないし、そんな感じのすることがあっても、十二月のそれほど脅迫感はない。いまこの原稿を書いていながら、私は現実にその時を刻む音を聞きその音の速度の早さと威かく(嚇)とに身のちぢむのを覚えているのである。
 ひるめしを食べに出て、市電で仕事場へ帰る途中、私の前へ若い人妻が立った。背中に赤児を背負い、五歳くらいの女の子をつれている。人妻は二十六か七、色のさめた赤いセーターにネズミ色のラシャのスカート。ウエーブの伸びた髪毛が乱れて、細おもての青ざめた顔はこわばり、みけん(眉間)には疲れたような、神経質なしわが深く刻まれている。おちつきを失なった眼は絶望した人のように、するどく一点をみつめていた。女の子は片手で母親のスカートにつかまり、片手に半分を紙で包んだキャンデーを持っていて、それをしゃぶりながら母に呼びかけるのであった。
「かあちゃん、おばちゃんに会えてよかったね、ねえかあちゃん」
 若い母親は一点をみつめたまま答えない。「かあちゃん」とまた女の子は呼びかける「ねえ、おばちゃんがうちにいてよかったね」、ねえとスカートを引張る。すると若い母親は邪険にスカートを振り放して、うるさいね、と邪険にいうのであった。
「うるさいね、黙っといでよ」おばちゃんがその母子とどういう関係の人であるかむろんわからない。若い母親は赤児を背負い、幼ない子をつれて「おばちゃん」を訪ねていったのである。おばちゃんはうちにいたし、彼女たちはおばちゃんに会った。女の子にはそれは「よかった」のである。しかしその若い母親にはよくはなかったらしい――十二月。私はここで自分の想像を組み立てようとは思わない。この母子の短かい対話そのものが、疑問の余地のないほどあからさまに事情を語っているのであって、しかも十二月であるということは、こちらにとって心臓へあいくちを突込まれるかに似た思いを致させられるのである。
 小雨の降る日、やはりひるめしに出たときのことであるが、野毛という町の裏を四十がらみの男性が、ねんねこばんてんで赤児をおぶって、カサもささずに歩いていた。私はカサをさしており、ひるめしを食べるに足りる程度の懐中もあった。その男性はぶしょうひげが伸び、頭髪も百日かずらのように伸び、そして白茶けたようなむくんだ顔で、どこを見るともなくぼんやりと前方を見まもりながら、なにも目的のないことを証明するような足どりで、雨の中をゆっくり歩いてゆくのである。それほどの降りではないが、雨の降っていることも気づかないほど、なにか思いあぐねているのだろうか。年配から察すると背中の児のほかに一人や二人の子があるであろう。妻の病気、それとも妻がかせいでいるのか、などという想像をいささかも要しないほど、赤児を背負って雨の中を歩いてゆくその男の姿は、人間生活のもろさとはかなさを語っているようであった。
 街をゆくと大売出し、タナざらい、残品サービスセール、全店半額、などという旗やビラが軒並にかかげられ、スピーカーや店員たちの客を誘惑しようとする声がかみついてくる。時を刻む秒読みのような音であり、色であり、文字であって、人は最後の列車に乗りそこなうのではないかというようなせかせかした不安定な気分にとらわれるのである。こういう街の中を一人の紳士が子犬をつれて歩いていた。ぼろぼろになった古洋服の上着に、ボタンがないものだからなわの帯をしめ、半ば裂けて布地のひらひらするズボンにゾウリをはいている。ズボンのさけ目からはあかだらけの毛ズネが見えるし、えり首などもあかでどす黒く、それで髪毛だけはかりたてで油が光っている。これらの紳士社会では十円玉一個で調髪する専門家がいるそうであるが、この紳士も正月用に調髪したものであろう。彼は師走の街の切迫したけしきを横眼にながめながら、腕組みをしてゆうゆうと歩いてゆく。そのあゆみは彼が時を刻む音の圏外にいることをごうぜん(傲然)と示すものであり、大みそかなんぞくそくらえという意気のあらわれであった。
 子犬はその主人の足にひき添って歩きながら、愛のこもった熱心な眼で主人を見あげ、またちょこちょこと歩き、そして熱心な愛のこもった眼で主人を見あげ、ときたま主人が見おろすと、まるでお互いの愛をたしかめ得たかのようにしっぽを力いっぱい振り、主人はまたゆうぜんと歩いてゆくのであった。血まなこになって活動する師走の街にあって、この紳士がどうしてこのように超然としていることができるか、などということをいおうとは思わない。私はただせんぼう(羨望)のため息をもらしながら、この誇り高き紳士とその愛によってむすばれた子犬とのあとを、かなりながいあいだついていった、ということを告白するだけである。
 いま仕事部屋の外で宣伝カーなるものがわめいている。いよいよ押し詰ってまいりました。私はなんのためともなくぞっとし、机の前で身をちぢめる。私は赤児を背負って雨にぬれながらゆく男であり「おばちゃん」はうちにいて会うことはできたけれど、目的ははたされずに子をつれてむなしく帰る若妻に似ているのである。これをもし舞文曲筆だなどという人があったら、その人こそ年末の秒読みを感ずることのない、幸福なしかし恵まれざる楽天家というほかはないでしょう。そういう人たちはすでにもうめでたいので、めでたいと申し上げても皮肉にはならないと思う。





底本:「日本の名随筆20 冬」作品社
   1984(昭和59)年6月25日第1刷発行
底本の親本:「完本 山本周五郎全エッセイ〈増補版〉」中央大学出版部
   1980(昭和55)年2月15日増補版発行
初出:「朝日新聞」
   1958(昭和33)年12月31日
入力:大久保ゆう
校正:富田晶子
2018年11月24日作成
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