劇団「笑う妖魔」

山本周五郎




妙な電話


五郎ごろうさん、お電話です」
 書生の中野がドアをあけて云った。
「大層お急ぎの様子ですからどうぞ」
「誰から?」
「お名前を仰有おっしゃいません」
 父の話に興じていた五郎は、話を中断されるのが残念そうに、軽く舌打をしながら廊下へ出た。
 ――電話は階段の脇にある。
「僕、五郎。誰だい?」
 受話器を耳にあててうや否や、向うは待兼まちかねていたように妙に喉へ詰った囁声ささやきごえで、
「五郎か、日東劇場の地下食堂へ、午後五時に来い。重大な話がある」
「君は誰さ、橋本か――?」
「午後五時だぞ。忘れるな」
「もしもし、誰さ君は、何の用が……」
 五郎の言葉が終らぬうち、相手はガチャリと電話を切ってしまった。――五郎は腹立たしそうに受話器をかけながら、
「妙な作声つくりごえをしていたけどたしかに橋本の奴だ。また詰らぬ悪戯いたずらをして笑おうというのだろう、その手に乗ってたまるかってんだ」
 そうつぶやいて父の部屋へ戻った。
「誰からの電話だ」
「なに悪戯いたずらですよ。橋本の奴が担ごうとしているんです。それより今の話の続きをやって下さい」
「少し疲れたからまたこの次にしよう、今日はこれでおしまいだ」
 そう云って父親は大きな伸びをした。
 五郎の父、海部うみべ市造氏は数年前まで警視庁の刑事課長を勤めていたが、長男の一郎が不良少年の群に入って新聞に書かれるようなことになったので、敏腕を惜しまれながら断乎だんことして辞職し、それ以来全く隠遁的な生活を送っていた。しかし警察界の事には今でも関心が捨て切れず、何か難事件があると独りであれこれと研究してみるのを唯一の楽しみにしていた。さっきから五郎に話していたのもそれで、最近頻々ひんぴんとして起る怪殺人事件を、独特の観察眼で縦横に解剖していたところである。
 怪殺人事件とは?
 第一は長崎要港部の看視人の怪死、第二は大幡製鉄所の若い技師の怪死、第三は瀬戸内海遊覧船「むらさき丸」の船医の怪死、第四は大阪港湾局の巡邏じゅんら船の乗組員四名の怪死、第五は敦賀つるが、第六は静岡県沼津、第七は横浜、――こうして七件の怪殺人がいずれも犯人不明のまま、第一の地の長崎から、次第に東京へと近づきつつあるのだ。
「今度は東京で事件が起るぞ!」
 それが市造氏の言葉であった。
 五郎は府立×中の四年生で、不良の兄のために前途ある官界を放擲した父に代って、自分こそ大いに出世し、海部家の名誉を恢復かいふくしようと努力している。成績もクラス一だし、気質きだても良く、級友たちから敬愛の的にされていた。それだけにまた一方の友達からは、
「あいつ厭に偉がってやがる」
 というそねみも受け、中にも橋本貞吉という乱暴な奴は、時折変な悪戯いたずらをしかけるのであった。
 その翌日、一郎は学校で橋本に会った。電話の悪戯いたずらが彼であるなら、必ず顔つきに出ている筈である。しかし橋本の様子にはすこしも変ったところがなく、いてみても電話などかけはしないということであった。
 ――おかしいな、すると誰か真実ほんとうに用事があったのかしら、しかしそれにしても名前を云わないというのは変だ。
 一郎は急に何だか気懸きがかりになってきた。
 ところがその日の午後のことである。
 一郎の妹で蛍雪けいせつ女学校三年のゆき子が、学校から家へ帰ってきて間もなく、書生の中野が部屋へ走ってきて、
「お嬢さん、お電話です」
 と知らせた。
有難ありがとう、誰から?……」
「名前を仰有おっしゃいません、男の声です」
「男の声? ――厭あね」
 そう云いながらも、とにかく階下したへ降りていった。受話器を手にして、
「もしもし、あたくしゆき子ですが」
 と答えた。
 相手は何を云ったか? ゆき子はさっと顔色を変えた。受話器を持つ手が眼に見えるほど震えている。
「ええ、――ええ、……分りました」
 しどろもどろの声で、相手の話に返辞をしていたが、
「すぐ行きます」
 と云って受話器をかけると、父の部屋の方を気遣いながらそっと二階へ戻った。

ゆき子の行方


 校服を清楚な散歩服に着換えたゆき子は、
「ちょっと野河のかわさんの家まで行ってくるわ」
 と云い残して家を出た。
 野河茉莉子まりこの家は麹町こうじまち五番町にある。富士見町のゆき子の家からはほんの三丁ばかりだから、歩いて行くかと思うと、町角にある出入りの吉田タクシーで自動車に乗った。そして、
「日東劇場の楽屋口へいって頂戴」
 と命じたのである。
 ゆき子は車へ乗ってもそわそわと落着おちつかぬ様子で、何度も腕時計を見たり、口の内で独言ひとりごとを呟いたり、自分では気づかないらしいが額へじっとりと汗さえ滲ませていた。何か異常なことが起っている。然しそれなら何故なぜ、父にでも書生にでも云わないのだろう?
 車は日東劇場の楽屋口へ着いた。
「有難う、家へは内証ないしょうにしてね」
 ゆき子はそう云って料金を払うと、そのまま狭い楽屋口を入って行った。
 まだ午後三時頃であったが、廊下はじめじめと薄暗く、燭光の弱い電灯がぼんやりと光っている。まだ開演前なので楽屋番もいない。ゆき子ちょっためらっていたが、思いきったように廊下を奥の方へ進んで行った。――と、右側に並んでいる小部屋(役者の化粧室)のひとつから、急にドアをあけて現われた男がある。
「あッ!」
 と不意を喰ったゆき子立止たちどまるよりはやく、その男はさっと踏みこんだと思うと、持っていた黒い布をいきなりゆき子の頭へ冠せ、恐ろしい力で抱きすくめた。
「あッ、助けてーッ」
 声を限りに叫ぶのを、男は軽々と抱上だきあげたまま元の部屋へ入ってドアを閉めてしまった。
 劇場の中はひっそりとして物音もしない。ゆき子がこんな罠にちたことは誰一人として知らないのだ。――彼女を呼出よびだした電話の主は誰であろうか? この怪人は何のために彼女を誘拐したのであろうか? ……今この日東劇場には「笑う妖魔」という、歌劇と奇術とを交えた外国人の劇団が開演している。それとこれと、何かつながりを持っているのではあるまいか※(感嘆符疑問符、1-8-78)
 一方富士見町の家では、――
 夕食の時間になってもゆき子が帰ってこないので、野河家へ行ったのなら御馳走になって来るだろうと、父親は五郎とともに食事を済ませてしまった。……それから部屋へ戻って、九時頃まで昨日の怪殺人事件の話をしていたが、ゆき子の帰って来る様子がない。
「少し遅過ぎるな。お饒舌しゃべりをしているので、時間のたつのも知らんのだろう」
「僕ちょっと電話をかけてみましょう」
 五郎はそう云って立ち上った。そしておよそ十分程もたって戻ってきた時には、五郎の顔は隠しきれぬ不安に震えていた。
「父さん、野河さんにはいませんよ」
「――いないッて?」
「野河さんでは一週間ほど前きたっきりだと云ってます。茉莉さんも今日学校で別れたきり会わないんですって」
 市造氏の眉が歪んだ。
「それから中野に聞いたんですが、出かける前に男の声で電話がかかってきたそうですよ」
「男の声だと、――?」
 椅子いすの腕木を掴んでいた市造氏の手が、電気にうたれたように震えた。……長男の一郎で苦い経験がある。男の声の電話、そして野河へ行くといって出た嘘――もしや一郎のように不良の仲間にでも誘惑されたのではあるまいか。何よりも先に思うのはそれだった。
「どうしましょう」
「とにかく、もう少し待ってみよう」
 そして待った。
 十時を打ち、十一時を打った。ゆき子は帰ってこない。五郎は何度も――警察へ頼んだら、と云おうと思った。しかしかつて兄の事で不面目な世評をこうむった父が、またしても警察の手を借りるという事はどんなに苦痛であるかを考えると、とても云い出す気にはなれなかったのである。
「もう寝よう」
 時計が十二時を打った時、市造氏は怒りと不安を隠しながら云った。
「でも、なんとかしないと……」
「心配する必要はない。彼女あれも十六と云えば多少は物の分別もつく年頃だ。いまに何とか云って来るだろう。事情も分らぬうちに騒いだところで仕様がない。――寝よう」
 そう云って市造氏は寝室へ去ってしまった。
 たとえ警察の力をりないとしても、この夜更よふけではどう捜す方法もない。五郎も仕方がないので寝室へ入ったが、妹は今頃どうしているかと思うと、あらぬ空想が次から次へと浮んできて、ひと晩中いても立ってもいられぬ気持で、ほとんど眠らずに夜を明した。
 するとその翌朝まだ未明の頃、電話のベルがけたたましく鳴りだした。

紙つぶて


 こんな時間の電話、きっとゆき子のことに違いない。そう思った五郎は、階段を走り降りると、胸を躍らせながら受話器を手にした。
「もしもし、こちらは海部ですが」
 と云うと、相手は非常な早口で、
「今日午後五時、日東劇場の地下食堂で待つ、大事件だ。必ず待っている」
「――あッ」
 例の男の声、橋本の悪戯いたずらだと思ったあの声である。しかも文句まで一昨日おとといと全く同じだ。
「もしもし君は誰ですか、用事は」
「来ないと大変だ。待っている」
 相手はただそう云っただけで電話を切った。
 ゆき子を電話で誘い出したのも男の声だったと云う。すると五郎が二度聞いた声と、ゆき子を誘い出したのとは同一の男ではあるまいか。一昨日おとといの電話で五郎が行かなかったので、ゆき子を人質代りに誘拐したのではあるまいか。
 ――そうだ!
 五郎は低く呟いた。
 ――そうに違いない、ゆき子は奴の手許にいるんだ。そして僕の代りに苦しいに遭っているんだ※(感嘆符二つ、1-8-75)
 五郎は断乎として思案を決めた。
 ――よし、行ってやろう。相手がどんな奴で、どんな事を要求するか知らぬが、おれはこの腕でゆき子を助け出してみせる。きっと助け出してみせるぞ※(感嘆符二つ、1-8-75)
 五郎はその足でそっと父の書斎へ入ると、大卓子テーブル抽出ひきだし拳銃コルトを取り出し、弾丸たまを装填して自分の部屋へ帰った。朝食のときも、父には何も話さなかった。そして普段の通り学校へ出かけた。
 学校の放課が四時、数寄屋すきや橋の橋畔にそそりたつ日東劇場まで電車で二十分。四時半にはすでに、五郎はそこの地下食堂の一隅に腰を下していた。
 約束の時間が迫って来るにつれて、さすがに胸が波うつように思われ、客の男女が出入りするたびしや此奴こいつではないかと拳を握った。――一杯の珈琲コーヒー残少のこりすくなくなった。まだ誰もやってくる様子がない。何気なく壁を見ると、いま開演中の「笑う妖魔」劇団のポスターが掛けてあった。……真中まんなかに大きく、妖女が牙を剥き出して笑っている絵があり、その下には巡業していた土地が列挙してある。五郎は何気なくその土地の名を読んでいったが、
 ――おや?
 と急に眼を光らせた。
 好評を得た各地として挙げてあるのは、長崎、小倉、別府、大阪、敦賀、静岡、横浜と七ヶ所である。
 ――みんな怪殺人事件のあった土地ばかりではないか。
 そう思うと同時に、ポスターの妖魔の絵が、まるで殺人鬼のように見え、思わず五郎は慄然りつぜんと身震いをした。――偶然の一致かも知れない。しかし事によるとこの劇団と怪殺人事件とのあいだに何かつながりがあるのかも知れぬ。もしそうだとすれば、ゆき子はその殺人鬼の手に捕えられている訳ではないか。
 ――もしそうだとすれば、
 脇の下へ冷汗が滲み出た。そして思わずポスターから眼を外へ向けたとき、食卓テーブルの上へころころと紙を丸めたものが転げ落ちた。――誰か投げたものらしい。
 ――失敬な奴!
 と思って振りかえると、今しも四五人の外国人が外へ出て行くところだった。
 ――待てよ、こいつは電話で呼び出した奴がよこしたのかも知れないぞ。
 そう思ったので、その紙丸かみだまひらいてみると、果して中には鉛筆の走書はしりがきでみっしり何か書いてある。五郎はおののく胸を押えながら読んだ――そこには驚くべき文字があった。

五郎よ、僕はおまえの兄、あのやくざな一郎なのだ。――僕はいま、劇団「笑う妖魔」の一座で道化役をしている。

「兄さん、兄さんが……」
 余りに思いがけない文句だった。不良少年として新聞に書かれたとき家出したまま、今日まで行方の知れなかった兄、その兄が外人劇団の道化役になって現われたのだ。

こうなるまでの筋道を話している暇はない、僕はこの劇団の或る重大な秘密を握った。それをおまえの手から父さんに渡して貰いたい。それで一昨日電話をかけたのだが来てれなかった。昨日はゆき子にも電話したのだが、これも到頭とうとうこなかった。奴等は僕が秘密を嗅ぎ出したことを知っているらしい。僕は厳重に看視されている。だから秘密を握っても渡す方法がなかった。然し今日こそ盗み出してやる。そしておまえに渡すのだが、僕は一歩も出られない。渡す方法は一つしかないのだ。――いいかい、五郎はここにある切符で見物席へ入るんだ。この席は最前列だ。そこに座っていれば、僕が舞台から証拠の品を投げる。そしたら、五郎はそれを拾ってぐ家へ帰り、父さんに渡してくれ。重大な仕事だから間違いのないように頼むぞ! もしこれが成功したら、父さんもきっと僕の罪をゆるして下さるだろう。それだけを望みに、僕は身命を賭してやるよ。五郎、頼むぞ!
哀れな兄より。

道化ピエロの死


「哀れな兄より」
 そう呟く五郎の眼には、熱いなみだが溢れていた。――これで分った。劇団の秘密と云うからには、例の怪殺人事件に相違ない。こいつ一網打尽にしてやるぞ! そう思う下から、ふと気づいたのはゆき子の事である。今から思えば兄の電話で彼女は家を出たのだ。それが兄と会っていないとすれば……。
 ――奴等にみつかったのだ。
 五郎は閃めくようにそう思った。ゆき子はいま恐るべき殺人団の手につかまっているのだ。
 五郎は決然と立ち上った。――そして食堂を出るとすぐ警視庁へ電話をかけ、かねて父の友人としてよく知っている布山刑事課長を呼んで何やら頼んだ後、紙丸かみだまの中に入っていた入場券で劇場の中へ入った。
 もう一番目の奇術の幕があいていて、場内はぎっしりの観客だった。五郎の席は一番前の列で、舞台へ手が届くばかりだ。
 ――これなら大丈夫。
 と坐ったが、演技を見るような余裕はない。何時いつどこから兄が証拠の品を投げてよこすか分らないので、手に汗を握りながら唯そればかりを注意していた。
 二番目は軽い喜劇だった。三番目が舞踊、その次が喜劇を取りいれた奇術で、その時はじめて道化役が出てきた。
 ――だぶだぶの服、筒帽子、顔を真白に塗って眼口を隈取くまどっているピエロ。扮装しているので分らないが、体つきのどこやらに忘れ難い兄のおもかげがある、
 ――兄さんだ。
 そう思ったとき、道化ピエロの方でも五郎の顔をじっみつめたようだった。
 五郎は息をつめた。舞台では演技が始まった。
 まず三人いる奇術師が、お互いに巧妙な奇術をして見せる。すると道化役が側から種明しをするという、く有りふれた筋である。しかし道化役が上手なので、観客はやんやと喝采していた。――五郎は無論そんなことは耳にも入らない。今にも兄が何か投げてよこすかと、腰をうかして待ちうけていた。
 すると間もなく、道化ピエロが余り邪魔をするので、奇術師の一人が憤然と怒り、拳銃ピストル取出とりだして道化ピエロを射った。
 がん※(感嘆符二つ、1-8-75)
 耳を聾する銃声、
「ああーッ」
 道化は喉にひっかかるような呻声うめきごえと共に胸を押えてよろよろと、奇術用の卓子テーブルへよろけかかった。観客は勿論もちろん、それも芝居だと思っていた。――しかし、奇術師たちがさっと顔色を変えたのと、道化役が胸にべっとり血を滲ませながら倒れるのを見ると、
「あ、いまのは実弾だぞ」
「そうだ、実弾らしい」
道化ピエロは死ぬぞ」
 と観客たちも色を失って総立になった。――舞台では奇術師の一人が道化ピエロの側へ駈寄かけよった。そしてしどろもどろな声で、
「幕だ幕だ、幕を下せ」
 と叫んだ。然しそのとき五郎は、
「待て! その体に触るな」
 と絶叫しながら舞台へ跳上とびあがる。続いて――万一の場合を考えて五郎の頼んでおいた私服刑事が二十名ばかり、ばらばらと五郎について舞台へ駈け登ってきた。
 歓楽の大劇場は一瞬にして恐怖の坩堝るつぼと化した。幕の外では観客の沸返わきかえる騒ぎ、幕の内側では、――五郎が血まみれの道化ピエロを抱きおこして、
「兄さん、僕です、五郎です」
 と狂気のように叫んでいた。
しっかりして下さい、約束を忘れたのですか、兄さん、兄さん※(感嘆符二つ、1-8-75)
「五……郎」
 道化ピエロはようやく顔をあげ、ひどくもつれる舌で、
「こ、こ、――ここに、……ここを、――」
 胸を指さしながら、それまで云うとがくり前へのめって絶命した。――五郎は道化服をびりびりと引裂ひきさいた。ここに! と指さしたからには、例の秘密を持っているに違いない。しかし何も出てこなかった。シャツの下まで調べても、体中をすっかり調べても、紙一枚出てこないのであった。
 ――どうしたんだ。
 五郎は気も狂わんばかりだった。兄は死んだ、間違いか故意か? 空弾の筈の拳銃ピストルに実弾が入っていたのである。そして秘密を握ったまま射殺されてしまったのだ。しかも証拠の品を持っていないとすれば、兄はただ犬死をしたに過ぎないではないか。
「――ああ神さま!」
 五郎は思わず慟哭どうこくした。

屍は語る


 たとえ過失にもせよ、あきらかに殺人事件だから、道化ピエロの死体とともに、劇団「笑う妖魔」一座の者は、その場から警視庁へ連行された。
 取調べは簡単だった。舞台用の拳銃ピストルに実弾が入っていたのである。しかもその拳銃ピストルに空弾をめるのは道化の役目だった。(こうした場合には、射たれる役が弾丸たま込めをするのが例である。つまり自分が射たれる役だから間違える筈はないという意味で)――してみると、射った男にはいささかも罪はないことになる。
 こうして取調べが進行している側で、五郎は必死に考えをまとめようと苦心していた。
 ――身命を賭しても秘密を渡す、と兄さんは云った。あの言葉に嘘はないはずだ。兄さんは秘密を握ったに相違ない。そして僕に渡そうとしたんだ。……待てよ、彼等は兄さんを監視していた。独りでは食堂へも出さない。だから兄さんは舞台から証拠の品を僕に投渡なげわたそうとした。――その寸前に射殺された。拳銃ピストルの実弾は兄さんがめたものだ。兄さんが、……自分で自分の命を断つようなへまをやるだろうか、そんな間違いを※(感嘆符疑問符、1-8-78)
 そこまで考えたとき、五郎は兄が死ぬ間際に云った言葉をもう一度思い返してみた。
 ――兄さんは胸を押えて「ここに」と云った。しかし裸にして調べても何も出てこなかったではないか。そうすると「ここに」と云ったのは別に意味があるのかしら?
「あッ!」
 愕然と、五郎は椅子からとび上った。
「そうか、そうか、兄さん※(感嘆符二つ、1-8-75) 分ったよ、初めて分った。そこに気づかなかった僕は馬鹿だ。そうなのか兄さん※(感嘆符二つ、1-8-75)
 半ば泣くように叫んだ五郎は、いきなり司法主任の前へ突っ立って、
道化ピエロの死体を解剖して下さい。重大な秘密が隠されてある筈です」
「死体に? ……重大な秘密だって?」
「すぐにやって下さい。それが説明になるでしょう。僕は父を迎えに行って来ます。――むろんこいつらは一人も逃さぬように!」
 云い捨てるとともに、五郎は帽子をつかんで外に走り出した。

 一時間の後、――五郎が父市造氏を伴って戻ってくると待ちかねていた司法主任は、市造氏に挨拶をするのも忘れて、
「五郎君、あったぞ、あったぞ」
 と取り乱した調子で叫んだ。
「ありましたか」
「解剖したら死体の胃からすばらしい物が出てきた。見給えこれを――みんな要港地帯の機密写真だ。防空設備を写したやつもある。超小型カメラで撮ったフィルム、合計七十三枚。みんな国防上の重大なものばかりだ」
 卓子テーブルの上へひろげた油布あぶらぎれへ、拇指おやゆび程の大きさの現像フィルム。――ああ、怪殺人事件の犯人とのみ思ったのは誤り、敵はそれ以上の恐るべきスパイだったのだ。
「それから手紙がある。読んでみたらゆき子さんが日東劇場の地下室に監禁されていると書いてあったから、いま救い出しに人をやったところだ」
「見せて下さい」
 五郎は手紙を受取ってひらいた。

五郎よ、さっきの約束は取消す。
僕は彼等に発見された、万事休すだ。僕は証拠品と共にこの手紙をむ。そして拳銃ピストルへ実弾をめる。舞台の上で僕が射殺されれば、必ず警察で手入れをするだろう。その他にもう手段はない。おまえは頭が良いから、きっと死体の解剖に気づいてくれるだろう。それを神に祈る。お父さんに会って「許して下さい」と云って死ねないのが残念だ。――五郎、おまえから云って呉れ。
「兄さんはやくざでした。然し日本人として、最後は立派でした」と。
 ゆき子は日東劇場の地下室にいる。早く救い出してやって呉れ。僕はあの世からみんなの仕合せを祈っているよ。
一郎。

「父さん、――」
 五郎はむせびあげながら手紙を父に渡した。そこへ解剖の済んだ死体が運ばれてきた――五郎はすぐに走り寄り、手帛ハンカチを水に濡らして、扮装の白粉おしろいを静かにぬぐい落した。……ひと拭きごとに現われてくる兄の顔、なつかしい兄の顔が、涙に曇って、幻の如く霞む。
「――五郎」
 市造氏が近よってきた。
「父さん」
 五郎は振返ふりかえって涙と共に云った。
「見てあげて下さい。兄さんです。兄さんは立派に罪を償いました。よく死んだと……褒めてあげて下さい」
 市造氏は、然し何も云わなかった。ただ黙って、一郎の冷たい手を握緊にぎりしめるのだった。それ以上なにを云う必要があろう。今こそ父と子とはぴったりと結び着いたのだ。
 ゆき子はその夜のうちに救い出されたし、劇団「笑う妖魔」の一座十七名(その多くは、×××国のスパイであった)は捕縛された。――そして厳重な取調べの結果、例の七つの怪殺人事件は、彼等が撮影する現場を発見されたので殺したという事実まで判明した。……彼等がどう裁かれるか、それはここに記すまでもあるまい。





底本:「山本周五郎探偵小説全集 第一巻 少年探偵・春田龍介」作品社
   2007(平成19)年10月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
   1938(昭和13)年夏期増刊号
初出:「少年少女譚海」
   1938(昭和13)年夏期増刊号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「拳銃」に対するルビの「ピストル」と「コルト」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:良本典代
2022年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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