東京理科大学生の
椙原敦夫は、北海道の奥地に在る故郷の妹から、
(母死ス父危篤至急帰レ、至急ヲ要ス)
という意味の電報を
受取った。
「なんだい
是は」
敦夫は訳が分らぬという顔で
呟いた。
「母さんが死んで父さんが危篤だって? ――また
チイ公の
悪戯じゃないのか」
春の休暇で帰省した時には父親こそ数年来の病床にあったが、妹の千代子も母親も揃ってぴんぴんしていたし、他に何も変った事が起りそうな状態は見当らなかった。
「
然しまさか母死すなんて事が冗談に
云えるもんじゃない、
殊に
依ると何か変事でも起ったのかも知れない、――
兎に
角行ってみよう」
敦夫は
直ぐ出立の支度をした。
至急という事なので、朝の旅客機で旭川まで飛び、そこから青沼線の軽便鉄道に
乗込んだのが、七月はじめの
雨催いの午後一時であった。故郷の椙原村は旭川から東北へ三十里ほど入った僻地で、まるで馬車に毛の生えたような軽便鉄道が一本通っているきり、全く文明から
掛離れた山間に在った。
駅へ着いたのが午後七時過ぎ、電灯が無くて石油ランプの吊ってある、
凡そ時代ばなれのした駅の建物を出ると、――横手のところに爺やの平造が馬車で迎えに来ていた。
「えらく早いお着きでがすな」
「旭川まで旅客機で来たからね、――旅客機、飛行機だよ」
「そんな危ねえ物にお乗んなすって」
「まあ
宜い、出掛けよう」
敦夫は馬車へ乗った。――馬車はまだ灰色の残照のある道を、荒地の方へ向ってがたがたと走りだした。
「一体何事が起ったんだ、爺や」
「恐ろしい事が始まっただぞ若旦那さま、奥さまは
非業にお亡くなり遊ばすし、大旦那さまも御容態が危ねえだ、――村の者の中にも人死にがあるだよ」
「訳を話して
呉れ、訳を」
「
殺生谷の鬼火が祟り出しただ、御領分内の者ぁみんな生きた
空ぁねえでがすよ」
平造の話を簡単に記そう。
この老人が「御領分内」と云っているのは、椙原家で持っている広大な土地を指すのである。それは北見と石狩の国境に近く、ふたつの
嶮しい
山塊に囲まれた平原で、湿地や沼沢の多い、
礫の
洗出されたひどい
荒蕪地に
取巻かれていた。――その土地の、つまり椙原村の一里ほど北へ離れた処に、俗に「殺生谷」と呼ばれる沢地がある。背を没するような
蘆の生えた泥深い沼と、陰科植物の繁殖した湿地とで成り、見るからに物凄い場所であるが、そのうえ
其処には昔から恐ろしい伝説があった。それは
斯うである、……椙原家はもと仙台の
伊達家の家臣であったが、今から凡そ二百五十年ほど以前に、
蝦夷地開拓のため藩から選ばれて渡島し、間もなく同行の者たちの多くが
引揚げた後も、椙原家だけは
留って
遂に土着し、今日に到ったのである。その開拓時代に、彼等は恭順を示さない土人達を、百二三十人集めて斬殺し、その死体を例の沼地へ
投込んだと云う。――殺生谷と呼ばれるのはそのためで、それ以来
其処には殺された土人たちの
怨霊が
籠って、青い鬼火が燃えたり、幽霊の叫びが聞えたり、色々と
奇怪な事が起るのであった。
以上は古くから口碑に遺った伝説である、然し鬼火の燃えるのは事実だし、道に迷って
踏込んだ者が、殺生谷の泥深い底無し沼へはまりこんで、惨めな死を遂げる事も
少くはない、――村の人たちは是を、
「殺生谷の怨霊が人を引込むのだ」
と云って、子供でも怖れて近寄らない。
ところが
丁度ひと月ほど前の事であった。椙原家の小作人の一人が、
畠仕事に
後れて夜になってから戻る途中、殺生谷の近くで恐ろしく大きな鬼火に遭った。それは奇妙な獣のような形をした青白い火の玉で、夕闇の中を
真直に飛んで来てその男の
眼前でぴたりと停まり、ぐるぐると二三度舞ったかと思うと、矢のように殺生谷の方へ
飛去って行った。――その小作人は夢中で村へ
逃帰ったが、その夜のうちに訳の分からぬ高熱をだして、ひと晩中狂ったように、
「鬼火が俺を
曳いて行く、鬼火が俺を殺生谷へ曳いて行く」
と叫んでいたが、遂にそれから三日めに死んで
了った。
そんな事があってから間もなく、人々は夜になると殺生谷の方から、
呻るような、叫ぶような、気味の悪い声が聞えて来るのに気付いた。――それは人間の声ともつかず獣の声ともつかず、
或時は
微かに或時は鋭く、高く……聞いていると骨の髄から
慄然とするような恐ろしい声だった。
「ああ、殺生谷の底から土人の怨霊が呼んでいるんだ」
人々は恐怖に
戦きながら
囁交した。
「ところが今から五日まえの事でがす」
平造老人は続けた。
椙原家の
作男で吾平というのが、
使を命ぜられて西の家へ行った。――西の家とは、敦夫の父の弟で、敦夫たちには
叔父に当る源治の
住居である。椙原源治は極めて人嫌いな偏屈人で、兄の壮太郎とも仲が悪く、村の西
端れにとび離れた一軒家を建て、兄からの仕送りで今
尚妻も
娶らずに暮していた。
吾平は西の家で用を足し、それからもう一軒小作人の家を訪ねたので、帰途についたのはとっぷり暮れてからだった。なにしろ途中殺生谷の近くを通らなければならぬので、彼はもう足も地につかぬ気持で急いだ、――そしてようやく
其処を
通抜けてやれやれと思ったとたんに、右手の闇の中から突然、
「あーッ助けてえ

」
という女の悲鳴が聞えて来た。
吾平は息も止まるほど驚いたが、それでも必死の勇を鼓して声のする方へ近寄って行った。すると――
甜菜畑の向うのところを、一人の婦人がさんばら髪になって眼を
吊上げ、まるで見えぬ手で引摺られるように、よろよろと殺生谷の方へよろめいて行くのが見えた。
然もその婦人の周囲を、青白い大きな、獣のような形をした火の玉が、くるくると恐ろしい早さで
舞狂っているのである。
「鬼火が人を殺生谷へ曳いて行く」
吾平はそう思いながら、歯の根も合わず
見戍っていたが、やがて、自分の危険に気付くと夢中で
其処を逃げだして
了った。
「――その婦人が奥さまでごぜえました」
平造老人は身震いをしながら云った、「
俺らは直ぐに作男や小作人たちを集めて駆けつけましただが――駄目でがした。殺生谷の入口のところで、木枝に引懸っていた奥様の着物の袖をみつけたのがせめてもの事、今日まで
未だ死骸もあがりましねえだ」
「爺や、僕には信じられないよ」
「誰に信じられますべえ、――だが事実はどうにもなりやせん。大旦那さまはそれ以来ぐっと病気が重って……」
老人は言葉を切って云った。
「さあ、お屋敷へ着きましたぞ、若旦那さま」
そして馬車は、がらがらと石畳を鳴らしながら椙原家の門の中へ入って行った。
馬車の音を聞きつけたのであろう、玄関には妹の千代子が、眼を
泣腫らした哀れな姿で出迎えていて、敦夫が入って行くなり、
「お兄さま!」
と泣きながら
縋りついた。
「大変な事になったね、さぞ
吃驚したろう。だが十八にもなってそう泣くなよ
チイ公、――兎に角お父さまに会おう」
「いまお眠ってらっしゃるの」
「そうか、それじゃあお起きになるまで君と少し話をしようか」
敦夫は
態と元気を装いながら、洋館の広間へ妹と一緒に入って行った。――ふだんあんなに陽気で、罪のない
悪戯をしては家中の者を笑わせていた千代子が、恐ろしい出来事のためにすっかり
脅え、美しい
眸は絶えず襲われているように
落着かなかった。平造老人の話を聞いただけでは多少まだ疑わしく思っていた敦夫も、この妹の哀れな変りようを見ては
奇怪な事件の真実さを認めずにはいられなくなった。
敦夫は妹からも話を聞いた、そして平造老人の語るところと
違はないのを
慥めた。
「――土人の怨霊、
奇怪な
呻き、青白い大きな鬼火、……まるで中世紀の伝説だ、――その伝説のような現象が、実際に人を殺す……然も僕たちの母さんを殺した、――考えられない。実に考えられない怪事件だ」
「でもお兄さま、あの殺生谷の怨霊の声を聞けば、信じられない事も信じられるわ」
「
チイ公もそれを聞いたのか」
「聞いたわ、二度も三度も、――お兄さまだっていまにお聞きになるわ」
そう云って千代子は身震いした。
父の壮太郎はよく眠っていて起きそうもなかったので、敦夫は旅の疲れもあり、寂しがる妹と一緒の部屋で早くから
寝台へ入った。寝苦しいひと
夜だった。とろとろとしたかと思うと直ぐに、何とも
得態の知れぬ悪夢に襲われて
はっと眼が覚める、そうすると今度は中々寝つかれず、殺生谷の鬼火が今にも
其処へ現われるような気がしたり、怨霊の呻きが聞えるように思ったりして、窓がほのぼのと白んで来るまで、遂に敦夫は満足に眠らずにしまった。
夜が明けると雨だった。――軽く朝飯を済ましてから、敦夫は妹と一緒に父の病室へ入って行った。
父の顔には見るも痛ましい苦悩が刻みつけられていた、医者から余り話をしないようにと注意されていたので、簡単に挨拶だけして
退ろうとすると、父は不意に鋭い眼をして、
「――敦夫、云って置くが、おまえは直ぐ東京へお帰り、千代子も
伴れて行くんだ」
「そんな事は父さんが治ってから」
「
否、いかん」
父は敦夫の言葉を遮って、「今度の事件は是からが本筋だ、母さんが第一、二番目は父さんだ、そして
此処にいる限りおまえも千代子も同じ運命に死ななければならぬ」
「どうも、僕には納得がゆかないですが」
「話してやろう。――おまえは殺生谷の伝説を知っているだろう、椙原家の先祖が
此処へ入墾した当時、百幾十人かの土人を殺してあの底無し沼へ投込んだと云う。……事件の
因はあれなのだ」
「つまり土人の怨霊ですね」
「そうだ、多くの土人の怨霊が
凝って鬼火となり、椙原家の人間を取殺そうとしているのだ、然もそれは今度が初めてではない、七十年目
毎に
繰返されている事が分ったのだ」
敦夫はこの新しい事実に驚いた。
「では以前にもあったのですか」
「第一回は宝永七年、第二回は安永九年、第三回は嘉永三年、――三回とも恐ろしい鬼火が現われて
殆ど一家全部を殺生谷へ引込んで
了った。
僅に
他処へ出ていた者がその難を
免れて家を継いだのだ。今度はその第四回目に当るのだ」
「どうして
其が分かったのですか」
「西の源治が土蔵の中から
捜出した、古い記録に
精しく記してある――読んで御覧」
そう云って父は、
枕許にあった一冊の古ぼけた記録を取って渡した。
東京へ帰るという問題から逃げるために、敦夫は少しその記録を調べるからと云って病室を辞し、洋館へ入って
卓子の上へその古冊子を
披げた。――土佐の
古漉紙を二枚に折った十枚綴じの物で、ひどく古色が出ているが
蝕いの
痕はない。余程保存が良かったとみえて、墨色の
褪せも
少く、六朝風の達筆で「殺生谷の鬼火に
就ての秘録」という題名の本に、恐ろしい
呪の事実が精しく
書認めてあった。それは父の話した通り、実に戦慄すべき記録なのだ。
「分らん、頭が混乱する
許だ。――ゆうべよく眠っていない
故かも知れない」
「お
午睡をなさいよ」
千代子が
労わるように云った。
「あたし吉井村のお友達の家まで行って来るから、そのあいだお兄さまもお
寝みになると
宜いわ」
「お友達の家で何かあるのかい」
「ええ、お友達のお
義姉さまに赤ちゃんが生れたのよ、それでお祝いを持って行かなくちゃならないの、夕方までには帰るわ」
「じゃあ僕は
午睡をするとしよう」
そう云って敦夫は寝
椅子へ横になり、手に持った記録の冊子を、光を
除けるために顔の上へ伏せて眼を閉じた。
ひと晩殆ど眠っていないので、敦夫はそのままぐっすり熟睡した。女中が
午飯を知らせに来たのも知らず、午後三時近くまで眠って、ふと眼が覚めたので
起上ろうと、顔の上の冊子を取ろうとした時、何をみつけたか、
「おや――?」
と低く呟いた。
眼前にある冊子の紙が、窓から来る光のために透いて見える、――その紙の端のところに、紙へ
漉込んだ文字がありありと見えたのだ。
「変だぞ、――これは、……」
敦夫は
臥破と起上った。そして記録の紙を一枚一枚、光に透かして
叮嚀に見ていたが、急にそれを投出して
立上った。
「益々分らなくなった、――
否そうじゃない。秘密の鍵をみつけたのだ。……待て、考えなくちゃならんぞ、是が
若し――」
敦夫は立止まった。眉のあいだに深い皺が畳まれている。やがて何か重大な事を考えついたらしい。こくりと一つ頷くと、足早に土蔵の中へ入って行ったが、間もなく一挺の猟銃と
弾丸筐を
[#「弾丸筐を」はママ]持出して来た。――その猟銃は父の愛用品で、
英吉利から
態々取寄せた
二聯銃身の精巧な物だった。敦夫はそれに
弾丸を装填すると、女中を呼んで食事を命じ、手早く済ませて雨帽子と外套を着込み、
「
些っと
其辺を歩いて来るから」
と云い置いて家を出た。
雨はまだ
降頻っていた。森も畑の作物も荒地の草も、ぐっと気温の下った雨に濡れて身震いしているように思われた。敦夫は外套の衿を立てて雨帽子の
庇を深く引下し、銃を右の小脇に抱えて街道へ出ると、耕地のあいだを
真直に北へ向って歩きだした。――四十分ばかり行くと道は二つに
岐れる、それを右に取って
更に三十分ばかり、ひどい
泥濘の道を進むとやがて、右側が緩い斜面の丘になり、左手に灌木の茂みが
展がっている場所へ出た。敦夫はその灌木の中へ入って行った。
進むに
順って地盤が柔かくなり、ともすると長靴をずぶりと踏込んで
了う、そしていつか灌木をぬけて蘆の生えた
湿へ出たと思うと、急に
眼前へ殺生谷の底無し沼が姿を現した。
敦夫は殺生谷の周囲を二時間あまりも歩き廻った。――鼠色の雨空、濡れた蘆、ぬるぬると粘菌類や陰科植物の繁殖した沼地、……それは
奇怪な鬼火の伝説がなくとも、実に不気味な、陰惨な光景だった。
「この沼の底に百余人の土人の死体が沈んでいるのだ、その他にも鬼火に誘われた幾多の人が……そして母さんの死体もあるのだ、――呪われた沼よ」
敦夫はぶるっと身震いをした。――とその時である。蘆の葉に鳴る雨の音より他に、なんの音もしない荒涼たる殺生谷の
何処かで、
うるるるるるう――。
と云うような奇妙な
呻声が起った。
「あ、怨霊の声だ」
敦夫は
咄嗟にそう思った。彼は爪先から氷のような恐怖が
這登るのを感じて、思わず猟銃を
執直した。呻声は直ぐ続いて起った。
うるるるる! くうくう――。
それは
明かに沼の中から聞えて来るのだ。変に陰気な、本当に怨霊が
哭くと云いたいような声である。――敦夫は猟銃を執上げて、ぐいと沼の方へ狙いをつけた。と――それと殆ど同時に、背後からざわざわと物の気配がした。
「――何か来る」
そう気付いて、敦夫は素早く蘆の茂みへ
跼みこんだ。
この恐ろしい殺生谷へ、然もこんな雨の降る
黄昏どきに来るのは何者だろう、――息を殺しているとやがて、高い蘆のあいだから
ぬっと黒い外套が現われた、それは旧式の頭巾附きのもので、頭からすっぽりかぶっているため、顔も体つきもまるで分らない。……男はぴたりと足を停めて、
暫く
四辺の様子を窺っていたが、敦夫の前を通って奥の方へ去った。
くうーんくうーん うるるる。
例の声は急に高くなった。敦夫は悟られぬように注意しながら、蘆の隙間越しに
伸上って見た。すると黒い外套の男は、沼の右手にある裸岩の蔭へすっと隠れて
了った。
「あんな処で何をするんだろう」
そう思いながら待っていた、長い時間だった。雨の日の暮れ易い空は、いつかもうどす黒い夕闇がのしかかって、沼の水ばかりが
鈍色に光っていた。――凡そ一時間も経ったかと思われる頃、突然ざわざわと男の戻って来る気配がしたので、敦夫は再び蘆の茂みへ身を隠した。男は足場を選びながらゆっくり歩いて来る、
四辺が静かなので、身動きをしても気付かれるに違いない。――誰だか
慥めてやりたい。
という烈しい誘惑を押えながら、敦夫は
辛棒強く男の通過ぎるのを待った。――そして黒い外套の頭巾が、全く蘆の
彼方へ見えなくなるのを見定めて、沼の
縁を例の裸岩の方へと進んで行った。――それは半分沼の中へ
突出た
粗面岩で、高さ十二
呎あまりの、丁度巨人が横伏したような恰好をしている、敦夫はその岩へ登って、さっき男の姿の見えなくなった辺を覗いて見た。……すると岩の蔭になったところに、人が
跼んで入れるほどの
洞穴のあるのを発見した。
「ははあ、奴は
此処へ入ったのだな」
呟きながら、身を
跼めて入ろうとした時、洞穴の入口のところに、妙な黄色い粉がいっぱい落ちているのをみつけた。
「何だろう――」と指に附けて拾って見た、それは
硫黄の粉末のような物だった。――敦夫は指で潰したり、
匂を嗅いだりしていたが、不意に、
「しめた! 分ったぞ

」
と大きく叫んだ。そして洞穴の中へ入って行った。中は畳四帖敷ぐらいの広さで、天井も高く、下には古い藁屑がいっぱい散乱していたし、おまけに鼻を
衝くような悪臭がむっと
立罩めていた。
「何も
彼も思った通りだ。――呪いの記録、怨霊の呻声、鬼火、……立派な道具立てだ、椙原家を全滅させて、それで――」
敦夫はそこまで呟いて
はたと黙した。――何か物の
蠢めく気配がする。
「まだ誰かいるぞ」
恟っとして一歩退き、
燐寸を取出して
すった。ぱっと光が洞穴の四壁を照した、見ると、……奥の方に誰か倒れている者がある、
「――誰だ、誰だ!」
敦夫が叫ぶと、倒れている人影がゆらりと身動きをして、
「助けて、助けて、――千代だけは、千代だけは触らないで」
と苦しげに呻いた。
「あっ――

」
敦夫は仰天して
駈寄った、そして二本めの
燐寸をすって覗きこんだ。
「
矢張り、――母さんッ」
絶叫しながら敦夫は
抱附いた。驚くべし、洞穴の奥に倒れていたのは、鬼火のために、殺生谷へ引込まれたと信じられていた敦夫たちの母親であった。
母親は
後手に縛られていた、敦夫は手早く縄を切って抱起し、
「母さん、敦夫です、敦夫です」
と耳へ口を当てて呼んだ。母親はその声をようやく聞きつけたと見え、
「おお――」
と身を
顫わしたが、
「は、早く、千代子を助けて、母さんは構わない千代子を助けて!」
ともつれる舌で叫ぶや、そのまま敦夫の腕の中へ気絶して
了った。――敦夫には母の言葉が雷のように響いた。
「千代子、――そうだ、
チイ公は吉井村の友達を訪ねて夕方帰ると云った、奴はその途中を、狙うに違いない、しまった!」
敦夫は
臥破とはね起きるや、気絶している母を抱上げて洞穴を出る、もうあとは夢中で、蘆を踏倒し灌木を
押分けて街道へ出た。――そこから二三丁西に小作人の村田与二郎の家がある。気絶した母を抱いたまま
泥濘に何度も足を取られながら、ただ死力を尽して走りに走った敦夫は、ようやくの事で村田の家へ
辿着くと、
「与二郎、明けて呉れ、僕だ、敦夫だ」
と雨戸も
破れよと叩いた。――村田与二郎は大男の予備軍曹で、満洲事変の時には出征軍に加わり、すばらしい働きをして勲章を拝受した、村一番の豪胆者だった。
「おお、是は若旦那じゃありませんか、どうなすったんで。――おや、それは奥さまですね!」
「訳はあとで話す、母さんを預けるから、直ぐ医者を呼んで手当をして呉れ、――それから馬はあるか」
「曳いて来ましょう」
与二郎は母親を抱取って奥へ運ぶと、
厩から手早く馬を
曳出して来た。――敦夫は猟銃の安全錠を外し、ひらり馬に跨がると、
「後で会おう、母さんを頼むぞ」
と云い捨てざま、馬腹を蹴って北へと、疾風のように駆けだした。
街道を廻ったのでは間に合わないと思ったから、道を外れて藪ヶ丘を
遮二無二乗り越え、檜の植林地を横断して吉井村と椙原村をつなぐ街道へ出た、――それを更に南へ十丁あまり、馬を煽り煽り行くと、向うから、
「あ――ッ 助けてッ」
凄じい悲鳴が聞えて来る。
「
チイ公だ」
と直感した敦夫が、
驀地に乗りつけて行くと、道の上に一台の馬車が
停まって居り、その周囲を、大きな青白い火の玉が、恐ろしい早さでくるくると舞狂っている、――鬼火だ、殺生谷の鬼火が現われたのだ。
「助けて――えッ怖いッ」
馬車の中から聞える悲鳴は正に千代子の声だ。
「うぬ、鬼火め!」
敦夫は手綱を絞って馬を停めると、舞狂っている鬼火を狙って続けざまに射った。
だーん、だーん、だーん。
銃声は柏の林に
木魂した、そして
ぎゃぎゃぎゃん
という、
慄然とするような咆哮が聞えたと見る間に、今まで恐ろしい早さで廻っていた鬼火が、ぴたりと地上へ動かなくなった。――敦夫は更にそれを狙って三発、充分に射止めて置いて馬車へ乗着けた。
馬車の中には千代子が、殆ど半分気を失っていたが、敦夫が近寄って、
「チイ公、もう大丈夫だぞ」
と呼びかけるや、
「まあお兄さまッ」
と叫びながら、狂ったように兄の体へとびついて来た。
「怖い、鬼火が、鬼火が……」
「大丈夫だよ、鬼火はもう僕が片付けたよ、母さんも無事だったんだ、もう何も心配することはないよ」
「ええ

母さんが生きて――?」
「そうなんだ、何も彼も直ぐ片がつくよ、――御覧。おまえの怖がっていた鬼火はそこに転がっているよ」
敦夫の
指示した処を見ると、一頭の
巨きな、犬のような獣が死んでいた。
「まあ、なんですの是?」
「狼を馴らした奴さ」
「だって毛が青白く光っているのは?」
「夜光剤だ、闇の中で燐光を発する薬剤が塗ってあるんだよ、恐怖に眼の
眩んでいる者には是が鬼火に見えたんだよ」
そう云って敦夫は愉快そうに笑った。
明る朝。昨日の雨にひきかえて、すっきりと晴れあがった空を見ながら、洋館のベランダで敦夫と千代子が話していた。
「――秘密を解く鍵を与えて呉れたのは、あの呪いの記録を書いた紙なんだ。あの紙は
如何にも古びているが、透かして見ると漉込みの字があった。それがなんと、土佐西原『昭和堂』と云う字じゃないか、つまり、昭和になって漉いた紙なんだ。――だから源治叔父さんが土蔵の中から古く伝わっていたのを捜出したというのは嘘で、実は最近
拵えて古いように手入れをしたのさ」
「どうしてそんな事をしたの?」
「伝説を信じさせるためと、自分の犯罪をカムフラアジするためだ。七十年め毎に呪が復活すると云う記録があれば、自分は疑われずに済むからな、――
何故そんな事を企んだかって? まだ君には分らないのか。一言で云えば椙原家の財産が欲しかったからさ、我々を全部やっつけて、椙原家を自分の物にする
積だったんだ。……然し旨く考えたよ、殺生谷の伝説を利用して狼を馴らし、毛へ夜光剤を塗って鬼火に仕立てるなんか馬鹿じゃ出来ない事だ。それも自分の家へ飼って置いては発見される怖れがあるから、人の近寄らない殺生谷の裸岩に隠して置き、必要に応じて使ったところは
天晴だ。――僕は然し、洞穴の入口で黄色い粉を拾った時、それが夜光剤だと知って大体の見当がついたんだ」
「でもよく母さん殺されなかったわね」
「
如何に悪人でも、義理の姉を手にかける事は出来ないさ、あの洞穴の中で飢死させてから、底無し沼へ沈める
積だったのだろう。――ゆうべ狼を曳出しに行った時、母さんにこれから
チイ公をやっつけに出掛けるんだと口を滑らしたのが
此方には仕合せで、危うく君が助かったんだ」
「まあ、なんて怖ろしい人でしょう」
「なに昔から
彼の人にはそんなところがあったよ、
唯……」
と云いかけた時、庭先へ平造老人が入って来て、帽子を
差出しながら云った。
「若旦那さま、幾ら捜しても西の旦那はみつかりましねえ、この帽子が底無し沼に浮いとりましたから、殊に依ると
彼処へ……」
「そうだ、
其で宜いんだ」
敦夫は頷いて云った。「
彼処が叔父さんに一番
相応しいお墓だよ、――神よ、
彼人の魂に平安あれ」