殺生谷の鬼火

山本周五郎




凶報到る


 東京理科大学生の椙原敦夫すぎはらあつおは、北海道の奥地に在る故郷の妹から、
(母死ス父危篤至急帰レ、至急ヲ要ス)
 という意味の電報を受取うけとった。
「なんだいこれは」
 敦夫は訳が分らぬという顔でつぶやいた。
「母さんが死んで父さんが危篤だって? ――またチイ公の悪戯いたずらじゃないのか」
 春の休暇で帰省した時には父親こそ数年来の病床にあったが、妹の千代子も母親も揃ってぴんぴんしていたし、他に何も変った事が起りそうな状態は見当らなかった。
しかしまさか母死すなんて事が冗談にえるもんじゃない、ことると何か変事でも起ったのかも知れない、――かく行ってみよう」
 敦夫はぐ出立の支度をした。
 至急という事なので、朝の旅客機で旭川まで飛び、そこから青沼線の軽便鉄道に乗込のりこんだのが、七月はじめの雨催あめもよいの午後一時であった。故郷の椙原村は旭川から東北へ三十里ほど入った僻地で、まるで馬車に毛の生えたような軽便鉄道が一本通っているきり、全く文明から掛離かけはなれた山間に在った。
 駅へ着いたのが午後七時過ぎ、電灯が無くて石油ランプの吊ってある、およそ時代ばなれのした駅の建物を出ると、――横手のところに爺やの平造が馬車で迎えに来ていた。
「えらく早いお着きでがすな」
「旭川まで旅客機で来たからね、――旅客機、飛行機だよ」
「そんな危ねえ物にお乗んなすって」
「まあい、出掛けよう」
 敦夫は馬車へ乗った。――馬車はまだ灰色の残照のある道を、荒地の方へ向ってがたがたと走りだした。
「一体何事が起ったんだ、爺や」
「恐ろしい事が始まっただぞ若旦那さま、奥さまは非業ひごうにお亡くなり遊ばすし、大旦那さまも御容態が危ねえだ、――村の者の中にも人死にがあるだよ」
「訳を話してれ、訳を」
殺生谷せっしょうだにの鬼火が祟り出しただ、御領分内の者ぁみんな生きたそらぁねえでがすよ」
 平造の話を簡単に記そう。
 この老人が「御領分内」と云っているのは、椙原家で持っている広大な土地を指すのである。それは北見と石狩の国境に近く、ふたつのけわしい山塊さんかいに囲まれた平原で、湿地や沼沢の多い、つぶて洗出あらいだされたひどい荒蕪地こうぶち取巻とりまかれていた。――その土地の、つまり椙原村の一里ほど北へ離れた処に、俗に「殺生谷」と呼ばれる沢地がある。背を没するようなあしの生えた泥深い沼と、陰科植物の繁殖した湿地とで成り、見るからに物凄い場所であるが、そのうえ其処そこには昔から恐ろしい伝説があった。それはうである、……椙原家はもと仙台の伊達だて家の家臣であったが、今から凡そ二百五十年ほど以前に、蝦夷えぞ地開拓のため藩から選ばれて渡島し、間もなく同行の者たちの多くが引揚ひきあげた後も、椙原家だけはとどまってついに土着し、今日に到ったのである。その開拓時代に、彼等は恭順を示さない土人達を、百二三十人集めて斬殺し、その死体を例の沼地へ投込なげこんだと云う。――殺生谷と呼ばれるのはそのためで、それ以来其処そこには殺された土人たちの怨霊おんりょうこもって、青い鬼火が燃えたり、幽霊の叫びが聞えたり、色々と奇怪きっかいな事が起るのであった。
 以上は古くから口碑に遺った伝説である、然し鬼火の燃えるのは事実だし、道に迷って踏込ふみこんだ者が、殺生谷の泥深い底無し沼へはまりこんで、惨めな死を遂げる事もすくなくはない、――村の人たちは是を、
「殺生谷の怨霊が人を引込むのだ」
 と云って、子供でも怖れて近寄らない。
 ところが丁度ちょうどひと月ほど前の事であった。椙原家の小作人の一人が、はたけ仕事におくれて夜になってから戻る途中、殺生谷の近くで恐ろしく大きな鬼火に遭った。それは奇妙な獣のような形をした青白い火の玉で、夕闇の中を真直まっすぐに飛んで来てその男の眼前めのまえでぴたりと停まり、ぐるぐると二三度舞ったかと思うと、矢のように殺生谷の方へ飛去とびさって行った。――その小作人は夢中で村へ逃帰にげかえったが、その夜のうちに訳の分からぬ高熱をだして、ひと晩中狂ったように、
「鬼火が俺をいて行く、鬼火が俺を殺生谷へ曳いて行く」
 と叫んでいたが、遂にそれから三日めに死んでしまった。
 そんな事があってから間もなく、人々は夜になると殺生谷の方から、うなるような、叫ぶような、気味の悪い声が聞えて来るのに気付いた。――それは人間の声ともつかず獣の声ともつかず、或時あるときかすかに或時は鋭く、高く……聞いていると骨の髄から慄然ぞっとするような恐ろしい声だった。
「ああ、殺生谷の底から土人の怨霊が呼んでいるんだ」
 人々は恐怖におののきながら囁交ささやきかわした。

千切れた袖


「ところが今から五日まえの事でがす」
 平造老人は続けた。
 椙原家の作男さくおとこで吾平というのが、使つかいを命ぜられて西の家へ行った。――西の家とは、敦夫の父の弟で、敦夫たちには叔父おじに当る源治の住居すまいである。椙原源治は極めて人嫌いな偏屈人で、兄の壮太郎とも仲が悪く、村の西はずれにとび離れた一軒家を建て、兄からの仕送りで今なお妻もめとらずに暮していた。
 吾平は西の家で用を足し、それからもう一軒小作人の家を訪ねたので、帰途についたのはとっぷり暮れてからだった。なにしろ途中殺生谷の近くを通らなければならぬので、彼はもう足も地につかぬ気持で急いだ、――そしてようやく其処そこ通抜とおりぬけてやれやれと思ったとたんに、右手の闇の中から突然、
「あーッ助けてえ※(感嘆符二つ、1-8-75)
 という女の悲鳴が聞えて来た。
 吾平は息も止まるほど驚いたが、それでも必死の勇を鼓して声のする方へ近寄って行った。すると――甜菜てんさい畑の向うのところを、一人の婦人がさんばら髪になって眼を吊上つりあげ、まるで見えぬ手で引摺られるように、よろよろと殺生谷の方へよろめいて行くのが見えた。しかもその婦人の周囲を、青白い大きな、獣のような形をした火の玉が、くるくると恐ろしい早さで舞狂まいくるっているのである。
「鬼火が人を殺生谷へ曳いて行く」
 吾平はそう思いながら、歯の根も合わず見戍みまもっていたが、やがて、自分の危険に気付くと夢中で其処そこを逃げだしてしまった。
「――その婦人が奥さまでごぜえました」
 平造老人は身震いをしながら云った、「わしらは直ぐに作男や小作人たちを集めて駆けつけましただが――駄目でがした。殺生谷の入口のところで、木枝に引懸っていた奥様の着物の袖をみつけたのがせめてもの事、今日までだ死骸もあがりましねえだ」
「爺や、僕には信じられないよ」
「誰に信じられますべえ、――だが事実はどうにもなりやせん。大旦那さまはそれ以来ぐっと病気が重って……」
 老人は言葉を切って云った。
「さあ、お屋敷へ着きましたぞ、若旦那さま」
 そして馬車は、がらがらと石畳を鳴らしながら椙原家の門の中へ入って行った。
 馬車の音を聞きつけたのであろう、玄関には妹の千代子が、眼を泣腫なきはらした哀れな姿で出迎えていて、敦夫が入って行くなり、
「お兄さま!」
 と泣きながらすがりついた。
「大変な事になったね、さぞ吃驚びっくりしたろう。だが十八にもなってそう泣くなよチイ公、――兎に角お父さまに会おう」
「いまお眠ってらっしゃるの」
「そうか、それじゃあお起きになるまで君と少し話をしようか」
 敦夫はわざと元気を装いながら、洋館の広間へ妹と一緒に入って行った。――ふだんあんなに陽気で、罪のない悪戯いたずらをしては家中の者を笑わせていた千代子が、恐ろしい出来事のためにすっかりおびえ、美しいひとみは絶えず襲われているように落着おちつかなかった。平造老人の話を聞いただけでは多少まだ疑わしく思っていた敦夫も、この妹の哀れな変りようを見ては奇怪きっかいな事件の真実さを認めずにはいられなくなった。
 敦夫は妹からも話を聞いた、そして平造老人の語るところとちがいはないのをたしかめた。
「――土人の怨霊、奇怪きっかいうめき、青白い大きな鬼火、……まるで中世紀の伝説だ、――その伝説のような現象が、実際に人を殺す……然も僕たちの母さんを殺した、――考えられない。実に考えられない怪事件だ」
「でもお兄さま、あの殺生谷の怨霊の声を聞けば、信じられない事も信じられるわ」
チイ公もそれを聞いたのか」
「聞いたわ、二度も三度も、――お兄さまだっていまにお聞きになるわ」
 そう云って千代子は身震いした。
 父の壮太郎はよく眠っていて起きそうもなかったので、敦夫は旅の疲れもあり、寂しがる妹と一緒の部屋で早くから寝台ベッドへ入った。寝苦しいひとばんだった。とろとろとしたかと思うと直ぐに、何とも得態えたいの知れぬ悪夢に襲われてはっと眼が覚める、そうすると今度は中々寝つかれず、殺生谷の鬼火が今にも其処そこへ現われるような気がしたり、怨霊の呻きが聞えるように思ったりして、窓がほのぼのと白んで来るまで、遂に敦夫は満足に眠らずにしまった。

古き呪い


 夜が明けると雨だった。――軽く朝飯を済ましてから、敦夫は妹と一緒に父の病室へ入って行った。
 父の顔には見るも痛ましい苦悩が刻みつけられていた、医者から余り話をしないようにと注意されていたので、簡単に挨拶だけして退さがろうとすると、父は不意に鋭い眼をして、
「――敦夫、云って置くが、おまえは直ぐ東京へお帰り、千代子もれて行くんだ」
「そんな事は父さんが治ってから」
いや、いかん」
 父は敦夫の言葉を遮って、「今度の事件は是からが本筋だ、母さんが第一、二番目は父さんだ、そして此処ここにいる限りおまえも千代子も同じ運命に死ななければならぬ」
「どうも、僕には納得がゆかないですが」
「話してやろう。――おまえは殺生谷の伝説を知っているだろう、椙原家の先祖が此処ここへ入墾した当時、百幾十人かの土人を殺してあの底無し沼へ投込んだと云う。……事件のもとはあれなのだ」
「つまり土人の怨霊ですね」
「そうだ、多くの土人の怨霊がって鬼火となり、椙原家の人間を取殺そうとしているのだ、然もそれは今度が初めてではない、七十年目ごと繰返くりかえされている事が分ったのだ」
 敦夫はこの新しい事実に驚いた。
「では以前にもあったのですか」
「第一回は宝永七年、第二回は安永九年、第三回は嘉永三年、――三回とも恐ろしい鬼火が現われてほとんど一家全部を殺生谷へ引込んでしまった。わずか他処よそへ出ていた者がその難をまぬかれて家を継いだのだ。今度はその第四回目に当るのだ」
「どうしてそれが分かったのですか」
「西の源治が土蔵の中から捜出さがしだした、古い記録にくわしく記してある――読んで御覧」
 そう云って父は、枕許まくらもとにあった一冊の古ぼけた記録を取って渡した。
 東京へ帰るという問題から逃げるために、敦夫は少しその記録を調べるからと云って病室を辞し、洋館へ入って卓子テーブルの上へその古冊子をひろげた。――土佐の古漉紙こすきがみを二枚に折った十枚綴じの物で、ひどく古色が出ているがむしくいのあとはない。余程保存が良かったとみえて、墨色のせもすくなく、六朝風の達筆で「殺生谷の鬼火についての秘録」という題名の本に、恐ろしいのろいの事実が精しく書認かきしたためてあった。それは父の話した通り、実に戦慄すべき記録なのだ。
「分らん、頭が混乱するばかりだ。――ゆうべよく眠っていないせいかも知れない」
「お午睡ひるねをなさいよ」
 千代子がいたわるように云った。
「あたし吉井村のお友達の家まで行って来るから、そのあいだお兄さまもおやすみになるといわ」
「お友達の家で何かあるのかい」
「ええ、お友達のお義姉ねえさまに赤ちゃんが生れたのよ、それでお祝いを持って行かなくちゃならないの、夕方までには帰るわ」
「じゃあ僕は午睡ひるねをするとしよう」
 そう云って敦夫は寝椅子いすへ横になり、手に持った記録の冊子を、光をけるために顔の上へ伏せて眼を閉じた。
 ひと晩殆ど眠っていないので、敦夫はそのままぐっすり熟睡した。女中が午飯ひるめしを知らせに来たのも知らず、午後三時近くまで眠って、ふと眼が覚めたので起上おきあがろうと、顔の上の冊子を取ろうとした時、何をみつけたか、
「おや――?」
 と低く呟いた。眼前めのまえにある冊子の紙が、窓から来る光のために透いて見える、――その紙の端のところに、紙へ漉込すきこんだ文字がありありと見えたのだ。
「変だぞ、――これは、……」
 敦夫は臥破がばと起上った。そして記録の紙を一枚一枚、光に透かして叮嚀ていねいに見ていたが、急にそれを投出して立上たちあがった。
「益々分らなくなった、――いやそうじゃない。秘密の鍵をみつけたのだ。……待て、考えなくちゃならんぞ、是がし――」
 敦夫は立止まった。眉のあいだに深い皺が畳まれている。やがて何か重大な事を考えついたらしい。こくりと一つ頷くと、足早に土蔵の中へ入って行ったが、間もなく一挺の猟銃と弾丸筐ケース[#「弾丸筐ケースを」はママ]持出もちだして来た。――その猟銃は父の愛用品で、英吉利イギリスから態々わざわざ取寄せた二聯にれん銃身の精巧な物だった。敦夫はそれに弾丸たまを装填すると、女中を呼んで食事を命じ、手早く済ませて雨帽子と外套を着込み、
ちょっと其辺そのへんを歩いて来るから」
 と云い置いて家を出た。
 雨はまだ降頻ふりしきっていた。森も畑の作物も荒地の草も、ぐっと気温の下った雨に濡れて身震いしているように思われた。敦夫は外套の衿を立てて雨帽子のひさしを深く引下し、銃を右の小脇に抱えて街道へ出ると、耕地のあいだを真直まっすぐに北へ向って歩きだした。――四十分ばかり行くと道は二つにわかれる、それを右に取ってさらに三十分ばかり、ひどい泥濘ぬかるみの道を進むとやがて、右側が緩い斜面の丘になり、左手に灌木の茂みがひろがっている場所へ出た。敦夫はその灌木の中へ入って行った。
 進むにしたがって地盤が柔かくなり、ともすると長靴をずぶりと踏込んでしまう、そしていつか灌木をぬけて蘆の生えた湿しめりへ出たと思うと、急に眼前めのまえへ殺生谷の底無し沼が姿を現した。

黄色い粉


 敦夫は殺生谷の周囲を二時間あまりも歩き廻った。――鼠色の雨空、濡れた蘆、ぬるぬると粘菌類や陰科植物の繁殖した沼地、……それは奇怪きっかいな鬼火の伝説がなくとも、実に不気味な、陰惨な光景だった。
「この沼の底に百余人の土人の死体が沈んでいるのだ、その他にも鬼火に誘われた幾多の人が……そして母さんの死体もあるのだ、――呪われた沼よ」
 敦夫はぶるっと身震いをした。――とその時である。蘆の葉に鳴る雨の音より他に、なんの音もしない荒涼たる殺生谷の何処どこかで、
 うるるるるるう――。
 と云うような奇妙な呻声うめきごえが起った。
「あ、怨霊の声だ」
 敦夫は咄嗟とっさにそう思った。彼は爪先から氷のような恐怖が這登はいのぼるのを感じて、思わず猟銃を執直とりなおした。呻声は直ぐ続いて起った。
 うるるるる! くうくう――。
 それはあきらかに沼の中から聞えて来るのだ。変に陰気な、本当に怨霊がくと云いたいような声である。――敦夫は猟銃を執上げて、ぐいと沼の方へ狙いをつけた。と――それと殆ど同時に、背後からざわざわと物の気配がした。
「――何か来る」
 そう気付いて、敦夫は素早く蘆の茂みへしゃがみこんだ。
 この恐ろしい殺生谷へ、然もこんな雨の降る黄昏たそがれどきに来るのは何者だろう、――息を殺しているとやがて、高い蘆のあいだからぬっと黒い外套が現われた、それは旧式の頭巾附きのもので、頭からすっぽりかぶっているため、顔も体つきもまるで分らない。……男はぴたりと足を停めて、しばら四辺あたりの様子を窺っていたが、敦夫の前を通って奥の方へ去った。
 くうーんくうーん うるるる。
 例の声は急に高くなった。敦夫は悟られぬように注意しながら、蘆の隙間越しに伸上のびあがって見た。すると黒い外套の男は、沼の右手にある裸岩の蔭へすっと隠れてしまった。
「あんな処で何をするんだろう」
 そう思いながら待っていた、長い時間だった。雨の日の暮れ易い空は、いつかもうどす黒い夕闇がのしかかって、沼の水ばかりが鈍色にびいろに光っていた。――凡そ一時間も経ったかと思われる頃、突然ざわざわと男の戻って来る気配がしたので、敦夫は再び蘆の茂みへ身を隠した。男は足場を選びながらゆっくり歩いて来る、四辺あたりが静かなので、身動きをしても気付かれるに違いない。――誰だかたしかめてやりたい。
 という烈しい誘惑を押えながら、敦夫は辛棒しんぼう強く男の通過ぎるのを待った。――そして黒い外套の頭巾が、全く蘆の彼方かなたへ見えなくなるのを見定めて、沼のへりを例の裸岩の方へと進んで行った。――それは半分沼の中へ突出つきで粗面岩そめんがんで、高さ十二フィートあまりの、丁度巨人が横伏したような恰好をしている、敦夫はその岩へ登って、さっき男の姿の見えなくなった辺を覗いて見た。……すると岩の蔭になったところに、人がしゃがんで入れるほどの洞穴ほらあなのあるのを発見した。
「ははあ、奴は此処ここへ入ったのだな」
 つぶやきながら、身をかがめて入ろうとした時、洞穴の入口のところに、妙な黄色い粉がいっぱい落ちているのをみつけた。
「何だろう――」と指に附けて拾って見た、それは硫黄いおうの粉末のような物だった。――敦夫は指で潰したり、においを嗅いだりしていたが、不意に、
「しめた! 分ったぞ※(感嘆符二つ、1-8-75)
 と大きく叫んだ。そして洞穴の中へ入って行った。中は畳四帖敷ぐらいの広さで、天井も高く、下には古い藁屑がいっぱい散乱していたし、おまけに鼻をくような悪臭がむっと立罩たちこめていた。
「何もも思った通りだ。――呪いの記録、怨霊の呻声、鬼火、……立派な道具立てだ、椙原家を全滅させて、それで――」
 敦夫はそこまで呟いてはたと黙した。――何か物のうごめく気配がする。
「まだ誰かいるぞ」
 ぎょっとして一歩退き、燐寸マッチを取出してすった。ぱっと光が洞穴の四壁を照した、見ると、……奥の方に誰か倒れている者がある、
「――誰だ、誰だ!」
 敦夫が叫ぶと、倒れている人影がゆらりと身動きをして、
「助けて、助けて、――千代だけは、千代だけは触らないで」
 と苦しげに呻いた。
「あっ――※(感嘆符二つ、1-8-75)
 敦夫は仰天して駈寄かけよった、そして二本めの燐寸マッチをすって覗きこんだ。
矢張やっぱり、――母さんッ」
 絶叫しながら敦夫は抱附だきついた。驚くべし、洞穴の奥に倒れていたのは、鬼火のために、殺生谷へ引込まれたと信じられていた敦夫たちの母親であった。

危機一髪


 母親は後手うしろでに縛られていた、敦夫は手早く縄を切って抱起し、
「母さん、敦夫です、敦夫です」
 と耳へ口を当てて呼んだ。母親はその声をようやく聞きつけたと見え、
「おお――」
 と身をふるわしたが、
「は、早く、千代子を助けて、母さんは構わない千代子を助けて!」
 ともつれる舌で叫ぶや、そのまま敦夫の腕の中へ気絶してしまった。――敦夫には母の言葉が雷のように響いた。
「千代子、――そうだ、チイ公は吉井村の友達を訪ねて夕方帰ると云った、奴はその途中を、狙うに違いない、しまった!」
 敦夫は臥破がばっとはね起きるや、気絶している母を抱上げて洞穴を出る、もうあとは夢中で、蘆を踏倒し灌木を押分おしわけて街道へ出た。――そこから二三丁西に小作人の村田与二郎の家がある。気絶した母を抱いたまま泥濘ぬかるみに何度も足を取られながら、ただ死力を尽して走りに走った敦夫は、ようやくの事で村田の家へ辿着たどりつくと、
「与二郎、明けて呉れ、僕だ、敦夫だ」
 と雨戸もれよと叩いた。――村田与二郎は大男の予備軍曹で、満洲事変の時には出征軍に加わり、すばらしい働きをして勲章を拝受した、村一番の豪胆者だった。
「おお、是は若旦那じゃありませんか、どうなすったんで。――おや、それは奥さまですね!」
「訳はあとで話す、母さんを預けるから、直ぐ医者を呼んで手当をして呉れ、――それから馬はあるか」
「曳いて来ましょう」
 与二郎は母親を抱取って奥へ運ぶと、うまやから手早く馬を曳出ひきだして来た。――敦夫は猟銃の安全錠を外し、ひらり馬に跨がると、
「後で会おう、母さんを頼むぞ」
 と云い捨てざま、馬腹を蹴って北へと、疾風のように駆けだした。
 街道を廻ったのでは間に合わないと思ったから、道を外れて藪ヶ丘を遮二無二しゃにむに乗り越え、檜の植林地を横断して吉井村と椙原村をつなぐ街道へ出た、――それを更に南へ十丁あまり、馬を煽り煽り行くと、向うから、
「あ――ッ 助けてッ」
 すさまじい悲鳴が聞えて来る。
チイ公だ」
 と直感した敦夫が、驀地まっしぐらに乗りつけて行くと、道の上に一台の馬車がまって居り、その周囲を、大きな青白い火の玉が、恐ろしい早さでくるくると舞狂っている、――鬼火だ、殺生谷の鬼火が現われたのだ。
「助けて――えッ怖いッ」
 馬車の中から聞える悲鳴は正に千代子の声だ。
「うぬ、鬼火め!」
 敦夫は手綱を絞って馬を停めると、舞狂っている鬼火を狙って続けざまに射った。
 だーん、だーん、だーん。
 銃声は柏の林に木魂こだました、そしてぎゃぎゃぎゃん※(感嘆符二つ、1-8-75) という、慄然ぞっとするような咆哮が聞えたと見る間に、今まで恐ろしい早さで廻っていた鬼火が、ぴたりと地上へ動かなくなった。――敦夫は更にそれを狙って三発、充分に射止めて置いて馬車へ乗着けた。
 馬車の中には千代子が、殆ど半分気を失っていたが、敦夫が近寄って、
「チイ公、もう大丈夫だぞ」
 と呼びかけるや、
「まあお兄さまッ」
 と叫びながら、狂ったように兄の体へとびついて来た。
「怖い、鬼火が、鬼火が……」
「大丈夫だよ、鬼火はもう僕が片付けたよ、母さんも無事だったんだ、もう何も心配することはないよ」
「ええ※(感嘆符疑問符、1-8-78) 母さんが生きて――?」
「そうなんだ、何も彼も直ぐ片がつくよ、――御覧。おまえの怖がっていた鬼火はそこに転がっているよ」
 敦夫の指示ゆびさした処を見ると、一頭のおおきな、犬のような獣が死んでいた。
「まあ、なんですの是?」
「狼を馴らした奴さ」
「だって毛が青白く光っているのは?」
「夜光剤だ、闇の中で燐光を発する薬剤が塗ってあるんだよ、恐怖に眼のくらんでいる者には是が鬼火に見えたんだよ」
 そう云って敦夫は愉快そうに笑った。

 あくる朝。昨日の雨にひきかえて、すっきりと晴れあがった空を見ながら、洋館のベランダで敦夫と千代子が話していた。
「――秘密を解く鍵を与えて呉れたのは、あの呪いの記録を書いた紙なんだ。あの紙は如何いかにも古びているが、透かして見ると漉込みの字があった。それがなんと、土佐西原『昭和堂』と云う字じゃないか、つまり、昭和になって漉いた紙なんだ。――だから源治叔父さんが土蔵の中から古く伝わっていたのを捜出したというのは嘘で、実は最近こしらえて古いように手入れをしたのさ」
「どうしてそんな事をしたの?」
「伝説を信じさせるためと、自分の犯罪をカムフラアジするためだ。七十年め毎に呪が復活すると云う記録があれば、自分は疑われずに済むからな、――何故なぜそんな事を企んだかって? まだ君には分らないのか。一言で云えば椙原家の財産が欲しかったからさ、我々を全部やっつけて、椙原家を自分の物にするつもりだったんだ。……然し旨く考えたよ、殺生谷の伝説を利用して狼を馴らし、毛へ夜光剤を塗って鬼火に仕立てるなんか馬鹿じゃ出来ない事だ。それも自分の家へ飼って置いては発見される怖れがあるから、人の近寄らない殺生谷の裸岩に隠して置き、必要に応じて使ったところは天晴あっぱれだ。――僕は然し、洞穴の入口で黄色い粉を拾った時、それが夜光剤だと知って大体の見当がついたんだ」
「でもよく母さん殺されなかったわね」
如何いかに悪人でも、義理の姉を手にかける事は出来ないさ、あの洞穴の中で飢死させてから、底無し沼へ沈めるつもりだったのだろう。――ゆうべ狼を曳出しに行った時、母さんにこれからチイ公をやっつけに出掛けるんだと口を滑らしたのが此方こっちには仕合せで、危うく君が助かったんだ」
「まあ、なんて怖ろしい人でしょう」
「なに昔からの人にはそんなところがあったよ、ただ……」
 と云いかけた時、庭先へ平造老人が入って来て、帽子を差出さしだしながら云った。
「若旦那さま、幾ら捜しても西の旦那はみつかりましねえ、この帽子が底無し沼に浮いとりましたから、殊に依ると彼処あそこへ……」
「そうだ、それで宜いんだ」
 敦夫は頷いて云った。「彼処あそこが叔父さんに一番相応ふさわしいお墓だよ、――神よ、彼人あのひとの魂に平安あれ」





底本:「山本周五郎探偵小説全集 第一巻 少年探偵・春田龍介」作品社
   2007(平成19)年10月15日第1刷発行
底本の親本:「新少年」
   1937(昭和12)年9月
初出:「新少年」
   1937(昭和12)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「呪い」と「呪」、「駆」と「駈」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:良本典代
2022年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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