水中の怪人

山本周五郎




人間か河童か? 海底を歩く怪物


 いまどき河童かっぱがいるなどとっても、おそらく本当と思う者はないだろう。
 まだ河童というものが一ぱんに信じられ、絵にかかれたり、まことしやかな物語としてつたえられた時代にも、多少の知識をもった人々は、架空のことと笑ってかえりみなかったのである。――それが現代の、しかも帝都のまんなかに出現したのだから、世間の耳目をいかにおどろかしたかは想像のほかであった。
 第一の事件は五月十二日におこった。
 京橋越前堀の河岸かしに「島屋」という雑貨店がある。午後十時ごろのことで、若い店員が店をしめようとしていると、一人の客が店先に近よってきて、
「ちょっと君、缶詰をくれないか」と云った。
 その日は朝からいい天気であったのに、見るとその男は、護謨ごむびきの雨外套を着て、しかもそれがぐっしょり濡れている。おまけに長くのびた髪の毛が額のうえにたれさがり、そのあいだから、眼だけがぎらぎら光っていた。
 気味の悪い男だなと店員は思った。
「缶詰はなにをさし上げますか」
「果物だ、早くしてくれ」
「果物と云ってもいろいろありますが……」
 そう云うと、客はいきなり両手をあげて妙な身ぶりをした。それは空気をひっ掻くような、またなにか宙にあるものをひき※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしるような、えたいの知れない身ぶりだったと云う。……そして呼吸いきでも詰るのかと思えるような、ひどくかすれた苦しい声で、
「なんでもいいから早く。桃でも、林檎でもなんでもいいんだ。早くしてくれ」
 と荒々しく叫び、びっくりした店員が飾棚ウインドの方へ行きかけると、
「ああもう駄目だ。間にあわん」と叫んだまま、くるりと背を向けて走りだした。――店員があっけにとられて見送っていると、その男は道を横切って、河岸かしの荷揚場の方へ走ってゆく。
 ――あっ! 川へ落ちる。
 と思った店員は、我知らず店をとび出していった。……そして驚くべきことを見た。
 その男は荷揚場から川の中へ、ずぶずぶと入っていったのである。まるで水棲動物が水へもぐるように、らくらくと自然に、水のなかへもぐって、そのまま見えなくなった。――見えなくなる刹那、首だけ水のうえに出ていたその男は、ふり返って店員の方へにやっと笑ってみせたそうである。
 ――河童だ!
 と思ってその店員は気絶してしまった。
 この話はたちまち四方へひろまった。或者はてんから笑って信じなかったし、或者はその店員をわざわざ訪ねてくわしい話を聞いたり、また別の者は、なにか天災の起る前兆だなどと云った。
 そして第二の事件が起った。
 それから三日目の夜、ある有名な政治家が書生をつれて月島沖へつりに出た。すばらしいぎの晩で、魚のくいもよく、十二時頃までは、ほとんど入れぐいで面白いように釣れた。ところが、午前一時少しまえになると、今まであんなに釣れていたのがぴたっと止り、こんどはどうやってもだぼはぜぴきかからない。
「へんじゃないか、源次――」
 政治家は船頭の方へ呼びかけた。
「こう急にくわなくなるってことがあるか」
「私もいまそう思ったんですが」
 船頭は妙な顔をして、
「沼とか川とかなら、川獺かわうそかなにか出てこんなこともありますが、こんな海のまんなかでは……」
「場所をかえるか」そう云いかけたとき、
「――先生!」と書生が殴られたような声をあげた。驚いて振りかえると、
「あ、あれ、あれ※(感嘆符疑問符、1-8-78)
 と震えながら指さしをする。
 なにごとかと思って、眼をやった政治家も、
「――あっ!」と云って顔いろをかえた。
 ふなばた越しに、蒼黒くぬるぬると光る手が舟のなかへのびてきたのだ。――人間の手ほどもあり、大きくひろげた指のあいだにはみずかきがある。それはふなばたから蛇のようにのびて、ぐるっと舟のなかをまさぐっていたが、政治家の鼻紙袋へ指がさわるとそれをつかみ、そのままするすると海のなかへ消えてしまった。
「――か、河童だ」
 源次がふるえながら叫んだ。――咄嗟とっさにふなばたから覗いた書生は、舟灯りにすいてみえる水の中を、人間とも猿ともつかぬ怪物が、ゆっくりと歩いて行くのをはっきりと見た。

濡れた大きな足跡、啓吉は果して何処へ


「それで二つの事件は分った。第三はどんな場面が出るんだい?」
「いやだわそんな話、こわいわ」
「なんだい、水泳の選手のくせに」
 さわやかな海風に笑声わらいごえが流れた。
 午後九時に芝浦を出帆した「葵丸」は、いま伊豆の大島へ向けて静かに速度を増しつつあった。もう鶴見沖であろうか、舳先へさきの右先に遠く、横浜港の灯火あかりが夜空を焦がしている。
 上甲板に椅子いすをならべて、若い三人の船客が、いま世間を騒がせている「河童事件」を話しあっていた。
 事件の覚書ノートを読んでいるのは平林文吾ひらばやしぶんごと云って、帝大出身の理学士、いま鹿島かしま水圧工業研究所の若手のぱりぱりである。――聞いているのは鹿島啓吉とその妹、研究所長の子供たちで、啓吉はまだ文科大学生だし、妹の良子よしこは府立第×女学校の水泳の選手であった。
「それで第三はね」と文吾は覚書ノートをめくりながら、「これは第一のと似ているんだ。はじめは越前堀の雑貨店だろう。第三のは霊岸島の河岸かしにある肉屋なんだ。これは十八日の晩のやはり十時ごろだが、同じように雨外套を来た男が塩豚ハム腸詰ソーセージを買いにきたんだ」
「そして買わずに水のなかへ帰っていった」
 ふいに三人のうしろでそういう声がした。
 さっきから、少しおじけついていた良子は、わっと云いながら両手で兄の首へしがみついた。文吾と啓吉が振りかえってみると、顔色の蒼い職工服を着た青年がそこに立っていた。そしてうすい唇に皮肉な冷笑をうかべながら、
「だいぶ河童事件に興味をお持ちのようですね」
 まるでからかうように云った。
「ご注意なさる方がいいですよ。河童というやつは自分の噂のあるところへ出たがるものだそうですから」
「失礼だが君は誰ですか」
 若い敬吉がむっとしながら云った。
「僕ですか――僕は……」青年はにやっと笑うと、
「なに、いまに分りますよ」
 と云いながら、くるりときびすをかえして立去たちさっていった。――敬吉と文吾はただ不快な気持でそれを見送っていたが、その青年の姿が見えなくなるとすぐ、
「あたし、あの人知ってるわ」
 と良子が声を震わせながら云った。
「あの人うちの工場にいたことがあるの。ええ、たしかにいたわ」
「そう云えば僕にも少し見おぼえがある」
 文吾が宙をにらむようにして、
「たしか製図部にいた男だ。去年なにか失策をして追い出されたのだと思うが……」
「職工服を着ていたじゃないか」
「あたし船室キャビンに入るわ」
 良子は急に立ち上がった。
「なぜさ、どうしたの?」
「なんでもいやよ、噂をしているところへ河童が出るなんて云ったじゃないの。気味が悪いから入るの」
「案外臆病ですね」
 文吾がそう云って立ち上った。
「じゃあ船室キャビンまで送って行きましょう」
 文吾は良子の腕をとって船室へ入った。――上甲板の特別室である。じゃおやすみと握手をして、扉の前から文吾が甲板の方へもどろうとすると、いま船室へ入ったばかりの良子が、
「――平林さんッ」
 と叫びながらとび出して来た。
「どうしたんです?」
「だれか、だれかこの船室キャビンに入ったわ……」
 蒼くなって震えている良子を見て、文吾は急いで船室の中へ入っていった。
 船窓があいている。そして寝台から床の上へかけて、ぬれた大きな足跡が入乱いりみだれているのである。それは人間のものではなかった。長い指と指とのあいだに、みずかきのあるのがはっきりと分る。――ひと口に云えば蛙の足を大きくしたのに似ていた。つまり人間くらいの大きな蛙がいるとすれば、こんな足跡がつくだろう。
「……窓からきたんだわ」
 良子が震えながら云った。
「扉にはちゃんと鍵がかかっていたんですもの」
「窓の外は海ですよ」
「海から入ってきて海へ帰ったのよ」
 良子がなにを云いたがっているか、文吾にはよく分っていた。
「啓ちゃんを呼んできましょう」
 文吾は良子の腕をとって甲板へもどった。
 しかしそこにはもう啓吉の姿はみえなかった。みえなかったばかりではない。椅子が倒れているし、敬吉のポケットから落ちたらしい手帳や万年筆がちらばっている。
「平林さん、あれ、あの足跡!」
 良子の指さすところをみると、倒れた椅子と舷側とのあいだに、ぬれた大きな足跡がありありと印されてあった。船室にあったのと同じ足跡が……。
 疑うまでもなく、船室へしのびこんだ奴が、敬吉を海へさらっていたのだ。――ぞっとして、良子は思わず文吾にしがみついた。
「河童だわ、ああこわい!」

果して来たきた! 赤封筒の脅迫状


 文吾の急報で「葵丸」はけたたましく非常汽笛を鳴らしながら停船した。
 一方では船内をさがし、一方ではランチをおろして海面をさがした。
 横浜沖にかかっていたので、水上署からもランチがきた。――しかし二時間あまりの努力も、ついに得るところはなかった。文吾はその捜索のあいだ――もしや彼奴あいつ仕業しわざではないか――と思って、例の職工服の青年にそれとなく注意しているのだが、彼は始めから終りまで、冷やかに、甲板の隅で煙草たばこをふかしながら、この騒ぎを見ていただけであった。
 船内にいないことが分ると、「葵丸」は出帆しなければならない。そこで文吾は泣きしずんでいる良子とともに、横浜水上署のランチへ乗りうつった。――水上署ではなお、附近の海上捜索をつづけてくれることになった。
 けれども、それもついに無駄だった。
 ――河童の第四番目の犠牲者!
 という悲しい結果だけをもって、文吾と良子は、そのあくる朝八時、東京へかえった。
 水圧工業会社の社長、鹿島銀造の家は京橋明石町あかしちょうの工場に接して建てられている。――二人が帰ったとき、朝の早い社長はもう工場附属の研究所へ出ていたので、文吾は良子を寝るようにすすめておいて一人で研究所の方へいった。
「なんだ、大島ゆきはよしたのか」
 文吾の顔を見て社長は驚いた。
「出かけたんですが、ちょっと……」
「どうした、なにかあったのかい」
「啓吉君が見えなくなったんです。いやお待ち下さい。いま、くわしく申上もうしあげます」
 文吾は社長と向い合って椅子にかけた。
 鹿島社長が驚いたのは云うまでもない。文吾のくわしい話を聞くあいだに、社長の肥った額にはあぶら汗が玉のように浮いた。
「河童などとは嘘だ」
 社長は卓子テーブルをたたいて叫んだ。
「僕もそう思いますが、しかしこれまで三度も」
「嘘だ、みんな嘘だ」
「――――」
「これは津川の奴の仕業にちがいない」
「津川と云いますと、……あああの」
「君たちが葵丸で逢った男だ。私が工場から追出おいだしたあの男だ。――私も今日まで河童の噂は聞いていた。そしてそれがどういう細工なのか、考えてもみなかった。しかしいまになるとよく分る。これは津川の奴のしたことだ」
「なにか理由があるのですね」
「今まで誰にも云わなかったが」
 と社長は声をひそめて、
「私は数年まえから水中砲の発明をしている。これは沿岸防備に使うもので、簡単に云えば海中の要塞だ。――君も知っているように、海の中では、水の抵抗と圧力があるため、弾丸を発射してもごく近距離までしかとどかず、しかもその威力は微々たるものである。そこでこれまでは浮流水雷とか、機械水雷などが防備用に使われ、攻撃用には、魚形水雷がひとつであった。けれど前の二つは、敵艦がふれなければ用をなさないし、魚形水雷は発射するために多くの危険がある。……もし水底から、正しい照準で弾丸を発射することができ、それが充分の威力をもっていたら、攻撃にも防備にも、最もすぐれた武器と云えるだろう。私は――誰にも秘密で、その水中砲を研究していた。現在ではほぼ完成に近いところまできている。ところが津川の奴は、いつかこの研究をさぐりだしたとみえて、去年の十月の或る夜、研究所へしのびこんで、その設計図を盗みだそうとしたのだ」
「――それで、ここを出たのですね」
「私が追出したのだ」
「よく分りました」文吾は考えぶかくうなずいて、
「恐らく津川は、啓吉君を誘拐して、その設計図を社長から奪いとろうというのでしょう。――しかし、それにしても、『河童』の謎はどういうものでしょう。越前堀の事件、月島沖の事件、それから霊岸島の肉屋の事件、この三つは、啓吉君の場合と関係はないのでしょうか」
 扉があいて、給仕が入ってきた。
「――速達です」
 と云って差出さしだしたのは、一通のあくどく赤い封筒だった。社長は給仕を去らせてすぐ封を切ったが、ひととおり読むと、声を震わせながら、
「やっぱりそうだ、脅迫状だ」
 と云って文吾に渡した。
 受取うけとってみると、赤い紙に邦文タイプライターで、左のような文句がうってあった。

鹿島啓吉の生命は安全なり、ただし左の条件を実行せらるるを要す。
一、水中砲の設計図を油紙に包んで空缶あきかんに入れよ。
一、五月二十二日夜九時、あかりをつけたるボートにて月島五号地沖へ来れ。
一、右海面に設計図入りの空缶を流し、そのまま直ちに立去るべし。――以上実行のうえは、翌日早朝、敬吉を無事に貴家まで送りかえすべし。
河童第一号

闇の海上の冒険、空缶は投げられた


 平林文吾は研究所をとびだした。
「河童第一号」と書いてあるからには、敬吉をさらったのも、やはりいま評判の「河童」の仕業にちがいない。今度は誰もその姿を見た者はいないが、船室と甲板に残っていたあの濡れた足跡が証明している。
 河童は初め、良子を誘拐するつもりで船室へ入り、まだそこに良子がいないので、……甲板にひとりでいた敬吉を掠ったのであろう。……むろんそれは、水中砲の設計図を奪う人質としてだ。
 越前堀の雑貨店から始まった三つの事件には目的がなかった。第一のときは缶詰は買おうとしたまま、よして川へしずみ、第二にはなんの用もなさない鼻紙包を盗んだ。第三の肉屋でも、塩豚ハム腸詰ソーセージを注文しながら、やはり買わずに水の中へとびこんでいる。つまり三度とも目的をもたずに現われたと云えるだろう。
 ――奴らは自分の存在を人に見せておきたかったのだ。
 文吾はそう思った。
 雑貨店へ現われた時には、宙を※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)かきむしるような奇怪な身ぶりをしたというが、これは店員に強い印象を与えるためのしぐさに相違ない。彼はこうして三度とも、ただ人の眼を驚かすために、また河童という評判をたてるために現われたのだ。――そしてその評判がひろまった時に、敬吉を誘拐したのである。
 ――彼は目的をはっきりさせた。
 その目的を中心にしらべてゆけば、河童の正体をつきとめることが出来るかも知れぬ。
 ――いや必ずつきとめてみせる。
 文吾は研究所を出ると、その足で工場の製図部へ回った。そこには津川の勤めていた頃の同僚がいるはずだ。果して文吾は同じ机で働いていたという吉岡三郎なる若い技手をみつけた。
「君は津川といっしょに働いてたんですね」
「そうです」
「津川とは仲良くしていましたか」
 そういう切出きりだしで、津川がなにか人にかくして秘密な仕事をしていなかったか、変ったことでも見なかったかとたずねた。しかし吉岡技手はなにも知らなかった。
「ただ時々こんなことを云ってました」と最後に若い技手は云った。
「僕の名はいまにきっと世界的になるよ。そして億万長者になってみせるって――訳は云いませんが、そんなことを二三度聞きました」
「――それだけですね」
 文吾は失望して工場を出た。
 その他にも津川を知っている者はないかとさがし廻ったが、よほど用心ぶかい男とみえて、親しくつきあった者は他に誰もなかった。つまり唯一の手がかりは、
 ――僕はいまに億万長者になる。
 と云った言葉だけである。
 二十二日の午後まで、まる二日のあいだ、文吾は八方にかけ廻った。けれどついになんの得るところもなかった。
 そして「河童第一号」の命ずる時間は刻々にせまってきた。
「私は設計図を守る!」
 鹿島社長は悲痛な決意を示して云った。
「啓吉に可哀かわいそうだが、この設計図がもし外国人の手にでも渡るようなことがあると、私は売国奴と同じ結果になる。――私は敬吉をあきらめた。啓吉もよころんで[#「よころんで」はママ]死んでくれるだろう」
「社長、本当にそう決心なさいますか」
 文吾がそう云ったとき、
「いやです、兄さんを助けて」
 と泣きながら良子がとびこんできた。
「兄を死なせないで、平林さん、兄さんを助けて頂戴、兄さんを助けて」
「良子さん、まあ落ちついて下さい」
 文吾は良子の肩をやさしくひきよせながら、鹿島社長の方へ振りかえって云った。
「社長、あなたは啓吉君のことをあきらめるとおっしゃった。本当にその決心がおありなら、のるそるか、僕がひと勝負してみましょう」
「なにか方法があるか」
「脅迫状の通りにして下さい。いや設計図は偽物で結構です。反古紙ほごがみでいいですから、油紙へ包んで空缶へ入れて下さい。――僕はそのあいだに、ランチの用意をしておきます」
 そう云って文吾は立ち上った。
「良子さん、あなたも来るんですよ」
 一時間の後――
 社長父娘おやこと文吾と、腕力の強い社員を二人のせたランチは、明石町の河岸かしをはなれて、約束の九時には月島五号地沖を静かにはしっていた。――舳先に備えつけてある探照灯であたりを照らしてみたが、附近には小舟ひとつ見えない。闇の海面は油を流したように黝々くろぐろと凪いでいまにもぽっかり怪物が現われはせぬかと思われるぶきみさだった。
「――このへんでいいかな」
 文吾はそうつぶやきながら空缶を水面へ投げた。
 空缶はゆらゆら揺れながら漂ってゆく。ランチはその空缶へ、探照灯の光をあてたまま、静かにそこから遠ざかりはじめた。

あっ河童だ! 意外な解決


 文吾はランチの舳先へ立ちあがった。
 透明な液の入っているびんをいくつか手に持ち、じっと空缶を睨んでいる。――社長も、良子も、胸苦しそうな表情で文吾がなにをするかと見まもっていた。
 空缶は探照灯の光を浴びて、しばらくゆらゆらゆれていたが、そのうちにふいと、波の下から青黒い手が、あのみずかきのある手が現われた。
「あっ、河童の手だ!」と叫ぶ間にその手は空缶をつかんだ。
 刹那!
「――やっ」と云うと文吾は、壜のひとつを力まかせにその海面へたたきつけた。
 轟然!
 凄まじい波の爆発! ニトログリセリンである。文吾はつづけさまに、持っている壜をたたきつけた。それは空缶のあった海面を中心にして、円を描くように次々と大爆発を起した。――波は奔騰し、沸きかえり、附近一たいは揉みかえす海水で、石鹸を溶いてぶちまけたように泡だち狂った。
「ランチをつっこめ!」
 文吾の命令に、ランチは泡だつ海面へ突進した。
「あっ河童、あそこに河童が」
「こっちにも浮いた」「河童だ、河童だ」
 ランチの上の人々は恐怖の叫びをあげた。
 見よ、探照灯で照された海面へ、異形な怪物がぽかりぽかりと浮き上ってくる。蒼黒くぬるぬる光る体、ひれのような物のついている尖った頭、みずかきのある手足、……爆発のいきおいで自由を失ったのであろう、海面へ浮上うきあがったまま苦しそうにもがいている。
「ランチへあげろ」文吾が大声に叫んだ。
 若い二人の社員は、その言葉に励まされたか、ランチが近づくと力をあわせて河童を引きあげた。全部で四人いた。
 引きあげてみると蒼黒いぬるぬるしたものは、強い護謨ごむ引きの布であった。頭のうしろや背中や、手足の一部などにひれのようなものが附いている。指のあいだにみずかきがある。そして尖った頭は、その布の下に、軽金属のヘルメットをかぶっているのであった。
 文吾は手早く小刀ナイフを取りだすと右手に空缶をつかんでいる一人の胸へ当てて、蒼黒い布をさっと引きさいた。そしてヘルメットをぬがせた。
「まあ、あの人だわ!」良子が叫んだ。
「――津川だ」社長も息を引くように云った。――それは、「葵丸」の甲板で話しかけたあの職工服の青年であった。彼はふっと眼をあけたが、
「ああ助けて下さい※(感嘆符二つ、1-8-75)」と恐ろしそうに叫んだ。
「啓吉君はお帰しします。助けて下さい、殺さないで下さい。僕をゆるして下さい」
「云いたまえ、啓吉君はどこにいる」
「正直に云います。月島西仲通りにある僕の家にいます。本当です。どうか助けて」
 文吾は津川の体を突きはなして、
「ランチを隅田川へまわしてくれ」と命じた。

 一週間のちの或る朝。
 鹿島家の洋館の露台テラスで、社長はじめ敬吉兄妹きょうだい、文吾などを前にして、津川重造はすっかり落ちついた静かな調子で話していた。
「――もうお分りでしょうが、あれは僕の発明した『自由潜水服』です。
 ご承知のように、潜水服というものは、つい最近までは原始的なものでした。厚い服、大きな重いヘルメット、鉛の靴、鉛のおもり、そのうえ空気パイプが船とつながれて、活動は一定の範囲と深さに限られていました。――それを改造したのが独逸ドイツのリュベッカーとドーラゲルエルクです。この二人がつくった潜水服は、呼吸に必要なガスを圧搾してタンクにつめ、両側の背嚢に備えつけておいて、自働的にこのガスを混合しながら呼吸できるようにしました。
 僕は、社長が水中砲の発明をしておられるのを知って、ふと、その砲を操縦するために、自由潜水服があったらと考えつきました。……それは現在のような不活発な動作しかできない潜水服では駄目です。魚のように敏活で、自由自在に海中を走ることができなくてはなりません。――僕は苦心しました。そして、ずリュベッカーの空気補給法をとり、それに魚類の体面を組みあわせる研究を始めたのです。――結果はごらんの通りでした。ついに僕は、『河童第一号』を作ることに成功しました。
 これを完成したとき、僕はふと悪心を起したのです。いちど設計図を盗もうとした罪がある。どうせいちど罪を犯したんだ。いっそここで、社長の水中砲の設計も手に入れ、自分の発明といっしょにどこかの軍部へでも売って大金持になろうと……」
「よく白状した、もういい」
 社長は静かにうなずいて云った。
「罪は罪として、君の発明はりっぱなものだ。これからはその発明を生かすために、心をいれかえて勉強し給え、工場の研究所も貸すよ」
「僕もお手つだいするぜ」
 文吾が側から笑いながら云った。……外は晴れあがった五月の空であった。





底本:「山本周五郎探偵小説全集 第四巻 海洋冒険譚」作品社
   2008(平成20)年1月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」博文館
   1939(昭和14)年6月
初出:「少年少女譚海」博文館
   1939(昭和14)年6月
※「啓吉」と「敬吉」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード