お手洗

山本周五郎




 芝居を観るのに客席に坐らず、監事室で観るのは本式ではない、と常々思っている。だが、私の場合芝居を観る話はいつも突然にもちあがるので、客席がない。だから監事室で観せていただくほかない。
 監事室で観ると具合の良いことには、他の人の迷惑にならずに水割りウィスキーを飲める。その上、客席にいては観ることのできない、高名なる作者や偉い演出家の先生方を眺めることができる。これは私にとって芝居以上に興味がある。
 水割りウィスキーとこういった興味にひかれて、芝居を観る時には監事室でみることにしている。
 先日も、ある劇場の監事室で、水割りを飲みながら楽しんでいた。ところが何の加減かやたらとねむくなってきた。係の人に頼んで食堂に椅子を並べてもらい、横になることにした。
 座の人が心配して、毛布や枕を持ってきてくれた。そこでしばらく仮睡したのだが、このでき事がどこの劇場で起ったのか、後で考えてみても、なかなか思い出せない。
 その頃私用もあって京都の南座、名古屋の御園座みそのざ、新橋演舞場を観て歩いた。だから、たしかにこの三劇場の中の一つでのことなのだが、それがどうにもはっきりしない。
 というのは、こんな事件が引続いて起ったからなのだ。
 目が覚めると生理的放出欲を感じた私は、通りすがりの少女に、
「すみませんが、お手洗につれていってください」
 と頼んだ。その愛らしい案内嬢は、気軽く、
「どうぞこちらへ」
 と先に立って歩きだした。
 その少女は食堂を横切り、次第次第に、コック部屋の方へ歩いていく。
 私もその時いくらか不審に思ったのだが、仮眠から覚めたばかりで、まだはっきりしない頭脳は思考力を回復していなかったのでしょう。黙ってコック部屋に入っていった。
 やがてコック長の前にたった少女が何事かつげている。
「どうぞどうぞ」
 そのコック長もにこやかに対応した。
 だが、私の目の前にあらわれたものは、水の一杯はってある洗面器であった。
 私が連れていかれた所は、まことにまぎれもなく「お手洗」であった。
 私としては大変な勘違いの中にいたわけである。思わず笑いながら、あらためて“要すればWCへ行きたかったのだ”と告げた。
 少女はまっかになり、コック長は笑い出し、部屋にいた者全員がふきだした。
 私はこの大笑いによって救われたのだが、東京では「お手洗」といえば、間違いなくWCのことと通ずる筈だ。通じないからには、その事件の起った所は、京都か名古屋に違いない。
 だいいち私は新橋演舞場なら建った時から知っている。私はそう信じていた。
 しかし、京都へ同行したS社のN君、名古屋で一緒に芝居を観たA社のK君は、そんな事件はなかったと証言する。
 同行の諸君がそばにいれば、「お手洗」を少女にきく必要もないわけだ。そうなれば新橋演舞場しかない。
 いったい私はどこの「お手洗」を探してあるいたのだろう。思いまどっていた私はようやく次のことに考え及んだのである。
 新橋演舞場にいる案内の少女でも、東京育ちばかりとは限らない。北海道、青森生れの少女もいるだろうし、四国、九州から上京した少女もいるだろう。
 それでなくともこの求人難の時代である。
 今の東京はいろいろな要素が入りこんできているのだ。言葉にしても関西弁をはじめいろいろなお国言葉お国なまりが入りまじってしまい、こちらの思っていることを正しく相手に伝えるのが、だんだん難しくなってきた。経済成長のゆがみとやらがこんな所にもあらわれてきたのだろうか。
 そんなことはともかく、人生には時々思いがけないでき事があると今度あらためて感じたわけである。(口述)
「文藝春秋」(昭和三十九年十月)





底本:「暗がりの弁当」河出文庫、河出書房新社
   2018(平成30)年6月20日初版発行
底本の親本:「雨のみちのく・独居のたのしみ」新潮文庫、新潮社
   1984(昭和59)年12月20日発行
初出:「文藝春秋」
   1964(昭和39)年10月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2025年8月30日作成
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