思い違い

山本周五郎




 老人がいる限り迷信はなくならないという。七十歳の老人は、五十歳の壮年者より経験が広く深く、その経験から会得したせきは――少なくとも当人に関する限り――動かしがたい価値をもつからである。実際には環境や経済事情や、個性や個躰のバイタリティによって、事情は万差万別なのであるが、人間生活の普遍的な面においては共通するものが多く――というのは老年まで生きのびるということ自体になんらかの共通性があるのであって――したがって或る種のことがらについては、固定観念が一般的に信じられるようになるらしい。たとえば朝湯が健康のかぎであるとか、毎朝の水風呂みずぶろこそなが生きの秘訣であるとか、枕を北向きにして寝ると魔がさすとか、家を出ようとして靴の紐が切れたら、その日の外出はやめるべきであるとか、その他もろもろのタヴーの禁忌がある。私の尊敬する杉靖三郎博士にしても、某週刊誌の食養生についてのアドバイスを読むと、専門学理による判断の中に、しばしば博士の経験によるドグマが散見されるのである。ほぼ同一条件をそなえた投稿家の、Aに対しては「牛乳は一日一本がよろしい」と忠告し、Bに対しては「一日に五本以上を飲め」とすすめている。「米飯はいけません」と忠告したあとで、他の投稿者には「米は日本人にとって古くからの主食である」と賛成している。昔は一日に生ま水を一升飲めという医学者があり、流行したらしい。同時に「生ま水を多飲することは腎臓の大きな負担となり、百害あって一利なし」といきまく医学者もあった。これらは純粋な生理医学の判断に、個人的経験の積が加わるからであろう。そしてどっちにしろ、死なないやつは生きるのである。
 私の文学青年時代からの友人に、石井信次という紳士がいた。石井家はこの市(横浜市)でも指折りの旧家であり大地主であり、彼自身はY校出身の秀才で、ニューヨーク・スタンダード石油会社の課長にまで昇進した。酒もタバコもたしなまず、その生活は極めて規則的、かつ栄養学の指示を外れることがなかった。まことに紳士の範とすべき存在であったが、四十二歳のとき胃潰瘍いかいようで亡くなってしまった。
 ――死んでみてから彼は怒ったにちがいない、と私は友人たちによく話したものだ。タバコも酒も飲まず、不摂生もしないのに胃潰瘍で死ぬとはなにごとか、人をばかにするなってさ。
 私は大森にいたじぶんから、荒暴に酔って身心耗弱状態におちいることを繰り返してきた。規則正しい生活を続けていると、人躰は同一刺戟によって活力を消耗しやすい。ときどきバランスをこわし、人為的に耗弱させれば、かえって肉躰はそれを恢復かいふくさせようとして眼ざめ、活力を呼び起こすものだ、というのが私の信念であり、こんにちまで大病もせずに生きてきた。今年になってからも、幾たびか悲鳴をあげるほど乱酔し、周囲の者にしばしば心配をかけたが、二日も休めばけろっとして仕事にかかれる、という按配あんばいである。――けれども、私がこれを自分の「信念」であると思うとき、そこにはもう科学性はなく迷信になってしまうのである。
 杉博士のアドバイスが相手によってときに矛盾するのは、そのゆえに科学的であるといわなければなるまい。疾病に対する薬餌療法は絶えず変ってゆく、肝、腎について脂肪摂取の否定と肯定、胃については神経作用の大きい関連性、その他無数の新らしい治療法が発見され、改善されている。固定観念にとらわれず、原則論を鵜呑みにしないからだ。それと同時に、昔から少しも変らず、いまでもなお疑われることなく、多くの人に信じられている信念が少なくない。
 そのもっとも強い一例は、「老人は若い処女を身辺に置くと、処女の活気を吸収して生命力を延長させる」という説だ。誰が初めにとなえだしたか、どんな実績があったかわからない。何千年も昔の中国にはじまり、現在なお東海の君子国でも信じられ、信奉者の数はかぞえきれないようである。
 七十歳を越してから、十五、六歳の処女とベッドを共にして――この場合は厳密にベッドを「共にする」ことが戒律だそうであるが――八十歳すぎてなお壮年者の如く活躍しているか、または「いた人たち」が少なくないことは人のよく知るところである。しかし私は、声を高くしていま叫びたい。
 ――それはその人の寿命である。
 ちょっと考えてみればわかることだ。若い女性は生命力に充ち、あらゆるものを吸収して自分の活力にする。それは意識したものではなく、肉躰の本原的なはたらきであろう。老人は枯れつつある樹のようなもので、活力に充ちた若い女性から、なにかを吸収するような力がある筈はない。逆に若い女性のほうこそ、もし老人に残っているとすれば、その残った活力を吸収するに相違ない。たとえばここに一本の老松があり、隣りに松の若木があるとしよう。両者のどちらがより多く土から水分を吸い、養分を吸いあげるだろうか。――これはあえて物理的に証明することも、生理的方程式を立てる労も不必要なことだ。
 人間が老境に達すると、経済的にも家族的にも安定ができて、生活は好ましい状態になる。大概なはなしであるが、事業に成功し富に恵まれた人たちにとって、最後に残った欲望はその状態の存続であり、単直にいえばなが生きをすることである。これ以上ことこまかに指摘するのは意地わるというものだろう。そこでもういちど云うのだが、老境に達したら、若い女性などに近づかないのがよろしい。それは残りの活力を吸い取られることであり、役にも立たない昂奮こうふんによって、身心を消耗するにすぎないからである。
 ひところ肺病の治療に、石油の飲用が流行した。がんの治療には藤のこぶが最上だ、といわれたことは現在なお一部に信じられているらしい。けれども、医学の通俗知識に詳しい人士は、そのどちらも信じてはいないだろうと思う。老人になったらみだりに若い女性に近づくな、それはあなたの残り少ない生命力をも吸い取られることうけあいだからである。――健康で若い、情熱に充ち満ちた女性たちよ、どうか私の妄弁を赦して下さい。
「朝日新聞 PR版」(昭和三十九年十二月)





底本:「暗がりの弁当」河出文庫、河出書房新社
   2018(平成30)年6月20日初版発行
底本の親本:「雨のみちのく・独居のたのしみ」新潮文庫、新潮社
   1984(昭和59)年12月20日発行
初出:「朝日新聞 PR版」
   1964(昭和39)年12月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2025年8月14日作成
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