老人がいる限り迷信はなくならないという。七十歳の老人は、五十歳の壮年者より経験が広く深く、その経験から会得した
私の文学青年時代からの友人に、石井信次という紳士がいた。石井家はこの市(横浜市)でも指折りの旧家であり大地主であり、彼自身はY校出身の秀才で、ニューヨーク・スタンダード石油会社の課長にまで昇進した。酒もタバコもたしなまず、その生活は極めて規則的、かつ栄養学の指示を外れることがなかった。まことに紳士の範とすべき存在であったが、四十二歳のとき
――死んでみてから彼は怒ったにちがいない、と私は友人たちによく話したものだ。タバコも酒も飲まず、不摂生もしないのに胃潰瘍で死ぬとはなにごとか、人をばかにするなってさ。
私は大森にいたじぶんから、荒暴に酔って身心耗弱状態におちいることを繰り返してきた。規則正しい生活を続けていると、人躰は同一刺戟によって活力を消耗しやすい。ときどきバランスをこわし、人為的に耗弱させれば、
杉博士のアドバイスが相手によってときに矛盾するのは、そのゆえに科学的であるといわなければなるまい。疾病に対する薬餌療法は絶えず変ってゆく、肝、腎について脂肪摂取の否定と肯定、胃については神経作用の大きい関連性、その他無数の新らしい治療法が発見され、改善されている。固定観念にとらわれず、原則論を鵜呑みにしないからだ。それと同時に、昔から少しも変らず、いまでもなお疑われることなく、多くの人に信じられている信念が少なくない。
そのもっとも強い一例は、「老人は若い処女を身辺に置くと、処女の活気を吸収して生命力を延長させる」という説だ。誰が初めにとなえだしたか、どんな実績があったかわからない。何千年も昔の中国にはじまり、現在なお東海の君子国でも信じられ、信奉者の数はかぞえきれないようである。
七十歳を越してから、十五、六歳の処女とベッドを共にして――この場合は厳密にベッドを「共にする」ことが戒律だそうであるが――八十歳すぎてなお壮年者の如く活躍しているか、または「いた人たち」が少なくないことは人のよく知るところである。しかし私は、声を高くしていま叫びたい。
――それはその人の寿命である。
ちょっと考えてみればわかることだ。若い女性は生命力に充ち、あらゆるものを吸収して自分の活力にする。それは意識したものではなく、肉躰の本原的なはたらきであろう。老人は枯れつつある樹のようなもので、活力に充ちた若い女性から、なにかを吸収するような力がある筈はない。逆に若い女性のほうこそ、もし老人に残っているとすれば、その残った活力を吸収するに相違ない。たとえばここに一本の老松があり、隣りに松の若木があるとしよう。両者のどちらがより多く土から水分を吸い、養分を吸いあげるだろうか。――これはあえて物理的に証明することも、生理的方程式を立てる労も不必要なことだ。
人間が老境に達すると、経済的にも家族的にも安定ができて、生活は好ましい状態になる。大概なはなしであるが、事業に成功し富に恵まれた人たちにとって、最後に残った欲望はその状態の存続であり、単直にいえばなが生きをすることである。これ以上ことこまかに指摘するのは意地わるというものだろう。そこでもういちど云うのだが、老境に達したら、若い女性などに近づかないのがよろしい。それは残りの活力を吸い取られることであり、役にも立たない
ひところ肺病の治療に、石油の飲用が流行した。
「朝日新聞 PR版」(昭和三十九年十二月)