米と貧しさ

山本周五郎




 仕事に必要なため、この四月中旬に十日あまり北国ほっこく地方をまわって来た。そのとき、越前、加賀、越中、越後の至るところで、気の遠くなるほど広大な平野がみな稲田であり、すなわち米を作っている、ということを見て心から驚いた。
 私はいま関東平野の一ぐうに住んでいて、どっちへいっても耕地の大部分が稲田であることを知っている。また、北海道から九州まで、日本国土の八割方まで旅行した経験もあるから、わが国の農地で米作の占める面積がいかに大きいか、ということもほぼ知っていたのであるが、こんどほどその事実の動かしがたさに驚いたことはなかった。ここも稲田じゃないか、と私は同行の若い友人に向かって、あたかもそれがその若い友人の責任であるかのようにいった。また稲田だ。見たまえ、また田んぼだ。あれも稲田だ、と私はいった。どこでもかしこでも米を作ってる、いったいこんなに至るところで米を作ってどうしようというんですか、と私はいった。同行の若い友人は、あたかもみずからの責任であるかのように恥ずかしそうにもじもじしながら、そうですね、ひどいもんですね、弱りましたですね、といった。
 さきごろ米価問題でもめたから、ニュース・バリューをねらってこんなことをいうなどと思わないでいただきたい。これは四月のことだから、それらはまだ刈り田で、ごくまれに土をすき返しているところがある程度だった。けれども私にはその広大な茶色の平野が、いちめんに青々と波打つ稲、黄色くうれた稲によって、びっしり塗りつぶされる景色もありありと想像することができた。
 片っ端から田をひろげ米を作る、と私は同行の友人にいった。収穫した米を腹いっぱいに詰め込んで、めしのげっぷをしながら田をひろげ、平地で足りなくなると丘から山の上までひろげてゆき、そうして収穫した米をノドまで詰め込んでは、食い飽きた顔でげっぷをしている。ひどいものだ、これはりっぱな悪循環ですよ、と私は若い友人にいった。詳しくは知らないが、日本の農業試験場のおもな仕事は、稲の改良と増産の研究にかかりきりのようである。もちろん他の作物の研究もしていることはたしかだろうが、攻撃目標が伝統的に「米」へ主力を注入していることはたしかでしょう。なにしろみずほのくにというのがこの国の原初的な誇号なのだから。そうして稲を改良し農薬を使って増産し、そのため木を切り倒し、丘をくずし、農薬のため川魚が滅亡し、ホタルがいなくなっても、腹いっぱいめしを食べてげっぷができれば、なにも文句はないといったようすである。
 私の幼年時代に、高島米峰という人がいて、「タクアンと茶づけめしばかり食べていると日本は亡びてしまう」といい、すさまじい反論の包囲攻撃を受けた、ということを伝聞した。これは正確な話ではないかもしれないが、私はその趣旨には同意したいと思う。米を主食にする民族を考えてみると、あまり文化水準の高くないことがわかる。どの国と指定するまでもなく、ひいきめにみても創造的能力に恵まれた民族は思い当たらないようである。
 むろん「米」の責任ではない。欧米諸国でも米は(ほぼ野菜として)食べているようだ。問題はそれを農業の基本とし、主食としてたらふく食べる、という点にあると思われる。――いかにも米のめしはうまい、塩むすびにしただけでも飽きずに食べられるし、満腹することができる。けれども頭脳活動は停滞するようだ。若いころ先鋭な文化活動をした人たちがほぼ五十歳くらいになると、ガゼン米のめしのうまさを再確認し、湯あがりのけだるいソウ快さにめざめ、俳カイ趣味や骨トウいじりに没頭しはじめる。つまるところ「風雅」や「あそび」の類にとらわれる傾向が一般であるようだ。
 人間は五十歳を越すころから、ようやく世間の表裏や社会構成のからくりや、人間感情の虚実を理解できるようになる。小説作者は人間を対象に仕事をするのだから、なかんずくその年齢になって以後、はじめて自分なりの社会観や人生観をもち、現実に当面することができると考えられる。近松門左衛門ほどの天才でも、すぐれた作品は五十歳以後に書かれたものだ。客観性のあるねばり強い、ことにあくの強いものが書けるのは、五十歳以後になってからだと、私はかたく信じて疑わない。――それが逆に、肝心の年齢になるとあぶらけが抜けて、枯淡になり隠居じみてくるのは、米のめしのうまさを再認識するのと並行するようにうかがわれるのである。
「わび」とか「さび」とか「風雅」とかいう、現実生活のきびしさから目をそらす、あるいは息抜きの手段にする、ということは、それがたとえ日本伝統の気風であるにせよ、非現代的であり、精神力の貧しさであり、それをつちかうのは美味な「米のめし」と思うのである。――ふろあがりののんびりした体に、めしを詰め込んでげっぷをしながらでは、創造的精神ははたらかないと考える。この国の広大な平野から、でき得るだけでいい、稲田を追放しよう、と私は叫びたい。米の代わりになにを作るかは、そのみちの専門家諸氏の受持に譲る。
「朝日新聞」(昭和三十六年八月)





底本:「暗がりの弁当」河出文庫、河出書房新社
   2018(平成30)年6月20日初版発行
底本の親本:「雨のみちのく・独居のたのしみ」新潮文庫、新潮社
   1984(昭和59)年12月20日発行
初出:「朝日新聞」
   1961(昭和36)年8月7日
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2025年11月16日作成
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