こういう題をみると、人びと――少なくとも酒呑みに属する人びとは
嘘ではない。こちらが勘定を
もちろん、約二十年まえ、大森の馬込にいた頃のことで、その酒屋は「三河屋」といい、聞くところによると、当時その付近に住んでいた作家や画家諸氏がずっとひいきにしていたようであった。
その三河屋のまえ、私が馬込で初めて家を持ったときは「大和屋」という酒屋が来ていた。これは馬込での出世がしらだと今井達夫が言っていたし、天神坂という坂の下の、小さなバラック建ての店にもかかわらず、電話を持っていた。ところが、私のところへ来るじぶんには、出世がしらという概念からは遠く、すでに左前になっていたものでしょう。小僧もいなくなって自分で御用聞きに来るのであるが、鼻唄をうたいながら勝手口まで来て、その唄が終るまでは戸口の外に立っているのである。なになにがどうとかして、泣いてくれるなよー、とうたい終るまで立っており、それから初めて「ちわあ」というぐあいなのである。そして私が散歩にでかけると、丘の上の草原に寝ころがっているのをしばしば見た。こういうとなにか深刻な人生問題にでも悩んでいたかのように思われそうだが、じつは極めて単純な怠け者というにすぎなかったのだ。それはその後のなりゆきが明らかに証拠立てているし、いや、――そんなことはどっちでもいい、私は「三河屋」のことを話したいのだ。
私はおよそ怠け者が嫌いである。これは自分が怠け者だから、他人に怠けられるのがいやなためだろうと思うが大和屋にはあいそをつかして、丘の上の三河屋に切替えた。
三河屋の主人は四十五六だったでしょう、
こういう人柄に加えて、彼はじつに気前がよく、思いやりが深く、そうして酒呑みの心理のわかる男であった。
――いまでも貧乏に変りはないが、当時の私は文筆生活をはじめたばかりだし、馬込ぜんたいが貧乏の黄金時代で寄ると触ると呑んでばかりいた。こっちが寄らず触らずにいても、先方から寄って来、触って来るわけで、二人や三人ならまだいいけれども、ときには夜の十一時すぎてから、七八人で押しかけて来るのである。
「君のところの水はうまいから一杯飲みに来たんだ、水でいいんですよ」
と
こういう状態が
前述のとおりの黄金時代だから、酒は幾らあっても足りることはない。五升でも一斗でも欲しいところだが、勘定を払いきれない立場だから、では二升ばかりなどと言う。すると晩になっておやじが二升届けて来、十二時ちかくにまた五升届けて来る。
「どうせ要るんでしょうから」
と言った言葉を、私はいまでも忘れることができない。これは私のところだけではなかったようだし、こういうことでしょうばいが繁昌するというのは物語の世界に属することであろう。
私でさえ十五円くらいの勘定が溜っていた。かの侍大将の金額も侍大将その人から聞いた記憶がある。そのほかにどれほど溜められていたかはわからないが、これらの債権を自分の背中ひとつにぜんぶ背負って、或る夜ひそかに、三河屋のおやじは夜逃げをしてしまったのである。
三河屋のおやじよ、健在ならいどころを知らせて下さい、と私はいま年末の
「講談倶楽部 別冊」(昭和三十三年一月)