私はいま二週間以上も酒びたりになっている。いま書いている仕事のためとは云わない、けれどもこの仕事は、半年もまえから計算し、精密なコンティニュイティを作り、それを交響楽と同じオーケストラ形式にまとめあげた。そうして書きだしたのだが、作中の人物は半年以上ものつきあいであり、誰が出て来てもみな
はたから見れば、これらはたのしい
――酒みずく、という吉井
朝はたいてい七時まえに眼がさめる。すぐにシャワーを浴びて、仕事場にはいるなり、サントリー白札をストレートで一杯、次はソーダか水割りにして
さて、ひるになるが食欲はまったくない。そこで客が来れば大いに歓談してグラスの数をかさね、来なければ陰気な気分で、やはり水割りのグラスをかさねるわけである。どうにもやりきれないときには、しきりに電話をかけて友人を呼ぶのだが、みな仕事を持っているのでなかなか「うん」とは云わない。
「人間はいつ死ぬかわかりゃしないのに」と私は独りで呟く、「そんなにいそがしがってなんの得があるんだろう、みんなあんまり利巧じゃないな」
仕事に関係のある友人以外には会わないことにしている。演劇、映画、放送局の諸氏にも原則として会わない。これらの諸氏は私がどう抵抗しようと、あいそよく笑うだけで、やりたいと思いきめたものは必ずやってしまうのである。これでは会って酒を飲み、大いに語ることはお互いの時間つぶしにすぎないし、こちらは一杯くわされたような気分になるだけだからだ。自然、友人は仕事関係の若い人に限られるし、かれらは仕事のほうが面白いから、私のような下り坂になった作者に会うのは気ぶっせいなのだろう。そこで私はまたグラスをかさねるか、街へでかけるかするのである。
午後四時になると、かみさんが晩めしの支度をしにあらわれる。私は相当以上に酔っているし、依然として食欲はないが、わが
「もうぎりぎりです」とか、「なにをうだうだしているんだ」とか、「どうせろくなものも書けないくせに」などと、怒っている人たちの声まで聞えるように感じられるのである。
私のかみさんは料理の名手で、特に数種の洋風料理では一流コックを
私の胃は米とは不和で、パンかコーン類かオートミールかポテトを好む。一日一度の夕食を簡単に片づけると、一時間ばかりベッドにもぐり込み、起きるとまた水割りを啜りだす。かみさんは十時か十一時に自宅へ帰るが、あとはまた独りで水割りの濃いのを啜り、睡眠剤と酔いとで眼をあいていられなくなると、ようやく寝床へもぐり込む、といったぐあいである。それで終ればいいが、夜半すぎてから訪問者があるのには閉口する。優雅なる女性が一人、ときには二人
十月に二週間ほど酒をやめたことがあった。友人が眼の前で飲んでいても欲しくないし、水がなによりうまいこと、そしてそばのうまいことを知ってびっくりした。門馬義久から教訓されて、そばを喰べ始めてから五、六年になるだろうが、これまでは一時の腹ふさげでしかなかった。それが初めて、そばとはうまいものだということに気づいたのである。
だが、それはそれだけのはなしだ。水がうまいことにふしぎはないし、そばがうまいことも昔からわかりきっていたにちがいない。そんなことに感心しているより、仕事のほうが大事である。それにはむだな神経をころし、仕事だけにうちこむことだ。健康を保って十年生き延びるより、その半分しか生きられなくとも、仕事をするほうが大切だ。こうしてまた、酒みずくに戻ったのである。もし宮田新八郎がこれを読んだら、さぞいい気分になることだろう。いつかA社の週刊誌に「私の養生法」というのを書いたとき、宮田新八郎はまったく信じられない、という筆ぶりで「こんどは不養生法を書いたらどうだ」といってきた。したがってこの項は、充分に彼を満足させるだろうと思う。
林芙美子さんが急死されたとき、「ジャーナリズムが殺した」という評が弘まった。冗談ではない、作者はそんなものに殺されはしない、作者は自分の小説によって殺されるものです。
「朝日新聞 PR版」(昭和三十九年十二月)