酒も食べ物も

山本周五郎




「どういう物が好きか」とかれるたびに、私は「うまい物が好きです」と答える。皮肉でもないしふざけているのでもない、事実そのとおりなのである。あたりまえなことを言うな、と鼻白む人もあるかしれないが、世間には馬の飼葉かいば同様な物でも平気で食べて、結構満足そうにしている人が少なくない、ということもおわかりになるでしょう。
 私は小さいじぶんから食いたしんぼで、食いしんぼに「た」のはいるくらいで、おまけに子供らしくない小面こづらの憎いもの好みをしたらしい。
「ほんとに子供のようじゃない」
 おふくろや親類の人たちに、よくそう言われたのをまだ覚えている。たいの刺身より脂の乗った小ぶりの目刺のほうが好きだったし、身の多い胴のところより頭の部分がよく、平目の切身はえんがわだけ集めて食べる、牛肉でも適当に脂肪が付いていないとはしを出さなかった。めしはどんなに少なくってもいいが、おかずは三品ぐらいないと機嫌が悪く、これにはおふくろはずいぶん気骨を折ったらしい。
 いまどきこんなことを言うと、聞く人のほうでせせら笑うだろう。私自身が子供のときそれをせせら笑ったのであるが、私の家はむかし伝統の古い武家だったそうで、――そら、もうあなたは笑おうとしている、だが私はじつを言うと笑うどころではなかった。五つの年に袴着はかまぎの式というのをやらされ、七つの年には切腹の作法をやらされたのです。小さな白装束にかみしもをつけて、三宝さんぼうの上にたたんだ紙を敷き、その上に短刀と扇子がのせてあり、扇子のほうで切腹の型を実演したのであるが、そのときの印象がよほど強烈だったのでしょう、十四五歳になるまでしばしばそれでうなされた。なんでも楠木正成の夫人のような女の人が、白装束で髪をおすべらかしに結って現われ、私の前へ短刀をのせた三宝を突きつけながら、もうこれまでであるから腹を切って死ぬように、といったふうなことをすすめるのであった。言葉はこのとおりではなかったようだし、まったく記憶もないので、あるいはなにも言わなかったかもしれないが、その女の人の恰好や顔つきを見ればすべてがわかるので、私は恐しさのあまりうなされて呻吟しんぎんしずにはいられない。おふくろに揺り起こされ、眼がさめてもしばらくはその状態から脱出することができないのである。そんなときは右手の拇指おやゆびむといいのだそうで、おふくろがそのたびに「噛め、噛め」と言うのだが、ふしぎなことに歯に力がはいらず、拇指をくわえたままふるえているのが番たびであった。
 食べ物に戻るが、――幼ない子供にこういう陋習ろうしゅうを教えるような父親だったから、貧乏ぐらしをしながら、侍の誇りとかいうものを生活の大黒柱のように考えていたらしい。お祭でも神輿みこしを担いだり山車だしいたりしては「いけない」、足を投げだして坐っては「いけない」、親に口答えをしては「いけない」、その他もろもろ、朝から晩までいけない、いけないの連続であるが、私がもっとも抵抗を感じたのは食べ物のことであった。
 侍は質素倹約でなければならない、という頑強な信念のもとに、食事は一汁一菜より好みをすることはゆるされない。茶碗や箸の音をさせてはいけない、おかずを残してはいけない。その他もろもろというしだいであるが、私はまえに記したとおりおかずっ食いであって、それも脂っこいうまい物が三品くらいなければ腹の虫がおさまらないというわけです。私のおやじは貧乏なくせに眼玉の大きな、親類じゅうから煙たがられている、酒の飲めない、吝嗇けちな、やかまし屋でありました。けれども私もまた小さいじぶんから強情な食いたしんぼで、そんなおやじの眼玉ぐらいを恐れて食べたい物も食べずにいるような腰の弱いちびではなかった。ほかのことはともかく、食べ物のこととなると頑強にねばり、気にいらないおかずのときには、おちんぶり(だだをこねる、というくらいの意味)をかいて箸を取らない。黙っていつまでも坐っているので、――侍の家のことですから、いくらおやじでも長男を殴るということはむやみにはできないので、おやじとしてはやむなく、自分の面子メンツをふところにしまってゆかなければならない。そこでおふくろはいそいで私のためにおかずごしらえをする、というふうになっていった。
 こう書いてみると、いかにも私が我儘わがままいっぱいに育ったように思われるかもしれないが、とんでもない。食べ物についてはそんなふうでも、その他のしつけには従順なもので、いま考えてみても自分を誇らしく思わずにはいられないのである。
 この癖は酒についても同様ですな。私はよく酒徒のなかまに数えられるが、私ほど酒徒の常識に外れた者はないと思う。私は酒でもくいたしんぼで、日本酒はあまり好まず、葡萄酒、麦酒ビール、ウィスキーなどを主に、銘柄や値段にお構い(下級のほうへ)なく、食べ物と口に合ったやつを飲む。特に葡萄酒は文学青年時代から好きで、貧乏だからメドックと大抵きまっていたが、ロースト・チキンの片股かたももとパンと玉葱たまねぎなどを買って帰り、間借り部屋でこれらを食べ、メドックを流しこみながら売れない原稿と格闘したものであった。
 いまでも洋風の食事を主にしているし、自宅でかみさんの作る物しか食べない、と言っても誇張ではないくらい外出先では食事をしません。ホワイト・ソースにしてもドミグラス・ソースにしてもかみさんの作るものほどうまいやつにはめったにぶっつからないし、名前だけいやにこけおどかしで、実質のなっていない料理が多いからである。むかし私はよくコックに文句を言った。客が黙っているとすぐさまぞろっぺいなことをするのが、特にはやる店の職人どもに多いのである。しかしいまはもう私はなにも言いません。この野郎と思っても食べなければいいのだし、二度とそんな店へいかなければいいのであって、番たびコックや職人に小言を言っていたのでは、こっちの肝臓が悪くなるばかりだからである。
 豚肉には寄生虫がいるから、完全に熱をとおさなければいけないと覚えている。イギリスでは、子供が八歳になるまで豚肉を食わせない、と聞いたこともあるが、現在では血の出るようなカツレツを出す店が、少なくない。私は決して食べないけれども、寄生虫がいるというのは嘘なのかどうか、いちど、どなたかにうかがってみたいと思う。
 私は敗戦後に横浜へ移って来て、この土地の人情風俗の温良純朴さには感激しているくらいだが、食べ物屋のないのにはいささか閉口している。うなぎで「八十八やそはち」、蕎麦そばで「出嶋屋」と「戸隠」、洋食はこれとおぼしい店がない。どの店でも生揚げのポーク・カツレツを出すので、他の料理はおよそ見当がつこうというものである。東京日本橋の「すし金」が支店を出していて、これは唯一のすし屋であったが、九月いっぱいで引揚げてしまった。人情純朴な客ばかりだと、店主からコック職人にいたるまで、いいかげんな仕事しかしなくなるものとみえる。自然ますます私はかみさんの手料理にたよるほかはなくなるのであります。
(発表誌紙と執筆年月は不明)





底本:「暗がりの弁当」河出文庫、河出書房新社
   2018(平成30)年6月20日初版発行
底本の親本:「雨のみちのく・独居のたのしみ」新潮文庫、新潮社
   1984(昭和59)年12月20日発行
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2026年2月8日作成
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