午後十時すぎ。桜木町駅前の市電の停留所で、一人の酔っぱらいが喚いている。安全地帯は鉄柵で囲ってあるが、彼はその柵に凭れて、
躯ぜんたいをぐらぐらさせながら喚く、年は五十がらみ、工員ふうの、痩せた小柄な男である。「なんでえ、七百両ぽっち。みんな呑まずにいられるかってんだ、この泥棒」彼は危なく倒れそうになる。「押すな」と彼はどなる。「押すな、危ねえぞ」と彼は手をふり回す。「ちえっ、三つき分も溜ってる月給を、七百両ぽっちでどうするんだ、やい、七百両ぽっち家へ持って帰れるかよ、泥棒」彼はまた倒れそうになる、「泣いても泣ききれねえ、おらあ泥棒になってやる、強盗だってなんだってやってやる、嬶や餓鬼なんか、おれが強盗したってなんだって、やい押すな」彼は鉄柵にしがみつく、「泥棒、やい泥棒、ざまあみやがれ、みんな呑んじまったぞ、泥棒」そして彼はついにぶっ倒れてしまった。
「日本経済新聞」(昭和二十九年十一月)