旅館について

山本周五郎




 私は国外旅行の経験はないし、これからもそんなことはしないつもりである。したがって外国の事情にはまったく無知であるが、近ごろの旅館のマンモス化は、世界共通の現象であるのかどうかを知りたいと思う。もっとも客のほうもマンモス化で、観光バスをずらっと並べてくりこむ、というのがめだってきた。私の仕事場の下は、三浦半島から湘南地方へゆく、ちょっとした裏街道になっているが、春秋の旅行シーズンになると、少なくて四、五台、多いのになると十台以上の団体観光バスがつながって通る。
 ――一千名さまはいオッケー。という某旅館のコマーシャルをT・Vで見聞したとき、私はすぐに食中毒のことを考えた。旅行シーズンはまた陽気の変りやすい時期であり、一千名さまの予約を、はいオッケーと受けた旅館の料理場を想像すると、ぞっとさむけがするのは私だけであろうか。もちろんそういう旅館はスタッフ全員が専門家であるから、客に食中毒を起こさせるような手ぬかりはないに相違ない。客のほうでもそこは覚悟ができていて、ちっとやそっとのことではあたらないような解毒剤を用意してゆくのが、常識だそうである。
 私はマンモス旅館に泊ったことはない。団体旅行というのもしたことがないし、将来もしないであろうことは確実と云ってよい。にもかかわらず、このように非難めいた拙文をつづるのは、去年の夏、二度にわたってからきめにあったからだ。S社のS誌で拙作のグラビアを載せることになり、担当の若い記者、カメラの人、それに案内役の若い友人という四人づれで、北国街道の今庄から、山中、粟津あわづと写真を撮ってまわった。
 山中温泉にはずっと若いころいったまま、三十年以上もたった、いまから数年まえ、二度めに取材のためおとずれ、去年が三度めの訪問であった。旅館は数年まえに泊ったのと同じ吉野屋であり、たいそう気にいったのでまた泊ったわけである。建物が大きく立派であるのに、サービス・スタッフも熟練していてこころよかった。私たちは夕食をたべ、菊五郎というおねえさんの山中節を聞きながら、かなり更けるまで飲んで寝た。寝るときは酔っていたのでわからなかったが、眼がさめてみると私は一人で寝ているのに気がついた。
「ははあ」と私はつぶやいたものだ、「おれだけおいてきぼりをくわせたな」
 枕許まくらもとにはウィスキーとビールと、水、グラスなどが揃っている。私はビールを一杯あおり、次にウィスキーの水割りを作った。窓をあけると外は緑濃い樹立で、下からは黒谷川の急流のさわやかな音が聞えてくる。私は流れの音を聞き、樹立の緑を眺め、水割りを啜りながら待った。もうすっかり夜が明けているし、三人の同伴者がいつまでも寝ている筈はない。もうあらわれるだろう、と待っていたのである。けれどもかれらはようとして音も沙汰もない、せきをする声さえ聞えない。私はてっきりかれらが寝すごしているのだと思った。
「よし」と私は云った、「おれを一人おっぽりだして、気持よく朝寝坊をしようという、申し合せでもしたんだろう、そうさせておくと思ったらおあいにくさまだぞ」
 私はグラスを置いて立ちあがり、廊下へ出ていった。うろ覚えの見当で廊下を曲ってゆくと、ここだと思い当る扉をみつけた。ノックをして扉をあけると、向うに次の扉があり、狭い踏み場にスリッパが二足揃えてあった。一足は私のはいているのと同じスリッパであるが、他の一足は桃色の、明らかに女性用のものとわかり、私はびっくりしてそこからとびだし、扉をそっと閉めた。男女二足のスリッパが揃えてあるとすれば、いずれよしあるカップルにちがいない。とんでもないところへとび込んだものだ、あぶなかったと思い、しんじつの意味でひや汗をかいた。
たしかにあの座敷だと思ったがな」と私は廊下をあるきながら呟いた、「ここをこう曲るだろう、そして二段あがるところがあって、すぐ左の――慥かにあの部屋だった筈なんだ」
 私は立停り「のぶさーん」と叫び、「くにのりー」と叫んで聞き耳をたてた。若い友人のくにのりは耳ざといたちで、私が呼べばたいていの場合すぐに返辞をするのが通例であった。それがぜんぜん反応がない、話し声も聞えないのである。私は廊下をったり来たりし、見当をつけては二人の名を呼んだ。どの座敷もいっぱいの客だと、まえの晩に聞いていたから、客たちの安眠を妨害するほど大きな声はだせない。どうしようと、途方にくれていると、若いきれいな女中さんが通りかかった。私は助かったと思った。
「ちょっと聞きますが」と私は女中を呼び止め、私の顔を判別してもらうため、指で自分の鼻をさし示した、「この、ぼくのつれの部屋はどこでしょうか」
 女中さんは済まなそうに、あいそよく微笑しながら答えた、「さあ、わたくし交代したばかりですからわかりません」
 なるほど、交代という手があったんだな、私は礼を述べびを云ってあるきだした。待てよ、と私は考えた。ゆうべ飲んだ座敷の窓外には、枝ぶりの美しい若木のかしがあった。あの木で位置を判断すればいいじゃないか、簡単なことだと元の座敷へ帰った。窓からのぞいてみると、その樫の若木がすがすがしく枝をのばしている。私はその枝ぶりをつぶさに見さだめてから、暗算で方角をきめ、廊下へ出てそっちへいってみた。するとまた、例のなまめかしい男女二足のスリッパのあった座敷にゆき着いたのであった。やんぬるかな、と私は思い、行衛をくらました三人の同伴者に心の中であくたいをついた。
「どうして旅館をこんなに大きくするんだ」と私は憤然と独り言を云った、「同じ家屋の中に泊りながら、つれと会うこともできないとはふざけたはなしだ」
 廊下を曲ったところで、こんどは若い番頭さんに出会った。どうしてみのがすことができよう、私は彼を呼び止めた。
「きみ、済まないがね」と云って私は自分の顔をその若い番頭さんの前へ差出し、私の人相をよく相手に認識させてから、とりいるように微笑した、「――ぼくのつれがどこかにいるんだが、どこにいるかわからないかね」
 その若い番頭さんはあいそよく頬笑み、私の顔を眺めてから首を振った。私の顔を眺めたのは、私が見せようとしたからなのであって、彼がそのことにいささかの好奇心も、熱意も持っていなかったことは明白であった。
「さあ」とその若い番頭さんは云った、「わたしは交代したばかりでわからないんですが」
 私は礼を述べ、彼をひきとめたことの詑びを云って彼と別れた。
 私はほかにどうしたらよかったろうか。そういう大きな立派な旅館、サービス・スタッフの熟練しゆき届いた応接。さすがにわが好もしき宿舎であることに間違いはないが、同伴者の所在が不明であり、それにスタッフの交代という条件の輪を掛けて、私を孤立させてしまったのである。私はその立派で大きな建物構造を心の中でののしり、また元の座敷へ帰ったが、なおみれんがましく窓から首を出し、例の樫の若木の、これと覚えのある枝ぶりのあたりに向かって、「のぶちゃーん」とか「くにのりー」などと叫んでみた。
「だめだな」と呟いた、「きっと三人とも蒸発しちゃったんだろ」
 私は夜具の上に坐り、水割りのグラスを取って啜り、そうして旅館のマンモス化と、消えてしまった三人について、老いぼれたやもめ男のような、湿っぽい怒りとかなしみにとらわれた。
 もちろん三人は蒸発してしまったわけではない。やがてつぎつぎにあらわれ、朝食をともにしたうえ、撮影にでかけた。山中の宿では右のような経験をし、次に粟津へまわった。ここも数年まえに来たT館という宿で「御殿」と称するはなれがある。母屋から渡り廊下で池を越したところにあり、寝殿造りの釣殿といった形式で、中央に五十じょうほどの上段になった座敷があり、池に面した一方は勾欄こうらん付きの広縁だが、他の三方は一段さがって、畳敷きのひさしの間のようになっていた。そして、その上段の広間の四方には、御殿という呼び名にふさわしく、本間ほんけんの儀々しい御簾みすが半ば巻いてあった。――数年まえに泊ったときもそうであったし、こんどいったときもそのままであった。三人の同伴者は温泉へはいりにいったが、私はすぐにビールとウィスキーを注文し、浴衣に着替えて独りで飲みはじめた。
 私はシャワーは使うが風呂は嫌いである。温泉宿へ仕事を持っていっても、よほどのことがなければ浴槽へははいらない。その理由については書いたことがあるし、ここでは必要外なので省略するが、ともかく独りで飲みはじめ、三人があがって来るとさらに景気よくグラスをした。優雅なる女性たちがあらわれたようだが、まったく記憶がない。ただ一人、女中さんでひどく酒の強い、そうして弁論に長じた女性――だろうと思う――がいたことはいまでもはっきり覚えている。その女性はビールだろうが酒だろうが一向にお構いなく、聞きとりにくい土地なまりで弁舌をふるいながら、ひた飲みに飲んだ。若い友人のくにのりは、この種の女性をからめ取る巧みな技術の持主であって、相手を饒舌しゃべり伏せ、酔いつぶれさせること神の如くであるが、このときは彼の特技も役に立たなかった。またこういうとき、若き友人のくにのりは転身の術も妙を心得ていて、ひらりと自分のとりでへひきあげてしまう。これを形容すると、自分でつけた野火がひろがって、手に負えなくなると逃げだして知らん顔をする、というのと類を同じくするものだと思うのであるが、――その女中さんの場合もその例の一つで、彼は敗北を認めるなり立ってそのそばを去り、席を同伴者のほうへ移した。女中さんであるその女性は、ますます元気百倍して、私ども四人の客をこきおろし、卑しめ、あざ笑い、自分の知っている客の誰それは一と晩に優雅なる女性を幾人とか征服したうえ、庭の石燈籠いしどうろうを持上げた、などということを自慢し、そのあいだ休みなしに飲み、手をふらふらと振りながら「おめえらも男ならやってみろ」というようなことを、よくは理解できない訛りの強い言葉でまくしたて、続けてまくしたてるのであった。
 私は沈没してしまった。かの女性の勇壮な酔態と恐るべき弁舌の毒にあたったのは疑いない。眼がさめると、自分が御殿の大広間に独りで寝ていることを知った。五十帖敷ほどの広間の四方に、例の儀々しい御簾がさがっていて、私のほかには人の影もない。私は汗びっしょりで、まわりは蚊のうなりがいっぱいで、池では蛙が鳴きたてていて、私はのどがべらぼうに渇いていた。
「ははあ」と私は起きあがって呟いた、「またおれは一人でおいてきぼりか」
 まえに来たときは、北側のひさしの間に女中さんが泊ってくれて、私が起きあがるとすぐに起き、なにか用かときいてくれた。水を飲もうとすれば起きてくるし、手洗いに立とうとすれば起きて来てくれた。三人の同伴者が消えてなくなっても、この御殿なら安心である。そう思って私は、廂の間にいるであろう女中さんの眼をさまさないように、そっと起き直って水を飲もうとした。ところが枕許には水はなかった。単に水ばかりではない。ウィスキーの残りとグラス一箇のほかは、きれいさっぱりなんにもないのである。私は眼がさめてしまい、喉の渇きに耐えかね、蚊を追う煩にも耐えかねた。北側の廂の間に燭光しょっこうの弱い電燈がついている、やむを得ない、私はそっちへいってみた。だが誰もいなかった。まえに来たときはあんなに親切で、ゆき届いた女中さんがそこに泊っていてくれた。だがいまは誰もいないし、サービス用の器具も調度もなく、がらんとして人間のいたけはいさえない。私は渡り廊下のほうへいって、「のぶさーん」と叫び「くにのりー」と叫んだ。云うまでもないことだがあたりは寝しずまっていて、返辞のへの字もかえってはこない。私は大広間へ戻り、やけ酒を飲もうとした。私は酒豪という虚名をいただいているけれども、ウィスキーをストレートでは飲めない、水で割らなくてはだめなのだが、その水なるものがないのである。
「こう暗くっちゃしようがない」と私は呟いた、「まずでんきをつけよう」
 私は伸びあがって電燈のスイッチをひねった。電燈はつかない。他のほうをこころみたがこれもつかない。明らかに元スイッチが切ってあるのだ。暑くて汗が垂れるし蚊が集まってくる。私は元スイッチを捜しにかかった。旅館でも料亭でも、元スイッチのあるところはおよそきまっている。そのたいていきまっている場所をさぐり廻った。およそ五十帖敷はあろうという広間の隅ずみまで、マッチをすっては捜しあるいたのだ。汗を拭き蚊を追い払いながら。
「どういうつもりだ」と私は幾たびも呟いた、「おれになにか恨みでもあるのか」
 本当のところはそんななまやさしい言葉ではない、私は車夫馬丁も顔をそむけるような言葉で、ゆうべの呑んだくれのお饒舌りのおかちめんこをのろい、またも私をおいてきぼりにした三人の同伴者を罵り、そして元スイッチを捜し廻った。
「人生そのものだな」と私は怒りをなだめながら呟いた、「どこかにあることは間違いないのに、マッチをすってはうろうろと捜し廻っている、みつけたところでたかがスイッチだのに、ばかげたはなしだ」

 元スイッチはみつかった。渡り廊下へかかるところの柱に、取り付けてあったのだ。御殿には電燈が明るくともり、扇風機までが唸りだした。ようやくほっとしたけれども、さて座敷に坐ってみても、その広大な広間がいっそう広く、一人ぽつんと坐っていることが、なんともばかばかしくまがぬけてみえる。
「よし」と私は呟いた、「グラビアを作ったって説明文なんか一行も書かねえぞ」
 私は独居生活をしているから、独り言を云うのは癖になっているが、山中とそのT館の御殿での二夜ほど、悪質で多岐にわたる独り言を口にしたためしはないと思う。それにつけても水の欲しさよ、喉の渇きはますますつよく、酔いもさめかけてきた。私はふと、元スイッチを捜しあるいていたとき、北側の廂の間になにかあるのを見たような気がし、立ちあがってそこへいってみた、――数年まえのときはそこに気のやさしい親切な女中さんが仮寝をしていたし、水屋が備えてあったものだ。箱根や伊豆の旅館では、ずっと以前から座敷ごとに冷蔵庫があり、各種の飲料や果物や、ちょっとしたつまみ物などが入っている。だがここではそんな備品がないばかりでなく数年まえにはあった水屋さえもない。ようやくみつけたのは、隅にころがっているタンサン水の空壜あきびんが一本だけであった。
「空壜が一本か、ちぇっ」私は舌打ちをした、「夜逃げをしたあとだってもう少しはなにか残っている筈じゃないか」
 どうしようがあろう、私はその空壜を持って、水をみにでかけた。洗面所は母屋のほうにしかない。渡り廊下を渡って洗面所までは約二百メートルほどある。私が渡ってゆくと、下の池で食用蛙――だろうと思う――のやつが鳴いた。それが「ばかやろ、ばかやろ」というように聞えるのである。水を壜に入れて戻るときも、やつはまた「ばかやろ、ばかやろ」と聞える。私は聞えないふりをし、座敷へはいるなり扇風機の向きを直して、風の中に坐り、水割りを作って飲んだ。あの呑んだくれの女中を呪い、消えてしまった三人の同伴者に悪口をあびせかけながら。しかし悲しいことに、タンサン水の壜は小さいので、水割りを二杯も作ればからになってしまう。
「立てよ、ぶしょうをするな」と私は自分をはげました、「いい運動じゃないか」
 私は五回、渡り廊下を往来した。片道が約二百メートルとみて、往復五回だとするとほぼ二キロあるいたことになる。池の食用蛙らしい蛙のやつはそのたびごと、さも面白そうに嘲弄ちょうろうするのである。初めは「ばかやろ」というふうに聞えたが、次には「ざまみろ、ざまみろ」とも、また「ごくろさま、ごくろさま」というようにも聞えた。
「よしよし、なんとでもぬかせ」私は水割りを啜りながらやり返した、「おまえなんぞは人を嘲弄するほかに、なんの芸もないんだろ、かなしいかな、池の中からな」
 私がどれほどいきどおりに駆られたか、推察してもらえるだろうと思う。翌朝、三人の同伴者が起きて来ると、私は夜半自分が「水汲みばか」になった事情を語り、朝食は汽車の中でべると主張して、しゃにむにT館から脱出した。
 山中の宿も粟津の宿も、マンモス旅館というほど大きくはない。にもかかわらず、右のように不自由で勝手が悪く、観念的にではあるが、人をのろったり悪態をついたりする結果になったのだ。それと対蹠たいしょ的に、小さな宿ではそんな被害はない。今年の五月のことだが、私は二人の同伴者と京都へゆき、高台寺前にある「八仙」という宿に泊った。――それより数十日まえ、私のかみさんと親類の村田一家が泊り、たいへん好遇されたと聞いたからである。同伴者の一人はS社の新田君で、しばしば京都へ来るし定宿があったのだが、私は「八仙」を主張してゆずらなかった。そして、車でそこへ着いたとき、外から宿のみつきを見るなり、新田君はすぐに「これはいい、これはいい宿です」と云った。京都には詳しい彼がそう云うのだが、疑いぶかくなっていた私は、すぐには警戒心を解かなかった。
 けれども「八仙」はかみさんの云ったとおり、また新田君の保証したとおり、間違いなくいい宿であった。美しい女主人と、女中さんが二人、座敷の数も五つか七つくらいらしい。女主人も女中さんも、まるで久しい馴染なじみのように、少しも形式ばらず、押しつけがましくもない。ほとんど家族同様の扱いかたで、しんからくつろぐことができた。
「おかみさんは先月ハワイへいって来たのよ」と若い女中さんの一人が云った、「あたしその飛行機が墜落するようにって祈っちゃったわ、飛行機が墜落すればおかみさんは死んじゃうでしょ、そうしたらあたしこのうちを乗っ取っちゃうの」
 訛りがあるので正確にはわからないが、反問してみたうえで、言葉の意味が誤りでないことを慥かめた。尤も彼女は、女主人の縁辺にでも当るような立場らしかったが、初対面の男客三人に向かって、そういう冗談をすらすら云えるということは、彼女の性分のよさを示すと同時に、その宿ぜんたいの気風をあらわすように思え、私たちは大いに笑ったものであった。
 明くる日、南座をみて帰京したのだが、駅まで女主人とそのいささかファニーな女中さんが送って来た。私はふと、寝衣ねまきに着た浴衣がたいへん気にいったので、あれを貰って来ればよかったと、つい口をすべらせた。
「あら、それならそう云えばよかったのに」と若い女中さんが云った、「あたしいそいで取ってくるわ」
「冗談じゃない」私は驚いて制止した、「もうすぐ汽車が来るんだ、まにあやしないよ」
「大丈夫まにあうよ」と彼女は駆けだしながら云った、「すぐだからね」
 美しい女主人は、あのとおりよ、とでも云いたげに微笑していた。その女中さんはタクシーで走り去り、汽車が駅へはいって来たとき、浴衣の包みを持ち、息せき切って駆けつけたのであった。
「二人が同伴しているからよかったが」と列車が動きだしてから私は云った、「――そうでなかったらこんな話を信じる者はないでしょうな」
 二人の同伴者は同意した。
 旅館に限らず、ビルディングも工場も、酒場も住宅もマンモス化してきた。人間の生活も集団化し、個人の感情は集団の力に屈服して、一億右へならえというふうになるらしい。ぞっとするような傾向であるが、それに異をとなえようとすると食用蛙にまで「ばかやろ」とか「ざまみろざまみろ」などと笑われるのである。御用心、御用心。
「朝日新聞 PR版」(昭和四十年一月)





底本:「暗がりの弁当」河出文庫、河出書房新社
   2018(平成30)年6月20日初版発行
底本の親本:「雨のみちのく・独居のたのしみ」新潮文庫、新潮社
   1984(昭和59)年12月20日発行
初出:「朝日新聞 PR版」
   1965(昭和40)年1月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2025年7月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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