武家の食生活

――耐乏訓――

山本周五郎




「現在かくの如く切迫した決戦期にあり、国民の多くが一人で二人前も三人前も働いている時そしてその戦闘労力の要求が更に増大していくと信ぜられる時に、主食一割減という事実は各方面にかなり大きな問題を投げているようです」私がそういった。
「……それに就いて、昔の武士たちは合戦の時や籠城ろうじょうなどの場合に、どんな耐乏生活をしていたものか、こういうことを真剣にたずねられるんですが、これにはどんな風に答えたものでしょうか」
 梅樹先生はぎろりと私をにらむ、これは返答無用のしるしである。武家生活に就て不分明なことがあると私はいつも先生のおしえを乞いに上るのだが、このぎろりとくる時は御返辞を頂けないことにきまっていた。然しその日は珍しく例外にぶっつかったのである。
「別段に変った事もないと答えるんだな」先生はそう仰っしゃった、「……合戦とか籠城とかいう場合には、武士も農夫も町人も差別はない、備蓄食糧が尽きれば食えない物までも食う、またなにか特に学ぶべき食生活があったとしても、今苦しまぎれにその真似をするような気持ではなんの役にも立ちはしない」
「それはそうですけれども、武家に学びたいという近頃の気風はかなり真剣なものですから」
「それなら、武家の平常に学ぶべきだ。三河岡崎藩五万石の領主に水野忠善という大名がいた、その食事が焼き味噌に菜汁に香物と定っていて、魚鳥を食べるのは一年に数えるほどしかなかった。また下総佐倉の堀田正信は、十二万石の領主でいて常づね稗飯ひえめしを食べていたという……こういう例は挙げれば限りがない、大名諸侯にしてそういう人が少なくなかったのだから、一般の武家がどんなに質素な食生活をしていたか分るだろう」
「然し注意する必要のあるのは、武家にとっての食生活の質素さはそのことが目的でなかったという点だ、食事は生きることの原動力である、合戦となり籠城となった時うろたえぬようそこを目標として平常のきびしい食生活が行われたのだ、然も一代や二代ではないおよそに云って鎌倉時代以後、戦国の世を通じ経験と歴史とに裏付けられたものだ、決して思いつきや人真似ではなかった。……」
「我々の胃腸をいきなり戦国の武士のものと同一にしようというのは無理だ、無理なことは長続きはしない、我々には我々の工夫がある筈だ、武家に学ぶべき点は、かれらが物の有り余る泰平の世に在りながら、然も有事の期に備えて常時耐乏の生活を連綿と継ぎ伝えてきたことだ」
「物の無い時に耐乏の工夫をするのは当然で、しかもこれはなかなかに楽しいものさ、貴下なぞもまず楽しむことを知らなくてはいかんよ」梅樹先生はそこで口をつぐんだ。
「東京新聞」(昭和二十年八月)





底本:「暗がりの弁当」河出文庫、河出書房新社
   2018(平成30)年6月20日初版発行
底本の親本:「雨のみちのく・独居のたのしみ」新潮文庫、新潮社
   1984(昭和59)年12月20日発行
初出:「東京新聞」東京新聞社
   1945(昭和20)年8月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2025年1月1日作成
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