君臣相念

龜井勝一郎




 聖武天皇が大仏造顕を御発願あそばされ、そのみことのりを賜つたのは天平十五年十月十五日であつた。昭和十八年十月十五日はそれからちやうど千二百年目に当るので、東大寺では盛大な記念法要が営まれた。私もお招きをうけて、天平のいにしへを模した祭典を拝観することが出来た。戦ひのさなかとはいへ、未だ本土空襲もなかつた頃なので、蜻蛉の飛びかふ秋空のもとに、至極おだやかに祭典はとり行はれた。もう二年前のことであるから、詳しいことは記憶から失せてしまつたが、いま秋の日に、心に残る印象を辿りつゝ祭りの思ひ出を記してみたい。しかし終戦後の昨今を思ふと、様々の感慨が浮んで、平静に祭りの印象だけを語ることは不可能なやうだ。眼前には皇統の一大事がある。天平の古 聖武天皇が時代に深憂し給ひ、大仏造顕によつて我が国土を浄土さながらに荘厳ならしめんと念じ給へる、博大な御信仰を偲び奉ることいよいよ切なるものがある。御詔勅は「天平の花華」の中にその大方を謹記したが、冒頭の次の御言葉を今日とくに想起申し上げたい。
「朕薄徳を以て、恭しく大位を承け、志は兼済あはせすくふに在りて、いそしみて人物ひとづ。率土の浜は已に仁恕にうるほふと雖も、而も普天之下あめのしたは未だ法恩を浴びず。誠に三宝の威霊にりて、乾坤あめつち相泰あひゆたかに、万代の福業さきはひを修めて動植はことごとく栄えしめむと欲す。」
 つゞいてさきに謹記せる大仏造顕の御念願が述べられてあるのだが、この冒頭の御言葉に、皇統の永久不滅なる御信念がはつきりとうかゞはれるであらう。とくに「勤みて人物を撫づ」の「撫づ」といふ御言葉は極めて重大で、 聖武天皇御一代の御詔勅や御製に屡※(二の字点、1-2-22)拝さるるところである。千二百年祭の根本精神も、要するにこの御一語にきはまると私は思つてゐる。たとへば次のごとき御製。
 食国をすくにの とほ朝廷みかどに 汝等いましらし 斯くまかりなば 平らけく 吾は遊ばむ 手抱たうだきて 我は御在いまさむ 天皇すめらが うづの御手みてち 掻撫かきなでぞ ぎたまふ うち撫でぞ 労ぎたまふ 還り来む日 相飲まむぞ この豊御酒とよみき
 遠く太宰府に赴任する節度使に、酒を賜へる折の御製と伝へられてゐるが、私は万葉集の中でもこの御製を最も愛する。厚く労をねぎらひたまひ、実に大どかに御親愛をよせ給うてゐる御心は、比類なく、とくに「掻き撫でぞ労ぎたまふ、うち撫でぞ労ぎたまふ」といふ御言葉に、君臣相念の御思ひはきはまれりと申し上げねばならぬ。天平勝宝元年大仏殿において群臣に賜つた勅語にも、「食国をすくに天下あめのしたをば撫で賜ひめぐび賜ふとなも、神ながらおもほす」とある。大伴家持が長歌の一節に、「老人おいびと女童児をみなわらは[#「女童児も」は底本では「女章児も」]が願ふ、心たらひに、撫で給ひ、治め給へば」と歌つてゐるのは、かゝる大御心への奉答であり讃美であらう。御製や御詔勅をとほして、「撫づ」の一語にこもる帝の御仁愛を拝すれば、さながら御手をもつて、ぢかに臣民を慈み撫で給はんとの御思ひにみちあふれてゐることがわかる。直截の御念願であり、またこれに接した臣民達は、たしかに暖い愛撫の御手を感じたにちがひないのだ。無限の救ひと慰めの御手であり、その前に思ふところはなかつた筈である。これをぢかに拝したからには、何びとといへども、「海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍、大君の辺にこそ死なめ、かへりみはせじ」といふ気持になつたであらう。
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「撫づ」とは、君と国民とをつなぐ最も深い血の紐帯である。御稜威とは「撫」であり、こゝに国体の深い源泉がある。信仰も愛国心もこれによつておのづから与へられるのであり、「我」のはからひや党派的な感情はすべて死なねばならぬ。「撫づ」とは至尊の率直な愛だ。「海行かば」とは至尊の愛に答へ奉る相聞歌なのだ。教訓化する必要がどこにあらう。君臣相念、君臣相聞の、この暖く生々した情熱が、涸枯するか、政治的な謀略によつて蔽はれるか、固くるしい形式主義のため歪められるか、或は党派的に独占されるか、このいづれかの場合に国民は不幸なのではなからうか。東大寺の記念法要に列席し、舞楽の音を聞き、舞を見ながら、ふと悲しい気持になつたことを私は思ひ出す。何故であるかその時はよく考へてもみなかつたが、今になつてそれがこの不幸に淵源してゐたのではなからうかと思ふ。
 天皇の尊い御姿はどこにも見当らなかつた。君臣一如の澎湃たる信仰のうねりは昔日の夢であつた。千二百年の古、大仏殿の前に舞楽をめで給ひつゝ君臣相念した旺んな日を私は想像し、激しい郷愁のごとき感情に襲はれたのである。何故それがうつゝに再現されぬのか。私はそのもどかしさを堪へ難く感じた。連綿たる皇統を仰ぎながら、何故 天皇は我らから遠く雲上に隔つてしまはれたのか。「海行かば」は津々浦々に歌はれ、万人が忠誠を誓つてゐる日に、あの深い不幸を感じなければならぬとはどういふことなのか。
 我が国における幕府的思想の影響は、おそらく想像以上につよいであらう。徳川時代が終つてからわづか一世紀と経てゐないのだから、我々は意識せずなほその影響下に生きてゐるのかもしれない。なるほど維新において御親政は恢復された。しかし御親政の真義を為政家はほんたうに解してゐたであらうか。我が国史をかへりみるとき、明治、大正、昭和の御代ほど国民が一致して 天皇を奉戴した時代はない。飛鳥白鳳天平の御親政は、つねに大氏族の専権によつて脅かされ、至尊の御生涯は御憂悩と悲劇にみちてゐた。吉野朝の御親政は直ちに戦乱であつた。鎌倉、室町、安土・桃山から徳川までは周知のごとく幕府の長い専制時代がつゞいてゐる。明治から現代まで、かくも国民一致の奉戴があるのに、何故我々は 天皇と我々を隔てる頑迷な障壁を感じなければならなかつたのだらうか。宮廷の守りに任ずる為政家の深い責任感もあつたらう。社会不安もあつた。しかし私の念頭に絶えず去来してゐたことは、至尊の生々した御慈愛が、心なき人々によつて、いかに長い間さへぎられ、生硬なものとなり、形式化されてゐたかといふ悲しい事実であつた。端的に申して大正以後の代はほんたうに 天皇御親政であつたらうか。私は畏れかしこみつゝこの疑惑を提出したい。御親政とはただ政治の一々に関し上奏裁可を仰ぐことのみではない。 天皇とは国民にとつて断じて政治的御存在だけではなかつた筈だ。私の謂ふ御親政とは、「撫」の御手を頂くことである。日本人のみが知る政治を超えた君臣相念の世界の現出である。
 終戦の御詔勅を畏くもラジオを通して賜つたとき、私は玉音を拝しつゝ夢ではないかと思つた。御親政がいまはじめて実現された、これこそ御親政といふものにちがひないといふ深い直感であつた。国家の最大危機にかくあることは、我らの幸ひといふべきか不幸といふべきか。私の半生の間には、至尊の御姿をはるかに拝し奉つたことは幾度かある。それは狂的とさへ思はるる厳重無比な警戒の垣の間からであつた。至尊の御通りを拝さんとする国民は罪人のやうに扱はれ、警護者の鋭い監視のもとにおかれた。何がこのやうな悲しむべき事態を招いたのか。責任は我々の思想的不逞にもあつたであらうが、おそらく史上に例のない驚くべき事実であり、しかも誰も疑はず黙して従つた。私は日本国民として一生このやうな状態で死ぬのかと悲しくあきらめてゐた。玉音を拝するなど夢想だにしなかつたのである。
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 昭和二十年八月十五日、突如として玉音を拝したことは、私にとつて生涯の一大事であつた。 至尊の「撫」は連綿として今に不滅であり、玉音にこもる無限に深く尊い御調べの裡に、「撫づ」の御思ひは生々と生きてゐることを現に感じた。文章としては難解とも思はるる御詔勅が、ひとたび玉音をとほせば少しも難解でなく、御一語御一句に含まるる民への切なる御思ひやりは、ぢかに我々の胸底へ伝はる。幽遠に尊く、しかも暖い御手を以て苦悩の民の心を撫で給ふがごとくであつた。二千六百年間歴代 至尊の御念願を継ぎ給うて来られた、この世のものとは思はれぬ霊魂みたまの調べを拝し 天皇とはまさにかくのごとき御存在であらせられたのかと驚嘆を禁じえなかつたのだ。これほど身近に 天皇を感じ奉つたことが嘗てあつたらうか。「常ニ爾臣民ト共ニ在リ」と仰せられた御一語を忘れることが出来ない。
 聖上のみならず、私は玉音をとほして歴代 至尊のみたまを如実に感じた。 聖武天皇の玉音をもこゝに彷彿し申し上げたと云つてよい。「掻き撫でぞぎたまふ、うち撫でぞ労ぎたまふ」と、御自ら歌ひ給うた折の玉音を想像し奉つただけで心はときめく。恍惚として神ながらの御音声にぬかづき、一切を忘れるであらう。玉音は我々にとつて長いあひだ夢みてゐた「撫」の御声であり、同時に救ひの御手であつた。異国の政治理論をまつまでもなく、君臣一如の世界はこゝに現実に在る。何故久しい間玉音にさへ我らは隔てられてゐたのか。あの日、様々の意味で我々は救はれたのだ。しかも 聖上におかせられては、痛恨無比の御受難の日であつたことを我々は銘記し奉らなければならぬ。
 聖武天皇の御信仰を拝するに、それが甚深なる罪の御意識に発したものであることは、さきに謹記せる御詔勅によつて明白であらう。信仰はすべて強烈な罪悪感を母胎とするが、 至尊の罪の御意識とは、決して御一身に始終せず、時代そのものの悲劇を悉く「罪」として担はせ給ふ広大無量の御自覚なのである。たとへば風水害、疫病、震災、紛乱すべて国民の不幸は、御身の「薄徳」の然らしむるところとしてまづ御身を責められ、たゞ一人の国民の不幸さへ、「罪」として自覚あらせられ、この御憂悶より神祇仏法に祈念を捧げ給ふ。私は驚嘆畏怖してこの一事を偲びまつるのである。「撫づ」の御仁愛は、同時に罪の御意識を根底としてゐると申し上げてもよいであらう。
 至尊ほど時代に深く傷つき給ふ方はない。 聖武天皇の御生涯を拝しても、それはまさに受難であつた。ひるがへつて 聖上の御憂悩の、未曽有に深刻なることに思ひいたさざるをえない。今となれば 聖武天皇に対し奉る私の回想は、直ちに 聖上の御憂悩につながり奉ることだと申してよい。何故なら、悲痛な受難の日にこそ、御信仰は復活しなければならぬからだ。 聖武天皇の御信仰は今の大危機において、 聖上の大御心に連綿と生き継がれるであらうことを私は信じ、これを絶望の日における希望としたいのだ。
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 二年前の祭典の日を思ふと夢のやうだ。透明な秋空に、舞楽の大鼓の音が間断なくひゞき、大仏殿の前に設けられた朱塗の舞楽台の上では、数々の舞がのびやかに舞はれてゐた。若草山の松の緑を背景にしてそれを眺めると、舞人達はあたかも緑の中から抜け出てきた松の精霊のやうにみえた。静かな緊張した空気の中に、軽く揃つてひゞく舞人のくつの音も忘れ難いものであつた。大仏殿の所々には、昔さながらの姿で山伏が護衛の任に当つてゐたが、それが実によくあの建物と調和し、山伏を見てゐるときだけは現代を忘れてゐられるやうな気になつたこともいま思ひ出す。舞楽台の左右には善男善女はむろん、来賓として集つた大東亜各国の使臣達もゐた。彼らは大仏殿の前に熱烈な奉讃文を朗読した。いま彼らは何処にどうしてゐるだらうか。すべてが夢のやうだ。誰が今日を予想したであらうか。
 大寺の祭に列席したのは、私としてはじめての経験であるが、この日東大寺について新に印象づけられたことが一つあつた。これは私の東大寺観にとつては極めて大切な発見であつた。東大寺は、大群衆に埋められたとき、はじめてその真面目を発揮するであらうといふことである。寺の祭礼に群衆の集るのは当然で、何もめづらしい発見ではないが、東大寺の場合は格別のやうに思はれたのである。今までも屡※(二の字点、1-2-22)大仏殿前の庭上に立つたが、この日のやうに多くの人々と偕に坐つた経験はない。大和の古寺を歩くたびに、私はいつも人影のないことを願つた。古寺の多くは、訪れる人もない寂莫たるところに真の風情をみせてゐる。群衆によつて賑々しく雑沓する古寺など有難くない。
 ところが東大寺は、群衆の数が多ければ多いほど益※(二の字点、1-2-22)おもむきを加へるやうだ。千二百年記念法要にもむろん大勢の群衆は集つたが、大仏殿の庭を満たすには至らなかつた。相当の数にはちがひなかつたが、あの広さからみるとやはり寥々たる感はまぬかれない。私は天平勝宝四年の大仏開眼の日を想像した。 聖武天皇をはじめ奉り、文武百官、一万二十六人の僧侶、これを拝さんと門前にひしめく数万の大群衆、東大寺の大きさは、このときはじめて完璧に実現されたに相違ない。この寺の壮大華麗の程度は、建物からだけでは想像出来ない。大群衆によつて埋められることが必至の条件のやうである。
 また若草山の麓の、あの位置に建てられたといふことも軽く見逃せぬ事実と思つた。それは風光の美や閑寂を顧慮に入れただけでなく、今日の言葉で云へば東大寺の舞台効果を念頭においたらしいのである。大仏殿前の庭上に、群衆とともに坐つてみて、はじめて気づく点で、立つてゐてはちよつと気づかぬ微妙なところである。東大寺を囲繞する若草山を坐つて眺めてゐると、大仏殿の庭は、あたかも段々のやうに漸層的に低くなつた最後の盆地のやうで、云はば若草山をとりいれた広大な円形劇場を形成してゐるのである。意図したものか、偶然の効果であるか。大仏殿とその前の庭は舞台なのだ。君臣一如の信仰が演ぜられた荘厳な舞台なのだ。こゝで舞楽が舞はれ、一万余人の僧侶の読経が行はれたとき、いかにすばらしい効果を発揮したか想像されるであらう。読経の音声が若草山に反響して潮のやうな響をたてたであらう。その凄いうなりは、独特の調べとなつて信仰を微妙にそゝつたにちがひない。要するに東大寺は、祝祭と群衆によつて埋めつくされたときが最も荘厳であり偉大なのだ。
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 祭典の席にあつて、こんなことを考へながら、私の思ひは天平の古の方へのみ向けられがちであつた。舞楽や山伏や、その他の飾りにいさゝか珍らしいものはあつたが、天平の大仏開眼の盛儀を模したといふこの祭典は、必ずしも豪華壮大なものではなかつた。むろんそこには物質的な理由もある。東大寺は 天皇の勅願寺であり国宝であるにも拘らず、今まで国家の保護は何もうけてゐない。外観が大きいので人は信じ難いであらうが、今の東大寺は大和でも屈指の貧乏寺なのである。大仏殿に集る布施によつて一切の維持をはからなければならぬといふ。経営の労苦は容易でないらしく、今度の法要についても、寺当局の苦心は並々でなかつたと聞く。
 聖武天皇の大仏造顕御発願千二百年といふ国家的祭典なのに、為政当局が頗る冷淡なのは不思議なことだ。大戦中の故をもつて、すべてに自粛が要求されてゐた頃であるが、自粛すべきものと、自粛すべからざるものとがある。芸術祭や宗教式典のごとき、云はば国の華、国のいのちともいふべき事柄については、戦ひのさなかならば尚更のこと思ひきつて盛大豪華に営むべきなのだ。為政者官僚にさうした思ひが微塵もなく、国民にさしたる反撥もみられぬのは、信仰の喪失はもとより、国の精神の衰弱をはつきり示すものではなからうか。たゞ口頭でのみ伝統の発揚を強説してきた感が深い。宗教と芸術を虐待する国は必ず滅びるのである。祭典に列しつつ、ふと感じた淋しさも、国全体を蔽うたこのみすぼらしい気分の反映であつたかもしれぬ。
 盛儀に臨んだ我々一人一人の心をたづねても、熱した信仰は見当らなかつたであらう。 聖武天皇讃仰の念は抱きつつ、一方ではめづらしい祭りを眺めて、奈良の秋の一日を楽しまんといふ遊楽気分がつよかつたことは否定出来ない。戦勝報道を信じて、大いに松茸を喰ひ、美酒に酔ひつゝ町をそぞろ歩いてゐた。今日の敗退など想像も出来なかつたのである。しかし、暗影は人心の底深くきざしてゐたことはたしかだ。東大寺の大いさは、大群衆によつて埋められたとき完璧にあらはれるとはいへ、それはたゞの大群衆ではない。信仰に熱し、祈念にいのちがけの、さういふ大群衆がかもし出す一種の熱気、云はば信仰の大圧力のごときものが、東大寺をはじめて完璧ならしむるといふ意味だ。その大事な、唯一根本の信仰の圧力といつたものが見事に失はれてゐるのだ。僧俗ともに、何故このやうにみすぼらしく無力なのか。
 遠く大鼓と笙の音がひゞいて、祭礼の行列が中門からあらはれたときの印象を私はいま思ひ浮べてみる。参集の僧侶は五六十人ほどでもあつたらうか。大仏殿に向つて歩みをはこぶ彼らの風貌をみて私は愕然とした。そこには信仰者のもつ高い誇りも気魄も知的閃きも床しさもみられなかつた。卑屈におづおづと、無気力そのもののやうな表情で歩いて行く。人の持つて生れた風貌について、みだりに批評しようといふのではない。僧侶の中に何も美丈夫を求めたわけではない。たゞ信仰がもつおのづからなる威厳だけを予期してゐたのだ。それが鮮かに裏切られ、現代仏教の悲哀を味つたのである。
 私の思ひはまたも天平の古にさかのぼる。あの頃の僧達は、我が国における云はば一流の知識階級であつた。名僧哲人といはるるほどの人は稀だつたにしても、 天皇の厚い御庇護を賜り、国家宗教の導者たるはむろん、政治経済文化のあらゆる面に識見と技術を有し、学殖も深かつたであらう。さういふ人物が、おのづから具現する一種の英風といつたものがあつたに相違ない。一人一人が、風格と陰翳にとんでゐたと思ふ。一万余人の僧の風貌だけでも、倦かず眺められたであらうと私は想像し、ひるがへつて眼前のこの何ともいへぬ貧相が、性来の人相などでなく、信と学の貧相であることに思ひをはせ、併せてこれを眺めてゐる我々の面相もまた気のぬけたやうな傍観者以外の何ものでもなからうと反省し、苦笑もしたが寂寥に堪へざるものがあつた。
 式典の運びもまた、いさゝか気品を欠いてゐた。私は不器用さを責めてゐるのでなく、その器用さに遺憾の意を表したいのである。舞楽台や読経座の傍に拡声機をつけ、袈裟衣の僧侶が放送員さながらに式の次第を告げるのはまだしも、舞楽読経から奉讃文朗読まで悉く拡声機をとほして境内一杯にひゞかせようといふ。「近代的」親切であらうが、これによつて祭典の荘厳と気品はひどくそこなはれたことはたしかだ。まことの信仰の為しうるところではない。拝む心よりも、見物する心をより多く予定して、この式典が仕組まれたとしか思へない。法座の上の僧正の、たゞひとりの講讃まではつきり拡声機によつて聞かれたことは、好奇心を満足はさせたかもしれぬが、読経のあひまに喉に痰がひつかゝつて、げろげろとあさましく痰を吐くその音まで境内一杯に拡声放送されたのには失笑した。読経の音声も舞楽の音も、聞えないなら聞えなくともいゝ。静寂の裡に念仏の気持さへこもつてをればよかつた。我々の好奇心など、何故大胆に無視してくれなかつたのか。現代僧の誇りと自信の喪失はこゝにもみられる。また、これは後に聞いた話だが、東大寺の或るお坊さんは、衣の下に写真機を隠して列座し、式典のあひまに、衣の裾の方から状景を撮影するつもりだつたさうで、近代僧侶気質として私の記憶に残つてゐる。この有様ではやがてチュウインガムを噛みながら読経する坊さんが出てこないとも限らない。記念すべき祭典の欠点を殊更あげつらふのは心なきわざではあらうが、二年経た今なほかうした印象や感想は消えずにある。
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 東大寺の復活はいつの日であらうか、祭典の日も、我が国人を蔽ふ無信心について考へてはゐたが、今から思へば、切迫感を持たうとしてなほ真に切迫はしてゐなかつたやうだ。戦争といふ大悲痛こそ大慈悲を生むであらうと嘗て私はかいた。そのときの戦争といふ観念の中には、死屍山をきづく状景は考へられてゐたが、今日の悲惨な終戦など全く予想されてはゐなかつた。大悲痛は思ひもよらぬすがたでやつてきた。皇室の存続可否のごとき空前の大事さへ公然と論議されるやうな時が来ようとは夢にも思はなかつた。私は大東亜戦争を科学戦などとは決して考へなかつた。これは未曽有の宗教戦争である。二十世紀における無神論との壮烈な決戦開始であると信じ、この戦争をとほして再び神仏の深く崇められる日の来らんことを念じてゐた。仏国土の建設こそ、秘められた内心の「神聖なる陰謀」であつた。この祈念はいま一層切なるものがある。
 宗教戦争に終結などはむろんない。永続的に徹底的に戦はれるであらう。眼にみえぬ勝敗は、たゞ己の死屍によつて示す以外になからう。そして敵の所在は複雑にして微妙である。外部にも内部にも、とりわけ我々の心内にも在る。 聖武天皇の御信仰を偲びまつることは、今や直ちに 聖上の御憂悩につながり申し上ぐることだと、私のさきに述べたのも、苛烈化する宗教戦争の最も重要な第一戦がこゝにあるからである。これは直ちに東大寺の運命を決する問題でもある筈だ。私は日本の仏教徒として、さゝやかながら信心を積み、「撫づ」の御仁愛に報い奉らんと念じてゐるものであるが、終戦の御詔勅に、「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ」と仰せられたことに絶大の謝念を捧げ奉らねばならぬと思ふ。私は救はれた身であることを、心魂に徹して忘れぬつもりだ。





底本:「龜井勝一郎全集 第九巻」講談社
   1971(昭和46)年6月20日第1刷発行
   1978(昭和53)年9月26日第2刷発行
底本の親本:「大和古寺風物誌」養徳社
   1945(昭和20)年12月15日改訂増補版第4版発行
初出:「文学界」
   1943(昭和18)年11月
※初出時の副題は「東大寺大仏御発願千二百年を記念して」です。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:酒井和郎
校正:山村信一郎
2018年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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