物語の絵画化についてなど

亀井勝一郎




 造型は始原的には「言葉」に従ふものである。建築も彫刻も絵画も、あらはれ方はちがふが、その内部に、作者たちの言語表現の衝動をふくむといふ意味である。たとへば仏像はそれ自体として成立したものではない。経典を読んだ人の、信仰による解釈の表現、乃至は信仰告白であり、或はその代作である。すべての仏像はこの意味で思想像であり、仏画もまた同様である。
 日本は、インドに成立した仏教が、中国朝鮮を経て、最後に根を下した国である。したがつて造型面でも充分成熟した形のものが、当初から伝来した。仏教伝来とは仏像伝来と言つていゝほど、造型面からの受けいれが多かつた。その意味で、日本人の仏教享受は最初から密教的であつたと言へる。この点を自覚的に体系化したのが、空海の「秘密荘厳心」「四種曼荼羅」である。これが浄土教へ影響し、仏像仏画の面で多様に展開して行つた。
 ところで平安朝の造型の特徴として、寝殿造りと阿弥陀堂とともに、もうひとつ絵巻物の発達をあげなければなるまい。原典はむろん中国である。絵入りの経典はすでに七世紀に伝来してゐるから、暗示はあつたわけだが、女房文学の展開とともに、宮廷貴族邸における絵あそび、また女房自身が絵を描いたといふ習慣を見のがしてはなるまい。
「大和物語」「かげろふの日記」などで指摘出来るが、大きくとりあげられてゐるのは源氏物語である。「絵合」の巻を読むと、貴族がそれぞれに絵師を召しかゝへて、絵を描かせ、互いに競つたありさまがわかる。また絵による教育も行はれたわけで、これらが絵巻物の発達の重要な素地になつたことは言ふまでもない。同様に寺院の内部でも絵巻物がつくりはじめられた。しかし大部分は消滅した。「かげろふの日記」の作者などは数多く描いたらしいが、一枚も残つてゐない。藤原の摂関時代をすぎて、十二世紀の院政時代に成立した源氏物語絵巻すら、全部が伝つてゐるわけではない。しかしつゞいて信貴山縁起、伴大納言絵詞、鳥獣戯画、地獄草紙、餓鬼草紙、病草紙など、鎌倉期へわたつておびたゞしい絵巻物があらはれる。
 文学の場合もさうだが、平安朝末期(十二世紀)から鎌倉への推移を、政権移動にもとづいて、王朝から中世へといふ風に単純に区分することは出来ない。藤原最盛期に発した芸術の諸部門の影響は、十三世紀へと連続してゆく。王朝の残照とも言へるが、単純に隠者の手に移つたわけではない。源氏物語絵巻は、この物語が成立してから百年以上経た後に描かれたものである。宮廷貴族邸を中心の読者は益※(二の字点、1-2-22)ふえたであらうが、どのやうに読まれたか、その一端を知る上からも興味ふかいのだ。
 貴族や女房たちが、物語のなかから或る場面を選び、一流の絵師に描かせた。さういふ選定者と作者との合作であり、各貴族家ごとに幾組かのグループがあつたわけである。王朝の傾きかけた乱世の日に成立したものだけに、物語の読み方とか選定にも特徴があらはれてゐる筈である。
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 現在伝つてゐる部分から推測する以外にないのだが、源氏物語の中で、光源氏の運命に暗影がさし、悲劇的人物としてあらはれてくるいはゆる「第二部」と、「第三部」宇治十帖と、この部分が圧倒的に多いことがまづ注目される。光源氏の青年期や須磨明石などはない。あつたかもしれないが、現存するところでは右のやうな特徴がみられる。
 もしこゝから判断してよければ、院政時代の貴族女房たちは、源氏物語の中の、因果応報的な流転の相や、死の跫音や、言はば「宿世のあはれ」といつた面に、とくに心をひかれたと言へるのではなからうか。
 したがつてこの絵巻物の中で、最も見ごたへのあるのは「柏木」(三段)である。光源氏の若い妻、女三の宮は、朱雀院の愛娘である。力づよい後見を得たいばかりに、光源氏に嫁いだが、柏木と密通懐妊してかをるを生んだことはすでに語つた。光源氏が嘗て藤壺に通じて懐妊せしめた罪のむくいが、このやうなかたちであらはれてきた悲劇の場面を、絵巻物を描かせた人が選定したわけである。
 柏木は光源氏の痛烈な眼差に射すくめられたやうに病臥し、やがて死ぬ。女三の宮も心に責められて出家する。絵巻の「柏木」第一段は、朱雀院が行く末を案じたこの娘のもとを訪れたときの場面である。
「世の中を顧みすまじう思ひ侍りしかど、なほ惑ひ醒め難きものは、この道の闇になむ侍りければ、行も懈怠して、若しおくれ先だつ道の道理のまゝならで別れなば、やがてこの恨みもやかたみに残らむと、あぢきなさに、この世のそしりをば知らで、かくものし侍る。」(「柏木」)
 出家した朱雀院も、肉親のきづなは断ち切れぬ歎きのまゝに、かう言つてかきくどくわけだが、女三の宮の悲劇とともに、当時の読者の心をいたくうつたにちがひない。涙をぬぐふ朱雀院を中心に、光源氏と、ものも言はずうち伏しゐる女三の宮と、それをめぐる女房たちの長い黒髪や、十二ひとへの衣の乱れるやうにひろがつてゐる場面が写されてゐる。
 柏木は懊悩の末に病臥し、いのちもまさに絶えようとしてゐるとき、親友の夕霧が見舞に訪れる。「柏木」第二段はその場面である。
「重くわづらひたる人は、おのづから髪髭かみひげも乱れ、ものむづかしきけはひも添ふるわざなるを、痩せさらぼひたるしも、いよいよ白うあてなるして、枕をそばたてて、物など聞え給ふけはひ、いと弱げに、息も絶えつつあはれげなり。」(「同」)
 当時の読者は、朱雀院、女三の宮とともに柏木に対しても深く同情したのであらう。病気衰弱の面影でなく、「いよいよ白うあてなる気」を描き、全体として優雅に、しかも対面する二人の沈みきつた姿が巧みにとらへられてゐる。悲しみをこらへてゐるやうな女房たちの姿を配して、全体として見事な構図である。
「柏木」第三段は、柏木の死後、光源氏が、事実は柏木の遺子であり、表面は自分の子とみられてゐる薫を抱く場面である。
「『あはれ、のこりすくなき世に、おひ出づべき人にこそ』とて、抱きとり給へば、いと心やすくうち笑みて、つぶつぶと肥えて白ううつくし。大将などのちごひ、ほのかに思し出づるには似給はず。」(「同」)
 自分の晩年に、このやうにして生れた子の運命を思ひながら、抱きとつて、つくづくと眺めてゐる姿である。自分の実子夕霧(大将)の生ひ立ちなどをかすかに思ひうかべるが、それとは似てゐない。万無量の思ひを抱いた光源氏の、沈んだ顔が描き出されてゐる。
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 私がこゝに引用した原文が、そのまゝ絵詞ゑことばになつてゐるわけではない。省略もあり、別の説明もある。しかし原文のどの個所を選んで描かしめたかは、以上の通り推察出来るわけで、結局、女三の宮、柏木、光源氏と、三人三様の宿世のあはれを表現したと言つてよからう。
 死に近い紫上と光源氏が対面する「御法」の場面とともに、「柏木」三段は、源氏物語絵巻の中の圧巻と言つていゝのではなからうか。それは源氏物語の中でもひとつの頂点である。外的な行動の世界でなく、一種の心理劇ともいふべき場面であるだけに、絵師たちは困難に直面したであらう。全体の構図、登場人物の姿勢などに、とくに苦心しただらうと想像される。
 人物の顔が全部、「引目ひきめかぎ鼻」になつてゐることはこの絵巻の特徴である。まどろんでゐるやうに、眼を一直線に描き、鼻はすべて単純に淡く「かぎ」の形で表現されてゐる。そのため表情が類型化されてゐるとも言へるが、物語のもつ「あはれ」の表現のためには、おそらく最適の方法ではなかつたか。どの画面も、この眼のために、静寂と優雅と、もの悲しさが効果的にあらはれてゐるわけで、かうして物語全体の雰囲気をとらへたと言つてよからう。
「引目かぎ鼻」は素人めいてゐて、最初は女房たちのスケッチから出たのではないかと想像されるが、後には貴族たちの顔を描くときの約束となつたらしい。他の絵巻物では、一般民衆の眼は普通に描かれ、区別されてゐるからだ。
 いま伝つてゐる源氏物語絵巻は、いづれも色彩が薄れたり消えかゝつてゐる。しかし描きあげられた当時は、男女の衣裳の色彩の配合など、実に鮮かであつたにちがひない。悲劇を扱つてゐるが、色彩がもとのまゝのとき眺めたならば、そこには華やぎがあつたであらう。絵師たちは、おそらくこゝでもひとつの困難に直面した筈だ。宿世のあはれの表現とともに、その背後にある色好みの世界の色彩化といふ一種の矛盾を、同じ画面にいかに描くかといふ問題があるからである。
 たとへば主人公の周囲には、必ず側近の女房たちが、ちよつとうるさく感じられるほど描いてある。当時の習慣にはちがひないが、黒髪の流れるやうなかたちや、十二単の衣の袖や裾が左右にひるがへり、やゝ角ばつて模様化されてゐるのは、絵画上の虚構であらう。そのため漂つてゐるやうな印象を与へる。
 そこに生ずるなまめかしい雰囲気を、絵師たちはひそかに意図したのかもしれない。それとも紫式部同様、「たゆたふ心」をもつて描いただらうか。彼らは描くだけでなく、おそらく源氏物語の一流の鑑賞家たることを迫られたであらう。
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 ところで絵巻物は、絵だけの鑑賞に終るものではない。詞書ことばがきが重要な役割を果すことはむろん、そのひらがなの書体が、絵の延長のやうに鑑賞された。
 ひらがなの成立普及とともに、いはゆる連綿体の生じたことはすでに述べた。いくつかの字を一字のやうに連続させながら、流動する美しさを求めたわけで、文字の絵画化が始つた。それが工芸の模様にも影響したことはさきに見たが、歌や物語の場合には、そこに内在するリズムに照準する意味をもつてゐたであらう。
 絵巻物とは、歌物語、絵、書の綜合芸術である。また源氏物語の「綜合」に、「いとど心をつくして、軸、表紙、紐の飾り、いよいよとゝのへ給ふ」とあるやうに、装釘美を求めたこともあきらかである。貴族や女房たちの美的快楽のひとつの極限を示すものであつた。
 書は、九世紀の嵯峨天皇、空海、橘逸勢の三筆、つゞいて十世紀の小野道風、藤原佐理、藤原行成の三跡が最も有名である。かういふ頂点も大切だが、しかし女房たちの手紙、日記とか、筆写した物語の、日常的な書体を無視してはなるまい。
 源氏物語のやうな大長篇を、一字一字筆写した場合など、脱字や誤字や加筆もあつたらうが、物語を読み且つ写すときの呼吸を、如実に伝へるのはひらがなの筆跡である。毛筆はこの点で実に微妙な作用をする。それは女体にふさはしいものであつたらう。
 大部分は消滅したが、物語の伝はる背後に、筆写の時間にこめられた静寂な生のリズムのあつたことを注目したい。語部のやうに、暗記してゐた場合もあつたと思ふ。女房文学の当時における存在の仕方として、忘れてはならないことだ。
 和歌の書としては、西本願寺に伝つた「三十六人集」などが有名である。料紙そのものがすでに芸術品である。贅をつくした装飾ぶり、一種の絵画的効果をねらつた上に、古今集等の歌を書きつらねたものである。歌の意味を知るといふよりは、すでに熟知してゐた歌を、かういふ形において「眺める」、そして楽しむと言つた方がこの場合は適切であらう。
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 藤原的栄華のひとつの特徴は、装飾における、細部への入念な凝りやうにみられる。鳳凰堂や工芸についても述べたが、貴族女房たちの趣味や情感が、いよいよ繊細に、優美の極限を求めたことが、「細部」において理解されるのだ。密教密画の影響もあつたらうが、中世風の「省略の美」とはまさに対蹠的である。
 そして興味ふかいことは、地方の大豪族も新興武士階級も、この「細部」で藤原族に征服されたことである。平家一門と平泉の藤原三代がいゝ例だ。政治的経済的にも、また武力の上でも、彼らは藤原の栄華を覆滅させるくらゐの実力はもつてゐた。しかしこの種の造型美によつて、逆に呪縛された。そして彼らの方が没落して行つたのである。
 藤原の栄華に発した造型美は、自他を陶酔させるとともに、内部崩壊をもたらすやうな一種の魔力をもつてゐたやうだ。たとへば平家納経などに私はそれを感じる。平家一門が厳島神社に奉納した写経である。法華経写経の見返しに、なまめかしい女房の姿などを描き、その上装釘も実に凝つたものである。
 納経は信仰の行為である。信仰のまことを素朴に表現すれば充分なのだ。それを敢へて華美を求めたことは、阿弥陀堂美化の精神に魅了され、呪縛されたことを物語るものである。同時に、源氏物語絵巻の延長線上の最後のかたちと言つてよい。平家一門は、藤原に代つて一時政界の中枢を占めたが、その造型美によつて、またゝくまに征服されてしまつた。

附記


 建築、彫刻、絵画、工芸、書道などについては、私が直接見たときの思ひ出をもととして書いた。しかし源氏物語絵巻など国宝の作品は、博物館などでガラスのケースを通してわづかに垣間見た程度だから完全とは言へない。記憶の薄れてゐるのもある。そこで次の諸文献や美術全集などを参考にした。記して著者に感謝申し上げたい。
秋山光和「源氏物語絵巻について」 伊藤卓治「書風と料紙について」
鈴木敬三「服飾を中心として」 阿部秋生「源氏物語について」
家永三郎「時代の背景」 中村義雄「源氏物語絵巻の詞書の性格」
日本絵巻物全集(角川版) 田中暁美「三十六人集」(日本経済新聞社版)
書道全集(平凡社版)、日本文化史大系(小学館版)
 藤原の造型美の中の典型的なものを私は語つたが、周知の通り範囲は実にひろく、また美術研究諸家の細部にわたる研究はおびたゞしい数にのぼつてゐる。むろん私の能力では出来ないことなので、こゝでは女房文学や浄土教との関係に即し、そこに中心をおいて精神史の一環としてまとめてみた。





底本:「日本の名随筆23 画」作品社
   1984(昭和59)年9月25日第1刷発行
底本の親本:「亀井勝一郎全集 第一七巻」講談社
   1971(昭和46)年11月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2017年10月25日作成
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