家族といふもの

亀井勝一郎




 青年時代に、自我にめざむるにつれて、人は次第に家族から孤立せざるをえないやうになる。自分の友情、恋愛、求道については、両親は必ずしも良き教師ではない。むしろ敵対者としてあらはれる場合が多いであらう。これは家族制度そのものの罪とのみは言へまい。どのやうに自由な家族であつても青年はひとたびは離反するであらう。孤立せんとする精神にとつては、与へられたものはすべて不満足なのだ。これは精神形成の性質から云つて、不可避のことと思はれる。何故なら、精神はその本質上単一性を帯びたもので、いかなる種類の徒党、複数性からも独立せんとする意志であるからだ。そして家族がその最初の抵抗物として意識される。
 強い精神ほど孤立する。たとひ父母への愛を失はなくとも何となくよそよそしい態度をとるやうになる。家族の中の云はば「異邦人」となるのが青年期だ。肉親の理解を得られないとすれば、なほさらのこと孤立する。人間にはじめて孤独感を与へるのはその家族だと云つていゝかもしれない。フランスの或る哲人は、神は人間を孤独にするために妻を与へ給うたとさへ言つてゐる。奇警な言のやうにみえるが、精神はそれが精神であるかぎり、つねに「一」であらねばならぬものであり、「二」の複数はすでに致命的なものである。家族とは精神にとつての一の悲劇にちがひない。
 古来わが国に行はれた「出家」も、宗教的意味をもつのはむろんだが、その単一性の純粋な確保によつて、仏に直結せんとする止みがたい欲求であつたと云へる。自我のめざむるにつれて、青年はすでに「心の出家」を始めたとみてよい。家族への反逆であり、否定であり、破壊である。人は恋を得るとともに、自分の家がもはや自分の家ではないやうに思ふものだ。「家出」の危険は必らず内在するとみてよい。親の愛にとつては堪へがたいことかもしれないが、親もまた一度はこの苦さを経なければなるまい。人間の独立、そのために家族の受ける陣痛のやうなものだから。

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 環境は人を決定するといふ。しかし、人はしかく受動的なものではない。強き意志にとつては、環境はつねに否定され変革されねばならぬものだ。才能あるものは「恵まれた環境」にも安住しない。第一そんなものはありえないと意識する。おそらく一生涯、心の憩ふ場所はないかもしれないのだ。倉田百三の若き日の書簡集「青春の息の痕」を、最近よんでゐて、こんな述懐にぶつかつた。
「私は此の頃はどうも私の両親の家にゐるのがアンイージーで仕方がないのです。両親を親しくそばに見ていると胸が圧し付けられるやうです。私はあなた――母親思ひのやさしい人に申すのは少し恥しいけれど、どうも親を愛することは出来ません。そしてまた母の本能的愛で、偏愛的に濃く愛されるのが不安になつて落ち付かれません。それでおもしろい顔を親に見せることはできず、そのために両親の心の傷くのを見るのがまた辛いのです。」
「私は此の頃熟※(二の字点、1-2-22)出家の要求を感じます。私は一度隣人の関係に立たなくては親を愛することが出来ないやうに思ひます。昔から聖者たちに出家するものの多かつたのは、家族といふものと、隣人の愛といふものとの間にある障礙があるためと思はれます。」
 この書簡をかいた頃(二十三、四歳と推定される)、倉田氏が親鸞をどの程度よんでゐたか明らかではない。「出家とその弟子」の思想は次第に熟しつゝあつたと想像されるが、右の書簡はその感情内容においてかなり親鸞的である点は注目されてよい。「歎異抄」の一節に次のやうな言葉がある。
「親鸞は、父母の孝養のためとて、一遍にても念仏まうしたることいまださふらはず。そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏になりてたすけさふらふべきなり。」
 これは孝養の否定ではない。むしろ孝養に伴ふエゴイズムの否定である。キリスト教に謂ふ「隣人への愛」のために、すべてを父母のごとく愛しようといふ発願に由る。この大いなる仏の愛によつて、父母をも包摂せんといふのである。「我」の愛でなく、「如来」の慈悲による父母への孝養といふ形をとる。したがつて外形的には父母によそよそしいやうにみえるかもしれぬ。キリストがその母マリアを遇した態度もこれに似てゐる。彼は母を「女よ」とよび、「母よ」と親しく呼ぶことはなかった[#「なかった」はママ]
 云ふまでもなく、家族のもつエゴイズムを否定したからである。家族とは求道の最も大きな障礙かもしれない。「隣人への愛」と家族のエゴイズムとは、必ず衝突するであらう。父母や妻子を愛するやうには隣人を愛することは出来がたいのだ。愛のエゴイズムを否定することによつて、自己は家族の只中に孤立するのである。同時に、それが自己のエゴイズムであることも考へねばなるまい。
 すべての宗教は、家族を捨てることを要請する。人として之は不可能であらう。不可能を敢へて為せと迫るのだ。キリストはこれを「狭き門」と名づけた。この絶対至難の要請の前に、人ははじめて自己の無力を知るであらう。そして無力を知ること自身が、信仰の母胎となる。
 考へてみると、人間といふものはふしぎなものだ。愛することによつて家族をつくる。結婚は家族の第一基石である。しかもかうしてつくりあげたものが、やがて自己の桎梏になる。家族といふものは、人間にとつて宿命的な悲劇かもしれない。家族制度の封建性を、政治的に法律的に解決しようと思ひこむのは滑稽ではないか。仮にそれが出来たとしても、家族そのもののもつ桎梏は永久になくならぬであらう。少くとも絶えず独立することを欲する精神にとつては。
 恋愛する男女は、肉親の家を離れて、自らの「家」をつくりあげようとする。そして子を生み、新しい家族をかゝへてまた同じやうな苦しみをくりかへすのである。「家」の問題、「家族」の問題は、人間性にとつては不可避な永久的な悲劇かもしれない。





底本:「日本の名随筆 別巻42 家族」作品社
   1994(平成6)年8月25日第1刷発行
底本の親本:「亀井勝一郎全集 第十四巻」講談社
   1972(昭和47)年5月
入力:大久保ゆう
校正:noriko saito
2018年10月24日作成
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