函館八景

亀井勝一郎




 連絡船に乗つて函館へ近づくと、恵山につらなる丘の上に、白堊の塔のある赤い煉瓦造りの建物が霞んでみえる。トラピスト女子修道院である。やがて函館山をめぐつて湾へ入りかけると、松前の山々につらなる丘の上に、やはり赤煉瓦造の建物と牧場がみえる。これは当別のトラピスト男子修道院である。函館の町を中心にこの二つの修道院をつなぐ半径内が、幼少年時代の私の散歩区域であつた。思ひ出すまゝに、私は最も美しいと思はれた八つの風景を選んでみよう。題して「函館八景」といふ。これは行きずりの旅人にはわからない、函館に住んでみて、はじめて成程と肯れる風景のみである。
 一、寒川さむかはわたし。――函館山の西端、即ち湾の入口にのぞんだところに、寒川といふ小部落がある。こゝは町の西端ではあるが、全く町から孤立して、置き忘れられてゐるやうな淋しい部落である。そこへ行くには穴間あなまといふところを通らねばならぬが、この穴間は高さ五十米ほどの海洞窟なのである。奥行はどれほどあるかわからない。海水は深く紺碧に澄んで、魚類の泳いでゐるのが上からはつきり眺められる。洞窟の中にはかうもりなども住んでゐる。ちよつともの凄い感じのするところだ。波の荒い日など、押し寄せる怒濤の渦巻が洞窟深く流れこみ、また白い牙をむいたやうな泡をたてて吐き出されてくる。洞窟は呻くやうなすさまじい音を発するのだ。
 この洞窟に針がねだけでつくつた釣橋が懸つてゐる。釣橋と云つても橋の体裁はむろんない。上下に併行した二本の太い針がねがわたされてゐるだけで、上の一本につかまって[#「つかまって」はママ]、下の一本を渡るのである。脚下には渦巻く海水があり、頭上には断崖、眼前には深い洞窟が口をひらいてゐる。このわたしを渡つて寒川といふ部落へ行くのである。函館の町の中に、こんな未開のところが一ヶ所残つてゐるのだからめづらしい。真夏など裸体の男達が、この釣橋を渡つてゐるのをみると、ふと南方のジャングルの土人の中に生活してゐるやうな錯覚を起す。私はこの原始の風景を愛した。
 二、旧桟橋の落日。――これは連絡船の発着する大桟橋とは別に、湾内の奥深く、町の中心に直接達しうる小さな桟橋の名称である。私の家から坂を下つて十分も行くと旧桟橋に着く。私は少年時代、夕暮の散歩には必ずこゝを選んだ。その頃は外国貿易も盛んだつたので、各国の船がいつも二三隻は碇泊してゐた。私はこの桟橋の手すりにもたれたまゝ、それら船体の美しい色彩や、国旗や信号旗の色さまざまにひらめくのを、倦かず眺めたものである。少年の異国への夢をはげしく唆つたのも、この桟橋の風景であつた。
 小さなランチやボートや伝馬船が、絶えず発着して、北海道の奥の港からくる旅人達が乗降する。或は外国人達が賑かにやつてくることもある。ロシア革命以前に存在してゐたロシアの義勇艦隊と、カムチャツカ方面から帰来するロシア船の入つてくるときには、殊に賑ひを呈した。ウオツカをあふつたロシアの水兵や漁夫達は、この桟橋へ着くと、手風琴をならしながら輪になつて踊つたものである。帽子の先端に赤い布玉をつけたフランスの水兵もみた。濃い顎鬚を貯へた恐ろしいほど長身のロシア漁夫達が、ソーセージをかじり、ウオツカを飲みながら、腕を組んで歌ひながら上陸してきたこともあつた。
 私はこの桟橋の夕暮をこの上なく愛した。落日の光りが碇泊する船体を鮮かに染め、また桟橋の上に群がる異邦の人々の顔は一層赤く照り輝いて、ちやうどメーキャップして舞台の上にゐるやうであつた。私はいつまでもこゝに立ち止り、異国から渡来する様々の旅人達を、落日の光りのもとに眺めるのを好んだ。鴎がマストをかすめて低く飛び交うてゐる。時々起る汽笛の音、発動機船のポンポンといふ音、人々の叫喚、手風琴、物売りの声、鴎の声、異邦人の体臭、それらがいりまじつて、いかにも港町らしい騒然たる有様だが、また一抹の哀愁といつたものが漂つてゐるやうに感ぜられる。集りやがて別れる旅人達の、肉体がおのづから発散する一種の旅愁でもあらう。
 三、立待岬の満月。――これは函館八景の中でも、おそらく第一の絶景であらう。海峡一面が銀色に輝き、遠く下北、津軽の山々も鼠色にくつきりと浮び上つてみえる。下北半島の尖端、大間崎の灯台が明滅するのもよくわかる。とくに春秋の烏賊つりの盛んな頃は、無数の釣船が海峡に浮ぶのだが、その一つ一つにともしたカンテラの光りが、波の上に点々として、目のとゞくかぎり海峡一面に蛍火が浮んでゐるやうだ。満月の夜の立待岬は実に美しい。私は経験したことはないが、かゝる夜、この岬の上はおそらくランデブーの場所として日本一かもしれない。
 四、教会堂の白楊ポプラ並木。――私の隣りのローマカソリック教会と、その隣りのハリストス教会の間は、道路になつてゐるが、私は幼年の思ひ出があるためでもあらうが、山ノ手のこの静かな道が大好きなのだ。教会の塀に沿うて、大きな白楊が立ち並んでゐる。二つの塔を左右にみながら、西の方向へ少し歩いてもいゝし、また坂道を登つてやゝ小高いところへ出てもいゝ。白楊のあひだから港湾全体を一望のもとに眺めおろすことが出来る。塔と白楊並木との調和を、様々な角度から眺めるのが私の楽しみであつた。ハリストス教会の西隣りには、私が少年時代に通つたメソヂスト派の遺愛幼稚園と日曜学校がある。そこを通るとき、ふと洩れてくるオルガンの音をきくことがあるが、さういふとき一挙に自分の幼年の日が思ひ出される。住み慣れてしまへば、何でもない平凡な場所かもしれないが、私はやはり八景の一つに数へておきたい。
 五、臥牛山頂。――函館山は一名臥牛山といふ。北方正面からみると、ちやうど牛が臥せてゐるやうな形をしてゐるところからこの名称が出来た。臥牛山は高さ三百米ほどで、東海の小島の山であり、函館はつまりその山麓にひろがつた町なのである。この山は明治以来ずつと要塞であつたので、当然登ることは許されなかつた。今度の敗戦で、実に久しぶりで解放されたのである。この山へ登ることは、幼年時代からの私のあこがれであつた。終戦後まだ一度も帰省してゐないので、未だ登る機会はないが、それだけに空想は大きい。今度帰つたら真先に登つてみたいと思つてゐる。
 山頂に立てば、津軽海峡はむろん、松前の山々も、恵山も、横津岳も駒ヶ岳も、町も港も、つまり北海道の南端全体が一望のもとに眺められる筈である。要塞であつたため、自動車道路もひらけ、徒歩では三十分ほどで山頂に達するといふ。将来この山頂には大きな観光ホテルを建てたらいゝ。おそらく日本でも有数な名所とならう。スキー場が開設されたことは最近知つた。祖母達の若い頃には、三十三ヶ所の観音めぐりなどもあつたといふ。函館の人々は、多分いろいろな計画をたててゐると思ふ。あまり俗化させず、しかし歓楽と厚生の施設を完備させたいものである。臥牛山は今や函館人にとつて希望の山となつた筈である。
 六、ホワイトハウスの緑蔭。――これは私の中学生時代の思ひ出であるから、現在はどうなつてゐるか知らない。私の中学校はその頃の郊外で、周囲に白楊を植ゑてゐたので、白楊ヶ丘といつた。隣りは時任といふ牧場で、この牧場をはさんで向方に、メソヂスト派のミッションスクールがあつた。その校長のアメリカ人の住んでゐる建物は、白いペンキで塗られた上品な洋館で、牧場と森の緑をとほしてその白色の館を望むのは、実に美しい異国的な眺めであつた。中学生達は、愛称としてホワイトハウスと呼んでゐたのである。ついでに言ふと、ミッションスクールの女学生達に対する少年のあこがれの象徴でもあつたのだ。私達は、何か神秘なものでも望見するやうに、おそるおそるホワイトハウスを眺めたものである。中学生達は、にやにや笑ひながら、意味ありげにホワイトハウスと云つた。つまりそれが恋愛のはじまりの合図だつたのである。
 この辺の風景は、私の少年時代はたしかによかつた。時任牧場からミッションスクールを経て、競馬場があつたが、その間およそ一里近い間は広々とした草原地帯で、そこには牛や羊が放牧されてある。海岸寄りには砂山があり、砂山を越えて海峡が見わたされた。この砂山の歌は、啄木の歌集にいくつか出てくるので有名である。私は幼少年時代、二三人の友と屡※(二の字点、1-2-22)この辺を歩きまはつた。さきに述べた大森浜に沿うて、砂山に至り、砂山を越えて牧場に至り、緑蔭のホワイトハウスをみながら、更に大草原を横断して湯の川の温泉へ行くコース、これは一里半ほどの快適なハイキングコースである。現在は市に編入され、家もたてこんでゐるので、昔日の面影は次第に薄れてしまつたのではなからうか。
 七、五稜郭の夏草。――五稜郭は名所としてあまりに有名だ。しかし有名なところほど案外面白くないものだ。お堀を渡つてこの城跡に入るところなど至つて平凡なものである。明治維新に築造されたオランダ式の城址だけあつて、その形はめづらしいが、古城といつた深みは感じられない。しかしこの土堤の上を歩きながら、裏側即ち東北方に面してゐる側へ廻ると、わづかながら特殊な情趣を味ふことは出来る。夏草の茂る頃、この裏側の土堤に腰をおろして、三森山から横津岳へつらなる山岳、それから湯の川の丘にあるトラピスト女子修道院などを遙かに望むのが好きであつた。
 人家も田畑も少い。俗に神山かみやまと呼んでゐる方向へ行く疏林の淋しい道、その道にある馬車のわだちの跡など、たゞそれだけの、未だ風景以前の風景とでも云つたやうな原始の情趣を味ふことが出来る。北海道には未だ風景になりきらぬ風景といふものがある。さういふ荒涼とした北海道らしさはこの辺りから始るやうに思はれる。雄大とは云へないが、いかにも未開の寂莫さが感ぜられるのだ。そしてこの思ひを一入深めてくれるのは夏草である。「夏草やつはものどもが夢の跡」といふ芭蕉の句が、北海道で思ひ出される唯一の場所かもしれない。真夏の照る日、わざわざこゝへ出かけるのは酔興ともいへるが、人気のないむんむんする夏草に身を埋めて、寂寥の風景に一人対するのもいゝものである。北海道の大地が、骨髄までしみこんでくるのはかゝる時であらう。
 八、修道院の馬鈴薯の花。――湯の川の丘にある女子修道院の近くへは、幼少の頃から屡※(二の字点、1-2-22)遠足に出かけた。鮫川とよばれる川に沿うて行くゆるやかな道もいゝが、丘から丘をつたはつて、修道院の直前にひらける稍※(二の字点、1-2-22)起伏のある高原に遊ぶのも捨て難い趣があつた。五稜郭裏側の寂莫たる風景に比べると、こゝは高原のせゐもあるためか、からりと晴れた明るさがある。ウイーンの郊外を彷彿せしむるやうな瀟洒な風景である。
 この高原は昔から野生の鈴蘭畑で有名なところだ。小学生の頃は、誰でもそこへ行つて自由に摘みとることが出来たが、後には地主が入場料をとるやうになつて、楽しい思ひはかなりそがれてしまつた。いまはどうなつてゐるか知らない。五月から六月へかけて、私はよく唯一人でこの高原を歩き、鈴蘭の咲き乱れる中に臥し、その香りにつゝまれながら、空高く囀づる雲雀を聞いたものである。またこゝから望見される津軽海峡の流れの美しさはかくべつであつた。立待岬から眺める場合は、太平洋と日本海の双方の流れが横に平行にみえて稍※(二の字点、1-2-22)平板であるが、こゝからは日本海方面のみが望見され、太平洋の方は恵山の山々でさへぎられる。したがつて海峡の流れを縦から見るやうな具合になるので、波の密度が濃く、そのため海の青さが一層青く且つ鋭く光つてゐるやうに感ぜられるのかもしれない。
 この辺りは函館市街の中心からすでに二里以上離れてゐる。人家は殆んどない。幾つかの疏林と鈴蘭畑と普通の畑だけで、それがなだらかに後方の山へ続いてゐる。鈴蘭の可憐さは云ふまでもないが、それにも劣らず私の好きなのは馬鈴薯の白い花である。東京では馬鈴薯の花などに一向気をとめないが、北海道におけるこの花の美しさはかくべつのやうに思はれる。鈴蘭の花は上品で優雅であるが、どことなく箱入娘のごとき弱さがある。女学生に喜ばれさうなセンチメンタルな花だ。しかし馬齢薯の花には健康な田舎乙女の溌溂さと清純さが感ぜられる。これはあくまで処女地の花だ。開拓者の逞しい意志から生れたロマンチシズムの花である。粗野のやうにみえて、決して粗野でない。厚ぼつたい花弁には、健康な女の耳たぼのやうな感じがある。小さな白百合のやうな床しさもある。女子修道院の農場で激しく働いてゐる若い修道女と馬鈴薯の花はどことなく似てゐる。馬鈴薯は花をみせるためでなく、球根のために存在するのだが、みせるためでない花の、その隠れた美しさを私は愛する。





底本:「日本随筆紀行第二巻 札幌|小樽|函館 北の街はリラの香り」作品社
   1986(昭和61)年4月25日第1刷発行
底本の親本:「亀井勝一郎全集 第一四巻」講談社
   1972(昭和47)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:大久保ゆう
校正:noriko saito
2019年1月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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