私は北海道の南端の海辺に育ったので、若いときから山国というものが大へんめずらしかった。
北海道も
はじめてそういう経験をしたのは高校時代で山形であった。
学校を出て、東京に住むようになってから、私は山など殆んど忘れていた。私の住む武蔵野からは、遠く
八※[#小書き片仮名ガ、308-8]岳は、したがって早くから私の眼に
「美術品」となった山の代表は言うまでもなく富士山で、絵画はむろん、床の間の置物やみやげものにまでなって、それだけ俗化したとも言える。広重の富士、北斎の富士、鉄斎の富士、大観の富士、梅原龍三郎の富士と、それぞれの時代を代表する絵画上の名品があるが、富士山はつねに改めて発見されなければ、存在しないということをそれは語っているようだ。俗化すればするほど新しい発見を画家は強いられるだろう。将来どんな形の富士山が絵画の上にあらわれるか、たのしみである。
ところで八※[#小書き片仮名ガ、309-2]岳の方は、未だかつて俗化したことはない。日本アルプスの諸山は有名だが、それに比べて八※[#小書き片仮名ガ、309-3]岳は有名な割合にはもてはやされない。いや、知る人はその名山であることをほめるが、どういうわけか他の諸山に比べると
昨年の八月はじめて八※[#小書き片仮名ガ、309-9]岳へ登った。私は大体登山など考えたこともない人間で、さきに書いたように高校時代に蔵王山へ一度登ったきりである。十七歳のときであったから、昨年の八※[#小書き片仮名ガ、309-11]岳登山は実に三十三年ぶりである。なぜそんな気になったかというと、私の娘や息子達が長野県の先生に誘われて登るという相談を耳にしたので、若いものばかりでの登山は危険だから、私は監督のつもりで行くと言い出したからである。
監督や看護されるのは実は私の方だとは知らなかった。無知とはおそろしいものであり、大胆なものであって、私は登山の苦労など知らなかった。八※[#小書き片仮名ガ、309-15]岳へ登る、あっそうか、では登りましょうぐらいの簡単な考えで、ついて行ったわけである。
案内してくれたのは伊那の中学校の黒田良夫君という若い絵の先生である。あとで聞いたのだが、私が行くというので、あわてたそうである。気軽に登るつもりらしいが、体力は一体どうか。殆んど無経験なのに、一体途中でへたばったらどうしようかと、大変心配してくれたそうである。その結果はよかった。私は一番楽な方法で、登山することになったのである。
八月七日、上諏訪に一泊し、翌朝、
八※[#小書き片仮名ガ、310-12]岳のふもとは、のびのびとひろがっている。登山口も、様々ある。私たちは泉野から上槻の木、そこから
これ以上車が通らないというところまで行って、そこから赤岳のふもとの
私はへたばって皆に迷惑をかけるといけないので、自分の体力と初めての経験である点を考えて、ひとつの提案をした。それは小学生がこの山へ登るに要する時間を、私のためにくれということだ。小学生なみの速度で、大人の二倍乃至三倍の時間をかけて、休み休み、ゆるゆると登るという案がある。
元気な堀内君や息子たちは、先頭に立ってどんどん登ってゆく。私と娘は小学生なみに歩いて、その後に黒田君がついてくるという順で、行者小屋から赤岳をめざして登りはじめた。
樹木のあるあいだは、どんなに急坂でもまだよかった。いよいよ頂上が近くなるにつれ、山肌はむき出しとなり、そそり立った巌石が眼の上と眼の下につづいている。そこまで来ると、恐ろしいやら、心細いやらで足がふるえてきた。
私はこんな凄いところへいきなり連れてこられるとは思っていなかった。およそ二百メートルぐらいの間は、わずかに這い松があるだけで、あとは断崖絶壁である。見上げると赤岳の頂上が巨大な巌石のようにそそり立っている。絶えず霧につつまれたが、その晴れ間には、巨大なこぶしのような
実は、こんな風に私が感じたのであって、それほどの難所ではないのかもしれない。第一はじめての私さえ、どうやら登れるのだから、自分ひとりで恐ろしがったのかもしれない。それに絶えず霧に襲われるので、それがすこしでも晴れかかってくると、脚下の谷は一層深くみえる。そのための恐怖もあったと思う。
堀内君や息子はとうに頂上に達して、上の方から私たちを呼んでいる。私と娘と黒田君が、のそのそと這い上ってゆく。ともあれ頂上は近いのだし、そこへ達したら、やれやれと草の上にでも寝ころんでと思って、勇をこして、遂に頂上に達したのは午後二時頃であったろうか。山頂に立ったと云っても赤岳のてっぺんではなく、
ところがその山頂なるものに驚いた。いかにそそり立った山とは言え、頂上は相当ひろびろしていると思った。ところが巌石の一角に手をかけて、空を走る白雲を眺めながら、いきなり顔を出したとたんに、反対側は忽ち断崖絶壁で向う側へひっくりかえって落ちそうな感じであった。そして、眼下にいきなりひらけたのは松原湖から
午後になると霧は一層深くなって、八※[#小書き片仮名ガ、313-10]岳全体を見渡すことが出来なかったのは残念である。巌をとりまいて疾風のようにからみつく霧の中を、赤岳から横岳を経て、硫黄岳の方へ、山の尾根を縦走した。その夜は、硫黄岳の石室に泊ることになった。暗く狭い石室には三十人ほどの人がつまって、ストーブをたきながら談笑していた。興奮したせいか、食欲はあまりない。夜も熟睡は出来なかったが、早朝四時頃、御来迎がみられるというので皆起き出した。
曇りがちなので朝日の美しさはみられなかったが、雲の幾重にもかさなりあったあいだから、朝日の光りの山頂をくれないに染めるわずかの瞬間を楽しんだ。眼下はるかに松原湖が、白く光ってみえる。夜明けの薄いみどりがもやにつつまれて、全体にヴェールがかかっているような風景である。
八月といっても山頂はさすがに寒い。シャツ一枚でいるとふるえあがるようであった。この日は硫黄岳から天狗岳を経て下山する予定をたてた。午前六時頃に出発したように思う。ただ石室の主人が歓待して早朝からウイスキーを御馳走してくれたので、硫黄岳から天狗岳の方へさしかかる頃は、相当ふらふらしていた。こんな高山を酔いながら歩くのに自分ながら驚いたが、酔眼に映る高山の風景はこの世のものとは思われないほど美しかった。先登に立った堀内君も大いに酩酊して、すこし先へ行くと所かまわず仰向けにひっくりかえって、雲の走る大空を楽しんでいるようであった。
天狗山のあたりには高山植物も多い。とくに、
登山も苦しいが下山も苦しいものだ。天狗岳から黒百合平、夏沢峠を通り、渋温泉まで辿りつく道は、先の赤岳への道のように、険しいというわけではないが、石ころの道はすべりがちであったし、膝ががくがくして、ここでも私は十メートルぐらい歩いては休みながら、一番おくれて渋温泉に辿りついた。先着の堀内君や息子たちは、すでに温泉からあがって涼んでいた。
八※[#小書き片仮名ガ、315-8]岳へ登ってみると、実に変化にとんだ複雑な山だということが改めてわかる。私は親しみにくい、気むずかしそうな山だと言ったが、その理由のひとつは、変化のもたらす神秘感であるらしい。その神秘感をもたらすのは絶えず襲ってくる霧のためであるらしい。油断していると忽ち霧にまかれて、どこへ連れて行かれるかわからぬ。そういう恐怖感をこの山はいつもひそめているようだ。霧は甚だ暗示的なものだ。暗示的であることによって人を迷わせる。
どの山と山を八※[#小書き片仮名ガ、315-14]岳というか、これは地域によってちがうらしいが、西岳、編笠岳、権現岳、阿弥陀岳、赤岳、横岳、硫黄岳、天狗岳等を普通指すらしい。私は八※[#小書き片仮名ガ、315-15]岳の中の半分を縦走したわけである。その中のひとつに登るだけでも大変だ。一つ一つ変化にとんでいる。そしてこれらの山と山とのあいだはすべて深い谷であり、霧が絶えず湧き上っている。
ふしぎなことに、むしろ当然のことと言っていいだろうが、自分の登った山は今度はその近くを通るとき、今までとはちがった親しみをもって眺めるものだ。自分の肉体がその山肌にじかにふれたという実感、つまり山と私との関係がひとつのものとして感ぜられるのである。ただ眺めていたときとはちがうその山の山肌の匂いといったものが、自分の体内に吸収されたという親しみである。
しかし私はくりかえし、あちこちの山へ登りたいとは思わない。登山は私の肉体にとっては相当の苦痛である。やはり遠近から眺めていた方が無事のようにも思われる。ただ八※[#小書き片仮名ガ、316-11]岳の頂上で日本晴れに会わなかったことは残念だ。雲ひとつない時の山上は、おそらく想像を絶した壮観を呈するだろう。八※[#小書き片仮名ガ、316-12]岳の頂上が太陽の光りをうけて輝いたその状景を想像する。とくに夕日をうけた姿はもの凄いだろう。その頂上のひとつに立って、冷い空気を通して、パノラマのような眼下の大風景をみわたしたら、すべての疲れも煩しさも忘れられるだろう。
高山の頂上に立ちたいというのは、人間の本能かもしれない。なんのために登山するのかと問われてもほんとうに好きな人は答えることは出来まい。頂上に立ったときの気持などうまく説明は出来ないだろう。大自然によって、おのずから迫られた無心の状態と言っていいかもしれない。ここちよい疲労の中で、ふと夢でもみている気分と言っていいかもしれない。一歩あやまると忽ち死の深淵に転落するわけだから、死とすれすれに味う最上の快楽とも言える。
人間の快楽の原型と言ったものを私は時々考えるのだが、結局それは登山と水泳であろう。自然の肌に、自分の肌をじかに接触させる一番原始的な喜びがここにある。スポーツという言葉もあてはまらないように思う。自然の一部としての人間という、その原始性を直接的に味うことの出来るいわば生の一番なまなましい実感がここにあるのではなかろうか。そしてどちらの場合も死とすれすれのところで、生ははじめて生であることを深く感じているにちがいないのだ。だから昔の登山や渡海は信仰とむすびついていた。八※[#小書き片仮名ガ、317-11]岳も昔は信仰の対象であり、行者の修行の場であった。