中村梅玉論

大根か名優か

三宅周太郎




 昭和初めに私は文藝春秋社に関係し、そこで第二次「演劇新潮」の編輯主任をし、故菊池寛氏と比較的親しくしてゐた。それ故に菊池氏の一面を知るともなく知つてゐる積りであるが、私は多くの文士の中で、氏の如くその仕事の文芸(演劇をも含む)に冷静な人は珍しかつたと思ふ。或は芸術家でゐながら文芸に離れてゐ、傍観者のやうにしてゐる人は珍しかつたと思ふ。
 これを砕いていふと、文士でゐて氏の如く文芸に惚れてゐなかつた人は珍しいのだ。尤も、氏は常にバアナド・シヨウ風の皮肉と逆説との人だつた。世がこぞつて菊五郎をほめ出した十余年前、氏独り菊五郎に反対したり、常識家でゐながらつむじ曲りであつた。だから凡そ文士の限り、芸術第一なのに、シヨウ流に氏は文士だつて芸術第一でなく、世間人の如く生活第一だつたつていゝだらうといつた態度をとつたのか知れない。でも、結局氏は文士でゐて文芸に惚れない所に、新しさがあり、えらさがあり、更に文藝春秋社なる株式会社社長として非凡な手腕をふるつたわけであらう。即ち、芸術家でゐて芸術の傍観者といへた所が、凡庸な芸術家ではかへつて及ばなかつた「特異」があつたわけになる。氏と比較するのではないが、急逝した中村梅玉も亦芝居に冷静な人だつたと思ふ。半年前某芸能新聞に彼の談話が出てゐたが、それを読むと彼は子供の時は役者が嫌ひだつた。そして今でも芝居より休んでゐる時は孫でもつれて郊外散歩が好きで又映画を遊び半分に見るのが好きだといつてゐた。多くの文士が文学が好きなのと同様凡そ役者の以上芝居が好きなのは義務同然であるのに、梅玉のみ淡々として芝居はさう好きでないといふのは珍しい。その意味で彼は芝居に惚れてゐなかつた人かと思はれる。――
 但し、梅玉がかうした冷淡な芝居の傍観者だつたのは、環境がさうせしめたとはいへる。即ち、彼は先代梅玉にもらはれて養子となつた。所で、先代梅玉はあれ程非凡な中車以上の「脇役の名人」に拘らず、ふだんはその反対で家庭ではこまかく、上方にありがちな大変な節約家で、金をためた人だつたといふ。そこで幼い政治郎時代は相当養父がやかましく、干渉づくめらしかつた。そこへ初代鴈治郎の相手の女形ばかりさせられた。しかも、鴈治郎は高安吸江氏がいふやうに舞台上では「暴君」だつた。だから若い政治郎から福助の彼は、家庭では養父に一々こまかくいはれ、舞台では暴君鴈治郎に攻められたのだ。だから精神も肉体もとても普通では保てるわけがない。……
 その結果、どんな事にもつかず離れずに、よくいへば超然とし、わるくいへば冷静で驚かず動ぜずのいはば冷たい人になつたのではあるまいか。言葉をかへていふと、仕事の芝居でも常に傍観者となり、更に芝居に惚れない人になつたのであるまいか。
 人間は余りこまかく干渉されたり、圧迫されたりすると、生きるためにも逃げ道を作らずにはゐられなくなる。梅玉は若い時から生活と舞台とで板ばさみに重いもので攻められた形があつたのだ。自然、ふわつとして風に柳と受け流す流の、誰にもさう好かれぬ代り、誰にもさう嫌はれぬやうにといつた無個性、無特色を心がけ、それが年々歳々徹底して、晩年には「白湯さゆ」か「水」のやうに淡々とした存在になつてしまつたのかと思ふ。
 それ故に、誰もがいふやうに晩年の彼には凡そ敵がなかつた。各方面で決してわるくいはれなかつた。劇評に於ても同様、不肖の私もさうであつたが、劇評上で彼のやうにさうほめられもしないが、さうわるくいはれない人も珍しかつた。そして芝居をさう好まぬといふ如く、どこか舞台上では芝居の傍観者のやうであつた。そこに菊池氏ではないが珍しい「特異」があつて、結局は芝居に惚れなかつた人だつたと思ふ。
 かういふと菊池氏と梅玉氏とが同一でよく似てゐるかのやうにとれようが、それは単に傾向だけの話であるから誤解をされては困る。即ち、梅玉のさうした芝居に惚れない冷い「特異」を、更に解剖すると菊池氏とは全く別の分子から成り立つのに気がつくからだ。――
 それは永年の亭主役の鴈治郎に原因すると思ふからだ。鴈治郎は舞台では精力絶倫だつた。彼程一所懸命に舞台に精力を傾注し、一生舞台に終始した人は珍しい。舞台に出てゐれば御機嫌で自ら楽しみ、陶酔さへしてゐた。従つて、彼には恐らく芸を投げた事はなく、いつ如何なる時でも舞台は緊張してゐた。それが上方の名優となり、すべて商売熱心な上方人に、その舞台熱心が一層好感を持たれて、あれだけの人気を集めたのだと思ふ。だが、それだけに相手にまはる女房役は実に大変だつたのだ。鴈治郎の稀な精力、異常な精力のはけ口を、その女房役はすべて受けとめ、息を殺してもそのエネルギーは吸収しなければならないのだ。自然、精力絶倫家の相手をする女形は永い間には思はずげつそりとなる。或は去勢されてしまふ。――これは男女の夫婦にもあることだ。亭主が精力絶倫だと、大抵女房はげつそりする。やつれてしまふ。逆に女房が精力絶倫だと、亭主がげつそりし、やつれてしまふわけになるが。……
 彼梅玉は福助時代の三十年近い間、このやうに鴈治郎の精力絶倫に全く圧倒されてゐたのだ。だからうつかりするとその精力で殺されてしまふ危険さへあつたと思ふ。だから彼は生き延びるだけにでも、淡々とし、舞台の傍観者となつて、ふわりと風に柳のやうにしてゐなければならなかつた。
 が、鴈治郎の精力はそれだから納まつたのだ。故雀右衛門は凡そこの福助と反対で、芝居好き、舞台好き、更に精力絶倫で芝居に惚れきつてゐた。それは女形の鴈治郎とすらいへて、舞台に出たがり、仕事に惚れきつた。だから鴈治郎と似たもの同士の同性故に反撥して、この夫婦は円満にいかずに離婚したのだつた。それを福助はふわりふわりと体をかはして、いくらでも鴈の精力の求めに応じたから、鴈は可愛がりすぎる程福助を可愛がつたのであつた。そこが高安氏のいふ暴君でもあつた。
 だが、哀れ福助は永い間にやつれた。げつそりした。その故にこれではたまらぬと芝居に惚れなくなり、芝居の傍観者となり、冷たい芸風になり、更に芝居はあまり好きでないと公言するやうになつたのではあるまいか。――
 これを具体的にいふなら、私は東京育ち同様ながら、彼の若い時代から細く長く見て来てゐる印象を要約すると、彼は鴈治郎の精力絶倫のため、鴈の相手役の小春、梅川、夕霧、吃又のおとく、「こたつ」のおさんに至る迄、鴈との共演物は大部中の出来だ。可もなく不可もなしだつた。芸質としては素直で、器用ではないが新作で見せた勉強ぶりで分るやうに、決して根本は劣等の人ではなかつた。それなのに鴈治郎との芸は殆ど傑作がなかつた。これはさうして目立たずに、無能に近くやらないと、鴈治郎が相手にしなかつたといふのが一般論になつてゐる。併し、それ以上に福助の方でどうやら鴈の精力にげつそりしてしまつたからではなからうか。鴈の絶倫にやつれてしまつて、いくら消極的にせよ、自分の才分を舞台で出せなくなつてしまつたのではなからうか。それは精力絶倫な亭主に、可愛がられすぎた女房が、いつも病身で笑顔を忘れたやうな感じなのではなからうか。
 私がこの見方をするのは、彼が鴈治郎から離れた時意外な傑作を見せてゐる事実があるからだ。晩年国宝扱ひせられた「合邦」の玉手御前も初役は大正六年の浪花座で、これは晩年の誉れを招くだけの彼として初役ながらいゝ出来だつたが、それは鴈治郎が出ない芝居だつた。又、某誌の「延若対談」に述べたが、私が彼のヒットの最初として認めたのは大正元年末南座の「替唱歌時雨の糸」の女房だつたが、これも鴈治郎との共演物ではなかつた。更に、彼の一般の芸の好評は実に鴈治郎と死別し、梅玉と改名してからではないか。即ち、私も亦昭和十六年、歌舞伎座で吉右衛門との「毛谷村」のおそのを見てびつくりした。福助時代にない芸の濃艶と色気とがあつて、年をとつてゐてあの役の処女性すら出してゐたからだ。
 これなど精力絶倫の鴈に別れたからあのつやをとり戻したかと思へた。更に、最終の舞台の二月の戸無瀬が傑作だが、勿論鴈治郎はゐる筈はない。
 これより先き私は谷崎潤一郎氏と菊五郎との座談会へ出た時、谷崎氏は「お国と五平」の梅玉を推賞してゐられた。あの友之丞は先代勘弥第一のヒットで、それは谷崎氏も亦認めてゐられたが、それはそれとして別に梅玉の友之丞のいゝのをいはれてゐた。これも鴈治郎は出てゐない出し物だつた。勿論、東京で神品扱ひのこの頃の玉手、夕霧に死んだ鴈治郎は出る筈がない。
 かう考へてゆくと、私の愚見の彼の一生の傑作は不思議に鴈治郎を離れた場合の芸に多いといへると思ふ。同時に、これは鴈に可愛がられすぎない健康のおかげ、げつそりしないたまもの、やつれない生き生きしたおかげのせゐではなからうか。
 序ながら無駄をいはせて戴くと、私は女性のげつそりが嫌ひだ。やつれが嫌だ。だから私は永年の福助時代のあのかくしきれないやつれ、げつそりが目についたのかと思ふ。そして福助時代に稀に鴈治郎なしでした芝居の、玉手や、「時雨の糸」の女房や、おそのや、戸無瀬が溌剌とし、げつそりしないが故に舞台で傑作と感じたかと思ふ。又それ以外でも福助が東京で人気が出たのは、明治の末新富座で延若と「時雨のこたつ」のおさんをした時に始まる。それ迄に鴈治郎と上京してゐたが、綺麗な素直な芸風の役者と、それこそさうよくもなしわるくもなしの批評を受けてゐたのみだつた。それが仮にも「福助に岡惚れ」と騒がれ出した初めは、実に右の延若との「おさん」だつた。が、これは珍しく延若一座として初めての上京の時だ。そして鴈治郎は出なかつた時だから面白い。鴈と離れた時に傑作を出したとの愚見が敢て独断ではないかと思ふ。
 更に無駄をいはせてもらふと、かくの如き見方が成り立つ以上、世の芝居好きの女性に限つて、お嬢さん、娘さん、きいちやん、みいちやんを問はず、精力絶倫な男性を亭主に持つべからず。そして永久に溌剌とし、生き生きとし、げつそりとなりやつれるべからず。いや、失礼非礼多謝。
 閑話休題。とはいひながら福助は梅玉となつて甦生した。生れ変つた。そして実力以上といつていゝ位好評を博した。私のやうにげつそり嫌ひで、余り彼をほめなかつた者すら、最後の役戸無瀬で完全にフルマークをつけさせたのだから、結局梅玉は非凡な役者だ。と改めて考へ直した。唯福助の三十年の永い間、余りにエネルギー、精力絶倫に攻められて、去勢されたやうな期間が長すぎたのが幸福のやうで不幸だつた。そしてくどくもいふがそのげつそりとやつれとが、「福助は大根」と皮肉屋に錯覚を与へたのではなからうか。
 かうして考へてゆくと、早く養子にいつてこまかくいはれ、稀れな精力絶倫家に可愛がられすぎこれではたまらぬとぼうとしてしまひ、芝居が好きでないといふやうな事をいはざるを得ぬ位、あの人がらと逆な芝居傍観者の冷たい人となつたのも、幼時から梅玉改名迄の六十年間、目立たぬが本当の苦労をしてゐたからの結果と思へぬではない。晩年に精力を回復して好評を博したからいゝやうなものの、考へて見ればその六十年間は、相当人生と舞台との辛酸をなめて来た人なのではなからうか。それは身分のない亭主が大金持になつたものの、その女房には「糟糠さうかうの妻」として一と通りや二通りの苦労ですませてはゐないやうにである。
 だから彼こそ平凡のやうでゐて非凡か知れないのだ。それは大根のやうでゐて大根でなく「名女形」となつたやうにである。その点菊池氏はすべてその文学同様簡単明瞭で、さう表や裏はない。それがどこか似てゐるといつた梅玉は根本は菊池氏の逆で相当複雑かと思ふ。裏や表もあるらしい。従つて、芝居を好まないといひつゝ、やはり相当な芝居好き、芸好きだつたか知れない。さもない限り若い大根時代すら、鴈治郎と出ない時は見事に傑作を見せてゐるなど、あり得べからざる現象だからである。その理由から見て彼も大根のやうでゐて大根でなかつた如く、エネルギーぜめの中で、簡単にいへぬ苦労をし続けてゐた結果から、菊池氏なみの逆説論者となつて、「芝居は嫌ひ」といふやうな事をいつてゐたのではあるまいか。そして本当はやはり芸好き、芝居好きの「芸の鬼」で、「名優」であつたのではあるまいか。





底本:「日本の名随筆 別巻10 芝居」作品社
   1991(平成3)年12月25日第1刷発行
底本の親本:「名優と若手」創元社
   1953(昭和28)年4月
入力:大久保ゆう
校正:富田晶子
2018年1月1日作成
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