沖野鳳亭は文士だった。文壇では先ず中堅どころの作家である。が、それはそれとして置いて、この男の
この非現代的な弱い性格の沖野鳳亭に対して、竹中格之進も住谷良子も、常々から彼を

で、このような沖野鳳亭であったからには、大それた殺人などということは、容易に決心の出来るものではなかった。それは、後に述べるような素晴らしい殺人方法をひょいと思付いたればこそである。といって、それを思付く前にも、ここで竹中を亡き者にすれば、今度こそ自分もテキパキと、良子を自分のものにして見せるがなあと、薄々ながらそんな風に思わぬでもなかった。それに就いてはこの
「や、しかしだね。これで案外沖野君などが人殺しをやりかねないぜ」
沖野はその時ギョッとした。そしてすぐと何か適切なことをいわなければいけないと思いながら、いつものように顔を真赤にして、口を無暗にもぐもぐさせた。
「あら、どうして? まさか沖野さん、そんな方じアありませんわねえ」
良子がそんな風にいってくれたが、すると竹中は
「オヤオヤ良子さん、そんな言い方をしてはいけませんよ。まさか沖野さんだなんて、そのまさかが何だかへんじゃありませんか。幾分かは肯定の意味が入ってますよ」
「だって――」
「ほら、そのだってというんだってへんでしょう。ハッハハハハ。いや、失敬々々、何も僕は君がほんとうに人殺しをやるっていうのじゃないさ。ただ、沖野君のような
後で考えれば、この時竹中は良子と二人で何処かへ行くという約束でもしていて、それで沖野がいつまでも彼等の仲間に加わっていたのを、内心じれじれとしていたのかも知れなかった。しかし沖野は、その無礼極まる相手の言葉を、どう返事していいかひどく困った。
「ハッハ、そうかねえ。だ、だが、この僕にも何処か犯罪者に特有な容貌でもあるのかい。え、どこにそんなものがあるのだね、額かい、それとも顎の辺かい?」
可哀相にも、沖野はわざとおどけた眼付をして、自分の顔のあちらこちらを押えて見せた。そしてそのおどけた顔が、自分自身、泣くように引き歪められていることを知っていたのだった。
そこで、沖野鳳亭が後になってふと思付いた殺人方法というのが、こうである。一口にいうと、竹中格之進は一匹の猫を飼っていた。マミイという名で、美しい
それは何でもひどく蒸し暑い日のことであった。沖野は竹中を訪ねて行って、竹中の寝室からは
「あ、いけない!」
と叫んでオブエクトグラスを
「この頃、
その言い方が妙に仔細あり気に聞えたので、訳を訊ねると竹中は答えた。
「なにね、マミイの奴が来て
竹中は硝子製の小さな容器を指し示した。横に貼り付けられたレッテルには、Tenanus facillen と書いてあった。
「何だねこれは?」
「うん、破傷風菌だ。こいつの
「傷口から感染するんだね」
「そうだよ、こいつにやられると、先ず大抵は絶望だ。殊にね、この病気の患者にとって一番不幸なことは、恐ろしい強直発作が来た時にね、患者の意識が至極明瞭だということなのだ。医者の方では何とかいっているが、発作が来ると、患者は泣笑いのような顔になって、頭と
「苦しいんだね」
「苦しいとも! こいつにやられては、どんなに我慢強い男でも、ヒーヒーといって泣き喚く、それが又、聞くに堪えない悲鳴なのさ」
その時はこれだけの会話で済んでしまった。が、間もなく沖野は、自分の下宿の一室で、ひょいとこの会話を思出して、我知らずゾクンと頸を縮かめた。
破傷風に
実をいうと、この方法は何も彼が有頂天になって喜ぶ程、それ程に珍らしいものではなかった。パリの近郊で起った事件だが、犯罪学の泰斗として有名なベルチロン氏もこれに関係している。スファン・ラルセンという男があって、その弟のヤルクというのが、兄ラルセン夫妻を、殆んど同じような手段で殺しているのだ。その事実譚を沖野がよしんば知っていたにしたところが、彼は多分この折角思付いた方法を、むざとは思切ることが出来なかったであろう。見たところでは、
ただしかし、沖野は前にもいった通り、人並外れて気の小さい、病的と思われる位に心配性な男だった。それで、いよいよ本気になってその実行を考えることになると、それに関連して種々の事柄を克明に
まさか練習をするわけにも行かなかったが、ここで断って置かなければならないのは、彼といえども、実際にマミイを使おうと思ったのではなかった。出来ることならそうしたかったのだが、
実行の時期、及び破傷風菌をいかにして手に入れるかということ、これは事実上沖野が最も苦心したところであった。訪問した時に、そっと菌の培養器を盗んで来て置いて、例えば適当な夜に竹中家の門の傍にでも潜んでいる。そして通りかかった竹中の手をぐいと引掻いてから、逃げ出してしまう。というようなことも考えて見たが、それではどうも
梅雨が
もっとも、彼は常々庭の方からじかに竹中の書斎を訪れていた。だから、無論この場合にしても、もし途中で誰かに
竹中家は、
「いえね、何だか螢のようなものが光ったんですよ。――竹中君はおりますか」
こんな風にいったらいいだろう。螢だなんて
庭は暗くて、
竹中のところへ、今、住谷良子が訪ねて来ているのだった。蹲んだ腰を半分ばかり伸ばして見ると、良子は竹中の寝室で、こちらへ
「持って来ましたよ、これでいいでしょう」
竹中のこういったところを見れば、良子はもうずっと前からここへ来ていて、竹中は母家の方へ、何かを取りに行って来たらしい。沖野は、竹中の顔を見ると同時に、ドキリとして再び蹲み込んでしまったけれど、腹の底から、むらむらと嫉妬の情が湧いて来るのをどうしようもなかった。
昼間、彼がここへ来ていた時には、竹中はそうした素振を少しも見せず、それに今思出して見ると、夜は何か研究上のことで非常に忙しいなどといっていた。それが、こうして良子と楽しそうに語らっているのだ。
見ていると、そのうちに突然竹中が室の中で立上った気配だった。そしてツカツカと窓へ近づき、庭に面した窓を一つ一つ引き下ろし始めたのである。
「あら、そんなことをして暑いわよオ」
良子がこういった。それはあのような上品なところのある良子の口から、どうして出たかと思われる位に、
「ア――」
低く押えつけるように叫んで、良子は弓のように身を
それから後一時間余り、沖野が
途中で、彼は思わずドタリと音を立てて、窓の下へ滑り落ちた。が、いい工合に、内ではそれに気付かなかったらしい……。
「……オヤオヤ、もうこんな時間になりましたかねえ」
ふと、こういう竹中の声が聞えたのは、それから
「マミイちゃん、さあ、
と気のせいか、わざとよそよそしい良子の声もした。
この時になって、ようやく沖野はハッと気を取り直すことが出来たのである。彼は
「ね、心配しないで下さいよ。多分、
良子は黙り込んでいたが、その耳へ竹中は優しくこんな風に囁きながら、ビクビクしている沖野の
「今に見ていろ!」
沖野は相変らず藪の蔭に潜みながら、
で、なおもじっと様子を窺っていると、
「あ、お母さんでしたか――」
すぐに竹中の声がした。
そしてそれからやや長いこと竹中と母親とが低い声で話し込んでいた。少しも聴き取ることは出来なかったが、多分、竹中と良子との結婚問題であろうと思った。
「じアね、このことはあなたが上手にやらないといけませんよ」
はっきりとこういう声がした。話が満足に済んだものらしい。が、沖野にとっては、その次に聞えて来た簡単な会話が、つーんと鋭く胸へ響いた。
「ええ、大丈夫ですよ」
と竹中は答えて、それから追いかけるように言葉を継いだ。「あ、それからねえお母さん、済みませんけれど、誰かにそういって
「珈琲なんぞ飲んで、夜が余計眠れないのじアないですか」
「いいえ、いいんですよ。飲んでも飲まないでも眠れないことは同じです。だから薬を飲んで眠るんですが、そうすると朝まで何も知らずに眠ります」
「薬だって矢張り毒でしょうに」
「大丈夫ですとも。毎日やるのじアないのですから――」
声の調子では、母親は母家への廊下口に立ち、竹中は室の窓の近くにいる様子であった。が、沖野の耳には竹中の薬を飲んで眠るという言葉だけが、はっきり残った。
寝室へ忍び込むのは、いかにも冒険に過ぎた気味があって、彼はそれまでなかなか決心が付かずにいた。けれども、竹中は今夜、何も知らずにぐっすりと眠るのだ。そこへ忍び込むのは、何の雑作もないことではないか。
窓の外にこうした恐ろしい考えを抱いた人間がいるとも知らず、やがて母親はそこを立去って行った。五分ばかり経って、女中が珈琲茶碗と、水を入れたコップらしいものを運んで来た。沖野は、窓に映った影によって、竹中が果して何かの丸薬を嚥むのを見た。
それでも息を殺して、沖野は時間の経つのを待っていた。竹中は、その後一度研究室へ入って来て、軽く口笛を吹きながら電燈を消した。沖野にとって、更に好都合なことには、窓が一ヶ所、
――彼は約一時間ばかりの後、靴下だけになって竹中の寝室へ忍び込んだ。室内は案外暗かったが、手探りで研究室との境の
そして竹中の寝台へ近づくと、この時はマッチを擦ることは
ビクリとしたが、その音は一寸何の音だか分らなかった。
「あ、そうか、マミイの奴だな――」
だが、マミイは、それっきり室の隅へでも行ったと見えて、音一つ立てなかった。竹中も眼を覚まさなかった。
無事に、彼はその寝室を脱け出したのである。爪は、下宿へ帰る途中で、通りがかりの
翌朝、沖野鳳亭が目覚めた時は、午前十時を過ぎていた。
目覚めるとすぐに、昨夜のことを思出したが、頭の中で一応、何か手抜かりはなかったかと考えて見た。何も手抜かりは無かったらしい。彼は割合に落着いて、遅い朝飯を済ますことが出来た。いつも自信のない彼としては、
「だが、結果はどんな風に行っただろう。あれだけに苦心して、しかも奴が破傷風に罹らなかったとすれば――」
大胆に今日はこちらから出向いて、その結果を確かめて見たいように思った。が、流石にそれ程の勇気はなかった。そしてその代りに、お昼頃から図書館へ行った。
「伝染後、四日乃至十四日間にして発病し僅かの前駆症として云々――」
という風に書いてある。今朝になって竹中が手の甲の傷痕に気が付いて、すぐと消毒してしまうのではないか。マミイが培養器へ脚を突込んだことを発見すれば、当然消毒をするだろう。とすれば、折角の苦心が水の泡になってしまうが――。
又しても、結果を確かめに行きたくなったが、その日はようやく我慢してしまった。そして翌々日の朝、この時はもうすっかり諦めたような気持で、彼は到頭竹中を訪ねて行った。と、事実は意外にも彼の企みが成功していたのである。行って見ると、竹中家には
「どうしたのです?」
一生懸命で平気を装いながら、彼は竹中の弟に訊ねて見た。
「破傷風なんです。昨夜の十時頃に発病して、もう少し前に駄目になりました」
弟は答えた。ふいに腹の底へ何かがドキリと突き当ったような気持だった。奇妙にも、成功したことが
「まあ、沖野さん!」
その室へ這入って行くと、
「沖野さん、あなたがいらっしったのは一昨日でございましたね。あの時は、あんなに元気だったのに――」
沖野がしどろもどろに
「爪の痕はどうしたのだろう?」
誰もそれをいわないので、彼は内心で非常に
それから後のこまごましたことは、余り
下宿へ引き上げて三時間近く、その間に竹中家で何が起っているかを心配しいしい、沖野はじっと考えに
死体が母家の方へ移されたというので、今度は沖野は母家の玄関から這入って行った。が、彼が恰度玄関の式台を上ろうとした時であった。
彼はギョッとしてそこへ
殆んど真正面に、良子がマミイを抱いて
「
こう叫ぼうとした口を辛くも
「さあ、どうぞ」
途端に、竹中家の親戚らしい人がこういってくれて、彼はホッと胸を
すぐに、奥の方から香の煙がただよって来たのであった。
「どうも実に突発的な災難ですねえ」
いかにも
「や、私は
差出された名刺には、弁護士という肩書が付いていた。誘われるままに、沖野は俵弁護士と一緒に洋館の方の応接室へ行った。それと一緒に、他にも二人ばかりの弁護士が、扇子で頻りに胸の
母家には多くの見舞客がいたのに対し、こちらは大変に静かだった。
俵弁護士は、応接室の隅にあった煽風機にスイッチを入れて、それからゆったりと籐椅子に腰を下ろした。一緒に来た二人の紳士は、それと少しく離れて、書棚から取出した写真帳の頁を繰り始めた。
「葉巻はいかがです?」
俵弁護士は慣れ慣れしく葉巻などを勧めて、自分でも、
「失礼ですが、あなたは故人の御友人だったのですかね」
「ええ、そうです」
ふいに、沖野は不気味な感じがした。が、俵弁護士は、元気そうな顔に、人の好い微笑を浮べている。
「あなたも驚かれたでしょう?」
「全くです。破傷風だなんて――」
「何しろ恐ろしい病気ですね。あんな奴に罹られては
だが、どうして伝染したのかと、それを訊ねようとしながら躊躇していると、俵弁護士が恰度いい工合に切出してくれた。
「ですがあなた、どうしてあんな奴が伝染したか、これをあなたはどう思います」
「さア、……一向訳が分りませんね。先刻、竹中君の弟さんにも一寸訊いて見たのですが……」
「先刻ってのは?」
「三時間ばかり前に、僕は一寸ここへ顔を出したんです。何もこんなことがあるとは知らなかったのですが……」
「そうでしたか。や、しかし、実はもう分っていますよ。これァね――」
俵弁護士は、ここで急に声を低くした。
「最初はほんとうに訳が分らなかったんです。何しろ、女中の奴がいけませんよ」
「え、女中?」
「女中なんです。名前を忘れてしまいましたがね、昨日の朝のことだそうです、その女中が七時か八時頃に、故人の寝室へ這入って行きましてね。ええ、前夜
「というと?」
「お分りになりませんか」
「え、いや、ど、どういう意味なんでしょうか」
「故人が常々から、その扉のことを非常に気にしていたのだそうです。
廻りくどい俵弁護士の説明が、ようやく沖野にも呑み込めて来た。が、そこで彼は、なおも白ばっくれることを忘れなかった。
「へええ、そういう訳だったのですか。しかし、結局のところは、それでどんな経路をとったんでしょう」
「それがですね、実は猫のやった仕業だというんです」
「え?」
「ほら、ここには猫が飼ってあったでしょう。あの猫が夜のうちに破傷風菌の壺の中へ脚を突っ込んで、それから故人の手頸を引掻いたという訳なんです。調べて見ると、成程、傷痕がありましてね、え、それがその今言ったような訳で、迂闊には迂闊だが、故人が目覚めた時には扉がちゃんと閉まっていて、まさか、猫がそんなことをしたのだとは思わない。それで碌に消毒もせずに外出してしまったんです。もっとも結婚問題が起っていた時でもあるし、その方へひどく気を
ここまでいわれて見れば、沖野は完全に自分の勝利であるのを知った。
「なるほど、そうでしたか」
といって、この時彼は、さもさも思い出したように言い添えた。
「そうそう、そういうと僕も思出しましたよ。竹中君がいっておりましたっけ。猫が研究室の方へ這入ると大変だなんて――」
「へへえ、すると余程心配するにはしてはしていたんですねえ」
「そうらしかったですよ。用心していながら到頭やられたというものでしょう。夜のうちに、扉が開いていたもんだから、猫の奴が這入って行ったんですな」
「多分、そんなようなところでしょう――」
俵弁護士は、この時ひょいと口を
「あ、ですがね、一寸
「な、なんです?」
「
「さア――」
と答えて沖野は、めまぐるしく思案を廻らした。向うでは何気なしにいっているようであるが、これはなかなか重大な質問だった。
ここで扉が
「待って下さいよ」と沖野はいった。「そういえば一昨日僕はここへ来て午後中一杯いたんですがね、そうでしたよ、あの時にも扉がひょいと開いてしまいましてね」
「ほう、それでどうしました?」
「どうもしやアしませんが、竹中が急いでそれを閉めましたっけ。そして、把手の工合が悪くって困るとかいいましたっけ」
「一昨日ですね?」
「ええ、一昨日です。一昨日の昼間そういうことがあって。それから夜になって猫が研究室へ這入って行った――」
だから、分りきっているではありませんか、と口にこそ出さね、沖野は内心得意であったが、次の瞬間彼はぶるっと身を顫わしたのである。この時俵弁護士が、何故か非常に意味あり気な笑を、その小鼻の
俵弁護士は突然席を離れて、先刻から写真帳を眺めていた紳士の傍へ行き、何かひそひそと囁いた。そして再び沖野の真向いに坐った。
「失礼しました。いえ、ふいに思い付いたことがあったのです。――が、ところで沖野さん、あそこにおられるのは、実は警察の方なんでしてね、今、気になったものだから伺って見ると、実に妙なことをいうんです。猫がやったんじアない、とこういっておられるのです」
「………………」
「変でしょう! 私もね、これはどうも理屈に合わんことだと思うのですが、そうですね、その前に一通り、私のしたことをお話しましょう。私が今日ここへ来たのは午前十時半頃のことでした。そうそうあなたが一度帰られた、それと入違いぐらいなものなんです。が、そこでだんだん医者などに訊ねて見ると、どうも訳が分らないというんでした。故人の右の手の甲には猫の爪痕が付いているし、それにその時は、先刻お話したようなことを女中が申立てた時でしてね、それじア明かに猫の仕業だろうと、私がまあ頑張ったわけです。私だってすぐに気が付きましたからね。扉が夜の間に
再び俵弁護士の言葉は廻りくどくなって来た。沖野は一言も口を挿むことが出来なかった。あア、到頭俺は、何か
俵弁護士は言葉を続けた。
「で、そう頑張っては見たのですが、どうしても私の説は通りません。何故といえば、丁度そこにおられた住谷良子という婦人が立派な証言をしているのです。この婦人は一昨夜ここへ来て故人と夜十時頃まで何か話をしておられたのですが、その帰る時まで故人の手の甲には、傷痕などはなかったといいます」
「だから、その帰った後で――」消えるような声で、ようやく沖野がいった。
「ハッハ、そうでしたね。誰にしても考えることは同じものです。私もそう思いましたよ。だが、矢張りそれでもいけませんでした。マミイという猫は、当夜、ここの家におりませんでした」
「え?」
「その婦人が、バスケットへ入れて、その上を又風呂敷で包んで、帰る時一緒に連れて行ってしまったんです。もっとも、それはその婦人の妹さんが猫を写生したいといったので、二日ばかり借りて行ったのだそうですがね」
言われてハタと思い出したのは、当夜良子が片腕に抱えて行った四角な嵩張った品物だった。アア、だがそれにしても、自分が竹中の寝台へ近づいた時、軽く音を立てて床へ落ちたのは何であったか? マミイがいなかったとすれば、あれは読みかけの新聞か何かであったのか?
沖野は、眼の前が突然真暗になった気持だった。
選びに選んで、自分が最も
「駄目だぞ、落着け。恐ろしい瀬戸際にいるのだぞ」
彼は自分で懸命にそう言聞かせた。
が、今大変な破目に立至ったことを思えば思う程、自分でも分る位に
反対に俵弁護士は、益々ゆっくりと喋り出した。
「で、そんな事情になって来ましたので、私も考え方を変えざるを得ませんでした。そのうちには、医者がマミイの爪を調べましてね、幸いここには必要な器具がすっかり揃ってはおりましたし、結局は、マミイの爪に菌が少しも附着していないということが分ったんです。私がそれからどうしたと思いますか?」
「分りませんよ、僕には」
無愛想にこういって、沖野は俵弁護士から顔をそむけるようにした。
「オヤ、どうしました。大変に気分がお悪いようですが」
「いえ、な、なんともないです」
「ああ、そうですか。じアもう少しお話しを致しましょう。そこで私がふと思出したことがあったのでした。というのは、かつてフランスにもこれと同じような事件がありましてね。破傷風菌で二人まで殺人を犯した奴があるんです。私はてっきりそれと思いましたよ。それから又一方にはですね、こうして他殺の疑いが起って見れば、勢い犯人は誰かということになるのですが、日本にも昔からの
ポツリと俵弁護士は言葉を切った。
そして僅かに二三十秒間黙っていただけであったが、沖野にはそれが途方もなく長い感じであった。
「で、私がそっとこちらから観察していますと、まあその中では、あなたが一番著しい反応を示したという訳でした」
「それアしかし、そんなことで何も――」
「ええ、そうですとも!」俵弁護士は答えた。
「何もそれだけであなたを私が犯人だと決めた訳ではありません。今だって犯人だと思ってはいません。けれども、ほら、あちらにおられる方が、先刻から私に向って頻りに合図をしておられるのです。あなたが一番有力な容疑者だというのですよ」
ほんとうにそんな合図があったのかどうかは分らない。が、その時紳士の一人は弁護士の耳へ小声に何かくどくどと囁いた。弁護士はそこで又喋り出した。
「沖野さん、どうも私も困ってしまったのですがねえ、ところで、もう一つだけ質問をさせて戴きたいのです。例の扉の一件ですが、先刻あなたは故人が扉の把手について、何か苦情を
「え、それは、いいました」
「そしてそれが一昨日のことだったのですね」
「………………」
「違いますか。こういう場合に、答が曖昧だということは大変に
「そ、そうです――」
いけないとは思ったが、もう仕方がなかった。
そして、だが一昨日であっては何故それがいけないのだろう?
「そうでした、一昨日でした」
この声がなろうことなら相手に聞えてくれねばよいと思いながら、彼は咽喉の奥でこういった。そしてこの時、何故か彼は、一匹の奇妙な生物が、強力な
同時に又、二人の紳士が、スッと立上って自分の傍に擦り寄るのを、視野の外れにチラリと見た。
「そうですか。それじアもう仕方がありませんが、しかし沖野さん、これはどうも益々困ったことになりました。何故というに、あの扉の把手は、今日からは四日前、つまり事件の起った一昨日からは二日前に、立派に修繕をしてあったのです。亡くなった故人は、今度は大変に工合がよくなったといって喜んでいたそうです。あなたの言葉と対照して、どこかに間違いのあることはお分りでしょう。ねえ、いかがです。何故こんな間違いが出来たものか、無論これはあなたが嘘を吐いておられるんですね。そして、その嘘はいったい何のためでしょうか。いけなかったですねえ沖野さん――」
少しも嘘をいう必要のないところで、沖野は真赤な嘘をいったのだった。何か言おうとしたけれども、唇が硬ばって自由にならなかった。頬の筋肉をピクピクと痙攣させただけで、ぐったりとそこへ
「ああ、しかしこのことはですね、これから警察の方へ行っても調べられるでしょう。だから、そこまでまあ弁明をして見るのですね」
最後に、俵弁護士はこう言った。
が、その言葉は沖野の耳に、何かザワザワとしている街の中の囁きのように、或は又、壁越しに隣家から聞える蓄音機のように妙に微かに響いて来たのであった。
× × ×
当局の手にかかってから、沖野は他愛もなく
それについて、俵巌の語ったことがある。
「しかしあれは、なかなか巧妙な犯罪でしたよ。幸に自白させることは出来ましたがね、それというのも、犯人が案外素直な男だったからよかったのです。偽の爪が出て来た今日となっては、無論もう動かせない自白にはなっていますが、もしそれ前にでも自白を
(「文学時代」昭和四年八月号)