大下宇陀児





 沖野鳳亭おきのほうていが何故竹中格之進かくのしんを殺さねばならなかったか、その根本の理由に就いては、出来るだけ簡単に述べて置く。このものがたりの主な目的が、実は沖野鳳亭の選び出した奇妙な殺人方法及びそれがどんな結果になったかということ、その二つを説明するのにあるからなのだ。そして又一方では、殺人の動機そのものが余り珍らしいものでもなく、それを詳しく述べ立てていた日には読者諸君が或は退屈してしまうかも知れぬのだ。要するに沖野と竹中との二人は、住谷良子すみやよしこという女を愛していた。女はしかし竹中の方により多くの好意を寄せていた。そこで、沖野が竹中を殺そうと思い立ったのだった。
 沖野鳳亭は文士だった。文壇では先ず中堅どころの作家である。が、それはそれとして置いて、この男のっている大きな特徴というのは、妙に気が弱くて、だから又正直であるということだった。人殺しでもしようという男が、気が弱くて正直だというのは、少しばかり変に聞えるかも知れない。が、それはほんとうのことである。彼は自分の創作を発表しても、誰かが賞めてくれるまでは、少しも自信をてない男であった。なかなか勉強家でもあったので、時には何か素晴らしい文学上の問題などを見付け出す。が、彼はいつもそれを自分一人の胸の中へそっとしまい込んでしまって、文学論などは一度も発表したことがない。その文学論のうちに、どんなに些細な一ヶ所でも、他から揚足あげあしを取られるようなことがあってはならない。とそればかりをくよくよ心配する。事実又、稀に友人の誰彼と議論などを闘わしても、彼はその途中で相手から何か一寸したロジックの誤りを指摘されると、もうそれだけで狼狽の極に達し、顔を真赤にして支離滅裂なことを云い出してしまう。結局は、大綱から観て明かに正当な彼の説も、表面上では見事に相手からし潰される。そういったような人柄で彼はあったのだ。
 この非現代的な弱い性格の沖野鳳亭に対して、竹中格之進も住谷良子も、常々から彼を蔑視みくびっていたことは確かである。竹中格之進は、大学出身の理学士だが、相当富豪であるのを幸に、今は別に何処へ勤めるでもなく、自分の家に研究室を造って、道楽に細菌学の研究などをやっている。もとからの友達なので、その竹中の家へ時々沖野が遊びに出掛けるという訳であったが、その頃、新進のピアニストとして大分有名になりかかっていた住谷良子を、最初に知ったのは沖野だった。ふとしたことから知合ったので、それから二三度会ううちに、沖野は激しく良子を恋するようになった。が、それにしても彼は例の気弱いたちで、容易にその恋を打明け得なかったのである。シネマを観に行ったり散歩をしたり、幾度か機会には恵まれながら、もし万一にも拒絶されてしまったらと、沖野はそればかりを先きに心配し、ネチネチと煮え切らぬ態度しかとれなかった。もっともそれには、住谷良子が蠱惑的なうちにもどこか上品なところもあって、迂闊うかつには近づき難い気もしたのであるが、そのうちに沖野が竹中を紹介すると、良子はたちまち竹中の中へ引き付けられて行ったのだった。もっと前に、自分が思切って打明けていたらなアと、流石さすがに彼とても思うには思う。が、それはもう後の祭りで仕方がなかった。そして、このような臆病者の常として、彼はその後もおめおめと竹中と良子とに交際つきあっている。三人で肩を並べて銀座通などを散歩する。――だが、表向きは彼等の恋を祝福するような顔をしていて、一人っきり淋しく下宿へ戻って来ると、堪まらない自己嫌忌の情に襲われたり、又は良子の美しい弾力のある姿態をそれからそれへと脳髄の中へ描き出し、不思議な情熱のやり場に※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがき苦しむ。到頭、惨めな敗北者になってしまったのだった。
 で、このような沖野鳳亭であったからには、大それた殺人などということは、容易に決心の出来るものではなかった。それは、後に述べるような素晴らしい殺人方法をひょいと思付いたればこそである。といって、それを思付く前にも、ここで竹中を亡き者にすれば、今度こそ自分もテキパキと、良子を自分のものにして見せるがなあと、薄々ながらそんな風に思わぬでもなかった。それに就いてはこのものがたりに少し関係のある挿話エピソードもあるので、ついでにそれを述べて置くが、沖野がその決心を抱くようになったより二三週間ばかり前のこと、彼等三人はその時何気なく犯罪に関する、雑談を交していた。が、やがてその雑談もぼつぼつ終り際になった時、竹中は最後の結論をでも与えるかのように、ふと次のようにいったのである。
「や、しかしだね。これで案外沖野君などが人殺しをやりかねないぜ」
 沖野はその時ギョッとした。そしてすぐと何か適切なことをいわなければいけないと思いながら、いつものように顔を真赤にして、口を無暗にもぐもぐさせた。
「あら、どうして? まさか沖野さん、そんな方じアありませんわねえ」
 良子がそんな風にいってくれたが、すると竹中は揶揄からかうようにニヤニヤした。
「オヤオヤ良子さん、そんな言い方をしてはいけませんよ。まさか沖野さんだなんて、そのまさかが何だかへんじゃありませんか。幾分かは肯定の意味が入ってますよ」
「だって――」
「ほら、そのだってというんだってへんでしょう。ハッハハハハ。いや、失敬々々、何も僕は君がほんとうに人殺しをやるっていうのじゃないさ。ただ、沖野君のような穏和おとなしい人が、案外真面目に人殺しなんかを計画するんじゃないかと思うのだね。ねえ、そうじゃないかしら、沖野君――」
 後で考えれば、この時竹中は良子と二人で何処かへ行くという約束でもしていて、それで沖野がいつまでも彼等の仲間に加わっていたのを、内心じれじれとしていたのかも知れなかった。しかし沖野は、その無礼極まる相手の言葉を、どう返事していいかひどく困った。
「ハッハ、そうかねえ。だ、だが、この僕にも何処か犯罪者に特有な容貌でもあるのかい。え、どこにそんなものがあるのだね、額かい、それとも顎の辺かい?」
 可哀相にも、沖野はわざとおどけた眼付をして、自分の顔のあちらこちらを押えて見せた。そしてそのおどけた顔が、自分自身、泣くように引き歪められていることを知っていたのだった。


 そこで、沖野鳳亭が後になってふと思付いた殺人方法というのが、こうである。一口にいうと、竹中格之進は一匹の猫を飼っていた。マミイという名で、美しいなめらかな白い毛と、金色のまん丸い眼玉とを有っている。そして竹中はこの猫を非常に可愛がっていて、夜は自分の寝室の隅へ寝かして置いてやったのだが、沖野はそのマミイに竹中を引っ掻かせようと考えたのだった。
 それは何でもひどく蒸し暑い日のことであった。沖野は竹中を訪ねて行って、竹中の寝室からはドア一つで往来ゆきき出来るようになっている、書斎兼研究室の中で、何やかや話し込んでいたのであったが、その時、顕微鏡のオブエクトグラスをいじりながら、しきりに沖野の話に合槌あいづちを打っていた竹中は、ふと、寝室からの扉が開いたままになっているのに気が付くと、
「あ、いけない!」
 と叫んでオブエクトグラスをほうり出し、吃驚びっくりする程の音を立てて、扉をバタンと閉めてしまった。
「この頃、把手とっての工合が悪くなっていていけないんだよ」
 その言い方が妙に仔細あり気に聞えたので、訳を訊ねると竹中は答えた。
「なにね、マミイの奴が来て悪戯いたずらをして困るんさ。ほら、ここにはこんな恐ろしい奴があるのだからね」
 竹中は硝子製の小さな容器を指し示した。横に貼り付けられたレッテルには、Tenanus facillen と書いてあった。
「何だねこれは?」
「うん、破傷風菌だ。こいつの集落コロニーをマミイの爪にでも喰付くっつけられたら、どんなことになるかも知れない。間違って君でも引掻いたものなら助からないぜ」
「傷口から感染するんだね」
「そうだよ、こいつにやられると、先ず大抵は絶望だ。殊にね、この病気の患者にとって一番不幸なことは、恐ろしい強直発作が来た時にね、患者の意識が至極明瞭だということなのだ。医者の方では何とかいっているが、発作が来ると、患者は泣笑いのような顔になって、頭とかかととだけで弓のように反ってしまう。汗をだらだらと流して、とても見てはいられないそうだ」
「苦しいんだね」
「苦しいとも! こいつにやられては、どんなに我慢強い男でも、ヒーヒーといって泣き喚く、それが又、聞くに堪えない悲鳴なのさ」
 その時はこれだけの会話で済んでしまった。が、間もなく沖野は、自分の下宿の一室で、ひょいとこの会話を思出して、我知らずゾクンと頸を縮かめた。
 破傷風にかからせれば、苦もなく竹中を殺してしまえる。しかも、マミイにそれをやらせれば、誰も自分を疑う者は無い。簡単明瞭、実に素晴らしい方法ではないか。
 実をいうと、この方法は何も彼が有頂天になって喜ぶ程、それ程に珍らしいものではなかった。パリの近郊で起った事件だが、犯罪学の泰斗として有名なベルチロン氏もこれに関係している。スファン・ラルセンという男があって、その弟のヤルクというのが、兄ラルセン夫妻を、殆んど同じような手段で殺しているのだ。その事実譚を沖野がよしんば知っていたにしたところが、彼は多分この折角思付いた方法を、むざとは思切ることが出来なかったであろう。見たところでは、すべてがおあつらえ向きに出来ていたのである。
 ただしかし、沖野は前にもいった通り、人並外れて気の小さい、病的と思われる位に心配性な男だった。それで、いよいよ本気になってその実行を考えることになると、それに関連して種々の事柄を克明に按排あんばいし考慮して見ねばならなかった。こうしたことは、その実行の途中だとか、又は実行後にでも、予想外なことが一つでも起ってくれては困るのである。殊に彼は、自分自身至って気の弱いことを知ってもいるので、もしそんなことがあれば、忽ち自分は、必要以上に狼狽するということをひどくおそれた。数学の公式みたいに、キチンと順序をてて置いて、その通りにやって行かなければならぬと思った。順序が組立てられたなら、なるべくそれを一応練習して見るのもいい。そして練習の結果、少しでも危険だと思ったら、又新しい順序をて直す。その練習も失敗したら、今度は仕方がないから中止してしまう。出来ることなら、実際練習をやって置きたいと思った。
 まさか練習をするわけにも行かなかったが、ここで断って置かなければならないのは、彼といえども、実際にマミイを使おうと思ったのではなかった。出来ることならそうしたかったのだが、生物いきもののマミイは自由にならない。マミイの爪へ培養器中の破傷風菌を塗るにしても、その際自分の手へ傷を付けられては大変だった。それで彼は、後になって、それがマミイの仕業としか見えないような手段を選ぶことにした。猫の爪に似せたものを作って、それで竹中の露出している手なり脚なりを引掻くのである。その偽の爪へどうにかして菌を塗り付けて置けばよいのだった。滑稽にも、この際猫が人間と同じように喋れぬということ、これが沁々しみじみと彼には有難く思えた。マミイが全部の罪を背負うのである。彼は相当の太さの針金を見付けて来て、下宿の蒲団の中に潜り込み、根気よくやすりこすって、猫の爪型を五本作った。その爪を、長さ五寸ばかりの手頃な棒に、一本ずつ、根元を火鉢で焼いて植え込んだ。小さな熊手のようなものが出来上ったのである。
 実行の時期、及び破傷風菌をいかにして手に入れるかということ、これは事実上沖野が最も苦心したところであった。訪問した時に、そっと菌の培養器を盗んで来て置いて、例えば適当な夜に竹中家の門の傍にでも潜んでいる。そして通りかかった竹中の手をぐいと引掻いてから、逃げ出してしまう。というようなことも考えて見たが、それではどうも心許こころもとない。慾をいえば、竹中が破傷風にかかった後、すぐにマミイの仕業だと分るようにしたかった。それには、培養器の方へも、マミイが脚を突っ込んだ形跡あとを作りたいし、何かと困難な点が多かった。が、幸か不幸か、そのうちに彼は、願ってもない機会を掴むことが出来たのである。


 梅雨ががって、これから熾烈しれつな夏になろうとしていた或る日のこと、沖野はその日の昼の間、殆んど午後中一杯を竹中の家で過ごしたが、夜になると、今度はこっそりと竹中家の庭へ紛れ込んだ。ポケットには、例の爪を忍ばせて、いい機会でもあったらと、実はそれをうかがうつもりであった。
 もっとも、彼は常々庭の方からじかに竹中の書斎を訪れていた。だから、無論この場合にしても、もし途中で誰かに出会でっくわしたら、何気なく訪問して来たような態度を装うつもりであった。そして、この夜は誰にも姿を見られなかった。彼はやがて、寝室と研究室とがすぐ鼻の先きに見える、大きな躑躅つつじ藪蔭やぶかげへこっそりとしゃがみ込んでしまったのだった。
 竹中家は、母家おもやが日本風でそれに鍵の手なりに喰付くっついた、竹中の研究室と寝室と、もう一つ応接間だけが洋館になっていた。母家の方には、竹中の母親と弟妹と、そして女中や書生がすまっている。沖野がそこへ行った時は、恰度八時頃であったので、その母家ではラジオに聴き入っている様子であった。彼はそのラジオの音にも耳をくばり、又、誰かが庭へ出て来やあしないかとも注意していた。もし跫音あしおとが聞えたら、すぐに躑躅の藪蔭から全身を現わし、声をかけられてもまごつかないようにしようと思った。
「いえね、何だか螢のようなものが光ったんですよ。――竹中君はおりますか」
 こんな風にいったらいいだろう。螢だなんて下手まずいかな、いやいや、季節が梅雨の後なのだからそう不自然には聞えまい。何喰わぬ顔でそういって、そのまますぐと研究室のドアへ近づいて行くことにしよう――。
 庭は暗くて、しゃがんでいると、蚊がしきりと手や顔を襲って来た。靴下を透かして刺す奴もある。彼はその蚊を追い払うのに最初のうち一生懸命であったのだが、しかしそのうちに意外な事実に気が付いた。
 竹中のところへ、今、住谷良子が訪ねて来ているのだった。蹲んだ腰を半分ばかり伸ばして見ると、良子は竹中の寝室で、こちらへはすっかいに顔を向けて、何か一心に読んでいるのだった。青い色の薄物を着た胸から上だけが見えるのだが、俯向うつむいた白いうなじにウエイヴをかけた髪がぼかしたように垂れかかり、それが妙になまめかしく、沖野の眼には粘りつくような感じであった。思切って立上って見ると、何か読んでいると思ったのは実は良子が椅子に腰をかけて、その膝へマミイが乗っているのであった。が、その途端に、こちらからは反対側の、母家へ通じた扉がスッと開いて、竹中の姿が現れた。
「持って来ましたよ、これでいいでしょう」
 竹中のこういったところを見れば、良子はもうずっと前からここへ来ていて、竹中は母家の方へ、何かを取りに行って来たらしい。沖野は、竹中の顔を見ると同時に、ドキリとして再び蹲み込んでしまったけれど、腹の底から、むらむらと嫉妬の情が湧いて来るのをどうしようもなかった。
 昼間、彼がここへ来ていた時には、竹中はそうした素振を少しも見せず、それに今思出して見ると、夜は何か研究上のことで非常に忙しいなどといっていた。それが、こうして良子と楽しそうに語らっているのだ。
 見ていると、そのうちに突然竹中が室の中で立上った気配だった。そしてツカツカと窓へ近づき、庭に面した窓を一つ一つ引き下ろし始めたのである。
「あら、そんなことをして暑いわよオ」
 良子がこういった。それはあのような上品なところのある良子の口から、どうして出たかと思われる位に、こびを含んだ甘え切った声であった。沖野は、ハッと痛痒いたがゆいような悩ましさを感じた。窓は曇硝子ガラスになっていたので、竹中に続いて、良子が同じようにその窓際へ近づいて来る姿が映った。竹中は窓を開けさせまいとし、良子はそれを開けようとする。二度三度、二人の肩や腕がもつれ合ったかと思うと、突然竹中が良子を抱きすくめた。
「ア――」
 低く押えつけるように叫んで、良子は弓のように身をらした。が、その巧妙な、ステイジダンスのように次第に反らして行った姿態を、ゆらりと元へもどすと同時に、しなやかな腕がながながと伸びて、固く竹中の首にからみ付いてしまった。沖野がじっと息を詰めているあいだ、二人の影はぴったりと吸い付いたまま動かなかった。
 それから後一時間余り、沖野があじわった種々の感情は、どういって現わしていいか分らない。気付いてみると、竹中は完全に窓を引下したのではなかった。一つの窓の下框したがまちしきいとの間が一寸ばかり開いている。沖野は無暗にカーッと上気してしまった。粘っこい唾をみ込み嚥み込み、彼はその窓框まどかまち守宮やもりのように獅噛しがみ付いた。それは阿片の夢に誘い込まれた、いとも奇怪なフィルムでしかなかったのだが……。
 途中で、彼は思わずドタリと音を立てて、窓の下へ滑り落ちた。が、いい工合に、内ではそれに気付かなかったらしい……。
「……オヤオヤ、もうこんな時間になりましたかねえ」
 ふと、こういう竹中の声が聞えたのは、それから少時しばらく経った後であった。続いて、
「マミイちゃん、さあ、っこ」
 と気のせいか、わざとよそよそしい良子の声もした。
 この時になって、ようやく沖野はハッと気を取り直すことが出来たのである。彼は狼狽あわてて、以前の藪へ身を隠した。室の内ではそれからなお二十分近く、何かごとごとしていたが、間もなく庭に向ったドアが開かれた。身仕舞を済ました良子を、竹中が送って行くのである。良子は、片腕に一寸嵩張かさばった四角な風呂敷包を抱いていたが、いている方の腕は、並んだ竹中の肩と、じれ合う位に近づけていた。
「ね、心配しないで下さいよ。多分、明日あす明後日あさってのうちには、僕の方からお宅へ伺いますよ」
 良子は黙り込んでいたが、その耳へ竹中は優しくこんな風に囁きながら、ビクビクしている沖野のかたわらを通り抜けて行った。そしてやや少時しばらくして、竹中だけがそこへ帰って来たのだった。
「今に見ていろ!」
 沖野は相変らず藪の蔭に潜みながら、り場のない忿懣ふんまんを、こうでも呟いて見るより仕方がなかった。
 で、なおもじっと様子を窺っていると、四辺あたりは一寸の間しーんと静まりかえっていた。が、やがて誰かが竹中の寝室へ這入って来た気配だった。
「あ、お母さんでしたか――」
 すぐに竹中の声がした。
 そしてそれからやや長いこと竹中と母親とが低い声で話し込んでいた。少しも聴き取ることは出来なかったが、多分、竹中と良子との結婚問題であろうと思った。
「じアね、このことはあなたが上手にやらないといけませんよ」
 はっきりとこういう声がした。話が満足に済んだものらしい。が、沖野にとっては、その次に聞えて来た簡単な会話が、つーんと鋭く胸へ響いた。
「ええ、大丈夫ですよ」
 と竹中は答えて、それから追いかけるように言葉を継いだ。「あ、それからねえお母さん、済みませんけれど、誰かにそういって珈琲コーヒーを拵らえさせてくれませんか。今日は頭をひどく使ってしまって――」
「珈琲なんぞ飲んで、夜が余計眠れないのじアないですか」
「いいえ、いいんですよ。飲んでも飲まないでも眠れないことは同じです。だから薬を飲んで眠るんですが、そうすると朝まで何も知らずに眠ります」
「薬だって矢張り毒でしょうに」
「大丈夫ですとも。毎日やるのじアないのですから――」
 声の調子では、母親は母家への廊下口に立ち、竹中は室の窓の近くにいる様子であった。が、沖野の耳には竹中の薬を飲んで眠るという言葉だけが、はっきり残った。
 寝室へ忍び込むのは、いかにも冒険に過ぎた気味があって、彼はそれまでなかなか決心が付かずにいた。けれども、竹中は今夜、何も知らずにぐっすりと眠るのだ。そこへ忍び込むのは、何の雑作もないことではないか。
 窓の外にこうした恐ろしい考えを抱いた人間がいるとも知らず、やがて母親はそこを立去って行った。五分ばかり経って、女中が珈琲茶碗と、水を入れたコップらしいものを運んで来た。沖野は、窓に映った影によって、竹中が果して何かの丸薬を嚥むのを見た。
 それでも息を殺して、沖野は時間の経つのを待っていた。竹中は、その後一度研究室へ入って来て、軽く口笛を吹きながら電燈を消した。沖野にとって、更に好都合なことには、窓が一ヶ所、先刻さっきの通り、細く開いたままになっているのであった。
 ――彼は約一時間ばかりの後、靴下だけになって竹中の寝室へ忍び込んだ。室内は案外暗かったが、手探りで研究室との境のドアを苦もなく開けた。マッチで照らして見ると、例の培養器はすぐと眼に付いた。その中へ爪を突込んで、いかにも猫のしたように、わざとそれを覆えして置いた。それは固形のゼラチン培養器であったので、実験台の上へ、二三片の小さな破片を落し、それを棒の一端に作って置いた猫の足跡に似せた部分で、ぐいと押し潰して置くことも忘れなかった。
 そして竹中の寝台へ近づくと、この時はマッチを擦ることはしにして、暗い中をじっと瞳をらしているうちに、竹中が右手を掻巻かいまきの外へ突き出しているのを認めた。その手の甲を、一思いにぐいと引掻いた。竹中は、ムニャムニャといって寝返りを打った。途端に寝台の端から、パサリと軽く音がして下へ落ちたものがあった。
 ビクリとしたが、その音は一寸何の音だか分らなかった。
「あ、そうか、マミイの奴だな――」
 だが、マミイは、それっきり室の隅へでも行ったと見えて、音一つ立てなかった。竹中も眼を覚まさなかった。
 無事に、彼はその寝室を脱け出したのである。爪は、下宿へ帰る途中で、通りがかりの溝泥どぶどろの中へ捨ててしまった。


 翌朝、沖野鳳亭が目覚めた時は、午前十時を過ぎていた。
 目覚めるとすぐに、昨夜のことを思出したが、頭の中で一応、何か手抜かりはなかったかと考えて見た。何も手抜かりは無かったらしい。彼は割合に落着いて、遅い朝飯を済ますことが出来た。いつも自信のない彼としては、まことに不思議な現象でもあったのである。
「だが、結果はどんな風に行っただろう。あれだけに苦心して、しかも奴が破傷風に罹らなかったとすれば――」
 大胆に今日はこちらから出向いて、その結果を確かめて見たいように思った。が、流石にそれ程の勇気はなかった。そしてその代りに、お昼頃から図書館へ行った。迂闊うかつなことではあるが、彼は破傷風について、まだ詳しく調べてはないのであった。臨床細菌学だとか通俗医学辞典だとか、そんなものを借り出して見た。それによると、大体は竹中がかつて語ったようなものであったが、ただ一つだけ、この病気にも一定の潜伏期間があるということを知って、それが一寸気になった。
「伝染後、四日乃至十四日間にして発病し僅かの前駆症として云々――」
 という風に書いてある。今朝になって竹中が手の甲の傷痕に気が付いて、すぐと消毒してしまうのではないか。マミイが培養器へ脚を突込んだことを発見すれば、当然消毒をするだろう。とすれば、折角の苦心が水の泡になってしまうが――。
 又しても、結果を確かめに行きたくなったが、その日はようやく我慢してしまった。そして翌々日の朝、この時はもうすっかり諦めたような気持で、彼は到頭竹中を訪ねて行った。と、事実は意外にも彼の企みが成功していたのである。行って見ると、竹中家にはあわただしい気分がみなぎっていた。廊下を書生や女中が小走りに歩き、竹中の寝室には、母親を初めとして医者が二人もやって来ていた。
「どうしたのです?」
 一生懸命で平気を装いながら、彼は竹中の弟に訊ねて見た。
「破傷風なんです。昨夜の十時頃に発病して、もう少し前に駄目になりました」
 弟は答えた。ふいに腹の底へ何かがドキリと突き当ったような気持だった。奇妙にも、成功したことがかえって情ないようにさえ思われた。同時に、大きな不安がむくむくと頭をもたげて来たのでもあった。
「まあ、沖野さん!」
 その室へ這入って行くと、最先まっさきにこういって声をかけたのは、まなこを泣きらした竹中の母親だった。既に、死体になってしまった竹中の枕頭まくらもとに、母親と、それから良子もそこへ来ていたのである。
「沖野さん、あなたがいらっしったのは一昨日でございましたね。あの時は、あんなに元気だったのに――」
 沖野がしどろもどろにくやみをいうと、母親は泣き声でこんな風に云った。そして、死体にかけてあった白い布を取り除けて、竹中の死顔を見せようとした。沖野は、チラリとそれを見ただけで、すぐに視線を外らしてしまった。その視線の先きに、石のように黙って椅子へ腰をかけている良子の顔が、何故か、きっと自分を睨みつけているように思われた。
「爪の痕はどうしたのだろう?」
 誰もそれをいわないので、彼は内心で非常にあせった。竹中の右手の甲を見たかったが、それは毛布の中で、型の如く合掌させてある風であった。死体の置いてある寝台から少し離れて、二人の医者が小声で何か話している。それに訊ねようかと思って、しかし迂闊に自分からいい出してはならぬことに、気が付いた。
 それから後のこまごましたことは、余り管々くだくだしくなるから省略するとして、沖野はそこに小三十分いた後に、一旦下宿へ引き揚げた。もう一度気を落着けてから出直したいと思ったのである。そしてその小三十分の間には、例の竹中の弟からまだ破傷風伝染の経路がはっきりしていないということだけを、辛くも訊き出した。すぐにも分りそうなものなのに、何故分らずにいるのだろう! 彼は不審の念に駆られながら、押し切って訊ねることも出来なかった。
 下宿へ引き上げて三時間近く、その間に竹中家で何が起っているかを心配しいしい、沖野はじっと考えにふけっていた。一番気にかかるのは、病気伝染の経路が分らないということであった。好ましいことではないが、場合によっては自分がそれをうまく発見しなければならぬ。怪しまれないようにするにはどうすればよいか。彼は、小説を作る時のように、口の中でいろいろの言葉を用意した。そして午後一時頃再び竹中家へ出向いて行った。この時、竹中家へはもう沢山の見舞客が詰めかけて来ていて、彼はそれらの客人のうちに、検事とか刑事とかいうようなものがいるのではないかと、ビクビクもので見廻した。幸にしてそれらしい姿もない。――
 死体が母家の方へ移されたというので、今度は沖野は母家の玄関から這入って行った。が、彼が恰度玄関の式台を上ろうとした時であった。
 彼はギョッとしてそこへ立停たちどまった。
 殆んど真正面に、良子がマミイを抱いてたたずんでいたのだった。
ッ! 危い」
 こう叫ぼうとした口を辛くもつぐんだ。これはこの瞬間、一種の錯覚であったのである。マミイの爪に、恐ろしい破傷風菌が附着しているように思ったのだった。
「さあ、どうぞ」
 途端に、竹中家の親戚らしい人がこういってくれて、彼はホッと胸をで下した。
 すぐに、奥の方から香の煙がただよって来たのであった。


「どうも実に突発的な災難ですねえ」
 いかにも闊達かったつらしい四十年配の一人の紳士が、なにげない調子で、沖野鳳亭に話しかけたのは、それから間も無くの後である。
「や、私は俵巌たわらいわおという者でして、こちらへは前から御懇意にしていたのですよ。いかがです、あちらへ行って一息抜いて来ませんか」
 差出された名刺には、弁護士という肩書が付いていた。誘われるままに、沖野は俵弁護士と一緒に洋館の方の応接室へ行った。それと一緒に、他にも二人ばかりの弁護士が、扇子で頻りに胸のあたりあおぎながら随いて来た。
 母家には多くの見舞客がいたのに対し、こちらは大変に静かだった。
 俵弁護士は、応接室の隅にあった煽風機にスイッチを入れて、それからゆったりと籐椅子に腰を下ろした。一緒に来た二人の紳士は、それと少しく離れて、書棚から取出した写真帳の頁を繰り始めた。
「葉巻はいかがです?」
 俵弁護士は慣れ慣れしく葉巻などを勧めて、自分でも、甘美うまそうにポカポカとい出した。
「失礼ですが、あなたは故人の御友人だったのですかね」
「ええ、そうです」
 ふいに、沖野は不気味な感じがした。が、俵弁護士は、元気そうな顔に、人の好い微笑を浮べている。
「あなたも驚かれたでしょう?」
「全くです。破傷風だなんて――」
「何しろ恐ろしい病気ですね。あんな奴に罹られてはかないません」
 だが、どうして伝染したのかと、それを訊ねようとしながら躊躇していると、俵弁護士が恰度いい工合に切出してくれた。
「ですがあなた、どうしてあんな奴が伝染したか、これをあなたはどう思います」
「さア、……一向訳が分りませんね。先刻、竹中君の弟さんにも一寸訊いて見たのですが……」
「先刻ってのは?」
「三時間ばかり前に、僕は一寸ここへ顔を出したんです。何もこんなことがあるとは知らなかったのですが……」
「そうでしたか。や、しかし、実はもう分っていますよ。これァね――」
 俵弁護士は、ここで急に声を低くした。
「最初はほんとうに訳が分らなかったんです。何しろ、女中の奴がいけませんよ」
「え、女中?」
「女中なんです。名前を忘れてしまいましたがね、昨日の朝のことだそうです、その女中が七時か八時頃に、故人の寝室へ這入って行きましてね。ええ、前夜吩咐いいつけられていたのを忘れたので、故人の古いパジャマを洗濯に出そうとして行ったのだそうです。が、そこで行って見ると、寝室と研究室との境のドアが半分ばかり開け放したままになっていました。女中は吃驚びっくりしてそれを閉めたのだそうです」
「というと?」
「お分りになりませんか」
「え、いや、ど、どういう意味なんでしょうか」
「故人が常々から、その扉のことを非常に気にしていたのだそうです。確乎しっかり閉め切って置くべき扉だったのです。それで扉を閉めてから、又思い付いて研究室の方へも行って見ると、実験台の上がひどく乱雑になっておりました。よせばよいのに、女中がその辺を綺麗に片附けてから帰ったのです。つまり。そのために、故人も注意を怠ってしまったし、後になって、容易に伝染の経路が分らなくなったという訳でした」
 廻りくどい俵弁護士の説明が、ようやく沖野にも呑み込めて来た。が、そこで彼は、なおも白ばっくれることを忘れなかった。
「へええ、そういう訳だったのですか。しかし、結局のところは、それでどんな経路をとったんでしょう」
「それがですね、実は猫のやった仕業だというんです」
「え?」
「ほら、ここには猫が飼ってあったでしょう。あの猫が夜のうちに破傷風菌の壺の中へ脚を突っ込んで、それから故人の手頸を引掻いたという訳なんです。調べて見ると、成程、傷痕がありましてね、え、それがその今言ったような訳で、迂闊には迂闊だが、故人が目覚めた時には扉がちゃんと閉まっていて、まさか、猫がそんなことをしたのだとは思わない。それで碌に消毒もせずに外出してしまったんです。もっとも結婚問題が起っていた時でもあるし、その方へひどく気をられてもいたのですがね。発病したのは外出先きから帰って来てから間も無くだそうです」
 ここまでいわれて見れば、沖野は完全に自分の勝利であるのを知った。
「なるほど、そうでしたか」
 といって、この時彼は、さもさも思い出したように言い添えた。
「そうそう、そういうと僕も思出しましたよ。竹中君がいっておりましたっけ。猫が研究室の方へ這入ると大変だなんて――」
「へへえ、すると余程心配するにはしてはしていたんですねえ」
「そうらしかったですよ。用心していながら到頭やられたというものでしょう。夜のうちに、扉が開いていたもんだから、猫の奴が這入って行ったんですな」
「多分、そんなようなところでしょう――」
 俵弁護士は、この時ひょいと口をつぐんで、パチパチと眼をしばたたいた。何か気になった様子である。
「あ、ですがね、一寸に落ちないこともありますね」
「な、なんです?」
ドアです。扉が開いていたっていうことなんですがね。それ程用心深くしていたものが、どうして扉を開け放しにして寝たんでしょうか」
「さア――」
 と答えて沖野は、めまぐるしく思案を廻らした。向うでは何気なしにいっているようであるが、これはなかなか重大な質問だった。
 ここで扉が自然ひとりでに開いたのだということを説明せねばならぬのだった。かつての蒸し暑かった日のこと、竹中は、扉の把手の工合が悪いといった。そうだ、一昨日おとといは自分がここに来ていたし――。
「待って下さいよ」と沖野はいった。「そういえば一昨日僕はここへ来て午後中一杯いたんですがね、そうでしたよ、あの時にも扉がひょいと開いてしまいましてね」
「ほう、それでどうしました?」
「どうもしやアしませんが、竹中が急いでそれを閉めましたっけ。そして、把手の工合が悪くって困るとかいいましたっけ」
「一昨日ですね?」
「ええ、一昨日です。一昨日の昼間そういうことがあって。それから夜になって猫が研究室へ這入って行った――」


 だから、分りきっているではありませんか、と口にこそ出さね、沖野は内心得意であったが、次の瞬間彼はぶるっと身を顫わしたのである。この時俵弁護士が、何故か非常に意味あり気な笑を、その小鼻のあたりに刻んだのだった。
 俵弁護士は突然席を離れて、先刻から写真帳を眺めていた紳士の傍へ行き、何かひそひそと囁いた。そして再び沖野の真向いに坐った。
「失礼しました。いえ、ふいに思い付いたことがあったのです。――が、ところで沖野さん、あそこにおられるのは、実は警察の方なんでしてね、今、気になったものだから伺って見ると、実に妙なことをいうんです。猫がやったんじアない、とこういっておられるのです」
「………………」
「変でしょう! 私もね、これはどうも理屈に合わんことだと思うのですが、そうですね、その前に一通り、私のしたことをお話しましょう。私が今日ここへ来たのは午前十時半頃のことでした。そうそうあなたが一度帰られた、それと入違いぐらいなものなんです。が、そこでだんだん医者などに訊ねて見ると、どうも訳が分らないというんでした。故人の右の手の甲には猫の爪痕が付いているし、それにその時は、先刻お話したようなことを女中が申立てた時でしてね、それじア明かに猫の仕業だろうと、私がまあ頑張ったわけです。私だってすぐに気が付きましたからね。扉が夜の間に自然ひとりでに開いたのではないか、とこういって見たのです」
 再び俵弁護士の言葉は廻りくどくなって来た。沖野は一言も口を挿むことが出来なかった。あア、到頭俺は、何か過失あやまち仕出来しでかしてしまったのではないか。この俵という男がそれを嗅ぎ付けて、ネチネチと俺を追いつめているのだ。だが、何だ、何が俺の過失あやまちだったのだ?
 俵弁護士は言葉を続けた。
「で、そう頑張っては見たのですが、どうしても私の説は通りません。何故といえば、丁度そこにおられた住谷良子という婦人が立派な証言をしているのです。この婦人は一昨夜ここへ来て故人と夜十時頃まで何か話をしておられたのですが、その帰る時まで故人の手の甲には、傷痕などはなかったといいます」
「だから、その帰った後で――」消えるような声で、ようやく沖野がいった。
「ハッハ、そうでしたね。誰にしても考えることは同じものです。私もそう思いましたよ。だが、矢張りそれでもいけませんでした。マミイという猫は、当夜、ここの家におりませんでした」
「え?」
「その婦人が、バスケットへ入れて、その上を又風呂敷で包んで、帰る時一緒に連れて行ってしまったんです。もっとも、それはその婦人の妹さんが猫を写生したいといったので、二日ばかり借りて行ったのだそうですがね」
 言われてハタと思い出したのは、当夜良子が片腕に抱えて行った四角な嵩張った品物だった。アア、だがそれにしても、自分が竹中の寝台へ近づいた時、軽く音を立てて床へ落ちたのは何であったか? マミイがいなかったとすれば、あれは読みかけの新聞か何かであったのか?
 沖野は、眼の前が突然真暗になった気持だった。
 選びに選んで、自分が最もわるい機会を掴んだことをはっきりと知った。見る見る、足下の床が崩れ落ちて、自分は、暗い深淵へ真逆様に墜落して行くように思われた。
 おそれていた、予期以外のことが、唐突だしぬけに起ってしまったのである。
「駄目だぞ、落着け。恐ろしい瀬戸際にいるのだぞ」
 彼は自分で懸命にそう言聞かせた。
 が、今大変な破目に立至ったことを思えば思う程、自分でも分る位に狼狽あわて始めた。
 反対に俵弁護士は、益々ゆっくりと喋り出した。
「で、そんな事情になって来ましたので、私も考え方を変えざるを得ませんでした。そのうちには、医者がマミイの爪を調べましてね、幸いここには必要な器具がすっかり揃ってはおりましたし、結局は、マミイの爪に菌が少しも附着していないということが分ったんです。私がそれからどうしたと思いますか?」
「分りませんよ、僕には」
 無愛想にこういって、沖野は俵弁護士から顔をそむけるようにした。
「オヤ、どうしました。大変に気分がお悪いようですが」
「いえ、な、なんともないです」
「ああ、そうですか。じアもう少しお話しを致しましょう。そこで私がふと思出したことがあったのでした。というのは、かつてフランスにもこれと同じような事件がありましてね。破傷風菌で二人まで殺人を犯した奴があるんです。私はてっきりそれと思いましたよ。それから又一方にはですね、こうして他殺の疑いが起って見れば、勢い犯人は誰かということになるのですが、日本にも昔からのことわざがあります。犯罪の陰には女があるっていう奴です。種々事情を訊き合せて見ると、さしづめ注意しなくてはならぬのが例の住谷嬢です。よくは分りませんが私は住谷嬢に頼んで、玄関口にたたずんでいて貰いましたよ。猫を抱かせたのですが、それは、もし心当りのある人が来れば、住谷嬢と猫との両方でもって、きっと、何かの反応があるだろうと思ったのです」
 ポツリと俵弁護士は言葉を切った。
 そして僅かに二三十秒間黙っていただけであったが、沖野にはそれが途方もなく長い感じであった。
「で、私がそっとこちらから観察していますと、まあその中では、あなたが一番著しい反応を示したという訳でした」
「それアしかし、そんなことで何も――」
「ええ、そうですとも!」俵弁護士は答えた。
「何もそれだけであなたを私が犯人だと決めた訳ではありません。今だって犯人だと思ってはいません。けれども、ほら、あちらにおられる方が、先刻から私に向って頻りに合図をしておられるのです。あなたが一番有力な容疑者だというのですよ」
 ほんとうにそんな合図があったのかどうかは分らない。が、その時紳士の一人は弁護士の耳へ小声に何かくどくどと囁いた。弁護士はそこで又喋り出した。
「沖野さん、どうも私も困ってしまったのですがねえ、ところで、もう一つだけ質問をさせて戴きたいのです。例の扉の一件ですが、先刻あなたは故人が扉の把手について、何か苦情をこぼしていたといわれましたね」
「え、それは、いいました」
「そしてそれが一昨日のことだったのですね」
「………………」
「違いますか。こういう場合に、答が曖昧だということは大変によろしくないことなんですが、先刻は私が念を押して置いた筈でしたね。そうしてあなたは、繰返して一昨日だと仰有おっしゃったのでしたね」
「そ、そうです――」
 いけないとは思ったが、もう仕方がなかった。
 そして、だが一昨日であっては何故それがいけないのだろう?
「そうでした、一昨日でした」
 この声がなろうことなら相手に聞えてくれねばよいと思いながら、彼は咽喉の奥でこういった。そしてこの時、何故か彼は、一匹の奇妙な生物が、強力な係蹄わなに締めつけられて七顛八倒している姿を、ふと頭の隅に描き出した。
 同時に又、二人の紳士が、スッと立上って自分の傍に擦り寄るのを、視野の外れにチラリと見た。
「そうですか。それじアもう仕方がありませんが、しかし沖野さん、これはどうも益々困ったことになりました。何故というに、あの扉の把手は、今日からは四日前、つまり事件の起った一昨日からは二日前に、立派に修繕をしてあったのです。亡くなった故人は、今度は大変に工合がよくなったといって喜んでいたそうです。あなたの言葉と対照して、どこかに間違いのあることはお分りでしょう。ねえ、いかがです。何故こんな間違いが出来たものか、無論これはあなたが嘘を吐いておられるんですね。そして、その嘘はいったい何のためでしょうか。いけなかったですねえ沖野さん――」
 少しも嘘をいう必要のないところで、沖野は真赤な嘘をいったのだった。何か言おうとしたけれども、唇が硬ばって自由にならなかった。頬の筋肉をピクピクと痙攣させただけで、ぐったりとそこへ頭垂うなだれた。――気の弱い沖野鳳亭は、もう駄目だ、と忽ち思ってしまったのである。
「ああ、しかしこのことはですね、これから警察の方へ行っても調べられるでしょう。だから、そこまでまあ弁明をして見るのですね」
 最後に、俵弁護士はこう言った。
 が、その言葉は沖野の耳に、何かザワザワとしている街の中の囁きのように、或は又、壁越しに隣家から聞える蓄音機のように妙に微かに響いて来たのであった。
       ×       ×       ×
 当局の手にかかってから、沖野は他愛もなくすべてを自白した。自白に基いて、彼が用いた猫の爪も或る泥溝どぶの底から探し出された。
 それについて、俵巌の語ったことがある。
「しかしあれは、なかなか巧妙な犯罪でしたよ。幸に自白させることは出来ましたがね、それというのも、犯人が案外素直な男だったからよかったのです。偽の爪が出て来た今日となっては、無論もう動かせない自白にはなっていますが、もしそれ前にでも自白をひるがえされたら、どうにもならないところでした。怪しいと思っても、直接証拠というものが一つだってなかったのです。いいえ、怪しいと思ったのは、住谷嬢からの話を聞いたら、殆んど八分通りはあの男だなと直感したのでした。ずっと前のことですが、被害者が犯人に向って、君は人殺しをしそうな人間だといったことがあるそうで、何故ですかねえ、その時私の第六感がピクリ働いたわけなんです。そして、実は盲滅法にあの男と話しをして行って見ると、ひょいとあの扉の把手のことが出て来ました。その前に、もう把手の方は十分に調べてありましたしね。え、何ですって本当はその把手が修繕してはなかったのだろうって? ハッハハハハまさかそんなトリックまで使って自白させたのでもありませんよ。とにかく、ああした犯人などというものは、何処かに妙な手抜かりをするんですね。そういえば例の偽の爪です。見ると、それには五本の爪が植え込んでありましたが、どうでしょう、猫という奴は敵を引掻く時に実際五本の爪を使いますかね? 誰もうっかりしていて、被害者の傷痕を見た時には気付かなかったのですが、その一事だけでも、猫の仕業ではないということが分った筈です」
(「文学時代」昭和四年八月号)





底本:「探偵クラブ 烙印」国書刊行会
   1994(平成6)年3月25日初版第1刷発行
底本の親本:「現代大衆文学全集続四 大下宇陀児集」平凡社
   1930(昭和5)年11月8日
初出:「文学時代」
   1929(昭和4)年8月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:羽田洋一
校正:mt.battie
2024年7月20日作成
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